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廃駅探訪

廃駅と言うと地方にあるものと思われるかも知れません。しかし、東京およびその近郊にも用を廃した駅がたくさんあります。そんな廃駅の今昔を語るページです。

なお、駅の次に記してある括弧内は現在の鉄道会社の名称です。

高輪駅(京浜急行電鉄)

京浜急行の東京側ターミナルは現在、品川駅です。しかし、かつては違っていました。第一京浜を挟んで向かいにあるWing高輪のあった場所に京浜急行のターミナルがありました。駅名も品川ではなく高輪でした。

ちなみに品川駅は品川区ではなく港区にあります。京浜急行に乗ると品川駅の南に「北品川」駅があるのはこのためです。

高輪駅がターミナルであった時期は短く、すぐに現在の位置に品川駅ができました。この位置のまま、改廃を重ねて都営浅草線との乗り入れ対応をして今日に至っています。さらに現在、2面4線化工事を進めています。

用を廃した高輪駅駅舎は長らく京浜急行の本社として使っていましたが、その後泉岳寺に本社を移転をし、跡地は商業ビルのWing高輪となりました。

泉岳寺時代の旧京浜急行本社の大会議室からは旧田町電車区を一望することができ、かつては鉄道模型の大パノラマを思わせる光景を堪能できました。ここはまさに再開発の只中です。その一環として高輪ゲートウェイ駅が2020年3月に開業しました。なお、京浜急行の本社も横浜へさらに移転しました。

旧本社なき今、高輪駅を彷彿させるものは見当たりません。

高輪駅とその周辺の写真についてはこちらをクリックして下さい。

平沼駅(京浜急行電鉄)

京浜急行横浜駅のすぐ先に、かつて鉄骨を無残にさらした廃駅がありました。これが平沼駅です。

戦況が悪化した1943年に休止、翌年に廃止となりました。戦況悪化で廃止となった駅は東京近郊にはたくさんあり、平沼駅の他にも寛永寺坂駅(京成本線)、万世橋駅(JR中央線)などが消えました。

1945529日の横浜空襲の悲劇を語る生き証人として長らく保存していましたが、ついに鉄骨の上屋は撤去となり、今はホームを見ることができるだけとなりました。相模鉄道平沼橋駅の横浜寄りプラットホーム先にある踏切から海側に歩けば地上から見ることができます。

平沼駅とその周辺の写真についてはこちらをクリックして下さい。

博物館動物園駅(京成電鉄)

現在は京成上野の次は日暮里ですが、1997年まではこの間に駅がありました。これが博物館動物園駅です。

ペンギンの「壁画」で有名な駅でした。都会にありながら末期には利用がほとんどない駅で、ホーム有効長が4両分と言う悪条件もあって、廃止となりました。蛇足ですが、この先に寛永寺坂駅もありましたが、こちらは1943年に閉鎖、戦後に廃止となっています。

博物館動物園駅の写真についてはこちらをクリックして下さい。

営業最終日に博物館動物園駅に行った時に収録した音をMP3にてエンコードしました。博物館動物園駅を通過する電車の音はこちらから、博物館動物園駅〜日暮里駅の車内走行音についてはこちらからダウンロードできます。(Windows機の場合は右クリックして保存です。)

寛永寺坂駅(京成電鉄)

博物館動物園駅と日暮里の間にあった駅です。現在はもうありませんが、21世紀に入っても長らく駅舎が残り、倉庫会社が利用していました。

なお、駅間距離は短いものの、現地へ行くのは日暮里駅からでは結構あります。

本山駅(JR鶴見線)

鶴見線で鶴見駅を出て程なくすると、ささやかな駅跡があります。これが本山駅です。崩れかけたホームとホームに通じる、人がやっとすれ違える程度の細い階段が今も残っています。

なお、この駅が廃止になったのは国鉄買収前のことです。当時は鶴見臨港鉄道でした。

万世橋駅(JR中央線)

現在、下りの中央線神田駅を出ると次の駅は御茶ノ水です。しかし、1943年まではこの中間に駅がありました。

この万世橋駅、2006年に閉館した交通博物館(戦前は鉄道博物館)の最寄り駅でもありました。交通博物館の基礎構造は万世橋駅と一体のもので、交通博物館内にはかつての万世橋駅の遺構が残っていました。

なお、戦時中の物資不足もあり、万世橋駅の備品は新子安駅開業の際に流用しました。

2013年、再開発でここは商業施設「mAAch Ecute」になり、役割は変わりましたが再び人の賑わいが戻りました。

並木橋駅(東京急行)

東急東横線は渋谷を出ると次の駅が代官山(以前は碑文谷と言う駅でした)になります。しかし、この両駅の間に並木橋駅がありました。駅跡はほとんどないのですが、渋谷から出る高架線を500mほど進むと、少し幅が広くなる場所があります。そこが並木橋駅です。そこから山手線方面を見ると、ホテルメッツ渋谷がそびえるJR渋谷駅新南口を望むことができます。

副都心線との相互乗り入れ開始で東横線も地下に潜り、高架線の取り壊しも終わり今は跡形もありません。

副都心線乗り入れ前の東横線並木橋駅とその周辺の写真についてはこちらをクリックして下さい。この光景も過去のものとなりました。

新奥沢駅(東京急行)

現在、目黒線、多摩川線、池上線は共に東急の線路です。このうち現在の目黒線と多摩川線は地下鉄南北線・三田線との相互乗り入れの前までは目蒲線と呼んでいました。この目蒲線、池上線とほぼ平行に走っています。これはかつて、目蒲線の運営会社(現在の東急)と池上線の運営会社(池上電鉄)が互いに競争をしていた名残なのです。五島慶太を擁する東急側に経営の分があるのは明らかで、池上線は東急側に敗れ結局、吸収合併の憂き目を見ました。その過程で消えた悲運の線路が池上線の支線、新奥沢線でした。

現在、新奥沢駅の跡は石碑が残るのみで周辺は住宅街です。新奥沢線は将来計画で国分寺まで延びる計画でしたから、もし実現していたら東京の交通網はまた一味違ったものとなったことでしょう。

新奥沢駅とその周辺の写真についてはこちらをクリックして下さい。

四谷新宿駅(京王電鉄)

かつてJRをまたいでいた甲州街道の橋は大正時代の橋(駅舎側、通称「大正橋」)と昭和時代の橋(通称「昭和橋」)の2つがありました。耐震性に問題のあるこれらの橋を架け替え・補強と、混雑解消のため約10年かけて橋を架け替えました。バスタ新宿とミライナタワーが開業し、南口の様相は一変しました。蛇足ですがJR新宿駅はまだ工事中で、北側の改札内通路を自由通路に転用すべく、私たちの目に見えないところで工事が続いています。

大正時代から終戦直前まで、かつての大正橋の上を京王線(の前身である京王電気軌道)が通っていました。ターミナルは現在の伊勢丹辺りにあり、「四谷新宿(後に京王新宿)」と名乗っていました。ここにはかつて京王の本社もあったのですが、現在は聖蹟桜ヶ丘に移っています。

現在地に移動したのは1945年です。(地下化は1963年です。もちろん、東京オリンピックの関係での地下化です。)これは戦災により変電所の機能が落ち、大正橋に至る坂を登れなくなったため、東急東横線のターミナル用地として用意していた現在地にターミナルを移設したのです。(当時京王を含め、南関東の私鉄4社は東急の傘下にありました。これを俗に「大東急」と言います。)

現在地に往時を偲ぶものはなく、また大正橋もなくなり面目を一新しました。

新町駅(京王電鉄)

新線新宿駅の都庁寄り出口から甲州街道を右に見ると、少し幅が広い場所があります。ここが新町駅の跡地です。長さは40mもないように見えますが、当時の車両は小型で、しかも2両編成でしたのでこれで十分でした。

北浦(国領)駅(京王電鉄)

現在の京王線は必ず甲州街道の南を走り、高尾山の麓までは決して甲州街道をまたぐことはありません。しかし、開業当時は違いました。調布から金子(現在のつつじヶ丘)に至る線路は甲州街道上やその北側にあったのです。現在よりも距離は短かったのですが、甲州街道の交通を妨げると言うことで昭和初期、現在位置に線路を移設しました。

北浦(国領)駅は甲州街道の北側にあり、現在の国領駅とは少し離れています。周囲は住宅街で、駅があったことを示す碑が立っているだけです。

なお、地上駅の国領駅も今はなく、地下化しています。

写真はこちらをどうぞ。

武蔵横山駅・御陵前駅(京王電鉄)

現在の京王高尾線は北野から分岐し、高尾で中央線に接続し麓の高尾山口まで行くハイキング路線です。現在、京王線は京王八王子に至る最後の区間を例外として中央線をまたぎませんが、そうでない時代がありました。

戦前、北野から分岐するのは御陵線でした。山田までは現在の高尾線と同じルートですが、そこから右へ曲がり、中央線を越えたところで高架駅の武蔵横山駅が、浅川を越えて現在の長房団地を過ぎた辺りに終点の御陵前駅がありました。

御陵線は終戦末期、不要不急路線となりそのまま廃止となりました。戦後、北野〜山田は高尾線として復活しましたが、その先はついに復活することはありませんでした。

駅跡はほとんどありませんが、高架線の橋台が今も残っています。

なお、最近になり御陵線の動画(と思われるもの)が見つかりました。中央線をまたぐ線路を御陵前に向かう1両の電車が映っています。

写真はこちらをどうぞ。

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