右浦耕大
[W]ナウシカの行動原理と物語にしめるナウシカの位置
物語の経糸と緯糸を見てきた我々は、ナウシカの行動原理を考察し、第一部と第二部との関連で、ナウシカがどのような立場にあるのかを明らかにしよう。
(1) ナウシカの行動原理
@第一部におけるナウシカ
第二章で考察したように、第一部は「虫の物語」である。そこでのナウシカは東奔西走するが、結局は虫の行動については何ら影響を与えることは出来ず、単に「傍観者」としているだけである。その行動原理としてあげれば、倫理的、受動的という言葉が当てはまるだろう。
傍観者とはいってもナウシカは消極的傍観者ではない。常に物事に積極的に関わろうとしている。そしてその行動は臨機応変である。あるいは言い方を変えれば、行き当たりばったりの行動をしているということも出来る。その行動に一貫性はない。直面する事態に直感的に行動しているのである。この行動者ナウシカを傍観者というのは当たらないと思われるかもしれない。しかし出来ることなら一歩引いたところに居たいという気持ちがナウシカにはあるのだ。それをクシャナは見抜いている。「手を汚すまい/とするお前の/いいなりになる/のは不愉快だ」(B−111)。このときナウシカはしかたなくサパタ城攻防戦に参戦して「手を汚す」のであるが、これ以後人間の世界からは手を引くことになる。そして虫の世界に関わろうとするのであるが、ここではどうしても傍観者でしかありえない自分を発見するだけであった。そして傍観者特有の感慨を独白する。「こんなに/世界は美しいのに」「こんなに/世界は/輝いて/いるのに・・・」(D−88)。
ナウシカはある種の倫理観で行動しているように見える。倫理という言葉は人間に対して用いるべき言葉であるが、ナウシカは虫に対して倫理的であろうとしている。ナウシカは人間に対しては薄情ですらある。こういうとすぐに反論があるだろう。しかし、たとえば風の谷から出陣するときに着せてもらった、ババたちの思いのこもった胴鎧をもうその翌日には脱捨ててしまう(@−135)。戦争を止めさせようとする大義名分はあるにしろ、客人として扱ってくれた僧正に対して手荒な行動をとる(A−32)ことなどからそれが知れる。そして彼女がはっきりと虫側に立っていることが示されるのが、戦争を止めさせようとして説得に向かう途中で出会った王蟲の子供を救出するシーンである。(A−20〜79に描かれたこの部分はアニメ版『風の谷のナウシカ』ではクライマックスシーンである。)ここでは人間の救出は二の次で他人任せである。土鬼の僧正は「いたわりと/友愛がわしの/胸をしめつける・・」(A−79)といって感動しているが、その「いたわりと友愛」は人間に向けられていたわけではない。ナウシカとともに従軍したミトは気づいている。「人間よりも王蟲の/運命にずっと/心をひかれておられる/ようだ・・・」(A−94)。この後ナウシカの行動は虫が第一義となる。王蟲に飲み込まれるまでのあいだ(D−155まで)、彼女はたびたび人道的な行いをするが、これらは行きがけの駄賃みたいなもので単なるエピソードに過ぎない。そして人間と運命を共にするのではなく、人間の醜さに見切りをつけて、虫と融合しようとするのである。
もう一つの行動原理は受動的ということである。自ら望んで混乱の中に身を置いたのではないからだ。族長の娘という立場がナウシカを波乱の人生に叩き込んだのである。そしてまた、虫という対象に引きずられているからでもある。人間界にいても虫界にいても、ナウシカの行動を促す事態は外からやってくる。彼女は自分がどこに向かっているか判らずに行動している。読者も先がどうなるのかがさっぱりわからない。第二章でもみたように、第一部で主体的に動いているのは「虫=粘菌」である。それは言い換えれば「自然」であるといってよい。自然が相手では受動的であらざるを得まい。さらにナウシカは「自然」を自分が従うべきものだと見ているのだから致し方ない。彼女はまだこの時点では自分たちが生きている「自然」を疑ってはいない。
A第二部におけるナウシカ
第一部が「虫の物語」なら第二部は「人間の物語」であるといえる。ここではナウシカは「決定者」として行動する。その行動原理はといえば政治的、能動的ということになる。
ナウシカの変貌には驚くべきものがある。もちろんこれにはわけがあるはずである。それについては次項でみることにして、ここでは行動原理を類型的にみてみよう。
第二部ではナウシカは決定者として行動している。そして今度は人間の側に身をおくのである。人間の争いを止めさせ、腐海の意味を解明するために。そのための目標は「シュワの墓所」である。
一部に於いてはナウシカの行動は世界に影響を与えなかったが、二部に於いては世界はナウシカの影響下にあるといってよい。彼女は事態を見通しているがごとき行動をしている。外界に影響されてはいない。「再生」後直ちに行動を開始する。チャルカの下に行き、チククの念話を使って強引に土鬼の民衆を諭して矛を収めさせる(E−137)。同時にためらうことなく、ミトに巨神兵の破壊を命じる。これには失敗するが、巨神兵を制御できることに気づいてこれを利用することにする(F−11)。シュワへいく途中であったトルメキア軍に対しても命令を下す(F−41)。ヒドラの園における対話は彼女の意思を補強する(F−135)。そしてシュワの墓所では「主」を滅ぼす決定を下すのである(F−202)。こうしてみると、第一部で見られた心やさしきナウシカは影をひそめているのである。
ナウシカの決定は社会に影響を与える。「虫使い」とナウシカの従者たちはお互いを認め合い(F−56)、土鬼とクシャナ率いるトルメキア軍は和解する(F−83)。ナウシカの意向を汲んだオーマの行動でトルメキアの王軍は壊滅し、世界を制御していた「主」は滅ぶ。そして人間界の争いが終結し、前途多難ではあるが平和がもたらされるのである。しかしこれらは結果としてそうなっただけで、ナウシカの真意はべつにある。彼女は自分の決定が「人間を亡ぼ」すかもしれないと思っている(F−141)。自分達の運命と「自然」の秘密を知っているからである。この秘密はセルムと分け合っている。ナウシカの決定は人間に対する背信行為であるといえる。ナウシカはうそをつくことをおぼえたのである。結果として平和が訪れた。世界の秩序は人間側に委ねられた。秘密はそのまま葬り去られる。ナウシカの考えは倫理的ではなく、きわめて政治的であるように思える。
このように第二部の行動を見てくると、能動的なナウシカが現れる。外界に積極的に働きかけ、自らの意思を実現させようとするからだ。それは相手が人間の世界であるからである。そして人間の秘密を知っている。加えて第一部ではただ従順に従うだけだった「自然」に対しても、選択的に対処しようとする。自然の秘密も知っているからである。ナウシカの強靭さは秘密を知ったものの強さなのでもある。
Bナウシカの転換点
第一部と第二部との間ではナウシカはほとんど別人である。この間の行動原理の変化はどこでもたらされたのか。その変質の理由はなんだろうか。そしてナウシカの知った秘密とは何か。ここで、今まで言及を避けてきた個所の検討をしなければならない。
一つは夢の解釈である。ここで「夢」といっているのは、一部と二部との場面の転換点で描かれているナウシカの仮死状態における「心の旅」のことである(E−64〜95)。ここでみた夢が彼女を再生させるのである。ナウシカは王蟲と共に死のうとした時点では、自分の生きる道を見失っていた。しかし、セルムの呼びかけに応じて旅をする中で自分を取り戻し、生きる道を見出すのである。ナウシカはこの旅で何を見出したのだろうか。
ナウシカは心の中の暗闇で目を覚ます。同じ闇に神聖皇弟もいる。足元の周りは骨ばかり。ナウシカは虚無に食われたと思っている。それは自分の生きる道がないからである。しばらくいくと森の入口に来る。そこに見知らぬ青年(セルム)がいて、森の秘密へ案内しようという。助言者としての男性原理の登場である。森に入ると闇は消える。このときナウシカは心の闇の象徴として神聖皇弟を同伴する。森の中の海を、以前助けた王蟲にのって進む。王蟲によって元気付けられる。ナウシカの心の森は現実の森に到達する。この時点でナウシカは心に於いては現実世界に戻ってきたのである。ここで王蟲と別れる。虫の世界との決別である。そして案内された森の果てるところで見たものは、腐海誕生以前に還ろうとしている自然の再生現場であった。セルムが見せたかった秘密とはこのことであった。今人間が暮らしている「自然」とは別の、本当の自然があるということである。ナウシカはここで心が満たされ、闇を払拭する。と同時に闇の象徴である神聖皇弟が消滅する。この自然をナウシカは守るに値するものだと感じる。そのためには人間の争いをやめさせなければならない。彼女は自分の世界に戻る決意をし、心を自分の体に戻すのである。
ナウシカの新たな目標が見つかった。自然をそっとしておくために、人間の活動を今の「自然」の範囲に限定させておくことである。これが彼女の第二部における行動原理の基礎である。これに従えば、人間の争いの元凶を取り除くことが最優先事項となる。よって彼女は、争いの元凶と目しているシュワの墓所へ向かうのである。墓所を閉じるために。しかしまだこの時点では、自分達の「自然」と本当の自然との関係を深くは考えてはいなかった。そこでもう一つのエピソードが語られる。それが庭園の物語である(F−95〜135)。
ヒドラの庭園で、セルムも気づいていなかった「自然」の秘密にナウシカは気づく。セルムにはナウシカに教えていないことが一つあった。腐海の尽きるところ、つまり、浄化された世界では人間は生きられないということである。セルムたち「森の人」の間ではそれが何故なのかわからず、「心でしかたどり/つけない土地」を「聖地」としてタブー視していたのである(F−128)。ナウシカは風の谷にいるときから、腐界は「汚染された星を浄化するために生まれて来た」(@−93)もので、人間たちは「汚れそのもの」(@−134)であるかもしれないと直感してはいた。しかしこの庭園主(ヒドラ)との対話の中で、汚染された世界を再生するために「有毒物質を/結晶化して/安定させる方法」として腐界を作り、それに耐えられるように「人間や他の生き物を/作り変えた者達/がいた」という推測にたどり着く(F−131)。もしこれが本当なら自分達の存在の基盤が揺るいでしまう。未来が決まってしまうからである。ナウシカは踏みとどまる。森も王蟲も人間も計画された存在ではなく、自律的心をもつ生命であると感じているからである。どちらが真実なのか。自らの拠って立つ存在の基盤を確かめるために、シュワの墓所へ行く必要が新たに生まれた。今度は「扉をとざしに/ではなく/こじあけてでも/真実を見極める/ために・・」(F−133)。
第二部におけるナウシカの行動は、このような動機によって起こされているのである。庭園を出たナウシカはもはや何も迷うことがないように突き進む。ナウシカは決意している。「自然」と自然との間の秘密を知ったからである。蘇りつつある本当の自然はそっとしておく。その代わり自分達の生きている「自然」は自分達の手に取り戻すのだと。その行動は人間を亡ぼすかもしれない。そうではあっても今生きている生命に価値を置こうということだ。ナウシカは虫使いたちに「いつか明るい世界が/両手を広げて/迎えてくれるでしょう」と嘘の物語をして、彼らを腐界の中にとどめようとする(F−170〜171)。彼らは腐界の中でしか生きられないからである。それはナウシカたちでも同じことなのである。いずれナウシカがしたことは彼らに知れ渡るだろう。というのは「主」と対決した場面に彼等の一人が立ち会っているからである。
(2) 物語に占めるナウシカの位置
ナウシカの行動は人類の運命に大きく関わっている。そんな権利が彼女にあるのだろうか。ここで、彼女が物語の中でどんな位置を占めているのかを考察してみなければならないだろう。
@権威と権力
ナウシカは何者だろう。これまでみてきたように、ナウシカは世界の運命に対して決定権を行使している。一介の少女に何故こんなことが出来るのか。その権威はどこからくるのか。またその権威を行使する権力はどこから来るのか。
虫使いは言う。「森の人よ/このお方は/人の姿をした/森です/両界の中央に/立たれておられ/ます」(E−35)と。「人の姿をした森」かどうかはひとまず置くとしても、「両界」というのは大いなるヒントである。これを手掛かりに考えてみよう。
第一の「両界」は「大地と人間」である。
ナウシカがこの両界に位置するということは物語の初期から表明されている。それは「青き衣の者」出現の予言である。土鬼の僧正はナウシカを「青き衣の者」であるとみなし(A−79)、さらにその者が「失われた大地との絆をむす」であろうと、神聖皇弟に向かいながら土鬼の民に語る(A−127)。彼はナウシカの名は明かさないがユパは気づく。ナウシカは自らの知らないところで、土鬼の最高指導者かつ宗教指導者から、予言的人物であるとして神話的権威を与えられたのである。そしてこのとき超常能力でナウシカと接触した土鬼の皇弟ミラルパもまた、彼女を「青き衣の者」とみなすのである(B−94〜95)。これが土鬼の僧正や皇弟だけの思い込みだけではないことが、チククとの遭遇の場面(C−87〜92)でもう一度語られる。古い僧院にいた上人たちはナウシカの出現に対して「永く待った/かいがあり/ましたね」という感慨を抱くのである。チククもまた彼女を神話の文脈の中で「使徒」であると認める。チククは後に自ら自分が土鬼の土王の末裔であることを明かす。彼は伝統を継ぐものである。そしてなおかつ「ナウシカに/従う」と声明する(E−138)。さらに土鬼の人々は「白い鳥の人よ/青き衣の者よ/わたし共を/青き清浄の地へ/伴いたまえ」(F−61)と読経する。「青き衣の者」のテーマは最後まで消えない。作者も読者もこれを気に入っているのだ。第二部の始まりでナウシカは王蟲の血に染まった衣を剥ぎ取られる。しかし最後には「主」の体液で染まった青い服を着てみんなの前に現れる。
権威というものは外部から付与されるものであるが、それが神話や伝統からから来る場合はその影響力は強いものとなる。人々がその伝統や神話的世界で生きている場合はなおさらである。ナウシカは知らずに神話上の人物の役割を演じていたのである。
第二に考察すべき「両界」は「中央と辺境」である。
ナウシカの出身地は辺境諸国のうちの「風の谷」。人口約500人の辺境の弱小国である。ナウシカはこの国の族長の子として生まれ、将来は族長になることになっている。ナウシカが行使できる権力は、本来せいぜいこの弱小国の範囲を出るものではなかった。(ほかに周辺に当たる民として虫使い、森の人らがある。)対する中央とはトルメキア王国や土鬼諸候国である。
強大な軍事国家トルメキア王国の権力の前では、ナウシカの持つ族長の権力など無に等しいが、トルメキアにはないガンシップという強力な戦闘機を駆使できることが、彼女の権力を補強していると考えてよいだろう。ちなみに他の辺境諸国にもガンシップがある。実は現在の辺境諸国は300年前の大海嘯で滅びたエフタル王国の末裔である(A−87)。よってエフタルはガンシップで武装していたと考えられる。ナウシカら周辺諸国の民が誇り高いのはこうした背景があるからだろう。トルメキアのクシャナとはナウシカは対等に渡り合うのである。一方、土鬼諸候国は神聖皇弟という超能力者が支配しているが、対するナウシカにも超能力がある。この能力については両者対等である。この二大大国の支配階級と対等ということなら、それではナウシカは「王」なのだろうか。
第二部でのナウシカは王者の風格を見せている。土鬼の民に向かって念話で語りかける場面(E−137)。オーマと共にシュワへ行く途中出会ったヴ王の王子たちに対する態度。「王の敷物を/おそれ気も/なく踏んで/来おる」(F−40)。シュワの墓所の中心に入っていくとき、墓守たちは「王でない者は/これ以上/進んでは/ならない」(F−186)と制止するが、結局彼らはナウシカの威風に圧倒されて案内することになる。そして「主」に前に来たとき、ヴ王の道化が「新しい王がきた」といい、ヴ王もまた彼女を只者ではないと認識する(F−191)。さらに「主」もまた選ぶべき新王の可能性のあるものとして彼女の問いに答える(F−194〜)。トルメキアの王権を継承したクシャナでさえも「私は王には/ならぬ/すでに新しい王を/持っている」(F−222)というのである。彼女はこれより先に、ナウシカに自らのマントを与えている(F−14)。これは自分の権力を譲渡した象徴としてみることが出来る。よってこの新しい王というのはナウシカのことであろう。ヴ王はナウシカの本質を見抜いて、「お前は/破壊と慈悲の/混沌だ」(F−212)という。これは「王」の特質とも言えるのではなかろうか。こうなると彼女は王として振舞っているし、周囲も王として遇しているということになるので、「王」であるといってよいだろう。(ただし虫使いたちは彼女を神と見なしている(E−35))。
しかしこの王は支配する王ではなく、人間界の要としての象徴的な王である。中央の人間と辺境の人間の両界に立って、ナウシカは「みんなを/つなぐ糸」になる(F−56)。そうなったがために彼女は故郷喪失者になってしまった。「風の谷のわたしが/王蟲の染めてくれた/土鬼の服を着て/トルメキアの船で/でかけるのよ」(A−94)。彼女はどこに帰属するべきなのであろうか。
権力は移譲されることもあるが本来内部に由来するものである。ナウシカは世界に出たとき自らの持つ権力を至極当然なものとして存分に使っている。そして中央と辺境の架け橋になっていく。周辺にいて取るに足らないと思われていたものが、世界を混ぜ返し、いつのまにか中央(「王」)に位置し、世界に秩序を回復するという「トリックスター」の概念で見れば、ナウシカはまさにトリックスターなのである。中央と辺境の両界にいられるのは、このトリックスターのもつ性質ゆえである。そしてトリックスターには故郷はない。ナウシカが混乱が収まった後直ちに風の谷に戻らなかったのはそのためである。
第三の「両界」は「虫と人間」である。
虫にもなれず人間にも加担できないのが第一部でのナウシカであるかもしれない。ここには通常の権威も権力もない。もっと大きなものがあるようだ。
セルムは言う。「今までも/王蟲と交感した/者はいた/しかし/王蟲の心の深淵/までのぞいた/者はいない」(E−37)と。ナウシカがみたものは、王蟲の心の深淵にある深く苦悩する偉大な精神であった。精神をもち苦悩しているのは人間だけではなかったのだ。王蟲の行動は「主」によって計画されたものである。しかし王蟲には心があった。そして王蟲の心と行動の間には乖離が生じていたのである。「憎しみに/かりたてられて/殺してから/王蟲は泣く」(@−83)のだ。なぜか。王蟲は自己矛盾に苦悩しているのである。王蟲は自分たちを「個ニシテ全/全ニシテ個」(@−127)と語り、ナウシカは「命は/同じです」(F−133)という。ならば人間も虫たちも同じ者同士で殺しあっていることになる。したくもないのになぜかそうせざるを得ない。その理由が王蟲にもわからないのである。
ナウシカが王蟲と共に森になろうとしたとき、王蟲がそれを拒否し、結果彼女は蘇るが、このとき実は王蟲から託されたものがあったに違いない。生命に対するいたわりと友愛を大切にせよ、つまり生命に対する尊厳を守れということではなかったか。とすれば虫と人間の両界にあって人間界での権威や権力を超えた形而上的、超倫理的立場にナウシカは立つことになる。
こうしてナウシカは人間界からは神話的権威や世俗的権力を持つものとして見なされ、虫界からは生命を守るものとして遇されていることが明らかになった。ナウシカはいわば生命側の頂点にいるのだ。こうした生命側から与えられた正統性をもって、彼女は世界に対して決定権を行使しているといえる。だから誰も彼女の決定には文句をいわないのである。
A破壊と創造
ナウシカの立場を別の観点から見てみよう。
物語はほんの2〜3週間の出来事であるが、その前後で旧世界の破壊とそれに続く秩序の回復がある。この関係は一部と二部に共通にみられるのである。そこでこれを破壊と統合というキーワードでみると以下のような図式が浮かんでくる。
表にしてみると、一部と二部との関係が良くわかるだろう。二部は一部のテーマの蒸し返しなのだ。
粘菌は大地を覆い尽くし破壊し「何もかも/喰い尽くして」(E−13)しまう。ナウシカもまたオーマを使ってはいるが、結果的に聖都シュワの大地を焼き尽くし「大掃除をして/元の姿に/もどし」てしまう(F−175)。このとき粘菌は王蟲を呑み込み、ナウシカはオーマを主の体液の中に沈め主とともに墓所に埋めてしまう。粘菌は新たな森を形成し、ナウシカは新世界を作り出すのである。それぞれ対応している。両者とも破壊と創造の決定者であるのだ。このように物語の構造からみると第二部のナウシカは第一部の粘菌の位置にあるといえる。
|
決定者 |
付随者 |
破壊されるもの 旧秩序 |
創造されるもの 新秩序 |
第一部 虫の物語 |
粘菌 |
王蟲 |
王蟲 国土 戦争 現在の生活 |
森 人民の和 |
第二部 人間の物語 |
ナウシカ |
オーマ 主 |
オーマ 主 シュワの都 軍隊 計画された未来 |
予測不能な未来 人民の和の強化 |
表の付随者について一言述べておく。一見大きな力を持つように見えて、実は決定者ではないのが、一部では王蟲、二部ではオーマや主である。これらは決定者によって、新たな世界の出現のための言わば生贄にされる。オーマが王蟲に比定されるのは、まずは前にも書いたことだが、ナウシカがオーマの最初の呼びかけを王蟲と錯覚することと、彼に王蟲と似た名前を付けたことにある。さらに、王蟲は粘菌に引き寄せられて粘菌を助けるために自らを犠牲にすると同じく、オーマもナウシカを母と慕いナウシカの願いを実現するために犠牲になるからである。ナウシカは王蟲の気高さに感動し、運命を共にしようとするが出来ず、オーマに関しては「誇り高くけがれのない心の勇敢な戦士」(F−216)であったと誉めながらも、オーマを利用したというやましさを感じつつ付き添って死のうとするが助け出される。また、主が王蟲に比定されるのは、両者の体液が同じものであったと言う理由である。つまり王蟲は外界にあって計画を遂行するもの、主は内界にあって計画を保存し修正するものという関係にあると思われるからだ。
最後に補足的な考察をしておこう。
ナウシカは女性である。女性性は制御されなければ混乱をもたらし、制御されればすべてを包み込むものとなる。粘菌の暴走は王蟲という制御者を得て沈静する。粘菌は女性性を持つと言える。ナウシカの場合は破壊力をオーマが行使するが、それを制御するのもまた彼女である。普通制御は女性性からは出てこないのであるが、ナウシカは自らの女性性を一部取り去っているのである。トルメキア戦役に出陣するときに、彼女は女性性の象徴である髪を切っている(@−79)。このとき彼女は男性性を取り入れたのだ。だから下着姿でチャルカの前に現れても平気なのである(E−125)。破壊のあとの新世界では新たな建設が始まるはずであるが、そこには男性原理が必要となる。それを担うのはセルムということになる。
次章ではナウシカの行動の背景にある思想に迫ってみることにしよう。
(2000/9/20)