ナウシカ研究序説(6)
右浦耕大
[X]ナウシカの思想
(1)思想の変遷
ナウシカはもともと探究心、好奇心旺盛な女性である。なんにでも意味を求めたがる。彼女の出発点は「腐海」である。腐海のなぞに関係すると思われるものに出会うと、何を差し置いてもこれを優先させる(A−86)。それは腐海が人間の生殺与奪の力を持っているからである。それでは、なぜ腐海があり、成長し、王蟲などの虫たちがいるのか。腐海に追い立てられていく人間たちはその中でどうやって生きていけばいいのか。これらがナウシカの抱いている初期の疑問である。そしてその探求の中で、自分たち生きものが苦悩していることに意味はあるのかという、もうひとつの実存的な疑問が出てくる。
ナウシカは「世界の秘密を/知るために/永い旅をして/来た」(F−172)という。では、その答えをナウシカは見出せたのか。
ナウシカは何を考え何をしたのか。人の思想が良く現れるのは対話においてである。以下時間軸に従って、ナウシカの「対話編」を見ていくことにする。
@ユパとの対話から(@−82〜83)
ナウシカの研究室での対話である。彼女はここで、みんなが恐れている腐海の植物を育てている。しかし彼女の研究によると、「汚れているのは/土」であって、腐海の植物自体は悪くない。
ナウシカの基本姿勢は、なんでも自分で確かめてみるということである。それを元にして自分で考えるのである。
Aアスベルとの対話から(@−134)
腐海の低層部にて。ここで「腐海そのものが/この世界を/浄化するために/生れた」のではないかという推測に達する。これは「王蟲の言葉」に触発されてナウシカの中に突然「フッと」現れた考えである。このように思想は突然飛躍することがある。そのあと、人間も浄化の対象ではないかという疑問が生れた。この疑いを確かめなければならない。腐海に対する認識が深まった。
B上人との対話から(C−90〜92)
見捨てられた土鬼の古い神殿にて上人と遭遇する。
上人は言う。「旧き世界は滅び/永い浄化のとき/が来る」「滅びは必然」で「すべての苦しみは/世界が生まれ変わる/ための試練なの」だと。人間も浄化の対象であるというのが上人の認識である。ナウシカは納得できない。滅びが必然なら何のために生きているのか。世界が生まれ変わるなら、そのとき自分たちはどうなるのか。今生きて苦悩している生き物の命はなんなのか。その「苦しみや/悲しみは誰が/つぐなう」のかと。ここで苦悩を出してくるのは少し唐突な問いだと思われる。しかしこれ以降、この苦悩についての考察がナウシカのもうひとつの課題になっていく。それはさておき、ナウシカはここで人間の立場ではなく、生き物全般の立場に立っていることを表明している。生命の価値をその形態によって区別しないということだ。人間と動物や蟲と森などの命は同一線上にある。人間に第一の地位を与えてはいない。
上人の諦観にはナウシカの心が反発する。「わたしは/あきらめ/ない」と。
ここでの上人の言葉は最終場面での主の言葉と重なるのものである。この点に於いて上人も主も同じ認識を示している。そしてここでのナウシカの反発も、最終場面での主への反発と重なる。
Cチャルカとの対話(D−64〜65)
ナウシカの強気にもかかわらず、世界は上人たちが言うように滅びの道を進んでいるように見える。「私達は/滅びるよう/定められた/呪われた種族/なのでしょうか」と弱気にならざるを得ない。上人の言う「滅びが必然である」という考えに傾いている。それは、粘菌によって死に絶えた無数の村々を見てきたからである。絶望的になるのも無理はない。
D虚無との対話1から(D−67〜69)
ここはCのすぐ後の夢の中の場面である。ここで、まだナウシカには希望があることが示される。
虚無が言う。「私たち呪われた種族は/焼きつくされ/新しい世界が生れます」「滅びを畏れることはありません」と。これは上人の考えと同じである。しかしナウシカの胸が光を放ち虚無が退散する。ここではナウシカは言葉で対決したわけではない。滅びを受け入れられないことがナウシカの血肉の中にあるのだ。彼女の生命が滅びを否定しているのである。それが彼女の希望の「光」である。後に主との対決の場で彼女はこのことを言葉で表明することになる。
ちなみに虚無とはナウシカの心の影であろう。
E大海嘯の中で「独白」から(D−82〜88)
ナウシカはここで自分の探求の旅を終えようと思う。滅びを受け入れず、生きようとする意志があるのに、「もう/何もかも/手おくれだ」と諦めているようだ。ナウシカの弱気は苦しみばかり見てきたことからきている。あまりにも現実に深入りしすぎた。この苦しみでさえも肯定的に考えないと彼女の復活はない。それができるだろうか。
F虚無との対話2及び「独白」から(D−138〜153)
諦めの気持ちは深く、王蟲の犠牲的行為に倣って自らも犠牲になろうとする。自分だけいい子になろうとするのである。そこに虚無が現れる。
虚無は言う。王蟲は「人間が汚した/この星を/きれいにする」という「神聖な役目」を果たしている。粘菌もそうである。「永い浄化の時がはじまった」のだ。人間も亡び「苦しみから/開放される」と。この考えは上人と同じだ。でもナウシカにはどこか違和感がある。「お前は/とても/いやな/においが/する」と虚無に言う。ここでも彼女は言葉ではなく、肉体からの直感でこの考えを拒否する。何か違うのである。けれども、王蟲の犠牲は人間に原因があると思っているから、ナウシカは人間の側からの犠牲として自らを差し出す。
でもそれでは、今まで滅びを否定してきた彼女の「身体の意志」に反するのではないか。まだ腐海の謎は解かれてはいない。滅びが必然かどうかも不確かなままだ。ここで探求を止めるのはふさわしくない。しかしナウシカはもうこの世界から降りることを決めた。ところが、なぜか王蟲はナウシカの滅びを受け入れず、彼女の「身体の意志」を悟って保護下に置くのである。
Gセルムとの対話から(E−74〜94)
ここでナウシカは腐海の役目を知ることになる。予測していたことが確認されたのである。腐海の森が大地の毒を結晶化して崩れ、後に新しい土が生れているのを見る。彼女は、いったん捨てた世界に戻ることにする。
世界が蘇っていることは、ナウシカにとっては実はどうでも良いことである。新たな地球の自然回復と人間とは無関係で行きたいとナウシカは願った。自然は自然でやっていくだろう。腐海の役割にしても予測が確認されたに過ぎない。ここで重要なのは、彼女が自分達の汚れた世界に戻っていくことである。彼女の疑問;人間の滅びは必然であるのか、人間はどう生きていけばよいか、生き物の苦悩は何のためか、の答えがまだである。探求を続けなくてはならない。
一つ一つの生命と関わっていけば、それらが苦悩していることがわかる。ナウシカ自身安楽に生きてきたのではない。彼女の命の前には10人の兄弟姉妹の死がある。彼女とてもいつも背景に死の影があるのだ。自分たちの苦悩に意味があるのか。なぜ苦悩しているのか。何のための苦悩なのか。我々は苦悩して亡びるだけなのか。
Hヒドラとの対話から(F−118〜135)
ナウシカはここで、現在の人間の運命について確信する。ヒドラが言うように、人間は「腐海が/その役割を/終えた時は/共に亡びる」予定である。現在は「汚した世界に合うように」人間だけでなく「草や木や動物まで」「身体が素から変」えられているのだと。そこでナウシカは悟る。「生物を/作り変えた者達」が「同じ方法で/世界そのものも/再生しようと」意図していることを。だとすれば我々の世界は「目的のある/生態系」である。
ナウシカは言う。そういうものは「生命の本来に/そぐ」はないと。彼女は、一つ一つの生命が模索し苦悩して生きていることを実感してきたのである。それが「生命の本来」の姿であると思うのである。「どんなきっかけで/生れようと」生命に目的はない。生命とは生き続けることなのである。人為的であろうとなかろうと、いったん生れた生命は自律的に生きる道を探すのであると。
だから、そのことと、亡びの運命にあるかどうかは別問題である。目的ある生態系を認めるということは、今まで自分たちや王蟲などが命をかけてしてきたことを否定することにつながる。これまでの苦悩が予定されていたことになる。彼女は生命の価値を「精神の偉大さ」に置いている。そしてそれは「苦悩の深さによって/決まる」と。苦悩が精神的な深みをもたらす。王蟲にもこの苦悩がある。これら個々の苦悩の出現までもが計画されているはずがない。ここにきてナウシカは、苦悩に肯定的な意味を見つける。苦悩があることが主体的に生きている証拠である。主体的に生きている確信が、ある目的が予定されているのではないことの証明である。
生命の主体性を無視して、世界再生のプログラムが実行されているらしい。これはおかしいのではないか。だから「真実を見極める/ために」シュワに行かなければならない。
I主との対話から(F−195〜208)
主と対決する前にナウシカは内省している(F−172)。
「世界の再建を/計画した者達が」いても「生命はそれ自体の/力によって生きて/い」るから、計画どおりにことが進むわけがない。生命を操るということ自体「生命への最大の/侮蔑」である。「生命はそれ自体が/奇蹟なの」だ。生命の目的は「鳥達が渡っていくように」生き続けることにある。そして生きるとは、主体的に生きることである。つまり変化することだ。ところが、主体的に生きようとする我々に干渉しつづける者がいる。これが自分達の世界を混乱させている。そのことを確かめなくてはならない。
また、ナウシカは主と対決する前に、自分の取るべき道を決定していた。しかし相手の出方を見なくてはならない。処分保留の用意はある。よって「真実を語れ」と呼びかける。
「主」との対話では、ある種の神学論争が繰り広げられる。創造主と被造物との論争である。ナウシカは、ここでこれまでとは異なって、言葉で自分の主張をする。今までの内省の集大成であり態度決定の表明である。
最初、主は懐柔のために「力を貸して/おくれ」と下手に出て様子を見る。
対して、ナウシカは最初から対決する。おまえは「旧世界を緩慢に/亡ぼ」して「汚染した大地と/生物を/すべてとりかえる/計画」をしているのだろう。だが「私達の生命は/私達のものだ」生きつづけることで「変わっていく」ことができる。生命は生命のものだ。よって「私達はお前を/必要としない」と。
環境によって生物は変化する。干渉は要らぬといわれた主は、自分の計画を説明し説得しなければならない。そこで「真実を語」ることにする。
主は言う。「私達は/すべてを未来に/たくすことに/した」「多少の問題の/発生は/予測の内に/ある」この墓は「新しい世界への/希望なのだ」「清浄な世界が/回復した時/汚染に適応した/人間を元にもどす/技術もここに/記されてある」「交代はゆるやかに/行われ−(中略)−人類は穏やかな/種族として新たな/世界の一部となる/だろう」と。
創造者としては妥当な見解である。自然と人為的な自然とを有機的に結び付けて計画していたのであるから。しかしナウシカは聞く耳持たない。それでは自分達の主体性が霞む。「下僕になって/平安を/得たいとは/思いません」(F−118)とヒドラに答えたことが彼女の気持ちにある。彼女とて「絶望の時代に/理想と使命感/からお前が/つくられた」ことは認める。しかし清浄ならばいいのか、穏やかな人類の方が望ましいのか。それが理想なのか。そんなことで納得できるだろうか。ここで、自分たちが汚れそのものとしたらという「@−134」で見せた不安と恐れが、逆に強さとして自覚される。「清浄と汚濁こそ/生命だ」人間である限り「苦しみや悲劇や/おろかさは/清浄な世界でも/なくなりはしない」だから「生きるとは何/か知ること」ができるのだと。
かなりの強弁だと思われる。しかしナウシカとしては、この生き物の現実の苦悩や悲劇をどうしても肯定しなければならない。そうでもしないと自分達の苦悩に意味を見出せないのである。意味のない苦悩、そんなものはまさに虚無である。事実かどうかではなく、信仰に関わることなのである。
当然のことながら、この苦悩肯定説は主には受け入れられない。これでは何も変わらないからである。人間が今のままなら、いずれ清浄化された世界もまた汚染してしまうことになろう。同じ道の繰り返しだ。
主は「お前には/みだらな/闇のにおいが/する」という。ナウシカの主張は一見正論のように見えるが、ただ現状維持を目指しているだけだからだ。それでは「人類を亡びるに/まかせるという」ことになる。ナウシカは質問を矮小化して答える。「亡びは 私達の/くらしのすでに/一部になっている」と。しかし、主は切り返す。「種としての人間に/ついていっている」のだ。いまの「お前達に/未来はない」「人類は/わたしなし/には亡びる」と。
主の意図は、旧人類から新人類に移行させて人類の存続を確実にすることにあり、個々の生命に関わる気はないことが表明されている。しかしナウシカは人為的な存続など認めない。また自らも将来の展望など持っていないことを表明する。主がいようといまいと人間は行くべき道を行くはずである。種の存続は「この星が/きめること」だと責任を放棄するのだ。千年の昔も、こうして人類は世界を汚染し、成り行きに任せたのだろう。それを知っている主は「それは/虚無だ」と言わざるを得ない。ナウシカはさらに強弁する。それを虚無というなら「王蟲のいたわりと/友愛は/虚無の深淵から/生れた」と、噛み合わない反論をする。王蟲がそれほどえらいのか。王蟲の友愛は人類の悲惨な状況と相殺できるほどのものなのか。ここにきて主は、ナウシカが語るに価しない人物であると判断する。
主は「お前達は/希望の敵だ」と結論する。しかしナウシカにとっては主こそ不要なものである。よってオーマの力を借りて主を亡ぼす。
(2)思想の核心
ナウシカがもとめていたものは、腐海の意味、人間の未来、生命の苦悩の意味である。腐海の意味はナウシカが予測していた通り、世界の浄化であった。他の二つについては、ナウシカの思索の結果として出てきたものである。
それは以下のようになるだろう。
生命の本来の姿は生き続けることである。生命は目的的に生きているのではない。「どんなきっかけで/生れようと」いったん生れた生命は、その生れ方が人為的にだろうがなかろうが、自律的に生き続けようとするのである。生命はその生命のものであって、主体的に生きる権利がある。目的のある生命というのは生命とはいえない。よって、ある目的のために生命を操作することは生命に対する冒とくである。
生命は将来に向かって開かれているのだ。つまり変化していくのだ。その変化の方向は生命自体に委ねられている。自然がそのカギを握っている。また、生命は生き続けようとするが、その未来は不確実である。したがって、一つ一つの生命が模索し苦悩して生きていることになる。しかしだからこそ可能性もある。
人間の未来も不確かであるから、我々が主体的に作り上げていくことができる。そこには喜びや苦悩が付随する。これは生きることに対する代償である。否定的に考えてはならない。人間が存続するか亡びるかはこの星が決めることだ。誰か別の人間が計画して決めることではない。
生命は生きることによって苦悩を背負う。しかしそこから「精神の偉大さ」が出てくる。苦悩が深ければ深いほど精神的な深みがもたらされる。苦悩ゆえに「私達は世界の美しさと残酷さを知ることができる。」これが生命の価値である。逆にいうと、苦悩があることが主体的に生きているということである。我々はこの汚染された世界で、苦悩して生きている。だからいたわりや友愛が生れる。これらは苦悩に勝る価値あるものだ。苦悩しない生命など生きるに価しないのだ。生れた生命は必ず苦悩する。この苦悩を我々は引き受ける。そういう中で我々は変化し、精神の高みに上っていくのだ。
よって、ナウシカは自分達の生態系に干渉しつづけていた主を破壊したのである。
以上を更に要約すると、ナウシカのメッセイジが見えてくる。巷間言われるように、環境問題などの話ではないことがわかる。
我々の生命は我々のものだ。生命は自立している。何かの目的に向かってそれを達成していくように設定されているのではない。未来は約束されたものではない。不確定のものである。現在を主体的に生きることによって、苦悩が生ずるが、それと共に世界の美しさも知ることができる。これが我々の生の価値だ。だから苦しくても生きて行きましょう。
なんでもない結論ということが分かるだろう。世界は大きな犠牲を払ったが、ナウシカが出した結論は、当たり前のものであった。
(この章終り)(2001/5/25)