無断翻訳連載(10)

ツォンカパ:仏教の主要教説

注釈:パポンカ・リンポチェ
英訳:ロポサン・タルチン

和訳:右浦耕大

     [ ]内は原書註より、( )内は訳者註

「第二番目の道:すべての有情のために菩提心を起こすこと」(1)

11.菩提心を起こすことが必要である理由

さて、四つの部分よりなるテキスト本体の第二番目にやってきた。これは、すべての有情を救うために菩提心を起こすということについての解説である。この解説それ自体は三つの部分に分かれている。つまり、菩提心を起こすことが必要である理由、この発心をどのように発展させていくのか、最終的にそれを達成した時をどうやって知るのか、である。根本テキストの次の詩句が、この崇高な発心が必要なわけを教えてくれる。

(6)

   しかしながら離欲は、無比なる菩提という
   完全な至福を齎すことが決して出来ない、

   至純な発心に結びついていないうちは;だからそれゆえ

   賢者は崇高な発菩提心を求めるのである。

 汝は、これまで述べてきたような、離欲に対する猛烈な感情を得ることができるかもしれない。しかしながら、それらの影響のもとで汝がどんな良い行為を行っても、ただ通常の涅槃を齎すだけである。―それらだけでは汝に全知的菩提(一切智)を齎す役には決して立たないのである。下位の道を実践する者―「聴聞者(声聞)」や「独力の勝者(独覚)」といった人々―でさえも、真の離欲は持てるのであるという事実から、そのことを知ることができる。

 だから、完全な菩提のためには、自分の心の中に主要なる道の三つすべてを達成させる必要がある。―更にもっと正確に言えば、第二番目の道:全有情のために菩提に到達しようという発心(発菩提心):を得ていなければならない。超感覚能力を持っているとしても、奇蹟を行えるとしても、数々のすばらしい性質を持っているとしても―しかし、心の中にこの貴重な宝石を持っていないなら、大いなる道(大乗)を実践する人々のあの選ばれた集団に入ることは決してないであろう。この最上の発心がなくては、汝の性質のどれも汝に至福を齎すことさえないだろう。―それらのどれも、それらのどれも全く、仏性を、つまり個々のそしてすべての有情をすべての輪廻の苦悩から、そして輪廻による下位の世界での苦悩から解放する能力を、齎すことはないだろう。

 下位の道の偉大な実践者たち―「声聞」あるいは「独覚」のような「敵の破壊者たち」―は、純金からなる巨大な山のようなすばらしい性質、つまり空性を直ちに悟る能力のような性質さえも持っている。しかしこれらの道は決して彼らを仏性へ導かないのである。なぜか。彼らには、すべての有情を菩提に到達させようとする発心が欠けているからである。

 もし本当にこの大いなる発心を得るならば、真に世界全部が―人間や神々に至るあらゆる異なった種類の存在を含めて―汝の足下に腰をかがめるに値する人物になるだろう。ちょうど『菩薩の生涯』や『中道に入る』や『rare  stack』などの尊い本に描かれているように。気がつくと自分は異なった存在の階級にいて、そのときには、声聞や独覚―下位の道を実践する者―より完全に強く輝いているのである。汝が行う有徳の行為のことごとくが、野生の鳥たちに食べ物のかけらを投げ与えることでさえも、大いなる道(大乗)の実践となるのである;将来の菩提の原因となるのである;菩薩の生き方となるのである。

 人が、すべての有情を救うためにこの尊い発菩提心を持つならば、そのときは十方世界すべての無数の諸仏すべてが、その人を自分の息子と見なす。そして偉大な菩薩たちすべてが、その人を自分の兄弟と見なすのである。

 しかしそれで全部ではない;自分が大いなる道(大乗)に到達しているのかどうかという問いの全部、そしてこの短い生涯で菩提に達することができるだろうかという問いかけ全体は、汝が真にこの発心を得ているかどうかに懸かっているのである。だから、菩提を欲するなら、われらのラマが結論なされたように、発心の中で自分の考えを育てなければならない。

12.如何にして発菩提心を発展させるのか 

 すべての有情のためにする発菩提心についての解説の第二部には、この発心をいかに発展させるかが述べられている。次の二つの詩句が言うように、

(7,8)

   人々は四つの激しい川の流れ(四暴流)にどんどん引きずられ、
   過去の行為に固く繋がれていて、はずし難く、
   貪欲な「自己」という鋼鉄の檻の中に詰め込まれていて、
   真っ暗な無知に厚く覆われている。

   限りなき輪の中に人々は生まれ、そして幾度となき誕生の中で、
   間断なく三つの苦しみに苛まれる;

   どのように汝らの母が感じているかを思え、何が起きているかを思え
   かれらのために:この最上の発心を達成しようとせよ。

別の一組の詩句から始めてもよい。『菩薩の生涯』からの詩句:

   他人がわずらっている頭痛をとめることができますようにと
   単に願うことでさえも
   汝に過分な徳を齎すことができる、
   汝はその有益な意図の影響を受けるからである。

   それゆえ、すべての有情の悲惨な痛苦をとめ,
   そしてすべての人を
   限りなき幸福の状態におくことができますようにという
   発心については、何を言う必要があろうか。

さらに『ビラダッタの懇願したる経』には次のようにある。

   もしも発菩提心の徳が、
   ある種の物質的な形を帯びるのであるならば、

   それは空間自体の広がりを満たし、

   そしてそれから更に静かに溢れ出すであろう。

このように、あちこちのテキストに、すべての有情のために菩提心を起こすことの利益は際限がないとして述べられている。そしてまたここには大勢の有情がいて、それらのすべてはわれらの母であり、すべての「恐ろしい苦痛」である「四つの川の流れ(四暴流)」の流出に「どんどん引きずられている。」ある見解に拠れば、それらが原因として活動しているときは、これら四つは欲望の奔流(欲暴流)、見解の奔流(見暴流)、行為の熟力の奔流(有暴流)、無知の奔流(無明暴流)である。後にそれらが結果として働くときには、それらは生老病死の四つの奔流である。

 そしてこれら母たちは、これら四つの巨大な流れに沿ってただどんどんとばく進しているだけではない;まさにまるで手も足も固く縛られているかのようである―「はずし難い」自らの「過去の行為に」「固く繋がれて」、わなに掛けられているのだ。

 しかしそれがすべてではない;かれらをきつく縛っている紐は、ヤクの皮や毛で撚り合わせたロープのような普通の紐ではないのだ。それはむしろ、鉄の足かせに留め金で止められているのに似ている。あまりにも硬いので切断することもできず、あまりにも硬いのではずすこともできない―引きずられている間、ありもしない「貪欲な『自己』」という「鋼鉄の檻に詰め込まれて」いるのだ。

 まだある。もしいくらかの日の光でもあれば、これら母たちにはいくらかのかすかな希望があるだろうに―少なくとも叫んだり、助けを求めようとしたりできるだろうに。しかし、夜、それも夜の最も暗い時、さらに真っ暗な闇の中で、強力な川の下流へと押し流されるのである。つまり、「真っ暗な無知に」完全に「厚く覆われる」のである。

 「限りなき輪の中で」、終りなき輪の中で、生命の大海の中に「人々は生まれ」、「そして幾度となき誕生の中で」、苦の苦、変化の苦、そしてすべてに遍満する苦という「三つの」異なった「苦しみによって苛まれる」。そして、それらの苦痛は「間断なく」人々にやってくるのである―それはいつもそこにあるのだ。

 これがわれらの母に、「彼らに起っていること」である、これが彼らのおかれた境遇、つまり耐え難き苦である。彼らには自分自身の救いになるようなことはなにもできない;しかし息子には母を引っ張って自由にするチャンスが身近にある。彼は方法を見つけなければならない、そして直ちにそれを見つける、母の手を取り、引っ張り出すために。それで彼が「試みる」べき方法は、「この」宝石のような「発心」を菩提にむけて「達成すること」である。つまり、まず、苦に苛まれて「母らがどのように感じているかを思うこと」によって;それから、個人的な責任、つまり彼らを解放する義務、を負う決意をすることによって;などなど、すべて適切な段階に於いて発心を達成することである。

 発菩提心を実際に得るためには、まずそれを熟考しなければならない。それを熟考するためには、最初にそれについて(発菩提心とは)別のものから学ばなければならない。「愛情ある親切心(慈)」とは、一人一人すべての有情が幸せを見つけ出しますようにという、ほとんど度を越した願いのことである。「同情(悲)」とは、彼ら有情がいかなる苦痛からも逃れますようにという、ほとんど妄念に近い願いのことである。唯一の最愛の息子が重い病気で苦しんでいる時、母親がどのような気持ちでいるかを思ってみよ。どこに行こうと、何をしようと、息子が病気から速やかに逃れうる方法を何か見つけられたらどんなにか素晴らしいだろうにと、いつも思っているのである。このような思いは、変わらぬ流れで途切れることなく、思いのすべてを伴って、自動的に母の心にやってくる。それらは母にまとわりつく執着となる。我々がすべての有情に対してこのように感じる時、その時にだけ、「大悲」と言われているものを獲得していると言えるのである。

 ここ仏陀の教えの中に、この貴重な宝石、発菩提心における心の訓練に関して述べられた二つの方法がある。一つは「七区分、原因―結果課程」といわれるもの、もう一つは、「自己と他人の交換」と呼ばれるものである。心を訓練するために二つのどちらを用いようとも、究極的には発菩提心を得ることができる。発心して自己を訓練する方法、完璧で誤りなき方法、ここ地上には他に匹敵するいかなるものもない方法、それが、菩提への道の諸段階という課程なのであり、まさにわれらの優しき保護者、偉大なるツォンカパの全教説の精髄である。したがって、ほかならぬこの課程を用いて、発菩提心に於いて自分の心を訓練すべきである。

(この章未完、つづく)