ナウシカ研究序説(7)
右浦耕大
おわりに
これまで、ナウシカ物語の背景、物語の経糸や緯糸、ナウシカの行動原理や物語に占める位置、思想などについて考察してきた。もとよりこれらは「研究序説」であるから、各章の記述や考察の深浅は一様ではなかった。それでもナウシカの物語については、概観を提供しえたと思っている。
この物語は、中に入り込むと結構奥深い。いろんな要素が有機的に錯綜していて、立体的に構成されている。画も一つ一つが細部まで意味を持って描かれている。登場人物たちが自律的に動いているようでもある。
これまで触れなかった人物や出来事について述べるべきことも多く残したままである。物語と同様に、この序説でも、語り残したことは多いのである。しかし今は、ここで序説を終了させるときである。
序説を終わるに当たって、筆者の感想を述べておこうと思う。
ナウシカは正しかったのか。ナウシカの最終行動は人類にとって良いことだったのか、についてである。
ナウシカは、主の助けを得れば、現在の汚染された人間でさえも、新生しつつある世界に適応して生きられることを知っていた。ヒドラの「庭園」で自らその「処置」を受けていて、その有効性を知っているからである。ところが、主の理想が人間の喜びや苦悩に価値を置かないものであったがゆえに、主を破壊し人間の未来を人間の意志に任せることにしたのであった。つまり、世界を無目的な混乱に戻してしまったのである。
主は計画の多少の誤差は折込済みであったらしいが、ナウシカの発生まではその中になかった。つまりはナウシカの存在そのものが生命の主体性の象徴なのである。主の計画はそもそもの初めから、破綻が運命づけられていたと言う事ができる。そういった意味では、ナウシカの達成したことはあたりまえのことだったと言える。
一般に、物語、小説、映画に至るまで、理想を目指すものと現状を維持しようとするものの間で戦いが行われる場合、現状維持側が勝利するというのが普通の結末である。その意味でこのナウシカの物語もそれを超えるものではない。現在の人間の混沌状態を肯定する方が勝つのである。それが人間の自由だとして賛美される。
しかし筆者はあえて別のことを考えるのである。今のままの人間であることを選ぶ必要があるのだろうかと。
ナウシカも「私達は/滅びるよう/定められた/呪われた種族/なのでしょうか」(D−65)と言い、「私達が亡びずに/もう少しかしこく/なっていたら」(E−94)という。新しい人間が出てこないなら、また同じことのくり返しがあるだけである。主の破壊の後「すべては/終わったのです/いまは/すべてを/始めるときです」(F−221)というが、彼女の目指す新たな世界は出現することはないだろう。なぜなら人間は変わってはいないからだ。この意味で、主の言う人類の「希望の光」を断ってしまったナウシカは「悪魔」である。人間は愚かなままであり、苦悩が続くのである。庭園を耕して、音楽と詩に囲まれて、安らかな喜びの中で生きていくことは人類の究極の望みではないのか。それを否定することは正しいのか。
ナウシカは自分の行為の意味を自覚している。そこに彼女の「闇」がある。
主は言う。「お前は/危険な闇だ」それとは反対に「生命は/光だ」と。するとナウシカは言葉尻を捕らえて、すかさず言い返す。「ちがう/いのちは/闇の中の/またたく光だ」「すべては/闇から生れ/闇に帰る」「お前達も/闇に帰るが/良い」と(F−201〜202)。
「闇」とはなんだろう。虚無のことか。亡びのことか。混沌のことか。主の言う闇と、ナウシカの言う闇は少し意味合いが違うように思える。
ナウシカは闇について別のところで述べているところがある。セルムが皇帝のことを「闇から/生れた者は/闇に返すべき」というのに対し、「闇は/私の中にも/あります」(E−77)という。また、皇兄との対決の場(E−153)で、ナウシカ;「巨神兵も/ヒドラ達も/来た所へ/帰す」 皇兄;「こいつらは/人間の心の闇/から来た/のだぞ」 ナウシカ;「ちがう/もっと/深く遠い」「そなたの弟も/そこへ帰った/王蟲達も」という。
光のないのが闇である。しかしナウシカは、これを、すべてを生み出す「基体」のように考えている。この基体説で行くと、すべての生命は平等であるという考えが出てくる。「私達の神は/一枚の葉や/一匹の蟲にすら/宿っている」という。「神」とはこの基体のことであろう。森も王蟲も虫も粘菌も人間も、その基体から出たものだから一体なのだ。さらに、その基体の中では、清浄も汚濁も善も悪も平和も戦争も平安も苦悩も融け合うのである。だから、すべては基体から生れ、生命として輝き、そして基体に帰るのだと。対して主は、闇を虚無として捉え、そこからは何も生み出されないと考えている。それは否定されるべきものである。両者の考えは相容れない。
ナウシカは、生命を、この闇の中から出てきて一瞬輝いて、消えていくように考えている。そして、その輝きの中で、喜び悲しみを経験し、「生きるとは何か」を知ることが生命の価値だというのである。
けれども、生きるとは何かということを知るために、苦悩や悲劇や愚かさを引き受けていいのだろうか。イワン(『カラマーゾフの兄弟』アリョーシャの兄)ならそんな考えを認めるわけにはいかないだろう。イワンが苦悩の代表として端的に語る児童虐待は、今日でもなくなってはいない。その子供たちの苦悩や悲劇は「生きるとは何かを知ること」のために許されるというのか。冗談ではないというだろう。ナウシカはしかしそこまで考えているわけではない。多くの子供たちが、救済のないまま死んでいたのを見てきたのにもかかわらず。これが彼女の限界である。彼女は宗教者ではないのだ。自分たちを制御し亡ぼすものに対して、自分たちの世界を守ろうとして必死なのだ。彼女は彼女の世界で、青き衣のものとして、幻想の希望を導く伝説の人物となるのだろう。しかし、やはりその代償は大きい。イワンならそんな世界はお返しするというだろう。筆者もまた、「世界が美しいなどとは言わせない」といっておこう。
(完)(2001/5/25)