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古代から文化は朝鮮が上等だったのか

有村峰伯

1、はじめに

 事あるごとに韓国人は古代から日本より文化が上だったと主張し、文化を「伝えてあげた」恩をおしつける。この主張を認めていいものだろうか。

古代から18世紀中頃までの東アジアの文化状況については、中心に文化の高い中国があり、中国から離れるに従って各国の文化は低くなっていくという考えが一般にある。その前提から、日本より朝鮮のほうが文化程度は高かったはずだという暗黙の了解が日韓双方にあるように思える。韓国の反日感情は「文化の低い日本から侵略された」という思い込みがその基礎あるようだ。しかしこれまでの日本人が朝鮮の文化を高いと思い込んでいたのは、その向こう側にある中国の文化を透かし見ていたためではなかったろうか。唐と韓が同じ「カラ」と呼ばれていたのである。そして朝鮮のほうは自国が単に中国に近いことを持って、日本より文化が高いと思い込んでいたのではないか。実際は日本も朝鮮も中国文化の辺境として同じように影響を受けただけではないのか。その受け取り方が違っていただけであり、日本と朝鮮の文化程度には上下の関係はないのではないか。そういったことをすこし考えてみたい。以下、朝鮮というときは朝鮮半島全体を言い、韓国と区別をする。また、単に中国というときは清までの各王朝を言うことにする。

2、文化の伝播

 古来、朝鮮が日本に文化をもたらした、韓国の教科書に従えば朝鮮が日本に「文化を伝えてあげた」ということを我々は疑ってこなかった。(この考えは日韓双方とも『日本書紀』の記述に根拠を持つらしい。しかし韓国側は都合の悪いところは認めない事にしている。)そこには衣食住に関する様々なものが考えられていた。しかし石器時代については、伝えてあげたのではなく移住して来たのだろうし、古代における渡来人も移住してきて帰化したのである。朝鮮に戻った人たちは少なかったろう。

「伝えてあげた」というときには伝える主体は元のところに留まっていなければならないが、上記の諸例はその主体が移動してきたわけだからその表現は間違っている。たとえばアメリカの文化はヨーロッパから伝来したとは言わないのと同じである。

 韓国人が「伝えてあげた」というときに考えているのは王仁のイメージである。王仁の実在性には疑問があるにも関わらず、韓国には王仁の生誕の地とされるところがあり、そこには王仁博士の絵がある。王仁は日本に文字を伝えたといい、この絵には未開の人々に教えを垂れる聖人の姿として描かれている。まさに「伝えてあげた」というわけだ。つまり大人が子供に物を教えるように、朝鮮が日本を教化したのだろうと思い込んでいる節がある。果たしてこのイメージは正しいのだろうか。

後に朝鮮は李朝になってから儒教思想に骨の髄まで染まり、日本との関係を自らが兄で日本を弟としてみることになる。儒教の「年上絶対主義」からイメージされているのが先の王仁の「未開日本教化イメージ」なのである。これは単なるイデオロギーでしかない。そうあってほしいという韓国側の幻想である。

3、文化の取り入れ方。

文化をどう取り入れるかという姿勢のような民族の基層に関わることは、古代も現代もそうたいして変わらないのではないかと思われる。そこで、日本の外来文化受け入れの様式を考える上で、鉄砲伝来のときと明治の文明開化のときを参考にしてみる。

鉄砲はたまたま「伝来」したのであり、ポルトガル人が「伝えてあげた」のではない。種子島藩主は鉄砲を手に入れるのに大きな代価を払っている。そしてわずか数十年のうちに改良に改良を重ねて、日本は世界一の鉄砲生産国及び使用国になっている。しかしそれで戦争のやり方が変わったわけではない。弓矢の位置に鉄砲が取って代わっただけである。(鉄砲伝来で戦争の仕方が変わったという従来の常識は疑わしいという研究がある。)さてこの時の鉄砲普及速度から見ると、日本の技術力はヨーロッパのそれを凌駕しているといえるだろう。つまり日本はヨーロッパより劣っていたわけではないということだ。

明治維新のとき日本には文化革命が起こった。このときヨーロッパ諸国は日本に文化を教えたのだろうか。そうではない。西洋諸国が非西洋諸国に文化を教えたことは一度もない。日本は多大の代価を払って西洋諸国の文化を視察し研究し盗んだのである。そしてわずか40〜50年で西洋諸国と肩を並べるまでになったのだ。これも日本はヨーロッパより劣っていたわけではないという事例だ。単に「世界」を知らなかっただけであり、受け入れる土壌があったから発展したのだ。

上記の例から見る時、古代日本は朝鮮から文化を教わったのではなく、必要な文化を取りに行ったと見るのが本当ではないか。その時も多大な代価を払っているはずである。ちなみに中国に対してもそうである。文化的に優位な国が文化の劣った国に援助して、自国並に力をつけさせようという「慈善事業」を行うことはまずないというのが常識である。ちなみに遣唐使などは朝鮮半島を通らずに海路で唐に渡っている。朝鮮は街道が整備されていなかったし、陸路は危険であった。

文化は下賜される物ではなく取り入れるものなのだ。必要だから取り入れるのだ。教えられて根付くものではない。

4、文化の変容と発展

上に見たように、文化は必要な者が自ら取り入れるもので、さらに取り入れる土壌が既にあることが条件になる。

たしかに文字や仏教や儒教や鉄器やその他多くの文化が朝鮮から取り入れられた。しかしそれは文化が劣っていたからではなくて、足りないから取りにいったのだ。(中国からは国の支配制度も取り入れた。)では、朝鮮にはこれらの文化が「伝えてあげ」られるほどあふれていたのか。伝えられたとされるもののほとんどは中国やインドの文化ではないか。

韓国では売国奴と言われて無視されている呉善花は、その著『攘夷の韓国 開国の日本』の中で仏教伝来について考察している。

百済では384年の仏教伝来後、本格的な寺院文化の展開を見せるのは6世紀半ばからであり、この150年間に建立された寺院は約50寺、対して日本は6世紀半ばに仏教を取り入れてから数十年後に本格寺院や大型金銅仏を建立し、その後100年間で530ほどの寺院を建立した。

「飛鳥時代の日本では古代韓半島三国の合計よりもさらに多くの仏教寺院が作られた可能性は大きい。

少なくともいえることは、韓半島の三国に円熟した絢爛豪華な仏教文化が栄えていて、その成果がどっと日本に押し寄せてきたのではない、ということである。(同書文春文庫版77ページ)」

朝鮮は仏教を伝えたというが、寺院建立の数からみると単に仏教は朝鮮半島を通り過ぎただけとも言えるのではないか。「伝えてあげ」られるほどあふれていた訳ではなかったということである。そして撒かれた種は日本という土壌で変容するのである。

文化を取り入れてもそれが根付かなければやがてなくなる。根付くには根を張る土壌が必要だ。その土壌、つまり文明の程度があまりに違う場合、根付かないかまたはもともとの文化が駆逐されて入れ替わりが起こるだろう。朝鮮半島では後者の事例が多いが、日本の場合は外来文化が根付いても元来の文化が駆逐される事はなかった。それは日本の文明がある水準にあったからだろう。日本文化は中国や朝鮮の「いいとこ取り」といわれるが、それが出来たのは文明に余裕があったからだ。

5、文化の逆流

明治維新以後は朝鮮や中国に日本文化の逆流が起こった。この時の日本文化は西欧文化の日本的変容を経たものだった。朝鮮は圧倒的にこの文化にさらされた。日本でいうと平安時代の貴族社会みたいな停滞していた李朝は為す術がなかった。江戸時代に十数回も通信使を派遣しながら、朝鮮は日本からなにも学ばなかった。「小中華」思想にどっぷり使っていたからだ。ところがその倭国であると見下していた日本の文化力に、明治以後屈服したことが今でも韓国人の「恨」になっている。彼らは自分達の不甲斐なさを反省せずに日本を非難するのである。

日本が行なってきた外来文化の取り入れ方とその発展の速やかさを見る時、もっと過去に於いても同じような文化の逆流が起こったのではないかと考えることは無理ではない。韓国人は常に自分たちが影響を与えたのであって、日本から影響を受けたことはないなどと主張したがり、古代日本の南朝鮮に対する影響力や任那日本府なども認めたがらない(これも日本書紀の記述部分の恣意的な否定である)が、本当にそうなのか考える必要がある。

6、結論

 朝鮮が日本より文化が高かったというのは見かけ上のことであり、単に中国の文化が伝わりやすかったか否かの地理上の問題である。朝鮮は中国文化の良き模倣者として存在したが、日本は日本の実情にあわせて独自に変容、発展させたのである。ともに中国文化圏の辺境に位置したが、その取り入れ方と発展のさせ方には大きな違いがあったのだ。日本にとって朝鮮は文化の通り道のひとつにすぎなかった。朝鮮が日本より文化が上だったというのは韓国人の願望であり、実質的には意味のないことである。彼らの主張を鵜呑みにしてはいけないのである。彼らと討論する時は肝に銘じておくべきである。(2002/12/10