無断翻訳連載(8)
ツォンカパ:仏教の主要教説
注釈:パポンカ・リンポチェ
英訳:ロポサン・タルチン
和訳:右浦耕大
* [ ]内は原書註より、( )内は訳者註
「第一番目の道:離欲」(5)
\.来世を願うのを止めること(つづき2)
例えば、レカーという名の僧がいた。彼は座って仏典の十二の大集をすべて諳んじることができた。またデーバダッタもいた。彼は「ひと山」と表現されるような莫大な量の経典も覚えていた。しかし結局そんなことはどれも役には立たなかった。というのは二人とも地獄に生まれ変わったからだ。これは重ねて、その人が教えの知識を持っていても、実際に自分で実行に移せず、あるいは、行為とその結果についての原理を無視し、または、なによりもまず、これらの原理に何らの信をも得ることがなかった例のように思える。これら、私たちより以前に生きていて、同じ間違いを犯した人々についての話はほとんど無数にある。だから彼らから学ぶべきなのである。
それでこのことから、行為とその結果のことを理解する上で、四つの最も一般的な原理が得られる。
1)もし原因のなかに良い行為が含まれていたら、それが生み出す結果はもっぱら楽だけで、苦などないに違いない。原因のなかに悪い行為が含まれていたら、それらが生み出す結果はもっぱら苦だけで決して楽などない。かくして第一の原理とは、「行為は必ず似たような結果を生み出す」こということである。
2)原因のなかに含まれる良いまたは悪い行為が比較的些細なことであるとしよう。しかし、それらが生み出す結果―楽や苦―というのは途方もない影響力を持ったものとなる。そこで第二の原理とは、「結果は行為よりも重大である」となる。
3)もし、原因となって作用する良いまたは悪い行為を、決してしなかったとすると、楽も苦も結果として身に受けることはない。かくして第三の原理とは、「もしある行為に関わっていなければ、ある結果に出会うことはない」となる。
4)第四の原理とは、一たび原因として作用する良いまたは悪い行為をすると、「ひとたびある行為がなされると」―例えば、良い行為の力は怒りに似た感情によって、あるいは、悪い行為(の力は)ある適切な解毒剤を適用することによって無効にされない限り―「その結果は消え去ることはない」ということである。
さらにその他の原理もある。ある行為が良かろうと悪かろうと、何か特に重要な対象に向けて行為がなされた場合は、その(結果の)力は増殖されるといわれている。行為の背後にある思いが特に強いとき、あるいは、ある行為をするときに使用するものがどういうわけか特別なものであるとき、あるいは、行為をしている人がだれか特別な人であるときも同様なことが起きる。
これらの原理について十分納得した信念を得るように努めなければならない。最も奥深くそして微妙でさえある、行為とその結果の働きを考えるために時間をかけよ。それからこの理解に基づいて実際の行動をせよ。行為と結果の法則を考えて行動するということは、それらに従うことを意味する。つまりこれは、十の不徳(十悪)を避けることがその法則に従うことであると言っているのである。
「世俗的な」ものとみなされている正しい見解のことを聞いたことがあるだろう。それが言い表していることは、行為とその結果についてそれをよく理解するということである。ところでこの見解は、比丘、比丘尼、在家者に関わらず誰もが堅く守るべき重要なものである。この場合の「世俗的な」という言葉は、単にいまだに世俗的な生活を送っている人々のことだけを言っているのではない、ということに気づかなければならない。空性を認識したる人の道にいまだ達していない人のことを言うときに、「普通の人々」という表現を使うのである。この意味に於いて、われらが何者であろうとも、普通の人である限りは、われらは「世俗的な」人間であるのだ。
かくして宗教を実践するときには、行為とその結果の法則に従うことから始めなければならない。次のように言われている。
道は精神的な案内人に適度に頼ることから
始まる。
道の諸段階は自分の恵まれた境涯を考えることから
始まる。
瞑想は動機から始まり、そして宗教を実践することは
行為とその結果の法則を観察することから
始まる。
それゆえ、悪行によって汚染されるのなら、自分の身体や言説や心(身口意)―我々はこの三つの門のどれかを通して自分を表現している―に決して従ってはならない。そしてできる機会があれば、告白という過程を通して悪行を自分自身から除去しなくてはならない。
概して、行為とその結果の原理について熟考すれば、来世に対する欲は充分に止められるものである。しかし真に重要な方法は、この繰り返される人生(輪廻)のたくさんの苦しみを考察することなのである。大まかな意味で、いったん「等活地獄」[最も軽い地獄]の苦痛について瞑想して恐怖の感覚を覚えると、離欲がまさに人の心に芽を出し始めるといえる。しかし離欲が完全に自分のものになるのは、この循環する生の中で良いといわれているものに対してでさえも、完全な嫌悪を感じたときのみである。
伝統的に輪廻という苦痛を熟考するのに二通りある。つまり、これらの苦痛を一般的に考察することと、これらを一つ一つ検討することである。『穏やかなる者の言葉』と呼ばれる本には、はじめに個別の苦が描かれていて、それから一般的な苦が続いて描かれている。一方で、『至福の道』や『迅速な道』などの著作には、最初に一般的な苦が描かれていて、続いて個別の苦が描かれている。それぞれの考察は大変価値ある教訓を伝えている。ここでは『穏やかなる者の言葉』を見てみよう。
安らぎの境地をえようと、努めて教えに従おうとし、また、行為とその結果を考慮に入れて正しい決定をしようとして最善を尽くせば、三つの卑しい生まれ(地獄、餓鬼、畜生)のどれかに再生してしまうということからは逃れられるだろう。しかし本当に必要なのは輪廻からすっかり脱することなのである。というのは、卑しい生まれは避けられたかもしれない一方で、幸福な生まれ(阿修羅、人、天)のどれかで素敵な人生を得たとしても、何れにせよ苦以外のなにものでもないからである。
人間に生まれたと仮定してみよう。それでも子宮から産まれ出るときに苦しまなければならない。それでも身体が日々老いていくにつれて苦しまなくてはならない。それでも病気のときには苦しまなければならない。それでも死ぬときに苦しまなければならない(四苦)。愛する家族を失うという痛みを経験しなければならない。憎むべき敵と遭遇するという苦痛に耐えねばならない。欲するものをえようとして働き、それらを得られないという苦悩を経験しなければならない。そしてさらに苦痛は続く(八苦)。
二番目のタイプの幸福な生まれ(阿修羅)―ある種の天国みたいなところ―に、低位の快楽存在の一員として生を受けたとしよう。それでも人生において戦いに明け暮れて苦しむし、自分より高位の快楽存在(天人)に対する激しい嫉妬に苦しみ、自分のからだが切り裂かれ、引き裂かれる時苦しむ。そしてさらに苦痛は続く。
最後に、もっと高位の快楽存在(天人)の一員になったとしよう。彼らは存在の三つの領域(欲界、色界、無色界)すべてにわたって住んでいるが、それらのうちの第一番目;つまり欲望の領域(欲界)で快楽存在になることができたとしよう。それでも、信じられないほどの長くて快楽に満ちた生活の後で、死の兆候(天人の五衰)が身体を蝕み始めて、そしてその後、より下等な生への転落を受ける時には、ひどい苦しみをくぐり抜けなければならない。そしてさらに苦痛は続く。というのは快楽存在(天人)のばく大な大多数が悲惨な生のどれかに直行するからである。過去世(前生)においてなした善行によって蓄積されていたプラスの力のすべては、自分たちがその果報―快楽をする存在であるという喜び―を楽しんでいるうちに浪費される。この存在でいる間は、さらに多くのこのプラスの力を積み上げる機会がないのである。それにもかかわらず悪行―欲望や執着といった心の苦痛という形のすさまじいマイナスの力―の多大なる供給はあるのだ。そのため、死ぬと、これらが原因で彼らは悲惨な再生に投げ込まれるのである。
あるいは、ついに存在の三つの領域(三界)の高位の方の二つ(色界・無色界)のうちのどれかに、快楽存在(天人)としての生を達成できると仮定しよう。これらの存在にはもはやはっきりとした苦痛はないが、それにもかかわらず、まさに生命の性質によって最も微細な形の苦痛がある、つまり、刻々と年をとるという常に現在する苦である。なのにこれらの存在(天人)には自分たちの天国にとどまろうする術が全くないのである。(そして)必ずある日がやってくる。―この第一等の場所に自分たちを投げ込んだ過去の善行の力がついには枯れてしまう日が。そのとき過去の悪行のどれかのエネルギーに触れて、彼らは下層の生まれに追いやられるのである。だから結局、輪廻の中でどんなに素晴らしいことが自分の身に起こったとしてもほんとは問題ではないのである。つまりそのどれもが不変ではないし、信頼すべき価値あるものではないのである。「生の頂点(有頂天)」と呼ばれる素晴らしい瞑想レベルのまさに最高の存在の形態であっても、地獄で溶けた鉄の入った窯の上につるされて、これから浸けられようとしているまさに最低の存在と比べて、少しもよくはないのである。
ツォンカパ尊者は、菩提への過程の諸段階に関するご自身の偉大な解説の中で、人生の一般的な苦を熟考するのに三つの区分をお分けになった。八つの苦、六つの苦、三つの苦の熟考である。けれど八つの苦はひとりの人間の人生に多く適用され、三つの苦はある種の要約として提示されている。それゆえここでは、六つの苦についていかにして熟考するのかをいささか述べようと思う。
六つの苦とは以下のものである。
1) 人生には何も確実なものはないという問題。
2) われわれはいつも持っているものよりも多くを望むという問題。
3) 何度も何度も肉体を脱ぎつづけなければならないという問題。
4) 何度も何度も新しい命に入りつづけなければならないという問題。
5) 何度も何度も人生の条件の中であがったり落ちたりするという問題。
6) 誰も共についてくることはできない:究極的にはただ一人であるいう問題。
これら六つの問題は、『菩提への諸段階』の標準的な研究著作の中に詳細にかかれている。けれどメフィード王を思い出すべきである。王の最後の言葉は「いつも自分が持っているもの以上を欲するということ以上にこの世で悪いことはない」というものだった。われらは比丘である。だからすべきことはたった二つのことだけである。
聖なる書を読み、それらの教えを受け取り、
それらの意味を熟考せよ。
拒絶の人生をいき、そして
瞑想の中に住せよ。
ここでいう「拒絶の人生」とは、われらのモラル(戒律)を守り、悪い行為を拒絶して生きることを意味する。もし、これらの二つの実践から逸脱しないでいられるなら、そのときはある日、賢明さと明知とを達成するのである。しかしもし、これらの二つを無視するならば、「考えるべき多くのこととなすべき多くのこと」と世間でいわれるもの(雑事)にわれを忘れるだろう。するとそのときには、何らの精神的実践もしないだろう。途中で人々はこの間違いを犯す。「小欲であれ、足るを知れ」という教訓を守り抜くことができないからである。
苦の三種(三苦)が後に根本テキストの中で述べられるので、それらを簡単に述べておこう。苦痛というすべての不純な感情が、苦の第一番目のタイプを構成する。つまり「苦の苦」(苦苦)である。
楽しみというすべての不純な感情が、苦の第二のタイプを構成する。つまり「変化の苦」(壊苦)である。この苦は次のように説明される。大変暑いところにいれば、何か冷たいものが快いように思える。大変寒いところにいれば、何か暖かいものが快いように思える。同じことが以下のときにも当てはまる。長い道を歩きつづけなければならないとき(座ることが快く思えるだろう)、あるいは長い間座っていなくてはならないとき(歩くことが快楽に思えるだろう。)。
しかし快く思えるこれらのどれもが、本来の快、またはそのまさに本質に於いて快ではないのである。もしそうなら、それらを持てば持つほどますます快さを感じるだろう。しかしこれは本当ではない。というのはそれらを得れば得るほど、それらはかえって諸君に苦痛を与え始めるからである。このことが起きるので、それらが本当の快ではないと理解できるのである。それらは実は苦―われらが「変化の苦」と呼んでいるもの―なのである。
苦の第三のタイプはいわば「更なる苦をもたらす遍在する苦」(行苦)である。ここでの要点は、われらが六種の生まれのどれを受けるかに関わらず、それ自身に特別に組み込まれた苦を伴って、まさにその苦が在ることによって、完成する身体を自分が引き受けるということである。自分の存在のなかにさまざまな不純な部分を引き受けた最初の瞬間から、それらが存在する最初の瞬間から、それらはわれらの人生において予期しなければならない生老病死その他すべての苦の基礎を用意する。われら自身の不純な部分は大きな壷のようであり、現世と来世の人生双方において、苦の苦を吸い込み、変化の苦を吸い込むのである。生まれ変わるのをやめる、生まれ変わりをさせてしまうすべての不純な部分を引き受けるのをやめる方法を見つけなければならない。それを見つけるまでは、自分の存在は針が林立したベッドに寝ているようなものである。いたみ以外何もないのである。
「輪廻からの脱出」について語るとき、その脱出とは、ある国から逃れてどうにかして別の国に至るというようなことではない。「輪廻」とは正確に、そのまさに事実上、われらを形作っている不純な部分が、われらが引き受けている存在の不純な部分が、間断なく存在を続けていくのことなのである。そして間断なく続くこれら不純な部分の存在が、何ものにも自性がないということを理解する知恵によって、その根本で中断されるとき、そのときこれがわれらの「輪廻からの脱出」ということなのである。
以上で、如何にして汝の来世に対する欲望をやめるかという説明を完了する。
(この章終り)(2000/9/12)