(2000/1〜)

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『傷はぜったい消毒するな』夏井睦著
光文社新書 2009/6 302p \882

外傷を湿潤治療で治そう、と主張する本である。傷をあんまり消毒するなというのではなく、絶対消毒するなという。その理由は本書を読めばわかるが、早い話、傷を消毒するということに科学的根拠がないというのである。これは画期的主張である。
湿潤治療はすでに外傷治療の一方法として市民権を得ているようだ。薬局へ行くと、この概念に基づいたバンドエイドが数種類出ている。しかし積極的にこの治療法を進めているのは、この本の著者であるという。

本書は全11章で構成されている。2章から8章までは、傷を消毒しないで治す理由や方法が書かれている。9章10章は、この方法が天動説から地動説への転換と同じく、医学界におけるパラダイムの転換を要求するだろうという。ここまでで湿潤治療の話は終わって、11章は生物進化と皮膚の関係につての著者の仮説が述べられる。

評者はこの著者に十分に説得された。よって、今後傷は消毒しないで治療することにする。そこで早速薬局に行って、白色ワセリンを購入した。(M.K.)(2012/2)


この間ブランクあり


『逝きし世の面影』渡辺京二著
平凡社ライブラリー 2005/9 604p \1995

原著は1998年に出た。題名が文学的なので小説か何かのように思えるが、これはある文明に対する種々のフィールドワークを概観してまとめた物である。ある文明とは、既に百年前に消え去った日本文明である。

ある文明の中で育った者はその文明の特質が分からない。だから人は自分の社会のフィールドワークをしようとも思わないし、してもたいした成果を上げられない。渡辺も自分で実地調査をしたわけではないし、出来るわけもなかった。なぜなら、その対象は江戸時代後期から明治初期の日本だったのだから。
ではそれを誰がしたのか。外国人である。つまりその時期に日本を訪れた外国人がかなりいて、彼らはその印象記を多く残したのだ。期せずしてこれらは日本文明に関するフィールドワークになっていたわけである。渡辺はこれらを丁寧に読み解き再構成した。そこに浮かび出たのは、かつて地上に存在した西洋とも東洋とも違う別世界の文明の「面影」であった。
そこに展開される日本文明の諸相は、現代の我々にとっても少なからず驚かされるものである。なぜなら既に我々は過去の日本人とはかなり違った心情を持った存在になっているからである。西洋的なものの見方に影響されてしまっているからである。つまり江戸期の日本は我々にとっても異質の世界に近くなっているのである。
江戸後期の日本は日本文明の完成期であったようだ。そこに来た外国人はまるで別の惑星に降り立ったかのように感じている。そしてその惑星をおおむね「まるで天国」のようにおもっている。

日本特殊論は間違いではないのだ。過去において日本の文化が西洋に大きな影響を及ぼしたのも当然であった。そして今なお日本が持つ伝統の底流が世界に影響を及ぼしていることは、漫画を考えても、当たり前なのだと思える。この本を読むことで日本人はもっと自信を持って世界をリードしていく気概を持つことが出来るのではないだろうか。
この本は全14章に分かれている。第1章は少し理屈っぽいが、そのほかはほぼ外国人の記述の引用で構成され、当時の日本を知るのにこれほどの本はないといえるだろう。(M.K)(2008/9)


『新脱亜論』渡辺利夫著
文春新書 2008/5 308p \935

帯にあるように、日本の近現代史を概観したものである。類書と異なるのは「現在の極東アジア地政学は開国維新から日清・日露戦争開戦前夜の明治のあの頃に『先祖返り』したかと思わせるほどまでに酷似してきた」と言う認識の下に書かれていることである。そして明治の頃と違って、そのことに今の日本が大衆も政治家無頓着過ぎるではないかと危機感をもっているのだ。

全12章。2章から9章までで日清戦争から大東亜戦争までの概観である。その間の日本の指導者たちの苦闘が叙述される。その後海洋国家として生きていくためには大陸国家よりも海洋国家との連帯を目指すべきだと言う考察がある。これが福沢諭吉の『脱亜論』に重なるので、そこから書名をつけたのであろう。何よりも政治家に読んで欲しい本である。(H.T.)(2008/9)


『中国が隠し続けるチベットの真実』 ペマ・ギャルポ著
扶桑社新書 2008/6 207p \756

著者は亡命チベット人。1959年のダライ・ラマのインド亡命の時に家族とともに亡命。12歳の時来日。2005年に日本に帰化している。
チナ人は日本人を小鬼子と呼ぶ。しかしこの本を読めば彼らこそ悪魔の名にふさわしい。
序章以下一章から三章まで。第一章が大半を占める。
序章には2008年3月のチベット騒乱とそれに続く北京五輪の灯火リレーの混乱についてのコメントがある。
第一章では如何にしてチナがチベットを侵略してきたかが述べられる。そこにおいて、国際司法委員会の見解を引用して、チナがやっていることはナチスのホロコーストと同じことだと断定している。チナ政府や共産党の人民解放軍が如何に酷いか語られる。
第二章はダライ・ラマの制度について、第三章ではチナがチベットを手放さない理由が述べられている。
世界の人々はチナ人がどういう人たちであるか分かりだしてきた。尊大で自己中心そのものである。自分たちが儲ければいいし、助かればいい。乗っている船が沈もうと関係なし。そしてこの人たちには信じる宗教がない。こういう人たちとどうして付き合っていくことが出来ようか。日本人も次第に分かってきつつあるが、この本を読んで認識を新たにしよう。(H.T)(2008/6)


『幸子の庭』本多明著
小峰書店 2007/9 \1575

これは日本児童文学者協会の第五回長編児童文学新人賞受賞作である。
小学校6年生の幸子は不登校を続けている。家族は曾お祖父さんが建てた家に住んでいるが、そこには広い庭がある。その庭は曽祖父が丹精して造ったものだが、今では荒れ放題になっている。そこに急に、今は離れて暮らしている96歳になる曾祖母が、人生の最後の旅として思い出の庭を見にやってくることになった。猶予は4日しかない。苦し紛れに幸子が掛けた電話によって、庭師がやってくる。そして庭の再生とともに幸子も再生していくのであった。
若い庭師の挿話がある。庭の花木の描写、剪定の様子も描かれる。庭師の言葉遣いが丁寧で、幸子を子ども扱いしない。これは幸子の自立に役立つ。気持ちよく読めるお話である。
日本版『秘密の花園』といっても良いだろう。庭をテーマにした本として出色であると思われる。よって此処に取り上げた。(M.K.)('07/12)


『日本語はなぜ美しいのか』黒川伊保子著
集英社新書 2007/1 \714

 ソクラテスは言う。口の中の模倣とことばのさす事象が一致するとき、ことばには正しさとか美しさというものがあると(cf.p114)。そういう視点で見ると、日本語には美しさがあると著者は言うのである。なぜなら日本語は発音体感をそのまま意味として認識できる言語だから。こういう言語は日本語とポリネシア語族だけであり、ほかの言語には見られないものであるという。言語が違えば見える世界が違う。我々は地球上のほかの人類と違った世界を見ているのである。そのことを自覚すれば、母語としての日本語が愛おしくなるだろう。そういう思いが伝わってくる来る本である。
 全部で8章ある。1章から5章までは母語が子供たちにとって如何に大切かについて述べてある。そこには幼児期から小学校低学年で行う英語の早期教育などの弊害が述べられている。6章から8章はことばの本質、音の美しさ、意識との関係について考察されている。
 発音体感を基にしての日本語論は類書に見られないものである。新書でもあり簡単に読める本だから、お薦めいたします。(H.T)(2007/5)


本・『ハートで感じる英文法』大西泰斗、ポール・マクベイ共著
  NHK出版 2006/1 \950

 平成17年NHK教育TVで放送された「3か月トピック英会話」の各月テキストをまとめたものである。その続編で平成18年1月から3月まで放送された「会話編」をまとめたものも5月に発売されている。大西氏はNHKからは『英文法をこわす』も出している。

 大西氏の主張は、学校英文法を忘れてネイティブの感覚を身に付けようというものである。つまり、どのように彼らは英語を使っているのかを考えると、そこには相手に自分の気持ちを伝えたいという欲求があり、そこからさまざまな表現が出てくる。だから、そこを感じ取れなければ、聞いても分からないし、自分の気持ちを表現することも出来ないというのである。学校文法は文例を収集し分類して理屈をつけたものでしかない。氏は感覚から見た「文法」を構築しているようである。

全部で12の課がある。前置詞や現在完了形、時制、仮定法などを、生きた表現として使うにはどう考えればよいかが示されている。一通り学校文法を学んだ人が読むと有益だと思われる。小説などを読む際にも役に立つだろう。(M.K.)(2006/2)


本・『「韓流ブーム」ではわからない「反日・親北」韓国の暴走』 呉善花著
   小学館 2005/4 \1470

 平成17年3月に島根県が「竹島の日」を条例で決めたのをきっかけに、韓国が騒ぎ始めた。4月にはいると日本の中学教科書検定の内容についても騒ぎ始めた。盧武鉉は「日本の態度は一流社会が追求すべき普遍的価値に合っていない」し、「侵略と加害の過去を栄光と考える人たちと一緒に生きるのは、全世界にとって、大きな不幸だ」と非難した。一国の大統領がこのような発言をするのは驚くべき事だ。まるでアホである。しかしこれは冗談でもなんでもないらしい。どうしてこんなことになるのか。呉氏の本にはその答えが書いてある。韓国を知るための基本図書の一つである。

 全7章。事実関係については半島ウォッチャーには目新しいものはないが、韓国人である呉氏が「韓国人の心情」を分析して解説してあるところに価値がある。呉氏はこのままでは韓国に未来はなく、100年前に後戻りしつつある事を憂慮している。氏の分析は冷静で的を射ていると思われる。ちなみに氏はこの本の発行で韓国の「ネチズン」たちの憎悪を買い、親日派とされ、ネット上では死ぬべき人間にされている。韓国国内ではもはや正常な言論空間は存在しないようである。(H.T)(2005/4)


本・『暗黒大陸中国の真実』 ラルフ・タウンゼント著 田中・先田訳
   芙蓉書房出版 2004/7  \2415

 2004/11で八刷となっている。売れているらしい。それもそのはず。嫌中派にとってはまことに胸のすくようなことが書かれているからだ。しかしこれは原著が1933年発行の本なのである。1997年版の序文には、64年も前の本を再版する理由は「中国はいつまで経っても中国であり、変わることは絶対ありえない。いくら我々が我々の血税をつぎ込んで援助しても、中国が変わることはないのである」からだという。本文を読めばそれがわかる。黄文雄もさまざまな著作で中国をこき下ろしていたが、これはそれを凌ぐものといっていい。

 全部で十章。全章で中国人というのは最低の人類である事を述べている。それとともにキリスト教宣教師たちの不実さとバカさ加減について述べている。現在の日本でいえば、この宣教師たちは親中・媚中派の経済人や売国政治家にあたる。

 本文からいくつか引用してみよう。「嘘八百、何でもいいから愛嬌を振りまく。自分も本当のことを言わないから、人の話も信じない(p23)」「致命的に欠けているものが二つある。それは正直と協調性である(p29)」「どだい言葉には何の意味もないのである。また金もかからないから言葉を湯水のように使う。些細なことを長々と論じたり、心にもない賛辞を滝のように浴びせたりするが、ウソだと顔に書いてある(p35)」「やっても捕まらないと判断したとき、やるのである(p45)」「恩義を感じない」「親切の『お返し』というのもがない(p62)」「『見ていなければ大丈夫』と手抜きをする(p72)」「我々にとって『嘘』は軽蔑に値するものだが、中国人にはそんなことはない。したがって、『人格に欠陥あり』と考えるのは我々の認識であって、彼らはそうは思っていない。交渉する時、忘れてはいけない(p93)」「言葉も契約書も信じられない(p106)」「『金がすべて』であり、それこそ宗教に近いものがある(p108)」「感謝の気持ちはさらさらない。当然の権利だと思っている(p117)」「普段は愛嬌を振りまく中国人が、好機到来と見るや豹変する(p167)」「表では『正義・公平・協力』を叫び、裏では実に見事に共謀・妨害・暗殺・略奪を働いている(p182)」「国家の指導的立場にある人間も同じ。ある国が中国に優しく接したとする。そういう優しさが理解できないから、これ幸いとばかりにその国の人間を標的にする(p286)」「こちらが下手に出ると、付け上がる。強気に出ると、引き下がる。これが中国式外交である(p288)」
 全編この調子で中国人の性格を暴露している。戦前の日本人はこのことを良く知っていたと思われる。現在の我々も再認識すべきであろう。(H.T.)(2005/1)


本・『ある朝鮮総督府警察官僚の回想』 坪井幸生著

   草思社 2004/12 222p  \1890

  京城帝国大学入学から朝鮮で暮らし、終戦時、朝鮮総督府道事務官、忠清北道警察部長であった人の人生回顧録である。日本と朝鮮が内鮮一体となりつつあった当時の状況が、個人的事柄を述べている中で良く記述されている。

 「戦時下の朝鮮は、一部の者の想像に反してきわめて平穏であり、共産主義者その他の不穏分子の表立った策動はほとんど皆無の状態であった。(中略)運動展開の企図を有するものはみな海外に脱出して、そこから遠隔操作で目的を達しようとしたが、まったく効果はなかった。(p101)」「一部の者」とは現在の反日史観を持った韓国人や日本人学者を指すのだろう。「当時の朝鮮の全人口は三千万余、其のなかの日本人は七十万余にすぎなかった。日本人がいかに指導的立場にあるとしても、その量的比重はあまりにも差がありすぎた。(p103)」「戦時下の召集によって日本人警察官の多くが朝鮮から姿を消し、第一線の警察官の半数以上が朝鮮人であった。(同)」よって、「朝鮮内ではどこの郵便局でも片仮名以外にハングルを使って電報を打つことができた。『朝鮮語の使用禁止』があったというのは、当時の実情を知らない者の虚報か、タメにする作り話である(p86)」という。

 著者の話は反日学者以外の人たちの著作を裏付けるものである。突飛な事が書かれているものではない。だからこそ読むに値するのである。(H.T.)(2004/12)


『在日・強制連行の神話』
鄭大均著
文春新書 H16/6 202p \714

 韓国人たちは、いまだに「従軍慰安婦」だとか「強制連行」とかで日本を攻撃している。日本では「従軍慰安婦」については「不存在」である事に皆気づいてきた。そして「強制連行」についてもその正体が明らかにされてきた。本書は新書版ではあるが、決定本と言ってもいいものである。
 第一章から三章において、現在の在日コリアンは、「日帝時代後半」に日本に「強制連行」されてきた人々およびその子孫であるとの認識が日韓双方にあるらしいが、それが単なる「神話」に過ぎないことが論証される。
 終戦当時の在日は約二百万人であり、このうち百万人は戦前からいた人である。残りのうち七十万人は出稼ぎ渡航者であり、三十万人が戦時動員労働者である。国民徴用令によってきたものは少数である。なぜなら朝鮮人徴用労務者が導入されたのは昭和十九年九月から翌年三月までのわずか7ヶ月間だけだったからである。戦後日本政府は三十万人の労働者を優先して引き上げ船により帰国させたが、昭和二十一年までに百四十万人が朝鮮に帰った。残りは自由意志によって在留した。よっていわゆる「強制連行」された人々は日本に残留してはいないのである。
 第4章では、「朝鮮人強制連行」という概念を広めた朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』の考察がされる。朴慶植が朝鮮総連の朝鮮大学校の教員であり、北朝鮮の指揮下にあった事が示される。研究者としての科学的態度などないのである。「そんな悪しきお手本みたいな本を、在日論の『名著』だとか『古典』だとか言って、持ち上げるのはもうやめたほうがいい」という。
 第5章はいわば付録である。金嬉老事件についての考察で、梁石日、姜尚中、辛淑玉を取り上げて批判している。
 朝鮮人強制連行などという事態はなかったという事がこの本でよく判るのである。(H.T.)(2004/9)


『竹島は日韓どちらのものか』
下条正男著
文春新書 H16/4 189p \714

 竹島って何、というのが大方の日本人であろう。ところが韓国人なら竹島(韓国名:独島)については誰でも知っている。これが反日や民族の自尊心に関わっていて、教科書で習うからである。竹島は日韓両国が領有を主張している係争中の島である。ところが現在、韓国はこの島を不法にも占拠している。国土が侵略されているのに日本政府は実効ある対処をしてこなかった。韓国は自分の信じるところの歴史的文献に基づいて領有を主張しているのだが、日本側の同様な主張を「妄言」として聞く耳持たない状態である。この本は双方の歴史的文献を丁寧に読み解きながら、韓国側の主張が根拠のないものであることを証明する良書である。韓国語に翻訳して彼らに読ませるべきものである。
 全体は5章からなり、1章から3章までは、韓国側の主張の根拠となっている17世紀末の安龍福の言動とその後のその取り扱いについて検討し、4章では戦後から現在までの両者の対処について述べ、5章では韓国側の文献の解釈が恣意的であることを指摘して、現在紛争中の竹島が韓国の領土でありえないことを論証している。
 韓国人は「ヨン様」でさえも竹島が韓国領であることを疑ってはいない。今後韓国人と付き合うときにこの話題が出たときには、普通の日本人で彼らの主張に反論できる人はいないだろう。なぜなら竹島については無知なのだから。この本はそれに対する知識を与えてくれる。それにしても韓国にはちゃんとした思考をする学者も学生も政治家もいないのだなあという感慨がある。本当のことを知ったとき彼らはどうする気なのだろうか。もっとも彼らは事実などどうでも良いと思っているのかもしれないが。(2004/9)(H.T.) 


『北朝鮮に取り込まれる韓国』


『不可触民と現代インド』
山際素男著
光文社新書 2003/11 239p \735

 インドの最低カーストの悲惨さと彼らの救世の聖者アンべードカル博士の事を、著者の『不可触民』『不可触民の道』『アンべードカルの生涯』『ブッダとそのダンマ』などの諸著訳書で知ったのは、もう20年位前になる。その後のインドの不可触民について知りたいと思っていたが、それに答えてくれる本が本書である。
 インドはそうたいして変わるはずもないと悲観していたが、少し希望を見出したような気がする。それは仏教徒の数が増えているということを知ったからである。
 評者は20年前の知識でインドの仏教徒数は300〜400万人だと思ってきた。50年前はたったの18万人だった。インドで仏教は絶滅寸前であったのだ。それが48年前にアンべードカル博士の下で50万人が集団改宗をして以来300万人ほど増えるのだが、その後改宗運動は停滞しているとある本で読んでいたからである。ところがこの本には驚くべきことが書いてあった。現在仏教徒は1億人を越すというのだ。「イスラム教徒の人口はすでに3億人を超え、仏教とも1億、キリスト・シク教徒は合わせてとっくに5千万を超えている」という(62p)。インド政府は仏教徒は600〜700万人というが、そんな数字は誰も信じていないという。これが本当ならすでにインドは人口の半数が非ヒンドゥー教徒ということになる。さらに仏教への改宗は進んでいるというから2〜3億になるのは時間の問題であるらしい。
 仏教は知的であることを奨励する宗教だから、これら仏教徒は教育を大切にしている。世界最悪の宗教であるヒンドゥー教に取って代わるようになればインドは劇的に変わるだろう。そう遠くない未来にそれは実現するかもしれない。そしてそのインド仏教の最高指導者が日本人僧侶であるということも日本人は知っておくべきだろう。(M.K.)(2004/3)


『日露戦争物語』1〜11巻
江川達也
小学館ビッグコミック

 大日本帝国海軍中佐、秋山真之作戦参謀の生涯を描く漫画である。秋山中佐は東郷平八郎連合艦隊司令長官の下で日本海海戦の作戦参謀を務めた人物である。
 この漫画はよく描けている。明治7年(1874年)から話が始まるので、日本の近代化がどのような状況で進められたかが結構よくわかるように描かれている。実在の登場人物も似姿で出てくるし、参考資料も多岐にわたっているようである。中学高校生に読ませたい漫画である。
 現在11巻まで出ているがやっと日清戦争が始まったころであり、この先日露戦争までいくのにどのくらいかかるか、先の長い漫画になりそうである。筆者にはがんばってもらいたい。(M.K.)(2004/3)


@『台湾 朝鮮 満州 日本の植民地の真実』
扶桑社 2003/10 478p \2600
A『中国が葬った歴史の新・真実』
青春出版社 2003/12 304p \1575
ともに黄文雄著

 黄文雄氏は多作である。台湾人である。一貫して中華思想を批判している。
 @は、本来は日本人研究者が書くべき本である。氏はこれまで様々の著作で日本の台湾、朝鮮、満州との関わりについて書いてきた。これはその集大成ともいうべきものである。これまでの本と異なり、落ち着いた文の運びで書かれている。2段組の大冊である。しかし参考文献表はあるが索引も引用個所の指示も無いのが欠点である。
 「はじめに」と「終章」を除くと全9章からなる。第1章では日本の三大植民地といわれているものがどんなものだったかの概観が示される。第2章から第7章まで、台湾、朝鮮、満州にそれぞれ2章ずつを当てて日本の統治の特色を述べる。これら3地域に対する日本の貢献が如何に大きいものであったかが示される。ここまでがこの本の題名に関するものである。第8章は世界史における植民史の概略を述べ、第9章では植民地主義と社会主義を比較対照し、どちらも人類救済の思想であったがともに破綻したと結論する。しかし社会主義に比べると植民地主義は人類に対する貢献度が高いと評価する。
 過去の日本人の偉大さを知らせ、現在の日本人の萎縮した精神に活を入れたいという黄氏の努力を、われわれは多とし感謝せねばならない。

 Aは、全編孫文批判の書である。中共も台湾の国民党も孫文を神の如く奉っているが、その実態は中国大陸をかき回し混乱させた張本人であると主張する。評者もまた孫文をおかしな人物だとうすうす感じていた。辛亥革命後の中華民国臨時政府(南京政府)樹立後、3ヶ月もたたないうちにその臨時大総統の地位を、革命の敵であった北京政府の袁世凱に譲ったことが理解できなかったからだ。教科書風には孫文は辛亥革命を指導し、清朝を倒し中華民国臨時政府を作ったことになっているが、実際は孫文はこの経過に何等関与していなかったという。臨時総統を辞めたのは、辛亥革命も中華民国政府も彼が考えている革命とは違うし、その政府を維持する力も無かったからであるという。孫文は革命好きの妄想家であったのだ。これまでの孫文観を覆してくれる本である。
 ところで、孫文のほかに日本人の好きな「偉人」にガンジーがいる。無抵抗主義を唱えた、なにやら平和主義者の代表者みたいに思われているが、後のインド・パキスタン戦争の原因を作った人物でもあるのだ。彼はただヒンドゥー教のインド世界を守りたかっただけなのだ。カースト制を作ったヒンドゥー教は世界最悪の宗教で、平等思想も人権思想もそこからは出て来ない。身分制度を廃止しインドを近代国家に変えようとして志半ばにして倒れたアンべードカル博士は、ガンジーの批判者であった。彼はインド国憲法を書いている。彼に比べるとガンジーなど小さく見える。ところが世評というものは目立った者が受け取るのである。そして次の時代の者がそれを利用する。孫文についても同じである。(H.T.)(2003/12) 


『韓国人から見た北朝鮮』
呉善花著
PHP新書 2003/10 218p \735

 呉善花は素晴らしい。最初の一連の著作『スカートの風』三部作で見せた日韓文化のあぶり出しの鮮やかさは、その後の著作に於いても色あせず引き継がれている。それどころか一作ごとに考察が深まっているのである。常に思索し成長をつづけている研究者である。こんな著述家はなかなかいるものではない。更に言えば、これほどまでに日本を深く理解し、なおかつ日本人にとっても新たな視点をもたらしてくれる韓国朝鮮人は有史以来初めてではないだろうか。呉氏の諸著作は韓国理解には欠かせないものである。
 本作は北朝鮮支配者の思想、主義主張のよって立つ根拠や背景を説明しようとするものである。「序章」と「おわりに」の間に全7章がある。その基本的テーマは低層音としての李朝の亡霊である。この500年つづいた王朝が残したものはあまりにも大きく、いまだにその呪縛にとらわれているのが朝鮮半島である。それが判らないと韓国や北朝鮮の日本に対する態度は理解できないという。「戦後の韓国政府は、日本の植民地支配それ自体への批判から反日政策を遂行したのではない。植民地支配を、日本民族に固有な歴史的性格に由来する『反韓民族的犯罪』と断罪することによって、人々を『反日本民族・民族主義』へと組織したのである。つまり反日の根拠をなすものは、植民地支配そのものではない。そうした事態を招いた日本人の『侵略的かつ野蛮な民族的資質』にあるというのである」(p90)。ところがそうした考え方の背景にあるのは、李朝が500年どっぷり漬かってきた中華思想なのである。「自らはより文明の中心である中華に近く文化的であり、隣国の日本はより遠く野蛮である。この日本との文化的・地理的な距離の差異によって、朝鮮半島諸国は伝統的に日本に対する優位性の意識を保持しつづけ、したがって日本蔑視の観点をもち続けてきた。中略。それはけっして日本の植民地統治への反発にはじまるものではない」(p113)という。
 この華夷秩序の妄想がなくならない限り、韓国北朝鮮の反日感情はなくならない。それをなくすには事実に基づく歴史教育をしなければならないが、これは望むべくもないだろう。われわれは厄介な隣人を持ったものだ。
 第7章では、韓国人が自画自賛するハングルについて、そのハングル専用が愚民化をもたらしつつあるという批判を展開している。呉氏は他の著作でもハングル専用を批判しているが、一章を当てたのははじめてである。日本人にとっても興味深いものである。(H.T.)(2003/11)


『韓国史家の証言 日韓併合の真実』
崔基鎬著
ビジネス社 2003/9 268p \1680

 前著『韓国堕落の2000年史』では、朝鮮半島の神話時代から李氏朝鮮の滅亡までを取り上げていた。本書は李朝末期から日韓併合までを対象としている。韓国人なら読みたくもない本であろうし、歴史の「歪曲」だ、「捏造」だと言うことであろう。前書きにはこうある。「わが国(注、韓国)の人々の多くは、日本統治が犯罪行為であったのごとく力説するが、それは事実を知らぬ妄説にすぎないと、わたしは信ずる。あの時代を理性的に振り返ってみれば、いかに日本統治がわが国にとってプラスになったか、日本が真摯に朝鮮半島の近代化に努力したかを、読みとることができるだろう。」
 一章から四章まで、いかに李王朝が腐敗し国家の体をなしていなかったが述べられる。その原因は、中華思想(儒教及び朱子学)と事大思想と両班にあるとされる。「アジアでは中国が闇であり、日本が光であった」と言う。終章では、韓国人が日帝が日韓併合で「七奪」したと非難するものについて、まったくその批判はあたらないと各々について簡単に反論している。
 著者も韓国人らしく、日本が百済の子孫であると言うが、気にすることもあるまい。韓国人や日本のサヨク史観に対抗するためにも読んでおいて良い本である。(H.T.)(2003/9)


『1937南京攻略戦の真実』
東中野修道編著
小学館文庫 2003/9 344p \650

 南京攻略戦に参加した第6師団の兵隊たちが戦場で書いた文集『転戦実話南京編』より抜粋編集したものである。原著の編纂は昭和15年11月で、ガリ版刷で限定120部である。。南京戦から2年3ヵ月後に戦地の中国で書かれたものである。真珠湾攻撃以前である。432名が文を寄せている。第6師団はその後昭和17年12月に南太平洋ブーゲンビル島で米軍を迎え撃ちほぼ壊滅したという。南京攻略時の第6師団長は谷寿夫中将で、戦後南京裁判で南京虐殺を問われて死刑になっている。つまり第6師団は南京虐殺をしたとされたのだ。
 この『転戦実話南京編』の「序」(部隊長記す)には「戦場心理の様相 戦場機微の事象等を網羅し 戦闘場裡の実相を知らんとするもの好資料たる確信す」として、「貴重なる参考資料」とするために「皇紀二千六百年の記念事業として本年三月十日陸軍記念日」に編纂を始めたとある。さらに「序に代えて」(石川参謀長記す)には「激戦を 血と汗とで体験した一人一人の赤裸々の感覚の内には 吾々部隊指揮官として もっとも知りたい戦場心理の一貫した動きを発見することが出来ると信ずる」とあり、書かれたものの中に「そこに何等の粉飾も無ければいささかの誇張もない」とある。つまりこれは今後の資料とするために編まれた物である。宣伝物ではない。それは限定たったの120部と言うことでもわかるだろう。よってそこに嘘や誇張があっては役に立たないことになる。そしてこれは日本の敗戦や東京裁判があることも知らない以前のものである。
 これを読めば南京虐殺などと言うものが架空のものであることがわかるだろう。もし兵士たちが30万人も殺してなお且つこのような文を書いたのだと言う人がいるならば、評者はそういう人を日本人として認めない。(H.T.)(2003/9)



『日本語文法の謎を解く』
金谷武洋著
ちくま新書 2003/1 190p \714

 前書きによれば、日本語に即した、借り物ではない文法を提唱したいという目的のために、前著『日本語に主語はいらない』のレベルを落とさずにわかりやすく書き換えたものであり、あらたに英語との対照的考察をしたものだという。
 全5章ある。それぞれにまとめがついている。第2章では日本文に主語がないことを説明する。ここに上げてある図解は非常に有効である。「は」については主語を示すものなんかではなく、単に「コンマ」であると考えよという。文の外に在って「聞き手の注意を喚起する」働きをしているという。国会中継などを聞いていればこれがあたっている事がわかる。「英語の『行為者』(主語)は日本語では『場所』となる」ということから、第4章では日本語と英語を「ある」と「する」との比較で考察している。第5章では日本語の自動詞、他動詞、受身、使役の関連を英語と比較しながら、斬新な説明がしてある。
 国語の教師なら読むべき本でしょう。(M.K.)(2003/6)


『中国現代化の落とし穴』
何清漣著 坂井・中川訳
草思社 2002/12 437p \1995

 1978年から始まった中国の経済改革が、どのような結果をもたらしたのかを考察した書である。本書の元になる本が1997年に香港で出され、翌年には改訂版が中国で出版された。ベストセラーになったらしいが、2000年に著者の出した別の論文がきっかけで発禁となり、著者自身も米国に事実上の政治亡命をする羽目になった。本書はそのきっかけとなった論文も含む、新改訂版の翻訳書である。
 黄文雄は『醜い中国人 ビジネス編』(光文社カッパ・ビジネス 1994年)の前書きで、「中国という国家については、冷静に考えれば『人治国家』という認識のほかに、少なくとも『強盗国家』『詐欺国家』であるという”三点セット”の認識が必要だと、私はつねづね考えている」と述べている。本書はまさにこの三点セットを、多量の資料を用いて裏付けて証明している研究書である。黄文雄の認識は確かだったのである。中国の経済発展に幻惑されている人には特にお薦めする。一読三嘆すること請け合いである。
 序章と結びを除いて全十一章からなる。六章から十章にかけて、中国人の上下をあげてのモラルのなさが鋭い筆致で記述されている。恐ろしい限りである。日本の経済界では中国進出がブームらしいが、大丈夫なのかね。
 中国は先進国にはなれない。著者は中国が中南米・ラテンアメリカ化しているという。そしていずれ、中国歴史上繰り返されてきた革命が起こるのではないかと予測している。それはあながち杞憂ではなかろうと評者も思うのである。(H.T.)(2003/3) 


『ゲーム脳の恐怖』
森昭雄著
NHK出版 2002/7 196p \693

 いままでこうした研究がなされていなかったことが驚きだが、脳波の研究からTVゲームが脳によくないことを明らかにして、世に警鐘を鳴らす本である。
 子供の頃からゲームをすると、その程度に応じて、脳の中で人間らしさを司る前頭前野部の活動が低下し、毎日数時間ゲームをやる人の脳波は痴呆老人のそれと同じになるということが、調査の結果わかったという。
 世上、ゲームは集中力を高める効果があるといわれているが、一体なんに対する集中力かを考えなければならない。常識的に見て、ゲーム最中に考え事など出来ないわけだから、思考力など付くわけがないことは当たり前だ。つまり、何にも考えていないわけだ。ボーッとしているのと同じなのだ。考える訓練をしなければ考えることは出来ない。だから、ゲームばかりしているとゲームを止めたあとでも思考が始まらない。調査ではこのことがはっきり分かる結果が出た。つまり、ゲームばかりしている人はゲームを止めても脳波は前頭前野部の不活動を示していたのである。
 こどもたちの脳がおかしくなっている。先進国ではどこでも同じ現象が起きているはずである。恐ろしいことですよと警告するのである。(M.K)(2002/7)


『親日派のための弁明』
金完燮著 荒木和博、荒木信子訳
草思社 2002/7 302p \1575

 日本の韓国ウォッチャーがいま一番読んでいる本だろう。やっとまともな日韓関係史の本が韓国人の手によって出たからである。それも韓国において韓国語で書かれたものである。ただしこの本は韓国に於いて「有害図書指定」を受け、韓国人が気軽に買うことが出来なくなってしまった。なぜなら著者は「韓国人の中にある反日感情は、韓国政府の意図的な歴史の歪曲からはじまったものである。私は、歴史を歪曲しているのは日本ではなく韓国だと思う」と主張しているからである。これでは韓国政府が見逃すはずがない。韓国では「親日派」に関しては言論の自由はないのである。「親日派」とは「売国奴」と同じ意味である。韓国政府がこのような態度でいる限り、真の日韓交流など実現できるはずがない。
 内容に関しては黄文雄、呉善花、黒田勝弘、田中明、鄭大均、朴泰赫などの諸氏の著作を出るものではない。しかし、30代後半のソウル大出身の反日思想家が歴史資料を紐解き、韓国で受けた歴史教育の歪みと自らの反日思想の誤りに気付き、それを正そうとして書いたということに意味がある。そして日本人にとっては、韓国の政府やマスコミが行う対日批判が理のないものであることに、改めて気付かせてくれるという意味がある。
 日本国内の朝日新聞をはじめとする反日勢力が主張していることは、この韓国人にとっては実に空虚なことである。なぜなら彼は言う。「朝鮮民衆の立場として歴史をかえりみれば、日本の朝鮮進出は結果的に歓迎に値する『侵略』であり、それによって朝鮮は貧困と圧制のトンネルを抜け出し文明開化された近代社会へすすむことができた」と。しかし、現在の韓国で歪曲された歴史を学んでいる世代にとってはこのような見方はできようはずもない。彼は現代の「金玉均」や「李完用」になってしまうのかもしれない。(H.T)(2002/7)


『日中戦争知られざる真実』
黄文雄著
光文社 2002/1 360p \1365

 日中戦争は日本の一方的な中国侵略なんかではなく、中国国内の内乱に日本が巻き込まれて戦った戦いであり、かえって日本のほうが被害者であったということを論証しようとする本である。このような論証は本来は日本人がすべきであるが、黄文雄氏が代わってやってくれている。
 歴史は見方によっては違って見えてくるということの良い見本である。黄氏は数多くの著作で一貫して、日本の近代化を肯定的に見直すという作業をやっている。本書もその一つである。

 日中戦争については、日本の一方的な計画的侵略の陰謀であり、中国人民に対して悪逆非道の仕打ちをしたという見方が暗黙の内に定着しているようであるが、果たしてそれは正しい歴史認識かという問いかけの下に論が進む。プロローグのほか全8章にわたって日中戦争の背景に迫っている。巻末には参考文献表と年表が付されている。
 日中戦争というのは、根本的には中国内の三つの政府の内戦であり、それに日米英ソの列強が巻き込まれた戦争であったというのが黄氏の見方である。これは中国三千年の歴史を見れば当然出てくる見方である。また、「南京大屠殺」「三光作戦」「万人坑」「731部隊」「従軍慰安婦」などは中国側の捏造した歴史であり、かえって日本は中国の近代化に大きく貢献したのであり、中国人が日本に感謝するのが本筋であるという。

 日本人のいわれなき中国コンプレックスを払拭したいとお思いの方は,ぜひ一読をお薦めする。(H.T.)(2002/7)


『愛と憎しみの韓国語』
辛淑玉著
文春文庫 H14/5 244p \756

 普通の韓国語教本にはまず出てこない日常の韓国語がここにある。つまり「愛と憎しみ」の言葉の語彙集である。映画などを見るときには役に立つだろう。韓国語学習者にはこういうのが欲しかったのである。著者にはあまり好感は持っていない評者ではあるが、いいものを書いてくれたなと思う。
 男女関係から食事のマナーに関するまで全8章にわたって、切実な日常の生活語が紹介されている。「在日」からの冷静な考察も随所にあり、低いところを狙った本ではあるが、これは貴重なフィールドワークと言ってもいいほどのものだ。
 韓国人はストレートに感情を出すと言われている。確かにこの本にもそれが収録されている。特に罵詈雑言の言葉がすごい。こんなこと言われても平気なのだろうか。彼らは慣れてしまっているのだろうか。到底我々は口喧嘩では(また腕力でも軍隊で鍛えているので)彼らの敵ではない。しかし彼らだって平気ではないようだ。NHK教育TVで韓国のドキュメンタリーを放映していた(2002/5)。そのなかで夫婦喧嘩の場面があったが、やはり彼らだってお互い傷ついていることがわかった。悪口は良くないのである。韓国も次第に悪口がなくなるような方向に向かっていくだろう。ものすごい勢いで社会が変わっていき、世代間の社会観もギャップが広がっているようだから。(M.K.)(2002/6)


『日本語に主語はいらない』―百年の誤謬を正す―
金谷武洋著
講談社選書メチエ 2002/1 254p \1575

 またくだらない日本語の主語論争かと思いきや、そうではなく、学校国文法の不合理を切って捨てて、日本語に合った国文法に書き換えるべきだと迫る画期的論考である。
 現行の学校国文法は英文法を模範として作り上げられたものであるから、日本語の現状に合わない無理な文法的説明がされている。これが日本語を外国人に教える際に大きな障害になっているという。英文法の呪縛を離れて日本語そのものの考察から始めれば、日本語文法はもっと整合的に説明できると主張するのである。明治時代に英文法を国文法に導入した百年前の誤謬をここで正すというわけだ。
 本論は五章に分かれ、日本語には人称代名詞や主語の概念は不要であること、助詞「は」についてのこれまでの議論は的外れであったこと、日本語の自動詞・他動詞は英語のそれらとはまったくちがった概念であることなどを論じている。つまり、日本文には「主語−述語」という関係はなく、あるのは名詞文、形容詞文、動詞文の基本3文であり、格助詞「が」は主語を表すのではなく、他の格助詞「を」「で」などと同じく先の基本3文を補う「格補語」にすぎないし、助詞「は」は文を超えて話題を繋ぐべく働く「スーパー助詞」であり、自動詞他動詞は英語のように目的語のあるなしで区別すべきものではなく、受身と使役のどちらの意味がより強いかによって区別されるものであるというのだ。
 百年の誤謬を正すということで明らかなように、日本語文法が間違ってきたのは明治以降のことであり、江戸期までの日本語の考察のほうが正しかったと著者は言う。明治期の一握りの学者が文部省と組んで英文法に自ら屈したのである。いまこそその誤謬から脱却すべき時である。
 ものを見る目のあるものはどちらが説得力があるかを見るが良い。(M.K.)(2002/3)


『漢字と日本人』
高島俊男著
文春新書 H13/10 250p \756


『戦争論2 新ゴーマニズム宣言special』
小林よしのり著
幻冬舎 2001/11 538p \1995

 小林よしのりを甘く見てはいけない。前著『戦争論』は70万部を超えたという。今まで数多くの学者や言論人たちが、東京裁判史観を正そうとして本を出してきたが、彼ほどの影響力を及ぼすことはできなかった。彼ほど若い読者を獲得することもなかった。言論の道具として漫画という媒体を持ちえたことは幸運であった。影響力に於いて彼は平成の福沢諭吉かもしれない。
 この『戦争論2』の帯には「戦後54年間を通して敗れ続けた日本の復讐が、この一冊から始まる!」とある。何に敗れ続けたのかというと、「戦後サヨク」にである。「『サヨク』は日本の体制側である!」(p40)よって、「この日本においては、日本の歴史の連続を恢復し、日本の主体性を取り戻そうとする、わしのような勢力こそが反体制となってしまう」(「あとがき」より)という。そう意味では評者もまた反体制であり、小林氏は強力な突撃隊長である。この本を汝の隣人に読ませよ。(A.H.)(2001/11)


『パール判事の日本無罪論』
田中正明著
小学館文庫 2001/11 p253 \533

 小学館文庫は、最近積極的に現代史の見直しを示唆する本を出し続けている。本書もその一つ。原本は1963年に出版された。
 東京裁判は欺瞞であった。しかしそれは結果として残ってしまった。残っただけではなく、その結果がその後の日本人を規定してしまった。「東京裁判を中心とするアメリカ占領政策の根こそぎの掃除なくして、いかに”人づくり””国づくり”を口にしたところで、所詮は無駄である」と著者は言う。それから約40年後の今日、著者の憂慮は現実化している。(H.T.)(2001/11)


『さらば東京裁判史観』―何が日本人の歴史観を歪めたのか―
小堀桂一郎著
PHP文庫 2001/8 P246 \495

 1992年に単行本で出たものの文庫版である。現在の日本人の不甲斐なさの元凶は東京裁判史観にあるという主張をする。
 「序言」を除くと全5章からなる。それぞれ「戦争責罪周知徹底計画」「東京裁判史観の誕生」「靖国問題が明らかにしたこと」「教育基本法の弊害」「国家観の再生に向けて」である。
 米国は「日本領土占領の究極の目的を、日本がひたたび米国の脅威となることがない様に改革を施す、又米国の国家目的を常に支持するであろう様な平和主義的な責任ある政府を樹立する」ために、「戦争責罪周知徹底計画」を実行した。これは「各層の日本人に、彼らの敗北と戦争に関する罪、現在および将来の日本の苦悩と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国の軍事占領の理由と目的とを、周知徹底せしめる」計画であった。この計画に沿って、東京裁判が行われ、教育基本法が制定されたのである。
 日本の現状を見ると、この計画は予期した以上の成果をあげて、今もなお日本人を呪縛していると言えるだろう。日本人はこのことを自覚し、その呪縛から抜け出さなければ、日本という国家そのものが危機に瀕するであろうというのが、著者の主張である。もっともなことだ。安価な本であるから、さっそく買って読んで貰いたい。(H.T.)(2001/8)


『台湾人と日本精神』―日本人よ胸を張りなさい―
蔡焜燦著
小学館文庫 2001/9 p302 \649

 これはもともと日本教文社から2000年に出版されたものだが,小林よしのりの『台湾論』が起こした騒動で絶版になったものである。日本教文社も意気地のないことである。
 著者は日本の台湾統治時代に教育を受けた人で、今日の台湾の発展は日本が築いた礎にあると認識している。台湾はもともと中国のものだと多くの日本人は思っているだろうが,台湾人自身がそうではないと言明している。今,日本は自信を無くし,引きこもっているが,その日本人に対し,著者は「かつての祖国・日本の若者よ、あなた方の先人たちは実に立派であり,いまも台湾の地で『日本精神』が崇敬されている事実の語るところを君達の後世に伝えられよ」というのである。
 台湾くらい日本を好意的に見ている国はあるまい。我々は台湾をもっと引き寄せておくべきだろう。(2001/9/1)(H.T.)


『市販本新しい歴史教科書』
西尾幹二ほか著
扶桑社 2001/6 p336+口絵,年表等 \933

 平成13年の教科書問題の張本人であるのがこれである。これを読まずに教科書問題は語れない。一読して、これは物語として面白いと思った。中学生だけに読ませるのはもったいない。一般人が読むのにちょうど良い。
 三浦朱門編著『「歴史・公民」全教科書を検証する―教科書改善白書―』(小学館文庫)の分析をみれば,学習指導要領に一番よく沿って書かれた物がこれである。しかし結局,全国の普通公立中学校でこれを採用したところはなかった。不採用の一因として中学生には難しすぎるというのがあった。これは筆者らが教科書作りが初めてだったということに原因があると思われる。
 採用はされなかったが市販によって多くの人がこれを手にすることになった。味気なかった日本史教科書が一つの読み物として提供された。一読して損はないと思われる。
 なお,3刷ぐらいから「検定後の自己修正」済みになっている。(2001/9/1)(H.T.)


『韓国・中国「歴史教科書」を徹底批判する』―歪曲された対日関係史―
勝岡寛次著
小学館文庫 2001/8 p251 \552

 同文庫から先に発売された、三浦朱門編著『「歴史・公民」全教科書を検証する』の姉妹編として読むといいだろう。いずれ誰かが出すだろうと思っていた本である。
 構成は序論、本論(三部に分かれる)、資料編からなる。本論第一部が韓国の、第二部が中国の、それぞれ中学校歴史教科書についての批判である。著者は「新しい歴史教科書をつくる会」の40代半ばの会員である。

 今回の教科書問題については韓国が執拗に訂正を要求しつづけているが、それならあなたのところの教科書には問題はないのかね、と反対に問い掛けたいと思っている日本人は多いと思われる。評者もその一人であり、韓国については中学・高校の、中国については小学校の歴史教科書を読んだものである。そのうえで言うと、この著者による2国の歴史教科書への批判は妥当であると思われる。そしてもしこれを日本政府が韓国政府に対して修正要求をしたならば、韓国は内政干渉だとして国交断絶もしかねないだろうと著者は言う。そういう問題であるというのをなぜ韓国は理解しないのであろうか。自国の歴史教科書だけが正しいわけではない。

 著者によれば、韓国の教科書の問題は「国定のため、一つに解釈を絶対化し、韓国側から見た相対的な歴史解釈にすぎないものを以って『歴史事実』と見なす傾向がある」 「歴史教育を通じて隣国に対する謂れなき優越感を、今も自国民に植え込んでいる」 そして日本については「邪悪な勢力」として書いている。日露戦争当時、「日本の存在がなかったら、南下するロシアにとっくに国を奪われていただろうという国際情勢の冷徹な認識が、当時も今も韓国民には全くないらしい」 「国際情勢を一切無視した、やみくもな『侵略』撃退史観・反日抵抗史観は、近代史全体を貫く、韓国の教科書の基本的なトーンになってしまっている」という。
 具体的な個々の反論は本を読んでもらいたい。韓国の教科書における日本の扱いには、韓国人自身からも異論がある。そういう声が韓国人の中に届けばいいのであるが。そして韓国もまた国定を止めて自由化してもらいたいものだ。

 中国の教科書については、「歴史事実というようなものは、中国の歴史教科書編纂者にとっては、初めから大した意味を持たないらしい」 よって「『史実』をはなから問題にしない国に対して、史実の誤りを指摘してもほとんど意味をなさない」といって、切り捨てる。(H.T)(2001/7/11) 


『醜い中国人』
黄文雄著
徳間文庫 2001/6 p268 ¥514

 1994年に光文社より出版されたものの文庫版である。評者は当時立ち読みでぱらぱらと読んだのであったが、今回全部読んでみた。
 著者は「人民中国」を嫌っている台湾人である。思いつくままに中国と日本とを比較して、中国をこき下ろし日本を誉めている。台湾人としては、中国人と対立して生きていくためには日本を味方にしておかなければならないだろう。そうしたことも考慮して読む必要がある。しかしそうはいっても、評者もまた中国は嫌いなので、読んでいて快いのであった。

 中国人になんとなく親近感を抱いている人たちは読んでみるべきだ。イメージとしての中国人と現実の中国人との間に違和感がある人は、これを読めば少しは謎が解けるだろう。また、彼らは「中国人」であって「市民」ではないことが分かるだろう。そして中国政府のいろんな言動がよく見えてくるに違いない。
 著者は日本人に、日本の素晴らしさをもっと自覚してもらいたいと思っている。そして、パートナーとして中国人を選ぶことは最悪であると警告している。さらに、中国に未来はないという。破綻は環境問題から突然起こると予測している。もしそうなら、中国に進出している日本の企業や投資家は、いつでも逃げ出す用意をしていなければならないということである。(H.T)(2001/6)


『「歴史・公民」全教科書を検証する』―教科書改善白書―
三浦朱門編著
小学館文庫 2001/7 p348 \619

 全体は二部に分かれている。一部;歴史教科書編、二部;公民教科書編である。別に、巻末に資料として「戦後の教科書を巡るできごと」が付け加えられている。
 検証の対象となっているのは、教科書会社全八社の平成14年度中学校用教科書である。一部では26項目に関して67細目について比較し、二部では7項目に関して19細目について比較している。二部については、その元になった調査の結果が付されている。検討基準として文部科学省の学習指導要領を用いている。

 全教科書を検証するという動きは、扶桑社版の歴史・公民の教科書の出現がきっかけで始まっている。扶桑社版は「新しい教科書を作る会」が作ったものである。韓国や中国が書き換えを要求しているものである。また朝日新聞などは、それを「右より」だとして批判的に扱っているものである。けれども、一般の人たちにとっては何が問題なのかが判らないままであった。そういう状況の中で、本当に扶桑社版は偏っているのかどうかを、他の教科書と比較してみようということで、この本が出たのである。全教科書を公平に扱うという立場をとっていてはいる。しかし、読んでみれば、これは扶桑社版を推薦するものであるということが分かる。

 編者らから見れば、扶桑社以外の教科書こそが偏っているのであり、学習指導要領を逸脱しているものが多いことになる。つまり、いままで扶桑社のような姿勢で編集された教科書がなかったということなのだ。自国の歴史や社会を、肯定的に記述した教科書がなかったというわけだ。編者は前書きで面白いことをいっている。過去を否定的に記述していたときには、韓国や中国からは文句はなかったが、肯定的に記述するようになったら、文句を言ってきたと。

 最近は日本を見直そうとする回帰の動きが出てきた。日本人はもっと自信を持とうというわけだ。以前はこのような動きには消極的だった人々も、だんだんそうではなくなってきた。扶桑社版教科書の出現はそういった背景を持つ。この教科書が各自治体で採用され始めれば、他の教科書の記述も変わってくることだろう。文部科学省の狙いはそこにある。検定が通ったのは当然なのである。
 扶桑社版は6月になって市販され始めたので、実際に読んでみると良い。またこれを機に他の教科書会社も市販してくれれば、どれが本当に自分達の子息にとって良い教科者であるかが分かるだろう。(2001/6/15)(H.T.)


『英語はいらない!?』
鈴木孝夫著
PHP新書 2001/1 p209 \660

 ディーパの論説委員花田達夫氏が「英語は勉強しなくて良い」という小論をこのホームページに書いているが、鈴木氏のこの本もほぼ同じ認識を披露している。日本に蔓延する英語至上主義に対する、言語学者からのまっとうで痛烈な批判が書かれている。それだけでなく、日本の採るべき言語政策への提言も書かれている。平易な文章で読みやすく書かれている。英語に関心のあるものなら必読の本である。とくに日本語や日本文化に無知な英語の先生たちに読んでほしい。

 序章を除くと全9章にわたって、日本人の英語に対する態度が官民挙げてまちがっていることを繰り返し主張している。以下少し煩雑になるが、各章より引用しながら要約してみよう。

 はじめに: 「日本語を国際的に活用しようという発想」がない。国際社会に反論できないでは国益を損なう。
 序章: 「ことばが武器である」、よって「ことばの力で国際社会を生き抜くためには、世界を見渡した言語戦略が絶対に必要だ」「日本にとって一番大事なことは、英語力の強化もさることながら、あらゆる手だてを尽くして日本語の国際普及を早急に図ることだ。」

 第一章: 「英語の力が強くなるとその反動として各民族語がどんどん衰退する。」「言語というのは宗教と並んで、人間の情念というか、深いところに非常に関係がある。」日本は「他者の言語によって自分たちの言語の地位が脅かされたり、貶められるといった、多くの人類の社会にどこでも大なり小なり存在した言語問題の怖さ、恐ろしさをまったく知らない。」そんななかで「簡単に英語は便利な道具だから必要だといって日本の社会に導入をはかると、とんでもないこと、考えてもいない問題が起きる可能性もあります。」心配なのは「安易に教育制度を変えたりすると、英語ができるようにならないだけではなく、社会が大混乱になる」ということです。

 第二章: 多くの日本人は「日本が大国となった今となっては、日本のために良くないこと、恐ろしい結果をを生む恐れのある英語を、無反省に依然として憧れの対象にしている。」「庶民が日常的に外国語ができるような国は、その国が国際的に弱者の立場にある証拠です。そしてどこの国でも一人の個人が日常的にぺらぺらいくつもの言語ができるというのは、よっぽどその人が経済的に弱者なのです。」

 第三章: 今後は「外国一般に対する肯定的な見方と、それに基づく外国語を美しいもの、素晴らしいものとする考え方を、根本から変えなければならない。」「国民全部が英語にのめり込む必要は全くない」、それでは英語帝国主義の片棒をかつぐことになる。「日本人全部が英語を学ぶことが国家利益の点からは大損」になるし、アメリカを見れば「英語を学ぶことからはもはや文化的な面もあまり期待できない」のです。

 第四章: 日本人の英語力不足の問題は、「現にいま日本の国益を代表している人々、国際的な仕事についている人々」が英語が下手なために十分活躍していない点にある。英語力強化はこのような人を対象とすべきで、「日本国民すべてを視野に入れた英語力強化論は、それこそ百害あって一利なしです。」

 第五章: 英語を国際語として使うのであれば、民族語である英米語とは距離をおいた「英語らしきもの」(イングリック)を堂々と使うのです。「本当の」、「正しい英語」を身につけなければならないという考えで行くと、「損はすべて日本人を含めた非英語国民が引き受けることになってしまう。」だから、「英語そのものではない」イングリックを「一方的に主張し、その気持ちで堂々と使えば」いいのです。これは英米人にとっても外国語となるので、彼らも応分の負担を担ってもらう。「私たち英語を使わざるを得ない立場の人間は、こちらが損にならないようにできる限りネイティブの基準、土俵に入らない注意がいる。」「本当の英語を使うつもりなどないよと頭を切り換え」ると楽になります。「英語に上達する秘訣は、・・・本当の英語が使えるようになることはまず普通の人には不可能だし、その意味もないということをはっきり悟ることです。」「英語を話すことは特に必要のある人、それをやらなけばメシが食えない人以外は必要ない」「しかもそれを使う必要のある人は国民のきわめて少数でいい。」「新聞記者、政治家、外交官や国際ビジネスマン」らがしっかりやればよい。一般には「日本語を使っているがゆえのマイナスが国内的には何もない」からです。

 第六章: 日本にいる外国人には日本語を使いなさい。やむを得ず英語を使うときは「俺の英語が分からないのは、あんたの方が悪い」という発想で行くべきです。「自分のほうが楽になり得をするように、苦労はむしろ外国に背負わせるような生き方ものの見方を、日本人はもっとまじめに考えるべきです。」

 第七章: 「国際社会を相手とした言力政治を行う際に、日本人にとって最も使いやすい、効率の高い日本語」を使えるように、国際普及を推進すべきです。「日本が言語的に世界で孤立している状態を、何とか日本に都合の良い方向で解決しようという発想」をすべきです。」

 第八章: 英語ができないから国際的な場で交渉ができないのではなく、「国益とか国家の主権という自覚が官僚や政治家にも希薄」だから、よたよたしているのです。そして国益を代表するエリートは寝る間も惜しんで英語力をつけるべきです。そして日本語に国際流通性を持たせるように努力すべきです。庶民に英語力増強を押し付けるのはお門違いです。「いま世界を変える力があり、世界管理の責任の一端を背負っている立場にある日本人が、自分の言語の国際流通性を高めるということに、こんなにも無関心であるということは驚きです。」それは「国民を指導する立場にある人々の世界認識が狂っているからです。」いまだに受身で、世界が英語を使っているから英語だと思い込んでいる。何故日本語の普及を考えないのか。その第一歩として「国連の公用語に日本語を認めさせること」です。それを「日本人の意見、考えを外部の世界に伝える道具としての言語」とするのです。

 第九章: 「日本の実力に自信を持って堂々と渡り合えば、英語力の問題なんてけし飛んでしまう」から、「日本人としての強みを磨くことの方がたいせつです。」英語ばかりやっていると、他の文化についての関心が薄くなる。英語からだけの情報に頼ると危うい。また、英語教育をやるなら英米の英語ではなく、「国際語としての英語」を目指すべきです。そして「日本情報の発信こそ、英語教育の中心に据えられるべき目標」です。

 あとがき: インターネットと英語は本質的な関係はない。「大事なことは、一日も早く、これらの技術分野を単に応用だけでなく基本から日本語で運用できるよう」にすることです。「日本語で押し通せるコンピューターを作るべきだ。」そうすることは「日本語の特性や日本的発想の強みを生かして、世界文化の多様性の保持に貢献するするためにも望ましい」のです。「日本語を捨ててコンピュータのために英語にのめり込むことは、自分たちの強み、利点を捨てて自ら進んで二流三流のアメリカ人になろうとする、労多くして無意味な選択になることは目に見えています。」
 (M.K)(2001/2/1)


『「邪馬台国畿内説」を撃破する!』
安本美典著
宝島社新書 2001/1 p222 \750

 これは、最近のマスコミの風潮である邪馬台国畿内説を一部の学者の空想的産物であると断定し、畿内説は成立しないということを痛快に論証するものである。
 プロローグとエピローグを除くと全部で3章からなる。

 プロローグでは、卑弥呼に与えられた鏡を三角縁神獣鏡と考えるか、方格規矩鏡や内行花文鏡と考えるかで、根本的なものの見方が違ってくるとして、前者を主張する学者たちを非実証的、非科学的、空想的な議論をしていると批判する。第一章では、ホケノ山古墳を邪馬台国と結びつけようとする樋口隆康氏に対して、10の疑問を挙げてそれを退け、第二章では、卑弥呼の鏡は三角縁神獣鏡であると主張する岡村秀典氏の見解は成立しないことを論証する。そして第三章で、考古学者たちがあまり省みない『古事記』『日本書紀』の神話の部分を、統計学的手法を用いたり天文学の成果から読み解こうとする。その結果、天照大神は卑弥呼であり、高天原を流れている天の安河は福岡市甘木市にある小石原川(古名「夜須川」)であろうと推測する。後者の推測は先人の説があるのだが、この甘木市の周辺の地名が大和朝廷のあった大和郷の周辺地名と方角や位置関係を等しくしているという事実を挙げる。著者は、この甘木市付近に邪馬台国が埋まっていると考えているようである。そして、1992年に発掘された甘木市の平塚川添遺跡が、弥生時代後期の大環濠集落跡であり、全国ではじめて出土した六重の環濠を持っていて、福岡県教育委員会の柳田氏により「吉野ヶ里よりも大きな集落群」と述べられたことから、この遺跡を「邪馬台国」の最有力候補と考えているようである。

 「邪馬台国畿内説」を撃破するという目的は、第一、第二章で遂げられている。全体の論証は無理がなく、参照文献も最近のものである。「撃破する」という書名にふさわしいといえる。
 邪馬台国はどこかというのは日本史最大の課題である。福岡県教育委員会は速やかに平塚川添遺跡の全体の発掘に着手すべきであろう。決して開発の名のもとに破壊してしまうことのないようにしてもらいたい。(2001/1)(M.K.)


『東京裁判日本の弁明「却下未提出弁護側資料」抜粋』
小堀桂一郎編
講談社学術文庫 1995/8 p565

 アメリカや中国、ロシアに対抗するためには、こういう資料を読んでおかなくてはならない。明治の開国から太平洋戦争敗戦に至るまでの、日本側の諸事情の弁明である。勿論これは弁護側資料であるから日本に不利になることは書いてない。しかしそれはいいのだ。なぜなら、我々は今まで散々日本に不利なことばかり、つまり検察側の見解ばかり教わってきたからだ。弁護側の見解もあわせて吟味しないことには片手落ちというものである。
 裁判後50年以上経って、戦後史観を見直す動きが出てきた。自国の歴史に自尊心を持とうというのである。そういってこともあってか、この種の本にしてはよく版を重ねている。先の戦争をどう考えるかに興味のある人は読むべき本である。そして、現在英語の世界に飲み込まれようとしている日本をどうにかしたい人も、読んで損はないだろう。(H.T.)(2000/8)


『刀と首取り』戦国合戦異説
鈴木眞哉著
平凡社新書、2000/3 p224 

 刀は戦闘用に使われたのではなく、実用的には首を切り取るためのものであり、それ以外は儀礼用として用いられたと主張をする本である。
戦国時代の武器の中で刀が多く残され、かつ無傷のものが多いということから考察が始まる。そして上述の主張を裏付けていく。
 きわめて常識的な結論である。あたりまえのことをきちんと言ってくれる本に会うとほっとする。最近の時代劇が如何に非常識か教えてくれるからである。
 たとえば鎧は何のためにあるのだろう。刀や槍、矢や鉄砲の弾から身を守るためだろう。テレビや映画の中では、鎧をつけた武士を袈裟切りにして倒す場面がよく見られる。そんなことが出来るわけがない。刀を防げないような鎧を着けるわけがないからである。槍を持った兵士を刀の武士が倒すのもおかしな話である。槍の方がずっと有利だからである。矢や鉄砲にしても、少し外れて当たれば鎧を滑りぬけていったろう。武器と武具の関係はいたちごっこのはずである。
 時代劇の関係者は一読して今後の参考にせよ。(2000/3)(H.T)


『チベット密教』
ツルティム・ケサン/正木晃/共著
ちくま新書 2000/1 p224

 チベット密教に対する、一つは堕落した仏教、一つは最高の宗教という二つの評価を、どちらも極論であると退け、その本質と理解を目指すための入門書を書いたというのが著者たちの意図である。
 内容は歴史的理解と修行法・理論の二部に分かれている。
しかし著者の意気込みとは逆に、これを読めばかえって、チベット密教の過去のいかがわしい点が知られてしまい、堕落した仏教であるという印象を深くしてしまうのではないかと危惧される。
 チベット仏教はインド仏教の後継者であり、その特色は学問仏教にある。密教を前面に出したがために、この特色がこの本ではないがしろにされた憾みがある。(2000/1)(M.K.)