++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

           レオナド・ウッシ-の世界へのご案内
        ( Guidance for the World of Rheonaredo Usshii )

     【 e-mail: ushigoh@fan.hi-ho.ne.jp、 g-mail(スマホ携帯): ushigoh@gmail.com 】

             【 My Homepage の開設日; 2001年04月01日 】

    最新更新日時: 2021年11月22日(月)時刻15:00 (2021年通算更新回数=41回目)

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
   H.P.のサイズ = 116MB(122,139,015MB)  ディスク上のサイス ゙= 116MB(123,801,600MB)
   ファイル数 =
869、フォルダ数 = 3、 html 2020.05.18  78.4MB
  +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

   本ホ-ムペ-ジは、以下の内容となっています。


    《第1章》  フロントペ-ジ( Monthly Essay(今月の話題)、ほか )
    《第2章》 自己紹介
    《第3章》 私の趣味の世界
    《第4章》 これまでの所産 
    《第5章》 諸国漫遊記
    《第6章》 諸国外遊記
    《第7章》 科学講話 
    《第8章》 文芸のコ-ナ-

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

 《第1章》
                        フロントペ-ジ

   あなたは、2001年04月01日より、
   600人 + 25,907人 + 3,693人 + 606人 + 103人 + 27人 + 714人 +


     
人目 の訪問者です。

   ご訪問ありがとうございます。このホ-ムペ-ジを通して、何らかの知的な感動を感得
  して戴けたら、本ホ-ムペ-ジの作成者の喜びとする所であります。


    レオナルド・ダ・ヴィンチは、ルネッサンス期のまさに"ス-パ-スタ-"であり、
  能の天才
でありました。ダ・ヴィンチの生誕500年後に奇しくも生まれた平凡なる日本
  人の私
は、浅学非才をも省みず長い人生の旅路において、ダ・ヴィンチのようにあら
  ゆることに関心を持ちたいと思います。そして、時代をリ-ドする豊かな発想を醸成し、
  生涯に何らかの所産を残したい
、と常々思っているものであります。
    彼の天才には無論及ぶべくもありませんが、志だけは一歩でも近づきたいと思って
  います。ギリシャの先哲の言葉にある「人間に関することは、何ひとつ私に無縁はな
  い。」
という至言を想起しつつ、日々の生活の中で高い精神性を目指し、一歩一歩向
  上
してゆきたいと思います。そのささやかな所産を、このHomepageを通して皆様へ公
  表できますことを嬉しく思います。


    世の中も世界も人生も、それは流れ往くもの、諸行無常です。流れゆくもの、即ち、
  Rheo(流れ)ゆく、なれど、レオナルド・タ・゙ビンチより「能」が無い( レはルよりカタカナの「ノ」が
  足らない。私は、日本人usshiiとして、その目指す処は恒(ヒサシ、一定)です。
   だから、SNS Essayist としてのペンネ-ムを、レオナレド・ウッシ-(Rheonaredo Usshii)と
  私は自らを命名しました。


                  レオナレド・ウッシ-こと 牛込 恒( Ushigome Hisashi )

**************************************************************************

  = 今月の話題( Monthly Essay )の全編のタイトル =
                                   ≪○内の数字は月を表す≫
                                    自信作を赤字で標記

 【2021年】 ①新年最初の近況報告、②情報処理をめぐる近況報告、③飛鳥と大和三山
 登頂のバイク・ツ-リングの旅、④吉野散策と義経ジンギスカン説の紹介、山城ランキングNo.1美
 濃国・苗木城の散策、⑤忘れられていた北河内の私部(キサベ)城、飛鳥のバイク&徒歩で
 の散策

 【2020年】 ①皆様へのご案内、資格&検定取得を102個で終結して、ラジオ局「ゆ
 めのたね」への出演、成田山不動尊での節分豆撒き
、《 ③は原稿作成なし 》、④
 欠番、⑤司馬遼太郎「街道をゆく」(全43巻)の読破、⑥市民農園での大工仕事、
 コロナ禍の外出自粛中、京阪神三城巡り、⑦高校時代のコーラス部の思い出(全4話中第1
 話)、⑧高校時代のコーラス部の思い出(全4話中第2話)、➈高校時代のコーラス部の思い出
 (全4話中第3話)、高校時代のコーラス部の思い出(全4話中第4話、最終回)、奈良県(暗峠
 ・生駒商聖天・生駒山上・若草山)のバイク・ツ-リング、⑩大阪府・和歌山県・奈良県のバイク
 ・ツ-リング、奈良県のバイク・ツ-リング、⑪科学講話の[不定期]連載の予告、京阪奈地区の
 バイク・ツ-リング、播磨国南部の列車と徒歩の旅、⑫皆様からの誕生日のメッセ-ジへの御
 礼とお報せ、三つの原源氏を巡るバイク・ツ-リング。

 【2019年】 ⑫67歳の誕生日を迎えて、資格&検定数102個目の受検を終了して、念
 願の大塚国際美術館で陶板西洋名画を鑑賞して、新しい趣味としての市民農園、
 
⑪但馬の日帰りバス・ツァ-、⑩資格検定取得取得90個達成報告、一人娘の良縁祈願(第
 7弾)、備中国の吉備津神社の参拝、ツ-リズムEXPOジャパン2019の見学、⑨一人娘の良縁
 祈願(第6弾)、京都東山の地主神社の参拝、⑧一人娘の良縁祈願(第4弾)、祈願でなく実
 践の大学同窓会、京アニの慰霊献花、丹波丹後の日帰りバス・ツァ-、Panasonic㈱旧無線
 研究所の盛大なOB会、一人娘の良縁祈願(第5弾)、親の代理見合い参加、⑦岡山県の
 日帰りバス・ツァ-、一人娘の良縁祈願(第3弾)、丹波国出雲第神宮の参拝、⑥一人娘の
 良縁祈願(第2弾)と、近江国太郎坊宮の登拝、⑤最新建立の尼崎城の見学、中央電気
 俱楽部での卓球大会と懇親会、④今年は中国語教室の皆さんと吉野の花見、③おもろ
 い街大阪の「第1回道頓堀文化芸術サロン」、一人娘の良縁祈願と、出雲大社の昇殿参
 拝、②自宅周辺の古墳に魅せられて、①奈良若草山の山焼きとN嬢への哀悼

 【2018年】 ①新春に資格2個を取得、長兄の葬儀への帰省旅、②「中国江南8都市周遊
 7日間の旅行記」、③青春ノ-トの数々、④今年の大阪城での花見、伊勢神宮(内宮)の無
 料招待参拝、吉野・奥千本の西行紀行、⑤「ラヂオきしわだ」でのワクワク収録体験、京都・
 葵祭に思うこと、⑥大禹陵を訪ねて、京都・東山の散策(将軍塚・京大花山(カザン)天文
 台・漢字ミュ-ジアム・祇園界隈)
寝屋川市スポ-ツ・インストラクタ-資格取得、阿波踊り
 に思うこと
、社長と専務もご臨席される無線研OB会、⑨彦八まつりと落語に思う
 こと、⑩奈良の少し早い紅葉狩り、⑪Panasonic㈱創業100周年を祝う会、⑫邪馬
 台国に対する古天文学的考察
今年の資格検定取得数は10個

 【2017年】 ⑫近況報告を二題、⑪神戸大学・六甲祭の見学、⑩長崎への帰省旅12日間、
 ⑨大阪府への寄付植樹を6年後に見つめる( 文章は割愛 )、⑧ユニ-クな「ホンワカランチ」会の
 ご紹介、⑦会社の同期とポンポン山登山、三街道(東海道・甲州街道・中山道)バイク周遊8
 日間の旅、⑥会社の同期と二上山登山、
⑤中国西安&洛陽五日間の旅行記、④私が選
 ぶ日本の滝20選、③ご当地検定は3勝1敗1不戦敗、②再考・「邪馬臺国」、①関西生命
 線春節大晦日行事

 【2016年】 ⑫私の誕生日へのfacebookでのメッセ-ジへのお礼、⑪神野山フォレストパ-ク散
 策、米国大統領選開票Party、⑩難波の宮跡での中秋名月祭、囲碁のすすめ、⑨関西
 生命線の中秋節行事、詩吟を教える、⑧中国江南六都市周遊記、⑦癒しの花、カサブラ
 ンカ、⑥異業種交流会「しくたわ」、⑤天通会(大阪日中交流の会)の活動、④地元寝屋川
 の異業種交流会、③中国上海・復旦大学留学記(全30話、facebook版)、②韓国語講座
 の講義、①新年早々の思わぬ病気入院

 【2015年】 ⑪京大11月祭を訪れて、⑫韓国に関する考察と私の思い、⑩会津往還バイク
 ・ツ-リング9日間、⑨関西生命線中秋節、⑧ホンワカランチ会への参加、⑦中国の大連・金州・
 旅の旅4日間、⑥弾丸フェリ-で高千穂旅行、⑤葛城山登山、④北京旅行4日間、吉野・西
 行庵、③京都大学化学研究所での先輩教授の祝賀会、②建国記念日に飛鳥バイク&ウォ-
 キング、①新年賀詞交歓会

 【2014年】 ⑫台湾一周旅行五日間、⑪丹波・黒井城の登山とお城祭り、⑩紀伊半島西
 半分バイク・ツ-リング3日間、奈良県・曽爾高原の散策、⑨神戸、布引の滝の散策、⑧ベト
 ナム5つの世界遺産紀行6日間、⑦京都大学・化学研究所での懐かしい納涼Party、⑥奈
 良県黒塚古墳の散策、⑤中部地方のバイク・ツ-リング散策、④大阪トルコ日本協会主催の
 バ-ベキュ-、③関西の異業種交流会、てづくりアジア写真展への出展、②金山古墳の散策、
 
①トルコ&チュニジア13日間の旅行、新年のご挨拶

 【2013年】
自由都市堺の散策錦秋の京都に遊びかつ学ぶ、長崎への帰省 ⑩
 れのスペイン旅行
⑨丹後半島バイクツ-リングの旅 ⑧甲子園での高校野球観戦と大会歌、
 ⑦⑥⑤④③②中国上海・復旦大学留学記(全30話)米国東海岸四大都市を巡る建国
 の歴史旅

 【2012年】 ⑫定年退職の日 ⑪雲海の竹田城 ⑩欧州4ケ国(英・仏・スイス・独)の旅
 100回牛込Party(最終回)の開催
、能登半島一周バイク・ツ-リングの旅 ⑧鬼の霍乱始末記
  ⑦関西電力㈱大飯原発へのバイク・ツ-リング
⑥第1回目の欧州旅行:イタリア旅行記 ⑤金
 環日食の観察 ④東北津波災害の物理学的考察 ③芥川龍之介を語る ②セミナ-参加記
  ①マレ-半島の旅

 【2011年】 ⑫大阪府政モニタ-経験者協議会の30年の活動を終えて ⑪丹波篠山の散策
 ⑩出石の喧嘩だんじり ⑨伊賀越えのバイク・ツ-リング、⑧中部・北関東・南関東のバイク・ツ-
 リング ⑦アンコ-ル・ワットの遺跡群を訪ねて ⑥勝竜寺城の散策 ⑤近畿最高峰:八経ケ岳
 (1,915m)の登山(5月15日)、山陰地方のバイク・ツ-リング(歴史散策)5/2-5/7 ④前世の地:
 但馬の竹田古城を訪ねて、③紀伊半島一周&お伊勢参りのバイク・ツ-リング2泊3日 ②東
 京への思い、 ①中国東北部:旅順・大連・金州の三泊四日の旅

 【2010年】 ⑫室生寺に思う、 ⑪平城京遷都に思う ⑩大阪城天守閣に思う、⑨東尋坊
 にて思う、⑧琵琶湖一周のバイクの旅、⑦富山県のセミナ-に参加して ⑥神戸・三宮での月
 例の異業種交流会:サロンドソラ(Salon de SORA)、 ⑤平家の里へのバイク・ツァ-、 ④パナソ
 ニック㈱枚方社員研修所、③ル-ツへの憧れ:父祖の地薩摩、②飛鳥の奇祭「おんだ祭り」
 ①大和の国バイクツ-リング歴史散策、新年のご挨拶

 【2009年】邪馬台国のロマンを訪ねて、万葉の娘たち:今どきの奈良女子大生は、
 ⑩ハ-レ-・ダビットソンは過去の一時の夢であった、⑨ブラジル移民100年に思う ⑧ピ-スボ-ト
 世界一周の船旅の説明会に参加して、⑦阪大を巡る思い出東大を巡る感慨 ⑤人生
 は生まれながらに不平等である、されど・・・、 ④いつもの店のいつもの酒と歌 ③年間5
 資格の挑戦、 ②広島・原爆ド-ムにて、①大和国の三輪山への新春登拝、新年のご挨拶
 (大阪・住吉大社)

 【2008年】 ⑫琵琶湖一周\140の旅 ⑪琵琶湖・沖島(おきしま)にて ⑩やがて訪れるアルゼ
 ンチン、⑨京橋慕情 、⑧⑦国内最後の旅-琉球国への歴史散策、 ⑥長崎県人会に参加し
 て、⑤八丈の伝説 ④北海道の三大岬めぐり、③ベトナムを思う牛込城跡を見つけて、
 ①韓国語・中国語・英語・大阪弁を楽しみながら飲む店、新春のご挨拶

 【2007年】 京大・吉田寮の感慨 ⑪定年後は芸術家をめざして ⑩室生寺の秋 ⑨心の
 名曲への感慨と海釣り、⑧南海の名城:高知城、⑦JR福知山線脱線事故の現場にて、
  ⑥水力発電所の見学、 ⑤ある団体の総会にて、④草津・白根山への登頂、③天才レオ
 ナルド・ダ・ビンチ、②平将門伝説、 ①川湯温泉の沐浴

 【2006年】 ⑫釈迦岳登山と誕生日祝い、⑪「情報検索能力」試験を受験して、⑩日本百
 名山の連続登山(四阿山・浅間山)、⑨
近畿の屋根「大台ケ原」の散策、⑧北アルプスの名
 山「焼岳」の登山、⑦紀尾井坂事件の現場を訪れて、⑥九州の百名山・祖母山の登山、
  ⑤和泉国・犬鳴山の散策、④関西済連合会でのポ-ランド交流会、③鎧岳・兜岳の縦走
 登山、②道頓堀・極楽商店街でのショ-、①阿波座会


 【2005年】
熊野古道(小辺路ル-ト) 果無峠、Welcome Party for Dr. Greg. in Osa
 ka、
⑩大阪・天神橋商店街の散策、⑨南朝の歴史探訪の笠置山散策、⑧九州・長崎へ
 の帰省の旅、⑦家電量販店での販売応援、⑥行きつけ飲み屋の常連の皆さんとの一泊
 旅行、⑤鳥取砂丘の感慨、④大阪城公園での花見、③淀君の墓の墓参 ②吉野・竜門
 岳の雪中登山、①日本の正月行事、新春のご挨拶

 【2004年】 ⑫梅田の行きつけの店「ふじ」、⑪熊野大峰奥駆道の玉置山散策、⑩大阪
 府実業団の詩吟の大会、⑨海の熊野:新宮速玉大社の参詣、⑧白山登山、大峰山の
 信仰登山⑦熊野古道の伯母子岳の登山、⑥詩吟の大会の入賞、第80回牛込Party、
 ⑤能登半島一周バイク・ツ-リング、④越前国の散策、③結婚披露宴で詩吟を披露、②韓
 国岳の登山ツァ-、①松下幸之助創業者の生誕の地を訪れて

 【2003年】 ⑫高取城に遊ぶ ⑪北海道のセミナ-に参加して、⑩詩吟の大会での入賞、 ⑨
 沖縄の友人と飲む、⑧武蔵と小次郎の巌流島、⑦熊野古道の散策、⑥憧れの尾瀬の散
 策、⑤詩吟の大会での入賞、④詩吟の練習において、③異業種交流会としての「阿波座
 会」、②海外青年協力隊の帰国を祝って、①初詣の住吉大社

 【2002年】 ⑫50歳の宴の前に、⑪京橋での牛込Party、⑩某私立大学の行方、 ⑨NHK
 大阪の見学、⑧大正ロマンを伝える大阪の飛田遊郭、⑦京橋での送別会、⑥宮本正一寝
 屋川市議との懇談会、⑤バイクによる上越国境越え、④大阪京橋の海鮮屋台。

 【2021年05月】
           《 忘れられていた北河内の私部(キサベ)城 》 2021.05.04

 ■我が国には五万有余の城があったと聞く。現在は現存12天守を初め、世界遺産:姫路
 城の素晴らしい城郭の遺構があり、先人達の優れた築城技術を感得して、日本人として
 は実に嬉しく、心から誇りに思う。

   ただ、今回紹介する北河内(大阪府交野市)の私部城の遺構は皆無であり、案内板の
 みに歴史を偲ぶばかりである。廓は朽ち果て、堀は畑となり、本丸は宅地や平地・駐車場
   となって、往時の面影はほとんど無く、石垣さえも無い。以前、偶然にバイクで傍らを通
 り過ぎていた事を思い出し、本日、バイクで畑作業の帰りに訪れて、写真撮影をして、往時
 への想像を膨らました。

   この私部城の簡単な紹介は、交野市教育委員会の案内板の記載に譲るとして、日本
 全国の城址をあまた探勝している城郭愛好家の私としては、その城址の空虚さにやはり
 残念さを禁じ得ないのである。
  すべては、「諸行無常、是生滅法、・・・ 」かと無常観を感じ、諦観しているが、これも時
 代の流れかと理解している。

  往時の武士(モノノフ)達が、織田方に味方すべきか否かをどのように議論し、その後、こ
 の交野の地の主郭で月見の宴の酒杯を幾杯重ねたか、私にはただただ想像するのみで
 ある。 日本の城の殆んどは、このような空しい城址なのである。

 

 【飛鳥のバイク&徒歩ので散策】 ( 2021.05.26(水) )

   梅雨の合間の晴天に飛鳥へバイクで出かけた。自宅から国道163号を東走し、木津よ
 り国道169号を一路南下すれば、「日本人の心の故郷:飛鳥」は僅か2時間の至近である。
 もう、散策は遥かに五十回は越えているだろう。それ程迄に、飛鳥は私を魅了する「不
 思議な心の故郷(*1)」である。

   今回はいつもと違って、近鉄「飛鳥駅」にバイクを留めて、徒歩で甘樫の丘までを往還
 し、その間の古墳や奇石などを巡る遊歩を試みた。昼食はいつもながらの甘樫の丘で
 ある。
   天武・持統天皇陵は素朴な円墳で、記紀の編纂を命じた天武天皇(*2)にしては質素
 であった。鬼の俎板は古墳の底板で、霧に隠れて人を襲って食した俎板の伝承に基づ
 き、下側に数十メートル転落した天蓋は、まさに雪隠(トイレ)の形状である。亀石は所領の
 境界石であろうが、現在西南方向を向いているが、西を向くと大和盆地は泥沼になると
 の伝承がある(*3)。飛鳥寺の傍らの「蘇我入鹿」の首塚は、西暦645年の「乙巳(イッシ)
 の変(後に、大化改新)」まで権勢を誇った無念の蘇我一族(*4)の館群があった甘樫の
 丘を背景に、ひっそりと佇む。そして、特別史蹟キトラ古墳(*5)は偶然にも無料公開日で
 あって、ゆっくりと国宝の古墳壁画を予約無しに見学できた。
   昼食時、同じ石椅子に偶然に座った桜井市の青年と、写真撮影の後、歴史懇談をし
 た。私が古代史の講義をしていると、大学の先生ですかと問われたが、そうではないと
 答え、私は「現代大阪と古代飛鳥を往還する小説」を執筆中だと明かし、その為の現地
 取材でもあると述べたのだ。

   飛鳥(現在は、明日香村)は、地政学的に最初の王都としては最適の地で、やがて人
 口増加により、又は地元の旧勢力との確執を逃れるべく、都は畿内を北上した。幾度か
 遷都し、遂に四神相応の地(*6)の平安京に落着し、約千年余の停留の後、東遷して今
 日の東京に至った。現在でも新たな地への遷都の計画はあるが、議論は進展していな
 い。 尚、飛鳥時代以前の古墳時代では、畿内の纏向遺跡はその全国的な土器の集積
 や巨大な「箸墓古墳」の存在等の点からも、日本の首都か副都だった可能性は大と思
 われる。
   
   数多の回数、飛鳥を訪れ、飛鳥に恋して逍遥すれば、心はいつしか古代人と一体化
 する気がする。そして、万葉心を得て、一首が浮かんで来た。飛鳥を恋する歌である。

   ♪ 飛ぶ鳥を 追うて広野を 巡り来て 路傍の石に 偲ぶ古(イニシエ)  - 恒

  (*1)我が国の都の始まりは飛鳥である。日本人としてのそのDNAが脈々と、
    我らの心体に継承されている。

  (*2)天武天皇(大海皇子、第40代天皇)は、壬申の乱に勝利し、専制君主と
    して数々の治績(氏姓制度の再編・飛鳥浄御原令の制定、藤原京の造営・
    古事記と日本書記の編纂)を上げ、天皇を称号し、国号を日本とした。

  (*3)この伝承の真意は不明だが、興味ある伝承であり、根拠となる史実や
    文献の有無に特に関心が持たれる。

  (*4)蘇我氏四代(稲目・馬子・蝦夷・入鹿)は、我が国の皇国史観では不当に
    低評価(逆臣のレッテル)されていると私は思う。大陸文化や仏教の導入は、
    もっと評価されても良い。歴史は勝者の歴史となり、敗者は逆賊の汚
    名を着せられるその典型的な事例であろう。

  (*5)キトラ古墳は石室内に四神(青龍・朱雀・白虎・玄武)の図像が総て揃う古墳
    壁画がある国内唯一の古墳である。

  (*6)余りにも有名な「四神相応の思想」である。即ち、王都選定の条件の
    地とは、東に河川、南に湖沼、西に平地、北に山地であり、東西南北
    の四神が護持する。

 写真1は、甘樫の丘にて。背景は、畝傍山と二上山。
 写真2は、天武・持統天皇陵。
 写真3は、鬼の俎板(古墳の底板)。
 写真4は、鬼の雪隠(トイレ、古墳の天蓋板)。
 写真5は、亀石。
 写真6は、蘇我入鹿の首塚。
 写真7は、キトラ古墳。

 

 【2021年04月】
            吉野散策と義経ジンギスカン説の紹介( 2021.04.10(土) )

  ■今年も遅咲きの桜を求めて吉野を逍遥した。上千本は残り桜だったが、天気は快晴
 で人影も少ない花見だった。徒然草は、桜は満開ばかりが良いのではない(*1)と言う。
 私は吉野・奥千本の「義経隠れ塔」でしばし、回想に耽った。

  もう、四十余年前の事だが、或る休日の朝に電話があり、「もしもし、吉野に行きませ
 ん。」と女子社員の弾んだ声。下千本からこの「隠れ塔」迄、一緒に歩いて上ったのだ。
 又ある日、京都の友達と当時は中に入れた真っ暗なこの塔内の「胎内巡り」を一緒に修
 行した。漆黒の死後体験で、彼女はとても怖がり、私にしがみ付いてずっと怯えていた。

   この「義経の隠れ塔」は、兄頼朝の命を受けて捕縛に来た蔵王堂の僧兵達から逃れ
 る為に、この塔を蹴り破って脱出して難を逃れた故事から、「蹴抜け塔」とも言われる。

   源義経には、「衣川では死なず、大陸に渡って元朝始祖のジンギスカンになった」との説
 もある。この説を中国人に言ったら「不会吧(まさか!)」と一笑された。私はこの機会に、
 「成吉思汗(ジンギスカン)の秘密」高木彬光著(光文社)(*2)を再読したので、茲にその要点
 を皆様に紹介したい。

   源義経とジンギスカンは、歴史上に実在した超有名人であり、生年は僅か3年差である
 (*3)。そして、両者には傍証となる共通点の数々が上記小説には提示されていて、若干
 は少しコジツケかとも思われるが、「さもありなむ!(納得)」と首肯できる説明もあり、読み進
 むにつれ、ワクワク・ドキドキの興奮の連続である。究極の証拠は、次の記述(要約)なのだ。
   清朝の歴史書「図書輯勘録(30巻)」に乾隆帝(*4)が自筆した序文の一部があり、『朕
 の姓は源、義経の裔なり。その先は清和に出ず。故に国を清(*5)と号す。』(同小説P183)
 との驚くべき一句がある。
  本小説の主人公神津恭介のこの文書の指摘に対して、論敵の井村助教授(東大)はこ
 う答えた。「あの記録は、この研究をつづけて行く人間なら、誰でも一度は必ずおちこむ
 罠なのだよ。」と。・・・ 以下割愛、ご興味がある諸氏は、本小説を購入により、続きを読
 まれたし。(Netで880円)
  
  一般に「歴史は勝者の歴史であり、歴史書もまた勝者に都合の良い内容に改変され
 る」。しかし、この記述はそうではなく、むしろ清々しい程に逆である。今回、再読して、私
 はまた歴史小説の醍醐味(*6)を思い知ったのである。
  
  (*1) 徒然草(第137段)「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。・・・・ 」

  (*2) 長編推理小説「成吉思汗の秘密」は、1958年(S33年)5月-9月迄に、推理
     小説専門誌「宝石」に連載され、同年10月に単行本化された。全213+23ページ。

  (*3) ジンギスカン(1162-1227年)、源義経1159-1189年)。但し、義経の没年は平泉
    (岩手県)・衣川で討死したとされる没年であり、真偽は不明。

  (*4) 中国・清朝第六代皇帝。康熙帝・雍正帝・乾隆帝と続く清朝最盛期を現出せし
    めた中国史上最高の名君とされる。

  (*5) 一般に、清の国号は打倒すべき前漢民族王朝の明に対して、明の「火」を清
    の「水」で滅ぼさんとする事に由来するとの説が、広く言われている。

  (*6) 作家の高木彬光氏には、「邪馬台国の秘密」と言う推理小説もある。

 写真1は、吉野・奥千本の「義経かくれ塔」。(本写真のみ掲載)
 写真2は、短歌は「吉野なる深山の奥のかくれ塔 本来空のすみかなりけり」。
 写真3は、金峯(キンプ)神社。古来よりこの地は金が産出すると信じられている。
 写真4は、吉野の散策地図(下千本→中千本→上千本→奥千本)の案内地図。
 写真5は、長編推理小説「成吉思汗の秘密」高木彬光著(光文社)。

 

 【山城ランキングNo.1美濃国・苗木城の散策】 ( 2021.04.03(土) ) FB投稿日2021.04.06

 ■念願の日本山城ランキングNo.1の苗木城を散策した。信濃路のバイク・ツーリング時にしば
 しば旅程時間の都合がつかず、今回まで散策はお預けであった。最近、Net上でもこの
 山城の紹介が頻繁となり、超城好きの私は散策を決断した。

   JR寝屋川公園始発(5:41)、鶴橋から近鉄急行で名古屋、JR名古屋から快速77分で
 中津川駅。駅から15分で苗木バス停。徒歩25分で苗木城三の丸に12:44着。所要時間
 は約7時間、片道交通費4,460円は高いか安いかは不明。

   苗木城跡は中津川市内・木曽川右岸の城山(432m)に比高170mの急峻な巨岩に築
 造された山城。別称は「霞ケ城」「赤壁城(*1)」。築城時期は1,526年頃とされる。一万五
 千石の譜代大名格の城主は遠山氏。苗木領の人口(1822年)は22,244人、70-300石の
 エリートは27人(0.12%)で、江戸初期から明治維新迄に改易もなく12代を継承した。幕末に
 二度も若年寄(*2)の要職に被任され、財政難に喘ぎ、藩札を乱発。維新後は徹底した
 廃仏毀釈を実施した。苗木藩士族は帰農していたが、2度目の士卒族の身分回復運動
 後、明治13年にようやく復籍が叶い、秩禄公債(*3)を得た。

   苗木バス停から城下町を過ぎ坂道を上りながら、初めての城は冒険心でワクワクする。
 そして突然、眼前に天守台跡。これは一見オモチャの城のようで、遊園地に来た感であっ
 た。ただ山城の各構成施設はよく完備され、石垣の巧みさ、巨岩を利用した建物の構築
 方法(懸造*4)は独特である。山桜や「やぶ椿」が歓迎。天守台跡からの素晴らしい眺望
 は、眼下に木曽川の清流と恵那峡を控え、中津川市街と背後の堂々たる百名山恵那山
 (*5)の山容は実に木曽路の旅情である。

   現在、平坦な三の丸には来城者達が花見で弁当を広げ、誠に「家族連れのPicnic」
 には最適である。ドロ-ン(*6)を飛ばす若者と会話の後、私は天守台柱建物に立ち美景と
 春の薫風を満腔に入れ、建物を降りて遅いコンビニ昼食とした。

   苗木城の事を学ぶと、厳しい攻城戦の歴史は無いが、幕末動乱期の譜代大名格小
 藩の挙動と決断に同情する。山城自体は現在、市民に静逸で長閑な行楽の地を提供し
 ている。
   ただ、士農工商の何れであれ、人々が時代と共に確かに生きて暮らしていた証拠が
 石垣や遺構や資料館の展示品等に偲ばれる。私は学芸員と懇談の後、念願が叶った
 満足心で帰阪の途に付いた。帰宅は22:58。東美濃の小さな苗木城址だが、私を更に
 お城好きにさせた事は確かである。

  (*1) 「赤壁城」の由来は面白いので、各自要Web検索を。

  (*2) 旗本や御家人の支配、将軍家の家政を担当。老中に次ぐ重職。

  (*3) 家禄・賞典禄を自主的に奉還した者に対して起業資金を与える目的
     で起債された公債。

  (*4) 「カケヅクリ」とは、長い柱や貫で床下を固定してその上に建物を建てる
     建築方式。京都の清水寺の舞台。

  (*5) 木曽山脈の最南端に在り標高2,191m。日本百名山。

  (*6) ドロ-ンは一式20万円程度。操縦免許は不要とか。

  写真1は、苗木城の天守台跡と筆者。(本写真のみ掲載)
  写真2は、天守台跡の懸造の建造物(遠景)。
  写真3は、天守台跡の建造物の拡大写真。
  写真4は、天守台跡の建造物(近景)。
  写真5は、眼下の木曽川の清流と中津川市街。
  写真6は、大矢倉跡。
  写真7は、菱櫓門跡。
  写真8は、かっての苗木城の雄姿(想像図)。
  写真9は、かっての苗木城の立体模型(想像模型)。

 

 【2021年03月】
           【飛鳥と大和三山登頂のバイク・ツ-リングの旅】 ( 2021.03.15(月) )

 ■私の中では春は毎年飛鳥からである。今年は初小説の取材旅行を兼ねて、バイクで
 3/15早朝7時に自宅を出発した。陽が高く昇る前の時速40kmの寒い体感温度に震え
 ながら、一路飛鳥を目指す。飛鳥は数えきれない程に散策しているが今回は特別で、
 飛鳥と現代を往還する小説の構想固めの為の現地取材が目的であり、時間があれば
 大和三山を登頂しようと企図した。

  水落遺跡の夢の楽市にバイクを停め、暖かくなった日差しの下、飛鳥路を歩む。飛鳥
 坐神社、藤原鎌足誕生地、酒船石と巡り、犬養万葉記念館を見学し、石舞台古墳に至
 る。しばし休息後、大好きな甘樫の丘展望台で妻のサンドウィッチを頂く。大和三山(*1)の
 美しい遠望が良い副食となる。

  下山してバイクで天の香久山の国見の石碑(*2)に至り、山頂を目指す。簡単に登れる。
 次に、耳成山迄バイクで走り、円錐形の山を巻くようにして短時間で登頂する。明治天皇
 の大演習御統監の石碑が在る。そして、最後にバイクで橿原神宮に至り、神宮裏手の登
 山道から半時間で山頂に登る。これら大和三山は大和の象徴であり、古来より歌に詠
 まれ、特に中大兄皇子の三角関係の歌(*3)は極めて有名だ。

  飛鳥は「日本人の心の故郷」である事に異論の余地は無い。歴史的に我が国の古王
 都であり、菜の花が咲く飛鳥路を歩めば、日本人なら誰しもが父祖の地に郷愁を抱くこ
 とは必定であろう。だからこそ、私の小説第一作はこの飛鳥を一方の舞台とし、他方を
 現代の大阪としたいのである。その両者を繋ぐものと小説の題名は、現在は未公開とし
 て、作品完成後の皆様のお愉しみとしておきたい。

  今回、約三十年振りに大和三山を一括登頂した。この三山は山容が異なり、優美さも
 三様である。各人は好きな山を必ず直観で即断できよう。私は「畝傍山」である。三山中
 最高であり、山容は流麗優美な女山で、麓には樫原神宮を鎮座ましませ、如何にも後の
 日本の王都の山に相応しい。

  私は何故かこの飛鳥に憧れる。心が落ち着くのである。遠い過去の人生では飛鳥の大
 宮人だったかも、と思い「雷丘(イカズチノオカ)(*4)」に立ってそっと瞼を閉じると、大和三山
 と甘樫の丘が菱形の宝石のように思えて来る。さあ、帰阪して小説の構想を纏めよう。
 陽は西に傾き、歩き疲れた下着の汗は西走するバイクで更に冷え、私は家路を急いだ。

  (*1) 大和三山(天の香久山152.4m、耳成山139.7m、畝傍山199.2m)は、大和
    平野は海抜70mなので比高はいずれもそれほど高くない。天の香久山は、
    多武峰から続く竜門山地の端にあたる。耳成山と畝傍山は、瀬戸内海火山
    帯の山で、浸食や盆地の陥没や堆積を受けた単独峰の死火山である。
     香久山はなだらかな形の男山、耳成山は円錐形の男山、畝傍山は美しい
    山容の優美な女山である。三山山様の個性がある。

  (*2)「天皇 香久山に登り望国された時の御製歌」。以下、原文の万葉仮名を読
    み下し文にして掲載。

      ♪ 大和には群山あれどとりよろふ天の香久山、登り立ち国見をすれば
      国原は、煙立ち立つ海原は、かまめ立ち立つ、うまし国ぞ、蜻蛉島
      (アキズシマ)大和の国は      舒明天皇(万葉集巻一の二)
 
  (*3) ♪ 香久山は 畝傍ををしと 耳梨と 相あらそひき神代(カミヨ)より かくに
       あるらし古昔(イニシエ)も 然(シカ)にこそあれ うつせみも 嬬(ツマ)を
       あらそふらししき       中大兄皇子( 万葉集・巻一 十三)

  (*4) ♪ 大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に いほりせるかも 
                       柿本人麻呂(万葉集0235)

 写真1は、酒船石前の私
 写真2は、酒船石の全景(この写真のみ掲載)
 写真3は、水落遺跡より見る甘樫の丘の遠望
 写真4は、甘樫の丘から見る天の香久山と耳成山の遠望
 写真5は、甘樫の丘から見る畝傍山の遠望
 写真6は、天の香久山山麓の舒明天皇国見の碑
 写真7は、耳成山山頂の明治天皇大演習御統監の碑
 写真8は、畝傍山山頂の案内板

 

 【2021年02月】 
            【情報処理をめぐる近況報告】 ( 2021.02.23(火) )

 ■現代社会は情報の氾濫であり、現代人はその処理に喘いでいる。情報リテラシ-(*1)が
 無き人は論外で、情報を如何に入力・処理(創造的活用)・出力するかが実に肝要である。

   まず、私自身の情報入出力状況を、具体的に紹介する。入力の有料媒体は、NHK・
 CATV(J・COM)・Amazon-Prime、NHK on Demand・10mtv・文藝春秋(*2)で、無料は
 facebook・LINE・youtube・twitter・青空文庫等で、特に「facebook」と「youtube」は最
 大限に活用中である。出力は、速報版をfacebook、そのアーカイブ版をHomepage に掲載
 し、市民農園はtwitter専用(*3)である。
   
   情報の処理とは、入力された玉石混交の膨大な情報を、如何に咀嚼し価値ある内容
 に創造し出力するか、の全過程の中心部で、この創造的価値化(*4)こそが最重要である。

   最近、facebook上でのグル-プ(同好会)に続けて入会し、益々この創造的価値化の為
 の作業が忙しく楽しくなった。
   参加済の「****」グル-プを列記すると、「資格検定をとろう」「城好き、歴史好き」「海外
 旅行好き」「中国の今を読む」「大人の旅行記」「日本中を旅したい・・」「昭和ノスタルジア」・・
 「日本アマチュア物理学協会(*5)」「日本アマチュア数学協会」等で、最後の2つの協会のレベル
 は極めて高い。私は両協会に既に投稿し、応答者との議論を楽しんでいる。

   電子媒体は、今や極めて優れた機能性を持つ。誰もが発信者になれ、Publishing技
 術は簡便で超有用であり、夢のような現代の情報化社会である。ただ、負の側面もあり、
 狡猾なNet詐欺の手口も日進月歩している。その策には、自らのICT-skillの向上と、詐
 欺への感性を高めるしかない。
   他方、紙媒体は永久保存版として、やはり捨てがたい。今年この2ケ月間で、写真付き
 A4用紙で「諸国漫遊記」(94枚),「諸国外遊記」(280枚)をPCメモリ-に上梓して安堵した。
   今、そのファイルを眺め、今後も営々と書き残したいと思う。

   情報処理後の出力には、音楽・美術・演劇等もあるが、在宅で簡便な手段はやはり文
 章を書く事であり、私の場合には更に理数系の問題を解く事でもある。文章を構成し、推
 敲し、自ら校正する事。問題を作問し、解法を思考し、結果を自ら検算する事。これらは
 頭脳の活性化には最良の妙薬である。老いてボケる暇など無い。益々豊かな情報と知識
 と経験の壮大なる体系に立って、更に新しい知見を発見し続けたい。

  (*1) 情報に関する基本的な読み書きの能力。PCやスマホが使えない人は超論外で、
    21Cでは絶滅危惧種となる。

  (*2) 月刊「文藝春秋」は紙媒体で、繰り返し精読する座右の書として、毎月書店で
    購入している。1冊千円。

  (*3)「市民農園通信連載」は、2020年1月より随時掲載で、「 @ushigoh 」で簡単に
    閲覧できる。

  (*4)人間は知的な生物であり、情報や知識を得て新たな知見や知識体系を創出す
    ることが、人間の責務である。もし、その努力を怠れば、やがては、この地球上
    では、「ゴキブリが跋扈する世界」になっているであろう。

  (*5) 当会に、私の長年の自作問題「四面体(三角錐)の体積を6辺の長さで求める
    公式」について、この問題と結果の公式を掲載したら、本日まで29人の「いいね」
    が寄せられた。

    写真は、「諸国外遊記」の目次一覧である。

 

 【2021年01月】
            【新年最初の近況報告】 ( 2021.01.22(金) )

 ■一昨日は新年最初の外出として梅田へ所用で出かけた。外出自粛の為に、所用は纏
 めて、一日で済まそうとした。郵便局で当選切手の交換後、梅田大丸でファイル2冊・リファイル
 400枚・Cannonプリンタ-インクセット・LANケーブルと妻の好きな御座候の購入である。従って、
 次回の購買の為の外出は、今後1ケ月間は無いであろう。

   平日の昼間の梅田は閑散として、全員がマスクを付けている。大阪府下では連日の新
 規感染者は五百人程度である。どうしてこんなに感染するのか不思議な気もするが、敵
 は超微細な Silent Killerで肉眼には見えず、想像力を駆使して三密を防ぎ、自己防疫
 をするしかない。

   ほんの一年前は平穏な世界だったと、嘆いても仕方がない。十分に注意して、「有要
 不急」の外出をする。「晴書雨書」の毎日で、在宅での文書の著述は進展する。「諸国漫
 遊記(*1)」を完成し、現在は「諸国外遊記(*2)」を鋭意執筆中である。その後は、短編小
 説に初挑戦の予定である。

  今月19日で32歳となった娘の誕生祝い会を催す。我が家の恒例行事である。今年は、
 土台のスポンジケ-キ以外は総て父親の私のアレンジである。婚活も軌道に乗りつつある。
 今年は是非、幸せを求めて疾走して欲しい。

  現代は、SNS,IoTを活用して、誰もが自由に学べ、自由に発信できる「人類史上初の
 高度な情報文明の社会」である。約半世紀前に小学校の学級通信をガリ版で摺ってい
 た事を想起すれば、超隔世の感がある。故に、学ぶ機会は何処にもあり、発信の場所
 には困らない。ICTの勉強だけが必要だ。だから、毎昼夜、勉強している。Homepage,
 facebook,YouTube,twitter,放送大学,NHKon Demand,10 mtv,etc. そして、今後は益
 々発信してゆきたい。自分の作品を自身の速報版(facebook)・保存版(Homepage)と
 印刷媒体に残すべく、整理整頓して保存しておきたい。だから、冒頭の購入品は是非と
 も必要だったのである。

  (*1)「諸国漫遊記」は私の国内旅行の集大成。全国47都道府県の各都道府県
    別旅行記。写真付きA4用紙96枚。

  (*2)「諸国外遊記」は私の海外旅行の集大成。21ケ国98都市の国別・都市別の
    旅行記。写真付きA4用紙三百枚程の分量と予想。

   写真1は、お父さん(私)。
   写真2は、お父さんの手作りケ-キ。ローソクは32本を7本に節約。
   写真3は、JR大阪駅東口と阪神百貨店の間の横断歩道。
   写真4は、「諸国漫遊記」の一部。24徳島県の阿波踊りの添付写真が見える。

 

 【2020年12月】
            
【三つの源氏を巡るバイク・ツ-リング】 ( 2020.12.03(木) )

   誕生日前日の小春日和。ふと思い立ち、源氏を巡る三つの場所のバイク・ツ-リングを企
 図した。交野市の源氏の滝、宇治市の宇治源氏物語ミュ-ジアム、同市に在る源氏の湯で
 ある。

  倉治公園から白旗川沿いに上がれば、突き当りには源氏の滝。落差18mの森閑とした
 修行者の滝で人影は少ない。茲は府下でも有名な心霊スポットで、ある伝承がある(*1)。
  滝の撮影後、宇治に向かう。2度目の見学となった宇治源氏物語ミュージアム(*2)は展示
 が素晴らしく、案内も丁寧で、好印象を持った。展示内容で学びを深め映画を鑑賞し、係
 員と談笑した。宇治では平等院に比肩する観光名所である。
  京大宇治キャンパスの学食(*3)で昼食とし、構内を散歩して、遥けきも四十数年前になる
 学生時代の2年間を懐古した。お土産は久しぶりに購入した缶入りの抹茶(*4)である。
 続いて、近くの応神天皇・皇太子の宇治墓(*5)を見学した。
  そして、宇治市大久保に在る天然温泉源氏の湯(*6)に沐浴した。火照った体を夕暮れ
 の第二京阪で冷ましながら帰宅し、丸一日のバイク・ツ-リングを今回も無事に終えた。

   源氏物語(寂聴訳)全54帖は、既に2017年9月に読破していたが、正直退屈であった。
 太平記や三国志の方がよほど面白い。それでも「源氏」の名に引かれて訪れたその滝
 には驚いた。近くの寺院「開元寺」か源氏の姫の伝説から源氏の滝と美称化しただけで、
 源氏物語とは無関係である。
  他方、宇治源氏物語ミュ-ジアムは「宇治十帖」に因んでおり、偽りは無い。源氏の湯は、
 単に宇治市に在るだけの理由であろう。ことほど左様に世の中には虚実が混交してい
 る。
   私は必ずしも、虚を忌避し実に固執する頑固者ではない。虚実の皮膜(*7)の境にこそ
 世間の真実(真理)はあるのかもしれない。ただ、単なる売名行為の商業主義的な策は
 好まない。商道は正直を旨とし、信用第一が肝要だと信じる。

   源氏物語の魅力について学芸員と議論したかったが、なぜか私には逡巡があった。
 本当に充分に源氏物語を消化し理解していなかったからである。また、私の気持ちの根
 底には、恋や歌にばかりうつつをぬかし、罪作りな行動ばかりをする宮廷貴族に対して、
 幾ばくかの嫌悪感があった。
   名も無き庶民(下賤の民)を描いても、それでは文学にはならないであろうが、王朝貴
 族はそんなに暇人でNo天気であるのかと思ってしまう。無論、余裕がなければ芸術は生
 まれない。ただ、武士階級の勃興による活き活きとした軍記物の太平記や平家物語を、
 私はより好んでいるのである。

  (*01) 武士の源氏とも無関係で、源氏姫の悲しい伝説に由来するとも言われる。
        (詳細はWebを参照)

  (*02) 入場料600円。来場者は200万人を突破済み。

  (*03) 昼食小皿7種の合計で700円程度で極めて安い。

  (*04) 御薄茶名は「司の白(ツカサノシロ)」。1,296円。約15杯分(30g)。お茶のかんば
      やし(創業四百年、宇治市宇治妙楽43)

  (*05) 数十年前、すぐ近くの京阪電車宇治線の兎道の踏切で人身事故が頻発した。
      このお墓の祟りだと噂され信じられた、と私は友人から聞いたことがある。

  (*06) 入湯料1,000円。天然温泉で、Na,Kaの一塩化物泉。

  (*07) 江戸期の近松門左衛門の「虚実皮膜論」。「事実と虚構との微妙な境界に芸術
      の真実があるとする論」「虚構が真実味を生む」とも(Web引用)。

   写真1は、交野八景「源氏の滝」の案内板。

   写真2は、源氏の滝の近景。交野山の麓の白旗池からの清流が流れ下る。
          ( この写真のみ掲載 )

   写真3は、宇治源氏物語ミュ-ジアムに展示されている見事な牛車。

   写真4は、当時の平安貴族の暮らしの再現。囲碁を楽しんでいる。

   写真5は、源氏物語・宇治十帖の登場人物の紹介(相関図)。

   写真6は、応神天皇の皇太子の宇治墓。

   写真7は、源氏の湯(宇治市大久保)

 

    【皆様からの誕生日のメッセ-ジへの御礼とお報せ】 ( 2020.12.08(火) )

   先日(12/4)、小生の68歳の誕生日に、多くの皆様よりメッセ-ジを頂戴致しました。厚く
 御礼申し上げます。今年は、皆様各位に御礼の返信をさせて戴きました。
   
   さて、私は「SNS Essayist」を自称し、盛んにfacebook・twitter・Homepageに、長年
 投稿を続けて来ております。

  ◆facebookは、2012年7月より参加(60歳定年5ケ月前)。現在、毎月2~3件の良質な
    Essay等を投稿中。

  ◆twitterは、2014年3月より参加。「市民農園通信連載」を2020年1月より連載中。

  ◆Homepageは、2001年4月より開設。「レオナルド・ウッシ-の世界へようこそ」を掲載し、
   随時更新中。

   今後の執筆、掲載(公開)、出版(電子も含む)については、以下のように予定及び検討
 しています。

  □facebook
   旅行記などは、随時に執筆と掲載。科学講話は、残り9回を毎月執筆と掲載。
   その他の連載を、検討中(掲載の時期は未定)。

  □twitter(@ushigoh)
   「市民農園通信連載」は、随時に継続連載。

  □Homepage(http://www.fan.hi-ho.ne.jp/ushigoh) 随時、更新中。
   (但し、出版に掛かる場合は削除)

  また、「諸国漫遊記」(日本全国47都道府県の紀行)を現在鋭意執筆中(No.27まで稿了)
 で掲載の可否は未定。引き続き、「諸国外遊記」(諸外国の紀行)を執筆予定。

   尚、短編小説の執筆も検討中ですが、公開の可否は未定。
 以上は、体調不良等により実現不可の場合もあります。有言実行ですが、どうぞご了解
 下さい。
 
  また、「いいね」だけでなく、コメントが励みになります。

  

 【2020年11月】
            【科学講話の[不定期]連載の予告】 ( 2020.11.03(火) )

   本日(11/3)より、「科学講話」を不定期に連載します。皆様、私が実際に問題提起し
 た話題について、全10講話をできるだけ易しく解説しますので、どうぞお楽しみ下さい。
  
  《 プロ・ロ-グ 》

   この世の中で、「数理的な物の見方」はとても大切であると私は考えています。論理的
 な思考法は極めて重要です。曖昧で情緒的な思考法もそれはそれで良いのですが、冷
 徹な数理の世界の思考法は時にはとても大切で、言わば「頭は冷たく、心は熱く」の「頭
 寒心熱」のスタンスが必要です。

   世の中には、虚偽に満ちた非論理的な情報が氾濫しています。そして、それらは健康
 不安・投資・違法勧誘・詐欺などに絡んで、悪質なものもあります。私達は、時には、冷
 静に自然や社会を見つめて、科学的に事象の本質を理解しましょう。その支えとなるの
 が人類の知の所産である自然科学(社会科学も含む)なのです。即ち、数理的な思考方
 法は絶対に必要で、情緒や感情、思い込みに誘導されることなく、批判的・分析的・科
 学的な視点を以って、物事を理解して冷静に判断し、対処しましょう。

  本日は文化の日です。この良き日に、本不定期連載の嚆矢となるプロ・ロ-グを記載し
 ました。今後、全10回の不定期連載を行います。折しも、季節は秋から冬へ向かい、
 バイク・ツ-リングもやがてスト-ブ・リ-グに入り、好きな歴史紀行を綴る機会も少なくなります。
 逆に、じっくりと科学の諸分野について考察を深めることができます。
   尚、FB投稿は月2回を目標としていますが、当該科学講話はあくまでも不定期です。
 ご了承下さい。それでは、皆様どうぞお楽しみに。
                                               
        【京阪奈地区のバイク・ツ-リング】 ( 2020.11.10(火) )

   立冬を過ぎてもまだバイク旅はできる。日照時間が短くなったので、今回は近場の京阪
 奈地区の歴史散策をした。磐船街道から奈良先端大、高山竹生園と高山城、くろんど池、
 最後は天然温泉入浴となった。実に充実の大満足旅だった。

   私市から磐船街道(R168号)に入ると府民の森ほしだ園地。そこは「星のブランコ(*1)」
 が有名で、雑木林の尾根道の散策も素晴らしい眺望があり最高だった。次に、「おじいさ
 んの古時計(*2)」で昼食とし、近くの磐船神社で宿願の「岩窟めぐり(*3)」を体験し新生し
 た感があった。R163号を東走し奈良先端科学技術大学院大学(*4)の学食で学生や職
 員と懇談した。更に「高山竹林園(*5)」を見学し、高山城主郭址(*6)で鷹山氏繁栄の往
 時を偲び、北上して「府民の森くろんど園地(*7)」で昔遊んだ日々を懐古した。最後は、
 「東香里湯元水春(*8)」の露天風呂でほっこり温まり帰宅した。こんな近場に盛り沢山
 の楽しいスポットがあり、全走行は59kmだが十分に旅を満喫できた、良き秋の一日とな
 った。
  
   岩窟めぐりの最狭部は私の肩幅で、足も抜けず、ヘルメットが通れるか不安になり、後
 続の大柄の男性は上着が脱衣した。巨石は滑らかだが苔むして、通過時間は10分間だ
 ったが、先行のギャル3人組はとても面白がっていた。まさに誕生時の産道の擬似通過に
 似て、それ故に新生体験であった。
   先端大では上海からの留学生と中国問題を語り、職員からは本学創設時のお話を拝
 聴した。お城好きな私は高山城跡の主郭址に佇み、南都(奈良)に勢を誇った鷹山氏に
 ついて学んだ。車道の露店でシイタケと里芋を買って妻への土産とし、暮れなずむ温泉の
 壺湯では、至福の幸せを満喫した。

   幸せは身近に在る。遠出しなくても、探せば喜びはほんの近くにある。今回は、先ず
 は星のブランコを目指し、ネットで自宅近くの温泉を探したこと。旅の最初と最後を決めたら、
 途中のコ-スは臨機応変に自由に変更してよい。その行き当たりばったりのコ-ス変更も、
 また旅の楽しさでもある。

   人生も同様である。実は、人生のスタ-トとラストは一見自らは決められないと思いきや、
 実は前世か決めて来ているのである。人生の途中の過程は、人生の彩りある味わいで
 ある。故に、「真面目に楽しむべき哉 この人の世」と私は思う。まだまだ私の旅は続く。
  「籠に乗る人担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」との俚諺があるが、「そのまた日記を綴
 る人」と付け加え、「そう言う者に私はなりたい」と私は願う。

  (*01) 府民の森ほしだ園地の「星のブランコ」。標高180m、全長280m、最大地上高
     50mの木板版吊り橋。人道吊り橋としては、全国的にも最大級の規模。
      ( この写真のみ掲載 )

  (*02) 「おじいさんの古時計」。磐船街道にある有名な木造作りの喫茶店。内部には
     沢山の古時計がある。

  (*03) 「天の磐船」は加藤清正が大阪城の石垣にしようとして断念したとの逸話があ
     る。(Wikipedia)

  (*04) 生駒市の国立大学。1991年創立。略称はNAIST。詳細は当学Homepageを
     参照。女子学生も多い。

  (*05) 茶筌師の里。鷹山宋砌が村田珠光に製作を依頼。

  (*06) 南都(奈良)・河内・山城の三国境に位置する。

  (*07) 湖畔には、キャンプ場・バ-ベキュ-・貸ボート等が完備。

  (*08) 入湯料(平日大人780円)。住所は寝屋川市寝屋北町2-1。京阪香里園より
     無料送迎バスあり。

  写真1は、「星のブランコ」の南側入口。安心して渡れる。

  写真2は、「おじいさんの古時計」の外観。カナダの国旗は、森林の国カナダのログ・
       ハウスを象徴かも。

  写真3は、磐船神社の「岩窟めぐり」の入口。「天の磐船」は高さ12m、幅12mの巨石。 
       入場修行体験料は500円。一人での入場拝観、9才以下、75才以上、雨天 
       時、増水時、夜間の入場は禁止。

  写真4は、奈良先端科学技術大学院大学の学生食堂。価格は一般の学食と同じく、
       相対的に安い。

  写真5は、生駒市高山町の「高山竹生園」の茶道具の展示室。茶筌・茶杓・柄杓・花器・
       茶合の他、高山あみ針等がある。茶室(竹生庵)・和室・研修室・販売コ-ナ-・
       駐車場なども完備している。

  写真6は、高山城跡の主郭址(尾根の頂上部分)。

  写真7は、くろんど池の風景。

 

        【播磨国南部の列車と徒歩の旅】 ( 2020.11.18(水) )

   先日、NHK「おはよう関西」で姫路城の絶景ポイントの紹介があった。直ちに決断し、
 数日後の好天下には車中の人となった。いつものバイクではなく、楽珍な鈍行列車と徒
 歩で、播磨国の南部地域の欲張りな歴史散策を企図した。目的地は、書寫山、絶景
 ポイント、姫路城、播磨国分寺址、御着城跡、石の宝殿、明石の魚の棚と盛り沢山の強
 行軍とした。

   薄明前のJR寝屋川公園の始発から4時間、書寫山ロ-プウエイ(*1)乗場に到着。4分で
 山上駅。送迎バス5分で圓教寺(*2)到着。錦秋の紅葉に感激し、読経の中で摩尼殿を周
 回すれば、日本の佛教文化が心地良い。下山しバスで岡町に戻り、絶景ポイントの男山配
 水池公園の急階段を登れば、秀麗なる白鷺の連立天守閣(*3)の遠望。日本人である誇
 りが身中を貫き感涙は抑え難い。城中を遊歩して登閣し、感動は更に高揚する。次に、
 御着駅の至近の広々とした播磨国分寺址(*4)で往時を想像し、近くの黒田官兵衛の御
 着城跡(*5)を見学し、宝殿駅から石の宝殿(*6)迄の1.7kmを往還。黄昏時に明石の魚
 の棚(*7)で久しぶりに一献し、妻への土産は明石焼きと鯛焼き。帰宅は午後9時、
  ♪「夢(姫)路より帰りて星の光仰げや、さわがしき真昼の業(旅)も今は終わりぬ(*8)」、
 と全15時間の一日旅の感慨であった(*9)。

   今回の列車と徒歩の旅の長所は、楽珍で転寝や飲酒可、時間は正確で運動になり、
 バイクの夜間走行の危険を回避。逆に短所は、費用が嵩み、発車時間待ちがロスタイムと
 なる。

   さて、姫路城は強運の城と言われる。攻城戦・空襲・破却に遭遇せず往時の勇姿が
 現存するからだ。だが、その巧妙な縄張りと数多の防御の仕掛けは、実戦では未検証
 である。築城名人加藤清正の熊本城は西南戦争で検証された(*10)。
   他方、天下の大阪城は内堀まで埋められ、弱点の南側から攻められ、大筒の被弾等
 にもより終に落城した。故に、姫路城も難攻不落ではないと思う。ただ、日本城郭建築史
 上の最盛期に築城されたその威風の美を損なうものではなく、西南から眺める雄姿は東
 上する西国の諸大名の畏怖を強く喚起する。日本の世界遺産第1号は当然の誉である。

   旅はその目的地への移動も旅だが、すばやく移動し十分な時間で目的地を観光する
 事はあらまほしい。ただ、旅をしても「楽しかったね、美味しかったね」ばかりで、心の風
 景が変わらないと私は旅ではないと思う。だから、こうして私は紀行文を綴り、記録に留
 め、皆様に発信している。

  (*01) 長さ781m、高低差211m、発車毎時0,15,35,45分。片道所要時間4分。
      往復料金(大人)1,000円。

  (*02) 書寫山(ショシャザン)は天台宗別格本山で、西の比叡山と呼ばれる。西国33
     か所観音巡礼第27番札所。特別志納金(入境料)500円。康保3年(966)に
     性空上人が開創。

  (*03) 日本の世界遺産第1号(2009年)。国宝。大天守保存修理工事(平成の修理、
     1993-2015年)。入場料1,000円。

  (*04) 天平13年(741年)聖武天皇の詔による官寺。方2町(一辺218m)。御着駅
     徒歩5分。近くに播磨国分尼寺址。

  (*05) 黒田官兵衛が家老を務めた小寺氏(赤松氏の一族)の居城。現在、国道2号
     線に南面する。当時は、御着城が本城で姫路城は支城。三木城、英賀城と共
     に播磨三大城郭。

  (*06) 高砂市にある竜山の岩盤を掘り出した古代の巨石遺構。高さ5.5m、幅6.5m、
     奥行5.6mの直方体。重さ推定465t。周囲に幅1.6m、深さ0.3-1.4mの環濠。
     生石神社の境内。

  (*07) 明石海峡で獲れる鮮魚類の市場として有名。

  (*08) フォスタ-の名曲♪「夢路より( Beautiful Dreamer )」。

  (*09) 支出12,892円(交通費6,430円、50%)。妻カンパ5,000円。

  (*10) 敗軍の将の西郷隆盛の弁「新政府軍に負けたのではない。清正公の熊本城
     に負けたのだ。」は、蓋し名言で有名。

  写真1は、西国霊場第27番書寫山圓教寺摩尼殿。紅葉が沁みる。
         ( この写真のみ掲載 )

  写真2は、姫路城の連立天守閣の秀麗な遠景。

  写真3は、姫路城の連立天守閣の優美な近景。

  写真4は、史蹟播磨国分寺址。

  写真5は、黒田官兵衛のゆかりの御着(ゴチャク)城跡。

  写真6は、兵庫県高砂市の生石神社境内の「石の宝殿。」

  写真7は、明石の名物: 鯛焼きと明石焼き。

 

 【2020年10月】
            【大阪・和歌山・奈良のバイク・ツ-リング】  ( 2020.10.13(火) )

   HONDA(ス-パ-・カブ110cc)の全面的なメンテナンスを行い(*01)、台風(14号)一過を待って、隣県を
 バイク・ツーリングした。爽やかな晴天下、ツーリング・ウェアも決まり、最高の気分で泉南の水間寺・紀ノ川
 の橋本・奈良市の多聞城跡を巡るコ-スを走った。

   自宅からR170号で一気に貝塚市の水間寺へ。この58km間は頻繁な渋滞により2時間半も費やし
 た(*02)。水間寺は新西国33箇所第4番札所。天台宗別格本山の本尊は聖観世音菩薩である。境
 内は荘厳で歴史ゆかしい風情であった。本堂と三重塔は偉観。川に挟まれた珍しい立地の伽藍は
 日本佛教美術の極みで、聖武天皇の勅願で行基菩薩により天平年間に創建され、井原西鶴「日本
 永代蔵」でも有名。
   炭鉱の坑道のような紀見トンネル(*03)を抜け、紀ノ川中流の橋本市に至れば、そこは文学(*04)や
 歴史(*05)の世界である。川沿いのス-パ-で購入した梨や柿を食めば、紀ノ川(*06)の旅情であり、
 紀北のたゆたゆとした風光である。
   奈良盆地をR24号で北上し、奈良市内を目指す。大仏殿の北西で佐保川の北岸の小山に在る多
 聞城跡は、現在は若草中学校となって往時の面影は皆無だが、歴史上の意義は大きい(*07)。城主
 の松永久秀(*08)は今年のNHK大河「麒麟がくる」で吉田鋼太郎の好演もあり、更に有名となった。
   そして、釣る瓶落とし秋天の黄昏前に、R163号を西走して帰宅した。10時間の短くも快適なバイク・
 ツ-リングであった。

  今回のル-ト上には名所・旧跡は数多であり、本来、近畿は歴史の宝庫である。そして、私は特に紀
 ノ川の中流が好きである。名作「紀ノ川(*09)」は外国語翻訳と映画化もなされた。中学の頃の銭湯の
 ポスタ-で、主演の司葉子の姿が印象的だった。山河は紀州人気質を醸成する。和泉山脈と紀ノ川の
 地理的ハザ-ドは、徳川御三家の矜持もあり商工大都の大阪に対する羨望と嫌悪のアンビバレンスな
 感情、又は求めても得られないルサンチマン(*10)の感情を醸成したであろう。松下幸之助氏は幼少時に
 は既に丁稚となるべく出郷し、この二者択一の呪縛からは解放されていた。橋本の紀ノ川河畔で峩
 々たる和泉山脈を眺め、梨の固い果肉と甘い果汁を賞味し、私はそう思った。

   妻みどりへのお土産は名物「柿の葉寿司」。1巻約140円は大阪の御座候と比べ倍額で、ブランド
 価値には疑念が残った。旅はいつも楽しい。特に、バイク・ツ-リングの一人旅はコロナ罹患の懸念も少な
 い。田舎の秋の空気を吸い健康になる気がする。これから益々日中時間は短縮するが、バイクの
 スト-ブ・リ-グに入る迄の日々を、自由気儘に風土と歴史の散策を楽しみたい。

  (*01) バッテリ-交換\16500、後輪タイヤ交換\7000、チェーン・カバ-上下交換\5700、
     スピ-ドワイヤ-交換\3000、前後輪シャフトとナット予備購入計\2728、放電プラグ
     交換\2500、エンジン・オイル交換\1300、その他の工具購入\560+\348、予備
     部品購入\1000、予備電球購入\300。総計は\40,936(約4.1万円)。

  (*02) 通常55km/ℓの燃費で33km/h走行だが、平均23km/h走行だった。

  (*03) R371号の河内長野-橋本間の紀見峠のトンネル、全長1,453m、片側一車線。

  (*04) 有吉佐和子(和歌山市出身)の小説「紀ノ川」。著者28才時の作品。

  (*05) 真田昌幸・幸村父子の蟄居の地:九度山。高野山の入口。
       
  (*06) 紀ノ川は、紀伊水道を鋏んで、四国の吉野川(四国三郎)と対向する。
     その意味からも、紀ノ川は「近畿三郎」と呼んで良いと私は思う。因み
     に、近畿太郎は淀川、近畿次郎は熊野川(十津川・北山川を含む)としたい。

  (*07) 史上初の天守閣、多聞櫓の魁として有名。

  (*08) 松永弾正久秀は日本三大梟雄の一人。他は、北条早雲と斎藤道三。
     彼は戦国三大梟雄の一人でもあり、信貴山城で天下の名器の茶入を抱
     いて日本史上最初の自爆死を強行したことでも有名。但し、後世の創
     作の可能性もある。

  (*09) NHKのテレビドラマ化は1964年。松竹での映画化は1966年で、母(花子)
     は司葉子、娘(文緒)は岩下志麻、孫娘(華子)は有川由紀の女三代の物語。

  (*10) 原義は、恨み(の念)。ニーチェの用語では、強者に対し仕返しを欲して
     欝結した弱者の心。仏語ressentment。(出典; Wikipedia)

   写真1は、水間寺の本堂。

   写真2は、水間寺の三重塔。

   写真3は、天台宗別格本山龍谷山水間寺の案内看板。

   写真4は、水間寺の三重塔の近影。

   写真5は、紀ノ川の橋本橋(R370号)上より、紀の川下流を遠望

   写真6は、多聞城跡(奈良市)。現在は奈良市立若草中学校。

 

 【奈良県(柳生・笠置山・恭仁京跡)のバイク・ツ-リング】 ( 2020.10.27(火) )

   最近は、月2回のFB投稿を目標と定め、バイク・ツ-リングに出かけた。今回は、奈良県の柳生・
 笠置山・恭仁京跡の歴史散策と温泉入浴を企図し、晴天の火曜日、勇んで東走した。

   寝屋川公園の自宅から、R163号で奈良へ。その後R369号(柳生街道)をまだ朝の肌寒い中、
 剣聖の里柳生に到着。柳生藩陣屋跡(*1)、家老屋敷、一刀石(*2)等を見学した。
   次に、北走したら程なく歴史に名高い笠置山(*3)に至る。山上の笠置寺の行場を巡り、後
 醍醐天皇の行在所(*4)で往時を偲び、木津川の清流に心を癒された。更に、コスモス畑の恭仁
 京跡(*5)をしばし散策し、遷都について考えた。
  最後に、島ケ原の温泉(*6)でのほっこり入浴を期待したが、不運にも休館日でがっかりした。
 これで帰宅予定時間が早まったが、妻に告げた時刻迄は自宅付近の市民農園で時間調整を行い、
 サマ-ベットでスマホの音楽を聴きつつ、秋の日没を待った。地平線に沈む洛陽には、今更ながら感
 動した(*7)。

  柳生新陰流は「殺人刀(セツニントウ)ならぬ活人剣(カツニンケン)」と言われる。その真意は何であろ
 うか。「先手必勝」の世間の常識に反して、新陰流の奥義は「後手必勝」である。「切り合う
 前から主導権を取り、相手がどう切ってくるかを予想し、待ち構えて、これに打ち勝つ」(*8)。
 この「性自然」「転」の理念は、なるほど処世術には有益であろう。

  醍醐の御代(*9)を希求し、在位中に既に「後醍醐天皇」と称したこの日本史上のス-パ-天皇は、
 太平記(*10)に詳しい。平清盛以来の武家政権から鎌倉幕府滅亡迄は既に約百五十余年。武士
 の世に、今更、天皇親政は時代の逆行だろう。「南北朝時代を歴史に画した事は、日本史上に
 どんな意味があったのか」と考えても、私は答えを見い出せない。

  他方、聖武天皇も画期的なス-パ-天皇であったことに異論は無いが、「遷都癖」は問題であり、
 周囲は大いに迷惑したであろう。超短命だった恭仁京跡に立つと、何故かの地なのかと疑問が
 残る。当時の大宮人は忖度の和歌(*11)を残しているが、内心は如何ばかりであったか。古来、
 為政者には「(不必要な)建設狂」は少なくないのである。
    
  旅をして、歴史の事跡を訪ねて、往時の感慨を得て新しい視点を掴もうとしても、風瀟湘と
 して、時に空しい時もある。それでも時空を超えて歴史ロマンに耽る時、日本人の我が心には嬉
 しさと幸福感が溢れる。旅の喜びである。

  (*01) 柳生藩は所領1万石程で代々将軍家の剣術指南役(藩主は江戸定府)として幕閣に
    重きをなし、13代に渡って柳生の里を支配し、明治維新を迎えた。

  (*02) 柳生石舟斎が修行中に天狗と試合を行い、一刀で天狗を切り捨てたところ、2つに
    割れた巨石が残ったとの伝説がある。いかにもそのような雰囲気だった。

  (*03) 元弘元年(1333年)、倒幕を企図する後醍醐天皇側に対して、鎌倉幕府(北条軍)側
    が終に落城させた壮絶な攻城戦で歴史に名高い。

  (*04) 宇治の鷲峰山(ジュブセン)にいた後醍醐天皇は、「兵を集むるには好ましからず」と
    して笠置山に移動し。粗末な行在所での和歌は心情が伝わってくる。

     ♪ 浮かれける 身を秋風に 誘われて  思わぬ山の 紅葉をぞ見る

  (*05) 聖武天皇は5年間で4回も遷都した。740年に平城京を離れ恭仁京の建設を始め、
    742年には紫香楽宮の造営も始めた。恭仁京跡は山城国分寺跡となり、今は、この
    加茂町のコスモス畑には恭仁小学校がある。

  (*06) 三重県伊賀市の島ケ原温泉「やぶっちゃの湯」。良質な天然温泉で、各種設備も
    充実している。

  (*07) 平清盛が音戸の瀬戸で、落陽を扇子で煽ぎ戻そうとした「日招き」の逸話がある。
    だが、秋の釣る瓶落としは留めようもない。人の命の尽きる時も同様である。

  (*08) Wikipediaより引用、改文約記載。

  (*09) 摂政や関白を置かず天皇親政による政治を行った。延喜の荘園令を出し、班田を
    実施するなど律令政治を現出。人格は円満で善政を布いた。その治世は「延喜の治」
    と言われて治世の理想とされた。(Wikipedia)

  (*10) NHK大河「太平記」は本年日曜AM6時にBS放映中。

  (*11) 恭仁京を愛でる(忖度)の万葉集記載の和歌である。

     ♪ 三香の原 布当の野辺を 清みこそ  大宮ところ 定めけらしも (1051)

     ♪ 咲く花の 色は変わらず ももしきの 大宮人ぞ たち変わりける (1061)

   写真1は、柳生の里の「天乃石立神社」境内の「一刀石」。この写真のみ掲載。

   写真2は、自撮り棒での写真撮影。

   写真3は、柳生藩の陣屋跡。

   写真4は、笠置山山頂付近の後醍醐天皇の行在所跡。

   写真5は、恭仁京大極殿址(兼、山城国国分寺跡)。

   写真6は、市民農園の圃場から見る日没風景。

 

 【2020年09月】
           【高校時代のコーラス部の思い出】(全4話中第3話) ( 2020.09.21(月) )

   小玉スイカ25個を順次収穫し、次は冬野菜用の堆肥の調整中である。秋のお彼岸を迎え、長崎
 での「目眩く(メクルメク)青春前期」への追憶は途切れることはなく、回想を続ける。

   幸か不幸か3年間、1組の男子クラスであり気楽ではあったが、難関大学を目指すクラスでも、他の
 混合クラスに対して羨望があった。私は合唱発表の舞台に立つと羨ましがられた。その羨望した友
 人の記憶では、私の印象としては「頭は坊主で、常に手に本を持ち廊下を疾走していた(*1)。」と言
 う。まさに自分でも納得で、受験勉強と部活を両立したが故に、希望大学への進学と青春前期の甘
 露を享受したと言える。
    
   コーラスの部長の下宿に時折投宿したり、テナ-・パ-トの先輩達と初日の出参拝をしたり、隠れて
 コンパをしたり、男同志間でも友情の付き合いはあった。みんな真面目なあの頃、学生運動の余波
 は少し波及してコ-ラス部でも小さなトラブルがあった。一部のメンバ-が文化祭で教師を揶揄する歌を
 歌わせろと訴え、顧問教師が拒否した訳で、やや波風が立った(*2)。しかし、殆んど男子部員は素
 直で真面目で、生徒と教師間の信頼は厚かった。進学校としての進学という共通の目標が明確だ
 ったからである。受験勉強の為、3年になると受験する男子部員のクラブ活動は事実上、休止状態と
 なった。
    
   私はテナ-・パ-トリ-ダ-として、文化祭で合唱指揮をしたりしてコーラスには未練があり、同輩の女子
 が歌う音楽授業での楽曲(*3)を歌いたかったが、それは叶わなかった。

   高1と高2の音楽の楽器の授業では、男子生徒は直ぐに上手くなり、フォーク・ギタ-で反戦歌(*4)を
 歌う前衛的な生徒は格好が良く憧れを持った。ただ私は、我流のピアノ練習に時折あいた時間を
 クラブの練習室で過ごした。受験勉強の自身のプレッシャ-に耐えつつ、何とか3年間を両立できたと
 思う。
    
   実は、コーラス部の他に「文芸部」の隠れ部員として当部の雑誌に随筆(*5)を投稿したり、弁論大
 会出場で第2位になったりした事(*6)は、コーラス部活動外の良い思い出である。

   コーラス部の少ない男子部員は垢抜けしない野暮ったい感も否めないが、合唱を愛する点におい
 て、ナイーブで優しい感性を持っていた生徒達と言えよう・・私も含めてだが(笑い)。
    
   (*1) 坊主頭は高1のみ。私は3年間こんな行動だった。
    
   (*2) デュ-ク・エイセス「にほんのうた」シリーズの愛媛県松山版。
      曲名は「困るぞなモシ」。歌詞は、やや揶揄的な内容。
    ♪「先生世の中は~ああ、どうなってるんだな~モシ
      先生もっと仲良く~うう、してくれんかな~モシ
      試験の点やなんかで 俺たちのこと 
      決めてかかっちゃ 困るぞな~モシ。」
     (1965-69年、永六輔といずみたくのコンビによる
      オリジナルのご当地ソングである。)
     
   (*3) イタリアの歌曲「ニ-ナ(Nina)」
      正確なタイトルは、「ニ-ナが床に臥して三日になる」。
      作曲者は、レグレンツィオ・ヴンチェンツィオ・チアンビ。
      作詞者は不詳。ホ短調。歌詞は、ニ-ナの死を暗示
      したものであると言われている。( Wikipedia )

   (*4) 「風に吹かれて」(ボブ・ディラン、1963年)など。

   (*5) 文芸部雑誌「佳風」に2回投稿。
      高2の時、随筆「書くことと私」。高3の時、随筆「晩秋の感慨」。

   (*6) 高2で出場、題目「現代を如何に生きるべきか」。
      高3では、当該の弁論大会の審査員として出場。

   写真1は、3年1組(男子クラス)の集合写真。

   写真2は、3年1組の教室での定期試験風景。

   写真3は、体育祭後の後夜祭でのフォ-クダンス。

   写真4は、中央はコーラス部顧問の先生(通称、仁ちゃん)。

   写真5は、長崎国体で聖歌隊(後輩のT君と)。

 

 【高校時代のコーラス部の思い出】(全4話中第4話、最終回) ( 2020.09.23(水) )

   小玉スイカ畑での収穫の時期は終わった。青春前期(高校時代)は過ぎ去り、最終回は「コーラス部の
 その後の思い出」を綴りたい。これは青春前期の残照なのである。
                             
   私は卒業後、一浪して九大理に合格し勇んでコ-ラス部の同窓会に出席した。晴れやかな気分であっ
 た。先輩PL(*1)は九大法に現役合格し、後輩PLは後に東大文Ⅱに進学した。勉学とクラブ活動を見
 事に両立した。他の先輩や後輩達も各々の道を進み、特に音楽関係で活躍した有名人としては、東
 京藝大声楽科教授のK先輩(*2)が居る。コーラス部の顧問だった故T先生(東京藝大卒)に対しても、出
 藍の誉である。

   長崎在住の女性の先輩はシレーヌ合唱団などで音楽を続け、また長崎南高コ-ラス部OB会の発表会
 が市民会館で開催された。先輩も後輩達も鍛えた喉でカラオケを楽しみ、仕事上でも趣味の世界でも
 大いに名声を高めたことだろう(笑い)。私も得意の裏声を駆使し、マイク2本を使った1人デュエット(*3)で
 周囲を沸かせたものだ。尚、我らがコ-ラス部のピアニスト(*4)は、同窓会名簿によればブラジル在住であ
 る。

   さて、友情に満ちたソプラノの友(*5)だが、22才の別れの数年前に、彼女のご自宅に招待された。
 自室のベットに腰かけて彼女がギタ-を爪弾き歌う名曲「恋人(*6)」は、私の故郷での、一生決して色
 褪せない青春の思い出となった。

   悲しい死別として、先代の部長は夭折し、我らが部長も東京で吐血し逝去した。顧問の先生も、
 愛妻と愛息を見送った後、数年前に鬼籍に入られた。 嬉しい話は実業家や医師として活躍している
 郷土の後輩達である。故郷長崎の発展の為に活躍している。バス・パ-トの某君は仏国留学の後、東
 京の私大の言語学教授(博士)となった。東京での再会時は、フランス人のような風貌だった。

   私がPanasonic㈱の本社に在職中、先代PLがまた後日には後任PLが、弊社を訪問してくれた。
 応接室でしばし歓談すると、思い出は光の矢となって水平線から照射する。「西海の港街・長崎」で
 の確かで強い陽光の記憶である。

   大好きな名曲「いい日旅立ち(*7)」の歌詞が心に沁みる。「過ぎ去りし帰らぬ人達」とは、来世で再
 会できるだろうが、残念ながら今世では夢の中でしか逢えない。だから、私は青春前期の追憶の述懐
 を終え、茲にPCのマウスを留める。

   (*1) PL=(Part Leader)。各パ-トの代表者。
    
   (*2) 1949年生、長崎南高5回生。バリトン歌手。
       3年先輩となる。
     
   (*3) 得意曲は「男と女のラブ・ゲ-ム」など。

   (*4) 長崎南高8回生の女生徒で、部員同様であった。

   (*5) 本連載中の第2話に掲載。

   (*6) 作詞は山上路夫、作曲は村井邦彦、歌は森山良子。(1969年、私は17才)

     ♪ あなたの肩にもたれていても  時はすぎてく音もたてず
       愛の記憶を残しただけで     時は遠くに消えるの

         * 人は何故に死んでゆくの   恋人たちさえもいつか
           愛し合った二人のため     とわの命だけが欲しい*

       あなたの腕に腕をからませ   時の流れをとめてみたい
       それがかなわぬ事ならせめて  くいない今を生きるの

         (*くりかえし)

   (*7) 作詞曲は谷村新司、歌は山口百恵、1978年。

      ♪ ・・過ぎ去りし日々の夢を叫ぶとき  帰らぬ人達熱い胸をよぎる・・・・

    適切な写真が無かったので、以下の3枚のみ掲載する。

   写真1は、信州白樺湖畔にて、昭和55年10月12日。

   写真2は、パスポ-ト用写真、昭和55年06月07日。

   写真3は、京都・新京極にて、昭和53年12月17日。
        入社1年目である。

 

  【奈良県(暗峠・生駒聖天・生駒山上・若草山)のバイク・ツ-リング】 ( 2020.09.27(日) )

   私は北河内に住み生駒の山々は近い。平素、生駒の反対側に関心があり、秋分の日にバイクで
 生駒聖天(宝山寺*1)を目指した。良い機会なので暗峠から若草山へのコ-スとした。

   枚岡神社から真東に直登する奈良街道(R308号)は、古来より重要な阪奈間の最短ル-トである。
 その入口で、セコ・ギァ-では110ccのバイクは上り切れず、車体は退行して横転した。登り切った県境
 の暗峠(*2)は現在も古色風情で往時が偲ばれる。奈良県側の道は緩斜面で、宝山寺は意外と近か
 った。宝山寺境内を十分に散策し、生駒山上への徒歩登頂を意 図したが軟弱にもケーブル・カ-(*3)
 に乗車して、久しぶりに山頂から広大な大阪平野を眺望した。(夜景は抜群であろう)
   山上遊園地(*4)は家族連れで賑わい、私は家族で来た事は無かったと少し反省した。徒歩で下
 山し、膝が笑い出す前に宝山寺まで戻った。そして、門前町(生駒楽園*5)の階段街をしばし歩き、
 旧遊郭街の栄枯盛衰の感慨に耽った。
   奈良奥山ドライブウェ-で若草山に登り、鴬塚古墳(*6)が前方後円墳だと再認識し、コンビニ食材で遅
 い昼食としながら平城京の壮大な眺望を愛でた。春日山原生林は初秋の風に揺れて、やはり古都
 奈良の秋(*7)は少し物哀しいと思った。

   コロナ禍で自粛後のバイク・ツ-リングとなり、英気は満腔に溢れた。初めての歴史散策の地は興味や
 期待も大きく、学ぶも少なくない。齢を重ねると神社仏閣には関心が深まり、より深く風土・歴史と人
 の世について人生の思いを巡らす。

   世間では加齢と共に頑なになる頑固爺爺も少なくなく、世慣れて怖いもの無しとなる傍若無人で
 非常識な人も時折散見される。そんな人は心の修養不足の人だと思う。無論、人それぞれの人生
 ではあるが、いつまでも頭は柔軟で、常識ある言動のできる求道的な人間でありたい。
   人は年経るにつれ神仏の境地に近づくとは限らない。聖書の名言(*8)を想起すべきである。その
 為にも、時折畿内の神社仏閣を散策し、思索する事は良い事であろう。
   若草山で鹿を撫でつつ、1300年前の青丹よし(*9)の栄華の往時を偲ぶ偲び「大和は国のまほろ
 ば」だと実感した。

   今回は暗峠から若草山へ至る往還の日帰り旅となった。帰路は清滝トンネルを避け、清瀧峠(R163
 号)では点在する古民家に詩情を感じた。旅は良い。たとえ一日でも心に栄養を頂ける。私は生涯旅
 を愛する漂泊の作家でありたい。

   (*1) 「生駒の聖天さん」と愛称され、山体自身が竜神であり、山中にはお滝場などの
      修行場が点在する。商売の神様を祀る日本三大聖天の一つ。

   (*2) 古くは「闇峠」とも書かれた標高455mの峠。現在は、国道308号線の現役道路で、
      石畳みが敷かれている。

   (*3) 写真のように可愛いケーブル・カ-。大人片道290円。

   (*4) 飛行塔は軍の防空監視塔として使用され、それ故に廃棄されることなく現在まで
      存続している。

   (*5) 「日本最後の桃源郷。旧来の形式を残す男の楽園「宝山寺新地」」。(Wikipedia)

   (*6) 若草山(標高341m)頂上にあり、枕草子における「うぐいすのみささぎ」を本古墳
      に比定する伝承に由来する。(Wikipedia)

   (*7) ♪「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋は悲しき」
         (猿丸大夫、「古今集」秋上・215)。

   (*8) 「力を尽くして狭き門より入れ。滅びに至る門は大きく、その路は広く、これより
       入る者多し。生命に至る門は狭く、その道は細く、これを見出す者少なし。」
         (新約聖書・マタイ伝・第7章13-14節)

   (*9)「青丹よし奈良の都は咲く花の 匂ふがごとく今盛りなり」 
         (小野老、万葉集・巻3・328)

  写真1は、有名な暗峠(クラガリ・トウゲ)。奈良県側から撮影。

  写真2は、生駒ケ-ブル。梅屋敷から上生駒山上まで、290円。

  写真3は、生駒山上遊園地。

  写真4は、生駒聖天(宝山寺)の参拝直後。

  写真5は、生駒新地(旧遊郭街の入口)。

  写真6は、奈良市・若草山の山頂の様子。

 

 【2020年08月】
           【高校時代のコーラス部の思い出】(全4話中第2話) ( 2020.08.30(日) )

  まだ続くコロナ禍の夏の日々。農園で小玉スイカを育て続けると、高校時代のコ-ラス部の思い出が更
 に想起される。コーラス部での 「目眩く(メクルメク)青春前期」への追憶である。

  青春前期は友情から恋が芽生える時である。そして、部活のコ-ラスゆえに、私たちは青春讃歌の
 合唱の輪の中で若さを謳歌し、恋への淡い憧憬を感じ始めたのだった。高校3年間では、そのよう
 な機会は潤沢にあった。
   放課後2時間の練習(*01)、Part個室での歓談(*02)、自由記載のノ-ト(*03)、遠回りの帰宅(*04)、
 部内の行事での胸キユン(*05)、ハイキング(*06)、文化祭と体育祭(*07)、四高合同合唱会(*08)、各コン
 ク-ルへの一泊遠征(*09)。更には、各自宅への相互訪問(*10)、等々。最初は、先輩のお姐様への
 淡い思慕。そして、美しく変貌する同輩への戸惑い。更には、可憐で妹のような後輩。

   高1ではまだ中学の幼さを残し灰色の鎧の様な制服に身を纏うが、高2では乙女の胸の恥じらい
 は夏の制服では豊かになり、18歳の高3では立派なお姐様となり卒業後の結婚も法的に可能となる。
 女子の急成長にただ戸惑う(*11)。他方、我々男子は垢抜けせず受験勉強に逃避し、恋は抑圧しつ
 つも熱き血潮は抑え難く、密かに文通をする(*12)。

   最も友情を思う女子友がいた。今は、輝くばかりの二人だけの写真(*13)を残念ながら茲に掲載で
 きない。彼女とは卒業後も帰省毎に再会したが、突然人妻となった(*14)。手元のセピア色化した写真
 に、”結ばれることはなかったのだ。”と思う。彼女の親は・・・していたのに・・・・ (*15)。
   私の手紙には返事が書きにくいと言っていた彼女。私の好きな♪「冬の色(*16)」のようだった交際
 は、今は貴重な青春前期の残像となっている。

   顧問の先生は、「(高校時代は)勉学は大切だがそれだけでは駄目で、クラブ活動は大切だ。」と言
 われていた。私達は合唱を愛した仲間であり、混声四部合唱の醍醐味を味わって、人生において情
 操の糧を共にする貴重な日々を過ごした同志であった。もし、コーラス部の日々が無かりせば、我が青
 春の鮮やかな彩色はきっと半減していたであろう。
   ある先輩のお姐様に私は依頼された。好きな曲(*17)の採譜である。私はピアノを弾いて、楽譜を
 完成し手渡した。
   あれもこれも、結晶化された青春前期の思い出である。

  (*01) 練習時の若き肉声は天与の美声で、唱うは青春の讃歌である。

  (*02) 個室で独りピアノを弾くと、友が集まり楽しい歓談となる。そこに友情が始まり、深まっ
     て、淡い恋への前奏曲(プレリュ-ド)となる。

  (*03) 顧問の先生のご提供による所謂「徒然草ノ-ト」である。私も時折記載した。自らの
     ペンネ-ムは、「桂川治」と記した。

  (*04) 正門から竹林を抜け思案橋へ下る帰宅路は、先輩と帰る遠回りの道。敢えて歌いな
     がら帰るのは、街中の書店に寄る事を言い訳として。

  (*05) 両唇で爪楊枝を鋏み、男女交互に輪ゴムを渡すリレ-ゲ-ムは、正に胸キュン。制服の男女
     生徒の非日常的な極超接近で、リレ-は度々中断した。

  (*06) 近くの唐八景(千々石湾越しに雲仙岳を望む)や彦山(天明期の狂歌師の太田蜀山人
     (南畝)は、彦山の名月を愛でた)は、気軽なハイキングコ-ス。

  (*07) 体育祭後の後夜祭でのフォ-クダンスは、手を繋ぎオクラホマミキサ-やジェンカを踊る。夕陽に
     映えるグランドでの円舞は、青春前期の確かな宵のペ-ジであった。

  (*08) 長崎東・西・南・北高校の四高合同の合唱は有意義で、他高の校歌も覚えた。

  (*09) 福岡市や熊本市への遠征旅行は、制服でない普段着の生活を垣間見る。

  (*10) 同じ高校校区で自宅は余り遠くない。お互いに家族とも歓談した。

  (*11) ♪「いつのまにか少女は」(井上陽水、1973年)。抜粋は感動の名歌詞。
      「  きみは季節が変わるみたいに、大人になった。 」
      「  いつの間にか愛を使うことを知り、知らずしらず恋と遊ぶ人になる。だけど、
      春の短さを誰も知らない。きみの笑顔は悲しいくらい、大人になった。 」(抜粋)

  (*12) 手紙の本文等は、私の数冊の青春ノ-トに、赤裸々に記録されている。

  (*13) 今に残る貴重な一枚の写真で、我が生涯の大切な宝物である。

  (*14) ♪「22才の別れ」(かぐや姫、1975年)のようであった。

  (*15) ご縁がなかったのかと・・・。小説に仮託しないと、これ以上は書けない。

  (*16) ♪「冬の色」(山口百恵、1974年)  「・・・・ない清らかな恋は、二人には
     不自然ではなく、とても自然であった。」

  (*17) ♪「忘れな草をあなたに」(ヴォーチェ・アンジェリカ、1963年)は先輩の大好きな曲。

  写真1は、第23回西部合唱コンク-ル(福岡市、1968年11月2,3日)。

  写真2は、第23回西部合唱コンク-ル(同上)終了後の記念撮影。

  写真3は、コ-ラス部の同期及び1年後輩の仲間(有志)。
 
  写真4は、コ-ラス部1年先輩のお姐様方(有志)。

  写真5は、コ-ラス練習後の下校時、先輩のお姐様方(有志)と
       黒一点の私。

 

 【2020年07月】
           【高校時代のコーラス部の思い出】(全4話中第1話) ( 2020.07.31(金) )

   このコロナ禍の夏の日々。市民農園で無心にミニトマトの世話をすると、あの故郷長崎の夏を思い出
 す。それは、高校時代のコーラス部での「目眩く(メクルメク)青春前期」への郷愁である。

   崎陽が丘(*1)に建つ公立の進学校(長崎南高)の8回生の私は、入学式で歓迎の歌「大地讃頌
 (*2)」に衝撃を受けた。選ばれし新1年生には混声合唱は強烈な感動だった。長崎国体を控え、音
 楽クラスの私は合唱団員に選ばれ、その後にはコーラス部に入部し、テノ-ルのパ-トリ-ダ-として学業と
 クラブの両立を達成した。毎日の練習、各種コンク-ルへの出場と諸行事、仲間との友情など、眼間(マナ
 カイ)に鮮明な記憶が浮かぶ。折しも時流(*3)に乗って、大いに音楽青春を謳歌していた。

   先輩たちと思案橋へ下る道すがらに歌うフォークソング(*4)。親しい友との文通。相互の家庭訪問。
 遠征での交流。部室でのピアノの独習に採譜と作曲。文化祭での合唱指揮、予餞会での独唱(*5)。
 体育祭後の後夜祭での甘美なフォークダンス。ハイキング。総てが懐かしく貴重なコ-ラス部での追憶である。

   私が好きな合唱組曲は、「旅」「土の歌」「心の四季」「水のいのち」で、旅4の「渚あゆめば」は西
 海の街長崎の旅路の果ての長崎(野母)半島突端の浜辺を思い出す。香港からの波涛千里に、渚
 を歩む旅情は感涙抑え難い。7年前の上海留学時、実に異郷日本へのHome-sickに溢れていた。

   卒業7年後、関西での就職の年の春、音楽室を訪れた。後輩の皆さんに先輩として、青春前期の
 過ごし方の話をした。そして、更に約三十年後、再び母校を訪れ、音楽室のグランドピアノを思う存分
 に弾いた。その後刻、当時の音楽の男性先生と歓談した。そのお話では、我らの時代はコ-ラス部の
 最盛期(*6)で、ブラスバンド部は残ったがコーラスは廃部となったと。悲しい限りである。私は肉声での
 共感の共有を好む(*7)。されど、歳月は遥かに遠くへ流れたのだ。

   ミニトマトの第1-3果房が、順に開花・結実し、赤熟化してゆく。まるで高校3年間のように、急速に
 青春前期を疾走する。今、卒業アルバムや青春ノ-ト(*8)を紐解くと、人生でどれだけ貴重な日々だっ
 たか。心豊かな情操を育んだ不滅の財産に、ただただ感謝して、私はこの晩年期に野菜を育て続
 けている。それは、土の歌1の「農夫と土(*9)」のようだ。私は今は農夫で、「昔歌う人、今耕す人」
 となっている。

   (*1) 崎陽(キヨウ)が丘とは、長崎港の南側の丘の意味で、ハタ揚げで有名な唐八景が近い。
     下校時、長崎港外の島影に沈む夕陽は、とてつもなく大きくて美しい。 まるで西方極
     楽浄土に誘うかのように泣けてくる。

   (*2) 混声合唱曲の定番。最も良く歌われる名曲の1つ。 ♪母なる大地の懐(フトコロ)に、
     我等人の子の喜びは有る。

   (*3) 当時はフォークソングやグル-プサウンドの興隆期で、多くの グル-プやシンガ-ソングライタ—
     が陸続と輩出した。

   (*4) 森山良子の♪「ふたつの手の思い出」等が偲ばれる。 又、この時期、高1の修学
     旅行は九州の九重だったが、 忘れられない私の心の歌は♪「悲しくてやりきれない」
     である。前奏に続く歌詞と曲は正に琴線に触れた名曲。 ♪「胸にしみる空の輝き 今日
     も遠く眺め涙を流す。」  いつも九州時代を思い出す大好きな曲である。作詞は
     サトウハチロ-、作曲は加藤和彦。1968年、ザフォーククルセダ-ズ。
  
   (*5) 全校生徒を前に体育館の檀上で、♪「今日も夢見る」 を独唱して喝采を浴びた。
     歌詞は「あの日の海は二人 の為に輝き、あの日の山は二人の為に聳えてた・・・」。

   (*6) 故T先生(東京藝大卒)のご指導の下、活発な活動を行って、各種コンク-ルにも入賞
     した。

   (*7) 肉声は最高の楽器だ。混声四部合唱は、素晴らしい。 男声二部、女声二部の
     絶妙なハーモニ-は至福の感動である。

   (*8) 当時のコーラス部での友情の記録が、克明に綴られている。

   (*9) 合唱曲の定番。歌詞は♪「耕して種を播く土、人皆の命の糧を作り出す土 ・・ 」。

   写真1は、長崎県立長崎南高校コ-ラス部(8回生一同)  中段左より8番目が私。

   写真2は、長崎南高校の校舎風景(昭和46年当時)。割愛

   写真3は、高校1年生の私(1968.11.01、西海橋にて)。  西部合唱コンク-ル(福岡市開催)
         への遠征途中。割愛

   写真4は、高校時代の貴重な感傷ノ-ト(私の重要文化財)。割愛

 

 【2020年06月】
            【市民農園での大工仕事】 ( 2020.06.14(日) )

  新たな趣味としての市民農園は、昨秋9月より9ケ月が経過した。当初、種蒔きと灌水
 (*1)と施肥(*2)で野菜は自然に育つと思いきや、作業量はなかなか多い。加えて、大工
 仕事や土木作業も必要となり、これらはもう楽しむしかないと腹をくくった。以下、大
 工仕事の例を紹介する。

  最初にメンバ-共用のテ-ブルが必要と考え、折りたたみ式の設計を脳裏に描き完成させた。
 (写真1) 現在、パラソル(*3)も付設して、暑い日差しの日には快適な日陰を得ている。
  次に、頼まれて新規の物置を設計し、これも堅ろうで大収納スペ-スの万能物置を、1週
 間で完成させた。(写真2) 両者はいずれも、木材と補強金具と作製工法は共通である。
 コ-ナン購入の35mm角の桧材と平板に各種長さの釘とネジ、ダイソ-購入の多数のL字金具(*4)を
 使用した。更に、前者は重折と再組立の為に蝶ナット(*5)を多用し、後者は肥料その他を載
 せる為に構造物の力学的補強に留意した。

  結果として、満足できる構造物を作製できたが、私自身は以下の実践的な教訓を得た。

  ①頭の中の設計図だけからでも、何とか施工はできる。
  ②木材の効率的節約には、設計図は作った方がよい。
  ③適正強度の確保には、費用対効果の検討余地がある。
  ④まずは機能重視であり、美観はコストの次でよい。
  ⑤耐久性( 後日の解体容易性(*6) )は考慮してもよい。

  物作りは楽しい。野菜作りは人間と自然と植物との合作だが、大工仕事や土木作業は人
 間業(ワザ)のみで完結する。しかし、簡単な作業として、トマトの誘引作業、スイカの防虫作業、
 その他の蚕食対策があり、複雑な作業として梅雨時の圃場の浸水対策(モグラ対策)等がある。
 (*7) 野鳥対策では野鳥の習性を利用した懸糸方法(*8)が、有効かつ簡単である。

  野菜の圃場の周辺で、必要となる構造物等は他にも要る。草木灰や燻炭(*9)を得る為の
 焼却炉、雨水収集の水路と貯水槽、虫除けの行灯等々、有機農法の堅持の志向なら尚更で
 ある。これらは圃場で、臨機応変に現場現物主義で知恵を絞り応用を考え、現場で活用で
 きる物は進んで活用する姿勢が大切である。その為には、大工仕事の能力は必須である。
 無論、入手困難な金属部品等はコーナンで購入するしかないが、何をどのように工夫するかは
 本人の力量と熱意の問題である。大工仕事も「また楽しからずや」である。

  (*1) 注水(灌水)の多寡とタイミングは、野菜の発育には重要。

  (*2) 最初の施肥(元肥)と途中の追肥は、野菜の発育には重要。

  (*3) 当アスパラの会の会長より借用中。良い日陰が得られている。

  (*4) 通常は、家具固定用のL字形の金具。2,4穴/個があり、
    ダイソ-で普通2個百円と安く、大変重宝している。大工は
    作業ではなく、仕事と言うべきである。今回は無料奉仕で
    はあり、作製者としての矜持があるからである。

  (*5) 通常のナットはスパナが必要だが、蝶ナットは手で開閉できる。

  (*6) 防水対策はしても、何年か後には木材は腐食し解体が必要
    になる。

  (*7) モグラは地中に通路を堀り、圃場の冠水の原因を誘起する。

  (*8) 鳥類は足に糸が絡む事を極端に恐れる。飛べなくなると
    死に至るからである。

  (*9) 燻炭(クンタン)とは、「米の籾殻を炭化させた土壌改良資材」。
    本来捨てられる籾(もみ)殻を使うため、低コストで作製できる。

   写真1は、最初に新築したメンバ-の為の共用テ-ブル。

   写真2は、次に新築した初心者用の物置と作製者の私。

 
 共用テ-ブル
 
 初心者用の物置

 【コロナ禍の外出自粛中、京阪神三城巡り】( 2020.06.29(月) )

   コロナ禍で外出自粛中だが、4ケ月半振り(*1)に外出した。平素は畑とコ-ナンやダイソ-等である。
 友達を誘って京阪神のお城巡りを提案し快諾された。日本人は山や海が好きだがお城好き
 な人も多く、私は大の歴史好き城好きである(*2)。今回の選択は尼崎城・伊丹城・勝竜寺
 城の京阪神三城。この内、伊丹城は初めてで、黒田官兵衛(*3)の幽閉の城であり、コロナ禍
 の外出自粛の欝憤が志向させたのだ。

   JR尼崎駅から徒歩で南下し、阪神尼崎駅南に在る尼崎城は近年の新築であり、ピカピカの
 一年生のようだ。地元に所縁の篤志家(*4)による寄付であり尼崎の新名所となった。
   JR伊丹駅傍の伊丹城(有岡城)は、伊丹駅新設の際に大部分が削られ、残存する猫の額程
 の城跡公園として歴史の余韻を伝えるが、官兵衛幽閉の土牢(*5)はもはや皆無である。
   JR長岡京駅の南方に在る勝竜寺城は、天王山の戦いの際の光秀の本城であり、細川忠興
 と玉(ガラシャ)(*6)の新婚時代の城でもあるが、ガラシヤは後年に丹後に幽閉された(*7)。

   今回、博物館学芸員の資格を持つ某嬢の車に同乗させて戴き、伊丹・勝竜寺の二城をゆっ
 くりと見学した。歴史を偲び、また新しい発見があった。歴史の現場に立ってこそ初めて
 覚知する事がある。時移り時代は変われど、心の慧眼を鋭くすれば思うことはある。官兵
 衛は「配所の月」さえも観れず、約1年の土牢での幽閉に堪えた。その艱難辛苦を思えば、
 我が身の外出自粛などは実に児戯に等しい。

   夕刻、大変久しぶりの梅田で一緒に会食したが、某嬢のドラマチックな人生話しは興味が尽
 きない。生年月日時から占う四柱推命の暗示どうりの人生だと、私は鑑定した。官兵衛の
 艱難もその占術より予言できたと思われるが、それは「艱難汝を玉にす。」の格言どうり、
 後年、九州は筑前国(福岡県)の大大名となった。その黒田如水は、秀吉をして「自らの亡
 き後の天下人は如水」と言わしめたのである。

   今年は、新年より予期せぬコロナ禍であり、外出が自粛されその閉塞感は蓄積していた。高
 齢者には罹患は危険である。私は喫煙習慣は全く無いが、肺をガラスの破片で突かれる地獄
 の責め苦は堪忍できない。又、大好きな女優岡江久美子(*8)さんの無念は、私には不条理
 な深い悲しみであった。
   改めて、健康の大切さと一病息災を願う。お城の気高さと世の無常を思いつつ、再び徒
 然草(*9)に親しんでいる。

  (*1) 最後の外出(2/15)は、京阪古川橋でのラジオ局「夢のたね」での収録。

  (*2) 「日本城郭検定(3級)」の有資格者。

  (*3) 羽柴秀吉の軍師。竹中半兵衛と共に両兵衛として重用された。

  (*4) 一代で財をなした家電販売の創業者の寄付。

  (*5) NHK大河「軍師官兵衛」(2014年)にも詳しい。「黒田如水伝」には、「有岡城西北隅。
     背後に溜め池。三方が竹藪。一日中陽は差さず、湿気が強い。」とある。
      (出典 PHP online 衆知)

  (*6) 細川玉(タマ)。洗礼名はガラシャ。明智光秀の三女。自害時の辞世は名歌である。
      「 散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」

  (*7) 幽閉地は、現在の京丹後市弥栄町味土野。夫の細川忠興の命による。約2年間を過ご
     した。

  (*8) 才色兼備で明朗快活。女優と主婦業の見事な両立。

  (*9) 古典の名著。最終段(243)「八つになりし年」は秀逸。

    写真1は、近年に篤志家によって新築された尼崎城(割愛)。

    写真2は、黒田官兵衛の幽閉で有名な有岡城(伊丹城)(割愛)。
 
    写真3は、天王山の戦い光秀軍の本陣、細川忠興とガラシャの新婚の城。
 

 【2020年05月】

          【 司馬遼太郎「街道をゆく」(43)の読破 】( 2020.05.08() )

  新型コロナの自粛で図書館は閉館中だが、晴耕晴読(*1)毎日で、11冊の読書習慣(*2)
 維持すべく、この機会
に蔵書の中から、司馬遼太郎「街道をゆく」全巻読破を企図した。
 43日間の毎日読書で先日達成した。旅を愛し紀行
文の記載を趣味とする私は、大きな満足
 感と喜びを得た。

     「人間は、旅に持っていったものしか持ち帰らない(*3)。」との至言に、私は同感する。
 問題意識を心底に秘め、解決
の糸口を希求する旅心は、単なる物見遊山の観光(*4)では
 く、人生を真面目に生きる真摯な姿勢の発露である。

   著者(*5)は国内外を気ままに渉猟し考察を深めた。今、私は完全読破の余韻のまま、紀
 行文の醍醐味に酔心してい
る。多くは私も歩んだ旅路である。その土地の風土が想起され、
 歴史の新知見に覚醒させられ、読み進める程に、新
な知識として淡雪の結晶のように、脳
 神経回路に降って融
け込んでゆく。それらは断片的知識の降雪だが、やがて清らかな清水
 として私の脳内を駆け巡るような気がしていた。
まさに、知るは発見の驚きであり、知的
 興奮の喜びである。
特に好きな巻は「モンゴル紀行」「島原・天草の諸道」「南蛮のみちⅠ
 ,Ⅱ」「愛蘭土紀行Ⅰ,Ⅱ」「北のまほろば」である。

   司馬文学の本質的特徴を表出するには、私は未だ力不足の感がある。しかし、著者の博
 覧強記の知識と巧みな文学
表現の世界に浸っていると、根底を流れる思想を感じる。
   著者は関西出身で、大阪外大で蒙古語を学び、陸軍の兵役を経験し、新聞記者から作家
 (*6)となった。従って、嫌
戦史観と愛国心と冷徹なリアリストの視座が貫徹していると思う。

   私は以前、著者を遠目に拝顔した事がある。それは大阪府が授与する「山片蟠桃賞(*7)
 の授賞式の会場の場であ
った。春雨のような総白髪のこの大作家は同賞の名付け親でもあ
 る(*8)。言葉を交わせなかった事が今は残念に思う。

      紀行文としては、私は既に「諸国漫遊記(*9)」や「中国上海・復旦大学留学記」、その他
 の国内外の旅行記をSNS
で発信している。即ち、今や紙媒体書籍の読み手だけではなく、
 電子書籍の書き手でもある。紀行文は何人にも判り
易く親しみ易い分野だからこそ、今後も、
 精力的に格調高
く良質な文書を創出し、発信してゆきたいと思っている。

  (*1) 「晴耕雨読」が慣用表現だが、雨の日だけではなく、晴れの日も毎日各1巻の
    読了に励んだ。


  (*2) 単行本の11冊の読破は誰でも可能。吉川栄治著「三国志」全3巻は13
    の読了とした。

  (*3) ゲーテの至言。出典は、私の不勉強にして不明。

  (*4) “楽しかったね、美味しかったね。だけで、少しの記録も残せないのは、私
    に言わせれば、
それは「旅」ではなく単なる気分のリフレッシュにすぎない。旅行
    記を書いてそれを残してこそ、
その旅は自らの人生の貴重な財産となる。

  (*5) 司馬遼太郎(1923-96)。本名は福田定一。筆名の由来は「司馬遷に遼に及ばざ
    る日本の者」。
著者の逝去により、43巻目「濃尾参州記」の途中で、本「街道
    をゆく」シリ-ズは絶筆となった。
尚、著者の夫人と私の妻の名は同じ「みどり」
    で、作家志望の私としては素直に嬉しい。

  (*6) 産経新聞記者在職中に、「梟の城」で直木賞。

  (*7) 山片蟠桃(ヤマガタバントウ、1748-1821) 江戸後期の商人兼学者。主著「夢の代
      (シロ)」には、
世界への広い関心と実用主義的な合理思想がうかがえる(weblio
    書)とか。大阪府創設の
国際的な文化賞。第1回は、ドナルド・キ-ン氏。

  (*8) 大阪府が当初「井原西鶴賞」を提案した時、京都が「紫式部賞」を創設し
    たら、大阪は
かなわない。として、著者は町人文化に視点を当てた「山片蟠
    桃賞」を府に逆提案し、
了承された経緯がある。

  (*9) 全国47都道府県の各県毎のテ-マ提示型Essayであり、現在も継続執筆中で、My
      Homepage
掲載中である。

     写真は、私の本棚の蔵書の一部。

 
 私の書斎の書架の司馬遼太郎の本

 【2020年04月】
            《 諸事情により、欠番 》

 【2020年03月】
           新型コロナ・ウィルスの蔓延と、PC接続環境の不調により、掲載原稿の作成なし。

 【2020年02月】
           成田山不動尊での節分豆撒き】( 2020.02.03() )

   新年が開けても正月は冬至から十日余りで尚寒いが、約1ケ月を経た節分こそが暦の上
 では春前日である。この間、
毎年恒例の行事として、私にとっては、とんど焼き・若草
 (奈良)山焼き、One World Festival(大阪市)、おんだ祭
(飛鳥)等があり、その最後を飾る
 のが節分の行事である。
今年も、近所の成田山不動尊の豆撒き行事に参加した。

   早朝より参集の23000人の観客。午前9時ではとても遅すぎて、2時間待って11時から
 の豆撒きでは、落花生の
1個も遠くて届かない。精々、NHK朝ドラ「スカーレット」の出演者をカメラ
 に収めただけだった。戸田恵梨香さん、大島優子さ
んは超綺麗で可愛く、芸能人のオ-ラが満
 載だった。私は空し
くバイクで帰宅した訳だが、良い写真が撮れて、SNS愛好者の皆様に写
 真と私のコメントをお伝えせんと、気分は快晴だった。

   毎朝、スカーレットを楽しみにして拝見しているが、Fictionは知りつつも、もはや信楽での
 本当の現実の話に思える。
ヒロインが幾多の困難を乗り越えて成長するサクセス・スト--には元気
  貰っている。脇役陣も多彩な色どりを添え、現代的な課題も織り交ぜたスト--の展開は、
 毎回ほんとに楽しみである。

   TV画面で見る役者の皆様を、こうして現実に遠目から拝見すると、同じこの日本で共に
 時代を生きているとの強い
共感(シンパシ-)を感じる。そして、嬉しく幸せに思い、ドラマの中
 のそれぞれの皆さんの人生を、今朝も声援している。

   写真の表情に見られるように、喜美子と照子のお二人の表情は様々であり、ドラマの劇中
 でも現実の私生活でも悲喜
こもごもであろう。それらが私たちに元気と勇気を与えてくれ
 る。それが毎朝の人気長寿番組NHK朝ドラの力である。
蛇足ながら、NHK-BS受信料の未納
 の方は、お支払いして、
本放送とBS放送で毎日2度楽しんで欲しい。1粒で2度美味しい
 と思う。更に軽快な主題歌にも元気を頂いている。

   最後に、成田山では「福は内」としか言わない。鬼は居ないのだそうだ。また、ご利益
 は交通安全や悪疫退散であ
り、新年早々の新型肺炎の調伏を祈願しているとのこと。昔か
 ら中国にシンパシ-を感じ、やっとこの年で吉川栄治著の
「三国志」を毎朝少しずつ精読して
 いる私は、早期の悪疫
退散を切に祈念している。今年も良い年でありたい。

 

   【ラジオ局「ゆめのたね」への出演】( 2020.02.15() )

   昨日、念願のラジオ放送局「ゆめのたね」に、ご縁があって初出演をした。ラジオ出演は昨
 年5月の「ラジオ岸和田」に
続き2年連続となったが、今回は正に「怒涛のような熱演30
 
分間」であった。

   冒頭、川口智代美さんのイントロは、「今回は凄い人の出演です。なんと、100の資格を持
 つ男の牛込恒さんです。も
う、さっそくご本人に自己紹介を振っちゃいますね。」と始ま
 り、私も「早速、振るかあ~、そう言えばここは京阪
の古川橋ですよね。」と親父ギャグで
 返して無我夢中の30
分。Take2が無い本番の一発勝負は、まさに真剣勝負で、さながら決し
 て止まらない京阪快速電車のようであった。

   前日迄に用意していた自筆のA4原稿5枚を左手に、右側には高感度の卓上マイク、正面は高
 速に表示するデジタル時
計。原稿1枚5分の目安で、時折、左傍らの川口嬢と言葉を交わす。
 なんとか、言いたい原稿内容を全部伝えられて、
時間も余裕を残して、最後はピッタリと収め
 られたことは感
動的であった。きっと、皆様には原稿の内容は勿論、迫力と感動と元気を
 お伝えできたと思っている。

   今、思うことは原稿の準備は絶対に必要で、また、随所に挿入するエピソ-ドや裏話は効果
 的だったと思う。反省点
は、内容の項目が豊富だったのでやや早口だったかもと思う。話
 し方の緩急には、留意したつもりであったが ・・・・。
実際は、本放送を聞いて、録音して確
 認する必要がある。

  On Airは、インタ-ネットラジオ、5/19()5/26(火、再放送)共に午後9時からの30分間。
 ある。

  昨年末に達成した資格検定100個について、その背景、経過、その後のエピソ-ド、に私の
 経歴や人生観も織り込ん
で、皆様に音声電波を使って発信できたことは嬉しいものがある。
 人生に対する前向きな姿勢、数値目標を掲げての
不断の努力、明るく・楽しく・前向きに生き
 ることの大切さ。
明るくのあ(A)・楽しくのた(T)・前向きのま(M)。これを繋げたA.T.M.は魔
 法の言葉だ。ATMをお金の出金ではなく、
積極的に入金に利用しよう。夢の実現には有形
 無形の現金
が必要だから、「夢のたね」とは、ATMの生き方で貯金したお金(善行・陰徳)
 ことに違いない。チコちゃんに叱られず、
今後も更に褒められるよう、元気に生き続けたいと
 思う。


 

 【2020年01月】
         【 皆様へのご案内 】

 本日より、twitterを用いて、下記の市民農園通信の連載を開始します。市民農園での作
 業は、毎週水・土の午前中を原則
し、作業日後にできるだけ速やかにに投稿します。短い
 文章ですが、園芸愛好家の諸氏のみならず、ご
考情報の提供や体験談を発信したいと存じ
 ますので、
どうぞご期待下さい。

  尚、本内容は twitter のみの掲載となります。従ってfacebookには掲載されませんので、
 ご了解下さい。
1回の投稿をご参考までに、下記に転載します。( ushigoh@gmail.com )
 
       【市民農園通信連載(001)2020.01.04()

 今日より、この35平米の新規耕地を市民農園として耕す。備中3本鍬を使い背筋痛を
  少し感じた後、草むしり
をする。慣れない作業だ。綺麗な小鳥が飛来して種子を漁る。
  前耕者は何を植えていただろう。私は楽しみ心に満ちて色々な計画を描く。

 

    【資格&検定取得を102個で終結して】( 2020.01.19() )

  先日、最後の検定試験と決めていた中国百科検定(3)の合格証が届いた。全60問中52
 の正解(正解率86.7%)
で、自己採点より正解問が4問多かった。茲に、48年間に及ぶ資格&
 定取得の計画と実践がやっと完了した。や
れやれの感であり、大願成就にしてはあっ気ない
 達成感
でもあった。

  思えば19歳での原付免許が最初で、以来、業務上の化学関係資格、そして文系資格に広げ、
 遂に目標の100
を大願成就した。今後は、特別な理由や目的でもない限り、新規の資格&
 定取得への情熱や意志は無い。
ただ、調理師免許への未練はあるが、前提となる実務経験2
 の確保は難しい。また、司法・行政書士へは開
業への意図はなく、経営的メリットは少ないとも思
 われる。

  今は、一抹の寂しさを感じつつも、お疲れ様でしたと、自らの頭を撫でて上げたい心境で
 ある。心は既に次の目
標の挑戦に飛翔中だ。なんと心楽しい日々であろうか。

 

 【2019年12月】
            【新しい趣味としての市民農園】( 2019.12.17() )

   3ケ月前の1枚のビラから生活習慣が変わった。新しい趣味としての市民農園の開始であ
 る。今では、日々の時間
を園芸の勉強に費やし、NHK番組・図書館図書・各種勉強会・家庭
 菜園での研究、そして市民農園での実践である。更に、
来年1月からは耕地面積を4倍に
 広げ、益々質と量を拡大
する予定である。楽しみと知識が増える事を予感している。

   私は資格&検定数百個弱、趣味五十個弱の多才人を自負してはいたが、苦手な分野もあ
 った。即ち、車や園芸などで
バイクはよく乗っていて全国をツ-リングするライダ-だが、車は
 必要が無く、従って車の知識は乏しい。また、園芸は
全く経験が無かった。書道も同様だ
 ったが、1年半前より
書道教室に通って、現在は弱点を克服しつつある。(*1)

   私は、生来、「知らない。出来ない。」とは言いたくない負けず嫌いの性格なので、こ
 の機会に未知なる園芸の分
野に挑戦し、園芸についての蘊蓄を語りたいとの野心を持った。
 野菜販売の意図は全く無く、園芸体験を深めたいだ
けである。また、自然(植物)に触れる
 事は喜びでもある。
安い月額賃料で、自宅からも徒歩圏内で、自由気ままに楽しむ農作業
 は自身の健康にも良く、収穫物は妻にも歓待
され、地域の仲間との交流の輪も広がる。(*2)

   最近、定年退職後に農作業を始める人が多い。その自虐的な理由として「在職中は部下
 が自分の言う事を聞かず、
退職後は家庭で子供が親の言う事を聞かない。だが、植物は素
 直で正直で世話をするほど立派に成長する。」とある。
幸いにも私にはその理由は当たら
 ないが、化学技術者の私
には「園芸は大地が実験室の大いなる化学実験」である。

   思い起こせば、故郷長崎での幼少の頃の園芸体験は皆無であった。この年になって、未
 知の体験を未知のままにし
て人生を終わるのは寂しいと思った。まだまだ元気な時間は十
 分残っているだろう。「青春は足し算であり、晩年は
引き算である。」やりたい事を選別
 しないと時間が足らな
いのは真実である。故に本当にやりたい事をやるべきだ。

   40年でも囲碁は非有段者。10年でも未熟の中国語。植物と同じく種毎に成長サイクルは異な
 るが、やはり継続は力であ
る。今後も更に新たな趣味(例えば、水墨画)を求めているが、
 チャンスは突然に来るものである。その偶然のチャンスも、実
は必然のチャンスなのである。必ずGet
 すべしである。(*3)


    (*1)現在、書道楷書5級、行書6級だが、芸の道は深遠である。故に、有段者
    に成ることを望まない。
時間と金銭の投入が膨大になるからである。

    (*2) 時代の要請で、最近は市町村のbackupや、社会福祉協議会等のサポ-トも多々
    ある。


    (*3)諺に「チャンスの後ろは禿げ頭。」とある。過ぎ去ったチャンスは掴もうとしても
    決して掴めない、のだから。

   写真は、市民農園で休む。

 

     【念願の大塚国際美術館で陶板西洋名画を鑑賞して】( 2019.12.13() )

  先日(12/10)、長年の念願だった大塚国際美術館(*1)で、陶板西洋名画を鑑賞した。約
 千点の実物大の名画を、直近
で触れられる至福の3時間であった。阪急トラピックスのツア-
  加者45名も、皆んな同じ高揚感を味わったことであろう。ある日の読売新聞の朝刊の広
 告に掲載。旅行きは即断即
決が肝要である。明石海峡大橋・大鳴門橋の景観、豪華なランチ
 バイキング(*2)、日本一高い入館料(*3)は、日帰りツア-
の料金10,990(*4)からみても納得
 である。

  梅田芸術劇場前に AM9:40集合。快晴下、西走し南下して淡路島に渡る。ウエスティン淡路島
 では、フォアグラを含む豪華昼
食。特に、鯛の刺身は本場の活魚を十分に堪能した。そして鳴
 門市の憧れの大塚国際美術館。地下3階から地上2
まで縦横に見学し、約12,000歩は3
 時間のフル歩行(4km)
となった。体(胃袋と下肢の鍛錬)・頭(西洋美術史の理解)(感性の醸
 成)(*5)に価値ある一日旅で、PM7時に帰阪。

   作品は陶板化の許諾が得られた絵画に限定される。従って、西洋美術史上、私が必須と
 思う数点の欠如は仕方がな
い。例えば、アテネの学堂・種まく人・街の神秘と憂愁・誕生日・記
 憶の固執などである。しかし、最後の晩餐の修復前後・
受胎告知・真珠の首飾りの少女(*6)
 叫び・ゲルニカなどは最高
だった。無論、絵画には各人の好き嫌いがある。私は、欧州風景、
 歴史大作、シュルレアリスム(*7)の作品が好きである。

   人間の感性を表現するには、音楽や美術、そして文学等がある。私の学生時代は音楽で
 混成合唱、入社後半は美術
部、そして生涯全体では文学(文芸)を趣味かつ自己実現の手段
 としている。従って、美術への造詣は深くはないが、
鑑賞は好きであり自らも油絵を描く。
 ただ、鑑賞はダリな
どのシュ-ル系で、描くのは世界文化遺産(*8)が好きである。

   今回、このような機会を得て世界の名画を一同に鑑賞できたことで、人類史への理解が
 深まった。中世は如何に人
々がキリスト教の呪縛下にあったかだ。ルネッサンス期を経て、人間讃歌、
 写実主義、印象派の興隆、シュール系の出現、そして現
代美術に至る変遷が明白で、魂の進化
 的高揚であった。

    一幅の名作絵画は強烈な感動を与える。時に魂を揺さぶり人生感をも一変させる。「叫
 び」や「ゲルニカ」は正に偉
大な作品で、その場にいつまでも佇みたい超傑作である。

    (*1) 古代壁画から世界26ケ国190余の美術館が所蔵する現代絵画まで至宝の西洋
     名画を原寸大で、
千余点。大塚グル-プの創立75周年記念事業。大塚オ-ミ陶業
     ㈱の特殊技術で複製。
 (転記; マップ&ガイド)

   (*2) 少量だが「フォアグラ」の提供はランチバイキングでは珍しい。何回でもお替りが可
     能な事は嬉しい。


   (*3) 大人3,300円、大学生2,200円、小中高生550円。多感な中高生に安いこと
     は、良い配慮である。

   (*4) 前回旅行時のカ-ド提出で千円のキャッシュ・バックは嬉しかった。

   (*5) 名画鑑賞は人間の感性の向上には極めて有益。

   (*6) フェルメ-ルの名作。通称「ターバンの娘」。モデル不詳。

   (*7) 超現実主義。巨匠ダリの絵画は、時空世界の深奥さや人生の意味について考え
     させられる。


   (*8) 万里の長城やタ-ジ・マハ-ルを描いたことがある。

写真は、「システ-ナ礼拝堂天井画および壁画」

 

     【資格検定数102個目の受験を終了して】( 2019.12.09() )

    昨日(12/8)、吹田市の大和大学で「中国百科検定(3)を受験した。自己採点83点な
 ので合確。102個目の資格&
定となる。前世が中国清朝の学者&軍師(*1)だった私には

 しい資格だった。21名での受験終了後は懇談会、更に事務局を交えての有志での懇親会は
 異例な事で、最後の筆記試験(*2)後の楽しい夕食会となった。資格&検定の渉猟活動は昨
 日で終了し、今後は実用的な大物資格(*3)を目指したい。


   思えば18歳の春、次兄が勧めた50ccの免許が第1号で、業務上必要な化学関係資格を
 取得し、定年迄に50個、残り半分はこの7年間で取得した。時代の恩恵としてWeb受験は
 有難かった。100個の目標達成は嬉しいが、「山高きが故に貴からず・・・」(*4)である。
 ただ、日々の努力や勤勉の姿勢を実証できたことはやはり嬉しい。こんな私は「ボ-と生
 きること」の真反対なので、チコちゃん(*5)からはきっと褒められることだろう。(笑い)


   幼少より勉学好きな私は理系が得意である。しかし文系の特に法経は得意ではなく、
 「ビジネス実務法務」のテキストと問題集は全く解らず、最初は腹が立った。思わず テキストを部
 屋の壁に投げ付けようとしたが寸前に留まった。テキスト本に罪は無く、法学の知識体系は人
 類の英知であると思い直した。「読書百遍・・・」の諺どうり、その後は無事に合格できた。


   取得した資格&検定の内容は玉石混交である。有用な国家資格も有れば、非用な民間検
 定もある。
危険物(甲種)、第1種衛生管理者、国内旅行業務取扱管理者、ISO14001
内部
  環境監査員、測量士補、販売士3級、詩吟二段などが有用。他方、奈良検定は2点に泣き、
 気象予報士は完敗、宝塚検定は甘く見て失敗し、総合旅行業務は惜敗で、京都検定はテキスト
 の厚さに受験を忌避した。尚、合格率は93分程である。テキスト・問題集・受験料の合計が1
 万円以内で、受験料の節約の為に敢えて低級位を選択した。受験の為の交通費はできるだ
 け節約した(*6)。測量士補も未登録(*7)である。


   現在、資格&検定100個の大願を成就して、一抹の喪失感がある。半世紀を掛けた目標で
 あった。千里の道も一歩からであり、万里の長城も一個の煉瓦からである。今後も私は精
 進を続けるが、量的目標ではなく質的目標に方針転換をする。人生に於いて目標喪失は寂
 しい。新たな目標の設定は大きな生き甲斐であり、楽しみの根源なのである。


   (*1) 前世占いでは、私は中国・大連在住の清朝の官僚で西暦1845年生-1912年没、
    と言われた。


   (*2) 今年最後の試験で、今後は暫くは筆記試験の予定は無い。

   (*3) 例えば、士業(弁理士・司法書士・行政書士)等があるが、資格取得後にそれら
    の開業意図はない。


   (*4) 「山高きが故に貴からず、樹あるを以て貴しとなす。」が諺の原文で、意味
    は「物事は見かけだけで判断してはならない。」である。私流の解釈では、

      「資格&検定数が多いほど知識人ではなく、実践に活かす事が大切である。」
    陽明学の「知行合一」の教えである。


   (*5) NHKの人気番組「チコちゃんに叱られる」は面白い。5(仮想)の女の子か
    ら叱られるようでは情けない。


   (*6) 交通費の最大は、加古川市往復(1種衛生管理者受験)で、他は殆んどが大
    阪府内またはWeb受験。

  (*7) 国家資格の測量士補の受験料は2,850円と安い。登録費用は収入印紙で
    15,000円と普通である。

    写真(上段)「中国百科検定」の受験後の夕食会

 

       【67歳の誕生日を迎えて】( 2019.12.05() )

  
昨日(12/4)、午前640分頃、無事に健康かつ元気で満67歳を迎えられました。誠に
 慶賀の至りです。多くの
皆様より誕生日祝賀のメ-ルを頂戴しました事、失礼ながら茲に
 一括して厚く御礼申し上げます。

  思えば幾人かの友人知人は、在職中や退職後に倒れ、あるいは病に伏し、あるいは既
 に鬼籍に入っています。顧み
て我が身の健康と、気力の益々の充実に対して心から感謝
 しつつ、更なる学芸精進と自己の使命達成としての文芸作品への結晶化に力強く邁進す
 る所存であります。


  既に、資格&検定数も100個の大願を成就し、昨年より
の書道に今年は園芸という新た
 な趣味も加わり、来週は念
願の大塚国際美術館(徳島県鳴門市)を見学する予定です。
 界の名画に陶酔することを楽しみにしています。
Windows10搭載の新規PCも購入し、
 ICT環境も誠に快
適で、今後もSNSを駆使し、皆様へ良質なEssay等をお届けする所存で
 ございます。どうぞご期待下さい。
(年内に3編の発信予定)

   以上、末筆ながら、皆様へのお礼の言葉として、近況を報告させて戴き、来年子年か
 らの開運を祈念させていただ
きます。少し早いですが良いお年をお迎え下さい。

  添付写真; 晴耕雨読の市民農園にて

 

 【2019年11月】
            【但馬の日帰りバス・ツァ-】 ( 2019.11.02() )

   今月の日帰りバスツア-は但馬国(兵庫県北部)の松茸旅行。松茸に魅惑された訳ではな
 いが、長いツア-名「食ってけ!!
持ってけ!!  阪急松茸秋の大感謝際」が面白いと思った。
 松茸10品フルコ-スの昼食と松茸5本のお土産。更に、早期申込みの特典として、北海道産
 クリガニ()と高級魚「のど
くろ」の干物はやはり魅力的であった。

  梅田を参加47名で出発し、最初に砥峰(トノミネ)高原に向
かう。銀色に輝く一面のススキの
 原は壮観で、勿論初めてで、
快晴下の散策は爽快で高揚した気分だった。映画「ノルウェイ-
 
の森」、NHK大河「平清盛」「黒田官兵衛」の撮影地とか。 昼食は日本海の浜坂で、松
 茸10品フルコ-スは満足だった。
食後に、北前船の寄港地で和歌にも詠われた美しい諸寄
  (モロヨリ)港を見学した。奉納の額に往時の繁栄が偲ばれた。夜久野(京都府)高原花テラスで
 は美しい景観を味わった。
帰阪は午後740分で、丸12時間の一日遊覧となった。

  但馬は、以前はバイクツーリングではよく素通りしていたが、
砥峰高原や諸寄港は山良し海
 良しの景勝の地である。但
馬には、竹田城(*1)や湯村温泉(*2)以外にも景勝地や歴史旧
 跡はあるのだと、認識を新たにした。山陰は冬季の
風雪でうら寂しい印象(*3)が拭えな
 かったが、秋の季節
は味わい深いものだと、心から感じた。

   今回の旅では良縁祈願の神社仏閣の参拝は無く、意味深ながら順風な海路を祈念する
 ばかりである。ある日あ
る時、ふと心に浮かぶ小さな思い付きがある。それが開運の端
 緒になるように、日頃から「清廉陰徳」を旨とし
た人生航路を歩むことが大事であると
 思う。「人生はま
まならぬが人の世の常。」ではあるが、大きな目標と具体的なAction
  Program
を堅持し、着実に懸命に生きてい
れば、「積善の家に余慶あり。」でもあるよ
 うだ。


   今月も旅を終え、来月は念願の阿波国の海外名画旅行(*4)が楽しみだ。そして、強烈
 な探索願望の地が見つか
った。来春に美濃国の「苗木城(*5)」、来夏に沖縄・伊江島の
 「城山(*6)」である。その地が私を呼び、私の旅心
が激しく応答している。昨今のLCC
 
は超格安なのでとて
も嬉しい。これからは、直近の予定の箕面温泉を経て、紅葉の旅。
 そして旅は冬季ストーブリ-グとなるが、私はい
つか秋田県横手市で「かまくら体験」をと
 願っている。


   (*1)最近、人気急上昇中。何度も登城した。ある前世に、私はこの地に居たの
    かもと思う。竹田
城で作った私の一首。

   但馬なる竹田古城の石垣に 頬添え聴きし武士(モノノフ)の声

   (*2)吉永小百合の名作「夢千代日記」の舞台。この作品は国民的大女優の魅力が
     満載で、素晴ら
しくも切なく哀しいストーリ-である。

   (*3)松本清張の小説「砂の器」に登場する親子二人の巡礼旅の姿は、風雪の山陰
     海岸の情景を想
起させて観衆の涙をそそる。

   (*4)徳島県鳴門市の「大塚国際美術館」。

   (*5)中津川右岸に聳える巨岩を取り込んだ山城。

   (*6)伊江島の象徴で登頂可。オフスクレ-プ現象によって形成された低い岩山(172m)で、
    地球上で唯一
の当現象の地学的証拠である。信仰の対象で、沖縄人(ウチナンチュ-)
    の聖地でもある。

   写真(下記)  夜久野高原花テラス

   写真(割愛) 砥峰(トノミネ)高原

    写真(割愛)  浜坂での昼食風景

    写真(割愛)   昼食内容(松茸10フルコ-)

    写真(割愛)  諸寄港・風待ち港の案内板

    写真(割愛)  江戸時代の北前船の額

    写真(割愛)  阪急交通社からのお土産

 

 【2019年10月】
            【資格検定取得90個達成報告】 ( 2019.10.04() )

   今年も資格&検定取得に精進して10個を取得し、合計90個の大台に達した。生涯目標
 の100個まで残す所あと10
となった。あと3年以内に必達したいし、可能であろう。
   添付の写真に、資格&検定の情報を掲載する。資格マニュアの人も、そうでない人も参考
 にして欲しい。資格&検定取得は
私の努力目標であり、楽しみでもある。あと10個頑張
 ろう。


 

 【一人娘の良縁祈願(7)、備中国の吉備津神社の参拝】( 2019.10.03() )

   一人娘(30)の良縁祈願の第7弾として、直感に魅かれて即申し込んだ日帰りバスツア-
 で、岡山市の吉備津神社を参
拝した。肥沃な吉備地方に鎮座まします由緒深き神社で、
 
桃太郎伝説(*1)に所縁がある縁結びの神社でもある。

  阪急トラピックスの40名は、梅田発午前8時のバスで一路西
走し、「日本のエ-ゲ海」と称
 される瀬戸内の牛窓に向かう。
素晴らしい内海風景の牛窓(*2)は、生憎雨模様だったが、
 
牛窓オリ-ブ園からの眺望は絶景だった。丘を下り港での昼食は当地の「鯛の氷しゃぶ御
 膳」(*3)で、初体験であった。
岡山市内の酒房「独歩館(*4)」では、酒蔵見学と試飲タイム
 で過ごし、日本遺産であり山陽屈指の大社の吉備津神社(*5)に向かう。本殿では懇ろに良
 縁祈願を行い、お御籤を引く。
有名な大回廊(400 m)を往還し、境内を散策する。
   そして、最後は久保農園での名物の葡萄狩り。頭上すれすれの袋に包まれた葡萄を収
 穫して頬張れば、豊穣な備中
国の旅情である。三房を狩り完食して、お土産にも頂いた。
  バス走行は全426kmで、充実満足の秋の一日遊覧となった。

   さて、吉備津神社のお御籤は、実は強烈な神託であった。42番大吉。恋愛 -「はち
 切れんばかりに精気は充足し塞
を破ってほと走る初めての愛を大切に育てなさい。」縁
 談
「好機です。最初の人を相手にして交際しなさい。必ず成就します。」 なんと、
 こんなにも力強い占断が有ろうか。
現在、釣書を心ある方々にご受領頂きお話も頂戴し
 たが、
未だ直接に対面したことはない。「最初にして最後の殿方が運命の伴侶となる」
 お告げだ、と私は切に祈願した。


   旅をすれば心が広がる。特に、海を見れば気持ちは壮大になる。数十億年の昔、生命
 は大海で発生し、大陸に上陸
して誕生と死の悠久の進化を育んできた。人類の婚姻もそ
  のほんの一粒の形態であり、果てしない世代の交代である。私の口癖は「春の田植え無
 くして秋の稲刈りは無い。」で
ある。先月より市民農園を賃借して、僅か2坪半の畑に
 六
種類の野菜を育てているが、植物の成長は実に愛おしい。「子供は宝であり未来への
 希望」である(*6)。結婚して子
供ができ、その子が成長してまた親となる。天地有情、
 自
然の節理である。早く孫の顔を観たいと思うこの頃。「いつかは誰でもこの星にさよ
 ならをする時が来るけれど、命
は継がれてゆく・・・ 」(*7)は、蓋し名曲の名詩である。

   (*1)古事記にも登場する。元は百済の王子で悪事を働く温羅(ウラ)を退治した
    孝霊天皇の皇子の吉備津彦命
が桃太郎のモデルである。

   (*2) 昔、神功皇后の船が牛窓の海を通行した時、牛鬼が現われ船を襲おうと
    した。その時、住吉明神が老
翁となり、牛鬼の角を持って投げ倒したこと
    から、
その地は「牛転(うしまろび)」と呼ばれるようになり、訛って牛窓
    (うしまど)となった(出典;パンフレット)
眼下の前島には短いフェリ-が頻繁に往
    復し、背後には
小豆島の雄景が美しく横たわっている。

   (*3) 鯛の刺身を氷水に軽く浸し身を引きしめて食する。

   (*4)ドイツの醸造技術を学び独自の製造販売を歩む醸造--であり、故に「独
    歩館」と命名されたとか。


   (*5)天正年間(1573-91)の造営。岡山県指定文化財で、美しい曲線の大回廊
    は珍しく、必見である。


   (*6)山上憶良の万葉秀歌に、「銀も金も玉も何せむに 勝れる宝子に及かめや
    も」とあり、有名である。


   (*7)NHK朝ドラ「だんだん」の挿入歌「いのちの歌」。作詞はMiyabi(竹内まり
     や)で、茉菜佳奈が歌った。
小学校などで良く愛唱されているとか。

   写真(下記) 吉備津神社(備中国一宮)での良縁祈願。

   写真(割愛)  牛窓オリーブ園からの眺望。前島と背後の小豆島の遠望。

   写真(割愛) 牛窓での昼食。鯛の刺身を氷水で身を引き締めて食する
          「鯛シャブ」が有名。

   写真(割愛) 全長約400mの大回廊。日本遺産である吉備津神社の
           名所である。

   写真(割愛) 吉備津神社境内の祈願のトンネル。

  写真(割愛) ブドウ狩りの状況。狩り放題である。

   写真(割愛) 阪急交通社からのお土産は、マスカットと柚子。

 

     【 ツーリズムEXPOジャパン2019の見学 】 ( 2019.10.27() )

   TVのニュースで知ったインテックス大阪での「ツーリズムEXPOジャパン2019」の開催。即断即決して
 最終日の10/27に見学した。
旅が最大の趣味である私が見逃す筈はない。入場料千円は
 い。開場AM10時~閉場PM5時の丸7時間、昼食抜き連
7時間見学は、歩行約12,000歩の
 過酷な見学となった。


  「世界文化の総て食べ尽くそう」との意気込みで、まず
は日本国内全都道府県の展示を
 観て、出展者と語り、議論
を行い、改めて祖国日本を再発見した。北海道と沖縄には特に
 思いが強く(日本の外国なので)、故郷九州(私は長崎
市出身)には郷土愛が溢れ出た。全国
 の9割強は旅したと
自負してはいたが、知らない事も多々あり勉強になった。

  海外では五大陸を総て見学し、もう、一日世界一周旅行
である。中国と韓国の出展規模
 も大きく、特に私が気に入
って時間をかけた国々は、スペイン、ポ-ランド、アイスランドなどで、
 アイスランド在住の日本人が出展者であった。まさに、世
界中に隈なく日本人は居住していて、
 地中海のマルタ島の話
は面白かった。又、台湾のクイズは全問正解で自信を得た。

  韓国の出展者に対して、重要な「両班」について逆レクチャ-
をしたり、ピ-スボ-トの責任者
 にはインストラクタ-としての乗船を
自薦したりした。英中韓の三言語を駆使して存分に喋れた
 とは、久しぶりで嬉しかった。勿論、出展者各位の日本
語は流暢だが、私個人の感想(意見)
 を相手に伝える場合に
は、その国の母国語で伝える方がより迫力があるようだ。

  国内では、各県の日本酒を少しずつ試飲し、アンケ-トに答
えて景品を頂き、何よりも資料な
 どを沢山貰ったので、背
中の重いナップサックに「旅の重さ」を感じて苦笑した。現在の日韓関
 係での私の鋭い質問に、韓国人の本音が聴けた。
逆に、日本の県庁(市庁)職員からは、公
 務員の立場上、返
答を忌避されたこともあったが、私的な意見が欲しかった。

  旅は楽しく、旅は素晴らしい。日本を知り、世界を更に
理解すれば世界は平和に近づく。
 無知と偏見を排して、
相互の立場や文化を理解し合うことが大切である。無視が最も良くな
 いと思う。韓国の出展者に私の日頃の思いを訴え
たが、私の本音は韓国や中国と共に日本は
 共存共栄して欲し
い。韓国人の根底には「恨(ハン)の精神」がある。それは日本の「和の精神」
 とは、本当に相入れないものなのか。

 写真(下記) 富山県の日本最古の楽器「こきりこ」による演舞。

 写真(割愛) ツーリズムEXPOジャパン2019の入場前の様子。

写真(割愛) 加賀美人のミス加賀友禅。

  写真(割愛)  福井県の若狭塗り箸の体験コ--

  写真(割愛)   カンボジア舞踊。

  写真(割愛) マレ-シア民族舞踊。

  写真(割愛) インド舞踊。


 

 【2019年9月】
        【一人娘の良縁祈願(6)、京都東山の地主神社の参拝】
                  ( 2019.09.10() )

   一人娘(30)の良縁祈願の第6弾として、京都清水寺の北側の地主神社を初めて参拝した。
 縁結びの神様の強力な
Power Spotである。久しぶりの京都東山界隈の一日散策であった。
 京都は良い。いつ来ても我が国の王城の地。千年
の古都であり至宝である。そして、縁結び
 の神社も多い。


   京阪祇園四条で下車し、松原通りを東上し清水寺に向かえば、あたりは京都東山の旅情で
 心浮き立つものがある。
清水寺に入境し、舞台(*1)から市内遠望し音羽の滝の甘露を試飲する。
 関西人には清水寺の説明は今更不要であろう。
地主神社は舞台の裏側である。石段を昇り狭い
 境内を散策
して、いつもの様に一人娘の良縁を心から祈願した(*2)

   ふと、一人娘の為の良縁の祈願と実践は、一体いつ迄続くのだろうかと思う。祈願と実践を
 車の両輪のように着実
に連動駆動させながら、計画は予定通り実施されながらも一抹の不安が
 過る。それは、成果の兆しが未だ無いからで
ある。お話は幾つかはあったが、求めるお話は、
 High-End
でもLow-Endでもなく、Volumn-Zone(普通の人)でよいのである。そんな普通の平凡
 な男性で良いのである。普通が
難しい。無論、運命の邂逅は突然であり、この婚活支援問題も
 ある日突然に氷解することは承知している。だが、そ
の日が、いつ来るのか、永遠に来ないの
 か、に思い悩む。


   参拝を終えて、京都東山界隈をそぞろ歩く。残暑の京の街には、浴衣姿のはんなり(*3)京乙
 女たちがそぞろ歩く。
彼女達にはもうHusband to be は居るのだろうか、と思いつつ、昼下が
 り、帰阪するべく京阪祇園四条駅に向かった。


   在職中、社内外の独身男女の為の婚活Partyを百回開催した。その経験と実績を活かして、
 その集大成として、我
が一人娘の成婚を遠からず成就させたいと切に祈念する。

   生物の細胞の核内には遺伝情報の本質として、蛋白質のアミノ酸配列を規定するDNAがある。
 人間の魂にも宿命の本質
として、縁のプログラムを規定する未知なるものがある、と私は思う。
 結婚するもしないも、できるもできないも各人の
人生模様だが、子孫の継承と世代交代は社
 会の基本骨格だ。
そして、何よりも「晩年に子無きは寂しい」。家族を作って暮してゆく事、
 それはやはり人として在るべき姿であろう。


   (*1)清水の舞台は、高さ13 m。下から見上げればやはり高い。

   (*2) 娘が人生を平穏無事に暮らせる伴侶との出逢いを祈願した。

   (*3)「はんなり」は京言葉。語源は「華やかなり」に由来する。

   写真(割愛) 地主神社(じしゅじんじゃ)入口の石段と鳥居。

   写真(割愛) 地主神社の境内。恋占いの石が有名。眼を閉じて、
       他方の石に歩いて辿り着けば、恋が成就するとか。


   写真(下記) 地主神社の本殿。中央の祈念中(青い背嚢)が私。

   写真(割愛) 令和元年の厄年一覧。女性の大厄は数え年の32歳。

   写真(割愛) 地主神社境内の「大国主命」(縁結びの神様)の像

   写真(割愛) 清水寺の隋求堂(ずいぐどう)の胎内めぐり。入場
        料は100円。貴重品の落下注意。堂内は真暗なので、
            落とし物の回収は不可能と何度も注意を喚起された。

   胎内内めぐりで私が体験済は、信濃の善光寺、関西は信貴山の朝護孫寺、
 四国は讃岐の善通寺。非日常の
暗闇体験は恐怖であり怖かったが、出口に
 至り陽の光
を浴びて本当にほっとした。

 


 【2019年08月】
            【一人娘の良縁祈願(4)、祈願でなく実践の大学同窓会】
                 ( 2019.08.09() )
  
   一人娘(30)の良縁祈願の第4弾として、神仏に良縁を祈願するだけではなく、現実
 に良縁獲得の実践の場を求め
て、出身大学の同窓会に出席して口頭アピ-ルを行った。

   出身大学院として京都大学化学研究所同窓会(涼飲会)本年7月開催を看過していた
 ので、先日開催の出身大学の
九州大学関西同窓会に久しぶりに出席して、同窓会場の檀
 上でご出席の皆様にご紹介依頼のスピ-チを行った。約80の皆様の反響は暖かくて大変
 良く、添付写真のように笑み
溢れる私のガッツポ-ズとなった次第である。

   同窓会に先立ち講演「認知症予防のコツはお口にあり」があり、その後に会長挨拶・
 議事審議、乾杯、懇談、出席
者スピ-チ、OBのミニコンサ-ト、出席者スピ-チ、学生歌「松原に」
 の全員合唱。そして、梅田の同ホテル内の別会場で2次会へ。料理も酒類も豪華で、会費
 6,000円は十分に満足できた。
懐かしい人々との再会、近況報告、消息の情報交換など、
 楽しく価値ある有意義な同窓会であった。

  今後も一人娘の為の良縁祈願は毎月のように続く予定だが、
10月は吉備津神社(岡山
 市)が決定している。祈願と実践を共
に車の両輪のように駆動させながら、一気呵成に
 目標を達成
したい。これは婚活支援をする「父親の熱き責務」である。釣書一式と成功
 報酬(最大五万円)を準備済なので、有志の
方に良き人をご紹介戴ければ、誠に幸甚に存
 じます。

 
 

   【京都アニメ-ションでの慰霊と献花】 ( 2019.08.22() )

  本日、悲願だった京アニの被災地を訪れ、慰霊の献花を
行った。お盆も過ぎ、妻の勧めもあ
 って、大学院生時代に
住んでいた京阪木幡の1つ手前の「六地蔵(*1)駅」傍の現地をバイクで
 訪れたのである。


  慰霊者は少なくないが、花束や色紙、PET飲料が並ぶ献
花台は今月25日以降は撤去される
 予定と聞く。間に合っ
て良かった。私は慰霊しリンドウの花(*2)を献花した。建物の周囲を歩
 いて一周し、この突然の悲劇を胸に刻んだ。


  被害者の立場からは、人生一瞬先は闇である。僅か数分
で日常の平穏が暗転して突然命が断
 たれるのは悲しすぎる。
加害者(放火者)の立場からは、世間への報復との激情もあろうが、極
 めて身勝手で断じて許されるものではない。
司法の立場として、死者35名と負傷者34名の悲
 惨さは
量刑の限度を超える極刑以外には無い。私見だが、運命論的立場からは、犯人は今世、
 死後の冥
界、来世に及んで、どんな魂の懲罰を受けるのであろうか。想像すらできないが、
 「無間地獄(*3)」かもしれない。


  私はもともとアニメには余り興味は無く、「千と千尋の神隠
(*4)」は、劇場で鑑賞中、後半は
 眠ってしまっていた。
また、前期(東京制作)NHK朝ドラは、昔から見なかった。しかし、今年
 は7月から「なつぞら」は楽しみに観ている。
世の中の人々が皆んなこの「オープニング・アニメ-ション」
 のようで
あったら、どんなに平和で幸せかと思うが、現実は厳しい。でも、パラパラ漫画のメルヘン・
 ファンタジ-の世界の話として忌避す
るべきでない。人々の心に優しい花の種を蒔いてくれるのだ。
 佛にも鬼にもなれ、神にも悪魔にもなれる人間の本性
に、毎朝8時に「優しい心」を感受するこ
 とは良い習慣だ。
「恨みは水に流せ 恩は石に刻め」(*5)は蓋し名言である。恨みは悲劇的な破
 局を誘起する。報恩は繁栄と幸福を
招来する。だから、人生において「足るを知る」を旨として、
 自分の周囲に良い波動の電波を発信することが大切で
ある。某国のような「恨五百年」は異常な
 マイナス思考である
と思う。日本と某国との関係は、現在、誠に不幸である。

  人生において誰もが理不尽な事柄に遭遇する。不満を激
情で爆発させると人生は破局的な悲劇
 に突入する場合があ
る。理不尽な事も「自らの心を磨く機会」と信じる心の度量の大きさが大切
 だと思う。人生航路は実に容易ではない。


   (*1) 京都の旧街道に安置される地蔵の1つ。伏見六地蔵。

   (*2) リンドウの花言葉は、「あなたの悲しみに寄り添う」。

   (*3) 大悪を犯した者が、死後に無限の苦しみを受ける地獄。

   (*4) 日本歴代興行収入第1位。

   (*5) 「刻石流水」。故田中角栄氏の処世訓としても有名。

  写真(下記) 放火で煤けた京アニの第1スタジオの建物。

  写真(割愛) 建物近くの献花台。

  写真(割愛) リンドウの花を献花する。

 

      【 丹波丹後の日帰りバスツァ- 】 ( 2019.08.23() )

   今夏2回目の日帰りバスツア-は、丹波丹後方面への旅で、いつもの阪急トラピックスの格安ツア-
  (8,990
/)である。


  梅田芸術劇場前にAM7:45集合。バス数台(4号車は39
名で隣は空席でゆったり)に分乗し、曇
 天の中、丹波へ。


  最初の目的地は、「めんたいパ-ク神戸三田」で、試食
の冷たい明太子(*1)は実に美味しかっ
 た。次に、「丹波
竜の里公園(*2)に近い兵庫県山南町の「川代渓谷(*3)の散策。釣り橋は揺
 れてスリルがあった。そして、丹波篠
山の「玉水」では丹波牛の鋤焼と海鮮の昼食で、酒類が
 み放題とは、これはとても嬉しかった。

  午後からは丹後へ。舞鶴港の「赤レンガパーク(*4)」の散策
では旧日本海軍のレトロな雰囲気を感じ、
 背後の「五老ケ
岳公園(*5)」からは、美港の舞鶴湾全体を俯瞰した。最後の下車観光地は、
 「舞鶴港とれとれセンタ-(*6)」で、海産
物のお買い物の後、降雨中、京都縦貫道で帰阪した。

   旅をすると一日が極めて充実する。早朝から夕刻迄の12時間は内容が濃い感動の時間である。
 だから、最近は
よく日帰りの旅をする。1万円程度で楽珍で、美食の安心旅行は、貴重な一日
 であり、歴史散策の一日でもある。
新聞広告や旅行社からの案内資料を見て、即断即決し、
 ちに旅行代金を振り込む。後は、当日行くだけである。
多くの人にとって旅とは心の洗濯であ
 ろう。私もそう
ではあるが、更に、風土・歴史・文化への理解向上の為でもある。毎回、景色
 は変わり印象も異なる。だから旅
は面白くて楽しい。私は「楽しかったね、美味しかったね」
 だけの旅では終わらせない。旅の紀行文を必ず残す
事が重要だ。次回は、10/3に岡山市の吉備
 神社の予定。


   (*1)スケソウダラの魚卵を主として唐辛子で味付した物。

   (*2)2006年、丹波市で恐竜の化石が発見され丹波竜と命名。

   (*3)篠山盆地より流出の篠山川により築かれた渓谷。桜の名所。

   (*4)明治時代に建てられた旧海軍舞鶴鎮守府の保管倉庫。

   (*5)「近畿百景」第一位選出の絶景。海抜は約300m

   (*6)舞鶴港での水揚げの魚介類や丹後地方の名産品販売の観光施設。

 写真は、舞鶴港の「赤レンガパ-ク」で、旧日本海軍の往時を偲ぶ。
        以下、掲載割愛。

写真(割愛)「めんたいパ-ク」の建物。工場見学は面白かった。

 写真(割愛) 川代公園」の吊り橋。一時的な豪雨に見舞われた。

 写真(割愛) 昼食メニュ-丹波牛鋤焼の賞味は良好であった。

 写真(割愛) 舞鶴港の西半分の眺望。東遠方に青葉山を望む。
      別名
は若狭富士。標高693m,692mの秀麗な双耳峰。

 写真(割愛) 舞鶴の「とれとれセンタ-」の様子。価格は普通である。

 写真(割愛) 阪急トラピックス(阪急交通社)からのお土産(無料)
        メロンと
ブドウの味は良好であった。

 

    【 Panasonic㈱旧無線研究所の盛大なOB会 】 ( 2019.08.24() )

   今夏も恒例の旧無線研OB会が盛大に開催され、喜んで出席した(*1)。例年約150名だが今年
 は約190名に急増し
た。会場は、門真市の「松心会館」で、第1部総会では津賀社長、宮部専
 務、廣田組合委員長の挨拶があり、第2
懇親会は初参加者33名、女性31名で、実に華やかだ
 った。


   無線研究所は昭和24年に無線製造所技術部の研究課に起源を持ち、平成8年に47年間の歴史
 を閉じた。京阪西
三荘駅傍らの今は公園の敷地が、技術者集団の「兵どもの夢の跡」である。
 旧構内には旧本社や幸之助創業者のご自
宅もあって、中研と双塔をなす松下の技術の開発拠点
 であ
った。約600名の所員は、機器・機構・材料部品・間接部門に所属し、極めて暖かい家庭
 的雰囲気の中、新人育成の
自由な気風に溢れ、ZNR(*2)DD--(*3)等の発明が行われた。
  夏の全体宿泊旅行や冬のスキ-ツア-、文化行事、技術内
覧会等の思い出が想起される。社内で
 「無線家族」と羨望
される随一の家族的集団である。親しかった某女子社員の「あの頃は青春
 でしたね。」に私は全く同感だ。また、仲
4人で人事課長のご自宅を訪れ翌朝まで飲んだこ
 とは、
今となっては信じられない程の良き時代の思い出である。

   懇親会では私はさっさと食事を済ませ、ビデオカメラとデジカメを首に掛け各テ-ブルを巡る。未知
 の先輩も居るが多くは親し
い良き先輩・後輩であり、名札を見て過去の楽しい記憶が瞬時に蘇
 る。昔話に花が咲き、後日談の披瀝も頻繁だ。今
となって言える事もある。皆んな毎年再会し
 ているが、少
しずつ経年していく。この1年間の物故者は15名だが、お世話になった先輩も少
 なくない。動画と静止画を撮りま
くり、私は大切なメモリ-を保存しつつ飲酒と談笑を続けた。

   今回で第27回目(*4)の開催であるが、この継続が素晴らしい。現在、京阪電車の車窓から瞬
 時に過ぎ去る旧無線
研跡地には感慨が深い。昭和54年配属からの16年間の化学技術者生活。当
 時、研究開発に精進した塗布型磁気記録
媒体(*5)は、今は技術革新によりBDや半導体メモリ-(SD,
  USB)
等に駆逐された。日進月歩で隔世の感と少しの寂寥感・・・。

   私は無線研では自他共に認める有名人(*6)だったと自負している。多くの知人や友人を得た
 事がその証左である。
皆んなが家族であった。素晴らしい16年間は本当に感謝であり、前半生
 の2642歳の間の貴重な記憶遺産である。


  (*1)  案内状回収率95%、参加率68%は、毎年ながら驚異的。

  (*2) 酸化亜鉛非線形抵抗素子(ZNR)。サージ-(異常電圧)アブソ-バ-あり、「雷を吸う石」
    として内橋克人著「匠の時代」講談社文
庫、初版1982年に詳しい。内橋克人氏は日本
    の経済評論家。


  (*3) Direct Driver Motor。従来のメカガバナ-、電子ガバナ-から飛躍的に性能を向上させ
     た駆動方式。同上の「匠の時代」参照。


  (*4) 本会は会員の紹介による会員制で、会費は5,000円。毎年5月以降に往復葉書が届く。
    27年間の連続開催である。


 (*5) ビデオテ-プ、フロッピ-ディスク(CFD)などの製品。

  (*6) 課室や職制の枠を越えた交流会「ユニーク会」、「牛込劇団」、新入配属者の為の
    「合同同期会」は、私が発案かつ主催者。

 写真(下記) 懇親会風景1、右端から5番目が津賀社長。私は右端。

  写真(割愛) 懇親会風景2

  写真(割愛) 懇親会風景3、食事内容。

  写真(割愛)  懇親会風景4

  写真(割愛)  懇親会風景5、中央は津賀社長、左隣は宮部専務(技術担当)

 

    【一人娘の良縁祈願(5)、親の代理お見合い参加】( 2019.08.19() )

   一人娘(30)の良縁祈願の第5弾として、親の代理お見合いに参加した。大阪梅田の某所で、
 会費5,000円、
10人対10人の回転式の懇談で全2時間である。事前に、簡単な釣書と写真を郵送
 し、当日にそのプリント用紙と一覧
表を基に懇談し、話が合えば連絡先を交換して、その後に正式
 な釣書を相互に郵送し合う方式である。私は勿論初め
ての体験であり、いろいろと勉強になった。

  まず、ご子息側の包括的な状況であるが、全員が初婚で
大卒以上である。平均年齢は高く、公
 務員や会社員が多く、
関西在住の家庭が大部分である。ほとんどが母親単独の参加で、父親の参
 加は私だけであった。他方、ご令嬢側の平
均年齢は男性側より少し低いが、一覧表は当然不配布
 だ。


  時代や世相を反映してか、子供の縁談で悩む親御様は少
なくない。我が家の娘は30才で婚活開
 始直後で今は年齢
的な余裕もあろうが、その余裕もあと数年しかない。だから私は、この人生の
 大事を一気呵成に進めたいのである。


   この親同士の代理お見合いには利点がある。親同士が気が合えば話は速くなる。両家で子供を
 説得できる。婚約・
結婚までの過程が円滑になる。今時は本人同士の意志が最優先で、結婚は両
 家の事情・都合・利害は2の次である。
しかし、祝福される結婚を永く維持する為には、諺にあ
 る
「釣り合わぬは不縁のもと。」は、古来より真理である。更に婚活支援を進め、娘の身の程の
 ご縁を得たい。

 


 【2019年07月】
           
【 岡山県の日帰りバスツァ- 】 ( 2019.07.14() )

   今夏の旅の予定は、東京旅行の計画を変更して、日帰りバスツァ-とした。前半(7/14()
 9,990)が岡山県、後半
(8/23()8,990)が福井県で共に阪急トラピックスである。
  
   梅田芸術劇場前にAM7:30に集合。バス3(満員46)に分乗し、曇天の中、中国自動車
 道を西走する。スマホで世
界の名曲をイヤホンで聴きながら、気分は快適である。

   最初の目的地は、一面に咲き誇る「南光ひまわり園」で、こんな風景は初めてであった。
 「ひまわりが本当に太陽に
顔を向けてるんだ」という驚きは、やはり新鮮だった。

  次の目的地は、図らずも歴史好きの私には嬉しい宮本武
蔵の生家。現在の建物は往時
 (400年前)とは当然異なる
が、場所は同じとのこと。このような山河の中で、剣聖宮
 武蔵は育ったのかと感慨深いものがあった。観光農園で
はとうもろこし狩りが予定されて
 いたが、前夜の大雨で畑
が泥沼化しておりできなかったが、各自1本ずつ頂いた。

  昼食は、渓流の傍のレストハウス。バイキングの食材は50種類と
豊富で、日頃のダイエット習慣も忘
 れて食べ過ぎてしまった。
果物が美味しくて、冷たい蕎麦や、ママカリ(岡山名産魚)も流石に
 珍味であった。山川の景色も御馳走の助演者である。


  最後の目的地は、美作富士日名倉山(岡山兵庫県境)中腹
にあるベルピ-ル自然公園。鐘楼の
 「愛の鐘」は日本最大の西
洋ベル。左の直径2m、重さ6tは低い「ソ」の音階で、右の直径
 1.5m、重さ3tは高い「ド」の音階。しばらくロ-プと格
闘して、やっと両鐘とも鳴らすこと
 ができた。濃霧で真っ
白で眺望は全くだったが、鐘の響きはとても荘厳だった。

  そして、小雨の中、中国自動車道を東走して帰阪した。
日常を離れ自然と歴史と食事に
 親しむ。旅の喜びである。

 写真(下記) 南光観光農園(向日葵畑)

  写真(割愛) 宮本武蔵の生家

  写真(割愛) 昼食バイキング会場(60分、食べ放題、通常1,200)

  写真(割愛)  果物や蕎麦、岡山名産魚「ママカリ」などが美味しい。

  写真(割愛)  ベルピ-自然公園(岡山兵庫県境、美作富士日名倉山、
            鐘楼「愛の鐘」(標高865m))

  写真(割愛) 阪急旅行社からの本ツァ-参加者へのお土産

 
 
    【一人娘の良縁祈願(3)、丹波国出雲大神宮の参拝】 ( 2019.07.09() )
   
   一人娘(30)の良縁祈願の第3弾として、太郎坊宮に続き、京都府亀岡市に在る丹波国
 一之宮の出雲大神宮(*1)
参拝した。日本一の縁結びの神(大黒主命)(*2)と言われる。

  京都駅から嵯峨野線(山陰本線)の千代川駅で下車し、東へ歩き、月読橋を渡って千歳車
 塚古墳を過ぎ、山裾の当社
に至る。正門の千年宮鳥居を抜け、右手の真名井の水で手口を
 清めれば、眼前には有名な「夫婦岩(*3)」がある。本
殿を参拝し、厳粛に第三回目の良縁
 祈願を行った。次に、
社務所で襷を拝借し、ご神体山(国常立尊)に歩みを進める。笑殿社
 や上の社を拝し磐座(*4)に下れば、巨山と巨岩に対
する古代倭人の信仰心が首肯される。
 古代の古墳や「御蔭
の滝」もあり、境内域は中規模だが見所は少なくない。

  さて、思わぬ発見があった。それは獅子の珍談である。
誰もが高校の古文で学んだ徒然
 草236段「丹波に出雲とい
ふ所あり」の舞台が、正にこの出雲大神宮なのであった。話の
 粗筋は以下で、後半の原文を(*5)に掲載する。

   「聖海上人が、拝殿前で背中を向けあう獅子と狛犬に感心して涙し、神官にその由緒を
 尋ねた。神官は、悪戯な子供
たちがしたけしからんことだと言って、近寄って元の様に
 え直して行ってしまった。上人の感激は無駄になってし
まった。」 
  徒然草でも特に印象に残る有名な段である。


   約2万歩を歩いて亀岡盆地を往復した。返り見すれば、御神体の山は壮麗でもなく、何
 故、丹波国一之宮なのかも
解らなかった。だが、亀岡盆地は古来より肥沃(*6)でかつ平坦
 広大である。また、出雲族の勢力範囲の東端だとこの
旅で初めて知った。更に、歴史的史
 実として、この出雲大
神宮より分霊されて、山陰の出雲大社が建立されたとの史実がある。
 云わば、こちらは元祖出雲である。我々の日常
の常識は、旅で現地を訪れると、時には覆
 され払拭される
ことがある。これは旅の発見に基づく感動と教訓である。

   現在、心ある方々に釣書一式を順調にお預かり戴いている。ここで教訓にすべき事は、
 お相手様の釣書の内容だけ
で判断しない事である。思い込みは禁物で、現場・現物・現実
 の三現主義で、実際に会ってみるべきである。実際に
会ったら、話が弾み、自然に次回の
 再会を約束する。そん
な二人は「ご縁がある運命の二人」の確率が高いようだ。

  (*1) 丹波国は、出雲vs.大和 両勢力の接点であり、古代には社殿は無く、元明
   天皇和銅二年(西暦709)に初
めて社殿が造営された。現在の社殿は鎌倉末
   期の建立
で、ご神体山(御蔭山)は古来より禁足の地。出雲大神宮の別名は
   「元出雲」である。

  (*2) 日本神話に登場する有名な縁結びの祭神。

  (*3) 当社の縁結びのお守りの赤い糸を解き、五円玉か五十円玉を通し、この夫
   婦岩に結んで祈願するのが作法。

  (*4) 「本殿裏の御蔭山からの霊気がこの巨岩に宿っている。」と信じられている。

  (*5) 上人なほゆかしがりて、おとなしく物知りぬべき顔したる神官を呼びて、
   「御社の獅子の立てられよう、定め
て習ひあることに侍らむ。ちと承らばや」、
   と言はれけ
れば、「その事に候。さがなき童どもの仕りける、奇怪に候ふこと
   なり」とて、さし寄りて、据えなほして往に
ければ、上人の感涙いたづらにな
   りにけり。

       作者吉田兼好の名文がこの故事を軽妙に伝えている。

  (*6) 丹波の「丹」とは、「朱い(赤い)」意味である。丹波とは古代米(赤米)の稲
   穂が波のように見える肥沃な土地
の意味に由来するとの説がある。又、辰砂
   (赤砂)、即ち、
硫化水銀(水銀アマルガム法の利用)の産出に由来とも。

  写真(下記) 夫婦岩の前で参拝記念撮影

   写真(割愛) 出雲大神宮の正面(千年宮鳥居)

  写真(割愛) 徒然草236段に登場する獅子

   写真(割愛) 日本国歌に詠まれた「さざれ石」

  写真(割愛)  真名井の泉。要煮沸となっているが飲用可

  写真(割愛) 苔むした巨岩の磐座(イワクラ)

  写真(割愛) 境内に在る古墳(横穴式石室、5-6世紀後期)

  写真(割愛) 大黒主命に関係する白兎(しあわせなでうさぎ)

 

 【2019年06月】
           【 一人娘の良縁祈願(2)、近江国太郎坊宮の登拝 】
                 ( 2019.06.20() )

   一人娘(30)の良縁祈願の第2弾として、出雲大社に続き、滋賀県東近江市に聳える
 秀麗なる太郎坊宮(*1)を登拝
した。関西では有名な「勝運授福のパワ-スポット」である。

  JR近江八幡駅から近江鉄道4つ目の太郎坊宮駅で降り、写真のように美しい太郎坊山
 (赤神山*2)に向かって参道を
歩めば、梅雨入り前の晴天下、旅の探検心が湧き上がる。
  自宅が在る寝屋川市から、信州方面にバイクで往来する度に、いつの日かあの頂に登頂せ
 んとする積年の宿願が、茲にほ
ぼ達成されて、今は心が晴れた思いである。

  正面山麓の石の鳥居から、七百四十段余りの石段を直登
するコ-スには、参集殿社務所、
 長楽殿、永安殿等があり、有
名な夫婦岩(*3)をくぐり抜け、遂に本殿に至る。良縁祈願
 を厳粛に行い、眼下に広がる湖東平野の蒲生野を見渡せば、
農地は肥沃にして、琵琶湖は
 見えず遠い。涼風に汗を拭い、
しばし旅の喜びを感じるのである。(*4)
  少し戻って、右手のハイキングコ-スを捲り、赤神山の真の頂上
を目指す。700mを一人で黙
 々と歩き、頂上の磐座に至れば、
見下ろす少し低い副峰は神聖不可侵の秀麗なる頂(*5)
 であ
った。無論、古来よりこの副峰へ至る小径は無い。

  太郎坊・阿賀神社は、約1400年前の創祀であり、爾来、
数多の修験者が訪れ、その姿は
 太郎坊天狗として今に伝わ
る。天台山岳仏教と修験道が交わる独特の信仰が形成された。
 ご祭神は天照皇大神の第一皇子神であり、勝運授福の
ご利益があると伝えられる。従っ
 て、娘の婚活で勝運の福
を授かるべく、私は良縁祈願の登拝を奉じたのだ。

   下山時、社務所で「かわらけ投げ(*6)」を試みたが、3回連続で的輪を大きく外し、練
 習が必要だと痛感した。婚
活でも、中には初回のお見合いで成婚となる場合もあるが、
 くは何回もの出逢いと別れが必要である。幾度か涙で枕
を濡らした夜を経てこそ、運命
 の伴侶に邂逅するものであ
る。実に、「男女の縁結びの修業道は苦楽の道程」である。

   我が娘の「生来の結婚運(*7)」が幾ばくかは知らねど、父親として積善の陰徳を余慶と
 して与えてあげたい。(*8)
 釣書一式を心ある皆様にお預かり戴いているが、今は娘本
 も我ら両親も良い運気なので、一気呵成に大願を成就し
たい。その為に、更に良縁祈願の
 第3弾を企図している。

  (*1)  鎮座地の赤神山(357m、太郎坊山)は岩石が露出し、見るからに神秘的な
    神宿る霊山である。(
;パンフレット) 韓国ソウル市の大統領官邸(青瓦台)
    背後に聳える北岳山(342m)に良く似ている。

  (*2)  正面から眺めれば、富嶽に似て極めて秀麗であるが、側面から見れば象
    の形で、言わば片富士
である。岩手山(2,038m)や鎧岳(894m)も同様。

  (*3)  高さ数十mの男女の巨岩。神力で長さ12m幅は0.8mに切開された。通れる
    者は病苦を除き諸願
は成就され、悪心ある者は岩に挟まれると伝承。

  (*4)  未知なる土地を初めて訪れ、見るもの聞くものの総てが好奇心の対象で、
    新知識が増えてゆく。
まさに、旅の喜びであり、充実した一日となる。

  (*5)  写真は山頂から見る赤神山の副峰である。地元ではかって「松茸山」とも
    呼ばれ天然の松茸が自
生していたが、現在ではもう採れないと聞く。

  (*6)  高い所から素焼きの土器を投げ、遠方の的輪を通せるかで吉凶を占う。3
    で200円であった。
練習しないと難しい。特別の技術が必要かも。

  (*7)  結婚問題は人生に於いて「大きな研修課題」であるが、その軽重は各人で
    種々に異なるのだ。
大いに悩むか、全く悩まないかは、宿命である。

  (*8)  私は110回の「独身男女の出逢いの会」を主催し、17組が成婚した。慶賀の
    至りである。

    写真(下記) 太郎坊宮が鎮座する赤神山の遠景 (本写真以外は、割愛))

    写真(割愛) 太郎坊宮の案内地図

    写真(割愛) 急勾配の石段は、鉄管の手摺が完備

    写真(割愛)  有名な夫婦岩は感動もの

    写真(割愛)  太郎坊宮の本殿からの眺望は抜群

    写真(割愛) 太郎坊(赤神山の山頂)より副峰を望む

 

 【2019年05月】
           【 最新建立の尼崎城の見学 】 ( 2019.05.03() )

   皐月晴れの令和元年五月三日。夕刻からの西宮北口での氷川きよしコンサ-トを控え、
 午前中は阪神尼崎駅東南直
ぐの念願だった最新建立の尼崎城をゆっくりと見学した。

   尼崎には阪神工業地帯の煤けた街並みの印象しかないが、お城好きの私でさえかって
 茲に尼崎城(*1)があった史実を
知ったのは数年前であり、訪れると僅か石碑だけが有っ
 た。
だが、最近、篤志家(*2)の支援を得て、真新しい白亜の天守閣からなる尼崎城が建
 立され、公園として整備された。


  早速訪れた私には、古色蒼然の古城とは真逆のピカピカの
天守閣は新鮮な驚きであっ
 た。打込接ぎの石垣、純白の白
壁、石落としや千鳥破風と唐破風(*3)も備えた四層の天
 守
閣が、浅いが清らかな内堀と広い芝生を完備した尼崎の新名所となったことは喜ばし
 い。天守閣内の各種展示と、学
んで遊べる遊戯施設や着付けコ--は楽しく、入場料五
 百円
の価値はある。高さ約24mの天守閣の規模は、所領の五万石に比べてやや大きいと
 感じた。


  我が国日本には、現存12天守閣を含め約五万とも言われる城郭や城址がある。この尼
 崎城は最新の再建城であり、
中国街道上の平城である。大坂夏の陣直後の幕府による
 「
一国一城令」(*4)の発布にも拘わらず新たに築城が命じられ、阪神間唯一の城下町と
 して繁栄したことは、尼崎の陸
運・海運を含めた地政学的重要性によるものであろう。
 城
下町は八町で、最盛期には二万人が居住していた。

  天守閣とその周辺の見学を行い、何もかもピカピカで、新
高層マンションの感なきにしも非
 ずだが、そこは城郭であり、
日本人の心にはしっとりと馴染むのである。お城好きの日
 
本人、とりわけ、私は日本城郭検定(3)の有資格者だが、将来の地震・津波そして落
 雷火災への万全な対策を期待し
たい。この新しき城がまずは百年、保全されることを祈
 願
する。そして、更に百年、もう更に百年・・・と期待する。

  尼崎のギャルが携帯で「モシモシ、今尼やねん」と話している。
その話し声に、大阪ならぬ
 コテコテの尼崎人のロ-カル性を感じる
私だが、かっての尼崎には繁栄の象徴としての天守閣が
 聳
えていた。今日、阪神尼崎駅から見える再建尼崎城の雄姿に、篤志家様に感謝する思
 いがある(*5)。栄枯盛衰は世の
常であり、陽はまた昇る。古城は廃城から復活したのだ。

  (*1) 摂津尼崎琴浦城。西国支配の拠点の1つとして、元和3(1617)より、譜代
    大名戸田氏鉄が築城させ、三百
-トル四方、三重の堀、四層の天守閣を持つ。
    250年間の
偉容を誇った後、明治に至り廃城・取り壊しとなった。

     (*2) 家電量販店ミドリ電化(現、エディオン)の創業者である安保詮(アンボアキラ)氏
     が
、私財を投じて尼崎城址公園内
に尼崎城本丸を再建し、創業の地である尼
    崎市に寄贈した。

     (*3) 主に天守閣を装飾する屋根瓦の様式。千鳥破風は三角形である。唐破風は
    反った曲線状の形であり日本特有。

     (*4) 慶長20(1615)613日に江戸幕府が制定した大名統制の法令。一国
    には大名が居住または政庁とす
る一つの城郭を残して、他の城は総ては廃
    城にする事。


     (*5) 浮世で得た富(資産)を公共に寄付し、後世に建造物として残す。素晴らし
    いことである。大阪で言えば、岩
本栄之助による中之島公会堂の寄進と同
    様である。

    写真(下記) 新築で眩しい尼崎城の天守閣( 掲載、その他の写真は割愛 )

  写真(割愛) 戦国武将姿の私

  写真(割愛) 西国包囲網としての徳川の尼崎城

   写真(割愛)  天守閣内の遊戯場

  写真(割愛)  尼崎城天守閣の遠望

   

     【 中央電気俱楽部での卓球大会と懇親会 】 ( 2019.05.13() )
 
   大阪市堂島浜の中央電気俱楽部(*1)は、築105年の建物で、由諸正しき会員制の交流会
 館である。知人のMさんの
紹介(*2)で、今回の卓球大会と懇親会のご案内を頂戴した。

   卓球は久しぶりだったが、院生時代は研究の合間の時間に毎日のように仲間と励んでい
 たので、多いに自信はあっ
た。しかし、前半のシングル戦は悲惨で、体がついて行かず、
 動体視力も低下しており、マイラケットを持参した割
には、結果は酷いものだった。
   しかし、後半のタブルス戦は、動きにも慣れ、どんどん調子が出てきた。私の得意とす
 る強い左回転の低い軌道の
サ-ブを、相手が適切にレシ-ブするのは難しい。レシーブし
 ても、髙くて遅くて甘い軌道の返球となり、私のペア
の選手が強烈に打ち込む。かくして、
 ダブルス戦では我々
は優勝した。私はやっと面目を施した次第である。

  参加者は男女混合で、セミプロ級から初心者までいて、
沢山の白球を打ち尽くして練習
 するが、卓球台の周辺で長
い虫捕網で白球を採取して周っている人が可笑しかった。なるほ
 ど、纏めて捕球すれば練習にも専念できる。


   2次会の懇親会では参加者も増えて、歴史あるラウンジ
で美味しいビ-ルと料理の数々
 を賞味した。自己紹介の
時間や名刺交換の時間帯もあり、VIPの方々との人脈も拡大できた
 ことは喜ばしいことであった。


   今回の教訓として、過去、身に付けた技術は体が覚えている事である。だから、勉強も運
 動も努力は大切である。
神が与えた生来の才能などは無く、現世での自らの才能は、本人が
 前世で努力によって獲得した才能なのである。実に
知的見識、運動能力、芸術の才能などは、
 過去世、現世、
来世と、肉体は滅びても継承されるものだと私は信じる。

   だから努力は貴いのであり、私の口癖であり信条でもあるが、「努力なくして感動なし、
 感動なくして人生なし。」な
のである。これを中国語(*3)に訳して私は中国人にも次のよう
 に話す。「没有努力就没有感動、没有感動就没有人生」
と。今まで、すべての中国人が、同
 感だと言ってくれた。

   我がモット-は「人生を真面目に楽しく前向きに」であるが、今後も、コツコツと努力し
 て高みに至りたい。努力が
無ければ人生が無いことと同じことだと、私はそう思う。

  (*1) この会場で、昭和7年に松下電器の命知元年の大会が開催された事は、
   社史にも残る超重要事項であり、
私は退職後にやっとご縁を得て来館
     できたのである。

  (*2) 会員およびその同伴者でないと入館は不可の規約があり、関西の由緒
   ある紳士淑女の社交の会館である。

    (*3) 中国語の主流である「普通語」である。上海でも、上海語ではなくこ
   の「普通語」が良く通じる。

   写真(下記) (1次会)卓球大会の参加メンバ-の記念写真。

  写真(割愛) 練習風景。

  写真(割愛) 私のポ-ズの写真。

  写真(割愛)  森山さんとペアで、ダブルスで優勝。

    写真(割愛)  (2次会)懇親会の風景。

 

 【2019年04月】
           【 今年は中国語教室の皆さんと吉野の花見 】( 2019.04.14() )

  毎年バイクで出かける奈良県吉野山の花見だが、今年は中国語教室(*1)の皆さんと近鉄電車で出
 かけた。少し小雨模
様だったが楽しかった。ただ、やや体力の衰えを感じた。

  早朝、一足先に急行(*2)に乗り、吉野駅で待っていると、中国語の于先生と日本人生徒5名が
 到着。バスで中千本へ
(450)、更にバスで奥千本(400)へと向かう。そして、義経隠れ塔を見
 学して、西行庵で正午頃に昼食とした。
旧僧院跡を巡って、大峰奥駆道の女人結界碑(*3)まで足
 を延ばした。後は、駅までの約12kmの下り坂をゆっくり下った。下山途中の高城山展望台(*4)
 らの眺望は、毎年の
ことながら実に素晴らしい。上千本の吉野水分神社、花矢倉などの源義経関
 連史跡を経て、中千本の金峰山寺蔵王堂
に至る。そして、銅鳥居と黒門を経て、下千本の吉野駅
 に
到着する。途中の参詣道の両側は売店の数々。鮎塩焼き、吉野葛、吉野杉の製品、陀羅尼輔丸
 (漢方胃腸薬)などが売
られている。これも桜の名所(*5)として天下に名高い吉野の旅情である。
 近年、桜を愛でる欧米人の来訪者が多い。


  実は、私はやや重いリュックのせいか、下山の途中から下部背筋に違和感から痛みを感じ、休まな
 いと歩けなくなった。
仲間の皆さんに心配とご迷惑を掛け、リユックを持って貰ったり介助もして貰
 った。思わぬ不覚であり情けなかった次第
である。なんとか吉野駅に到着し、特急指定席で帰阪
 した。
その休息のせいか、阿倍野橋駅からはすっかり痛みもなく歩けるようになっていた。元気
 で帰宅できてよかった。

  今回の事は今後に活かすべきで、以下の教訓となった。

  1. 重いリュックを背負い長時間の山道の下山は背筋痛を誘起。

  2. 足は痛くはなくても、小休止なしでは連続歩行は困難。

  3. 荷物の軽減が肝要。不要品は可能な限り持参しない。

  4. 山歩きの単独行は危険。転倒の懸念もあった。

  山歩きでこのような歩行困難の経験は初めてであった。人生には時として予期せぬ事が起こる。
 この小さな失敗
を大きな事故回避の為の教訓として、肝に銘じたい。同行の皆さんのご援助に感
 謝を申し上げます。どうもあ
りがとうございました。これに懲りず、来年の花見もまたお誘いの
 程を宜しくお願い致します。深謝、多謝。

  (*1) ツインヅ言語学校(新大阪すぐ) 代表は于大康さん

            (中国山東省出身) http:///www.twins-language.com

  (*2) 特急券(近鉄阿倍野橋-吉野)540円を節約。時間は、急行は特急より約20分遅れて到着。

     乗車券は、大阪阿倍野橋駅から吉野駅へは970円。

      (*3) 碑文には「従是女人結界」と刻字され、往時は女性は茲より先へは進めなかった。
     現在は勿論可能である。

  (*4) 標高は702 m。多くの散策者が訪れ眺望が素晴らしい。

  (*5) 日本第二の桜の名所は、信州の高遠城跡だと私は思う。

  (写真下記) 奥千本の西行庵での集合写真 (掲載、その他の写真は割愛))

    (写真割愛) 西行庵前の東屋で昼食風景

  (写真割愛) 女人結界の碑文

  (写真割愛) 吉野水分神社

    (写真割愛) 吉野桜の眺望(吉野のポスタ-風景、蔵王堂の遠望)

 

 【2019年03月】
           【おもろい街大阪の「第1回道頓堀文化芸術サロン」】
                 (2019.03.17()、PM4-7時)

   大阪はラテン系のおもろい街である。第1回道頓堀文化芸術サロンのご案内を頂き、
 期待を膨らませて出席した。
場所は、道頓堀南岸のインド料理店「道頓堀ミティ-ラ」
 
(*1)で、落語・オペラ歌唱・インド料理、そしてバイオリン演奏の実にコテコテの大阪
 らしい融合企画であった。
出席者は30名程度。多彩な顔ぶれで、会費は4,000円。

   初に、司会者からのクイズは、道頓堀の由来・戎橋の由来・戎橋の1日の通行者数
 であり、各々の答えは安井道頓
尽力・今宮戎への参道・約30万人であり、私は最初
 の1問に
正解した。

   次に、落語家桂福丸(*2)さんの落語「寝床・元犬」があり、最前列中央2mの至近
 距離で聴く上方落語は、絶品であった。


   更に、河本裕子(*3)さんのオペラ歌唱は、♪ 私のお父さん、オ-ソレミオ等の馴染み
 の歌曲が多く、最後の
アロハオエは出席者の全員合唱で、一体感に包まれ楽しかった。

  ここで、食事タイムとなり、香辛料たっぷりの小品とインド料理定番のナン、インドビ-ル、
 赤ワインを堪能した。


   そして、東京芸大卒の桑田佳奈(*4)さんのバイオリン生演奏は「情熱大陸」で、私の
 リクエストの「エトピリカ」にも
即時にアンコ-ル演奏されたのは、さすがであった。

   最後は、出席者同士間で交流を深め、ご案内の文字通り、「落語とオペラとインド料
 理de優雅で楽しい日曜日」とな
った。

   私は生来の性格から、未知の環境や人々の輪の中に飛び込む事には何の躊躇もない。
 新しい文化圏に突入しその文化に
触れることは、我が大いなる喜びでもある。特に、外
 つ国の
文化への遭遇には、猶更に心が躍り、高揚感は満載である。和の古典落語・洋の
 オペラ歌曲・亜細亜の印度料理、そし
て、日本が誇る葉加瀬太郎のバイオリン演奏曲。気
 さくな大阪
の街の中心の道頓堀で楽しむこれら異種文化の融合企画は、京の「はんなり
 文化」と峻別する「ほんまもん文化」(*5)だ。
人は文化を育て、また文化によって育て
 られる。豊かな知
性と感性は人生を牽引する両輪であり、人生の豊饒さそのものである。
 だから、私は世界の文化芸術を心から愛する。


  (*1) 本格的インド料理店 (道頓堀MITHILA)大阪市中央区道頓堀1-6-14平松扇屋
    ビル2F (松竹座すぐ)

     (*2) 神戸市灘区出身。灘中高を経て京大法卒。師匠は4代目桂福団治。芸名の
    名付親は藤本義一。入門から僅か
1ケ月で高座。英語落語で米国でも講演。
    受賞多数。

     (*3) 夫と共に、神戸市東灘区で「ピーチ音楽教室」を経営。

     (*4) 東京藝大付属音楽高校から東京藝大へ。バイオリン専攻で、葉加瀬太郎の後輩
    である。

     (*5) 好悪を問われれば、私は「ほんまもん文化」派だ。東京/京都に対する羨望
    を持ちつつも、「浪速のど根性」
を大切にしたいと思う。

    写真は、交流会に残った出席者有志の集合写真。

 

    【 一人娘の良縁祈願の為に、出雲大社を昇殿参拝 】 ( 2019.03.30() )

   今年1月に満30歳を迎えた娘の、婚活支援を開始した。自宅のリフォ-ムは総て完了して
 釣書類も作成し、準備段階の
仕上げとして、出雲大社の昇殿参拝のツア-に参加した。
 「良縁とは待つものではなく積極的に掴むもの。」とは私の信念である。今まで、本人
 の自由な婚活活動に任せて
いたが、もう娘の年齢的には待てなくて、親としての援助
 必要性を痛感した次第である。「なんとかなるさ」の言
葉は私の辞書には無い。時(
 齢)を味方に付け、着実かつ
速やかな行動を起こす必要があると判断した訳である。

  出雲大社神楽殿での昇殿参拝は実に厳粛で、身が引き締まる思いであった。太鼓の響
 き、お祓い、巫女の神楽は日
本文化の祖型を強烈に感じさせ、古代人への熱い思いを訴
  求させる。生まれて、結ばれて子を成し、幾代も世代を繋ぐ人の世の悠久の歴史に、恐
 れ敬いて揺るぎ無き「純粋な
something」を体感して、ただ感動で頭を垂れる私なの
 あった。

  現在、人の子の父親となり早三十年。ただただ一人娘の良縁を願うばかりである。娘
 の身上書、親族書、写真、ご
参考、誓約書を釣書一式として準備した。ご参考には、娘
  本人の希望を、私の誓約書には成婚入籍の暁の謝礼金(数万)の詳細を掲載させて戴い
 た。今後は、広く心ある方々に
ご紹介の程、宜しくお願い申し上げたい。

  日本の俚諺に「袖すり合うも多生の縁」とあり、縁談が不成立の場合には、巷間「ご
 縁が無かった」と慇懃に言わ
れる。中国の諺にも、「有縁千里来相会、無縁対面不相識
  (縁ある者は千里の彼方からもやって来て会い、縁無き者と対面しても全く知り合わな
 い)、とある。

  世の中では、最初から離婚する為に結婚するカップルはいないだろうが、結果として、お
 互いのカルマの解消として離婚と
いう試練を受忍するカップルがいる。逆に、素晴らしい出逢い
  と幸せな結婚をして、二人揃って社会に貢献する素敵な夫婦も有る。
  34年前の今日(6/1)、私は妻みどりと運命的な邂逅をし
た。京阪樟葉ゴルフ場のミニコ-スの
 最終ホ-ルで、ダブルホ-ルインワンが
起こった。今日より35年目の我らの家族。その一人娘の良
 縁を心から祈願する。これは親心の切なる祈りなのである。

  (写真下記) 出雲大社本殿にて、昇殿参拝はこの本殿ではなく、神楽殿で
        行われる。

  (写真割愛) お賽銭は毎年関西の初詣での金額の10倍とした。妻と娘と私
        の三人で三等分した。名前の上に五円
玉を乗せ、良き「ご縁」
        を祈願した。

  (写真割愛) 古代の出雲大社の三本柱の遺構の位置とサイズを示す。

  (写真割愛) 古代の出雲大社の本殿の想像図である。

  (写真割愛) 御祭神である大国主大神の因幡の白兎のモニュメント。

  (写真割愛) 祖国日本の国歌にも歌われた「さざれ石」。

 

 【2019年02月】
           【 自宅周辺の古墳に魅せられて 】 ( 2019.02.05 )

  最近は、年齢のせいか古墳が愛おしい。今年も新年早々から自宅周辺の五ケ所の古墳を散策
 した。場所は、北摂のJR東寝屋川
駅周辺である。それぞれに味わいがあり、魅了されている。

  何故に、私は古墳に魅了されるのだろうか。要点を纏めると、

  第1に、古代の貴人や権力者の実存の確実な証拠である(*1)

  第2に、副葬品などから、往時の文化や風俗等が偲ばれる(*2)

  第3に、建造場所や規模や状態から、時代背景が考察される。

  第4に、墓誌等の発掘で、考古資料と文献資料が直結する(*3)

  第5に、多くは公園として整備され、現代人を和ませている。

  古人が確かに実存したという圧倒的な証拠は、千数百年の星霜を経て、私の心に歴史の重みを伝
 えるのである。往時の写真は無
く動画もあるはずもない。今、私達はこの日常生活を動画として
 し、未来永劫にまで継承できる技術の手段を有している。だが、
往時は、簡単な墓誌・石室・石棺・
 埴輪・銅鐸・刀剣等の副葬品、他
のみであった。だが、想像の域を出ないが、瞼を閉じると古墳の
 造から埋葬に至る迄の総てが脳裏に描けるのである。私は所謂
「古墳フェチ」であり、古墳を見学す
 る度に興奮(コーフン)している。

  古墳見学はうららかな春の日が良いが、もの悲しい秋の陽も一興であり、凛とした玄冬の頃も悪
 くはない。だが、古人との対話
には、如月の望月過ぎの(*4)桜花爛漫の頃が一番良いであろう。

  余談だが、NHK朝ドラ「だんだん」の挿入歌「命のうた」では、三倉茉奈・佳奈が歌う以下の歌詞
 がある。

   ♪「 いつかは誰でも この星にさよならを する時が来るけれど 命は継がれてゆく 」

  心に沁みる名曲の歌詞である。この星とは地球のことだが、多くの魂はまた地球に戻って来る
 とであろう(*5)


  最後に、古墳ファンとしての私の最大の関心事は、勿論、「卑弥呼の墓」である。建造された事は
 史書(*6)にも記載されている事実
である。この古代史最大のロマン、即ち、卑弥呼の墓(邪馬台国)
 私の存命中に発見されて欲しいような/欲しくないような、複
雑な心境である。ともかくも、歴史豊
 かな畿内の古墳の宝庫関西
に私は居住している。いつでもバイクに跨り古代のロマンを求めて大好
 きな飛鳥の古墳巡りができる。季節はやがて春。こんな嬉
しい事はない。古墳に佇み、古人(被葬者)
 
の短くも喜怒哀楽に満
ちた人生に静かに思いを馳せるのである、、今年の春も、また。

  (*1) 貴人や権力者の遺体の荘厳な安置場所が古墳であり、被葬者の実存は確実な歴史的事実
    である。

     (*2) 特に、髙松塚古墳やキトラ古墳の壁画、四神の星獣と星辰(天文図)は素晴らしい歴史文
     化遺産である。

     (*3) 「古事記」の編纂者の大安万伴侶の墓誌の発見により、大安万侶の没年が実証された
       (
但し、生年は不明)

     (*4) 旧暦如月の望月の頃は、新暦3月下旬から4月上旬に相当し、日本の桜の開花の頃である。

     (*5) 人間の霊魂が、他の惑星に行ってしまうとの話は余り聞かず、魂の再生先もやはりこの
     地球であろう。

     (*6) 「魏志倭人伝」には、卑弥呼の墓としての記載がある。「卑弥呼の死により、塚を大きく
     作り、直径は百余歩、
一緒に埋葬した奴婢は百余人」(現代語訳)
       【備考】福井市の丸山古墳の可能性もある。

          ≪注意≫ 以下、4枚の写真は、Data容量節約の為、掲載を割愛。

   写真(下記)  太秦高塚古墳は、北河内から摂津の眺望が良い。綺麗に整備された古墳公園で、
       規模が程よい円丘墳である。

  写真(割愛)  寝屋古墳は、整備された寝屋川公園の中にある。草生した横穴式石室が古墳ら
       しい。

  写真(割愛)   打上古墳群は、自宅の近所で東高野街道沿いにある。古来より、幾多の旅人が
        傍らを通り過ぎたことか。


   写真(割愛)  石宝殿古墳は、最も簡素で素朴で、それ故にこそ味わい深い。石室には何の装
        飾もないが、心魅かれる。
石宝殿は、兵庫県と大阪府に5か所あるが、高砂市に
        ある
ものが最も有名で立派であり、必見の価値がある。

  写真(割愛)  忍岡古墳は、前方後円墳で忍岡神社の基壇である。大阪夏の陣の際、徳川秀忠
        軍の陣所となった。

 

 【2019年01月】
        【 奈良若草山の山焼きと、N嬢への哀悼 】 ( 2019.01.26 )

  隔年毎に見物に訪れる奈良若草山の山焼きは、今年は特に素晴らしかった。茜雲の西方の空の
 下、暮れなずむ旧都平城京の街を
若草山の中腹から眺めながら、感慨もひとしおだった。

   山焼き行事に先立つ和太鼓の勇壮な競演。華麗なる花火の乱舞。荘厳な点火の前の諸々の儀式。
 そして、瞬く間に広がる火炎の全
山への侵掠。奈良の神鹿は何処に避難したのかと案じつつも、
 私
は遥かに約四十年前の哀しい出来事を思い出していた。
  今回のこの投稿によって、二十代の半ばで出産により逝去された奈良女子大生N(*1)に、心か
 らの哀悼の気持を捧げたい。

  昭和53年の正月明け、大学院生の私はN嬢を紹介され、二人は最初で最後の奈良の街の散策と山
 焼きを見物した。その日の事は
大学ノ-トに記録した記憶もあるが、さだまさしの名曲「まほろば」
 のようで、今でも東大寺境内散策の記憶の断片が瞼に浮かぶ(*2)
  そして2年後、一緒に飲んだ会社の同期入社の彼の高校の同級生がN嬢と判明した。四国の某市
 で育った彼女は大学卒業後、故
郷に帰って結婚し、二人目の出産の際に逝去した、と私は彼から
 かされた。突然の訃報であった。

  その夜、彼と店を出て別れ、私は号泣したのであった。今も思
い出す京阪門真のその店の傍で、
 涙が止めどもなく流れた。N
の亡き霊が私に憑依し、同情を訴えたのであろう。無念だったと
 
思う。幼な子をこの世に残して、二十代の花の命は短くて。。。。
  私たち二人のお互いの人生に於いて、たった一日一緒にデ-トしただけのご縁だったが、私には今
 でも忘れる事ができない追憶。


   現在、私は健康で数年後には古希を迎えるが、人生の縁(エニシ)について思う事がある。「この世
 で逢った人は前世でも会ってい
て、来世でも遭う人だと。」「人と人の出逢いと別れが人生だと。」
   以前、偶然に知り合ったある女性(*3)が、私に言った。「私は過去の前世のどれかで、貴方の母親
 だった事があります。」と。私は
その時そうかもしれないと思った。なぜなら、魂のレベルで愛おし
 
く、懐かしく思っていたからである。残念ながら現在では彼女との友情の交流は無い。でも、きっ
 と幸せになっていることだろう。


   めくるめく人の世に於いて、どの時代、どの国、どの家庭に生まれるかは、その人の人生に大き
 な影響を与える。しかし、大切
な事は、「長かろうと短かろうと わが人生に悔いはない(*4)。」
 
と積極的かつ主体的に生きることである。人生劇場の主役は他ならぬ自分自身だから。脚本の大筋
 は既に書かれているにせよ(*5)

   茲に、N嬢への哀悼文として、SNSで投稿させて戴くことを、どうかお許し頂きたい。

   (*1) 当時、卒業を控えた学部の4年生であった。

  (*2) この時の状況は、「まほろば」の歌詞のようであった。

   ♪「遠い明日しか見えない僕と 足元のぬかるみを気に病む君と 結ぶ手と手の虚ろさに・・」

     (*3) 彼女は霊感師ではない。臨床心理士で、年齢は私より年下。

    (*4) 石原裕次郎が歌った最期の曲(1987)。作詞はなかにし礼、作曲は加藤登紀子。曲作り
    は、裕次郎(1987年逝去、享年52)
本人が、なかにし礼に自ら依頼した。自らの死を予感
    してい
たのかもしれない。

    (*5) 「人生の目的は、魂の進化。」だと私は思っている。現在、YouTube上では、137回も
    輪廻転生した人の記事が掲載され
ている。

   写真(下記)は、暮れなずむ奈良市街

  写真(割愛)は、和太鼓の競演

  写真(割愛)は、山焼き点火前の花火の打ち上げ

  写真(割愛)は、若草山の山焼き

 

 【2018年12月】
            【 今年の資格検定取得数は10個 】 ( 2018.12.25 )

今年の資格検定取得数は10個となり、年末に有終の美を飾った。安・易・短の資格検定で
 はあるが、現在は79
で目標100個へ向かって、来年は八合目の坂を越えるは必至である。

 10個の資格検定の取得は、下記に掲載。

(寝屋川市)介護予防サポ--
   ・日本城郭検定(3)
   AED管理士
   (寝屋川市)スポ-ツインストラクタ-
   ・楽譜検定(8)
   ・エネルギ-検定
   P(5)
   (寝屋川市)在宅支援員
   ・色彩士検定(4)
   ・茶道文化検定(4)

10個目の茶道文化検定(4)は、1ケ月間真面目にテキストと問題集を勉強した。結果は、60
 
問中正解は59問で、1問の
みの誤答であった。

来年も、目標資格検定数6個以上を目指したい。

    【 邪馬台国に対する古天文学的考察 】 ( 20181217日投稿 )

    今年、神在月(旧暦10)に日向國(宮崎県)をバス旅行した。折しも、来春五月には新天皇
  (*1)
が即位され、元号も改まる。
この我が祖国日本の邪馬台国については前回考察を行った
  (*2)
今回、他の視点から再考察したい。即ち、従来の文献史学や考古学ではなく、宇宙
  からの古天文学(*3)による考察である。

   まず、歴史(History)とは何か、の問いと答から復習しよう。His物語(story)Heとは、戦
  いの勝者であり、「歴史は勝者
の歴史」である。勝者が自らに都合良く捏造・改竄・削除した
 記
録が歴史書である事は、今日、もはや常識と言える(*4)。又、文献上の一級資料に於いても、
 誤記の有無が議論されている。
即ち、最近の研究では、教科書で教えられて来た金印の読み方
 「漢委奴国王」(カンノナノワノコクオウ)は誤りで、正しくは(カンノイトコクオウ) ≪漢伊都国王≫との新説が現
 われた。委の読みは「イ」であり、
(古代日本の国名)の字は「ワ」としか読めないのである
  (*5)
我々は長い間、歴史の教科書で偽りを教えられていたのか。そして、卑弥呼の死(西暦
 248年頃)以降、当時の日本(倭国)
関する直接的な記録は、日本でも中国でも一切無く、こ
 の約
150年間は、文献史上でも「失われた四世紀」と言われている。

  さて、卑弥呼は邪馬台国で観られた日食後に、その権威の失墜により暗殺されたとの説があ
 る。では、当時、皆既日食が観
測された地帯はどこか?  今日では、コンピュ--が教えてくれる。
  即ち、古天文学による天体の軌道計算により、写真1(*6)のように答えは明確である。この地
 図により次の所見が得られる。


  (1) 西暦5339日。畿内も九州も皆既日食となるが、時代が全く合わない。
     (卑弥呼の死の約二百年前)

  (2) 西暦158713日。山口や愛媛で皆既日食となるが、時代が全く合わない。
     (卑弥呼の死の約百年前)
  (3) 西暦247327日。日本では日没後で、皆既日食にはならない。
    (なっても、日本では観られない。)

 (4) 西暦24895日。新潟や福島で皆既日食となった。

  以下は私の推察であるが、2年連続で倭国で日食が見られたことは驚天動地の事件である。
 即ち、卑弥呼が暗殺される理由
としては十分である。(4)の皆既日食は現在の新潟や福島であ
 り
畿内や九州ではないが、部分日食は観られたはずである。これは私自身が提唱するの全く
 の新説であるが、「もしかした
ら現在の新潟か福島の地の民が、卑弥呼暗殺団を組織して、卑
  弥呼を暗殺しに来て、暗殺を実行したのかもしれない。但しその場所は不明で、従って、邪
 馬台国の位置は未だ比定できな
い。古天文学が教える情報はここ迄ではあるが、卑弥呼の死(*7)
  と日食との関係は濃厚と感じられる。魏志倭人伝には「卑弥呼以死。」との記述がある。その
 死は「訳ありの死」と推察される。
老衰による自然死ではなく、暗殺などの悲劇的事件による
 死だっ
たかもしれない(*7)・・・・ 。    

     (*1) 伝説上の初代神武天皇より、第126代となる。

  (*2)「再考・邪馬壹国」(2017.02.11) My Homepage 今月の話題
     20172月に掲載。URL  http://www.fan.hi-ho.ne.jp/ushigoh

    (*3)  過去の天体現象をコンピ--で推計する20世紀の天文学。

  (*4)  但し、司馬遷の「史記」全巻を通読して、改竄の意図は私は感じ得ず、
    彼の歴史究明に対する真摯な姿勢に好感が持てた。

  (*5)  邪馬台国の記述がある文献資料は所謂「魏志倭人伝」であり、他の
    一級資料として「後漢書」「旧唐書」「新唐書」等がある。

     だが、日本側の「古事記」「日本書紀」には一切の記載が無い。大和朝廷は
    卑弥呼や邪馬台国を歴史からの抹殺を企図したのか。
卑弥呼は後漢から金印を
    拝受している。このような歴史的にも
重大な事実を、後の大和朝廷の権力者が
    知らない筈はないのだ。
ただ、大化の改新(西暦645)の時、滅ぼされた蘇我
    氏が一切
の歴史資料を焼却したとの説がある。

  (*6)  出典は国立天文台。BS-TBS「諸説あり #8 卑弥呼の正体とは」尚、皆既日
    食の時間は、理論値としては731秒である。

  (*7)  卑弥呼は80歳で死亡とされる。

  (写真1) 邪馬台国で当時の皆既日食が観察可能な地帯

  (写真2) 天孫降臨の地である高千穂・真名井の滝

   (写真割愛) 日食の一般的な写真(例、金環日食の場合)

  (
写真割愛) 神々が天の岩戸開扉の相談をした高千穂・天の安河原


 
 皆既日食が観察可能な地帯

 
 高千穂・真名井の滝

 【2018年11月】
        【 Panasonic㈱創業100周年を祝う会 】 ( 2018.11.08() )

  秋晴れの大阪城ホ-ルで、Panasonic㈱の創業100周年を祝う会が、関西在住の定年退職者
 を対象とし盛大に開催された。(*1
)私も早いもので定年後約6年。Panasonic㈱が幾多の困
 難を乗り
越えて創業百周年を迎え得た事は、この百年の約1/3の期間を奉職した私として
 は、心から嬉しく誇りに思っている。

  出席者は約八千人で、丁度1時間半の祝う会は充実した内容だった。午後2時からの開催
 で、最初に津賀一宏社長(*2)
講演があり、Panasonic㈱のこれから進むべき道のお話があ
 り、
詳細は記せないが、巷間言われるように、「脱家電・B2B(*3)成長分野への更なる
 shift」であった。次に、OBを代表して、
元事業部長による勤続42年間の感慨深い回顧談
 の話があった。

  更に、特別ゲストとして、弊社提供の超長寿番組「水戸黄門」に長らく出演されたとても
 若々しい里見浩太朗さん(82)と、
スタイル抜群でとても美しい由美かおるさん(60歳代)のご
 両人が登
場された(*4)。楽しいト-(*5)と、Panasonic合唱団のコーラスをバックに、素晴らしい
 歌唱の数々。祝100周年に相応しい企画で
あり、我々シルバ-世代にはとても懐かしく嬉しい
 ものであった。


   ステージ上のト-ク&歌謡ショ-は、以下のようであった。
   最初に、創業の頃の♪宵待草(*6)から始まり、♪明るいナショナル、明るい、のCMソング、そ
 れから世相を映す歌謡曲の数々、♪川の
流れのように、そして、100周年に因んで、由美
 かおるさんの
アコーディオン弾き語り「百万本のバラ」、里見浩太朗さんの得意な歌、最後は水
 戸黄門の主題歌(♪人生楽ありゃ苦もあるさ・・ )を全
員で合唱した。とても感動したステ-ジ
 であった。


   最後は、長榮周作会長(*7)の挨拶で、次の内容であった。実は、水戸黄門のテ-マ曲♪
 「ああ人生に涙あり」には歌詞は4番まであ
り、3番の歌詞には、「なんにもしないで生き
 るより、何かを求
めて生きうよ」とのあるので、「共にそのように生きましょう。」との
 人生の晩年を生きる我々OBへの激励のお言葉であった。

 
  お土産として、バームク-ヘンのお菓子とFM-AM2バンドレシ-バ(品番
RF-TJ20、ライト/サイレン付)
 頂いた。本製品は、手回し充電可が特
長でり、災害時には大変便利だ。これらは嬉しい配慮
 であり、
我らのPanasonic㈱の未来は安泰であろう、と思った。

   この機会に4人の知人と再会し、立ち話をして旧交を暖めた。元職場の同僚とは、会場か
 ら大阪城内を通ってNHK大阪まで一
緒に散歩し近況を歓談した。懐かしい6年振りの再会で
 あった。

  最後に蛇足ながら私見を述べると、未来予測として「家電は復活する。」。AI等の技術
 トレンドや社会の動向からして、新しい
家電商品が爆発的に売れるであろう。それは「パソロボ」
 であ
る。このパーソナル・ロボットは、まず祖父母が孫の小学入学祝いに購入するであろう。現在
 のランドセルは不用となり、個人所有のロボットが
購入され、学習支援を初めあらゆる支援を秘書
 のように行うこ
とになるであろう。だから、家電業界は復活すると予測されるのである。

     (*1)  同様の祝う会は、関東地区(東京)でも既に開催済である。

  (*2) 社長は我が無線研究所の1年後輩で4歳下。阪大・基礎工。

     (*3)  Business to Business の略。企業(法人)を相手に事業や商取引を行う会社
     こと。()  Panasonic㈱が電気自動車
の電池をトヨタなどに納入すること。

  (*4)  里見氏は黒ズボンに純白のブレ-ザ。由美嬢は真紅のロングドレス。二人の鮮やかな
     紅白の衣装が、祝賀会に華を添えた。

  (*5)  人気時代劇「水戸黄門」にレギュラ-出演の「かげろうお銀」こと由美かおるさん
     の、定番の入浴シ-ンも話題となった。

  (*6)  Panasonic㈱の創業は大正7年。大正6年初演の流行歌は、作詞が竹久夢二の大正
     ロマンの抒情歌「宵待草」である。

      (*7)  元、Panasonic電工㈱社長

 

 【2018年10月】
            
【 奈良の少し早い紅葉狩り 】

  yuさんの中国語教室のメンバ-と奈良の紅葉狩りを楽しんだ。紅葉には少し早かったが、不断は行かな
 新薬師寺、百毫寺を散策した。奈良もなかなか良い古都の風情である。写真は、猿沢の池であり、小さ
 いが奈良を代表する観光風景である。

 

 
【2018年09月】
           【 彦八まつりと落語に思うこと】 ( 2018.09.02() )

  毎年9月初旬の土日は知る人ぞ知る「彦八まつり」である。上方落語の祖「米澤彦八(*01)
 を顕彰する生國魂神社でのお祭りには、大勢の落語
ファンが訪れる。私は2回目の見物だが、近
 頃、特に落語が好きになった。

彦八を顕彰する厳かな儀式(*02)の後、鏡開きのふるまい酒を頂き、お祭りは始まる。狭い境
 内だがまさに縁日の屋台の賑いで、境内とステ-ジの催し
は満載である。入場料は無料だが、奉
 納落語会は入場志納金2,500円が必
要。所用で午前中のみの見物だったが、落語愛好家は一度は
 訪れて欲しい。

約半世紀前、TVが無い家庭では、ラジオでのスポ-ツ中継や落語・漫才は楽しみであった。現在
 では隔世の感だが、落語の基本的な面白さは不変である。
扇子と手拭と喋繰りだけで演じるこ
 の伝統芸能は、日本文化の宝である。

   江戸落語と比較して上方落語はいくつかの特長がある。「はめもの(*03)や「くすぐり
 (*04)」であり、見習い・前座・二ツ目・真打ちの階級は無いの
である。更に、天満天神繁昌亭
 (2006年創建)では、番組編成委員会で出演
者やその順番を決定する。実に民主的(*05)な集団な
 のだ。逆に、江戸落語
では、席亭がそれらの権限を持っている。

さて、上方落語の代表作に「地獄八景亡者戯(*06)」がある。人間国宝の故桂米朝が復活させ、
 息子の桂米團治がたまに演じている。私は、少し短
くしたこの作品を繁昌亭で鑑賞したが、実に
 壮大で面白かった。古典落語
の原作に時事ネタとギャクをふんだんに絡ませ笑いと共感を得ている。
 下品に
ならず、はんなりとした話の骨格を維持した進行は、落語の醍醐味と言えよう。他に、
 NHK朝ドラの「ちりとてちん」や、「はてなの茶碗」等が有名。

私の好きな噺家は、桂米朝は別格として、上方では2代目桂枝雀(*07)江戸落語では風雲児
 の立川談志(*08)と革命児の林家三平(*09)である。特
に、枝雀の落語は生で観れなくて惜しまれ
 る。また、初代桂春団治(*10)
を忘れてはならない。破天荒な人生は、「芸の為なら女房も泣か
 す、それ
がどうした文句はあるか」と歌の文句にもなった。「芸の肥やしと破天荒は是か否か」
 の判断は難しい。

落語を観る楽しみとは何だろう。まくら(*11)、本題、落ち(*12)の中に、噺家(落語家)の技量
 が垣間見られる。寄席通いの理由は、楽しいから、笑
いたいから、元気を貰いたいからであろう。
 中には、皮肉に富んだ「くす
ぐり」に、世相や為政者への溜飲を下げるお客も居るだろう。

現在、繁昌亭では和服姿の来客には割引を行っている。浪花の街を、特に天満あたりを和服や
 浴衣で散策すると良い。そして、ぶらりと寄席に寄
ると良い。そこはもう落語の世界、庶民の
 喜怒哀楽の哀歓の渦中である。


   (*01)  生没年[?-1714] 生玉神社境内での大道芸が端緒である。

  (*02) 「扇納祭」の祝詞を動画として掲載した(約3分間)

  (*03) 「はめもの」とは、お囃子や唄であり、派手さを好む上方人向きだ。

  (*04) 「くすぐり」とは、ギャグや時事ネタであり、噺家が独自に創作する。

  (*05)  繁昌亭はNPO法人の所有で、「席亭(セキテイ)=寄席の経営者」は不在。

  (*06)  [じごくばっけいもうじゃのたわむれ]で、1時間を超す大作である。

  (*07) 生没年[1939-1999] 観客を爆笑させる独特のスタイルと風貌は印象的。

  (*08) 生没年[1936-2011]「笑点」の初代司会者。参議院議員(全国区)

  (*09)  生没年[1925-1980] TVの爆笑王。「どうもすいません」は有名。

  (*10)  生没年[1878-1934] 天才的な上方落語家。 演歌曲「浪花しぐれ桂春団治」
     は私の得意曲である。


  (*11)  落語の導入部分で、定型パタ-ンもあるが、噺家が自由に語る。

  (*12) 落語の物語の結末で、下げ(サゲ)とも言う。仕草のサゲもある。

  

 【2018年08月】
           【 社長と専務もご臨席される無線研OB会 】 ( 2018.08.25() )

    毎夏恒例の松下電器産業㈱(Panasonic)・無線研究所の第26OB会が159名の参
 加で、社交クラブ「松心会館」(門真市)で盛大に開
催された。1年ぶりの懐かしい先輩・
 後輩各位と、熱く旧交を温めた。
「無線家族」と呼ばれ、社内随一の家族的で暖かい
 事業場であり、
今は京阪西三荘駅近く、歴史館の隣りの「さくら広場」が跡地である。
  松下の研究開発を先導した約五百名の技術者集団の「兵どもが夢の跡」なのだ。

 無線研の素晴らしい風土と文化については今は語るまい。16年間、化学技術者として
 「塗布型磁気記録媒体」の研究開発に会社生活の前
半を捧げた私にしても、未だ力不足
 で、語るには時期尚早でもあると
思う

 Panasonic㈱の現社長も専務(技術担当)も共に、無線研出身の技術者であり、毎年の
 ご出席を楽しみとされ、OB全員も楽しみとしている。
各テ-ブルを巡られての社長と専
 務との記念撮影は、いつも盛況である。

 写真の前列中央が、津賀一宏社長で、とても爽やかな笑顔。後列左から7番目は
 宮部義幸専務。4番目は私である。

  

     【 阿波踊りに思うこと】 ( 2018.08.13 )

   今年の夏こそ悲願の夢舞台へと、阿波踊りの初めての見物が実現した。新聞広告を見て、旅
 は一瞬の決断で決定した。開催2日目(8/13)、阪急トラピックス
の日帰りバスツァ-である。費用\6,990
  (*01)
、弁当付、全42名の難波&梅田発の
メンバ-である。明石海峡大橋と大鳴門橋を通過する151
  km(2
時間8)の最
短コ-スとなる。日本三大盆踊りで四百年の歴史を誇る初めてのの阿波踊り見
 物へ
の期待は、踊り子(天水)達には及ばないが、出発一週間前より日増しに高まっていた。た
 だ、現地見学時間は午後6-8時の僅か2時間しかなかった。


   徳島市内4演舞場(*02)の内、無料見物として藍場浜演舞場で約1時間見物した。両脇の有料
 スタンドの入口から、出口で待機する私の方に集団で踊りなが
ら向かって来る有名連(*03)の踊り
 は、髙張り提灯(*04)が先頭を行く。それ
はスピ-ドを調整する役目があり、さながら軍隊のよ
 うである。地を這うよう
な男踊りに続き、両手を編笠の頭上でくねらせ薄桃色浴衣に下駄の艶
 やかな
女踊りが来て、子供踊りもある。阿波踊りの独特のお囃子を奏でる楽器の総称は「鳴り
 物」と呼ばれ、鉦・太鼓・横笛・三味線などである。情感溢れる混声合
唱行進曲風に合わせた陸
 続とした行進には、やはり日本屈指の盆踊りの名に恥
じない凄さ、艶やかさ、滑稽さが満載で
 ある。

  男踊りは、がに股立ちの前傾姿勢でしっかりと腰を落とし、女踊りは、下駄でのつま先立ち
 で両手は高く肩幅に掲げ、いずれも同じ手と足を同時に出す。
特有の二拍子の軽快なリズム「ぞ
 めき」に合わせ、笑顔で踊るのが肝要である。


   し言葉「踊る阿呆にみる阿呆 同じ阿呆なら踊らにゃ損そん」に、私は幕末の「お蔭参り
 (-じゃないか)」を想起した。領主の蜂須賀の殿様が領民の
願いを許可(*05)したと伝わる阿
 波踊りだが(*06)、歴史的には一揆を誘発する
として、しばしば中断させられた聞く。支配階級
 の武士階級も非支配階級の農
工商の庶民も、同じ阿呆ではないかと暗に主張するこの盆踊りは、
 庶民のうっ
憤の発露かもしれない。この囃し言葉には他の盆踊りには見られない「平等感」
 あるのだ。封建社会の幕藩体制下であっても、士農工商は実は皆平等という
底流の意識がある
 ように私には感じられたが、どうしてあのような振り付けな
のかは、私は最初は理解できなか
 ったし、今でも私の推察に自信は持てない。

   余談だが、音曲の調べを聴きながら、もしかしてこれは朝鮮半島の「農楽」にル-ツがあるの
 ではないかと思った。遥か昔、阿波人は朝鮮よりの渡来人かも
しれないと空想した。更に蛇足
 だが、千葉県房総半島の突端部は安房国であり、
阿波国(徳島県)の人々は黒潮に乗り、彼の地
 に漂着して移住したと言われる。
故郷の阿波から発音が同じ安房(アワ)と名付けて、新天地を開
 拓したのである。


   今まで日本全国各地の夏祭りを見物して、各振り付けの意味は理解できた。青森のねぶた、
 山形の花笠音頭、越中おはら風の盆、郡上八幡踊り、備中松山
踊りなどである。しかし、阿波
 踊りは他とは違う、と私は今回の初見物で直観
した。だから、阿波国(徳島県)への地理的、経
 済的、文化的な考察を試みる。

   地理的には、阿波国は峻嶮な剣山と深谷の秘境祖谷を背後に控え、吉野川(四国三郎)は滔滔
 と東流する。その先は西流する紀伊国の紀ノ川と紀伊水道で合流し
て、一部は商工大都の大阪
 に注ぐ。経済的には、阿波国は吉野川の氾濫で米作
には不向きだが、特産の「藍」(*07)や塩が
 あり収入は豊かである。文化的に
は、大阪文化圏内であり、人々の志向性は何はともあれ阪神
 間から、更に浪華
と京洛に向かう。「都市の空気は自由にする(*08)」の格言があるように、
 「都
市の空気を吸った人々は、故郷阿波の徳島にに自由の風を吹かせる。」ものだと言えよう。

   それにしても、阿波踊りを踊る女性達は皆なぜこんなにも美しいのか。思い出す俗諺は「讃
 岐男に阿波女」(*09)である。だが、阿波女が働き者だとして
も美人だとは限らない。また、祭
 りの宵は女性は皆美しく見えると言う歌人の
有名な短歌もある(*10)。更に、女性にはお見合い
 成功三条件がある。即ち、
「夜目・遠目・傘の内」であり、このような状況下の女性は一番美し
 く見えると
言う、昔からの言い伝えである(*11)。実際、阿波踊りを踊る女性は、この三条件を
 総て満たしている。更に、編笠で隠れたお顔は美しく化粧を施し、下駄
で嫋やかにつま先立ち
 し、さながら楊貴妃のようだ。薄桃色の浴衣は艶めかし
く、踊りの邪魔にならないよう裾は前
 だけ気持ち短めで、そして高く黄色い声
を発して、、、これらはもう妙齢な女性の集団お見合
 いの様相である。(*12)


   阿波踊りには「にわか連」があり、所謂「当日の個人参加の飛び入り連」である。素人の踊
 り手が短時間の教習後、直ちに実践で踊り、観光客には嬉しい。
観る夏祭りでなく参加する夏
 祭りは、青森のねぶた祭りと同様にとても楽しい。


   他方、今年発生した阿波踊り「総踊り」の自粛(中止勧告)問題は、赤字の実態の発覚とも相
 まって世間に衝撃を与え、SNS上を賑わしている。一人の観
光客の立場としては、圧巻となる
 総踊りは止めないで欲しいし、市長が「安全
性と言う錦の御旗の大義名分」を情宣したことは、
 唐突感を否めない。全国か
らの観光客や徳島市の経済効果の為にも、速やかな解決を期待したい。

   最後に、大阪から徳島は近い。来年も行くかもしれない。徳島YH(-)もあり、宿泊者の阿波
 踊り見物ツァ-は恒例行事と聞く。
映画「眉山(ビザン
)(*13)の圧巻は、別れた恋人同士の演舞
 場での感動的な遠隔対面のシ-ンであった。さ
だまさしの原作小説で、松嶋菜々子と宮本信子が娘
 と母を好演。日本の夏の感動的な作品だった。徳島市は全面的に協力し、興行的にもヒットした
 (2007)
皆さん、来年こそ阿波踊りの感動を。徳島に行って、得しま(トクシマ)しょう。

  (*01) 桟敷席&お弁当ランクアッププランは、6,990円に対して3,000円アップとなる。

  (*02) 市役所前・紺屋町町・南内町、そして藍場浜の各有料演舞場である。

  (*03) 「有名連(ユウメイレン)」とは、長年に踊り続ける阿波踊りの名人の集まり。

  (*04) 長い竹竿の先に連(踊りの集団)の名前の入った提灯を二つ付ける。

  (*05) 「阿波の殿様蜂須賀公が、今に残せし阿波おどり」と伝わるが、、、、。

  (*06) 阿波踊りの起源には、「築城」「盆踊り」「風流おどり」の各説がある。

  (*07) 阿波国の表石高は25万石だが吉野川は暴れ川で水田には不向きであり、
    藍作に転じて実質70万石となり、阿波商人は全国で活躍した。

  (*08) 本来は、ドイツ中世都市の法諺だが、封建領主の法的支配下におかれて
    た農奴隷属身分の手工業者は、一定期間逃れれば自由の身分を得る。

  (*09)「遊び好きな讃岐男には、働き者の阿波女が合う。」という意味。更に、
      「伊予の学者に、土佐の高知は鬼侍」と続き、四県の県民性を表す。

  (*10)「清水へ祇園をよぎる桜月夜 こよひ逢う人みなうつくしき」
        (みだれ髪/与謝野晶子)

  (*11) 類義語には、「遠目山越し傘の内」「夜目には牛の毛も白い」等がある。

  (*12) 女性の衣装は、鳥追傘に手甲を付け湯帷子に帯、が一般的である。

  (*13) 眉山(ビザン)は、徳島市内の市を象徴する山、標高290 m

 
 
藍場浜演舞場

 【2018年07月】
          【 寝屋川市スポ-ツインストラクタ-資格取得 】 ( 2018.07.12 )

     73個目の資格&検定として、「寝屋川市スポ-ツインストラクタ-の資格を取得した。毎週2晩、
 寝屋川市役所に通って、
10..5時間の当該養成講座の受講と、3時間の普通救命講習を経て、
 やっと修了となり、めでたく添付写真の認
定証を頂いた。
  受講中は、多彩な講師陣の講義で、大学の聴講生となった感覚であり、受講生は全13
 で大変勉強になった。受
講料は無料で、実に得した気分であり、誠に有り難い。
 
  ところで、私のスポ-ツ歴は言わば人並であるが、学生時代のクラブ経験は柔道が最も長い。
 一応、何でもこなすが、
敢えて好きなスポ-ツを言えば、卓球・テニス・登山等であり、スケートが
 全くできないのは悔しい。ゴルフは昔は、ドラコン賞や
ニアピン賞を獲得したことがある。60代半
 ばとなり、健康寿
命の増進の為に、スポーツを生活習慣の中に組み込むべく、昨日、寝屋川市
 立体育館のトレーニングル-ム利用許可書も事前
講習(受講料350)を受けた後に取得した。

   見れば、老人の心身の状況は個人差が余りにも大きい。人間としての遺伝要因や育ちの環
 境要因、成人になって
からの生活習慣の影響は甚大で、極めて老衰した老人も、若々しい壮
 年のような老人も散見される。これらは、や
はり、本人の自覚と日々の精進に他ならないと
 思われる。

   特に私が嫌うのは喫煙の習慣で、もし19歳で大人の真似をして喫煙を始めても20歳直前
 迄には断固止めるべき
である。私は、近年、実兄二人と従兄を喫煙で亡くした。化学者であ
 る私は、喫煙の有害作用に詳しいので、絶対に
喫煙はしない。喫煙は「百害あって一利はあ
 る」が止める
べきである。喫煙者は今後益々肩身が狭くなるであろう。

   さて、散歩などの良い生活習慣は平均18000歩は、この五年間続けている。最近のスマホに
 は歩数計のアプリがあ
る。あとは、筋トレの習慣をどう生活習慣に組み込むかが課題である。数
 値目標が無いと長くは続かないのだ。


   次の74個目の資格検定は、「茶道文化検定」を予定している。お抹茶を頂く習慣は体には
 とても良いことである。


   写真1は、「寝屋川市スポ-ツインストラクタ-」の認定証

   写真2は、同上の養成講座の日程表(割愛)

 

 【2018年06月】

     【 京都・東山の散策(将軍塚・京大花山(カザン)天文台・漢字ミュ-ジアム・祇園界隈) 】
   
        ( 2018.06.16 )

   爽やかな好天下、京都・東山を散策した。憧れの将軍塚、京大花山天文台、漢字ミュ-ジ
 アム、そして祇園での友との二人飲み
である。本当に充実した梅雨の合間の一日となった。

 京阪三条からバスで約30(230)、東山山頂の新名所の青龍殿へ。大舞台からの京洛
 の眺望は素晴らしい。近くの将軍塚
(標高216m、約20m四方)は、桓武天皇が和気清麻呂
 に伴われて
登られ、この地を平安京と定め、将軍の像に甲冑を着せ埋めて、都の安泰を
 祈ったと伝承される。京の夜景は感動的だと聞く。

 その将軍塚から徒歩で南下し、探しつつやっと丸いドームを見つけた。京大花山天文台
 である。大都会の京都の東山に天文台
がとも訝るが、建設当時の大正時代にはまだ天空は
 暗かったの
である。半世紀以上も昔、天文少年だった私は、TV番組に出演されていた京
 大の宮本正太郎先生(月の研究で有名)に憧れ、天
文学者を志した。中学での天文気象クラブ
 では「流星の研究」で
読売科学賞を受賞し、体育館で人生初の研究発表を行った。
   そんな日々以来、いつかは訪れたかった花山天文台であった。偶然におられた先生から
 お話を伺った。現在は、太陽黒点の
観測を行うが、主力は飛騨天文台に移行し、近年は
 「NPO法人
花山星空ネットワ-ク」(国内3番目の45cm屈折望遠鏡、国内2番目の分光器を持つ
 70cmシーロスタット望遠鏡)での活動をメインとして、月
・惑星・太陽を観望しているとのことであ
 る。私見を付言すると、
太陽観測に基づく「宇宙天気予報」(電波障害の予知)等の発信は、
 現代社会(ICTSNSが必須)では極めて重要な事である。

   京阪五条へ下り、四条河原町の学生時代から通っていた居酒屋のビールで喉を潤した後、
 先斗町から鴨川の川縁を歩けば、京
都での青春の日々が懐かしく想い出される。

   八坂神社近くの真新しい「漢字ミュ-ジアム」をゆっくりと見学した(800)。面白い趣向
 の企画で、最近、書道教室に通い始
めた私には特に関心が持てて、興味深く勉強になった。

  その後、京都在住の友と久しぶりに再会した。一緒にまだ明るい祇園界隈を散策して、
 京情緒を堪能した。「枕の下を水の
流るる」(吉井勇)の巽橋あたりは外国人観光客の写真
 スポットであ
る。そして、二人酒で素敵な時間を過ごし、次の再会を期して別れた。
  海外旅行で知り合ったはんなり美人の彼女は、もう20
年の良き友である。人生のこの出
 逢いに、ただただ感謝である。


 
 京大花山天文台の写真。

 【2018年05月】
          
 【「ラヂオきしわだ」での ワクワク 収録体験 】 ( 2018.05.06 )

    今年118日開催の「ホンワカランチ」の会が良きご縁となり、「ラヂオきしわだ」にゲスト
 としてお招きを戴いた。ラジオ番
組はNHK大阪に続く2回目だったが、初めて長時間の貴
 重
な収録体験をさせて頂いた。

  認定NPO法人の「 ラヂオきしわだ 」は、岸和田市域限定の放送局で、身近な人が地
 域に密着した普段着の情報を伝え
ている。FM79.7MHzで、土曜夜9-10時放送の「Happy
 
タイム★
応援隊」は、担当はメイント-クの澄川白バン子さんとミキティ-さん。昨日収録のゲストは、
 自称マルチストの私(笑い)であり、楽しく
ワクワクの60分間であった。
    
「キラキラ応援隊コ--」では、白バン子さんとの掛け合いで、まず自己紹介の後、私の多
 彩な資格・検定(71)や趣味(45
)の話で盛り上がった。
  また、「玉手箱コ--」では、本番組初の歌唱披露として、NHK「シルクロ-ド」の喜多郎
 の名曲をバックに、僭越ながら私
自身が作詞した歌詞で、途中まで歌わせていただいた。
  私は、白バン子さんと音響担当も兼ねたミキティ-さんとの二人のト-クを傍らで聴きながら、
 13日後にはon Airになるの
かと思い、不思議な陶酔感を感じていた。
  「白バン子のスマイルライフ」では、骨髄バンクにおける患者様からドナ-様へのお手紙(心に残る
 医療、厚生労働大臣賞)が紹
介され、心温まる思いを感じた。
   今回も生放送ではなく、Take2は無い。収録内容はそのまま、後日放送される。そんな
 緊張感もいつしか忘れてい
た。居心地の良い部屋でゆったりと、でも次は何だろうと
 ワクワク感が満載であった。

  収録後、記念写真とショート動画が撮影された。これらは早
速、ご丁寧にMessenger送信
 で、嬉しく頂戴した。

 収録を終えた私の感想は、すばり「収録にハマリ、癖になりそう。」である。今後、もっ
 とラヂオを、更にテレビを、と
思ったことだ。マス・メディアへのデビュ-開眼の一日となった。

 尚、放送日は519()午後9-10時。「ラヂオきしわだ」の聴き方は、インタ-ネット・
 ラヂオが便利で、PCでもスマホで
も簡単に聴ける。まず、「ラヂオきしわだ」を検索して、
 後はクリックするだけ。良質な録音内容が皆様に届きます。

  写真は、収録中のメイント-クの澄川白バン子さんと私

 

      【 京都・葵祭に思うこと】 ( 2018.05.15 )

   先日、京都三大祭の始まりとなる「葵祭」を初めて見学した。薫風誘う五月の中日に挙行
 されるこの優雅な行列には、古の王朝
風俗が偲ばれ、実に古式ゆかしい日本文化の精華を観
 る思いであ
る。開催日は毎年515日で、多くの場合は平日となり、これまでに見学の機会
 は無かった。今回は無料で、眼近で、約半時間、
厳かで華麗な行列を楽しみ、日本人として
 喜びを実感した。


   午前10時半、京都御所の正門(建礼門)前をスタ-トした総勢511の「路頭の儀」(行列)は、
 馬36頭、牛4頭、牛車2基を従え、下
賀茂神社を経て最終となる上賀茂神社へ、約五時間をか
 けて至る。
葵の葉(*1)で装飾された内裏宸殿の御簾・御所車・勅使・供奉者の衣冠・牛馬等は言
 うまでもなく、最後の斎王代(*2)列は圧巻である。

  私は、建礼門前の有料観覧席(パイプ椅子群、席料\2700(*3))
背後の無料立見席で、充分
 な視界を得て約30分間見物した。やや
陽射しも強く、馬も ナ-バス になって暴れたため、騎
 乗者が振り落
された。怪我は無かっただろうか。後日、在京の知人にこの件を話すと、「落
 馬はよくあることだ。」と、あっけらかんとしていた。

   葵祭は、祇園祭のような音曲(*4)はなく、時代祭の歴史絵巻も無く、淡々とした行列で相
 対的には最も地味ではある。それ故に、
楚々とした「はんなり」(*5)さが平安京風で、趣も
 ゆかしい。


    葵祭は、上・下賀茂神社の例祭で、約1400年前の凶作に対して豊作を祈願し祭礼を行い、
 風雨は止み五穀豊穣となったことに起
源を持つと言われる。以来、連綿としたこの絶えざる
 行事の継承
は誠に素晴らしい。伝統的日本文化の誇りで、都人の矜持である。

   平安京は千年以上の歴史を有する王城であり、山城(京都)盆地は風水的にも「四神相応の
 地(*6)」である。それ故にこそ、都と
しての千年超の王城の命脈を保ったとも言えよう。
  歴史的に日本の王城は、飛鳥から藤原京、平城京から各地を変遷し、長岡京を経て終に平
 安京に逢着した。歌手の都はるみが歌
う「千年の古都」に「♪ああ 夢は老いることなく悠
 久のまま
千年の古都」という歌詞がある。まったく以て、同感である。

   蛇足ながら、終戦(S20)まもない京都の実風景を観たい諸氏には、現在でもCATVでの映
 画「我が青春に悔いなし」をお勧め
したい。三高から京大そして戦後への青春群像物語で、
 名女優の
原節子の凛とした好演と、戦後の京都の市街風景が印象深い。
    (S21.10.29公開、黒澤明監督の作品)
  また、祇園祭やイランの現地ロケを盛り込んだ映画「燃える秋」は、真野響子/北大路欣也の異
 色大作で、音楽も実に感動的だった。
   
(S53.12.23公開、五木寛之の同名小説の映画化)

    最後になるが、斎王代の事である。大阪・今宮戎の福娘とは全く比較にならない。両者とも
 良家(資産家)の令嬢であるが、斎王
代は莫大な支度金が必要であり、総て自費である。「路
 頭の儀」
だけでも数千万円であり、他の神事もある。衣装のクリ-ニング代も超高額(*7)である。
 従って、在京の20歳代の未婚女性で、かつ
相当な資産家の令嬢に限られる斎王代は、極めて
 名誉なことであ
り富の象徴でもある。遠い将来でも、外国人女性が選定される可能性は皆無
 だろうが、もしかして、そんな日が来るかもしれない
とも思うのである。

   追加の蛇足だが、関西での花嫁候補としての評判は、やはり、以下のようになるのであろう
 か。(順番は、私見である。)

   斎王代、一流企業の社長秘書、宝ジェンヌ、一流企業の役員秘書、客室乗務員、福娘、一流企
 業の受付嬢で、いずれも才色兼備であ
る。だが私は、女性は主婦能力も大切であると思ってい
 る。明る
く元気で社交的な良妻賢母は、やはり理想である。

 (*1)  フタバアオイで、毎年上・下賀茂神社から京都御所に納められる。


  (*2) 「斎王(賀茂神社に御杖代として仕えるために皇室から差し出された
    内親王・女王のこと)」の代理(未婚の若い女性)


  (*3)  背後の立見席は無料なので、値段が高過ぎると違和感がある。

 (*4) ♪コンチキチン♪ の囃しは、祇園祭りのバック・ミュ-ジックである。

  (*5) 京言葉「はんなり」とは、「上品で明るく華やかなさま」。

 (*6) (青龍)に流水、南(朱雀)にくぼ地、西(白虎)に大道、北(玄武)
    丘陵を有する平安京は、まさにこの条件を満たす。
かって、平安京
    の南には巨椋池(くぼ地の湖水)があった。

  (*7)  数百万円からすると言われている。

  写真は、斎王代行列。

 

 【2018年04月】
           【今年の大阪城での花見】 ( 2018.04.01 )

     
某中国語教室の恒例の花見に今年もゲスト参加させて戴いた。大阪城西の丸庭園での花見は、
 楽しい日中文化の交流会である。


  晴天下、薄紅の櫻花と白亜のお城は日本の象徴であり、今年も寒い冬を乗り切ったとの迎春
 の喜びに、気持も満開となった。
梅酒が注がれた紙コップを玉杯にして、散り急ぐ花吹雪の落
 
花を受け止めながら、日本人としての喜びをしみじみ噛みしめる。皆さんの持ち寄りの美味し
 い料理の数々と飲み物。私も早
朝からの手作りの卵焼きを提供しランチタイムを楽しむ。日中の会話
  もほど良いスパイスとなり、話は大いに弾む。花見は実に良い。

   この日本の良き習慣によって、日中の友好は益々深まってゆくのだ。

 

    【 伊勢神宮(内宮)への無料招待の参拝 】 ( 2018.04.05 )

   CA-TVJCOM会員限定で無料招待を頂き、伊勢神宮(内宮)を参拝した。AM7時半~PM6時半、
 天王寺公園での発着バスは
便利である。関西各地より参集した見知らぬ全47名にとっては、この
 花見の季節、昼食付の良き日帰りバス旅行となった。

 久しぶりの宇治橋下の五十鈴川は清流で、内宮も荘厳であった。29歳の一人娘の良縁を祈願し
 ながら、原始日本の祖型に思
いを馳せたことだ。丹後地方の元伊勢や太平洋側の五か所湾から北
 上して内宮に下ったバイク・ツ-リング等、の昔旅を想い出した。

  だが、門前町や「おかげ横丁」には、少し苦言を呈したい。古くは「赤福の品質問題」、最
 近は価格の高騰である。大瓶ビ-
1本が800円とは超高過ぎで、ソフトクリ-ムのクリ-ムの盛り上がりは
 著
しく低く、羊頭狗肉である。昨今の国内外の観光客の急増や、地元に地場産業が少ない事も理
 解はできるが、日本文化の「お
もてなしの心」からは、かなり縁遠いかと、私は不満に思う。
   需要が高いから価格も高騰するのは経済原則だが、販売量が増えれば売価は低くても利益は確
 保できるのだから、日本人の
奥ゆかしさの矜持を示して欲しい。儲け主義が見え見えな事は明ら
 かで、私は嫌いで不快に感じる。茲は、日本文化の原点の
お伊勢様が賢くも鎮座まします聖地な
 のである。

   近世(江戸時代)、お伊勢詣は特に盛んで、「お伊勢七度(タビ)熊野へ三度、愛宕さんへは月
 参り。」と言われた。庶民にとっ
ては、お伊勢参りは旅を楽しむ唯一の名目でもあったのだ。
   ただし、聖俗は不即不離で、精進の後には精進落としは付き物であった。伊勢神宮もそうであ
 り、近くの「古市遊郭」は繁
盛した。いつの世も、「建前と本音は現実的な世間智」である。

  だから、野暮な事は言わないが、門前町にはやはり世俗の垢に染まらない凛とした奥ゆかしさ
 が欲しい。日本文化に憧れて
来日する外国人観光客も、販売価格の高さにはやや閉口していると
 聞く。今や、日本は世界に冠たる観光大国なのである。


  目先の利益の短期的な追求ではなく、悠久の歴史を持つ伊勢神宮をRespectして、長期的な展
 望での日本人の「おもてなし
の心」を大切にした商売を、と私は心から願ったことだった。

       【 吉野・奥千本の西行紀行 】  ( 2018.04.21 )

   残り桜を求めて、毎春恒例の吉野・奥千本へバイクで訪れた。卯月下旬はほとんどが葉桜であった
 が、西行庵で手作りの
サンドウィッチを食べながら、遥か八百年前の往時が偲ばれた。

 畿内は歴史の宝庫であり、特に深仙境の吉野には史跡が多い。所縁の歴史上の人物として、斉明・
 天武天皇、役行
者、西行、源義経、楠木正行、松尾芭蕉などが著名であるが、今回は西行(法師)
 ついて考察したい。

 西行(佐藤義清)(*01)は、北面の武士として鳥羽上皇に仕え、23歳の時に出家遁世して、諸国を行
 脚し日本全国を巡歴した。
出家の理由は定かでなく、摂関家の藤原頼長(*02)の日記には、「家冨み
 年若く、心愁い無くも、遂に以て遁世す。」とある。
出家の身故に猟官活動ではなく勧進活動(*03)
 を含む旅を続け、
北は奥州平泉から九州にまで及ぶ。吉野を愛でた羈旅の歌は、

   ♪「空(ソラ)になる心は春の霞にて 世にあらじと思ひ立つかな」
   ♪「何となく春になりぬと聞く日より 心にかかるみ吉野の山」(*04)

  西行の秀歌には、従前の歌枕(*05)を詠む単なる歌ではなく、旅の体験に基づいた独特の旅情の味
 わいがある、と私は思う。

   ♪「心なき身にもあわれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮」は、[三夕](*06)に選ばれた名歌で
 私は特に大好きである。

 ところで、権勢におもねず、富貴栄達を求めず、仏道と歌道に精進した西行には、以下の有名な
 二つの逸話がある。

  ■源頼朝の館に呼ばれ、翌日の退出の際、珍宝の「銀猫の香炉」を贈られたが、西行は館の門前
 で遊んでいた童に「おも
ちゃ」として与え、飄然として立ち去った。
  ■♪「願わくは花のもとにて春死なむ その二月の望月のころ」と詠じ、西行はその願い通りに
 73歳で入滅した(*07)

  前者は、出家遁世した無欲な人柄を、後者は「あらまほしき人生の終焉の理想型」として羨望さ
 れる。

 何度も訪れている吉野・奥千本の西行庵(*08)だが、散策中に一陣の谷風が吹いた。その冷気に晩秋
 の秋風と降雪に覆われ
たこの地の冬風景が想像された。今は春の盛りのはずだが、更に、冴え渡る
 秋の「弓張りの月」(*09)も想像された。季節
は廻り、星辰もめぐりて、世は無常を未来永劫に重ねて
 行く。


  昼食を済ませ、南側の山道を辿れば、芭蕉が俳諧を詠んだ苔清水の滴り(*10)。その冷水に喉を潤 
 して、更に歩を進めれば、
かっての寺院跡の数々(*11)。そして、大峯奥駆道を進み女人結界の石碑
  (*12)から往還したが、この先遥か43里の峻嶮な山
路を踏破すれば、遂には熊野本宮大社に至るので
 ある。

 最後になるが、西行の現代的意義とは何であろうか。約八百年前の世捨人の歌人は、私たち現代人
 に何を教えてい
るのであろうか。それは感得しようとする人の力量次第である。西行の名歌に素直に
 共感する「素直な心」のレベルは、各人の人
間的品格のレベルに依存する。時空を超えて、これらの名
 歌を西
行からの賜物として、私たちは「心の豊かさ」とすべきであろう。特に、三夕の和歌
  「心なき身にもあわれは知られけり、鴫
立つ沢の秋の夕暮れ」は、現代人必須の教養歌であり、日
 本文
化の根底を織り成す厭世観・無常観・自然観を示す至高の名歌に疑いない。私は、今さらながらそ
 う確信している。


   (*01)
元永元年(1118)誕生。平清盛も同年。父は左衛門尉・佐藤康清。

   (*02) 当代随一の知識人。悪佐府(よろずにきわどい左大臣)と呼ばれた。

  (*03) 猟官/勧進 = 官職を得ようと争う事/寺院・仏像の寄付を求める事。

   (*04)「山家心中集」。西行の晩年の歌集の一つ。自詠歌360首、計374首。

  (*05) 和歌の題材とされた日本の名所旧跡。代表例が奥州の白河の関。
      ♪「都をば霞と共に立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関」(能因法師)

   (*06) 新古今集で「秋の夕暮れ」が結びの三首の名歌。西行・寂蓮・定家。

   (*07) 旧暦二月の望月(2/15)は釈迦入滅の日。新暦では4月初旬頃。

  (*08) 観光客用に再現した西行庵だが、西行の木坐像も安置(写真)
      ♪「散る花の庵の上を吹くならば 風入るまじくめぐり囲はん」

   (*09) ♪「弓張りの月に外れて見し影の やさしかりしはいつか忘れん」

  (*10) 芭蕉の句の「露とくとく 心みに浮世 すすがばや」は、西行の
   ♪「とくとくと落つる岩間の苔清水 汲みほす程もなきすまひ哉」
    踏まえたものと言われる。


  (*11) 四方正面堂跡、宝塔院址など、大峯奥駆道にある古刹跡である。

   (*12) 女人結界の石碑は、奥千本の金峯神社から南へ数百メ-トルに在る。

 

 【2018年03月】
           【 青春ノ-トの数々 】 ( 2018.04.02 )

      我が家のリホ-ムも完了したので、部屋の整理整頓で再発見していた青春ノ-トの数々をやっと完
 全読破した。高1~33歳の全23
冊の貴重な記録に、よくぞ書いて残していた、と自分を褒めて
 上げたい心境だ。我が青春の確かな青春実録なのである。


   内容は、随筆(我が徒然草654)・日記・彼女との交換日記などで、主に交友録である。投函手
 紙の原文・詩作・英文・漢詩な
どもあり、今となっては恥ずかしい箇所も少なくないが、当時の日
 々が鮮かに蘇り、何度も首肯し、感涙したのである。
何日も掛けて毎日読み返してみると、
 自分の人間性の本質が明
瞭となって来る。基本的な人生観は今もそう変わらないのだ。

   我が人生において、将来これらの資料記録を基に、青春文学の作品として結晶化したいと思っ
 ている。そんな日がいつか来
れば、きっと無上の喜びとなるであろう。

 

 【2018年02月】
           「中国江南8都市周遊7日間」の旅行記】
            (facebook連載、Homepage一括掲載)

  読者の皆様

   明日(2/1)より、昨年末の中国旅行記を11日間連載します。

  「中国江南8都市周遊7日間」のタイトルで、プロ・ロ-グ、第1~9話 エピ・ロ-グの全11話です。
 毎日の話題についてはお楽しみに。

  皆様、ご期待の上、どうぞお楽しみ下さい。

 【プロ・ロ-グ】 旅行の概況( 2017.12.21(木)-27(水) )

   中国はもう十数回目となる。今回は安近短の超格安旅行だ。元会社の同年の友と13回目
 の海外旅行でもある。実践的中国語会話には最適だ。「デラックス江南8都市大周遊7日間」
 であるが、寧波(Ningbo)以外は何度も訪れている。江南地方は本来、春が望ましい。 但し、
 冬季の江南も空気は清浄となり、上海蟹もあり、また、一興である。

  [第1日] 関空AM9:25 CA164⇒ 上海浦東-(杭州湾海上大橋)-天一閣・老外灘、寧波泊

  [第2日] 寧波市内観光・天童寺、新昌観光・新昌大仏寺、紹興泊


  [第3日] 魯迅記念館・三味書店・紹興酒工場、杭州観光・西湖天池、杭州泊

  [第4日] 西湖遊覧・茶芸店で聞き茶・中国刺繍博物館、無錫泊

  [第5日] 蠡湖(レイコ)遊覧・西施庄・真珠店、蘇州真珠研、同里・退思園・三橋、上海泊

  [第6日] 外灘探訪・新天地&田子坊散策、上海泊

  [第7日] 豫園商城・召稼楼古鎮の散策、上海浦東PM5:30 CA163⇒ 関空(20:30)

   旅行費用39,800円、関空/上海空港税=3,040/1,520円、海外旅行保険9,420円、
 燃料サ-チャ-ジ3,000円、全20食(機内食2食)、旅行者17名、旅行社:JTB、時差1h遅れ。

  写真は、関西空港の搭乗口にて。 

 

 【第一話】 発展する中国の光と影

   文化大革命の騒乱を経て、中国は鄧小平により、建前社会主義、実質資本主義の改革
 開放路線へ変更し、現在は益々経済発展中である。

   約40年前の中国人民の顔は暗く、深夜に国営工場から陸続と帰宅する自転車の洪水は
 異様であった。だが、現在の都市の表顔は高層ビル の林立であり、交通インフラは拡充し、商
 魂逞しい市民の表情は明るい。中国は国歌に歌う「前進、前進」を続け、総GDPは今や日本
 を凌駕し、軍事(海洋覇権)大国となり、世界の超大国である。21世紀は巨龍の中国に対して
 インドが台頭し、「巨龍vs.巨象」の時代は必至である。

   他方、中国は人口13.5億人と56の民族を抱え国内問題は複雑だ。中国の治安は良好で、
 安心して旅をしたが、人々に中国語で問うと政治の話はタブ-である。私には「中国人は国家
 を信用していない。」と見えた。悠久なる中国四千年の歴史上、王朝交代は頻繁であった。
 現在の共産党政権下では土地は国家のもので、70年の居住権はあるが、都会の谷間の廃
 屋は少額の立ち退き料で直ぐに駆逐されるのだ。国民は何を信用しどんな価値観に準拠して
 いるのか。この旅でもやはり「お金・親族・教育」だと思った。中国は人脈(コネ)社会でもある。

   私は幼少より、中華文化の「圧倒的重厚さ」に羨望を抱いて来た。そして現在、今世紀の
 中国の圧倒的なPresence(存在力)を痛感する。中国は複雑な影を内包しつつも、外面は益
 々光輝きつつある。

   我が残余の人生で更に中国を学びつつ、願わくば建国百年(2049年)を見届けたいが、残
 念ながら白寿近く迄の我が享年は、無理であろう。

 

 【第二話】 中国の郷土料理と服務員(店員)との交渉

   ホテルの朝食はバイキングで質量共に充実している。他方、 昼・夕食は市内のレストランで当た
 り外れがある。味付けは江南地方故に日本人には合うが、野菜中心の食材は物足りない。
 食前酒としてのビ-ル(600ml)は30 元(約570円)でとても高く、無駄なので私は1回も注文しな
 かった。

   今回、機内食と朝食を除く12食には、美味しい郷土料理は無かった。ただ、庶民の朝食の
 定番の[油条]には、懐かしい中国旅情を感じた。

   服務員の接客は上質である。ツァ-・メンバ-の要望により、中国語でスイカや爪楊枝を頼むと、
 直ちに対応してくれる。また、お茶は美味しい。昔の中国の服務員は無愛想・不親切で閉口し
 たが、サービスは激変した。競争的経済原則は重要で、人間の儲ける意欲に油を注いでいる。
 「サ-ビス向上は文明国の証」と、国家のスロ-ガンにも奨励されている。ただ、ホテル内での特注
 の「上海蟹・紹興酒」は特別で、値段が高過ぎる。市中の便利店(コンビニ)では、品数は日本並
 みで、格安の庶民価格だ。

  「名物に旨い物無し」の格言と同様、「郷土料理」にも旨い物は無い。但し、市中の店には思
 わぬ珍味があり、一般に、果物等は美味しい。

   中国では値切り交渉は日常であり、中国語会話力の見せ所でもある。服務員もさる者では
 あるが、値切り交渉の醍醐味は中国の味である。商品と店員を誉め粘って懇願すれば、OKと
 なるだろう。但し、中国では偽札が横行し、何か書かれた中国紙幣は関空での日本円への両
 替は拒絶される。真珠・シルク・宝石等に「在日常生活不用的东西我不想买。」≪日常生活で不
 用な物を私は買わない。≫と言うと、服務員は頷いた。

   写真1は、市内レストランの服務員、紅色≪赤い色≫は中国では慶事の色である。

   写真2は、同レストランでの昼食風景。皿毎に取り箸がある。 (写真2は割愛)


 

 【第三話】 紹興酒工場の見学とお金の使い方

   紹興の紹興酒工場は何度も訪れている。試飲すると10年物と20年物は明らかに後者が芳
 醇だが、特別に旨い酒ではない。原料は糯米≪もち米≫だが味は果実酒風で、油濃い中華
 料理には合うようだ。

   中国人の平均収入と紹興酒の売価を比較すると、Japan-Price (日本人観光客には高く設
 定)と思えて私は買わないが、ツア-・メンバ-の一部の男性は購入した。アルコ-ル度数は高くなく、
 名酒と雖も旨い酒ではない。中国産品のブランド価値は、ほんの一部を除いて高くはないのだ。

   泥甕に長期間保存するので酒量は減る。これがウィスキ-ならこの減量分は「天使の分け前」
 と呼ぶが、紹興酒では何と言うかは興味はある。ネ-ミングとして、私は「龍の分け前」との命名を
 提案したい。

   お酒の付加価値は中身だけではなく、外観にもある。容器やラベルのデザインも重要で、その
 意匠性が良ければ、購買意欲は増すだろう。その点では、昔の中国よりはかなり改善されて
 来た。「买一送一」≪一つ買えば、あと一つは無料≫と言う中国独特の商習慣があるが、十瓶
 買ったら一瓶はおまけになるようだ(买十送一)。しかし、海外旅行者は旅行中の気分は常に高
 揚し、お金を使うことに見栄を張る傾向にある。だが、大阪人は、生き金は使い、死に金は使
 わない。帰国して、旅の気分から覚醒して、後悔する人は少なくない。絨毯・真珠・毛皮・トルコ石
 など枚挙に暇がない。旅行中のお金は要注意である。

   こうして幾度か失敗の体験を積んで、真贋判別能力は身に付くものである。お金は大切で、
 当然、価値ある生き(活き)金を使う方が良い。

   写真1は、紹興市郊外の紹興酒の工場での説明と即売。

   写真2は、紹興酒製造の工程図である。 (写真2は割愛)


 

 【第四話】 江南の景勝地「西湖(セイコ)」・蘇州・無錫

   浙江省杭州の西湖は、江南随一の景勝地である。中国四大美人の「西施(セイシ)」に因む
 この湖は実に中国的で、清朝皇帝もしばしば訪れた。遊覧船に乗りゆっくりと湖上を進めば、
 遥かに雷峰塔を望み、蘇堤や白堤の優雅さに心が奪われる。近くには、「白蛇伝」の伝説や
 「銭塘江の逆流」もあり、有名な「六和塔」も聳えている。季節は春が最高で、歌にある「涙ぐ
 むような朧月の宵」は絶景と聞く。 近年、この景勝地で世界の首脳が集う「Summit」が開催
 された 事は、充分に納得できる。中国を代表する国際的観光地である。

   遥かな昔、浅瀬の入江が湖となり、北宋時代の詩人の蘇東披が西施湖と名付け、やがて
 周囲15km、水深3mの西湖となった。「蘇堤春暁」「雷峰夕照」などは西湖十景として有名であ
 る。尚、新西湖十景として「白堤」があり、唐代の詩人の白居易(白楽天)が杭州太守を務めた
 時に造られたため、白堤と呼ばれている。また、近くには音楽舞踊の「宋城千古情」もあるが、
 未見学である。

   清朝乾隆帝は、この風光明媚な江南地方を愛で、度々この西湖を訪れた。我々島国の日
 本人も、これらの水郷の地を好んだのだ。

   蘇州は、名曲「蘇州夜曲」が昭和15年に日本で大ヒットしたが、情感溢れるこの艶めかしい
 戦中歌は、当時の軍部によって「時局柄、好ましからず。」として発禁処分となったのである。
 

   無錫は、「錫が採掘され尽したが故に無錫」と呼ばれ、何も無かったが、日本での「無錫旅
 情」のヒットで、突然有名になった。

   写真1は、西湖の風景は、どこを取っても一幅の美しい中国画となる。

   写真2は、新旧の観光船が行き交う西湖。背景に聳えるは「雷峰塔」。


 

 

 【第五話】 中国の環境問題

   最近、中国都市部の表通りの路上は、清掃が行き届き、日本よりも綺麗だ。低賃金の労
 働者が毎日早朝に掃除しているからだ。吸い殻のポイ捨てや吐唾はどこの国も同じだが、中
 国の河川は何処も汚く、一部だが川での洗濯や食器洗いを目撃して、正に驚愕した。

   北京と異なり上海では大気汚染は少ないが、中国は未だ深刻な公害問題を克服した経験
 は無い。都市部での所謂「你好トイレ」は激減した。観光地での清潔なトイレは、我々外国人観光
 客には嬉しい。最近、習近平主席はトイレの改善を標榜し、「文明国への大歩」を強く推進して
 いる。

   公共の水道で生水が飲めない事は、飲める日本がむしろ世界的には例外だが、中国には
 「大気と河川の汚染」を特に改善して欲しい。また、「食品偽装」はレストランで食事する限り、旅
 行者には判り難い。「食物で病気になれば、病院へ行けばよい。」と気軽に言われるが、外国
 人が旅行中に病気になると実に大変な事になる。事故と病気はお金と時間の大損失で、高額
 の旅行障害保険に入ってはいるが心配である。交通事故の場合でも、所謂、轢かれ損であり
 要注意である。

   中国の環境問題は徐々に改善されつつあるが、抜本的な解決は極めて困難だと思われる。
 「人は不衛生な環境で育つと、成長してもその環境に順応する。」 だが、逆は不可能で、幼
 少の頃に清潔な環境で育つと、成長後の「不衛生さ」には受不了≪耐えられない≫のだ。

   中国は国家(共産党)指導で、政策が一挙に実施される特異な国である。環境問題でも、果
 敢な施策で課題解決に向けて努力して欲しい。

 【第六話】 日中の茶文化の話

   中国渡来の飲茶の風習は、日本文化の根幹として大きく開花した。栄西らが持ち帰った
 茶の苗木から始まり、日本では戦国時代には「棗(ナツメ)ひとつが一つの城、茶釜ひとつが一
 国に相当する価値」として認知された。合戦で明日の命をも知れぬ戦国武将にとって、一服
 の茶は束の間の命の安らぎの時間であり、茶室は密談の為の空間でもあった。

   「日本茶は、中国茶の種類の多彩・多様さに対しては、後塵を拝している。」と私は思う。
 特に、杭州の西湖近くの余りにも有名な龍井茶は、「色は緑、茶葉は平、味は淳和、香は馥
 郁で中国では四絶」と称せられ(以上、Wikipedia)、清朝の乾隆帝も愛でた逸品で値段も高い。
 そして、医食同源の中国では、茶葉は元来は薬用植物であったのだ。

   だが、中国では、日本のような抹茶(薄茶・濃茶)は発達しなかった。それは何故だろう。中
 国では、狭い茶室(庵)の発明が無かったことと無関係ではあるまい。少なくとも「侘び茶」へ
 は発展はしなかった。

   中国のお茶は、多種多様で広域化し、水平に広がった。他方、日本のお茶は、少種一様で
 狭域のまま、形式美を深めた。どちらを好むかは人それぞれだが、中国茶の多彩さに憧れつ
 つも、私は日本茶の奥深さを、やはり日本人として愛好する。狭い茶室の時空での「一期一
 会」の精神は、「無常観が底流に流れる日本文化」ならではの茶道である。

   余談ながら、表・裏千家のお点前には殆ど差異は無い。裏千家では、泡立ちを比較的高め
 にし、門弟の数は圧倒的に多い。両家の祖は元々は兄弟で、裏千家は後発が故に新機軸で
 の発展を企図したのだった。

   写真1は、西湖付近の茶芸店であり、飲茶の実演と販促員(中央)。

   写真2は、往時の茶の売買の様子を示す人物展示。
 (写真2は割愛)

 

 【第七話】 中国共産党の成立と課題

   私見だが、封建社会から、(国内資本が未成熟なまま)一気に近代社会を創出する為には、
 「共産主義思想」が適切だったと思われる。

   中国の歴史観では阿片戦争迄が「古代」であり、その後の約140年間は蹂躪・内乱・騒乱の
 時代で、改革開放後やっと経済発展を遂げた。

   没有共産党就没有新中国≪共産党が無かったら、新中国も無い。≫と巷間言われる。そ
 んな、上海市内の「歴史的な名所」を見学した。

   Passportを提示し、荷物検査の後、慌ただしく見学したが、少年少女と人民解放軍の兵士
 が特に多かった。人民解放軍の呼称は現在はやや古色蒼然の観がある。中国は、軍事予算
 の拡大、海軍力の増強により海洋覇権国家を目指しつつ、「一帯一路」の世界戦略を着実に
 推進している。

   世界史を回顧すれば、古来より経済大国は必ず軍事大国への覇権の道を邁進した事は、
 厳然たる歴史的事実である。

   写真は、中国共産党第一次全国代表大会(上海、1921.07.23)の群像

 

 【第八話】 中国の機内食について

   格安ツァ-の海外旅行でも機内食は楽しみである。以前、スペイン旅行での思わぬビジネス・
 クラスへのグレ-ド・アップ後の食事は、大満足であった。だが、安・近・短の中国旅行では、国
 際線としては貧弱な機内食であり、恥ずかしくないのかと思う。飲み物は水飲みのLCC航
 空会社もあるが、CA(中国国際)は赤ワインが頼めてまだ良い方であった。

   狭い座席に拘束されるのに糖質が多い食事内容は閉口する。せめて、ウィスキ-を持ち込
 み、チビリとやりたい。下界を見下ろしての洋酒は格別な味である。

   巷間言われる機内食のトップはシンガポ-ル航空だが、日本人には馴染まない。韓国の
 フライトでは、カップラ-メンが提供され驚いた。ツァ-料金が超格安で我慢するが、中国の国際線
 のフライトとしての矜持がもう少し欲しい。

   写真は、往路の中国国際航空(CA164便)機内食。紅酒(赤ワイン)は無料。

 

 【第九話】 中国の未来への考察

   31年後、中国は建国百年を迎える。私は多分その状況を見られないが、あの世からは観
 れるだろう。中国の超経済軍事大国化は必至で、インドと共に隆盛し、残念だが日・米・欧は
 凋落すると予想している。

   問題は、中国の体制がどう変容しているかだ。民主化か否かは問うまい。悠久なる中国の
 歴史の1ページに過ぎないのだから ・・・ 。

   私の前世は中国人で、現世こそ日本人であり、来世は知らない。ただ、思うことは、来世に
 どの国に生まれようと、中国の強い影響力を受けることである。従って、未来の中国が良い国
 であること、換言すれば「義と徳」の国であって欲しい、と強く念願する。

   言うまでもなく、人の人生は「時代・国家・家庭の諸状況」に強く影響を受ける。そして、生
 活状況は健康・教育・人格にも深く関わってくる。これらの観点から、中国はどうなっている
 のだろうか。

   十数億の民の暮らしの維持は容易ではない。誰もが豊かな生活を希求し、政府(為政者)
 はそれに応えなければならない。中国の有名な諺に、「上有政策、下有对策」≪政府が政策
 を行っても、庶民はそれを回避する対策を考えて実行する≫とある。逞しくしたたかな中華民
 族である。中国の民主化、分国化は当分は考えられないが、完全な資本主義化は有り得る。
 なぜならば、グロ-バル経済と情報化の益々の進展は、諺に言う「都市は人を自由にする。」か
 らなのである。

   最後に、中国の歴史と文化が大好きな私の前世は、「中国遼寧省大連在住の清朝の学者
 &軍師(1845生-1912年没)」だと信じている。

 【エピ・ロ-グ】

   7日間の旅程は適切な長さだ。6個のオプショナル・ツァ-には総て参加せず、全参加の場合の
 合計1,790元(34,010円)を節約した。使ったお金は関空への往復JR代2,720円と、現地の
 コンビニでの缶ビ-ル代600円だけであった。現金10万円と銀聯(ギンレン)カードを持参したが、必
 要は無かった。病気にも事故にも遭遇しなかったことは喜ばしい。

   約40年前からの中国旅行は十回を超え、5年前の会社定年直後には、上海の復旦大学に
 半年間の語学留学を果たした。

   そして、現在でも、毎日、NHKのTV&ラジオ講座で中国語を勉強している。今後も、私は更
 に努力する。「私の中国の学びは、生涯続くのである。」

   写真は、上海外灘。東方明珠塔(TV塔)・栓抜きビル(中央)・上海タワ-(632m)

 

 【2018年01月】
           【 新春に資格2個を取得 】

   新年早々、介護予防サポ-タ-の資格を得て、「日本城郭検定(3級)合格認定証」が届き、私の
 所有資格総数は71個となった。昨今、現代人の古希(70歳)は当たり前だが、資格数70個の獲
 得者は、文字どうり、「古来稀なり」であろう。これも一歩一歩の努力の積み重ねの結果であり、
 更に、「70歳迄には百個の大願を成就する」、と言う新たな発願を行った。

   余談だが、中国の万里の長城は、版築土塀、石積、レンガ積と変遷した。レンガの1個1個の厖
 大な積み重ねなのである。巷間、月から肉眼で見える地球上の唯一の人類の構築物と言われ
 るが、この話は間違いである。総延長は中国華里(約0.5km)で1万里はある。しかし、北京近郊
 の八達嶺でも実際には長城の幅は約七歩しかなく、人間の肉眼では幅を識別する分解能は無
 いのである。資格取得も同様で、長い努力の継続の割には、評価されず無用の長物かもしれ
 ない。だが、中国には、「愚公移山」の諺もあり、世界遺産である万里の長城は中国の象徴で
 あり、国家の超級文化遺産となって、毎年、世界中からの夥しい観光客を集客している。

   他方、日本の諺には、「山髙きが故に貴からず、木の多きを以って貴しとなす。」とある。この
 諺で「木」とは何だろうか。私はそれは、「人の為に役立つ見識・意見・忠告の総体」、だと思う。
 人の為になる人材たらむと自らを錬成する努力の継続は、貴いことであると信じている。

   正直言って、資格取得は私の趣味であり、私は資格取得マニアである。だが、時間と費用と気
 力を注ぐ以上、人生を生きる上での確かな数値目標である。目標のない漠然とした努力は嫌い
 である。登山の時、登頂して俯瞰して初めて、無駄なル-トを選択したことに気付くこともあるが、
 その貴重な経験は次の機会に活かせばよい。人生は長いようで短いのか、短そうで意外にも長
 いのかは未だ知らず、人それぞれだが、「学ぶ努力を、結果は裏切らない。」と、受験の度に私
 は確信を深めるのである。さあ、次の72個目は何に挑戦しようか。考えるだけで人生は楽しい。

   (追記) 介護予防サポ-タ-登録証は、個人情報が多く記載されているため掲載を割愛。

 

              【 長兄の葬儀への帰省旅 】

   新山口付近の雪の山陽新幹線を博多へ急ぐ。博多からは特急で長崎へ向かう。来るであろう
 未定の日が来た。人生の無常を思うばかりで、誠に残念である。

   写真は、新幹線の車窓にて。

 

   大学卒業以来だから、40数年ぶりの友と、故郷長崎で、長い間のご無沙汰の旧交を暖める。
 斎場での骨拾い後の人生の無常さが慰められる。生きていてこその、お互いに交う心の交流が
 ある。高2高3と同級生で、大学では教養課程では同じ下宿で、お互いに知り尽くしている仲で
 もある。彼は生物学科を卒業して長崎の高校の生物教師に、私は化学科を卒業して京都の大
 学院に進み企業の研究者に。道は違えど、あの時代を共に生きた懐かしいメモリーで話題は尽
 きない。昭和40年代の後半は、私達には特別な輝きの青春だったのだ。

 

   帰阪の路を寄り道して、JR篠栗線で筑豊地方に向かう。筑前国と豊前国に股がるこの北九
 州の土地には、私は強い思い入れがある。映画「青春の門(筑豊編)」での強烈な印象だ。近代
 日本の産業を支えた石炭(黒いダイヤ)層とセメント原料の石灰石(白いダイヤ)の山。大地は採
 掘され山々は削られ、写真のように香春岳は痛々しい平面形状を筑豊の地に曝している。現代
 人の環境美的な感覚では、見るのは本当に辛いのである。自然からの白黒の贈り物を活用して
 何が悪いのか、とのご意見は、ごもっともである。
   しかし、余りにも採掘効率優先に見えて、自然へのいたわりの心に乏しく感じる。自然だって
 痛い「山川草木悉皆成仏」の日本文化である。人間の開発最優先の傲慢さには、自然は、時に
 はやんわりと、又時には強くたしなめて、反撃するのである。三井三池炭坑の大事故を想起して
 欲しい。場所こそ違え、一家の大黒柱を瞬時にして失ったあのあまたの悲惨家族の慟哭のニュ
 ース映像は、数十年後の今でも忘れられない。
  環境を大事にしよう。負の遺産を生の眼でしっかりと観て、身の回りのことから、小さな実践を
 しようと思った。

 

   新門司から大阪南港へのフェリーに乗船し、入浴後、夕食バイキングでゆっくりと過ごす。今回
 の急な長兄への惜別の帰省は、覚悟はしていたが、長兄は少し早過ぎた人生旅であり、私は僅
 か二泊三日となった。
 
  無常の風は吹き去り、精進落しの食事会では、我らの先祖の話から孫の話までの珍談奇談も
 噴出して、賑やかであった。幾世代間の昔話を伝えることは、一族のメンバーに対する晩年の我
 々の責任でもある。他方、旧友との語らいでは、私の本質を看破したその友の話で盛り上がった。
 「高校時代の私は、坊主頭で、手には参考書を握って、廊下をビュンビュン走っていた。」と。 それ
 は、まさしく今も変わらない私の本質である。射手座、辰年、AB型そのままの、典型的な特徴と
 言える。

   旅をすると新しい自己発見がある。その再発見があるが故に、旅は重要であり貴い。時空間
 を超えて、自分らしく生きる為の新しいヒントを掴むことが、旅をする価値である。

   ビールを飲んで、豊かな食材をいただき、コーヒーでしめると、熱い思いが自然に湧いてくる。
   「行きたい所には行き、逢いたい人には逢い、書きたい事は書きたい時に書く。」 そんな自由
 自在な晩年を今後も過ごしたいものである。我儘だと言われようとも、作家としての豊かな作品を
 後世に残すことで、お詫びに代えたいと思っている。

  

   3日目の今朝7時、明石海峡大橋を通過する。大阪湾に入り、関西に戻って来たと実感する。
 また、いつもの日常の日々が始まるが、心の風景は少し変わって、より一層の芸道精進を誓う。
 人生の無常の風がいつ吹くかの予測は、誰もが困難なのだから、、、。開通前に徒歩で淡路島に
 渡ったこの巨大橋。神戸空港から北海道へ空路で往復した際の眼下に見たこの壮大な橋梁。
  日本人の技術者の一人として、日本の技術力に対して、実に誇りを感じたものだった。
  さあ、努力して精進を続けよう。今回の帰省旅はまもなく終る。


 

 【2017年12月】
            【 近況報告を二題 】

  ≪近況報告1≫

   2001年4月に開設した私自身Homepageが、約2ケ月前に悪意ある者によって攻撃され改変
 された。使用しているホ-ムペ-ジビルダ-11が更新できないことからこの不具合が発覚し、原因
 究明を行い、遂に昨夜やっと自力で完全復旧させた。その症状は約170枚程度の写真の改変
 (スクランブル化)であり、相当な日数を要した。カスペルスキ-のsoftや、hi-hoのFire Wallをかいくぐ
 って敵もさるものであるが、私のITリテラシ-も大したものだと自分を誉めてあげたい気分である。
 もし、外部業者に依頼したら大金を請求されたであろう。

   現代生活に於いて、ICTのskillは必須である。従って、日々研鑽しておく必要がある。今回の
 経験を通して大変な自学自習となった。もし、読者の皆様でお困りの方があればご一報下さい。
 良きAdviceができるものと思っています。善意での電話サポ-トですから、勿論、無料です。

  ≪近況報告2≫

   明後日より、13回目の中国旅行に出発する。江南地方7都市、7日間、一流ホテルで全食付、
 観光付で、\39,800のJTBでの旅行である。冬季の歳末前のオフ・シ-ズン(12/21-27)なので格安
 料金とか。尚、中国ではfacebookが禁止なので、旅の道中でのfacebook速報の発信はできな
 いのが残念だが、来年2月より詳しい旅行記を連載する予定なので、ご期待頂きたい。

 【2017年11月】
            
神戸大学・六甲祭の見学 】  ( 2017.11.11(土) )

   関西に長年在住しているが、神戸大の大学祭は今回が初の見学であった。JR六甲道か
 らバスで正門に着き、急な石段を上ると、そこは港が見える坂の上の学舎である。広いグランド
 での模擬店の数々はどこも同じで、バンドの音響は大きい。多くの学生が溢れているが、一見、
 高校の文化祭と変わらず、神大生の知性の程を知るべく、何人かと議論した。
   上海からの留学生、法曹を目指す院生、国文専攻の学生。特に国文の彼とは、「源氏物
 語」について熱く議論した。彼に対する私の評価は、優や可ではなく「良」である。

   理工系学部での研究内容の展示が皆無に近かったのは残念だが、この事は京大・阪大
 との差異である。神大の看板学部は歴史的にも経営学部なのである。昼食は工学部の食堂
 で戴いた。清潔で美味しくて、とても安く、大満足であった。
   六甲祭は土日の2日間と短く、せめて金土日の3日間の開催が望ましいと思われた。

   私は、国際港・神戸港を見降ろす神戸大のロケ-ションが、とても気に入った。学生諸君には、
 国際文化の理解の上に、更に学際分野の見識を広め、世界の文化の進展に貢献して欲しい。
 青春の日々は短く、ましてや学生時代は更に短い。だから、寸暇を惜しまず、自己研鑽に励
 んでほしい。また、生涯の友を得るのも、実にこの学生時代なのである。


   写真は、六甲祭の一風景である。

 

 【2017年10月】
           【 長崎への帰省旅十二日間 】 (2017.10.18-28)

   明晩から急遽、長崎市へフェリ-での帰省です。瀬戸内海の星空が綺麗でしょう。家族と逢
 って、行きたい所に行って、会いたい人にも会って、一緒に故郷の山にも登る予定です。
   旧友や幼馴染みと旧交を暖め、博多ではプチ同窓会も計画しています。 九州は懐かしい。
 年を重ねる程に望郷の思い抑え難く、人生の無常に、心に残る旅をと願うばかりです。
   本場のちゃんぽんの味が恋しいのです。


   帰省旅の一日目。ホンワカランチと、3次会はお初天神の「モリオカ」有志でのカラオケ。その後、
 名門大洋フエリ-に大阪南港から乗船する。二等客室、5020円。

 

   帰省旅の二日目。AM8時半に新門司港に着岸。JRで博多へ、更に高速バスで長崎へ。
 記事と写真は無し。

   帰省旅の三日目。長崎市内の早朝散歩で中島川に架かる有名な眼鏡橋に来た。子供の
 頃の思い出が甦る。あの日々からもう半世紀以上の歳月が流れ、19歳で進学の為に故郷を
 離れた青雲の志を思い出す。希望が大き過ぎて、狭い長崎の街にはとても納まりきれなかっ
 たのだ。こうして4年ぶりに市内を散策すると、何もかもが愛しい。

   写真は、長崎市街の中心部を流れる中島川に掛かる有名な眼鏡橋

 

   帰省旅三日目の後半。長崎南高コーラス部の1年先輩と一緒に帆場岳(三ツ山、506m) に
 登る。最高の眺望は実に値千金だ。ガイドブックやTV等ではほとんど紹介されない、これぞ
 長崎の絶景である。左側の市街は本来の長崎の港町で、右側の市街はかっての浦上川沿
 いの浦上村であった。長崎開港四百数十年。人口40数万人のこの長崎市は、造船・水産・観
 光の街だが、最近は超大型客船の来航特需で賑わっている。五島列島は右斜めの彼方で
 あり、港を真っ直ぐに出て行けば、遥か中国大陸の香港に至るのである。

   写真は、帆場岳からの長崎の眺望である。


 

   帰省旅四日目。華やかな国際観光都市長崎から西南に約30km。ここは長崎半島の突端
 から橋で繋ぐ樺島(カバシマ)である。九州本土の最西端の限界集落・長崎市樺島町である。人
 影は見えず、子供は僅かに5人。多くの空き家と、ほとんどの年金生活者。40年前の漁業の
 最 盛期は遥かに遠く、耕す土地とて無く、野鳥と野良猫が数羽と数匹。半島の小島なるが
 故に西風は特に強く、実に寂しく侘びしい。そんな島へ嫁いだであろう人からも中学の同窓会
 の葉書が届くが、長崎市にはこんな町もあるのだ。「どこも同じバイ」と老婆は苦笑するが、
 「ばってん、ここは長崎市バイ、故郷として寂しく辛か」と私は思わず故郷の方言が出た。
   オジサン達は日焼けた漁師の顔。オバサンたちはやや腰曲がり。

   そして、写真のようにいつの日か裏山の墓地へ。大変すまないが、私はそんなふるさとの町
 は好きになれない。最涯の土地に縛られて、人生の未来が開けないからだ。長男は宿命とし
 て、女性は縁として。運良くか三男坊として生まれ、この長崎市内の大浦天主堂やグラバー
 園の近くで育った私は、幸せ者であった。

   写真は、九州本土の最西端、最果てのバス停である。
写真は割愛。

 

   帰省旅四日目の後半。長崎市内の繁華街・思案橋近くの中国寺・崇福寺を見学する。時
 間外で無料で拝観できた。子供の頃、この竜宮城様式の赤寺でどれだけ遊んだことだろう。
 そして、暮れなずむこの寺を後にして、私は文字通り思案した。ポケットの中の五円玉一枚。
 それで電車に乗って家へ帰るか、それともお菓子を買って、歩いて丘を越えて帰るか。幼な
 心にも、いつも悩み思案したのである。そんな時代、誰もが貧しい昭和三十年代の前半の時
 代のことだった。

   帰省して、古里の街を散策して、自らの原点を回想させられる。何故、こんなにも旅が好
 きで、中国文化が好きなのかと、、。淋しい心の空白を埋めるものは、未知の世界への憧れ
 であった。だから、向学心に燃えた。正統な理由で故郷を出奔するには、大学進学しか無か
 った訳である。

   写真は、崇福寺の正門である。

 

   帰省旅五日目。大浦天主堂下の坂道で長崎名物のカステラを買う。異国伝来の上品な
 味は、一本が三百円とお手頃な値段だ。遥か昔のイスパニアのカスチラ地方が起源と言う
 その西洋洋菓子は、原料は小麦粉・卵・砂糖である。高級品では、更に蜂蜜とブランデーを
 加える。甘いカステラは、子供の頃の最高のおやつであった。

   長崎では子供の誕生後、命名の名札に添えて「桃カステラ」を親類や近所に配る風習が
 ある。桃の実は、中国では邪気を祓う神聖な果物と信じられている。そんな一年に数度は、
 どんなに嬉しかったことか。普段の生活では、来客者にたまにお茶と一緒にカステラを出す
 ことがある。長崎の主婦は、カステラの両端を少し厚幅で切り真ん中をやや薄幅に切って、
 中程の数切れをお客様に上品そうに差し出す。

  そして、自分は両端でザラメが多い(より甘い) 部分を、満足そうに台所で嬉しそうに頬張
 る。これぞ長崎の主婦の密かな役得であり、長崎流なのである。

   写真中央の坂を昇りつめると、国宝の大浦天主堂である。


 

   帰省旅五日目の後半。長崎市内の港を見下ろす長崎霊園に我が牛込一族の墓所はある。
 漢方薬の製造販売で一代で財を成した伯母が、生前に購入していた。私はこの港が見える
 墓所が好きである。長崎滞在の最終日に墓掃除と供養を行った。現在、19の遺骨が納めら
 れているが、若干名は私も知らない遠い昔の故人である。祖父が鹿児島より郵政官僚として
 長崎に赴任して以来の親族の遺骨である。残念ながら、関西に在住する私は、遺骨としてお
 仲間に加わる気持ちは無い。関西での新たな墓所か、散骨か、又は献体かは、今後家族と
 も相談したい。

   最近、私は人生観(宗教観)を少し変えた。信心深くなったと言えよう。年令もあるが、確かな
 理由もありここでは詳しくは述べない。 墓参ですがすがしい気分となった。信仰心のある生活
 は、素直に心から良いものだと思う。心が落ち着くのだ。

   写真中央は、金比羅山で、その右側に今回初登頂した三ツ山(帆場山)が望める

 

   帰省旅六日目。長崎市駅から高速f@rで約2時間。長崎市の奥座敷、我が国初の国立
 公園雲仙の紅葉はまだ早い。平成新山の溶岩ド-ムを見たくて、仁田峠のロ-プウェ-で昇れ
 ば、霧で視界不良は残念だった。しかし、写真のように雲仙の全景は楽しめた。長崎南高
 の高二・三年の夏、雲仙での受験勉強の合宿は、青春の始まりだった。昼間のスポ-ツ、
 夜間の酒なしのコンパは、本当に良き思い出である。

  友情が淡い恋心に変わる「日本の軽井沢」こと雲仙での日々は、大切な夏の記憶なのだ。
 あれから半世紀近くの歳月が流れた。制服から普段着姿の乙女たちのメモリーをそのまま
 に留めたくて、黒髪に霜ふるを見たくなくて、同窓会には出席していない。勇気を出してSNS
 で連絡をとれば、瞬時にあの青春の夏の日々が追憶されるだろう。雲仙はそんな避暑地で
 あり、長崎人の自然豊かな御山であり、 湯の里である。

   写真中央は、雲仙ゴルフ場である。

 

   帰省旅六日目の後半。雲仙に来たならば地獄巡りは必須である。高速バス停車場すぐが
 入口であり、見学は1時間もあれば十分であろう。硫化水素を含む水蒸気の白煙の中、石
 畳を歩めば、なぜか人体には有毒であるはずの腐卵臭が好きになる。大袈裟に言えば、生
 命誕生の名残の記憶が、我々人類のDNAに保存されているのかもしれない。貼付の写真は、
 キリシタン迫害の十字架と真知子岩である。

   前者については、時の権力者が如何に政治的権威を超える宗教的権威を怖れて来たか
 の証左である。後者については、世の人々が如何に愛し合っても会えない悲恋物語に共感
 するかの好事例である。両者は共に、庶民の歴史に深く刻まれている。遠い過去からの記
 憶が、遠い未来へ継承されてゆく、、、歴史の波間に翻弄されながら。死後、地獄に行きた
 い人はいない。だが、六道輪廻の循環から解脱できず、二河白道の細道を見出だし得ぬ人
 の、何と少なくないことか。人は自らの哲学(宗教)を探求するべきだと、私は近頃、切に思う
 のである。

   尚、松倉父子はこの島原の乱の鎮圧後、幕府によって、改易処分となった。当然の報いか
 もしれない。 写真中央の十字架は、キリシタン受難の碑(雲仙の地獄で拷問を受けた)。右
 は、名作 「君の名は」の雲仙ロケの記念碑。


 

   帰省旅七日目。雲仙の有明海側の城下町島原に宿泊した。島原と言えば、長崎人と関西
 人とでは、まったく思いが違うだろう。元長崎人の私が思うには、悲しい城下町である。新興
 大名の松倉重政が四万石の小藩なのに、分不相応な城郭建造を企てた。キリシタン弾圧と
 苛酷な年貢。葬式にも課税し、苛政を極めた。そして、ご存知の島原の乱である。

  ♪「天の声聴く島原の 原の城跡こここそは、神の砦と立て籠り、、、」歴史好きな方々には、
 是非、原城を訪れて慰霊して欲しい。また、近年は約二百年ぶりの雲仙岳の噴火災害もあ
 った。更に、「島原の子守唄」には哀愁が漂うが、貧しいが故の所謂「人拐い」で脅かし、お
 ぶった子供を早く寝かせようとする少し怖い子守唄である。

   最後に、島原の有名人として、 故宮崎康平氏を忘れてはならない。島原鉄道の重役にし
 て、「まぼろしの邪馬台国」の著者であり、邪馬台国は地元の島原だと結論付けた。それに
 対する私のコメントは保留するが、面白い話がある。
   実は、康平氏と長崎出身のさだまさしの父君は、早大以来の親友である。康平氏は「さだ
 まさしの作る歌はつまらん。但し、「まほろば」だけは良い。」と、さだまさし本人がテレビかラ
 ジオで語っていた。私は他の歌も良いと思うが、諸行無常を歌うこの名曲はやはり傑作であ
 ると思う。

   写真左は眉山、中央奥は普賢岳(平成新山) 、その隣は島原城天守閣。

 
 写真右は島原の子守唄の碑。

   帰省旅七日目の後半。JR大村駅前のコンビニで、噂のトルコライスを買った(写真)。長崎
 でいつ頃から発売されたかは知らないが、なんか学校給食の寄せ集めみたいな感じだ。味
 は悪くないし値段も安い。しかし、長崎料理の一押しとは言えない。No.1は、高額な「しっぽく
 料理」であるが、解らん料理でもある。でも、漢字で「和・華・蘭」料理と書けば、即座に料理
 内容が想像できるであろう。

   このように、長崎の文化はごちゃ混ぜの「ちゃんぽん文化」であり、庶民料理の一押しは、
 やはりちゃんぽんと皿うどんである。私は、家庭ではちゃんぽんと皿うどんに鯨肉、小学校
 では脱脂粉乳、中学校では牛乳で育ったようなものである。たまの機会にカステラを頂けた。
 水産県長崎は海産物が美味しい。トルコライスにはその食材が無いのは、私には不思議で
 もある。大阪の我が家では、妻も娘もちゃんぽんを喜んで食べてくれる。故郷長崎の味の継
 承がとても嬉しい。

  写真のs.boerは432円とは安い。


 

   帰省旅八日目。大村から佐世保経由で佐賀に宿泊した。佐賀は何も無い。佐賀城跡も質
 素で、質実剛健の佐賀鍋島藩の気風そのものだ。長崎の観光を終えた修学旅行のガイドが、
 福岡まで行きますが途中の佐賀は何も無いので寝て行きましょう、と言ったとか。佐賀には
 失礼な話だが、確かにだだっ広い佐賀平野は単調で面白くない。せめてもと言うことか、秋
 晴れの稲刈り後の気球の競演は圧巻ではある。

  佐賀の知名度は全国的に本当に低い。しかし、幕末維新に貢献したその功績は大きく、
 巷間言われる「薩長土肥」の肥とは、肥前国の東半分の佐賀県のことであり、西半分の長崎
 県の事ではないと、元長崎県人の私は素直に認める(但し、大村藩は貢献した)。佐賀人の
 性格は概して地味であり、さながら小説「次郎物語」である。佐賀藩は35万石の雄藩で、長
 崎警備役を幕府より拝命し、外国の最新事情にも精通していた。そんな時代の要請の中で、
 幕末の名君鍋島直正は歴史に登場したのである。

   写真右手は、重文の鯱門である。

 

   帰省旅八日目の後半。JR佐賀駅から博多方面へ三っ目の吉野ヶ里公園駅で下車する。
 弥生時代の広大な環壕集落は、北は背振山系に守られ、南の有明海は深く入り込み、土
 地は肥沃で山海の恵みにも恵まれていた。正に、弥生人の生活には最適の土地柄と言え
 よう。ここに、約七百年の弥生人の営みがあったと考えられている。

   佐賀県がこの地に工業団地の造成を始めると、遺構が続々と発掘された。慌てた佐賀県
 と政府は短期間に史跡としての保存の決定を行った。その後、広大な公園として整備され、
 毎年多くの観光客を集めている。今回、無料ガイドの案内で、約1時間大変勉強になった。
 文字があったら、もっと詳しく当時の生活が理解できたであろうと思うのだ。紀元前1世紀、
 中国ではあの司馬遷が「史記」を既に完成していたのである。
   写真は、往時の模擬再現の建物である。


 

   帰省旅九日目。前夜、福岡市の友人宅に泊まり、翌朝は天神からバスで約50分、 九州
 大学伊都キャンパスに着く。原野に突然に建造された正に米国の宇宙センタ-のようで、建物は
 最新でも学生は無表情で寒々とした感じがする。周辺には学生街や居酒屋街は無く、大学
 がこの新しい土地に根付くには多くの歳月を必要とするだろう。

   稲盛財団記念館にいた学生と雑談した。彼らの未来への私からのアドバイスの言葉は、
 「チャンスの後ろは禿げ頭。チャンスの前は乱れ髪。」である。人生の未来において幸多か
 れと、その言葉を送ったのであった。

   時代は急速に進展し、大学も大学生活も大きく変化している。ベトナム人留学生と話した
 が、アジアからの留学生のなんと増大したことか。隔世の感である。
  写真の左側は、理学部の建物である。


 

   帰省旅九日目の後半。天神から、博多港国際フェリ-タ-ミナルビルまで歩く。此処から韓国
 ・釜山迄は5時間半で、船賃は9000円である。釜山発の夜行便は博多迄11時間半である。
 なぜでしょうか?(クイズ)。答が解らない人はコメントをどうぞ。日本全国を隈無く旅している私
 の閻魔帳では、最高得点を得た都市は福岡市であり、92点を与えたい。気候風土・地理・歴
 史・文化・経済・交通・教育の何れもが高得点である。強いての減点は、首都東京や関西か
 ら遠い事である。さすがに温泉は無いと思っていたが博多温泉がある。日本は温泉大国で
 ある事を忘れていたのだ。

   ただ、昔の博多は素朴な港町の風情で良かった。今はプチ東京化して、地方色が薄まっ
 ているのは残念である。博多は便利な街で、空港が極めて近く、韓国も近い。山あり海あり
 祭りありだ。九大は郊外に移転したが、交通は至便である。

   写真は、博多湾で、遥かに金印で有名な志賀島を望む。

 

   帰省旅十日目。博多湾西岸の今津の浜に行った。元寇防塁が最も良好に保存されてい
 る場所である。現在の波打ち際から約50m離れて、長さ200m、(構築時)高さ3mの防塁が、
 松原に寄せる潮騒の響きの中で、往時を偲ばせる。七百数十年の時を超えて、東アジア史
 の証人として、現代人の私達に何かを問いかけている。

   それは何か。 日本は神国なのか? 元帝国は本当に侵略者だったのか? そして、時の執
 権北條時宗はこの元寇の心労が原因で若くして逝去したのか? 疑問は残る。他方、疑問の
 余地が無い問いもある。日蓮が蒙古襲来を予言したとのことだが、私の見解では、予言では
 なく、当時の外交情勢の当然の予測事項であった。元が南宋を滅ぼす為に、日本に国書を
 送る意志があることは、日本からの留学僧には情報として伝わっていたことは十分に考えら
 れるのである。ともかくも、日本とジャワ島だけは、蒙古の侵略による支配を免れたのである。
 もしそうでなかったら、日本文化の純血性の維持はなかったであろう。

   元帝国は蒙古族であり、騎馬民族である。農耕民族である大和民族(日本)や漢民族(中
 国) とは馴染まないであろう。しかし、文化的融合はメリットも勿論ある。でも、日本人は蒙
 古人をやはり忌避したと思われる。但し、それで良かったかどうかは、また別問題でもある。

   写真は、今に残る福岡・今津の「元寇防塁」である。

 

   帰省旅十日目の後半。博多の天神に戻り、一風呂浴びて、福岡在住の友達数人と飲ん
 で旧交を暖める。飲むほどに昔話で盛り上がり、初めて聞く恋ばなも出て、実に楽しかった。
 数人の訃報も聞き悲しくも思ったが、これも人の世の無常である。二次会では中国人女性
 がいるカラオケに行き、中国語の会話と歌を楽しみ、すっかり午前様となって、同じ友人宅に
 三 連泊となった。

   福岡の町は大きく変貌した。友達にも多くの変化があったようだ。しかし、友情 は決して
 変わらず瞬時に昔日のゆかしき日々に話は巡る。旧友とは実にありがたいものだ。 生涯
 の友を得た青春時代とは、如何に素晴らしいものか。いずれか先に世を去ろうとも、友は永
 遠の友である。生涯の友達を得た青春時代は、素晴らしい日々だった。

   写真は、一次会の様子である。

 

   帰省旅十一日目。博多から小倉へ鈍行列車で移動し、大阪南港行きの名門大洋フェリ-
 を1便早める電話をする。出航迄の時間を小雨の中の小倉城見学に充てる。日本は実
 に いい。国内旅の至るところに、温泉と城跡がある。そして、山海の珍味に地酒である。
 特に、ここ小倉は北九州の中心地の城下町で、写真のような素晴らしい天守閣がある。
 それだけでも満足である。

   来月、70個目の資格として「日本城郭検定」を受験するが、今後は自称〔お城博士〕 を
 目指したいものである。男らしい九州男子で、小倉生まれで玄海育ちの実在の人物 《無
 法松》が乱れ祇園太鼓とともに想起される。又、小説家松本清張を忘れてはならない。
 共に、北九州を代表する有名人である。

   写真は、素晴らしい小倉城天守閣。

 

   帰省旅十一日目の後半。新門司港と大阪南港を繋ぐ名門大洋フェリ-は、関西⇔九州間
 のゆっくり旅の定番だ。所要時間は12時間40分である。二等客室は、2割のシルバ-割引で
 片道5020円と格安で、NET予約では最大3割引である。第1便(午後5時新門司出港)では、
 夕食バイキングは\1550で、朝食は無料となる。第2便(午後7時50分)は新造船で、二等客
 室の雑魚寝でも専用の電源が有り、スマホお宅の私には嬉しい。

   とにかく船旅は良い。のんびりと瀬戸内を巡れば、夜間ゆえに景色は残念だが、絶景三
 大架橋の通過は壮観である。明石海峡大橋、瀬戸大橋、そしてS字に蛇行する難所の来島
 海峡大橋の通過は一押しである。船内では大浴場の設備は勿論、いろいろと楽しめる。小
 倉駅(か門司駅)への無料送迎バスもある。

   とにかく、日本の地中海(瀬戸内海)の船旅をお薦めする。日頃の都会生活の世塵を流す
 には旅が一番であり、船旅が最高であろう。新幹線では小倉・新大阪間は約2時間半と速い
 が、値段は船賃の約3倍弱である。急がぬ旅なら是非船旅を。
   写真は、船内大型テレビでの日本シリ-ズ第1戦の観戦の模様である

 

   今回の急な長崎への帰省旅のノ-トが完成した。いつもはデジカメ写真を選定し、テ-マを決
 めて原稿を作成して、パソコンで推敲して等々、旅の終了1ケ月後からやっと連載が開始でき
 た。今回は、良い写真がスマホで撮れたら、即コメントを書いて発信した。毎日2回、まるで朝刊
 と夕刊に間に合わせる新聞記者のようだった。文章を推敲出来る時間は余り無かったが、
 その分、現場レポ-トのような緊張感の高揚もあった。facebookでの投稿は、後でスマホで編
 集できるのが嬉しい。SNS-Essayistとして、今後も良質な旅行記を発信したい。

  【2017年04月】
            私が選ぶ「日本の滝20選」

   先日、大阪の「箕面大滝」を散策した。阪急箕面駅から半時間と近く、時間が無く駆け足の
 散策となったものの、
やはり素晴らしい滝だった。この機会に、「私が選ぶ日本の滝20選」を
 皆様に紹介したい。
日本全国の現地の滝を訪れ、吟味選択した必見のお勧め滝です。どうぞ
 お楽しみ下さい。

   北海道のオシンコシンの滝は知床八景。十和田湖から奥入瀬に注ぐ銚子の滝は別名魚止めの
 滝。沼田市の吹割れの滝は必見の価値。尾瀬は三条の滝。東の横綱は日光の華厳の滝で日
 本の絶景。富士の裾野の白糸の滝は美しく、隣の音止めの滝は曽我兄弟の仇討伝説で著名。
 天城山の浄蓮の滝は演歌「天城越え」で有名。飛騨の平湯大滝。孝行息子伝説の養老の滝
 西の横綱は熊野の那智の滝で荘厳さに合掌。熊野大杉谷は堂倉の滝。名張は赤目四十八滝
 新神戸駅徒歩5分は布引の滝。紅葉狩りの箕面大滝中国と四国には特に必見の滝は無く、
 豊後大野の原尻の滝は東洋のナイアガラ。高千穂峡の真名井の滝は小さいが、ボ-トで滝裏を
 通行可。薩摩の曽木の滝は必見。屋久島の千尋の滝は水量豊富。西表島のマリユドゥの滝
は亜
 熱帯。

   河川の遡上はあっても滝の逆上は無い。文系者は詩歌等を作り、理系者は重力を実感する。
 芸術家は絵筆を手にし、私は写真を撮る。この写真の箕面大滝も、良い日本の滝だった。

 
 大阪・箕面の大滝

 【2017年03月】
             「ご当地検定は」、3勝1敗1不戦敗

   第1回ワガヤネヤガワ検定(寝屋川検定)の合格証が届いた。これで私の資格・検定数は合計
 66個となった。得点は83点、順位は150人中30位。平均点71.3点(合格基準は70点)。
 合格者数88名。受検料は無料。受験日は1月28日(土)だった。頂いた小冊子を2週間程
 繰り返し学習したが、受験を機会に寝屋川市内の歴史的な史跡も訪れ大変勉強になった。

 ご当地検定は/大阪/神戸/寝屋川/奈良/京都/と予定していたが、順に合格/合格/合格/2
 点差で惜敗/テキストの分量の多さに不戦敗/である。奈良検定はよく勉強したのに残念だった。

  ご当地検定の利点は、現地見学等により、身に付く知識が実際に得られることである。又、
 意外な発見や知識の体系的整理ができることである。更に、今回の寝屋川検定は受検料が
 無料であり、これは嬉しい事であった。今後は、他のご当地検定受験の計画は無い。資格・
 検定の合格数は百個の目標に対して、約三分の二である。まだまだ勉強は続くのである。

 

 【2017年02月】
            再考・「邪馬臺国」  ( 2017.02.11 )

   建国記念日の今日、古代史最大の謎である「邪馬臺国」について、再び考察した。
 約十年程前、奈良県のJR巻向駅のすぐ傍らで、壮大な宮殿の遺構跡が発見された。
 当時、この地を訪れ古代のロマンに浸ると、やはりこの地こそが邪馬臺国だと思えて
 来たのである。その理由は、大和の国中にある壮麗な三輪山を背景にした箸墓古墳
 の存在とこの本格的な遺構の発見であり、この土地柄への天啓的な直感であった。
   箸墓古墳の形状寸法は「魏志倭人伝」の記述と一致し、年代測定技術によっても、
 卑弥呼の死亡年(西暦248年)の3世紀中頃とも一致する。そして、古天文学に基づく
 シミュレ-ション計算でも、西暦247年・248年と2年連続の日食がこの地で見られたことは
 証明されている。

   卑弥呼(中国側からは蔑称)とは「日の巫女」、即ち、鬼道を以って国を治めた占術
 者であり、内政の混乱と2年続いた日食の凶兆によりその権威が失墜し、暗殺された
 との仮説がある。朝鮮半島では権威が失墜した為政者はしばしば暗殺されたという。
 更に、この故事は古事記の「天の岩戸」伝説に繋がるとものと思われる。邪馬臺国が
 この地であると比定するに足る決定的な証拠は、いつの日かの箸墓古墳の発掘によ
 って得られるであろうが、私の命の存命中にと是非とも期待したい。卑弥呼が貰った
 金印だけではなく、その「封泥(フウデイ)」も共に無ければ絶対的証拠にはならない。
 九州の邪馬臺国が、金印と共に大和の地に東遷したとする説もある。封泥とは荷物
 の紐の交差点に粘土を乗せて印鑑(金印)を押した物で、金印とは別物である。開封
 された封泥と金印の両者が揃ってこそが、卑弥呼が金印を受領した地と言えよう。

   倭国の国の始まりが奈良盆地であり、大和政権の進展とともに、遂に大宝律令に
 おいて、我が国の国号「日本」は確定した。遥かなる時空を超え、東に三輪山を背に
 し、西に二上山、その彼方の瀬戸内、九州、朝鮮半島、中国大陸へと思いを馳せる
 時、思うことは邪馬臺国のことである。日本人の私もまた邪馬臺国人の末裔である。


 【2017年01月】
           【 関西生命線春節大晦日行事 】  ( 2017.01.28 )

   関西で「命の電話」を主催する関西生命線恒例の春節前大晦日行事が、今年も挙行され
 た。会場は今年からは「森ノ宮ホ-ル」となり、狭いが交通の便は近くて、とても便利になった。
 会費は\1500でビ-ルで乾杯の後、鍋料理の水餃子は食べ放題である。毎年の懐かしい人、
 
初めての人、日本・中国・台湾人は勿論、アジア・欧州・米国人と楽しい国際交流ができた。
   国際交流はいつも楽しい。日英中韓独の語学力を駆使して、世界旅行の体験を語る時、
 地球は本当に一つと思うのである。昨今の「自国first」の風潮は、好ましくないと私は思う。
 自国のみの利益の追求は、強欲な経営者の発想であり、今後の世界情勢が懸念される。
   日本は文化立国として世界を先導しよう。日本の文化・価値観を更に発信し、他国の文
 化への理解にも大いに努力しよう。文化交流を遮断する壁など要らないのである。
「語り合
 えば自ずから解る。」と甘くは言わないが、不断の対話交流は相互理解の必要条件である。

 
 大阪市内・森之宮ホ-ル
 
 【2016年12月】
            【 私の誕生日への皆様からのfacebookでのメッセ-ジのお礼 】

   皆様、小生の誕生日祝いのメッセ-ジありがとうございます。
 一括して、facebookでお礼申し上げます。以下は、近況報告として、今日の日記の内容です。

   京橋より大阪城を経て新世界へ。三桂クラブで囲碁2局。.3目置いての2局目は圧倒的に
 有利だったが、結局は19目負けだ。囲碁は隅・辺・中央の内、辺を囲むべし。4線を這うべ
 きだ。大阪城やJ&P上新電機の中国人店員と中国語で話すと喜ばれる。帰宅後、トンカツ。
 ダイエットは順調。SNSの誕生日祝いは20件以上。64歳の誕生日の私は元気だ。散歩できる
 事、歩ける事は素晴らしい。今日は小雨の中、3万歩弱だ。


 
 大阪市内・通天閣下の坂田三吉の王将記念碑

 【2016年11月】
            【 神野山フォレストパ-クの散策 】 ( 2016.11.13 )

   奈良県山添村のなだらかな神野山(コウノヤマ、618m)を散策した。寝屋川の自宅からバイクで
 僅か2時間。限りなく頂上近くまでバイクで上がり、後は歩いて山頂展望台へ。伊勢と大和の眺
 望は素晴らしく、愛妻みどりの美味しい弁当を食べつつ、気ままな旅の自由な時間を満喫した。
   山頂には王塚と呼ぶ墳丘があり、古代の祭祀跡か古墳であろう。 山頂の東側には鍋倉渓
 があり、幅25mで長さ650mの溶岩状の黒々とした角閃光斑レイ岩群は、地質学的にも珍しい。
 伊賀の天狗と神野山の天狗が喧嘩して投げ合った岩だという伝説がある。また
天の川にも擬
 せられ、途中の天狗岩には蠍座の主星アンタレスへの信仰伝説もある。林間を降りて登っての約
 1時間は短いが、気持ちの良い森林浴となった。日帰り散策には本当にお勧めのコ-スである。
   春はつつじ祭り、夏は流星観測、秋は紅葉、冬の雪景色。気軽なピクニックコ-スである。車で
 は名阪国道(25号線)、バイクでは奈良春日大社から県道80号線の一本道で、大阪からは近い。

   写真は、鍋倉渓の溶岩状巨石群の景観である。

 

          【 米国大統領選開票Party 】 ( 2016.11.09 )

   招待状を頂き米国大統領選開票Partyに出席した。会場は西天満の米国総領事館。
 Public Viewingは大画面で、多くのマスコミの取材や米国との中継やQ&A、クイズコ-ナ-、
 軽食もあり、あっと言う間の6時間であった。結果は私としては残念である。それ程までに
 米国国民の現状への怒りとChangeへの期待が大きかったのか。だが、トランプ新大統領
 の政治手腕は未知数である。America, where are you going to go ? と私は懸念する。
   力は衰えたと言え米国は依然として世界の最強国である。米国軍が東アジアから撤退
 し、その軍事力の空白に中国が益々海洋進出する事に対し、日本人としては憂慮する。
 更に、今後の課題は経済政策と格差・差別問題である。American Dreamは蜃気楼なの
 か。数年前の米国東部4都市の冬の旅を思い出すと、寒々としたマンハッタンの摩天楼の中
 で、セントラルパ-クにはほっこりと癒された。今、そんなほっこりの暖かさが欲しいと思う。

   写真は、駐大阪-神戸米国総領事館。受付でスマホとデジカメは預けさせられた。
 背景の建物は、駐大阪神アメリカ総領事館

 

 【2016年10月】
            【 難波の宮跡での中秋名月祭 】  ( 2016.10.08 )

   古代日本の副都であった難波の宮跡で、第8回中秋名月祭を見学した。約千七百年の時
 を超えての日中両国の文化交流行事である。多くの模擬店や芸能の競演は、いつもながら
 心楽しい。この上町台地の北端から難波津は近く、瀬戸内を経て大陸に至る往時の帆船を
 瞼に描く時、前世は中国人と信じ現世が日本人である私には、感慨深い思いがこみ上げる。
   九州で生を受け終の棲家となったこの関西の地で、各種の歴史的行事を見学するにつけ、
 畿内は歴史の宝庫であり、それ故に歴史好きの私には「難波の事は夢のまた夢」でもある。
 昼食として麻花を食すれば、その淡き甘さに少年の頃の懐かしい長崎華僑文化を思い出す。
   私は堺筋本町での異業種交流会の宴の後、森の宮駅迄の酔歩の帰途、この難波の宮
 大極殿の基壇跡に寝転び、廻る星座を眺めるのである。北辰が中天より射す浪花である。
   会場を何度も巡回し、中国語会話を褒められ、更に湧く学習意欲に我ながら嬉しい。

   写真は、中国内モンゴル自治区の民族衣装のコ-ナ-

 

        【 囲碁のすすめ (第64期王座戦第1局) 】  ( 2016.10.02 )

   入社2年目の社内旅行で白1目をポン抜き。傍らの先輩の総て死んでいるよに唖然。爾来
 30数年やっと五級に。私の上達は極めて遅いが、囲碁はル-ルは簡単にして実に奥深い。梅
 田のホテルでの第64期王座戦第1局の大盤解説会に無料参加。熱闘九時間半、激しいコウ争
 いを経て、井山七冠の1目半勝ち。両者とも憔悴の感だが、ファンの為に解説して下さった。
   私は皆様に趣味としての囲碁をお薦めする。人生の心の修業として最上である。19路盤
 は計361目にして一年365日に似たり。大局着眼小局着手の石は戻らず、敗着で一瞬の逆
 転もあり、常に最善の着手なくば勝利は無い。一日一日を大事に生きる人生の教訓となる。
   最近は、毎日二局のスマホ対決、水金のクラブ活動、たまに京橋や新世界の碁会所。目標
 は認定大会で全勝し、初段の無料免状を獲得する事だ。本当に囲碁は楽しく人生を豊かに
 する。始めるのは"今です"。日曜のNHK囲碁講座とト-ナメント戦は、毎週の楽しみである。
   (備考) 次の一手で当選し、井山七冠直筆の色紙「風雅」を頂戴した。
  
   写真は、対局終了後の検討。右二人目が井山裕太七冠、左が余挑戦者。

 

 【2016年09月】
            【 関西生命線の中秋節行事 】 ( 2016.09.15 )

   今年も関西生命線主催の中秋節が大阪城公園(大阪NHK斜隅)で無事開催された。お天気
 は曇天で時折のお月さん(月亮)の拝顔となったが、会費\1500で、月餅その他を沢山戴いた。
 芝生での野外宴会で、多くの新しい出逢いと常連の人達と、今秋も日中台交流を深めたのだ。
 特に、南アフリカ出身の男性とは英中日語で大いに語らい、新しい生の知識や情報が得られた。
 国際交流はいつも楽しく有意義である。宇宙船「地球号」のメンバ-として、我々は太古の昔より、
 月を友としてこの銀河系を飛翔し続けている。そんな認識を想起すれば、国際問題など矮小な
 些事かもしれない。隣国の異文化に触れ、その芸能を鑑賞する時、同じアジア人(亚洲人)として
 私達は同胞の思いを新たにするのである。国際交流は、蓋し世界平和への長い道なのである。

   今年もしこたま飲んだビ-ルの酔いで、夜の大阪城天守閣の傍を千鳥足で帰ったが、帰宅後
 10時半からのNHKラジオ中国語講座の勉強が心配だった。勉強できたか否かは、記憶に無い?

 

 

          【 詩吟を教える 】

   毎月第四日曜日の午後は、大阪・天王寺のM喫茶店で、日中交流勉強会が開催される。
 私は今年4月から中国語を担当し、先月からは詩吟(漢詩)も教えることにした。私の吟歴は
 会社のクラブとして五年間だ。関西吟詩文化協会から二段免状を頂き、各種の競吟大会で入
 賞し、予選を経て全国大会にも出場した。本日の漢詩は詩仙李白の「春夜聞笛」であり、や
 や地味な七言絶句ではあるが、味わい深いものがある。中国でも巷間有名だと聞いている。
   日中の宴席で詩吟を日本語又は中国語で皆様に披露できれば、拍手喝采は必至だろう。
 そんな夢を叶えさせる事が、私の詩吟教授の目的である。詩吟は決して難しくはない。絶句
 では僅か二分間の吟詠の間に、聴衆を悠久なる漢詩の世界に、心地良くいざなうのである。
   SNSでは音声で名人の吟詠を拝聴できる。テキスト代も安く道具も必要ではない。諸氏の喉
 と腹だけである。現在ではマイナ-な趣味だと見られるが、潜在的な詩吟人口は実はとても多い
 のだ。

 

 【2016年08月】
              【 中国江南六都市周遊記 】  ( 期間2016.07.28-08.02 )

 【8回連載の第1回:プロ・ロ-グ】 何故、私は何度も中国へ行くのか

   私はもう両手を超える程中国を訪れた。私自身が求めるのか、又は中国が強く招くのか。
 表向き中国は安・近・短の海外旅行で手軽だ。だが潜在意識を考察すれば、それは幼少時
 からの「China Complex」であり、その情念を醸成させたのは故郷長崎の和華蘭文化である。
 日本の最西端の地から抱く外つ国への異文化の憧れ。遥か中国大陸は長崎上海航路では
 一泊の旅程。而して陸路は遠くユ-ラシア大陸最涯の地:ポルトガルのロカ岬で終に大西洋に至る。
 こんな壮大な人類の歴史文化の東の基点が上海で、今や関空から機上2時間弱の卑近さだ。
 大都市上海の復旦大学の語学留学生として過ごした半年間は、もう三年前である。その懐
 かしさにも引かれ、今回も、長江以南の六都市の周遊の旅に出かけた。季節は真夏である。
 悠久なる中国歴史文化への憧憬と、21世紀の建前は社会主義、実質は資本主義の中国の
 現状との乖離に今回も眩暈した。だが、私は今後も中国へ行く、我が心の命じるままにだ。
   (備考; 深圳航空は所謂LCCで、紅酒(赤ワイン)の無料機内サ-ビスは謝絶された。)


 【8回連載の第2回】 無錫の運河ナイト・クル-ズ

   漢代に錫が掘りつくされ無錫となったこの城市は太湖の畔にある。日本で「無錫旅情」が
 大ヒットし一躍有名となった一発屋の歌手・尾形大作は、今でもここ無錫ではVIP待遇と聞く。
 夜のOPツァ-として運河遊覧(220元)をすれば、江南の旅情は紅い灯明に妖しく盛り上がる。
 あぁ 中国だなぁ~ と旅の初日の感慨が心に沁みる。百年前にタイムスリップしたような錯覚は
 海外旅行の魅力の一つである。アジア的な異文化はどうしてこんなにも心地良いのか。たゆ
 たゆと進む運河の小舟。このゆったりとした幸福感は、時空間を超えて別の人生を疑似体
 験している人間の本質的な高揚感(喜び)かもしれない。40分の夢のクル-ズが終わると私は
 異邦人に戻り、五日後に帰国すれば普通の日本人の日常生活に還る。しかし、この船中の
 時間だけは、私は清朝時代の人として生きている。正に前世に回帰した、深い感慨である。
 私の前世が中国人だとしたら多くが理解できる。何故、こんなにも中国に魅かれるのかも。
   (備考; 「城市」は中国語で都市の意味)

 
 写真; 無錫の運河の夜景

 【8回連載の第3回】 水の都蘇州の観光

   東洋のベニスと呼ばれる蘇州は、戦前に我が父母が暮らしていた水郷の街である。三年振
 りに訪れ、現在の病の平癒を祈願して寒山寺の鐘を撞く。更に投銭占いでも見事に大当たり
 となり、病心が慰められた。健康でないと旅は辛い。ましてや、海外旅行はとても不安である。
   中唐の詩人張継の「楓橋夜泊」は日本では余りにも有名で、科挙に失敗した詩人の憂愁が
 見事に伝わって来る七言絶句の名作である。多くの書体での拓本が数多く販売されていた。
   ♪ 月落烏啼霜満天 江楓漁火対愁眠  姑蘇城外寒山寺 夜半鐘声到客船
   蘇州の蘇の字は草冠に魚と禾編。如何に食材豊かが偲ばれる。「蘇江満つれば天下満
 つ」の例えの如く、江南の江蘇・浙江両省は穀倉地帯である。それ故に物資を華北へ輸送す
 る為の幅広い京杭大運河の開削意図が理解できる。運河沿いは早朝散歩には最適の道だ。
 蘇州の特産には淡水真珠や両面刺繍があるが、刺繍の芸術性は優れているが値段は貴い。
 他方、回遊式庭園は素晴らしく、いつまでも佇み江南旅情を満喫したいと心から思ったのだ。

 
 写真; 有名な蘇州の寒山寺の鐘楼

 【8回連載の第4回】 江南六大水郷の烏鎮(ウ-チン)の散策

   宋代の風情を伝える水郷風景の謂わばテ-マパ-クが「烏鎮」にある。その東柵景区の東大
 街をゆっくりと散策すれば、日本人の私はもう完全な往時の江南の民である。実に心地良い。
 いつまでもこの風景の中に溶け込んで、幾つもの朝日と夕陽を浴びたいと心から請い願う。
 だが、私は現実には異邦人。東方の島国より飛来した現代人。帰国すれば日々の雑事が
 待っている。でも、この江南情緒は私を虜にして、遥かなる過去への回想へと誘うのである。
   急速な中国の経済社会の発展。時として、拝金主義が人命軽視を招来するという現代中
 国の悪弊を、私はしばし忘れたい。ここでは、貧しくも純朴な民の往時の暮らしが偲ばれる。
 閉じた瞼を開き夢想から覚めれば、喧噪なる人ごみのしばしの途切れが現実へと引き戻す。
 晴耕雨読に憧れるも、SNSやスマホの呪縛は強く、静かに漢詩の創作に興じる余裕も無い。
 心豊かに生きるとは何だろう。人々の生活の基本は実は何千年も変わらない、と思うのだ。

 
 写真; 烏鎮・東柵景区の東市河

 【8回連載の第5回】 越国の古都紹興の観光

   紹興は魯迅や周恩来の故郷であり、両人は中国で最も敬愛される人物である。魯迅は腐
 敗した清末社会を文筆で批判し、周恩来はNo.2として新中国建国の創業と守成に尽力した。
 今次の旅では魯迅故居を存分に見学した。魯迅はペンネ-ムで「周」が本名である事は面白い。
 本場の紹興酒を試飲し、炎天下ながらも室内は涼しく、現地ガイドの説明をしばし拝聴した。
   運河の両側から石段が伸びて造る「八字橋」は一見何の変哲もない。しかし歴史は極めて
 古く、路地裏散策のよい目印となっている。川面は汚れて穢い。そこは中国江南なのである。
   紹興の歴史は石器時代にまで遡り、春秋戦国時代には越の都であった。紹興はそれ程ま
 でに豊かな土地である。越王勾践の「臥薪嘗胆」の故事は遍く有名で、深い歴史を実感でき
 る城市である。それにしても暑い。江南の旅はやはり「江南春望」で春が好ましい。車中の空
 調は快適だが、何本ものPET水を飲みつつ、やはり駆け足の観光は格安ツァ-の宿命である。

 
 写真; 紹興市内の魯迅故居の居間

 【8回連載の第6回】 杭州にて西湖と銭塘江を望む

   西湖散策の短い自由時間に友人と駆け足で雷峰塔に登る。正に絶景である。こんなにも
 素晴らしく広大な眺望が天下にあろうか。滞在時間は僅かに1分で集合時間に間に合った。
 呉越王の男子誕生を祝い977年に創建され、戦況の悪化で13層が7層に縮小され、1924年
 に倒壊し、2002年に復元されたこの雷峰塔は、高さ70mより西湖を一望できる。万人が愛し
 清朝皇帝も愛でた西湖は、江南地方の精華である。特に「雷峰夕照」として本当に美しい。
 西湖は2011年世界文化遺産となり、最深3mと浅いが、夏の夕方は絶好の納涼コ-スである。

   西湖近くの銭塘江北岸に六和塔が聳える。銭塘江の逆流氾濫の鎮撫の為970年に創建。
 この六和塔眼下の銭塘江の眺望も我が眼中に収め、江南の二大塔を制覇し満足であった。

   中国は「南船北馬」と云う。江南(華中)が京杭大運河を通して華北を支えていたのだ。大
 運河に揺られ幾度も来訪した満州王朝(清)の皇帝諸侯の江南への憧れが首肯できる。

 
 写真; 杭州・雷峰塔より見降す西湖の雄大な眺望

 【8回連載の第7回】 目覚ましい発展の上海

   三年振りに訪れた上海は益々洗練されていた。上海は中国の New York である。即ち、
 「上海は中国ではないが、上海の無い中国は無い」。工事現場のビルの壁書きの標語に、
 「今天工作不努力、明天努力找工作」(きょうの仕事に努力しなければ、あすは仕事探しに
 努力することになる。)とあった。一昔前は考えられない事だ。建前は社会主義の中国は、
 現実は資本主義である。人民が信じるものは、お金・親族・教育であり、国家等ではない。
 上海は大空港、リニア-、地下鉄網、高層ビルに象徴されるように、目覚ましく発展中である。
 旧き良き往時の面影は日本の浅草に似た豫園に僅かに残る。もう、建国約七十年となる。

   OPツァ-の黄浦江ナイトクル-ズを45分間楽しんだ(230元)。戦前に暮した我が両親も楽しん
 だだろうか。私は川面の涼風に吹かれ、東方明珠電視塔や上海タワ-に見守られ、中国江
 南の最後の夏の夜を楽しんだ。また、来よう。上海と大阪は一衣帯水の友好都市である。

  (備考; 姉妹都市と言えばどちらが姉かの問題が生じ、日中間では友好都市と言う。)

 
 写真; 上海・外灘の風景、背景左が東方明珠電視塔(468m)、右が上海タワ-(632m)

 【8回連載の第8回:エピ・ロ-グ】 現代中国の光と影

   現在、世界に於ける中国の存在感は益々増加している。押しも押されもせぬ超大国中国
 の責務は重大である。懸念される「中国の紅い舌」(九段線)は、余りにも無理押しであろう。
 古来より経済大国から軍事大国へと移行しない国家は無かったが、中国四千年の歴史上、
 今の海洋覇権国家への志向は最強である。江南/華南は各々東シナ海/南シナ海への玄関口
 である。
前者では琉球諸島と台湾の領海が遮り、水深も浅く、中国は苦々しい思いであろう。

   今回の旅で思うことは、繁栄に隠れた格差や環境問題である。また、都市/農村・戸籍の
 問題も実は深刻で、大中国の総人民に豊穣な生活を提供する難解方程式の解法は困難だ。
 江南は豊かであり上海は繁栄の象徴である。だが、内陸部の農村は未だに貧しいのである。
   中国大好き人間の私は、中国の悠久なる歴史と文化に、未だにコンプレックスを抱いている。
 旅の最後の夜の変面ショ-は眼前で観てもその仕掛けが解らない中国の超国家秘密である。

 
 写真; 上海の夕食時の変面ショ-

 【2016年07月】
              癒しの花、カサブランカ 】

   時に憂鬱な気分は、我が家に咲くその花に慰められる。花の名は「カサブランカ」。我が最も
 愛する高貴で気品あるその姿は、凛とした佇まいで愛おしい。花の中の女王である。


 
 自宅ベランダのカサブランカ

 【2016年06月】
              【 異業種交流会「しくたわ」 】

   毎月第二木曜夜の交流会「しくたわ」はいつも楽しい。既に10年の歴史を持ち関西でも有名
 である。場所は地下鉄堺筋本町6番出口すぐのPRONT(東本町店)で、会費は格安の2300円。
 飲み放題の3時間は毎回70-80名の参加者で盛り上がる。皆様是非ご参加を。予約は不要。
 PM5時半から講演会があり、宴会開始は6時半から。私はもう2年半も毎月参加し、多くの人
 との出会いと交流を深めている。

   異業種交流会への参加目的は、人それぞれであろうが、私は人脈拡大である。他の人は、
 ビジネス拡大や婚活、又は単なる酒好きもあろう。目的は問わないが、当会の唯一の規則は、
 善良な人であることだそうだ。即ち、人として悪しき言動をする人はご遠慮願いたいとの主催
 者側の要望である。

   大阪都構想の住民投票前には、賛成/反対の市議の公開討論が行われ、後日には松井
 府知事や吉村市長も参加され挨拶されていた。知事や市長、府議や市議と直接に対話できる
 良い機会であり、貴重な場であると言えよう。

 

 【2016年05月】
            【 天通会(テンツウカイ)、大阪日中交流の会)の活動 】

   大阪での日中交流の会として小規模ながら「天通会」がある。毎月第4土曜日の午後、JR天
 王寺近くの喫茶店の2階の個室で、十数名ほどで開催している。野外での花見や茶摘み、月見
 や春節等への参加行事もあるが、平素は勉強会やその後の飲み会(有志参加)を行っている。

   今年四月から活動は活発化し、中国語の勉強会を開始した。私の上海・復旦大学留学時代
 の教科書を使用し、中国人の正しい音読を聴いた後は、日本語への和訳は熱い議論となる。
 日本語は確かに難しいが、翻訳を業務としている参加者にも、お役に立てれば幸いである。

   今後はプロジェクタ-を使って、各テ-マ毎のプレゼン、要望が多い囲碁講座、その他マジック講座や
 漢詩とその詩吟の実演など、日中文化を皆様に紹介したいと事務方の私としては計画している。
 また、個別のサポ-ト事項として、基礎英会話、韓国語翻訳、正しい日本語文章講座も予定して
 いる。「微信(WeChat)」にも専用の掲示板「天通会」があり、中国語での書き込みも活発である。
 無論、日本語でも書き込みはO.K.。

   添付の写真は、昨日の中国語の勉強会風景である。日中文化交流、日中の友達Getを目
 指す有志の方々は、気軽にご照会下さい。

 

 【2016年04月】
             【 地元寝屋川の異業種交流会 】

   私は各種の異業種交流会に参加して来たが、半年以内の連続参加と半年以上の継続参
 加
に大別される。その違いは、私自身の価値観と異業種交流会の体質との相性の問題であ
 る。最も続いた会の参加は約十年、最も短いのは数回である。その違いにいくつかの法則性
 はあるが、詳細に述べれば語弊があるので、相性の問題ということにしておく。

   以下の写真の会は先日初参加したが、楽しい会であった。私が異業種交流会に求める最
 大の目的は、「VIPとの出逢い」である。コスト/パ-フォ-マンスは二の次である。
   中央のジ-ンズ姿が私

 

 【2016年03月】
              お知らせ 》

   明日(4/1)より、「中国上海・復旦大学留学記(全30話、facebook版)」を掲載します。
 毎日、深夜に全30日間連載しますので、皆様どうぞお楽しみ下さい。
 

   全30話の連載記事「中国上海・復旦大学留学記(facebook版)」を、茲に無事
 に連載終了する事ができましたことを、大変嬉しく思います。ご愛読の皆様、どう
 もありがとうございました。心より御礼を申し上げます。
   今世紀には超大国となる隣国中華人民共和国に対して、少しでも皆様の見聞
 が広まり、理解が深まったとしたら、私のささやかな喜びとする所であります。
   次回も、新しい企画を検討しています。どうぞお楽しみに、ご期待下さい。

    上記の全30話の本文と写真は、電子出版の可能性を考慮し、割愛します。

  all 30 accounts of serialization article "Chinese Shanghai Fukutan University studying abroad
 account (facebook edition)", I'm safe in glad that it was possible to end serialization. Everybody
 who loves to read and how is it  Thank you very much for your . I tell about fee more than a
 heart.
   To neighboring country China which becomes a superpower in this century, even a little,
 everybody's  experience. But when understanding spread and deepened, it's the place made my
  small delight. A new plan is being also considered next time. Pleasantly, please expect it.

  为兹平安全30回的连载报道「中国上海·复旦大学留学记(facebook版)」,
 对能连载结束事,感到非常高兴。爱读的大家,怎样谢谢。自心说礼仪。
   对本世纪成为超级大国的邻国中华人民共和国,稍微也大家的见闻
 不过如果扩大,理解加深了,作为我的微薄的喜悦在地方。
   下次,也研究着新的企划。对享受,请期待。

   전30화의 연재 기사 「중국 상해·후쿠 아키라 대학유학기 (facebook판)」을, 玆에 무사
 에 연재 종료할 수 있었던 것을, 대단히 기쁘게 생각합니다. 애독의 여러분, 어떻게
 모고마웠습니다. 마음으로부터 사례를 말씀 드립니다.
   이 세기에는 초대국이 되는 이웃나라 중화 인민 공화국에 대하여, 조금이라도 여러분의
  견문 지만 널리 퍼지고, 이해가 깊어졌다로 하면, 내가 자그마한 기쁨으로 하는 곳입니다.
   다음번도, 새로운 기획을 검토하고 있습니다. 아무쪼록 즐겁게 기다려주세요, 기대해 주세요.

 【2016年02月】
              韓国語入門の講義 】

   日中交流会の「天通会」で、濃密な韓国語入門の講義を1時間行った。韓国語を勉強したい
 と言う日本人と中国人は最近益々多くなった。私は1995年より、業務上の関係から韓国語の
 独学を開始している。最近はもっぱら中国語に力を入れているが、昔とった何とかで1時間の
 講義は好感触を得た。韓国語は日本人には超簡単である。是非、多くの人に韓国語を勉強し
 て欲しい。自作のテキストはA4横書きの12枚で僅かの100円で頒布。実に値打ち物であると思う。

 

 【2016年01月】
              【 新年早々の思わぬ病気入院 】

   入院病床より、あけおめ、です。
 私は現在まさかの入院中。大晦日で食べた大きめの蒲鉾が原因らしくCT検査等の結果、
 小腸閉塞とはビックリポン...です。紅白の途中で下腹部の腹痛、救急車で寝屋川の病院へ
 搬送。年明けの深夜に各種検査と2016年は劇的な開幕。現在は、腹痛や熱もなく順調に回
 復中。さっき初めて少しのお茶が許され、お昼は五分粥とのこと。点滴状態でスマホを見て、
 ベッドでラジオや音楽を聞いています。皆さん、病床よりとりあえず新年明けましておめで
 とう。今年の最初の教訓「健康長寿の為に、食物は鶴鶴飲まずに、よく亀亀。」を身をもって
 体験しました。あと、一両日で退院でしょう。(写真は割愛)
  2016年1月1日facebook掲載

   お陰様で、本日午後無事に退院しました。実質2日半の入院生活は実に50年振りで、左手
 甲の点滴の不自由さはあるものの、スマホ三昧でした。食事も1食約500kCalで美味しかったで
 す。支払金額は3万7千円(3割負担額)。思わぬ出費でしたが、これも貴重な授業料でしょう。
 今後は食事の仕方、早食いの抑制に心がけます。 多くの皆様にはご心配をかけ、また多く
 のお見舞いと励ましを頂いたことに、感謝申し上げます。
   2016年1月2日facebook掲載

 【2015年12月】

   昨年12月下旬の韓国旅行による随筆が、やっと完成致しました。正月早々の 思わぬ入院
 のため、予定より連載開始が遅れましたことを、お詫び致します。
   本日はプロ・ロ-グ、明日以降は毎日一話(全15話)、最終日にはエピ・ロ-グを掲載 致します。
 皆様、ご期待の上、どうぞお楽しみ下さい。(毎日深夜にfacebook投稿)


                   韓国に関する考察と私の思い
 ≪プロ・ロ-グ≫

  
子供の頃、朝鮮人はマッチさえ自国で作れないと近所の大人から聞いた。李ラインで日本
 漁船が度々拿捕され心を痛めた。入社後、寒々とした釜山を旅した。本社へ異動後、契約
 交渉で三星の水原工場を訪れ社員の活力に感動し、以来韓国語の独学を始めた。ソウルで
 会社を代表し技術移転のプレゼンを行った。百済扶余の落花岩で涙し、俗離山で花に酔い、
 済州島ではゴルフとマッコリに興じた。だが数年前、機上瞬時にして韓半島を斜め横断した時、
 
私の思いは韓国から中国へと豹変した。韓国は狭い半島、大国中国にこそ学ぶべきだと。
 ただ今でも韓国文化は懐かしく、大長今(邦題:チャングムの誓い)は今七回目を視聴している。
   昨年12月は7回目の韓国旅行となった。昨今の日中韓朝問題を念頭に置きつつ、文献の
 引用は控え、偏見なく自分の言葉だけで綴りたい。自分の見聞と見識を基に、明日より全15
 話とエピロ-グの連載を行う。題目は「韓国に関する考察と私の思い」。是非ご期待戴きたい。

 
【15回連載の第1回】 最新韓国旅行の記録( 2015年12月22-25日、阪急トラピックス )

   関空から釜山の金海国際空港へは1時間半。金海金氏の一大本貫の地。甘川文化村
 を散策後、龍頭山タワ-から李舜臣像を眼下に港町釜山を俯瞰すると、広大な大韓海峡だ。
 魚種豊富なチャガルチ市場を見学し熱い石焼ビビンパを食べれば、心はもう韓国旅情である。
   翌日は新羅千年の都慶州の世界遺産仏国寺と古墳公園を訪れ、歴史を偲び伽耶山へ。
 有名な海印寺をゆっくりと散策し、新設の高速道路を西へ。馬耳山は霧で見えず全州へ。
 本場の全州ビビンパは絶品で、薬膳マッコリも美味しかった。全州は李成桂の聖地である。
   次の日は全州韓屋村。扶余へ移動し定林寺址、扶余博物館、そして白馬江遊覧後に扶
 蘇山城へ。落花岩の東屋で、大陸的な白馬江の流れに西暦660年の百済滅亡を悲しむ。
 公山城をしばし見学後ソウルへ。明洞聖堂のXmas-Eveのミサに参列し、南大門を周回した。
  最終日は雪の宗廟見学。李氏朝鮮史の説明を深く学び、金浦国際空港より帰国した。

  (写真割愛) 釜山の龍頭山タワ-と李舜臣の銅像
  (写真割愛) 慶州の古墳公園にて
  (写真割愛) 百済の古都:扶余の落花岩にて、皇宮三千人が投身自殺した白馬江
  (写真割愛) 百済の都の一つとなった公山城
  (写真下記) ライトアップされたソウルの南大門の夜景


 
 ライトアップされたソウルの南大門の夜景

 【15回連載の第2回】 中国・韓国・日本の相互比較

 地理的には、中/韓/日は大陸/半島/列島国家であり、この地勢的位置は宿命である。
 民族的には、漢民族+少数民族/朝鮮民族/大和民族であり、中国の人口は13億人超である。
 歴史的には、中華/小中華/独自文化であり、韓国は戦争と文化が交錯した回廊である。
 覇権的には、大陸覇権/被併合/大陸侵攻であり、韓国は数多の苦難の歴史を有する。
 政治的には、共産主義/分断国家/民主主義であり、中国は一党独裁の超大国である。
 政権的には、国家主席10年/大統領5年/首相数年であり、中国は5%の共産党員が牛耳る。
 経済的には、GDP世界2位/財閥依存/少子高齢化・生産人口減少で、日本の凋落が懸念。
 文化的には、大中華思想の覇権主義/属国主義/島国精神であり、三国とも相違する。
 宗教的には、儒教/儒教(孝)/佛教(忠や和)であり、韓国は独自の"恨(ハン)の概念"がある。
   以上の観点から、韓国理解の為には、次回記載の必須キ-ワ-ドの理解が大切である。

 

 【15回連載の第3回】 韓国理解の為の必須[ キ-ワ-ド ]

 [半島国家]: 朝鮮半島は大陸とは狭い鴨緑江&豆満江を隔て陸続きで、容易に侵攻された。
 [事大主義]: 長いものには巻かれろであり、韓国は常に中国の家来として生き延びて来た。
 [孝の儒教]: 儒教の孝を重視し、それ故に厳しい身分制度となり、庶民の活力は奪われた。
 [科挙制度]: 中国の科挙を実施したが、受験者は上流階級に限られ身分制度が固定した。
 [両班制度]: 特権支配階級の両班(文班&武班)は、幾多の権力抗争と政治腐敗を招来した。
 [本貫/族譜]: 祖先の地/家系図であり、同本同姓の男女は親戚と見なされ、結婚は禁止。
 [ウリの概念]: ウリ(我々;身内)には極めて熱く他には排他的で、強烈な同族意識は甚だしい。
 [恨の概念]: 憧れが実現されない深い無常観。恨五百年と言われ、朝鮮独特の重要概念。
 [学歴偏重]: 科挙制度の歴史的影響のせいか、大学受験競争は極めて重大で厳しく激烈。
 [徴兵制度]: 韓国男子の義務であり、北朝鮮との休戦状態下の現状では、必須と言える。

   写真は全州の街並み。全州は李氏朝鮮を開いた李成桂の本貫の地。

 
 全州の街並み

 【15回連載の第4回】 韓国理解の重要概念" 恨(ハン) "

   朝鮮民族の「恨」は日本人には極めて理解し難い。敢えて言えば「支配的優越者に対す
 る求めても得られない無念な悲哀に満ちた無常観」であろう。「恨五百年」の言葉があるよ
 うに、李成桂(イ・ソンゲ)により滅ぼされた高麗王朝の遺臣たちの無念が淵源と言われる。
 又、「虐げられた庶民の累積した不満と解消への願望」とも言える。朝鮮民族は異民族に
 より長い間支配された抑圧と服従の屈辱の歴史を持つ。恨は正に朝鮮民族の独特の文化
 である。現在に於いても、スポ-ツでも日韓問題でも、熱く燃えて激しい言動を行うのは、恨の
 概念が根底にあると考えられる。韓国人は「上手く行ったら自分のせい、行かなかったら先
 祖が悪い。」と言うと聞くが、それは言い過ぎで偏見であろう。しかし、やはり事大主義とも呼
 応して、恨の理解なしに韓国の理解はない。日本人はこの恨を学ばなければならない。日
 本はやや自虐史観だが、韓国は現在でもこの恨の概念に少し呪縛されていないだろうか。
 
   写真は、公州の公山城での不忘碑の列柱。「恨(ハン)」の根深さを彷彿とさせる。

 
 公山城の記念碑

 【15回連載の第5回】 漢江の奇跡と韓国の発展

   韓国は古来より貧しい農業国だ。だが、朝鮮戦争の荒廃から大韓民国は急成長を遂げ
 た。「漢江の奇跡」である。その大躍進は三星(Samsung)財閥に象徴される。製糖業より始
 め既に半導体は世界一である。まさに「成せばなる(ハミョン・テンダ)」だ。私はPanasonic在職
 中に三星のリサ-チを行ったが、成功要因は選択と集中・強烈なトップダウン・政府のバックアップ
 等であろう。持たざる国の韓国は、国内市場も小さい。三星は韓国人憧れの巨大企業であ
 り極めて高給で福利厚生は充実しているが、定年は45歳であり組合も無く社員間の出世競
 争は激烈である。昨今、韓国人は公務員志向が強く、公務員は鉄の弁当箱と言うそうだ。
 日本が韓国に学ぶべき事は、やはり、選択と集中・決断の速さ・官民連携などであろうか。
 他の財閥としては、現代・LG・大宇・ロッテ等がある。特に現代(Hyundai)は造船業で造船大
 国日本を凌駕した。但し、韓国の財閥企業は今、大きな改革の時期(試練)を迎えている。

 
 韓国随一の格式を誇る新羅ホテル

 
 免税店の喫茶

 【15回連載の第6回】 日本人には超簡単な韓国語

   韓国語は日本人には超簡単な言語である。まず、語順や文法が同じで、同じ語源の単語
 も多く、ハングル文字も超簡単で発音も容易である。まさに日本語とは兄弟言語である。私見
 だが、日本語はその昔韓国語(朝鮮語)の方言だったかもしれない。尚、韓国語と北朝鮮で
 使用される朝鮮語は全く同じ言語である。文字は表音文字で、ロ-マ字と同じと思えばよい。

   ハングル文字を覚えるのが大変と人は言うが、母音10個、子音14個は実に合理的で1日で
 覚えられる。欧米人の中国語(漢字)、日本人のアラビア語の学習とは雲泥の差だ。例を挙げ
 ると、オオサカヌン イルボネ シュドイムニカ、ア-ニョ トウキョウガ イルボネシュド イムニダ。(大阪は日本
 の首都ですか、いいえ東京が日本の首都です。)と同じ語順である。単語力さえあれば韓国
 語は簡単に意味が解るし、語順通りなので英語と違って頭が疲れない。韓国に行くとハングル
 文字で気分が悪くなる(ハングル酔い)と聞くが、文字が読めれば意味が推測され実に楽しい。

  
写真は、私が作成した韓国語入門のテキスト ( 割愛 )

 【15回連載の第7回】 韓国の食文化

   韓国庶民の食生活は豊かではない。ビビンパは飯(パブ)の上にナムル(野菜のあえ物)を盛
 り、コチュジャンを加えてかき回し(ビビダ)た物で、簡素な料理だ。グッパ(汁ご飯)も同様である。
 プルコギ(焼肉)は昔から一部の裕福な人達しか食べれず、サンゲタン(参鶏湯)は夢の料理だ。
   家庭料理のキムチは多種多様である。自宅にお呼ばれしたら、まず最初にキムチを食べて、
 奥様に対してその味を褒めるのが、礼儀だと聞く。食事の作法は日本とは逆で、お椀を手
 に持ってはならず、スプ-ンを使い、箸は取り箸専用だ。だが、最近はマナ-は煩くないようだ。
   他方、韓定食(宮廷料理)は素晴らしい。ソウルで交渉企業の役員様から接待を受けたが、
 これぞ韓国料理の精華である。食卓の脚が折れんばかりに数多の金属食器が並べられ、
 陰陽五行に基づく五色の料理を、カラフルなチマの中で片膝を立てた女性が取り分けてくれる。
 マッコリが実に美味しく真露もマシイッソだ。韓国の食文化は庶民と宮廷料理の格差が甚大だ。

  
 写真は、今回のツァ-で提供された韓国料理の数々、一碗物はピビンパ

 

 【15回連載の第8回】 韓国の芸術文化 ~ TV時代劇「チャングムの誓い」より

   私はチャングム(長今)が大好きで、現在7回目を視聴中であり、全話をBDに録画予定である。
 この創作ドラマにより、素晴らしい韓国文化を堪能している。歴史書「中宗実録」の僅か一行
 の記述から、これだけのスト-リ-を創作した脚本家の才能には驚嘆する。韓国はこの作品で
 大いに国威を上げたと、私は称賛する。貧しく孤独な育ちながら、美しく、聡明で、努力家で、
 幾多の試練を克服し遂には国王の主治医となってゆく姿に、感動しない人は居ないだろう。

  宮中からの頻繁な外出や多彩な衣装や食文化は、時代考証的には相違するが、それは了
 としよう。根性物のサクセススト-リ-は誰もが好きで、美女で聡明で努力の人なら、猶更である。
 チャングム役の李英愛(イ・ヨンエ)は最高で、脇役も素晴らしく、また音楽が秀逸だ。哀愁を帯び
 た劇中曲は心に染みる。パンソリ発声の主題歌「オナラ」は朝鮮古語「来なさい」の意味である。
 バックを流れる「懐夫歌」や「空八一五」のメロディ-は、本当に痺れるほどの韓国情緒である。

  
写真は、宗廟での宮廷儀式

 

 【15回連載の第9回】 韓国のハワイとしての夢の済州島

   済州島は韓国のハワイ、韓国人の新婚旅行のメッカだ。17年前の夏休み、会社の親友と釜
 山からフェリ-でこの夢の島に初上陸。タクシ-を貸し切って運転手と談笑しつつ、丸三日観光し
 尽した。済州市の耽羅国発祥の三姓穴から左周りに、不思議なトッケビ(お化け)道路、丸い
 岩山の山房山、三大瀑布の天帝淵瀑布、徐福伝説が残る西帰浦での潜水艦潜水体験、海
 に流下する正房瀑布、18Hのゴルフ、村落生活を偲ぶ済州民族村、オルムの山君不離。早朝
 登攀した名所:城山日出峰は広大な凹面状の草原火口。海女が獲ったトコブシも美味だった。

   済州島は三多・三無・三麗と聞く。多い/無い/麗しさは、石・風・女/物乞い・泥棒・門/美
 しき心・素晴らしき自然・美味なる果物であり、全くもって同感である。この豊かな癒しの島
 が日本の領土ならばと思うものの、韓国なればこそ韓国の島文化もまた良しと思っている。
 黒潮洗うこの暖かき夢の島を、菜の花が満開となるベストな春に、再び訪れたいものだ。

  写真は、済州島の航空写真

 

 【15回連載の第10回】 朝鮮民族の聖地:白頭山の天池

   中朝国境の長白山脈に在る標高2744mの白頭山(中国名;長白山、死火山)と頂上の天
 池(周囲2km)は、朝鮮民族の聖地である。無論、韓国人も日本人が富士山を尊ぶように崇
 拝する。私はこの天池に何故か強く心が魅かれるが、私のDNAの業としか今は思えない。
 深閑とした濃き群青の湖面は好天でなければめったに見えず、神秘的な感が漂っていると
 言う。現在では、中国側の吉林省から天池湖岸への到達は可能で、そのようなツァ-もある。

  檀君神話では初期朝鮮は白頭山より興ったが故に「朝鮮民族の揺り篭」と信じられ、清朝
 の発祥地ともされる。シベリア降ろしで山頂の年間平均気温は-8.3℃で、厳冬期は人を拒絶
 する。夏季の短期間のみ神秘の湖面を見せる。私が生涯で登頂の機会はあるだろうか。

   白頭山は死火山とされるが噴火の懸念はあり、もし爆発したら被害は甚大で北韓存亡の
 危機を招来する。偏西風による航空機への影響も必至で、日本も無関心ではいられない。

   写真は、神秘的な天池の絶景

 

 【15回連載の第11回】 代表的韓国・朝鮮人10人

 [檀君]:伝説上の古朝鮮王。即位はBC2333年。実在は疑義で「桓檀古記」も偽書の可能性。
 [世宗大王]:李氏朝鮮第四代の王で最高の名君。ハングル文字の創始者。一万W(ウォン)紙幣。
 [黄真伊]:ファン・ジニ。李氏朝鮮中宗期の開城の名妓、女流詩人。天性の美貌・舞・音楽の才。
 [李舜臣]:壬辰倭乱で朝鮮水軍を率い、亀甲船を考案し、秀吉軍を苦しめた救国の英雄。
 [李退渓]:李氏朝鮮の代表的儒学者(東方の小朱子)。陶山書院で研究と教育。千W紙幣。
 [申師任堂]:李氏朝鮮中期の女流書画家。良妻賢母の鑑。息子は李栗谷。五万W紙幣。
 [閔妃]:明成皇后。1895年日本公使三浦梧楼が景福宮に侵入殺害し死体を焼却(乙末事変)。
 [安重根]:1909年ハルピン駅構内で、前韓国統監の伊藤博文を発砲し暗殺。韓国内では英雄。
 [朴正熙]:軍事ク-デタ-後に大統領。権威主義的で独裁的な開発を推進。功罪相半ばか。
 [盧武鉉]:釜山出身、高卒の人権派弁護士から大統領へ。不正献金疑惑で投身自殺。

   写真は、朝鮮民族の良妻賢母の鑑となった申師任堂

 

 【15回連載の第12回】 分断国家に思う

   北緯38度線を歌う名曲「イムジン河」は、南北分断の象徴で、後日発売自粛となった。日本統
 治時代、北のインフラは南を凌ぎ、北韓は豊かな地域であった。だが厳冬期の今は、痩せた土
 地の人民は、寒さと飢餓に忍従・辛苦している。世界に誇るものは、僅かに三種(高麗人参・
 平壌冷麺・マスゲ-ム)と言う人がいる。昼の機窓からは不毛の大地、夜の宇宙写真からは街の
 灯りは首都のみの点景だ。此の現状はいつまで続くのか。歴史の検証日は、いつ来るのか。

   分断の遠因は大国の利害。日本の分断危機の回避は単なる幸運だった。イデオロギ-を超
 服し、ドイツ及びベトナムは自ら統一し平和と繁栄を志向した。今日、経済格差の甚大な不均衡
 により、両韓の統一は非現実的だが、近未来での統一は民族の悲願であることに疑いは無
 い。日本は、「価値観を共有する平和な民主国家への統一」へと尽力すべきだ。中露米のご
 都合主義的な無責任外交には、敗戦国・被爆国として、積極的に断固として対抗して欲しい。

   地図は、イムジン河(臨津江)の地図

 

 【15回連載の第13回】 教師としての韓国、韓国に学ぶべき事

   我々が韓国に学ぶべき事は、強烈なバイタリティ-(上昇志向)で、言わばキムチ・パワ-であろう。
 日本では軟弱化したこのハングリ-精神は、アジア新興国と同様に、韓国でも依然と健在である。
 日本が甘いお茶漬け文化ならば、韓国は辛いキムチ文化である。激烈な受験戦争・北朝鮮の
 脅威・徴兵制・狭小国土・少資源国等、韓国は厳しい環境下にある。それ故か、除隊後の成
 人男子は男として精悍である。又、儒教の美風未だ衰えず、敬老精神は高く謙譲的でもある。

   男性は入社時の面接試験で、「ヨルシミ ハゲッスムニダ(一生懸命やります)」と、韓国語の激音
 である「ゲッ」(強い意志を示す)の語気を強くして決意を表す。昨今の日本には、こんな就活
 生はいない。合わない会社を簡単に辞める日本人は、決意と根性を韓国人に学ぶべきだ。

   女性は嫁の自覚は強く、義父母に孝養を尽くしているようだ。都市部と農村部では差異は
 あろうが、日本よりは濃く良い関係で、家意識の古風な良き美風が残っているように見えた。

   写真は、割愛

 【15回連載の第14回】 反面教師としての韓国、韓国に学ぶべきでない事

   我々が韓国に学ぶべきでない事は恨の言動である。日本にはその片鱗さえ無いが「物事
 を他人や他国のせいにする言動」は好ましくない。韓国が一流国家として尊敬される為には、
 この恨の言動の払拭や抑制が必要であろう。だが払拭は極めて困難で抑制も期待できない。

   男性のストレスによる暴飲は良くない。爆弾酒と呼ばれる原爆酒&水爆酒は韓国独特である。
 私は接待の席で、ウィスキ-を注いだ小グラスを中グラスの底に置き上からビ-ルを注ぐ原爆酒と、
 その反対の水爆酒を教えられ、原爆酒を2杯飲まされた。もう一杯飲めと言われた時、"私は
 長崎出身なので原爆は2杯で結構です。"と言って、周囲の爆笑を喚起し難を逃れたものだ。

   女性の整形も憂慮する。儒教の教えは「身体髪膚これを父母に受く、あえて毀傷せざるは
 孝の始めなり」である。だが、秋夕で親族が集まる場で、器量良しでない娘は一族の恥として
 整形を強要されると聞く。誠に失礼な話だ。尚、黒色の口紅は不健康で、私は不快に思う。

   写真は、Xmas-Eveの夜、ソウル市内・明洞での自由散策

 

 【15回連載の第15回】 日韓の恩讐を越えて

   日韓は一衣帯水の戦争と平和の歴史である。日本の侵攻と併合は歴史の汚点であろう。
 為政者が朝鮮の独立と開化の支援だと弁明しても、「帝国主義的植民地化」に他ならない。
 ただ、本当に韓国には有り難迷惑だったのか、台湾との比較はどうか、歴史認識を言うなら
 ば、公正な検証が必要だ。日韓共同歴史研究会を早期に設立して、検証を推進すべきだ。
   韓国は、日本とは「価値観を共有できる国」である。東アジアの平和と繁栄の為、両国は些
 な問題を外交問題として矮小化することなく、「求大同、存小異(少異を残して大同につく)」こ
 とこそが真の外交である。真の未来志向とは「過去の小異、未来の大同」への邁進である。
   韓国が日本に与えた恩恵を忘れてならない。佛教伝来・朱子学・製陶術などである。日本
 は韓国にご迷惑をかけたが、インフラ整備・学制&学校設立・戦後賠償金などの貢献もある。
   日韓両国は幾多の恩讐を越えて、東アジアの平和と繁栄に、共に尽力する責務がある。

   写真は、百済の古都:扶余にある定林寺址

 

 ≪エピ・ロ-グ≫

 
 子供の頃、朝鮮人が「チョウセンチョウセン パカスルナ オナジメシクテ トコチガウ(朝鮮朝鮮馬鹿にする
 な 同じ飯を食ってどこが違う)」と言うと近所の大人から聞いた。又、関東大震災の時、朝鮮
 人が文字の最初の濁音を発音できないことを悪用して、「十五円五十銭」と言ってみろと日
 本の官憲が命令し、「チュウコエン コチッセン」と聞いて、即刻、逮捕拘束したとの実に哀しい歴史
 がある。

   私は韓国・朝鮮人に対しては全く偏見はない。日韓の悠久な歴史において、今日、たまた
 ま日本が韓国より先進的に繁栄しているだけである。今後、日本は凋落し、韓国は統一後
 に飛躍的に発展するかもしれないのである。盛者必衰、栄枯盛衰は歴史の法則である。

   2016年2月1-17日に以下の内容で連載しました内容は、大学での半年間の集中講義を
 仮定した場合の講義録(シラバス)の骨子として記述したものであります。昨今の東アジアの緊
 迫した国際情勢において、特に韓国問題において、少しでも皆様の理解の参考になれば、
 私のささやかな喜びとする所であります。

 ≪プロ・ロ-グ≫

 【15回連載の第01回】 最新韓国旅行の記録( 2015年12月22-25日、阪急トラピックス )
 【15回連載の第02回】 中国・韓国・日本の相互比較
 【15回連載の第03回】 韓国理解の為の必須[ キ-ワ-ド ]
 【15回連載の第04回】 韓国理解の重要概念" 恨(ハン) "
 【15回連載の第05回】 漢江の奇跡と韓国の発展

 【15回連載の第06回】 日本人には超簡単な韓国語
 【15回連載の第07回】 韓国の食文化
 【15回連載の第08回】 韓国の芸術文化
 【15回連載の第09回】 韓国のハワイ、夢の済州島
 【15回連載の第10回】 朝鮮民族の聖地:白頭山の天池

 【15回連載の第11回】 代表的韓国・朝鮮人10人
 【15回連載の第12回】 分断国家に思う
 【15回連載の第13回】 教師としての韓国、韓国に学ぶべき事
 【15回連載の第14回】 反面教師としての韓国、韓国に学ぶべきでない事
 【15回連載の第15回】 日韓の恩讐を越えて

 ≪エピ・ロ-グ≫

  以上、全15回+2回の連載を茲に完結します。皆様、どうも有難うございました。 

   尚、上記連載の全内容は、一括して下記のいずれかの方法でご欄になれます。
 (1)私のHome Page ; http://www.fan.hi-ho.ne.jp/ushigohで、
     今月の話題(Monthly Essasy) 【2015年12月】
 (2)Google、又は、Yahoo Japanで、「牛込恒」で検索。トップペ-ジ-hi-ho、以下(1)の後半
 (3)facebookで、「牛込恒」で検索。

 【2015年11月】
             【 京大11月祭を訪れて 】

   毎年参加している母校の11月祭。今年も颯爽とバイクで出かけ、初日の行事を楽しんだ。
 例年同じだが、今年はア-チェリ-の腕が格段に向上し、結果は写真の通りで超優秀である。
 腕の力と姿勢、照準の合わせ方、この改良のみで射的の成績は向上する。簡単である。
   グランドの各種模擬店や占いコ-ナ-、校舎内では各種展示。今年は、哲学研究会の教室
 にお邪魔し、大いにカントなどの哲学を議論した。熱弁を奮ったわけである。(笑い)
   日本No.2の京大なれば、もう少しアカデミズムが欲しいが、教養課程の学生が中心の学祭
 は、いわばお祭りであり、致し方ない不満感もやや残った。

 
 京大11月祭の会場(吉田グランド)、ほとんど黄円の的に命中。

 【2015年10月】
            【 会津往還バイク・ツ-リング9日間 】

  ≪ プロ・ロ-グ(Prologue) ≫

   人は何故旅をするのか、と問われれば、その答えは「帰る所があるから」
 である。そして、人生もまた旅である。ならば、人は何処に帰るのか、と再び
 問われれば、私はこう答えるであろう。それは「魂の故郷」へと。幾度か生死
 の輪廻を繰り返し、現世は今この時代の日本に男子として生きている。そん
 な私は日本最西端の長崎市で生まれ育ち、幼少の頃より片雲の雲に誘われ
 漂泊の情抑え難く、祖国日本を隈なく旅し見聞を深めんと旅を続けてきた。

   還暦を過ぎ、更にこの地球の地の果て海の彼方まで旅せんとする流離の
 思いは、生来の旅のロマンの憧れの炎に、更に油を注いでいるのである。

   今回、十月下旬の九日間、バイク・ツ-リングによる紅葉狩り歴史散策の機会
 を得た。旅先での歴史に想いを馳せた感慨を、日毎の旅行記(随筆)風に纏
 めた。この感慨を自身の記録のみとするは勿体なく、有志の人に伝えたいと
 思う。旅をし、書いて、そして伝える事は、私の細やかな喜びだからである。

  ≪会津往還バイク旅 第1日目、自宅 ⇒ 飛騨古川YH、走行348km≫

        【 人生は、「分水嶺での病葉小舟」、に相似たり。 】

   紅葉が時知らず病葉となり水面に漂う。蛭ケ野高原の分水嶺では、偶然
 で運命が決まる。南の温かき太平洋に繋がる伊勢湾か、北の冷たき日本海
 に至る富山湾か。自然の僅かな力で、「病葉小舟」は波間に流離し消える。
 人生も又かくの如しと、「方丈記」の無常観をしみじみ思い、嘆息する。

   還暦を超えた齢では、愛しき人々との永久の別れが十指に及ぶ。癌死や
 自害も含め、なんと人生は悲劇的な終末もあるのか。山高ければ谷深し。人
 生万事塞翁が馬。凹みのない人は絶対にいない。だが私は、私自身の人生
 の課題を抱えつつ、私らしく生き貫くのみである。晩年こそは、自由自在に。

   旅の初日の奥飛騨の紅葉小渓に、紅葉を鑑賞し水の流れにも感傷する。
 過去を想えば、人生の分水は偶然の事情であり、必ずしも沈思黙考後の決
 断ではない。他の選択は無かった。不思議な力に導かれ歩んだ我が人生の
 毀誉褒貶は、我が事にはあらず。南北は不問、何処も又楽しき哉である。

   (写真下記) 岐阜県・蛭ケ野高原の分水嶺
   (写真割愛) 分水嶺の公園
   (写真割愛) 分水嶺の標識
   (写真割愛) 分水嶺の地理的位置
   (写真割愛) 飛騨古川YH(ユ-スホステル)前のMyバイク


 

  ≪会津往還バイク旅 第2日目、飛騨古川YH ⇒ 清里YH、走行227km≫

        【 国宝松本城は、信州の名城なれど不戦の城なり。 】

   飛騨高山から安房峠を越えて梓川沿いに下ると、約90kmで学都松本市
 に至る。市の象徴は国宝松本城(深志城)にして、天下の名城である。現存
 する日本最古の五重連立天守閣の余りの美しさ。紅葉は脇役にして、主役
 の天守は正に日本城郭美の最高峰。姫路は白鷺の城、松本は黒烏の城。
 戦の為の黒堅固な天守と、平和を享受する優雅な巽附櫓と朱色の月見櫓。
 私は初めて登閣し数々の優れた築城技術を堪能した。ああ、往時の月見
 の宴が偲ばれる。信州を睥睨する松本藩六家二十三代の、平城である。

   しかし、この城は実戦上で堅固さを検証し得たのか。上田城と対比すれ
 ば不戦の名城の見方は拭えないが、攻城戦の機会が無かっただけである。
 内堀の鯉は歯が無い(恋は儚い)と駄洒落に興じ、鯉に食パンを与え歴史を
 思えば、戦禍の被災無き事は平和な二百数十余年の恩恵である。壮大華
 麗なる大阪城は落城したが、松本城は蓋し信濃なる不戦の名城である。

   (写真下記) 国宝松本城天守閣
   (写真割愛) 平湯温泉での足湯
   (写真割愛) 東京電力奈川渡ダム
   (写真割愛) 国宝松本城本丸でのサ-ビス係
   (写真割愛) 野辺山宇宙線観測所


 

  ≪会津往還バイク旅 第3日目、清里YH ⇒ 小諸YH、走行188km≫

        【 碓氷峠で近代日本を、軽井沢で現代日本を思う 】

   上州横川から軽井沢に至る碓氷峠旧道は、僅か12km、183曲りの片峠の
 歴史街道である。明治期の最大の輸出品の生糸は、初め峠を陸路で、後に
 は鉄路で横浜に送られた。写真は近代化産業遺産の鉄道橋の名残である。
 この遺産を仰ぎ見てトンネル内を歩めば、折しもNHK大河「花燃ゆ」の群馬県
 に感謝の念が湧く。稼いだ外貨で日清・日露戦争の軍艦を購入できたのだ。
 又、尋常小学校唱歌「紅葉」は、碓氷峠の車窓風景に着想を得て作られた。
   峠を越え、北国街道と中山道の分岐の追分宿を過ぎれば、もう軽井沢。

 この浅間山麓の別荘地は何処か日常生活感は無く、日本のEstablishment
 の為の異空間である。林間の万平ホテルには歴史ある凛とした風格が漂う。
 軽井沢でのテニスは、神戸六甲でのゴルフよりもステ-タスが高い。蛇足ながら、関
 西人の憧れは、京都の大学・大阪の大企業・神戸の豪邸・奈良の別荘・琵琶
 湖のヨット・高野山の墓所だ。軽井沢は秋には少し寂しい高原避暑地である。

   (写真下記) 旧碓井線の碓井第三橋梁(通称; めがね橋、高さ31m)
   (写真割愛) 旧碓井線の碓氷峠のトンネル、勾配66.7パ-ミル(約4度)
   (写真割愛) 北国街道と中山道の分岐の追分宿の標識
   (写真割愛) 軽井沢の万平ホテル
   (写真割愛) 信州の上田城


 

  ≪会津往還バイク旅 第4日目 小諸YHより、日光杉並木YHへ、走行距離224km≫

        【 草津の湯でも不治な恋の病は、どう治すのか? 】

   朝霧に濡れつつ、有名な草津温泉へ寄り道。源泉は高温強酸性で、それ
 故に湯もみ歌で名高い。この温泉街の象徴は、「湯畑」である。湯の花の腐
 卵臭も芳香にさえ感じられ、足湯がほっこりと気持ち良い。日本三大名泉と
 して、昔から「万病に吉」と言われ、眼病や梅毒・ライ病の患者をよく集めた。
 将軍吉宗も湯を樽に詰め江戸へ運ばせた。果たして目的は何だったのか。

   草津節は「お医者様でも草津の湯でも、惚れた病は治りゃせぬ」と歌う。
 私は「恋という人間の楽しくも辛い病は、自然治癒しかない」と思うものの、
 良薬は時間と芸術創造だ。日本には「忍ぶ恋」の美学がある。古賀政男の
 名曲「影を慕いて」や文豪谷崎の「春琴抄」である。叶わぬ恋のエネルギ-の
 芸術への昇華こそ「恋の勝利」であり、曽根崎心中の悲劇を私は好まない。

   足湯に浸かり上州の山々の紅葉を思う。人の一生は短かく、恋も一時の
 情念に過ぎない。だが、不朽の芸術作品創造への熱き源泉たり得るのだ。

   (写真下記) 草津温泉町の「湯畑」での早朝の足湯
   (写真割愛) 一時、建設中止となった八ッ場ダム
   (写真割愛) 吹割れの滝
   (写真割愛) 日光の戦場ケ原
   (写真割愛) 日光の神橋

 

  ≪会津往還バイク旅 第5日目 日光杉並木YHより、会津野YHへ、走行距離208km≫

       【 会津戦争の悲劇と会津魂 】

   会津西街道(R121)を北上し、鬼怒川♨から猪苗代湖へ。途中の大内宿
 を見学し、バイク走行の気分は最高である。先に野口英世記念館を見学し、
 鶴ヶ城をゆっくりと散策する。ここは正に、「会津の悲劇」の現場なのだ。

   会津の悲劇とは何か。鶴ヶ城の落城、天守の炎上を誤認して自決した白
 虎隊、更に厳寒の下北半島の開拓を強いられた斗南藩の苦難の歴史。こ
 の悲劇は、藩祖保科正之の遺命を墨守した松平容保の決断に起因する。
 正之は家光異母弟の名君だが、最後の藩主容保は時局への先見性は無
 く、薩摩藩の御庭番を先祖に持つ私としては、腹立たしく憐憫の感がある。

  近年、NHK大河「八重の桜」で、山本覚馬は復権となったが、「白河以北ひ
 と山百文」と新政府に蔑視された偏見は、会津人には今も屈辱の感だろう。

   結果論での歴史解釈は不公平だが、「ならぬものは、ならぬのです。」の
 会津魂より、隣国米沢の上杉鷹山の「成せばなる」魂が私は好きである。

   (写真下記) 会津若松鶴ヶ城の天守閣
   (写真割愛) 日光杉並木YH(ユ-スホステル)
   (写真割愛) 日光街道の杉並木
   (写真割愛) 会津西街道の大内宿
   (写真割愛) 野口英世博士の生家(福島県猪苗代)


 

  ≪会津往還バイク旅 第6日目 会津野YHより、東京セントラルYHへ、走行距離269km≫

        【 会津西街道に、参勤交代を思う。 】

   会津から会津西街道を南下し東京へ。昔は参勤交代で七日今はバイクで
 僅か一日。日光今市までは山中で、その後は広い関東平野の走行である。
 コンビニのおにぎりを食べつつ紅葉未だ早き山を眺め、下野国の旅情を思う。

   何故、参勤交代の制度があったのか。教科書では各藩の財力消耗が狙
 い。但し、水戸藩は江戸定府で参勤交代は無く、天下の副将軍と言われた。
 幕末は諸藩の交代頻度は軽減された。暗愚を装った将軍が、外様の薩摩
 藩主に"参勤交代では、諸国事情を見聞できるの~"と問いかけた。参勤交
 代は討幕工作には有利に働くのではとの寓意である。薩長土肥はいずれも
 江戸より遠くアジアに近い。地政学的位置は歴史の展開に大きく影響を与え
 た。非外様の藩は近くに有りて江戸を守り、外様は遠国より江戸を攻める。

  関八州の旗本・御家人は、江戸を守る盾にはならなかった。葵は滅び菊が
 栄える幕末期に、なぜ幕府は参勤交代制度を上手く悪用しなかったのか。

   (写真下記) 会津西街道の大内宿
    (写真割愛) 東京上野公園の因幡藩屋敷の玄関門
   (写真割愛) 旧東京音楽学校(東京藝術大学)奏楽堂
   (写真割愛) 東京上野公園のストリ-トパフォ-マ-
   (写真割愛) 東京飯田橋にある「牛込橋」


 

  ≪会津往還バイク旅 第7日目 東京セントラルYHより、御殿場YHへ、走行距離179km≫

        【 箱根湯本の早雲寺と箱根の関所 】

   北条早雲は戦国三大梟雄の一人と言われるが、四公六民などの善政で
 後北条氏五代百年の基礎を築いた名君。私の大好きな戦国大名である。
 箱根湯本にある早雲寺を初めて訪れて、ゆっくりと見学し、墓参も行った。
 現在訪れる人無きこの古刹を秀吉は宿坊とし、毎日石垣山に登って一夜
 城築城の指揮をしたと聴く。戦国大名の先駆者の早雲と天下人の秀吉。
 約四百年の時を過ぎてなお、両雄の熱き息遣いが伝わって来るようだ。

   史上最堅固な関所は東海道の箱根の関所である。実際に歩くと屈曲した
 細道で、唱歌「箱根八里」の♪羊腸の小経は苔滑らか♪さながらだ。この陸
 路の大動脈の往来を厳しく監視する関所は、何故箱根山を越えるル-トなの
 か、私には疑問であった。小田原-熱海-三島でも良いではないか。しかし、
 箱根山西側の北条氏築城の山中城を見学して納得ができた。関東の防衛と
 して堅固な山岳道は必要。入り鉄砲と出女は要注意。関所破りは厳罰だ。

   (写真下記) 箱根の旧東海道、かの篤姫や和宮降嫁の行列も下った。
   (写真割愛) 箱根芦ノ湖の観光船
   (写真割愛) 箱根の芦ノ湖
   (写真割愛) 箱根の外輪山
   (写真割愛) 湘南海岸の江の島の遠景

 

  ≪会津往還バイク旅 第8日目 御殿場YHより、御前崎YHへ、走行距離221km≫

        【 乙女峠から観る朝日に輝く巽富士は美しい。 】

   大阪から東へ旅する楽しみは富士山望拝である。駿河の表富士、甲斐の
 裏富士に加え、御殿場の乙女峠で観る巽(東南方向)富士も又一興である。
 早朝の赤富士は神々しい。霊峰富士山から流れ下る清気を、胸一杯吸う。

   富士山は火山学的には四層構造と言う。古富士を基礎に噴出した溶岩
 が流れ積もり、風雨に削られ、更に何度もお色直しをして今日の美顔になっ
 たと聞く。昔、富士山真東の須走ル-トを下山した際は、実に愉快であった。
   富士山が見える町に生まれたかったと今でも思う。富士山は眺める山だ
 とも言われるが、日本人なら生涯に一度は必ず山頂に立つべきであろう。

   宝永山噴火口も富士山の愛らしいエクボとして可愛い。もう一度登頂し、
 その時は「お鉢巡り」をとも思うが、その機会は果たして来るだろうか。
   富士山再噴火の懸念は無くはない。日本列島が火山の活動期に突入し
 ている。世界遺産の富士山は、今後も「真白き富士の嶺」であって欲しい。

   (写真下記) 朝日にうっすらと輝く乙女峠途中からの富士山
   (写真割愛) 箱根の国道1号最高地点(標高874m)
   (写真割愛) 駿府城本丸の徳川家康公像
   (写真割愛) 駿府城乾櫓(算木積の石垣が見事)
   (写真割愛) 大井川に架かる蓬莱橋(全長897m)


 

  ≪会津往還バイク旅 第9日目 御前崎YHより、自宅へ、走行距離293km≫

       【 椰子の実が漂着した美しい伊良湖岬 】

   旅の最終日は午前4:15出発だ。御前崎から伊勢湾フェリ-を目指して爆走。
 途中の渥美半島約50km走破後の伊良湖岬は、濃いフレスコ画の様だ。碧空
 下の紺碧の太平洋の波濤は、恋路ケ浜に打ち寄せて、椰子の実を運んだ。
 そして、名曲「椰子の実」は誕生した。♪実をとりて胸にあつれば、新たなり
 流離の憂♪。この曲は正に、海洋国日本の叙情歌の傑作の一つである。

   神島は伊勢湾の出口に位置し、三島由紀夫の小説「潮騒」の舞台である。
 私は既に探訪していて、友和が焚き火を飛び越えて百恵を抱く映画の名場
 面が撮影された監的哨跡からは、素晴らしい眺望だったことを思い出す。

   東京と大阪の男女四人が伊良湖岬でデ-トし、一組が結ばれて東京で幸せ
 に暮らしている。恋路ケ浜のご利益である。薄いミルク味の椰子の実ジュ-スに
 南の島々の旅が懐かしい。55分間の伊良湖水道の渡海は涼しくて快適だ。
 三重県鳥羽にから自宅迄は5時間の予定。長い旅の終りはもうすぐだった。

   (写真下記) 風光明媚な伊良湖岬での名曲「椰子の実」の歌碑
   (写真割愛) 伊良湖岬の恋路が浜
   (写真割愛) 伊勢湾フェリ-(伊良湖岬側)
   (写真割愛) 伊勢湾に浮かぶ神島(三島由紀夫の小説「潮騒」の舞台)
   (写真割愛) 松阪城(三重県松阪市)


 

  ≪ エピ・ロ-グ(Epilouge) ≫

   寝屋川の自宅から錦秋の紅葉を求め、みちのくの会津迄をバイクで往還。
 紅葉は少し尚早で紅葉狩りは期待外れだったが、良き歴史散策となった。
 そして、この9日間の一人旅は、私にまた新しい見聞と発見を与えてくれた。

   バイク旅は判断の連続である。百均の道路地図を胸に入れ、距離、ガソリン
 量、
時間、道路事情を瞬時に判断し、走行方向を決断してゆく。もし誤ると、
 代償の時間と燃料ロスは少なくない。すき屋やコンビニでの朝昼食、スマホでの
 YH(ユ-スホステル)の予約、デジカメ写真撮影、記録帳の記入等、僅か110ccの
 HONDAス-パ-カブでのツーリングだ。燃費は54km/Lで、もし転倒しても自力で
 起こせて、細道での方向転換も簡単。実に、歴史散策には最適なバイクだ。

   高速道路の走行は不可だが、通常60km/h以下で走行し、パンク時の備品・
 工具・技術も持つ。雨具や長靴も準備済だが、危険な雷の時は走行中断。
 バイクツ-リングは最高。70才迄走りたい。愛する日本を更に深く探訪したい。

   【旅の期間】   2015年10月20日(火)~28日(水)、8泊9日
   【総走行距離】  2,155km ( 一日平均 239.4km )
   【総支出金額】  55,640円 ( 一日平均 6,182円 )

 

 【2015年09月】
             【 関西生命線の中秋節 】

   関西生命線の恒例の中秋節が今年も開催された。折しも、地球に最も接近中の満月は、
 快晴の東の大空に実に雄大で鮮やかに登場した。黄昏から夕闇へ、中国の歌舞音曲の宴
 に酔いしれ、月餅などをたらふく戴いた。ビ-ルもたっぷりで会費\1500は十分に元は取った。
 いろんな人達と、日本語と中国語で会話をして交流を深めたのだ。国際交流はいつもいつも
 楽しい。毎年楽しみな関西生命線の恒例行事なのである。

 

 【2015年08月】
            【 ホンワカランチ会への参加 】

   第9回ホンワカランチに4回連続の参加。ホンワカニストの竹本ユミカさんが主催するこの会は、毎月
 18日午後0-2時の開催で会費は1500円。今回は京阪天満橋のキャッスルホテル「錦城閣」での中
 華料理。各人のボランティアの話(今月のテ-マ)の後の食事会とお喋りであっと言う間の2時間。
 毎月の日にちが固定されている点がユニ-クな、この異業種交流会です。

   ( 写真は、いつもお綺麗な竹本ユミカさんと、いつも若い私です。)

   大阪キャッスルホテル・中華料理の「錦城閣」

 

 【2015年07月】
            【 中国の大連・金州・旅順の旅4日間 】

   中国遼東半島の縊れに位置する重要戦略地の金州、明時代に山東半島の民が渡海した
 軍港の旅順、帝政ロシアが開拓し日本が四十年間統治した大連を旅した。4年半前の冬の旅
 と全く同じ旅程の阪急トラピックスの大連三泊四日の旅(2015.07.25-28)である。何故大連なの
 か。中国11回目のこの旅に、私は密かに期待していたものがあった。自身のル-ツを探索した
 いとの思いは、人間としての本能であり、深い知的好奇心なのである。


 ≪大連旅行第一日目≫ 金州城外に立つ

   金州観光では新装なった提督府、道教の響水寺、南山日露戦争遺跡を見学した。遺跡の
 石板には「是畜生」の落書きがあり、日本軍の侵攻に対する中国人の憎悪が偲ばれる。私
 は乃木将軍の名作「金州城」の詩吟を吟じて英霊に奉納した。将軍長男の勝典は茲で戦死
 した。「金州城外斜陽に立つ」の結句には、「蕭蕭として班馬鳴く」満州の旅情の感慨がある。

   他国の大地を戦場としたこと、欧米列強の帝国主義に日本も遅れじと侵攻したこと、その
 歴史的事実に対して衷心より謝罪の意を表したい。私たち日本人のル-ツの一つもまた、この
 遼東半島から黄海、東シナ海、そして九州へ至る道である。


 ≪大連旅行第二日目≫ 旅順陥落の光と影

   旅順観光では、東鶏冠山のロシア軍の望台砲台、二百三高地、水師営会見所、旅順博物
 館、旧関東軍司令部、旅順駅、川島
芳子旧居と見所満載であった。特に小国日本が開化期
 を迎え
世界に躍り出た「坂の上の雲」の激戦は、圧巻の戦史である。但し、当時この爾霊山
 は禿山で、無謀な突撃で数多の兵士が
ロシア軍の機銃掃射で犬死にし、将軍の次男の保典
 も戦死した。
明治天皇崩御後の将軍夫妻の殉死は、これも誠に武士道か。
   当時の日本人は「恐露病」の患者であった。もし、旅順
&バッチック両艦隊の撃滅が無けれ
 ば、今日の日本にはロシア系混血
者が数多く居住していただろう。それを是とできたか否か。

 

 ≪大連旅行第三日目≫ 自身のル-ツを探索して

   現地ガイドの了解を得て、ツァ-を離団し大連市内を一人で自由に散策した。タクシ-・路面電
 車(1=20)・地下鉄(3)に乗
り、「北の香港」と呼ばれる大連の星海地区を探索した。
 何
故なら、約百年前の自身のル-ツが、この大連だからである。
   現地の人と中国語で話し協力を請い、丸一日探索したが、結果は空しいものだった。開
 発が著しく、明治時代の痕跡は
総てが地下に埋没されていた。それでも、ほんの少しだけ懐
 
かしい郷愁は感じた訳である。今後は「百度」等を駆使して、ネット検索を続けたい。そして、
 人生の課題を発見して、課題解決に邁進し、より良き人生を過ごしたいと思う。

 

 ≪大連旅行第四日目≫ 大連から観た中国の未来

   大連は中国ではないが大連の無い中国は無い。大連は五多(坂・広場・緑・車・美人)と聞
 く。夏は涼しく冬暖かく、不凍港で
地震はなく霧が多い。造船・工業・水産・農業・観光が盛ん
 で、
大学も多く、五月下旬のアカシア祭りは小説「アカシアの大連」(岡卓行、芥川賞)を想起さ
 せ、日本人には馴染みが深い。


   現在の大連の発展を観れば、「中国の未来」が見えて来る。大連は、①完全な車社会、
 ②高い物価、③地下鉄の発達、
高層ビルの急増、④親日的風土、⑤益々の海洋進出である。
   しかし、日本人として懸念することは、中国の「拝金主義に起因する人命軽視」である。
 中国人は、「お金・一族・教
育」しか信用していないように見える。この事は「中国四千年の
 悠久なる興亡の歴史に起因する」と私は考える。


   新中国が建国百年を迎え、「中韓日米が共通の価値観に基づいて共に世界平和に貢献
 している姿」を見たいものであ
る。その2049年迄、我が命があることを祈念したい。

 【2015年06月】
            【 弾丸フェリ-で高千穂旅行 】

   週末の大阪南港から別府港の往復船中2泊は、「弾丸フェリ-」として人気がある。金曜夜の
 午後7:55出港で日曜朝7:35帰港の今回は、高千穂観光付、昼食付、別府温泉の入湯付で、
 なんと1万円ポッキリとは格安だ。船中にはバンド演奏もあり、夕食バイキングと朝食は、各々が
 約\1600と約\600でこれもお得である。何よりもゆったりとした船旅は最高である。乗船時間
 は12時間で、二等客室の雑魚寝だがそれでも充分快適である。ツァ-の申込みは勿論一人で
 ツァ-会社(さんふらわトラベル㈱))に行うが、この一人旅は、九州旅行の穴場と言える。
 
   今回は四十数年振りに高千穂を訪れた。言うまでもなく、日本国の天孫降臨の地である。
 大学一年の夏、当時高千穂在住のクラスメ-ト宅を訪れ、二人でこの真名井の滝の傍をボ-トで
 漕いだ時、滝の裏側を通ろうと誘った彼に対して、怖がりの私は忌避したことを今は恥ずか
 しく思い出す。この滝はなんと小さく可愛い滝だったのか、当時はなんと幼心だったのかと。


   写真は高千穂峡・真名井の滝

 

 【2015年05月】
              葛城山登山 】

   五月の晴天下、久しぶりに水越峠(標高517m)からのダイヤモンド・トレ-ルで葛城山(金剛山地、
 標高959m)を登山した。距離は
短いが高低差442mの急登であり、休み休みして2時間もかか
 った。通常は1時間と聞く。山頂はなだらかな高原で、飛鳥の眺望が素晴らしく、手作り弁当も
 美味しかった。残念ながら、5月20日では、つつじの群生も既に終わっていた。

   久しぶりの森林浴はやはり楽しい。孤独に少しずつ山道を登る時の感慨は、人生に対する
 感慨と同じである。まさに、"人生は、重き荷を背負うて、遠き道を往くが如し。"である。しんど
 さに、何度か引き返そうかと思ったが、登らないと美しい眺望は得られないと信じて一歩一歩。
 後半はなだらかな登りとなり、見晴らしも開けて、良い森林浴となった。フィトンチッド(生物活性物
 質)もたっぷりと吸い込んだ。1/fの揺らぎの風の中、α波はきっと出っぱなしであったろう。

   写真は、葛城山山頂( 標高959m )

 

 【2015年04月】
             【 北京旅行4日間 】 ( 2015.04.02-05 )

  北京旅行前日

   4/2-5の北京旅行4日間。阪急トラピックス、39,800円、ツァ-は全12名。会社のいつもの友人
 と8回目。私自身は中国10回目(台湾3回を含む)。北京は18年振りの2回目となる。

 ①北京旅行第一日(2015年4月2日)

     ≪ 清潔な首都への北京の変貌 ≫

   18年ぶりの北京は実に華麗な都市に変貌し、首都の気品が漂う。地形は平坦で大河も
 なく起伏には乏しいが、環状高速道路と地下鉄の縦横な発達は括目に値する。懸念された
 黄砂やPM2.5も無く、晴天下の清明節の賑わいは、大中国の堂々たる貫録と矜持である。
 私は住んでみたいと思った。私の半年間の留学生活は上海の復旦大学であったが、北京
 大学での再留学をと思ったものである。北京語はア-ル化が強くやや難聴ではあるが、次第
 に慣れてきた。北京は言うまでもなく政治都市であり、2008年のオリンピック効果もあったであ
 ろうが、中華人民共和国のその表の顔は実に清潔であった。


 ②北京旅行第二日(2015年4月3日)

     ≪ 中国は先進国か、発展途上国か? ≫

   中国は先進国か発展途上国かと中国人に問えば、答は後者である。"GDPが大きくても、
 農村を見れば.... " と、謙虚な答えが返ってくる。だが、漢・唐朝は繁栄を極め、明・清時代
 は世界帝国であった。しかし、清末の近代化の遅滞が今日の遠因であり、20世紀の激動の
 日々も然りであろう。悠久なる中国四千年の歴史に鑑みるならば、それでも一時期の屈み
 に過ぎない。今後の中国の伸長発展は必至であり、21世紀は東アジアの世紀で、就中、中国
 の世紀である。
   浪費の象徴の頤和園も、多大なる人財投入の長城も、今や世界の人々を招来する豊か
 な観光資源であり、超長期的債権なのである。但し、今後は高度技術立国実現への推進
 が急務である。国民13億人の生活の向上、虎と蠅の果てしないモグラ叩き、軍事力増強、
 AIIB推進等々、一握の為政者集団は激務・闘争・苦悩の日々であろう。


 ③北京旅行第三日(2015年4月4日)

     ≪ 北京旅情、歴史・文化の広さ・重さに魅了 ≫

   北京の歴史は、戦国時代の燕京に始まり、元朝の大都、明の永楽帝の遷都と清朝建国
 による。こ の古都には深い歴史の影響がある。今回初めて見学した天壇公園は大好きな
 名跡となった。首都博物館では古都北京の庶民生活が偲ばれ、明城壁遺跡は高く厚く堅固
 ・荘重である。そして何よりも圧巻は紫禁城である。康熙・雍正・乾隆の清朝最盛期の栄華
 の光と、珍妃の井戸に憎悪漂う西太后の清末の凋落の影。帰国後の「蒼穹の昴」の精読を
 決意した。皇帝の人生は、実は最も悲しい宿命の人生ではなかろうか。権力者は、常に暗
 殺の危機に怯えている。
   京劇の面白さは未だ解らない私だが、本場「全聚徳」での北京ダックは旨くて柔らかく肉汁
 豊かで美味。淡水真珠や絹製品はいま一つで、食事内容はツァ-料金の安さからは納得で
 ある。青島ビ-ルはやはり薄い。


 ④北京旅行第四日(2015年4月5日)

     ≪ 北京胡同巡り ≫

   北京の裏路地は胡同である。二人乗りの人力三輪車で什刹海(后海)を春風に吹かれゆ
 ったりと進めば、古都北京の情緒たっぷりである。半時間で一人僅か百円。実に心地よい
 時間である。狭い家並みの路地は決して居住環境は良くないかもしれないが、住めば都な
 らぬ街であろう。夏の炎天下、冬の積雪の状況は想像に難く、広い中国の他の例えば上海
 や広州とは全く異なる風土である。砂塵に汚れたアカシヤの街路樹がいかにも中国的で、瞼
 を閉じると静かにタイムスリップするのである。
   愚公移山の諺のように、平地を掘り土をって山水を作る中国式造化は風水に基づく。
 門柱に紅色吉祥字の紙を貼り、四合院の中庭には人影は見えず、ただ静かな時間が流れ
 る。昼下りの北京の胡同には、"古の面影"が漂う。でも、この后海は、最近は北京の若者
 のデ-トスポットとして有名だそうである。


 

        吉野・西行庵 】

   吉野奥千本の残り桜を求め西行庵に至る。約八百年前の世捨て人:歌人西行の質素な
 庵である。もう何度も訪れてはいるものの、今年も感慨新なりである。自宅からバイクと徒歩
 で僅かに三時間。まさに、この" 男の隠れ家 "は、人の世の無常と栄枯盛衰の真理の風情
 を、漂わせている。拝金主義の現代社会に対して、花鳥風月の芸術を求めた西行の逸話
 が残っている。かの源頼朝から歌の才を愛でられて賜った金印を、頼朝の館を退出するや
 いなや路傍の童にぽいと与えた。世間の黄金なぞ、何するものぞと・・・・。物より心の豊かさ
 が大事だと軽軽には言わないが、限りある人生において思うことは、やはり「人生は短し、
 されど芸術は長し。」の至言である。私は、そんな人生観をこの西行庵で再び確認し、嬉し
 い気持ちで下山したのである。


   写真は、 吉野・奥千本の西行庵

 

 【2015年03月】
              京都大学化学研究所での先輩教教授の祝賀会 】

   京都大学化学研究所(宇治キャンパス)で先輩である写真の教授(65歳)の退職記念講演会&
 祝賀会に出席した。約四十年前、異なる研究室ながら、スポ-ツ&コンパを大いにenjoyしたもの
 だった。以来、毎年の賀状の交流を経て、三十数年ぶりの再会は懐かしく、宇治での青春の
 日々が数々と思い出される。

   カルコゲン系の有機化学反応の研究とスポ-ツの両方に対する彼の真摯かつprofessionalな
 姿勢は凛としていて、私もかくありたいと願ったものである。これこそ"無言の教育"である。
   頭髪の黒白はともかく、お互いに元気で豊かな晩年を過ごしたいものだ。その為にはやは
 り毎日の精進が肝要で、心・技・体を鍛える不断の努力の積み重ねが大切である。
  私の人生は「人生最期の日まで精進の日々でありたい。」と、志を新たにしている。

   写真は、おおばくプラザ ハイブリッドスペ-スにて

 

 【2015年02月】
           【 建国記念日に飛鳥バイク&ウォ-キング 】

   自宅のある寝屋川からここ甘樫の丘までは、バイクで僅かに2時間である。思い立ち妻と弁
 当を作り一人バイクに跨れば、すぐに飛鳥の世界である。この甘樫の丘にはもう50回以上は
 登っている。弁当を食べ、お茶を飲み、見渡せば、古の万葉人の世界であり、懐かしい・・。
 何故こんなにも心魅かれるのか。その心は、まだよく解らないのではあるが ・・・・。

   石舞台古墳にバイクを留め、飛鳥川から飛鳥寺、そして雷の丘に登り、更に天の香久山の
 中腹まで散策して往還し、建国記念日の吉日の飛鳥の空気を深く呼吸するのである。
   伝承によれば、九州より熊野の地に上陸し、八咫烏に導かれた倭国の初代神武天皇は、
 熊野の狭路を潜り抜け、この国中平野(今日の奈良盆地)の橿原の地で、スメラミコトに即位した
 という。倭国(後の日本)の建国譚である。飛鳥は、大和三山の眺望が素晴らしいまさに日本
 人の、心の故郷である。

   写真は、 甘樫の丘からの遠景は畝傍山と二上山、飛鳥・甘樫の丘での昼食

 

 

 【2015年01月】
             【 新年賀詞交歓会 】

   出身大学の恒例の新年賀詞交歓会である。毎回の事だが、楽しい新年の酒宴であった。
 そもそも同窓会には、数々あれども、同窓会のメリット&デメリットは、以下のように考察される。

   小中学校の同窓会: 故郷の幼馴染が集うので、自分の育ちの本質を再発見できる。
               しかし、義務教育課程の学友なので、VIPは余りいない。
   高等学校の同窓会: 一定のレベル以上の学友が揃い、しかも故郷なので、とても懐かしい。
               更に、同じ大学に進学すれば、青春前期からの生涯の友となる。
   大学(院)の同窓会 : 最終学歴の学友となるので、VIPの学友はお互いに大いに役立つ。
   会社時代の同窓会: 再就職や起業の際、良い情報やコネが得られる。

   いずれにせよ、過去を懐かしむ為の同窓会か、未来への更なる人脈拡大の為の同窓会
 かは、参加する人の価値観や目的意識にも依るだろう。今回の大学の同窓会は、私の今の
 年齢からしては、勿論、後者の「更なる人脈拡大の為の同窓会」である。幸いにして、各界の
 VIPも少なくない。同窓会には、健康で、余裕があって、幸せでなければ、参加しないもので
 ある。謂わば、「社会的な幸せ比べ」の会が同窓会である。家庭の悩みは、もし有っても封印
 している。人生の来し方を振り返り、美酒に酔い懐古に偲ぶ宴は、やはり良いものである。

 【2014年12月】
            【 台湾一周旅行五日間 】

   台湾湾旅行1日目。台中の街角で亜熱帯の果物を食する。美麗島(フェロモサ)の名に恥じない
 美しいこの島で、トロピカルな旅情を心行くまで楽しんでいる。さて、三回目の訪問となるこの中
 華民国。どんな新しい発見があるのだろうか。期待は更に限りなく、親日国への懐かしい思い
 が湧いて来る。

 
 台中の街角の果物屋さん

   台湾旅行2日目。積年の憧れの地:日月潭に佇む。造化の神が与えしこの麗しき湖を背
 に、退職後 の社友三人が共に写真に収まる。健康に感謝し今後の健やかなる人生の幸を
 文武廟の祭神に祈念する。旅はまだ二日目。台湾料理にも慣れ、益々中華文化に浸りゆく
 も、独自の台湾文化に開眼する。
 
 
 台湾の景勝地:日月潭

   台湾旅行3日目。高雄から花蓮まで東海岸を北上する。山脈が迫り黒潮が洗う狭路の道
 は、東風が強い文化果てる土地である。少数民族のアミ族の踊りに参加すると、高砂族と日
 本統治との関係について考えさせられる。東海岸には台湾人口の僅か5%しか居住しない。
 高速道路建設の計画さえも無い辺境の村落群である。


 
 東海岸のコンビニ店

 
 成功にある「三仙台」、太平洋に面して強風であった。

 
 アミ族の踊り

 
 アミ族の踊り子と

   台湾旅行4日目。台湾のグランドキャニオン:大魯閣渓谷を散策し、特急汽車で台北に至り九份
 を見学する。渓谷の雄大さ、アジア随一の台北忠烈祠の衛兵交代式、「千と千尋の神隠し」
 の舞台九份。それらのいずれもが台湾らしさである。戦前中に台湾で暮らした多くの日本人
 家族の生活へ思いをはせる時、九州の遥か南方海上にもう一つの九州があったと思うのだ。
 台湾は亜熱帯の豊かな「さつまいも」形状の島である。


 
 台湾東貫道路の入り口。

 
 休憩場所にて

 
 殉死者を祀る台北の忠烈祠での衛兵交代式

 
 九份の階段。赤い提灯には「越夜越美」の文字、意味は"夜が更けゆくほど美しくなる"。

   台湾旅行5日目(最終日)。台北の名所:故宮博物院で3時間の美術鑑賞の後、小龍包を
 堪能する。あっと言う間の楽しくて笑いに溢れた27名との五日間であった。台北から関空は
 僅かに2時間のフライト。世界の旅が気楽にできるのはほんの一握りの人間だけである。教
 育と仕事かつ家庭、更に健康にまで恵まれた我が身としては、「Noblesse oblige 」の責務
 を思わざるをえない。それ故に、「人生の晩年に自らの文化遺産をこの世に残したい。」と
 切望した今回の海外の旅であった。


 
 故宮博物院にて( 約20年ぶりの再見学であった。)

 
 台北市内での小龍包の昼食

 【2014年11月】
            【 丹波国・黒井城の登山とお城祭り 】

   以前、丹波地方をバイク・ツ-リングしていた時、城山に登りそこからの絶景は素晴らしかった。
 その城山がどこだったか忘れていたが、黒井城ではなかったか。今回、秋真っ盛りに再び、
 登城し本丸で愛妻弁当を広げしばし古城の感慨に耽った。

 
 黒井城(保月城)の本丸

 
 大人の太鼓の演武、背景は黒井城

 【2014年10月】
           【 奈良県・曽爾高原の散策 】

   秋真っ盛りの先日、薄の原に誘われて、奈良三重県境の曽爾高原までバイクを走らせた。
 素晴らしい風景と秋の情緒たっぷりで、お亀峠で食べる愛妻弁当の梨は特に美味しかった。
 数年ぶりに来たこの曽爾高原は、自宅からのバイクで僅かに二時間半で、ほんとうに近い。
 高原を散策すると自然の美を痛感する。「お亀の湯」の露天風呂に入って青空を見上げると、
 青い空に浮かぶ白い雲、山々の緑。この青・白・緑のコントラストが実に美しいのだ。山々は、
 来年のススキのより良き生長の為に、"山焼き"が行われた。又、この日は珍しいものを見た。
 それはヘリによる救助者の引き上げであった。その一部始終をずっと見学したのであった。

 
 曽爾高原の入り口、背景は「お亀池」の湿原

 
 曽爾高原の全景、遠景は屏風岩、鎧岳、兜岳など。左中央がお亀池の湿原

         【 紀伊半島西半分バイク・ツ-リング3日間 】

   秋のバイク・ツ-リングはどこに行こうか。考えてみれば特に行きたい所もない。日本全国を
 旅した私は全国の95%は踏破したであろう。それでも紀伊半島をのんびり走りたいと思った。
 なぜなら、和泉山脈を越え紀ノ川を渡り、和歌山を過ぎると、もう南紀への入り口の旅情な
 のだ。南紀の潮風に憧れ、熊野の歴史に魅かれ、また、こうしてバイク・ツ-リングの旅に出た。
   今回の旅の目的地は二つとした。和歌山県の生石高原と三重県の赤木城である。勿論、
 初めての探勝地なので期待が膨らむ。前者はススキの名所であり、後者は幻の古城である。

   生石高原の頂上(生石ケ峰、標高870m)は美しくなだらかな草原で、山と海の素晴らしい
 眺望が俯瞰できる。愛妻みどりの弁当を開けば、甘い卵焼きと、秋の味覚の梨の甘さに、
 自由な旅人としてのライダ-の喜びを感じる。絶景を御馳走にして、なんと美味しいことか・・。
 頂上から反対側に下れば、生石神社(ショウゴクジンジャ)があり、ご神体は十世紀に一夜にして
 出現したと言う高さ50m程の巨岩である。それが生石(オイシ)の地名の由来となっている。

 
 和歌山県・生石(オイシ)高原の最高峰の生石ケ峰(870m)で食べる愛妻弁当

 
 生石(ショウゴク)神社のご神体の巨岩

   一泊目の有田オレンジYHを早朝6時前に出発して、本州最南端の潮岬を巡り、那智勝浦を
 経て、やはり何度も来ている那智の滝を仰拝したくなった。いつもながらの荘厳な落差130m
 (幅13m)である。今回は敢えて、かっての熊野古道随一の難所:大雲取越えを試みる。この
 林間道路は実に大変な道で、本当に事故を心配しつつ、やっとの思いで無事に走破した。

 
 落差130mの荘厳な那智の滝の雄姿

   二日目の「YH熊野市青年の家」を後にして、先日ある事で偶然に知ったこの「赤木城」。
 藤堂高虎の築城と知って私は行きたくなった。交通
の便は悪いが、バイクなら問題は無い。
 小さいが築城当時の遺構が残り、霧に包まれ、ミニ竹田城という人もいる。桜の名所でもあ
 る。藤堂高虎は豊臣秀長の家臣で、伊予今治に転封になるまでこの地で約十年を過ごした
 という。不便な場所ではあるが、近くには丸山の千枚田がある。また、城郭落成記念に城
 内に招いた一揆の首謀者達を、騙して打ち首にしたその刑場跡(田平子バス停)の首塚に
 は、検地に反対した反乱者たちの無念さが漂うようだ。

 
 三重県の隠れ古城「赤木城」

   奈良県十津川の「谷瀬の吊り橋」は有名である。高さ約50mでよく揺れ大変なスリル感だ。
 無料のせいもあり誰もが渡っている。私も渡ったがやはり怖かった。なぜなら、4枚縦列の
 板から下の川が覗けるからである。もし、足で板を打ち抜いたなら、落下する不安がある。
 だが、橋詰に居た人の話によると、歩行板の下には見えないがワイヤ-が張ってあるので、
 大丈夫だとのことで、復路は少し安心して戻ってきた。写真のように、地元の人は平気な
 様子で、スタスタと歩いている。この吊り橋は、対岸の集落の人々が往来の為に、お金を出
 し合って建設したものであが、現在は十津川村随一の観光名所となっている。

 
 奈良県・十津川村の有名な谷瀬の吊り橋。地元の人は平気で渡っている。

 【2014年09月】
            【 神戸、布引の滝の探索 】

   ふと思いつき、神戸・垂水港での「神戸よさこい祭」の後、新神戸駅の裏手400m(徒歩15
 分)の布引の滝を数年ぶりに訪れた。もう二十年前、娘が小さい頃、家族三人で訪れて来た
 ことがあるが、あの頃とほとんど変わらない。大都会神戸の喧噪を遮る舞台の白いベ-ルで
 ある。新神戸駅から坂を上って僅か15分で、この中世より有名な詩歌の滝に辿り着く。今回
 は初めて脇の細道を登り、ダム湖を眺め、市原まで歩いた。林間の森林浴は爽快であった。
 そして、茶店で一服休憩の後、神戸の街を見降しながら、新神戸駅まで戻ってきた。
   いつもはバイクでの散策であるが、こうした徒歩での散歩もまた違う味わいがある。

 
 新神戸駅の後方400mの布引の滝

 【2014年08月】
             【 ベトナム5つの世界遺産紀行6日間 】

   元会社の友人との7回目の海外旅行は、彼の希望を入れて久しぶりのアジアとなった。彼
 とは既に、初回のカンボジア、2回目のマレ-シアがあり、今回は、すんなりとベトナムに決まった。
 私の提案となった真夏のベトナム旅行は、6日間でベトナムの北部・中部・南部の5つの世界遺
 産を巡るツァ-である。勿論、ハロン湾やフエの王宮は含まれ、催行は今回も阪急トラピックスだ。

   ベトナムは、BRICs+V として、近年、経済成長が著しい。China-risk回避の為にも、ベトナム
 は大いに注目され、日本企業も多く進出し、無論、Panasonic㈱のHA社の工場もある。

   少年の頃、故郷長崎で近所の友達と、"まだ、戦争している国がある。"と話したその国は
 言うまでもなく、ベトナム戦争下のベトナムであった。1975年のサイゴン陥落と南北ベトナムの統一
 から、既に約四十年が経過した。平和になったベトナムの現状を、私は見たかったのである。

 
 関西空港の出発ゲ-ト前にて、ベトナム空港VN331便、大阪 ⇒ ハノイ

   関空からハノイまでベトナム航空で4時間10分とは、信じられないくらいに近い。こんなに近
 かったのかと驚く越南の地ベトナの首都ハノイは、"小中華"と言うべき、中国文化の延長線上
 にある。首都ハノイ自身には特に見るべきものは無い。中国に似たインドシナの風情である。

   鎮国古寺をまず見学し、ホ-チミン廟に案内され、世界遺産のタンロン古城を見れば大体終わ
 りである。他には、特に必見すべき歴史的文化遺産は無い。旧北ベトナムの首都としての地
 味な佇まいがあるだけである。漢代、既に茲には安南都護府があった。ハノイは中華文化の
 影響下の街である。

 
 ハノイの鎮国古寺と現地ガイドさん

 
 元会社の友人と。一緒の海外旅行は7回目となる。

   ベトナム人では、ホ-叔父さんことホ-チミン(胡志明)は建国の父であり、崇拝の対象である。
 日本では、こんなに敬愛されている国家元首は居ようか。日本、北朝鮮、中国の"お方"は、
 作られた偶像であり/あった。だが、ベトナムでは違う。本当に敬愛されているのだ。下記の
 写真はホ-チミン廟での衛兵交代式であり、台北の中正記念堂のそれと良く似ている。どこの
 国も威信をかけた交代儀礼である。そう言えばカンボジアの首都プノンペンでもそうであった。

 
 ハノイのホ-チミン廟。米国ワシントンのリンカ-ン記念館と似ている

   ベトナムで六個目の世界遺産として、2010年に認定されたのがこのタンロン城である。バス
 がこの遺跡前に停車した時は突然のスコ-ルで、やっとのことで下車してこの1枚を撮影した。
 歴史好きの私は入場観光したかったので、車窓観光とはとても残念だった。「タンロン」とは、
 「昇竜」の意味で、タンロン城は旧ハノイ城である。ベトナム独自の様式美であると言えよう。

 
 ハノイの世界遺産タンロン古城(旧ハノイ城跡)

   アオザイはベトナムのファッションの象徴である。軽やかで涼しく、セクシ-でもある。中国のチャイナ
 服とは異なり、太腿の上までのスリットの切り込みの下は、薄手のパンタロン風であり、前掛けと
 後ろ掛けが同等に前後に垂れている。材質は勿論シルクであろうが、色はブル-系が多い。

   やや不謹慎かもしれないが、若い女性のアオザイ姿では実にバストラインが美しく、何か工夫
 があるのかと思ってしまう(注)。 日本の和服や中国のチャイナドレス、インドのサリ-の何れもが美
 しく洗練された服飾文化の産物であるが、ベトナムのアオザイは実に涼しそうで快適そうである。
 (注) ベトナム女性は一般にバストが小さく、ブラジャ-内に充填しバストアップをしているとの報道。

 
 ハノイの土産物店の店員(1)

   ベトナム人は日本人と顔が似ている。同じアジア人だからだ。しかし、どこかが違う。それは
 どこかと言えば品位であろうか。農業国と先端工業国の差異であり、知的なものの違いと
 思われる。地理・歴史・風土のいわば文化の総体が、"美的なるもの"に関連してくる。勿
 論、個人差は大いにあるが、あくまでも平均値の話である。日本でも同様である。首都東京
 の上品な山の手の住人と、地方の過疎県の田舎の人とは違うのである。差別ではなく区別
 である。品位は顔にでる。だからこそ、人間は教養等の内面を磨かなければならない。

 
 ハノイの土産物店の店員(2)

 
 ハノイの土産物店の店員(3)

   一般に、ベトナム女性には肥満体の人は余り居ない。皆んな働き者だからだろうか。食事
 も中華料理に似ているが、脂っこい料理は少ない。庶民は質素な食事である。ホ-や春巻き
 などが有名で一般的である。

   海外旅行でのホテルの朝食は、大概バイキング形式であり、食べ放題かつ飲み放題である。
 ベトナムも例外ではなく、ホテル周辺に住する庶民の質素な食事と比較すると、雲泥の感であ
 る。お蔭で6日間で、6kgも太ってしまった。特に南の国故に、果物は本当に美味しい。そし
 て、ベトナムは米が美味しい。タイ米に近く、多分日本人の味覚には馴染まないとの懸念に反
 して、餅米風で粘りがあって、これはジャポニカ米に違いないと思えるほどに旨いのだ。勿論
 ベトナム名物の春巻きも絶品で、更に言うまでもなく有名なホ-も実に旨い。ス-プの味も日本人
 の味覚に合う。薬味もまた良く、トッピングの千切り状の鶏肉も、これもまた味良しである。

 
 ハノイのホテルでの朝食

   人間の幸不幸は、生まれた時代・国・地域・家(親)に影響を受けることは間違いはない。
 それは自分でもどうしようもないのかもしれない。 但し、私の主体的な人生観ではそうでは
 ないが、この議論はともかく、今こうしてベトナムに生きている子供達のことを思うのである。

  今から数十年前だったら命の保証は無い。勿論、戦前の軍靴の日本でも同様であった。
 この子供達の屈託のなさは、ベトナムが平和になった時代に生まれたことの享受である。
 願わくば、子供達が健康で、豊かな教育を受けられることを、心から願うのみである。

 
 ハノイの街の子供

   世界遺産のハロン湾は雄大であり、海の桂林の名に恥じない壮大さである。こうして、又、
 海外の旅において世界遺産を訪れることができた幸せが、この写真にはよく表れている。
 蒙古の騎馬民族(元帝国)が、この安南都護府があった越南の地に侵攻した時、龍が舞い
 降りてこの越南を守ったと言う。それ故に、龍が舞い降りた(ハ・ロン)の意味から、ハロン湾と
 名付けられたと伝承される。ハロン湾は、中国領の海南島を抱くトンキン湾の一部である。中国
 の広西チワン族自治区にある「陸の桂林」と対をなすこの「海の桂林」は、石灰岩層の隆起と
 風雨による浸食という地球史的な悠久の時間を今に伝えている。

 
 世界遺産ハロン湾の遠景

   私達のツァ-メンバ-全12名だけの貸切の船でハロン湾を往けば、小雨から豪雨そして雷鳴と
 中国式歓迎を受けた(笑い)。しかし、波は穏やかでめくるめく絶景は本当に感動的である。
 かって16年前に訪れた陸の桂林には感動したが、この海の桂林も素晴らしい絶景である。
 天然の造化の美であり、絶妙な奇山・奇岩の点在であり、感動の三時間であった。船中の
 食事に追加注文したシャコとエビも美味だった。この写真で私の満悦な様子が偲ばれよう。
   世界(自然)遺産を船で観光周回する。これは本当に素晴らしく贅沢なことなのだ。

 
 ハロン湾の絶景

   ベトナム中部フエの物売りの女性の彼女の人生は想像だにできないが、働くベトナムの母で
 ある。日本円を出せば僅かに安い金額で買えるが、やはり要らない物(使わない物)はやは
 り要らない物であり、かえって荷物になる。文化格差と言えば、これは失礼な言い方にはな
 るが、土産物の品質と洗練さは断然に日本がやはり上である。実際に使わない物を買って
 も仕方がない。海外旅行の一時の高揚感で衝動買いするのは良くない。私が買うものは、
 トランプや簡単な楽器などである。他のお土産品には、特に欲しい物は無いようだ

 
 フエ市内の物売りベトナムおばさん

   念願だったフエの阮朝王宮に遂に来た。一言で言えば、ベトナム版の紫禁城である。勿論、
 本家北京の紫禁城とは規模を比べるべくもないが、建造物の配置等は酷似している。即
 ち、ベトナムが中華文化の影響下にあったことの証左であり、この王宮の建造は19世紀だ
 が清朝様式の影響は間違いない。広大な城郭内の施設を見学し、ベトナム舞踊を楽しんだ
 が、デジカメの電池切れでの撮影不能は誠に残念であった。この舞踊にしても、大乗仏教的
 な演出であった。王宮は内外濠に囲まれ、形は正方形に近く、広さは十分に広い。

 
 フエの世界遺産阮朝王宮

   フエとダナンの間には海抜496mのハイヴァン峠がある。この峠の下には、東南アジア最長(約
 6.3km)のトンネルがある。このトンネルにより、ダナン-フエ間が40分短縮された。日本のODA協力
 により2005年に完成した。実際に走行してみると、長いトンネルであった。トンネルを抜けると、
 そこは美しいビ-チを持つダナン市である。ビ-チには豪華なロッジが並び、海水浴客が多い。

  今日、このダナンから真西に所謂"東西回廊"と呼ばれる一大輸送道路が完成している。
 これにより、南シナ海のダナンからベンガル湾のミャンマ-の都市迄のトラック輸送路が整備された。
 
この事の意義は大きく、シンガポ-ルやマラッカ海峡を経由しないために、大幅な航行日数の短
 縮となり、物流輸送に大きく貢献している。

   ホイアンの街は日本人には懐かしい。これらのランタンもまた美しい。刺繍の店では、最も若
 くて可愛い女性が、日本語で説明してくれた。一緒に写真を撮ったが、何か現地で新妻を迎
 えたような感じで、不謹慎ながら少し胸キュンとなった。"ベトナム撫子"と言うべきか。ベトナム人
 は国民性としても素朴で真面目で勤勉である。良妻賢母の資質であろう。
  よく見ると写真の彼女はとても日本人のようである。日本語も上手い。左手薬指のリングは
 無かったので独身であろう。それにしても、それなりに品位がある女性だった。

 
 ホイアンの刺繍店での日本語説明員のベトナム娘

   海外旅行の楽しみのひとつに豪華な食事がある。お蔭でこの六日間の旅行で6kgも体重
  が増えた。(苦笑) しかし、皆んなが愉しんでいるので白けないように、私も遠慮はしない。
 下記写真のように、特に朝のバイキングは、取り、食べ、飲み放題で、更にプ-ルサイト゛では、
 雰囲気が良い。また、南の国なので、フル-ツがとても美味しく、トロピカルな風情満載である。

   果物の女王はドリアンであり、ベトナムでも簡単に買えるが、アルコ-ルとの共食は禁忌であり、
 死に繋がる場合がある。以前、このドリアンをタイ旅行で食したことがあり、ねっとり感のチ-ズ
 の食感であった。今回はマンゴスチンさえも遠慮したが、パイナップルや西瓜はやはり美味しい。

 
 ホイアンのホテルでの朝食

   ホイアンの街は日本人には懐かしい。下記の写真のように「日本橋」があるからだ。(注)
 戦国から江戸時代にかけ、東南アシ゚アに進出した日本人、越南のこのホイアンにも日本人街を
 形成したのだ。穏やかな流れのトゥボン川に佇むと、昔日、私は居たような気がしてくる。
  本当に、往時にタイムスリップしたようだ。中秋の名月はさぞ美しいことであろう。木陰でのん
 びりと昼寝をしたいと思うのである。

   (注) 日本人が建造したから日本橋である。左手が日本人街となる。

 
 ホイアンの有名な日本橋。現地ガイドさんと。

   絵画になる風景である。手前の川に漁網が映えて、奥の借景には「日本橋」である。何故
 か懐かしいと思うのは、私だけではあるまい。川は清流ではないが、三毛作のベトナム米を支
 えている。このベトナム米は少し餅米風で美味しいのである。この川も、毎年秋の雨期には氾
 濫すると聞く。だが、中国江南の水郷にも似て、実にアジア的風景であり、欧米には無い。

 
 ホイアンのトゥボン川の風景(遠景に日本橋)

   トゥボン川沿いをゆっくりと散策し、お店で椰子の実ジュ-スを飲む。この薄いミルク味の飲み
 物は、仄かに南国の味である。日本では日頃は味わえない、"トロピカル"な味でもある。
 ふと、島崎藤村の「椰子の実」の歌詞を想い出すが、日本人には、常夏は憧れでもある。
 本当はギンギンに冷やした方がより美味しいに違いない。でも、そんな冷やす文化はここに
 は無い。郷に入れば郷に従えである。木陰はやはり涼しい。しばし安らぎの時間だった。

 
 トゥボン川沿いでの椰子の実ジュ-ス

   ベトナムの中部、ホイアンより西方の山中。この聖なる地(ミ-ソン; 美しい山)に、チャンパ文化遺
 跡があり、世界遺産である。下記の写真は、今回の旅行中、私の最も好きな写真となった。
 歴史に佇み歴史と一体になる感動と幸せは、現地を訪れないと得られない至福感である。
 このミ-ソン遺跡には、随所に穴ぼこがある。それはベトナム戦争時の米国の空爆による。こ
 んな僻地にもと思うが、ベトコンは全ベトナムの地上/地下で抗米戦を戦い抜いたのである。

 ただ、遺跡は黙して語らずであるが、インカ帝国の石組みと同様に、カミソリ刃一枚も入らない
 この高度な密着性確保の技法としては、レンガ積み後に全体を焼成させたのかもしれない。
   ミ-ソン遺跡は、4世紀から13世紀まで約900年間に、チャンパ王国の聖地に作られた。

 
 世界遺産ミ-ソン(美しい山)のチャンパ文化遺跡

   ミ-ソンの建物は祠堂であり、王のリンガやシゥ゙ア神の神像などが祀られる。祠堂の中には、
 女性/男性を象徴するヨニ/リンガが接合された状態で安置されている。また、下記の写真に
 見られるように、レンガを少しずつ内側へずらして積んで屋根を支え、内部に広めの空間を
 作っている。だが、この工法だとそれほど大きな空間は形成できなかったはずだ。即ち、
 より広い空間を作れるア-チ型工法(ロ-マ帝国は実施済)は、未だ知られていなかったのか。

 
 ミ-ソン遺跡の祠堂

   ホ-チミンのホテルで、早朝、朝食を待つ時間に、ピアノを弾き、写真の軍用バイクにまたがる。
 いかにもベトナムらしいのである。ベトナムにはバイクが似合う。自転車では遅い、車ではインフラ
 が不十分であり、価格も高い。日本のHONDAなどが進出し、ビジネスとして成功している。但
 し、車体は埃にまみれ汚い。法規上はヘルメットは必要だが、袖の下でO.K.とのことである。
 これも中華社会のワイロ文化の影響か。車の免許取得の費用は、大変に高額と聞く。

 
 ホ-チミンのホテルにて。

   1975年のサイゴン陥落の年、私は13歳であった。ホ-チミンの旧大統領官邸の前の広場に、
 このソ連製の戦車が野外展示されている。今日の感覚では如何にも旧式だが、陸続として
 サイゴン市内に侵攻して来た北ベトナム陸軍の戦車群は、やはり解放軍と言えるのであろう。
 大国米国が初めて負けたこの戦争。盛者必衰の理か。北爆も効果は無かったのである。
 米国の威信もベトコンの徹底的抗戦により地に失墜したのである。

 
 1975年、サイゴン(現ホ-チミン)陥落時に侵攻したソ連製戦車

 
 サイゴン陥落の写真

  ベトナムの学生は陽気である。その日はたまたま卒業式の日であり、親に感謝する日でも
 あった。学生たちから、親への感謝の印として、私も胸に赤い花を付けて貰った。


 
 ホ-チミン市内の学生の卒業の日。有名な歴史ある郵便局を背景にしている。

 
 ホ-チミン市内、親に感謝する日で花をつけて貰う。

   既に11世紀より、宮中で娯楽として催行されていたこの独特な水上人形劇は、見ていて
 面白いが、話の筋はさっぱり分からない。英語の字幕でもあれば良かったかと思う。
   世界各地に人形劇は数あれど、水上劇とは大変に珍しい。勿論、水上影絵劇もあるが、
 この影絵の方はシンプルな作りである。

 
 ホ-チミン市内の水上人形劇の劇場

 
 水上人形劇では、日本民話の「金太郎」のようなコスチュ-ムである。

   ベトナムとは、私にとって何なのか。農業国であり、発展途上国である。中国でなく、やはり
 東南アジアの国である。但し、イスラムやフランスやアメリカの文化的影響の面影は余り感じない。
 昇龍の形に似て、南シナ海西岸に防波堤状に横たわるベトナムの地形は、特長的である。北部
 から南部まで飛行機で2時間。海岸線は3260kmもある。人口は8880万人(2011年)であり、
 六つの声調を持つベトナム語を話している。文字ははクオック・グ-でありアルファベットに似ている。
 英語も良く通じ、貨幣の単位(ドン)は、日本の「銅」に由来すると言う。このようなベトナムは、
 やはり、日本の昔を思い出させる懐かしい国である。BRICS+V として、発展を祈りたい。

 【2014年07月】
            【 京都大学・化学研究所での懐かしい納涼Party 】

   37年振りに母校の納涼Partyに参加した。もう37年が過ぎたのかと感慨無量である。ここは
 洛南の宇治黄檗駅近くの五ケ庄にある京都大学の研究所群が林立する宇治キャンパスである。
 毎夏のこの時期に開催される化学研究所の同窓会「碧水会」の恒例の納涼Partyである。
   OBとして会費\3000を支払い、立食とテ-ブルの両形式で、大勢の院生と教官、事務職員で
 大いに賑わった。ほろ酔いしながら、追憶は昭和51年、52年に飛んでいくのである・・・・ 。

 

 
【2014年06月】
            【 奈良県黒塚古墳の散策 】

   私は地理や歴史が大好きであり、更に城郭や古墳も好きである。だから、愛車のバイクに
 跨り、しばしば歴史的遺跡を散策するのが楽しみである。特に、畿内は歴史の宝庫であり、
 言うまでもなく、大和の国は日本国家の発祥の地であり、歴史的興味は汲めども尽きない。
   ここ奈良県巻向近くの柳本にある黒塚古墳は、夥しい枚数の「三角縁神獣鏡」が発掘され
 たことで極めて有名になった。中国の史書にも記載されているように、かの卑弥呼へ送られ
 た銅鏡である。ただし、中国由来の物か、倭国で作製された物かは、未だに不明である。

   この黒塚古墳は、藩政時代は織田柳本藩(1万石)の陣屋があった所であり、古墳であり
 ながら僅かに藩庁の佇まいを残している点が、城好きかつ古墳好きの私には嬉しい。本当
 に低い丘を登れば、淀んだ堀割の水面があり、侘しい観もあるものの古墳&古城である。
 この小ささは一万石の極小藩なれば致し方ないが、丹波・柏原の織田家も一万石である。
 織田信長の最大版図は約二百万石はあったろう。それを思うと織田家の末裔は寂しい。


 
 三角縁神獣鏡が散見される。

 【2014年05月】
            【 中部地方のバイク・ツ-リング散策 】  (2014.05.14-20)

   薫風香る五月はバイクツ-リングの季節としては最高である。紫外線はきついが、顔にUVカット
 の白塗りをして長袖を着れば事足りる。愛車(ホンダ・ス-パ-カブ・110cc)にまたがり、10万円を
 懐に入れ、一週間から十日の予定だ。初日は関ヶ原を抜け、美濃、飛騨を目指すのである。
 旅をする幸せ。私の最大の趣味である。大阪・寝屋川から飛騨までの移動日となった初日の
 宿は、飛騨古川YHであり、映画「女工哀史」の主人公(主演は大竹しのぶ)の故郷である。

 
 小諸ユ-スホステルにて

   二日目の安房峠越えは雪で途絶(安房トンネルは125cc以下は走行不可)。小雨の中、高山
 まで戻るも野麦峠も同様に途絶。更に南下して、木曽よりやっと諏訪湖へ抜ける。素晴らしい
 湖の風景だ。ビ-ナスラインを経て白樺湖も見ず、蓼科山を背にして小諸へやっとたどり着いた。

   このYHは何度もお世話になっているが、数年前、東北より南下して栃木あたりからこのYH
 を予約したが、雷鳴が轟く豪雨の中、碓氷峠を越えるのは危険と判断し、予約をキャンセルした。
 このことをこの機会に謝ったら、こころよく理解してくれたそのペアレントさんのおもてなしに感謝
 している。"小諸なる古城のほとり、雲白く遊子悲しむ "ではあるが、信濃の旅情は暖かい。
 美味しい夕食に缶ビ-ル3本。ホステラ-3名でペアレントさんの説明による小諸案内を聴き、しばし
 旅情も慰められた。千曲川沿いの文学・詩歌の地:小諸は、穴城の小諸城址(懐古園)でも広
 く世間で有名である。夕闇が迫ると、まさに"暮れゆけば浅間も見えず、歌哀し佐久の草笛"
 の詩情は、信州にまた来れたことの幸せを溢れさせるのでである。

 
 軽井沢の分かれ(中山道と北国街道の分岐点)

   三日目は今回のツ-リングのメインとなる富岡製糸場を目指すが、その前に軽井沢の分かれ
 の歌碑でしばしバイクを止める。歌碑に記載された文章がなかなか良く、下記の詩句も良い。

        さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを追分の宿

  
江戸から碓氷峠を登り来て右に往けば更科の地で、水田に映る月の名所。左に往けば
 遠く関西の吉野山に至り、そこは余りにも有名な桜の名所。その北国街道と中山道の分岐
 点が、ここ追分の宿である。遥か京は遠い。天下を狙うには、この地は余りにも遠すぎる。
 かの長尾景虎(後の上杉謙信)も、義の聖戦の為に、幾度かこの地を通り関東へ毘沙門天
 の旗印を進めたことであろう。信濃国は信州であり、神州に通じるのである。

 
 碓井峠の信越本線の旧鉄道橋

   新緑の中、碓氷峠をバイクで下れば、旧信越本線の鉄道歴史遺産に触れる発見があった。
 歴史の重みを感じるのである。特に上記写真の鉄道橋には、その偉容に感動で涙するもの
 がある。明治時代の当時、殖産興業上、信越本線の開通は急務であり、国家事業であった。
 日本海の海産物は勿論のこと、特に生糸の材料となる繭を富岡の地へ輸送する必要があ
 ったからである。見事なレンガ積の橋脚群を見ると、日仏技術の見事な合作に驚くのである。
 旧信越本線の勾配は、平均66/1000である。さぞかし難工事であったことであろう。

 
 碓井峠の信越本線の旧トンネル

   このトンネル内を当時の汽車が走っていた。今は遥かに昔ではあるが、実際にトンネル内を歩
 いてみると、やはり狭いと思う。(当時は、狭軌の列車だったか)。往時へのタイムトンネルである。

   この碓井峠を帰省の際によく利用した東京音楽学校の学生(高野辰之)は、信越本線熊の
 平駅付近から眺めた錦秋の情景に、名曲「紅葉」
を作詞したのであった。作曲は岡野貞一。
 確かにこの「紅葉」は名曲であり、♪秋の夕日に照る山紅葉、濃いも薄いも数ある中に・・♪
 は、いつも日本人の郷愁をそそり、二部合唱で歌えば、更に山は燃えて、旅情は深まるの
 である。春の桜と同様に、彩なす秋の紅葉と枯葉は、日本人の無常観を醸成したのである。

 
 富岡製糸場の正門

   ここ富岡製糸場は、ゴ-ルデンウィ-クのラッシュも緩和されたが、5/16金はそれでも開門前より
 多くの人々が集まっていた。よくぞここまで保存していたものである。"売らず貸さず壊さず"
 の方針を墨守し、遂に世界遺産への勧告を獲得したことは、誠に頭が下がる思いである。

  ボランティアガイドの叔母さんによる45分間の案内を受けゆっくりと見学した。(入場料=500円)
 近代日本を支えた白いダイヤとしての生糸は、実に明治五年より茲から生産が開始されたの
 である。明治新政府の首脳達の卓見・先見性に対して、深く敬服し自ずから頭が下がる思い
 なのである。

 
 富岡製糸場の繰糸場

   ガイドさんの説明は簡潔で解りやすかった。この繰糸場で多くの工女が一斉に並んで操業
 していた姿が瞼に浮かぶ。近代日本の産業を支えた彼女たちに感謝の念を抱く。当時は、
 照明設備がなく、太陽光が入る時間帯(1日8時間以内)内での操業であり、季節で変動した。
 ただ、繭を煮て糸を繰り出すわけで、所謂、繭の蛹臭いはやはり不快なものであった。その
 ために、天井は高く、二重の屋根はその臭いを自然排出するようになっている。機械の動力
 は石炭の燃焼による蒸気力であり、現在のような電気を用いた局所排気装置はなかったの
 である。環境問題もまだ深刻ではなく、公害問題は揺籃期の牧歌的雰囲気であったろう。

 
 富岡製糸場の繰糸場

   一等工女を目指して頑張った、全国からの工女たちの在りし日々の姿である。こうして、
 この工場内に佇んで、私の長年の願いも叶えられたのである。なぜ、私は製糸業に心惹か
 れるのか。それは、近代日本の最初の産業が製糸業であったからである。そして、シルクの
 魅力もある。更に、当時、欧州のシルク産業が壊滅した事は、日本にとっての幸運であった。
 生糸の輸出による外貨の獲得で、日露戦争の戦費を得たことはよく知られている。戦艦の
 購入費がなければ、あの日本海海戦の劇的な勝利もなかったのである。

 
 荒船山・艫岩の偉容

   富岡製糸場から西南西方向を眺めれば、特異な山容を持つ荒船山(標高1,423m)が有る。
 なんだこれはと驚き、予定を変更してバイクを走らせた。佐久市にある荒船山は日本二百名
 山に入るが、巨大な船のように見えるこの荒船山の船尾にある艫岩(トモイワ、上記写真)は、
 高さ200mで垂直に切れ落ちる。過去、漫画「クレヨンしんちゃん」の作者:臼井儀人が転落死
 したことでも知られ、艫岩は硬い岩盤であり、上はかなり広くて、20人程度が乗れると聞く。
 頂上は笹原であり、そこに至る登山道はある。しかし、危険な山なのである。

 
 日露戦争の記念艦「三笠」

   四日目は前夜の秩父の旅館に素泊りの後、八王子を経由して横須賀へ急いだ。坂の港町
 の横須賀だが、ここにある観光資源は記念艦「三笠」であることは言うまでもない。三笠へは
 二度目の乗船となる。NHKの「坂の上の雲」を想起する。日本がまだ元気な頃、上り坂の頃を
 彷彿とさせる。T字戦法は余りにも有名ではあるが、大艦巨砲主義が後の太平洋戦争の敗因
 の一つになったことは否定できないであろう。この小さな戦艦「三笠」の艦上で、無防備の甲
 板で指揮を執った東郷平八郎、秋山真之らの志は如何ばかりであったろう。まさに恐露の心
 境であったであろう。
しかし、バルチック艦隊に対する勝算はあったのかもしれない。緻密な実
 行計画と戦闘員の訓練、優れた下瀬火薬砲弾等の心技体に裏打ちされてい
たからである。

 
 鎌倉の長谷の大仏

   鎌倉七口のひとつである大仏切通しに近い、長谷の大仏である。大きさでは奈良の大仏に
 及ぶべくもないが、なぜか可愛らしい印象である。ここも、とても外国人観光客が多かった。
 「鎌倉はせYH」に荷物を置いて、急いで歩いてここまで来たが、胎内めぐりの入洞時間には、
 少しの差で間に合わず残念であった。鎌倉のシンボルの一つであり、米国のオバマ大統領が
 幼少の頃に好んだという「抹茶アイス」があり、これも有名になった。
   七里ヶ浜は近い。武士が造りし都:鎌倉の開闢以来、仏はどんな騒乱を聴いて来たのか。

 
 鎌倉の日蓮辻説法跡

   鎌倉仏教の最後の登場者にして、強烈な個性を持つ日蓮上人の辻説法の跡である。この
 場所は若宮大路より東側の路で、鎌倉幕府の建物より南に位置している。安房国生まれで、
 比叡山で修業し、釈迦の五時八経の教えの中で、法華経の文底秘沈の「南無妙法蓮華経」
 こそ二つの国難(自界叛逆の難、他国侵逼の難)を回避し得ると、高らかに「立正安国論」を
 以って、時の執権:北条時頼(最明寺入道)を諫言した。その強烈な個性はどこから生まれた
 のであろうか。余談ながら、他国侵逼の難(蒙古襲来のこと)は、当時の渡来僧より元帝国の
 情報を得ていたであろうから、予言ではなく、必至の未来予測であったと言うべきであろう。

   さて過日、私の友人であった故O氏(某大学・助教授)は、彼の著作を私に謹呈してくれた。
 その著作を読むと、日蓮の稀有なる出生の秘密が、その強烈な個性を育んだと思えるので
 ある。"真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊"(以上、四箇格言と言う)と、他宗を批判した
 日蓮聖人の真意とは何か。強烈な使命感に支えられたいた事だけは、間違いはあるまい。
  "旅客来りて嘆いて曰く、 "の冒頭句から始まる「立正安国論」は、蓋し不朽の名作である。
 また、"日蓮が魂を墨に染め流し書きて候ぞ信じさせ給え。佛の御心は法華経なり、日蓮が
 魂は南無妙法蓮華経なり。"の叫びは、真摯な教祖としての熱い絶叫であると、私は信じる。

 
 小田原城天守閣

   五日目の午前中は、二度目の小田原城の散策となった。日本の城郭の一つとして、特に
 特筆すべき城郭ではないが、箱根路の入口に位置する守りの城としての思いがある。だが、
 それにしては、平山城と言うより平城に近い感じで、防御上の堅固さは如何ばかりだったか。
 小さいが美しい姿の、これも連立天主閣である。相模の海(湘南の渚)に似合うと言うべきか。
 この城は無論、江戸時代の城であって、後北条氏五代が繁栄堅持した小田原城そのもので
 はない。秀吉と家康の大軍による所謂「小田原攻め」の対象となった往時の縄張りではある
 まい。城もまた太平の世には変容するが、関東への入口に位置する小田原城は、その地勢
 学的見地から、やはり極めて重要であると知るべきである。

 
 熱海海岸の貫一お宮の像

   巷間、余りにも有名な尾崎紅葉の未完となった小説「金色夜叉」の名場面の彫像である。
 第一高等学校の学生:間貫一と許嫁の鴫沢宮。お宮は、貫一との結婚を前にして、富豪の
 富山唯継の所へ嫁ぐ。激怒した貫一は、熱海の海岸でお宮を問い詰めるが、お宮は本心を
 明かそうとはしない。貫一はお宮を蹴り飛ばし、復讐のために高利貸しとなる。金権主義が
 台頭した時代の実験小説ではあるが、"来年の今月今夜、僕の涙で必ずこの月を曇らせて
 みせる。"の名セリフは、現代人にはいささか芝居臭いが、当時は大いに受けたそうである。

   関東における新婚旅行のメッカだった熱海の街も今日はややさびれ、往時の繁栄も旧聞
 になりつつあるが、東京からの近さと箱根の湯元であることに代わりはない。私個人として
 は、かって湯河原に在りて、一期一会の宴席にて、甘露に酔いしれた昔日が今は懐かしい。

 
 十国峠の源実朝の歌碑

   熱海から一路バイクで峠を登り来て、この十国峠をゆっくりと散策した。そして、上記写真
 の源実朝歌碑に辿り着く。沖の小島(初島)や伊豆大島の眺めが、まさに伊豆の風景である。

   箱根路を われ越え来れば 伊豆の海や  沖の小島に 波の寄る見ゆ (金槐和歌集)

 若い実朝は、しばしば箱根権現に自らの幸を祈り、箱根路を越えて参詣していたと伝わる。
 26歳で斬殺された悲劇の第三代征夷大将軍:源実朝の、悲憤が伝わって来るようである。
 その日は、鎌倉に雪が二尺ほど積もった冬の日であった。時は建保7年(1219年)1月27日。
 鎌倉幕府における源氏直系の血脈が絶えたその日である。

 
 箱根・大涌谷

   もう何度も訪れている箱根・大涌谷であり、活きた箱根を実感できる観光地である。右手
 西北方向には、素晴らしい白雪を頂く霊峰富士の雄姿がある。これぞ日本の絶景なのだ。

   ほとんどの観光客と同じように、温泉卵(表面黒色、5個で500円)を完食すると、ふりかけ
 た食塩が甘辛い。ここも、外国人、特に中国・台湾・東南アジアの人がほんとうに多い。この
 腐乱臭(硫化水素)を嗅ぐと、ここ箱根・大涌谷が箱根火山の内輪山であることを実感する。
   五日目の宿は、乙女峠を越えた御殿場YHであり、富士の高嶺が更に真近に迫った。

 
 馬籠・中山道跡

   六日目は甲府の釜無川沿いの信玄堤を見て、高遠から伊那谷・木曽谷へと西へ横断した。
  "木曽路はすべて山の中である。"で始まる名作「夜明け前」の舞台となった中山道・馬籠宿
 に至る。近くにある妻籠宿と同様に、最近とみに外国人観光客が多い。今回の旅でも、この地
 の展望台で、恵那山を眺めていた若くて極めて美しい女性のチェコ人(プラハ出身)と出逢った。
 彼女としばしの間、英語で会話をして、実に楽しい時間を過ごした。日本の原風景に対して、
 やはり、
欧州人も潜在的に憧れるものなのだろうか。日本文化は、山と森と海の文化である。
   急な石畳みにそよぐ春風が、如何にも中山道らしい山道の春の旅情を、香している。

 
 東美濃の岩村城

   前夜は中津川の「木曽ふるさとYH」に泊り、七日目は大阪への帰参日となった。だが、途
 中の
日本三大山城(他は、備中松山城、大和の高取城)のひとつここ岩村城を初めてゆっくり
 と散策した。織田・武田・徳川の勢力境界に位置し、織田信長の叔母が女城主となったもの、
 その女城主が武田方の家臣の妻となったことで数奇な結末となったこの山城は、堂々とした
 縄張りであり、実に見応えがある往時の曲輪と石垣であった。歴男の私は大満足であった。
   蛇足ながら、明治期、この岩村の地は幾多の名士を輩出したことでも有名であり、今日の
 実践女子大学の創立者:下田歌子女史は、まさにその好例である。

   最終日(七日目)の午後は、名古屋から桑名、四日市を過ぎ、関宿より加太越えにて、伊賀
 上野に至り、木津川沿いに、ひたすらに自宅のある寝屋川を目指して走行したのであった。

   以上、僅か七日間の中部地方バイク・ツ-リンクで、今回も多くのことを旅で学んだ。旅こそは、
 私の最大の趣味であり、学びの場であり、いつもながら大きな楽しみ、喜びなのである。

 【2014年04月】
             【 大阪トルコ日本協会主催のバ-ベキュ-(BBQ) 】

   最近、大阪トルコ日本協会の会員となり、更に協会の行事に頻繁に参加するようになった。
 4/20の日曜日、楽しみにしていたバ-ベキュ-行事に参加し大いに本場のトルコ料理を堪能した。
 お腹はもちろん一杯となり、日本語と英語での会話も弾みで、心も大満足だった。
   初めて訪れた堺市・大泉緑地は素晴らしく、葉桜前の芝生の上で、食事・競技・会話満載の
 異文化間国際交流は、いつもながら楽しくて有意義だ。

   今回の参加者は普段よりかなり多くて、家族の子供たちも多く来ていて、実に楽しかった。
 ここで一つ納得したことは、トルコ人と一口に言っても顔が多種多様であることだ。ゲルマン系、
 スラブ系、アフリカ系、インド系、正に、小アジアのが文明トルコの十字路であることの証左だ。

   日本・韓国・中国の人々の顔はトルコ人ほど千差万別ではない。今更ながらル-ツに納得した。
 私は、幸いにも今年一月にトルコ(とチュニジア)を旅行した。そのトルコの印象は"中途半端な国"
 と言うことだ。アジアでなくヨ-ロッパでもなく、キリスト教文化でなくコテコテのイスラム教でもなく、砂漠で
 もなく草原でもなく、先進国でもなく低開発国でもない。まさにごった煮のイスタンブ-ルのようだ。
 そのトルコは世界でも大の親日国であり、近年、日本人でトルコに観光に行く人は甚だ多い。

   トルコの歴史・風土・文化についての考察は、後日の機会に譲るとして、バ-ベキュ-なのに、
 ビ-ルが一滴も飲めなかったのは、イスラム教戒律的でトルコらしいが、やはり少し辛かった。
 だが、花冷えの中、トルコ様式の温かい紅茶を飲んで、やはり心はほっこりと温まったのだ。

 
 堺市・大泉緑地のバ-ベキュ-会場にて

 
 トルコの子供たち

 【2014年03月】
            【 関西の異業種交流会 】

  
将来の起業を目指して、最近は海外旅行と異業種交流会への参加に励んでいる。スマホも
 最新機種(AQUOS PAD)に変更した。関西に約六百種あると聞く異業種交流会について考察
 する。
   そもそも異業種交流会の目的は、ビジネス拡大を目的とした人脈拡大である。その範疇には
 当然、顧客や販路の拡大、婚活や就活も含まれるであろう。地域や年齢層及び業界は巾広い。
 特に参加人数が多いのは、やはり損保業界の関係者であろう。

   私が毎月ほぼ定期的に参加している異業種交流会は、現在、以下の6つである。

 ①関西ビジネス交流会****** 梅田で第三水曜日の夜に開催
 ②異業種交流会「ゼンタ」*** 阪急塚口で第二火曜日の夜に開催
 ③異業種交流会「しくたわ」** 堺筋本町で第二木曜日の夜に開催
 ④「阿波座会」************ JR野田(又は、堂島)で第二金曜日の夜に開催
 ⑤「天通会」************** 不定期で昼間に開催
 ⑥「大阪トルコ日本協会」**** 不定期に開催 #私は左記協会の会員である。

 
 そして、私自身が主催している独身男女出逢いの会(通称:ウッシ-文化サロン)「四土会」もある。

   上記①~③は、第一部講演会、第二部交流会の二部構成である。会費、開催場所、参加人
 数はまちまちであり、毎回配るプライベ-ト名刺の準備と参加者から頂く名刺の整理(Excel化)に
 は手間がかかる。しかし、電子化してスマホに保存したDataは、いつでも活用できるものである。
   言うまでもなく、人脈は重要である。Know How よりも、まずはKnow Whoと知るべきである。
 この"人脈拡大"を手軽に得られるのが、この異業種交流会である。ただし、参加メンバ-に対し
 ては積極的に対応しなければ、参加する意味がない。積極性は極めて重要である。


 
 異業種交流会「しくたわの会」      

       
  第7回てづくり アジア写真展 への出展 】

 
 大阪現代画廊での出展( 左側-カッパト゚キア風景、右側-マレ-シアのイスラム女性 )

 【2014年02月】

             【 金山古墳の散策 】

   大阪府南河内郡河南町芹生谷にある金山古墳をバイクで訪れた。葛城山系の西側丘陵の
 傾斜地に、大小二つからなる日本でも珍しい双円墳が南北に並ぶ。南北丘は、各々三段と
 二段で、直径は55mと39mであり、前方後円墳時代後の六世紀末~七世紀の築造とされる。

   陽射しは暖かいが風はまだ冷たいこの古墳で、妻と私の合作の弁当を食べると、やはり、
 古人(イニシエビト)の声が微かに聴こえそうだ。だから私は古墳等の古き建造物が好きである。
 人々がこの地で往時確かに生きていたという圧倒的な証拠を、肌で実感できるからだ。その
 名も無き人々の幾多の配偶の結果の一人として、現代に生きるこの私が実存するのである。

   この古墳の被葬者は不明で、既に盗掘されていて、歴史的かつ学問的価値は低いのかも
 しれない。しかし、前方後円墳の次は双円墳へと変遷した。これは何故なのだろうか・・・・・、
 とそんなことを考えながら、私は昼食を終えて、飛鳥へとまた110ccのパイクを走らせた。

 
 金山(kanayama)古墳での昼食

 【2014年01月】
          
 【
トルコ&チュニジア13日間の旅行 】  ( 2014/1/15-27 )

 
 関西空港からの出発

  
毎回、出発直前は缶ビ-ルを一杯。深夜便なので機内食はパスし、アルコ-ルで補給(笑い)。
 最近は頻繁に海外旅行をし、関空は慣れたものである。関空が開設されてはや約二十年。
 西日本の表玄関として盤石ではあるが、隣国の韓国仁川空港に比べれば劣るのである。

 
 シュリ-マンの発掘によるトロイの遺跡

   トロイ戦争の舞台である。トロイの遺跡である。シュリ-マンの熱意に脱帽する。しかし、・・・・
 ある日、シュリ-マンは発掘現場で金の遺物を大量に発掘した。そして、発掘現場の関係者に
 お金と休暇を与え、彼らを現場から遠ざけた。自らは密かに発掘を続けそれらの貴重品を
 持ち出し、国外に逃亡した・・・・・。歴史の栄光に架かる、歴史の負の側面である。

 
 ロ-マ時代のエフェソス遺跡の劇場

  
この遺跡に佇むと、古代ロ-マ人の歓声が聞こえる。人間は、皆、そうではないだろうか。
 人類が築きし悠久なる世界文化遺産に、人は皆、本能的に感動するのである。もし、感動
 しない人がいるとしたら、その人は強欲で拝金主義者の悲しい人間と言わねばならない。

 
 
ヒエラポリス遺跡の石灰棚

   珍しい石灰棚である。温度は35℃と熱くはないが、足湯を楽しんだ。このヒエラポリスの遺跡
 には、かのクレオパトラが入浴したと言う温泉もある。日本には無い温泉の石灰棚は遠景として
 見ると、その景色は壮大な奇観である。トルコもまた日本に似て、火山国、温泉国なのである。

 
 コンヤにあるメブラ-ナ博物館(コ-ランの原本で有名)

   ここに展示されているコ-ランの原本は、一字一句も改変されず今日に伝えられている。
 イスラムの教えも、基本的には正しいのである。一部の過激なテロリストの誤解釈を除けば・・。
 神の言葉を預かった預言者(*)としてのマホメット。当時は、やはり正しい教えだったのである。
  (注*; 予言者ではく、預言者である。)

 
 カッパドキアのトルコ絨毯専門店(少女は、10代の絨毯の織り子)

   嬉しく、美しい記念写真である。日本とトルコの国際交流として、オッサンと美少女のツ-ショット
 は、自分ながら微笑ましい。・・・・・。カッパドキア名産の赤ワインを飲み、白ワインも飲み、次々と
 サ-ビスする店員さんたちには誠に悪かったが、結局、絨毯は1枚も買わなかった。(笑い

 
 カッパドキアの風景

   これぞカッパドキアの風景。無数の各々の穴は、実際に暮らした住居の入口の跡であった。
 草原の裾野に林立する奇岩・奇峰の群れは、不思議な光景であった。しかし、穏やかで、
 どこか素朴で懐かしく、我々人類の狩猟時代のDNAを想起させる原風景のようである。
   ただ、懸念されることは、
凝灰岩に含まれる沸石の一種エリオン沸石は中皮腫を引き起こ
 すことがカッパドキアで確認されている。(出典; Wikipedia)
だが、発癌物質の暴露から発病迄
 に一般的に30~40年かかると言われているので、今日ではそのような人は少ないであろう

 
 カッパドキアの洞窟家族を訪問して

   実際に住んでいる家族を訪問した。これはトルコツァ-ガイドさんの厚意であった。スト-ブで暖
 を取っていた。質問の時間もあり、逆質問の時間もあった時、この写真の少年が質問した
 一言に、我々一同は大笑いした。"
どうしてここには、大人ばかりしか来ないの ? "と。

 
 カッパドキアの風景、同行のI君とのツ-ショット

   この大空に観光用の気球が漂う。O.P.料金は\20,200は、果たして安いか高いか。私に
 は高いと思える。高所恐怖症だし、過去、事故もあったことだし、搭乗体験はパスした。乗っ
 たメンバ-五人は良かったと言っていた。惜しかった気もしたが、\22,000はやはり高額だよ。

 
 カッパドキアの空港(カイセリ空港)からイスタンブ-ルへのフライト(トルコ航空)

   僅か1時間半のフライトであるが、トルコ中央部の西半分を西から東へ横断飛行する。タラップ
 での乗り降りは久しぶりであり、いかにもロ-カル線だ。我々が乗ってきたバスは、カラで10時間
 かけて地上をイスタンブ-ルへと向かった。運転手は気分は気楽でも、体はやはり疲れるね。

 
 イスタンブ-ルのボスポラス海峡クル-ジング(背景は黒海側、手前側はマルマラ海)

   欧亜を隔てる憧れのボスポラス海峡である。幾多の興亡の舞台となった。この地形は天然
 のものであり、自然の妙である。この近くの「金角湾」は世界史上、東ロ-マ帝国の滅亡の原
 となったコンスタンチノ-プル陥落(AD1453年)の秘策の現場として、余りにも有名である。

 
 イスタンブ-ルのブル-・モスクの内部

   アラブ世界の文化の精華である。毎週金曜日の集団礼拝では、この一舛毎にびっしりと
 イスラム教徒が正座して礼拝する。日本の東京でも決して見られない壮大な光景だ。丸形の
 ド-ム屋根と四方の尖塔は、イスラム教文化の象徴だ。

 
 イスタンブ-ルのグランド・バザ-ルにて、ケバブを買って食べる

   バザ-ルは楽しい。ついついトルコ名物のケバブを買って食した。雑踏の中、迷子にならない
 ように、方向感覚を研ぎ澄ましながら、この喧噪の異文化(アラブ世界)を楽しんだ。世界の文
 化の基本は同じであり、即ち、衣食住である。ただ、芸術は大きく異なってくるのだが・・・。

 
 イスタンブ-ルの夜景、夕食レストランの前にて

   ボスポラス海峡の夜景は、ただただ美しい。イスタンブ-ルはまさに海峡の街である。しばらく、
 例えば、3ケ月で良いから住んでみたいと思った。それは何故だろうか・・・・・。イスタンブ-ルの
 街に憧れるのはなぜだろうか。そこには、何か深い深いsomethingがあると思うからだろう。

 
 カルタゴにあるロ-マ三大浴場の跡

   日本が未だ弥生時代の頃、ロ-マは偉大な建築技術を誇っていた。ロ-マ市民が愛するが故
 に、ロ-マ帝国の為政者達がロ-マ市民に提供したもの、それらは「パンとサ-カスと浴場」である。
 浴場の為に水道橋を作って遠方より水を運んだが、享楽を支えたのは多くの奴隷であった。

 
 チュニスの旧市街(メジナ)の城門

  
チュニスの人々にとって、旧市街(メジナ)内の市場(ス-ク)には日用品が溢れている。人々が行
 き交う喧噪の中、しかし、危険性や不安感はなく、異文化の市場を充分に楽しめた。海外か
 らの観光客も多い。アラブの混沌たる雰囲気を実感するには、まさに市場の散策につきる。

 
 チュニスの大聖堂の入り口

  チュニスの大聖堂は、外概は一見シンプルであり、高い壁に囲まれていて内部がよく判らない。
 しかし、内部は多種多様で、タイルで敷き詰められた壁はイスラム教的である。装飾が細部にま
 で行き届いていて、木と紙の建築文化に慣れた我々日本人は、まったくの異文化に酔う。

 
 ショット・エリ・ジェリド壮大な塩湖の風景


  
広大な大塩湖は、圧倒的な存在感で、アトラス山脈の南側に広がる。もし、この地でテントを
 張り一晩を過ごしたとしたら、どんな声が聞こえてくるだろうか。恐怖に耐えられるのか ?
 満天の星空は素晴らしいことだろう。占星術やタロット占いの発明が、きっと首肯できよう。

 
 9日目の宿泊ホテル

   トズ-ルの街は、かって「ロ-マン・アフリカの果て」と呼ばれ、アルジェリアとの国境に近い大オアシス
 だ。宿泊したホテルであるホテルハフシは、何の変哲もない。しかし、ナツメヤシのオアシスは北アフリカ
 最大であり、乾燥ナツメヤシのお土産は日本の干し柿に似てとても美味であった。

 
 四輪駆動で行ったジャメル砂丘

   ドライバ-の彼は、やはりベルベル人の子孫であろう。ベルベル人とは、「訳の解らない言葉を
 話す民」、と言うのが原義である。文明の発祥の地のエジプトやメソポタミア、ギリシャの民から見
 れば、この地のマグレブ(北アフリカ)の民は、貧しい野蛮な外国人・砂漠の民だったのだろう。

 
 ジャメル砂丘の日の出

   大砂漠での日の出。こんな風景は、日本では勿論、見られない。日の出前後の明るさの
 変化や気温の変化は著しい。明けの明星(金星)も、日の出で直ぐに見えなくなったのだ。
 まさに、♪「朝日が地平線から光の矢を放ち・・」(*)であり、感動的で得難い体験であった。
   (注*) 名曲:瑠璃色の地球では、「朝日が水平線から光の矢を放ち・・・」とある。

 
 駱駝の初の乗り体験

   時速4km、一日40km、半年かけてシルクロ-ドを走破した先人達の苦労が偲ばれる。上下・
 左右の揺れが激しく、足を置く鐙(アブミ)も無いので辛い。何故、アブミが発明されなかったの
 かは知らないが、二瘤駱駝の方が少しは動きも安定するのでは、と思ったものだ。

 
 10日目の宿泊(洞窟ホテル ディアル・エル・ベルベル)

   掘れば拡張できる凝灰岩の洞窟部屋。花瓶棚などはすぐに作れそうだ。ただ、剥離し易
 く、少しザラザラしている。そして密閉性が完璧だ。この写真のように、絨毯は必須である。
 トルコ文化は絨毯文化でもある。お湯の出は、やはり十分に満足とは言えなかった。

 
 エルジェムの円形闘技場

   じっくり時間をかけて見学したこの円形闘技場。約二千年の時を超えた圧倒的な感慨だ。
 剣闘士vs.剣闘士、剣闘士vs.猛獣の命を懸けた戦いであり、ロ-マ帝国市民の熱狂の歓声が
 未だにこの闘技場の石の壁、それぞれの積み石に沁み込んでいる気がするのである。

 
 ス-ス市内のデパ-トにて

   結構、品数もあり充実している。地中海の港街であり、フランスの香も漂っている。衣料品の
 センスは決して悪くは無い。価格も日本人にとってはリ-ゾナブルと言えよう。ただ、やはりデパ-ト
 の外の路地は喧噪の路地である。庶民の暮らしが随所に偲ばれる。

 
 ス-スの五ツ星ホテル「ホテルオリエントパレス」

   地中海のリゾ-ト地。欧州人、特にフランス人が、バカンスによく訪れると聞く。チュニジアがかって
 は仏領だったせいもある。この五ツ星のホテルは、設備もサ-ビスは上質ではある。しかし、最後
 の晩餐の夕食は、残念ながら私の口に合う物はほとんどなかった。例外は果物だけだった。

         【 新年のご挨拶 】

  
2014年の新年を迎え、おめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
 今年のお御籤は大吉で、願いがすべて叶えられるとか。私としては、天職を見い出したい
 と思っています。
そして、何よりも芸道精進の為には健康第一です。食事と運動に気を付
 
けながら、減量20kgを達成したいと決意し、すでに2週間前より実施しています。
   新年1/15-27の13日間は、トルコ&チュニジアの旅です。異文化を大いに学んできます。

 
 四条畷神社

 【2013年12月】
           
【 自由都市堺の散策 】

  
自由都市堺の住民は、最近の堺市長選挙で大阪都構想に否を投じた。この件についての
 コメントは避けるが、やはり堺には自由の気風が残っているようだ。歴史的な事例としては、私
 はやはり与謝野晶子の代表作「
君死に給うこと勿れ」に思いを巡らすのである。結果として、
 晶子は当時の官憲等による迫害は受けなかったのである。信じられないことであった。特に、
  「
旅順の城は亡ぶとも亡びずとても何とてか。すめらみことは戦いに御自らは出でまさぬ。
 の詩文は、信じられない程の過激な反戦の意であった。( 一歩間違えば、不敬罪のそしり?)。

   当時の軍国主義の時代精神の中で、一女性歌人の詩文とは言えよくぞ無事であったもの
 だと思うばかりである。大逆事件や小林多喜二の虐殺を思う時、女性故の果報だったのか。
 下段の写真に、晶子の短歌「
海こひし潮の遠鳴りかぞへつつ 少女となりし父母の家」 があ
 る。時代を先取りしたような強い個性的な顔を晩年の写真で醸し出した晶子も、少女時代は
 可愛い乙女だったろう。そして晶子は恋をして、遥か鉄幹の居る欧州へ単身シベリア鉄道で向
 かうのである。当時としては、なんと自由奔放な女性だったのか=自由都市堺。それにしても、
 堺港は、江戸時代前期の大和川付け替え工事により、その土砂の流入によって港湾機能が
 漸次衰退して行き、その歴史的役割を終えたことは、誠に残念なことである。

   西洋史では「都市の空気は自由にする」と言う。自由都市堺は更に海外貿易の拠点であっ
 た。自由こそ堺の街の本質であり、利
休の茶道もまたそこに誕生したのである。

 
 旧堺港灯台にて。背景の対岸の壁画も自由な構図であり美しい。

 
 
与謝野晶子の生家跡の記念碑

 【2013年11月】
           
錦秋の京都に遊びかつ学ぶ 】

   毎年11月下旬、錦秋の京都では京大11月祭が開催され、私は毎年バイクで参加している。
 今年も11/23の最終日に参加し、例年通りのOBとしての学生気分を味わった。しかしながら、
 関西の雄、我が国第2位の総合大学の学祭にしては、いつもながら不満感が残るのである。
 即ち、硬派な気質が失われ軟弱に流れているきらいが感じられて久しい。理学研究科のある
 教授の言を借りれば、「いつの時代でもトップ5%は極めて優秀だが、残り95%の平均値が年々
 低下している。」。京大生にしてこの現状である。私は毎年、文系理系を問わず、展示の説明
 員に質問を投げかけるが、私の直球の質問には返答はあるものの、その応用性・見識を問
 う内容・社会上での意義についての所謂変化球の質問には、ほとんど答えられない。未だ学
 生だからと言ってしまえばそれまでであるが、関連分野・周辺領域の勉学不足と思われる。

   学生時代は、可能な限り自分の勉学の視野を広げ、広い見聞と高い見識を構築して欲し
 い。更に、苦言を呈するならば、特定の団体に属してその教義に呪縛されないで欲しい。多く
 の考えや異なる価値観にも触れて、啓発されてこそ、自らの思想は練磨されていくからだ。

 
 お祭り広場での模擬店の風景。高校の学園祭と変わりはない。

   三十数年ぶりに、宇多野YHに宿泊した。京都市内の各YHは新装なったこの京都市立宇
 多野YH(公営、収容170名)に一本化されたと言っていい。(参考; 清水YH(収容13名)もある)。
 広々とした敷地内の綺麗な部屋、豪華な設備。国際都市京都の顔として、外国人ホステラ-で
 賑わっている。私も同室となった英国人教師と英語でお喋りをして楽しんだ。このような高い
 QualityのYHが京都にあることは、日本人として嬉しく誇りにも思う。

 
 京都市宇多野の京都市立宇多野ユ-スホステル(YH)にて。

   今日登らねばいつ登れるか、今でしょうと思い、小雨の中、大文字山に登った。銀閣寺道
 の左脇道から汗をかきかき約四十分。大文字の大の頂点の火床からの京都市街は素晴ら
 しい眺望だった。千百年の悠かなる歴史を誇る平安京。応仁の乱後は、如何ばかりの荒廃
 した風景だったろうか。下りは約三十分。懐かしい金鍔を買い、公開学術講演会へ急いだ。

 
 京都市左京区の大文字山の大の字の火床。

   京都大学益川ホ-ルで開催された第52回玉城嘉十郎教授記念公開学術講演会「トポロジ-と
 カオス -隠れた構造を探す- 」の参加者は、一般の市民も多く約百名程度だった。講演タイトル
 は「トポロジ-と基本群」と「力学系に現れるカオスとフラクタル」であり、高度な数理世界に引き込ま
 れ前頭葉が熱く刺激され、院生時代を思い出した。(備考; 私の専攻は無機合成化学)

   特に、二重振り子の理論とデモンストレ-ション、解析シミュレ-ションは極めて刺激的であった。又、
 微分方程式が解けること(可積分性)は、むしろ例外であり、解けない場合がほとんどである
 との事実は、数理科学に対する幾分かの失望を喚起させられた。更に、未来予測に対する
 シミュレ-ションにおいても、初期条件の僅かな誤差で結果が大きく異なる所謂、カオス状態になる
 という事実も、更にやや失望させられるものであった。だからと言って、数理科学への信頼が
 瓦解する訳ではないが、「科学への過信は慎むべきだ。」と言う警鐘と捉えるべきであろう。

   自然の本質は単純かつ複雑である。自然を十分に理解することはまだまだ困難で路は半
 ばであるようだ。かのアイザック・ニュ-トンが述べたように、「広大な未知の大海を前にして、その
 浜辺で珍しく美しい貝殻を見つけて喜んでいるに過ぎない。」は、探究者としての謙虚な姿勢
 の思いである。

  
ところで余談ながら、現代数学の最も興味ある問題について紹介してみよう。それは難問
 中の難問である。現代数学の花形であるトポロジ-(位相幾何学)での問題である。
   前者の「ポアンカレ予想」は、2006年にロシア人のDr.グリゴリ・ペレリマンによる発表(1904年)の後
 約百年を経て遂に解決され、4年に一度のフィ-ルズ賞(数学界のノ-ベル賞)が授与された。が、
 しかし、鬼才の彼は受賞を辞退し、数学の世界から完全に姿を消してしまったのだ。

   このポアンカレ予想とは宇宙の形と構造に関するものであり、数学での言葉にすると、
      「 単連結な三次元閉多様体は、三次元球面と同相と言えるか ? 」
である。

   例を挙げると、「もし地球からロ-プを付けたロケットを飛ばし、宇宙を飛行し地球に帰還した
 として、その輪を成す一本のロ-プを左手側と右手側で同時に手繰り寄せた時、最後まで手繰
 り寄せられたなら、宇宙は丸いと言える。」と言うものである。

   ポアンカレ予想の正しさは、以下のように証明された。しかもトポロジ-ではなく、そのひとつ前
 の古い数学的手法、即ち「微分幾何学」によって証明されたのである。答えを急ごう。宇宙が
 とりえる形は、丸い形と、ド-ナツ状(ト-ラス)などの丸くない形の組合せの7種類で、最多でも合
 計8種類しかないのである。それはある奇抜な周り道の発想であった。

  
このサ-ストンの幾何化予想(1982年)とは、
      
「 三次元多様体は一様な幾何構造の断片に分解できるだろう。」である。

   ロ-プの絡み合いは高い次元では絡み難くなるのである。(例、ジェットコ-スタ-) より高い次元
 から次元を下げるアプロ-チを行えば、問題は易しくなるのである。宇宙の形がどんなに複雑で
 も最大8種類の断片の組み合わせでできている。

   ここで、コ-ヒ-カップとドーナツはトポロジ-的には同じものである。コ-ヒ-カップのカップ部分はカップ
 の持ち手の部分の一部にまで変形できるからである。従って、8種類の内の丸い形以外の7
 種類は、ロ-プが引っ掛かって手繰り寄せられないのである。つまり、手繰り寄せられのなら、
 宇宙は唯一手繰り寄せられる丸い形でしか有りえないと言うことになる。なんと凄いことか。

   Dr.ペレリマンの論文(2002年、2003年)
「 リッチフロ-の三次元多様体への応用 」を経て、遂に
 Dr.ペレリマンは、幾何化予想とポアンカレ予想の証明をインタ-ネット上に配信したのであった。これ
 らは数学者たちによる足かけ四年の検証を得て、その正しさが証明されたのであった。

         【 長崎市への帰省 】


  
母の大往生(95歳)で妻と帰省した。昨年の次兄の逝去(64歳)に続き、二年連続となった。
 
長崎の街は相変わらず美しい。この故郷で、母と次兄は人生のほとんどを過ごした。他方、
 私は大学進学で故郷を離れ、もう四十年以上の歳月が流れた。そして今や大阪人である。

   長崎市はいい街ではあるが、残念ながら日本の西の端である。産業は「観光・造船・漁業」
 であり、発展性は乏しい。人生を発展させるには、育った街と仕事する街は必要ならば代え
 るべきであり、私は幼い頃よりこの摺り鉢状の港町から脱出して県外に雄飛したいと、いつ
 も思っていた。大学院卒業時、もし良い就職先(例えば、長崎大学や三菱電機)への就職の
 話があったとしても、私の心は動かなかっただろう。西の端の港町で穏やかでささやかな幸
 せな人生もあっただろう。しかし、大学入学後から国内の旅を始めた私の眼には、県外の世
 界は余りにも広くて豊かであった。人は個人的幸せのみを追求してはいけないのだと思って
 いた。「無知無能は諸悪の根源である。」「世界の永遠に連なる自分の瞬間瞬間の生であり
 たい。」との思いは、長崎市で過ごした少年時代の私の強い信念であった。

  
母の世代の親族は、これですべて鬼籍の住民票を得た。次兄までが先に逝ってしまった。
 我らの世代は長兄と姉、従兄弟、従妹たちとなった。私の人生はどんなに長くてもあと三十
 余年か。だからこそ、価値ある人生に向けて、更に前向きに生きて行きたいと思うのである。

 
 長崎の観光老舗旅館「矢太楼」より長崎港を望む。撮影は妻のみどり。

 
 出島跡の出島ミニチュア模型。子供の頃、ここでよく遊んだ。( 当時は模型は無かった。)

 【2013年10月】
           
憧れのスペイン旅行 】

  
会社の同じ友人と5回目の海外旅行。いつも行先はすんなりと決まる。最初はカンボジア、
 以降
はマレ-シア、イタリア、欧州周遊(英・仏・スイス・独)、そして今回は憧れのスペインである。
   なぜスペインか。それは我が故郷の日本・長崎に少なからぬ文化的影響を与えたラテンの国
 だからでもあろう。ロ-マ文明とイスラム文化の栄華が残るイベリア半島。レコンキスタ運動と大航海時
 代、そして近代の絵画を中心とする多くの芸術。更に、闘牛とフラメンコは、スペイン独特である。

  
小学生の頃、ふと手にした歴史の本に、後ウマイア朝の城壁とム-ア人のことが記載されて
 いた。八世紀に北アフリカからイベリア半島に侵入したイスラム教徒の建国と北上、しかしキリスト
 教勢力による反攻とレコンキスタ(国土回復)。最後のグラナダ王国が滅亡し、アルファンブラ宮殿が
 無血開城されたその1492年は世界史上の重要な年である。既にカスティラ国のイザベラ王女
 とアラゴン国のフェルジナンド皇子が結婚し新生イスパニアが誕生し、コロンブスに支援を与えていた。
 その所謂、新大陸発見の年がまさに1492年である。スペインの栄光は、その後、スペイン無敵
 艦隊が英国海軍に壊滅させられるまでの約百年間ほど続いたが、短い繁栄だった。

   私にとっては、この1492年の故事が印象深い。グラナダ王国(ナスル朝)のアルハンブラ宮殿が、
 約30万のキリスト教兵士に囲まれ、もはや抗すべくもなく無血開城を強いられ、最後のイスラム
 王はアルハンブラ宮殿の鍵を渡し、背後のシェラネバダ山脈に落ちて行った。アルファンブラ宮殿を
 振り返って落涙したその時、王の母は言った。" 男として雄々しく守られなかったものの為
 に、女のようにさめざめと泣くがいい ・・・ " と、言い放ったこの言葉は実に印象的である。
 そして、タレガのギタ-のトレモノ奏法の名曲「アルファンブラの思い出」は、人々の琴線を爪弾き、
 「アランフェス協奏曲」と双璧をなす。ともにスペイン情緒を偲ばせる音楽の最高傑作である。
   こんなスペインの歴史的残り香と今のスペインの文化を享受した、幸せな旅の日々だった。

   帰国後、アルハンブラ宮殿の無血開城(1492年)を想起つつ、youtubeの演奏曲に歌詞を付
 けた。我ながらの自信作である。曲は勿論、「アルファンブラの思い出」である。

   
♪ グラナダの青き空  冬の朝に赤き城は白旗上げ
       国王は鍵を渡し  シェラネバタの山へ逃れ
      返り見るは  イスラムの花の城
      異教の民は  朽ちせしままに
      幾星霜住む人もなく  栄華儚し夢の城
      ああトレモロ  ギタ-を弾く
      ああ思い出  アルファンブラ
 

 
 大韓航空のビジネスクラスにて(旅行社によりアップグレ-ドされた) 快適な座席である。

   格安パックツァ-は当然、エコノミ-クラスである。しかし、今回アップグレ-ドの恩恵に浴し、関空の
 ラウンジ使用から始まる豪華な食事等の好待遇は実にラッキ-だった。リクライニングの角度も180°
 近くもあり、快眠できて当然ながら時差ポケもない。

   以前、20年近く前、当時の通産省の招待で台湾での商談会にファ-ストクラスで台北まで往復
 したことがあったが、これも実に快適だった。無論、最近はエコノミ-クラスで欧州に出かけてい
 て、12~14時間のフライトも慣れてしまい毎回快眠である。時差ボケの体験は一度もない。

 
 大韓航空のビジネスクラス機内食のコ-ス料理の最初の一品。この後、ステ-キ等の御馳走が続く。

   機内では酒酔いが促進されると言うが、豪華なワインはこれはもう飲むしかない。出発前の
 VIP用ラウンジでは、XOのオンザロックを味わい、機中でも大空の上の美酒を大いに楽しんだ。
 なんて贅沢な旅であろう。世界の人口の0.01%以下の人にしか許されない贅沢さだ。

 
 バルセロナのホテルにて、至福の海外旅行で満悦の笑みである。

   英国人と会話をした後の、充実した安らぎのひとときである。異文化交流に心も豊かにな
 る。海外旅行は私の最大の趣味である。最高の幸せである。2013年12月1日より、この写真
 をプライベ-ト名刺に採用した。私らしさがよく現れている写真だと思うからである。

 
 バルセロナのザグラダファミリア(聖家族教会)の偉容で、未だ建設中である。

 
 ザグラダファミリア(聖家族)で現地ガイドさんと。解説を聴くヘッドホンをつけている。

 
 
ロ-マ時代のラスファレラス水道橋(BC2世紀建造、世界遺産)。

   この水道橋を限られた時間の中、2/3程歩いて往還した。歴史的建造物にはいつもながら
 感動する。ましてや、約2,200年前のロ-マ時代の遺跡である。先人の努力を偲ぶのである。
 二千年以上の時を越え風雪に耐えて現在に残っていることに、ロ-マ人の建築技術力に本当
 に感心するのである。上水道の必要性を痛感させる古代の建築物である。

 
 グラナダのアルファンブラ宮殿のイスラム様式建築の美

 
 結婚式後、アルファンブラ宮殿で記念撮影をする新婚さんのカップル

 
 アルファンブラ宮殿から望むシェラネバダ山脈の山裾、ロマ族(ジプシ-)の洞窟住居もある。

 
 アルファンブラ宮殿で、現地の日本人ガイドさんと。

 
 ミハスでの闘牛場で同行の友人と

 
 ロンダにあるヌエボ橋。美しい

 
 グラナダでの洞窟フラメンコのショ-。圧倒的な迫力

 
 コルドバのコルドバ宮殿にて。キリスト教とイスラム教の両異文化の融合の賜物である。

 
 
スペイン騎士の甲冑と共に

 
 ラマンチャ地方のドンキホ-テ-の風車の丘にて。この風車は機能してはいない。

   乾いた土地を意味する"ラマンチャ"は、松本幸四郎の舞台「ラマンチャの男」でも有名である。
 実際にこの地に来てみると、荒涼とした(乾いた)感はそれほどしないが、広大な平原の中に
 あるこの丘には領主の古城と風車群があり、丘の下には領民の平屋が散在する。スペインの
 典型的な風景のひとつであり、首都マドリ-ドにも遠くはなく、日本人ツァ-客が必ず訪れる場所
 であろう。中世の面影はある。セルバンテスの声が聞こえて来そうな気もしてくる。

 
 
トレドの旧市街を望む。中世都市の美の凍結である。背後のタホ川はリスボンから大西洋に注ぐ。

   中世都市の三要素は、教会・市庁舎・広場である。そして起伏のある石畳を歩くと、エトランゼ
 (異邦人)として旅の喜びを感じるのである。アジア人として欧州文明に触れると、繁栄を謳歌し
 たロ-マ帝国やキリスト教文化に羨望に似た思いが偲ばれる。だがしかし、中世欧州の負の側面
 として、ペスト(黒死病)の大流行と魔女狩りの蔓延があった。後者は誠に理不尽な悲劇である。
 前者はルネサンス時代を招来したひとつの遠因と言われている。

   即ち、欧州の大半の人々が黒死病で死んだことにより、神に対する不信感が高まったのだ。
 神は信じられない。人間中心の古代へ帰れとして、文芸復興(ルネサンス)の気運が高揚したとも
 言われている。宗教の功罪について考えさせられる。キリスト教が人々の生活の隅々まで浸透し
 行動を呪縛した往時は、日本の仏教と比較して、功罪の罪がより大きかったのではないか。
 そんなことを考えながら、後の宗教改革の勃興に繋がる欧州中世史を思い出すのである。

 
 セビリアの有名なロ-マ時代の水道橋。なんと美しい世界遺産なのだろう。

   見事な美しさと機能性のこの造形美。紀元前1世紀のロ-マ人の技術が今に現存させている。
 この整然とした美しさ(保存の良さ)は感嘆するばかりである。どのような技術での構築なのか。
 それは所謂"動滑車"である。滑車とロ-プにあとは人力である。

   生活に必需なものとしての水の確保。この上水道は本当に素晴らしいが、他方の下水道は
 如何だったろうか。昨年見学したポンペイ遺跡と同様に、素晴らしいものであろう。

 
 ディズニ-のモデルとなった城塞を背景に、同行の友人と。

 
 セゴビアの城塞の門の前にて。お代は2ユ-ロ。

 
 マドリ-ドのスペイン広場。大航海時代の栄華が少しだけ偲ばれる。

 
 
マドリ-ド市内の喫茶店にて。普段は飲まないコ-ヒ-を味わった。

 
 マドリ-ドのBALでの軽い食事。スペイン滞在最後の夜、撮影者も含め3人で会話が弾んだ。

 
 帰路の地球の昼夜。有益なディスプレイである。

   欧州への航空機に搭乗する度に、上記の航路を見る。昼夜の区別が明確で、昼間なら
 地理学的好奇心の為に、眠らずに下界を眺めたいからである。毎回の楽しみでもある。

   航空機の巡航速度は通常は時速千km程であり、地球の自転速度は4万km/24時間=約
 1,670km/hである。実際に、窓側から後方を眺めると、地球大気の闇が追いかけて来るの
 である。こんな時は、まさに地球の自転を実感するのだ。このディスプレイを見て、私は眠る
 るべきか寝ずに下界を眺めるべきかを判断するのである。

 
 帰路の飛行航路。大圏航路が明確である。大韓航空のエコノミ-クラスの機内食(ビビンバなど)。
 カップラ-メンも出されて少し驚いた。


 【2013年09月】
            
丹後後半島バイクツ-リングの旅


   今夏の猛暑もやや和らぎ、思い立って丹後半島バイクツ-リングに2泊3日の予定で出かけた。
 快走すると涼風が心地良い、至福の三日間であった。夏の日本海は、本当に素晴らしい。

 「天橋立YH」と、間人に在る「はしうど荘YH」に宿泊した。水平線の夕陽が美しい。
気ままな
 一人旅で、気ままに渚を歩む。自由満喫の時間である。

   
"朝、浜辺をさまよえば・・・ "と日本の歌にもあるように、島国に暮らす日本人にとっては、
 白砂青松は心の故郷であろう。

 
 丹後半島突端の経ケ岬灯台にて

 
 近畿地方の頭が日本海に瘤のように突き出た所、それが丹後半島であり、感覚的に
 もロシアが近いと感じる。この半島をバイクで3周もしたが、古い歴史を有することが解った。
 間人の地が、聖徳太子の母(間人皇后)の領地であったことは、その実例である。間人は
 ハシヒトと読むが、蘇我氏 vs. 物部氏の政争が終焉して間人皇后が大和へ帰還する際に、
 かの里人に退座(タイザ)の名前を授けた由来と言う。今では近畿の地の果てだが、往時
 は大陸文化の入口の一つでもあったろう。そう、対馬暖流ル-トである。

 
 丹後半島の間人(タイザ)ににある立岩を背景に大成古墳群にて

 
  竹野川が日本海に注ぐまさにその河口に、立岩はある。周囲1kmの柱状節理の一枚板で
 あり間人のシンボルである。渡来人の航行の目印にもなったことだろう。この柱状節理の岩板
 は、近くに築造された古墳の石室の最適の石材となり、現在でも大成古墳群が残っている。
 私はこの「立岩」がこよなく好きである。河口の砂浜から僅かに川で隔てられているが、
 立岩の上でテントを張り、満天の星々の下、眠りについたら、どんな夢を見ることだろうか。
  この立岩でも、鬼が封じ込められたと言う伝承があるのは、やはり日本的文化らしい。

 
 丹後半島・伊根湾にて海釣り。イシダイの子(サンバソウ、写真)等、五種類の魚が釣れた。

   久しぶりの海釣りである。アオイソメを使って湾の堤防より面白いように五目釣りを楽しんだ。
 
殺生は好まない(蚊とゴキブリは除く)ので、総てリリ-スしたが、釣針を外して海へ投げ込むと、
 
魚は一目散に45度の角度で海中に消えてゆく。その実に速いこと。再生の歓喜の乱舞だ。
 
イシダイの子(サンバソウ)、鯛の子(チャリコ)、イサキの子、ベラ、子アジ等、5種類の釣果であった。

   釣りの醍醐味は、魚と人間の知恵比べにあるが、竿先から伝わる生き物のActivityは、
 原始の興奮を我々人間に与える。漁労により生きる糧を得ていた、遠い祖先からの遠い記
 憶の伝承である。それは丁度、夕餉で貝汁を飲む時、体全体に海の栄養が沁み渡る様な
 原始の至福感である。ヒト の祖先は海から陸へ進出した。そんな遠い記憶をDNAは確かに
 記憶し、これからも未来にも伝えて行くのであろう。

 【2013年08月】

         
   【 甲子園での高校野球観戦と大会歌 】

  
中国留学から帰国し、日本的なものを求め、突然思い立ち、高校野球の開会式に行った。
 今や真夏の風物詩以上の日本文化であり、95回目の開催となり、約一世紀の歴史を誇る。
 第一試合は、有田工を応援し逆転勝利に興奮し、第二試合は、大阪桐蔭の圧勝だった。
 高校球児の若々しいプレ-に目を細め、大会歌に今更ながら感動したものだった。

   大会歌「栄冠は君に輝く」(作詞:加賀大介、作曲:古関裕而)は実に名曲である。行進曲の
 帝王:古関裕而の作曲は言うまでもなく素晴らしく、♪(タン・タ・タ)のリズムは軽快で実に良い。
 作詞は、石川県の作家(ペンネ-ム加賀大介)の約五千通強の応募中の第一位の作品である。
 この歌詞も特に素晴らしい。試合中の五回後攻後に甲子園球場に響き渡るこの大会歌曲に
 合わせて、三塁側アルプススタンドで私も高らかに歌う時、まさに「青春の賛歌をつづれ」(2番の
 歌詞)の感動である。今でも、時折スマホで聴いているが、若人達への見事な応援歌である。

   作詞の加賀大介は、あの元巨人の松井秀喜と同郷(石川県・根上町)である。野球を断念
 せざるを得なかった無念の思いが、この見事な歌詞を創作したのであろう。都市伝説として、
 「松井秀喜は加賀大介の生まれ変わりである。」とあるのは、なかなか面白い。

 
 甲子園球場の三塁側アルプス・スタンド(入場料\600)

 【2013年07月】

                    奈良・若草山の感慨

     絹の道。そは、ロ-マに始まり中国・長安を経て、日本・平城京で終わる。
    遥かなるユ-ラシア大陸の、草原と砂漠の幾千里を越えて ・・・ 。
     正倉院。その渡来したる貴重な文物に、古が偲ばれる。

     中国・上海での五ケ月の留学の日々、中国各地の旅行。その体験と想い出に、
    更に、東アジア文化への理解が深まり、益々歴史好きの私となりゆく ・・・ 。
     悠久なる時空の潮流。人の命は短く儚きなれど、煌めく一瞬ぞあり。

     三笠山。そは、唐の土となりし仲麻呂の望郷の景、和歌が切に胸に迫る。
    更に、東支那海の波濤を越えて、招かれし鑑真和上の熱き思い ・・・ 。
    唐招提寺。その伽藍は仏教戒律の根本道場。

 
 奈良・若草山の頂上にて。奈良市内(平城京)を背景に。

     中国上海・復旦大学留学記(第30話): 中国上海留学を終えて(帰国船中記)

  
まずもって、無事、中国上海留学を終えれることを、神仏に感謝したい。
 多くのことを学んだ。意識した事も意識しない事も、すべて顕在と潜在の意識の中に収めて。
   この還暦の年で、学んだことは多い。きっと我が人生の余生に役立つだろう。

   中国は現在急速に発展している。その現実現場の生の生活を体験して、私の心の中で
 また、新しい意欲(闘志)が湧いてきた。中国に食らいつき、更に多くを学び、消化・吸収し、
 我が血肉にしようと。世界の中で、アジア人として、日中を再び勉強し直そうと ・・・・ 。

   新鑑真号の船上で、仏教の戒律を日本にお持ち頂いた鑑真和上の苦難の使命感に想い
 を馳せながら、これからもまた、我が道を歩む。人生最期の日まで、不断の努力を重ねて、
 我が使命の達成の為に ・・・・ 。

               中国上海・復旦大学留学記、全30篇 完 2013/07/22

 
 西の彼方(中国)に沈む夕陽。

 
 夜、カラオケル-ムで豪州人のグル-プと、歌とダンスで盛り上がる。

        中国上海・復旦大学留学記(第29話): 中国の未来

   この自ら決めたテ-マの重さに、日本料理店「一期一会」で書き始めたが、一行さえも納得
 して書けなかった。駄文は書きたくない。留学五ケ月の重みのあるエッセ-にしたい。帰国迄に
 果たして書けるだろうか ・・・・ 。

 
 復旦大学・北門近くの日本料理店「一期一会」にて。ざる蕎麦、焼き魚、茶碗蒸し、ビ-ル。


   上記写真より、三日後。寮の部屋で、以下の文章のように、このテ-マで書けた。

   2049年10月1日は中華人民共和国の建国百年の誕生日である。その時私は96歳。とても
 生きてはいないと思うが、しかし、我が母は現在94歳で健在である。母並みに長寿であれば
 その日を迎えられる。両掌中の長い生命線を見つめ、占い師の貴方は中々死にませんよの
 言葉を思い出し、百歳になった中国を是非、知りたいものである。そして、私の予言が、
 中国の未来に関する予言が、的中したか否かを知りたいのである。

   第一に、最大の関心事は、中国共産党の動向である。20世紀の内戦と抗日戦に勝利し、
 建国以来、この大国を導いて来た中国共産党がどうなっているのか、にとても関心がある。
 そして、中華人民共和国が如何に発展しているかにも、私はとても関心がある。祖国日本は
 残念ながら、今から36年後はかなり国力は衰え、衰退している事だろう。欧米も衰退し、中国
 とインドが興隆した、所謂、「巨龍と巨象の両頭時代」の幕開けを迎えているであろう。
   中国は、蛟竜破天の雲を行くが如く、世界の覇者になっているに違いない。
 かって、世界史上、実は、中国は何度も壮大なる世界帝国であった。二十一世紀の後半は、
 再び世界の超大国として君臨するのは確実であると私は思う。ただし、その未来図は、
 中国共産党が如何なる寄与をするか、に架かっていると私は思うのである。

   第二に、中国経済と中国人の本質は合っている。Max Weber 風に言えば、中国の資本
 主義経済と中国人の拝金主義とは同根なのである。中国人の歴史観は拝金主義の倫理を
 呼び、拝金主義は資本主義の精神と呼応するのである。
   これは私の私見だが、中国には資本主義の時代は無かった。欧米先進国がアジアを帝国
 主義で蹂躪していた時代、中国は眠れる獅子のままの旧体制の清末であった。討幕から維
 新へと急速に近代化した日本とは違って、中国の辛亥革命は半世紀も遅れたのである。更
 に日本の侵攻と支配もあり、四億の民には資本主義を醸成する時間などは無かったと言え
 る。だからこそ、当時のロシア革命の成功もあって、この大国を一挙に近代化するには、共産
 主義しか指導原理が無かったとも言えよう。
   しかし、改革開放以来、現代中国の実態は、資本主義経済であるのだろう。それは中国
 人の国民性に合致していた。勤勉で、商売上手の国民性をいち早く経済発展へと導いた指
 導者鄧小平氏の、優れた卓見だったと言えよう。この経済政策の後戻りは、もはや無い。

   第三に、経済大国は即ち軍事大国の道を歩むのである。中国は軍事大国の道を歩みつ
 つある。とりわけ海軍力の増強であり、海上覇権の拡大である。この事は歴史の必然であっ
 て、古来より経済大国は必ず軍事大国への道を歩むのである。現在の中国にやや不足して
 いるのは、科学技術大国への道であるが、これもやがては拡大増強されて往くであろう。

   しかし、第四として、将来の課題は、環境大国への道である。約四千年前の中国建国の
 原点が治山治水、特に荒れ狂う大河の抑止であったように、この広大な大国の環境問題の
 解決は至難と言えよう。中国は未だ環境問題の克服の経験は無いのである。これもいずれ
 は解決されるものと信じるが、どのように解決するか、が見所であると私は見ている。

   そして、第五に、様々な社会問題。これはどこの国でも同じである。ただ、中国の特徴と
 して中央政府と地方政府の所謂"力関係"がある。何人も国家の分裂は望まないはずであ
 る。二千二百余年前に中国は既に、全国統一がなされたのであり、爾来、幾度かの王朝の
 興亡分裂の歴史はあっても、中国世界は単一国家の纏まりを継続して来ているのである。
 だから、中央と地方、北と南、北京と上海以南、等の協調関係は益々頗る重要であろう。

   最後に、第六だが、中国の未来を開く鍵、それはであろう。
 この全三十遍の留学記を具に熟読すれば、言内に答えは有る。賢明なる諸氏は、きっとそ
 の答えを発見できるであろう。そして、筆者の言わんとする真意を理解して欲しい。見つけ
 得たと言う諸氏は私に問うて欲しい。私は直ちに返信をしよう。ヒントは、漢字三文字である。

 
 酒・和食・中国の本、まさに至福の時

   復旦大学・北門近くの日本料理店「一期一会」にて。好きな、ざる蕎麦、焼き魚、茶碗蒸し、
 ビ-ルは同じメニュ-である。三日前と同じ場所、同じ席である。但し、第29話も書き終えて、ゆっ
 たりとした雰囲気であることが判るだろう。後は、最後の第30話「帰国船中記」だけである。
 大業完遂前のゆとりの時間を享受している。確かに、自分でも表情にもゆとりが感じられる。


   最近見かけるこの店の看板娘は、長い髪の若い中国美人である。日本語がとても上手な
 ので、私は問いかけた。你说日语说得很好, 什么地方学了?(貴女の話す日本語はとて良
 い、どこで習ったの?) 彼女の答えは、在上海学了(上海で習ったの) と。彼女はアルバイトかも
 しれないが、美人と言うだけでは採用されないだろう。彼女は接客マナ-もとても良い。更に、
 やはり武器となるのは語学力である。日本料理店だから日本語は必須だろう。まさに、諺ど
 おりに「芸は身を助く」である。我々も、ゆめゆめ日々の精進を怠る勿れである。特に、今更
 でもないが、語学力は重要なのである。読者諸氏は、一体何ケ国語を喋れますか。私のこと
 ですか? 日・英・中・韓の四ケ国語というところでしょうか・・・・。(笑い)

  下記の写真は、中国の技術力を示す杭州湾跨海大橋の写真である。

 
 杭州湾跨海大橋。世界一の長さ(約40km)。片側三車線で、両サイドは杭州湾の海である。

        中国上海・復旦大学留学記(第28話): 海の名所・普陀山への旅

   中国留学最後の旅は、日本に最も近い普陀山への一泊二日の旅である。浙江省・舟山群
 島にあり、中国仏教の四大聖地(他は、五台山、九華山、峨眉山)で観音道場として有名であ
 る。観音菩薩の浄土である補陀落に擬せられ、日本でも熊野信仰において希求されている。
   ユ-ラシア大陸の東端から、更に船で10分程、この島は日本に最も近いと言えよう。まさに、
 ポルトガルのロカ岬と呼応して、茲に陸終わり海始まると言えよう。東北方向は日本、東は言う
 までもなく太平洋(東シナ海)である。茲には、日本に関係する面白い逸話がある。

   西暦916年、日本の渡来僧慧萼(エガク)が、中国留学を終え日本に帰国しようとした時、
 日本に連れて行こうとした観音菩薩が日本に渡ること拒んだ(不肯去)、という故事である。
 その観音菩薩は、それ以来「不肯去観音」と呼ばれるようになった。観音菩薩がどうして、
 どのようにして、日本行きを拒んだのかは定かではないが、想像するだけで実に面白い。

   また、紀州・那智の地には「補陀落渡海の風習」がある。海上の補陀落浄土を目指して、
 僧が只一人粗末な小舟に乗り大海に漕ぎ出すという決死の渡海であり、これは死出の旅で
 もある。その目的地が、ここ中国のこの補陀落山とするならば、誠に残念ながらそれは叶わ
 ぬ夢であろう。なぜなら、紀州の外海は黒潮が蛇行して流れ、小舟は遥か北太平洋の彼方
 に流されるからである。事実、生きて補陀落山に漂着したという事例は、私が知る限り一件
 も無い。そんな海流に関する知識が有ったか否かは知らないが、幾多の渡海例があった。
  ( 備考; 琉球に漂着した事例はある。 )

   逆に、秦始皇帝の命を受け、不老長寿の妙薬を求めて船出した徐福は、日本各地に上陸
 の伝説を残しているが、特に著名なのはこれも紀州の新宮の地である。黒潮の流れに乗れ
 ば、中国から日本への渡海は容易だったのかもしれない。蛇足だが、韓国・済州島には、今
 でも地名として「西帰浦」がある。一説によると、日本から中国に帰国する途中、徐福の一行
 はこの地に立ち寄り、更に西の方に帰った(西帰浦)と言われている。果たして本当か。徐福
 が中国に帰国したという記録は無い。そもそも秦の圧政を疎み始皇帝を騙して亡命したと言
 う話もある。また、不老長寿の妙薬を入手できなかったので、手ぶらで帰国しては命が危な
 いから敢えて帰国しなかったという話もある。更に、それまでは、長寿延命の薬として「辰砂」
 (硫化水銀を含む)より作った丸薬を始皇帝に飲ませ続けたと言われている。今ではこの水銀
 は人体に有害であることが判っており(有機水銀は水俣病の原因物質)、水銀の有毒性を知
 った上での所業としたら、徐福が一枚上手である。徐福は多くの子供たちをも従えていたと
 言う。始皇帝は49歳で逝去した。当時として、天寿を全うしたことになるのか否かは不明だ。

   中国の渤海湾では、一年に数度、蜃気楼が彼方の洋上に見えると言う。それは、今でも
 事実である。ただ、それが蓬莱山であり、実際に不老長寿の妙薬が有るか否かは行かない
 と判らなかった。秦始皇帝は中国統一後の国内巡幸において、この渤海湾の岸辺に立った
 はずであり、蜃気楼のこともおそらく聞いたことであろう。
   徐福は、偽薬を用いて国内では始皇帝の寿命を縮め、自らは外国への新国家建設の野
 望を実現しようとしたのなら、徐福自身はなかなかの策士であり、野心家だったと言えよう。
   そのような事を考えながら、私はこの遥か東の祖国日本に通じる海原を眺めていた。

 
 ここから東北方向へ約670kmの彼方、五島列島・福江島に至る。なんと祖国日本は近いか。

   本ツァ-参加者のほとんどは別行動となり、ガイドも居ず、私達二人だけが事実上の二人旅
 となった。同じ旅館の別の部屋に泊まり、往復のバスの指定座席も隣同士で、丸まる二日間
 行動を共にした。彼女は21歳、お互いに名前も知らないままで、まるで孫娘との旅行のよう
 であった。彼女と私との会話は、有时听得懂、有时听不懂( ある時は聴いて判り、ある時は
 聴いて判らない )であった。不思議な旅だったとも言えるし、良い記念になった最後の旅だっ
 たとも言える。下記の写真が残った。まさに中国での「一期一会」の写真である。

 
 二人旅のツ-ショット

 
 登山道途中の落ちそうで落ちない岩。彼女の撮影による。

        中国上海・復旦大学留学記(第27話): 懐かしき日々

   以下の写真は、留学生活での「懐かしき日々」を想い出すよすがに、きっとなるであろう。
 150日以上もこのような生活を異国でしていると、帰国した後はきっと懐かしく思い出される
 はずである。貴重な五ケ月間は、実に2013年の真冬から真夏にかけての日々であった。

   人生で二度目の寮生活となった。最初の寮生活は、入社してすぐの枚方公園上の懐かし
 い「松桂寮。男四人の蚕棚の部屋で三人で使用した。食堂や風呂場がよく完備されていた
 のは嬉しかったが、何しろ狭すぎて、一年で退寮し、京阪樟葉の2DKに引っ越した。

   今回のこの寮は、ワンル-ムマンションのようである。欲しいのは食堂と大型TVだが、無いのは
 仕方がない。一人で住める(一日80元)ので文句は無い。寮近辺の写真とともに、このH.P.に
 記録として残したいのである。

 
 写真(01) 復旦大学の正門。夏の日の早朝五時過ぎの雰囲気である。

 
 写真(04) 復旦大学の正門近くの偉大なる毛沢東の像

 
 写真(05) 復旦大学の校章。創立1905年との刻印がある。

 
 写真(07) 留学生公寓への守衛室。正面の建物が留学生公寓である。

 
 写真(08) 留学生公寓である。その7階の7**号室の一人部屋で、5ケ月間を過ごした。

 
 写真(09) 寮の1階の服務台である。朝早くから夜遅くまで開いている。

 
 写真(10) 寮内売店である。サントリ-ンビ-ルの瓶が3.3元(約\50)とは、驚きの安さだ。

 
 写真(12) 教室の遠景。光華楼は立派な建物である。もう、夏休みなので学生はいない。

 
 写真(13) 毎朝、授業開始三時間前に、" 早(おはよう) "といつも挨拶を交わした服務員。

 
 写真(14) 私達の教室(311) ここで、速いスピ-ドの中国語での授業

 
 写真(15) 三回ほど通った理髪店。カットだけだが10元(\160)とは安い。

 
 写真(16) 果物店。バナナ、西瓜、リンゴ、みかんなどを買ったものだ。

 
 写真(17) Copyや印刷などの店。USBを持参して、先生からの送付資料などを印刷した。

 
 写真(18) 文房具の店。原稿用紙、筆記用具、その他を買った。

 
 写真(19) 北区学生公寓の入り口。構内の移動は、バイク、自転車、徒歩である。

 
 写真(20) 中国人学生の寮。学生のカップルが本当に多い。青春を謳歌しているようだ。

 
 写真(21) 留学生公寓の遠景。最も北側にあり、最も高い寮である。

 
 写真(22) 北区学生浴室。入ったことはない。シャワ-だけの設備だと思われる。

 
 写真(23) 日本料理店「一期一会」。日本の味を求めて通った。蕎麦、茶碗蒸し、焼魚など。

 
 写真(24) 韓国料理店「長白山」の石焼ビビンバは、23元と安くて美味しい。たびたび訪れた。

 
 写真(25) 寮の近くの屋台。焼き飯は六元と安い。夕方、何度も通った親しく会話した屋台。

        中国上海・復旦大学留学記(第26話): 孔子廟見学と泰山登山

   中国の原点、一つならぬ二つ、共に山東省に有り。
 一は、儒家思想の創始者にして、偉大なる教育者孔子。かの生誕地は、曲阜なり。
 二は、泰然自若たる天下の名峰にして、五嶽独尊の東岳。そは聖地・泰山なり。

   山東省の泰安市を基点として、二泊三日の旅行で、孔子廟見学と泰山登山を果たした。
 茲に、中国留学の大きな目的の二つが、また達成された訳で、誠に嬉ばしい限りである。
   孔子と儒教と秦、泰山と封禅について、私の見解を、以下、自由に記述するとしよう。

  《孔子と儒教と秦について》

   かって、文化大革命の時代には孔子は否定された。しかし、今や復活して、隆盛である。
 中国思想の根本を成すこの2,500年程前の偉大な思想家の思想は、中国では不滅である。
 孔子の思想が為政者には都合が良かったとは言え、やはり人間性の本質に立脚した思想
 であるが故であろう。更に「怪力乱神」を語らずとは有名だが、これも素直に首肯できる。
   近年、孔子を一人の煩悩ある人間として扱った映画が中国で上映された。むべなる哉で
 ある。孔子とて一人の人間であり、子孫もこの曲阜の地に七十数代も連綿と継承している。
 孔子は、思想家、政治家、教育家と言われる。後世に、何が流布されているのか。それは、
 あるべき姿、あるべき状態の人の道であろう。それが社会秩序の根本指導原理であると。
   現代においても、処世術として、「君子、危うきに近寄らず。」、等は、頗る有益である。
 但し、ある意味では、「静の哲学体系」と言えようか。"動的革新性"は、やや乏しいと思う。

   堯・舜を理想とする鼓腹撃壌の徳治主義は、結局は理想に過ぎなかったのかとも思う。
 後世の秦は、韓非子に基づき、徹底した法治主義で政治を行った。秦の時代は短かったと
 は言え、秦の時代に創始された数々の政策は、長く中国の基本の政策となったのである。
 徳治主義か、法治主義かの議論は意味が無い。そもそも、人間の性は、性善か性悪かを
 問う様なものである。人間は、ある時は神や仏であり、また、ある時は悪魔や極悪人でもあ
 る。仏にも地獄の境地にも成り得るのが人間であり、仏教の「十界論」はそう説いている。
 ただ、社会システムが高度で複雑になると、法治主義や官僚制が必要になるは必然である。

  《泰山と封禅について》

   日本の諺でも「泰山鳴動して鼠一匹」とある。泰山は、動かざるものの象徴である。泰山
 の石に「穏如泰山」と刻まれ土産物になっている。この「穏wen3」は安定しているの意味で
 ある。従って、孫子の兵法に出てくる風林火山の「動かざること山の如し」とは、どの山
 のことかと問えば、泰山のことだと推測される。中国の中原に構える山塊の高峰群が泰山
 である。古代中国において、特別な地理的位置を占めていたと言えるであろう。標高は、
 1,525mとそれ程に高くはないが、やはり泰然自若としている。

   泰安市街の中央にある岱廟で、封禅の儀式の内の地の神に感謝する禅の儀式を行う。
 真北に進んで参道は続く。ほぼ一直線の道を中天門まで昔の隊列は進んだ。それから、
 急な石段を更に3.5kmも登り、遂に南天門に到着する。そこは標高約900m弱。更に、歴代
 の王朝の皇帝が天を祭る儀式、即ち、封禅の儀式の内の天の神に感謝する封の儀式を
 行う。その祭壇としての護摩を焚いた玉皇頂(1,525m)まで、石段は更に続く。
   今日では、泰安市内の北側のバスタ-ミナルから中天門まで約25分、そこからロ-プウェイで
 南天門まで約10分、歩いて最高峰の玉皇頂まで急いで15分と、合計1時間で登頂できる。
 信じられない程に近い。中天門から南天門までは、徒歩で登り3時間、下りは2時間とか。
 天下の泰山が、この世界複合遺産の泰山が、こんなにも庶民に身近になったのだ。

   私は、中天門から南天門に至る石の階段を見上げた時、その急勾配さに、軟弱にも、
 即座にロ-プウェイ登山を決心した。料金は往復で200元(\3,200)と高いが、時間の節約と
 肉体の疲労の回避には代えられない。だが、階段途中での各名所が見れなかったことは
 惜しい事だったと言わざるを得ない。集合時間への遅れの懸念とは、やはり言い訳か。

   泰山山頂における封禅の儀式が、秦始皇帝以前に72回、以降に数多と言われている。
 特に、山頂付近の岩壁に刻印された碑文の内、唐の玄宗皇帝のものは壮大で格調高い。
 天候は多雲で山頂は全面的に霧。下界の眺望がきかなかったのは誠に残念だった。

 
 曲阜の孔子廟にて。中国思想(儒家の思想)の原点の場所である。

 
 孔子の墓である。約,2,500年前の実在の人物。その頃の日本は、未だ弥生時代である。

 
 唐の玄宗皇帝が刻印させた碑文。「我帝位についてより、・・・」で始まる長い文章だ。

 
 泰山山頂(1,525m)付近。この少し上の玉皇頂で、封禅の儀式の内の「封の儀式」が行
 われた。

        中国上海・復旦大学留学記(第25話): 中国留学生活あれこれ

   夢の海外留学は、昨日の中国上海・復旦大学の卒業(結业)式で、一応、終了となった。
 今日から二週間は、寮での滞在を延長し、中国の聖地:泰山 に登る予定だ。この五ケ月を
 振り返って、あれこれと語りたい。来た時は二月中旬で小雪が舞う日もあったが、梅雨も過
 ぎて、今は真夏の短パンに半袖の姿である。

   多くの人にとって海外留学は夢である。ましてや海外の大学での語学留学は更に夢であ
 ろうが、①時間・②金銭・③基礎語学力・④健康・⑤意志の 総てが揃えば、勿論、可能であ
 り実現できる。但し、学習の維持には、努力と、努力以前の基礎語学力が必要である。

  ①時間について
    社命留学なら、半年もしくは一年間の留学はできる。更に、夏季のサマ-・スク-ルもある。
    しかし、普通の仕事をしている人は、とてもこんな長い期間の休暇は取れないだろう。
    だからこそ、定年退職後は一つのチャンスなのである。
  ②金銭は欧米では奨学金が充実している。他方、今回の中国では半年の総額は百万円
    程度だと見てよい。授業料・寮費・生活費・往復交通費、保険代、その他諸々である。
  ③基礎語学力は絶対に必要で、且つ会話の速度はかなり早い。ここが最大のポイントだ。
    会話が判らなくては、ノイロ-ゼ-や登校拒否になり、早々と帰国する例も多々ある。
  ④健康は最も大切だ。特に食中りと水中りは総ての海外でも同様だ。更に中国では、加
    えて、感染症(ABC肝炎)、狂犬病がある。勿論、交通事故の危険性も少なく無い。
  ⑤意志とは明確な目的意識のこと。これが希薄だと遊んでばかりの生活となる。その生
    活の乱れが、海外生活であるが故に、不幸な結果を招来しないとも限らない。

   ところで、海外留学の楽しさと、有意義さは沢山ある。

  ①24時間をフルに使える。団体旅行ではないので、自由な時間を自由に選んで使える。
    これは最大の魅力だ。とことん見聞でき、とことん学び、謳歌することができる。
  ②現地の人と触れ合える機会が極めて多い。現地の生の生活文化に触れられる。
  ③世界中から集った若者たちと、国際文化交流ができる。世界中の国々の情報が会話
    を通して入手することができる。但し、中国語か英語の語学力は当然必要だ。
  ④留学国の国内旅行が安い費用でできる。当然、日本から直接行くよりは格段に安い。
  ⑤日本を外国から見て視野が広まる。国際感覚が向上し、自己を見つめ直せる。

   海外留学で心配なことは、やはり病気・事故・盗難であろう。幸いにもこのような不幸
 な目には遭ってはいないが、国際文化の習慣の違いによるトラブルも、無いとは言えない。
   例えば、トラブルの元とは些細なことで、欧米人は授業中に飲食して騒がしく煩い。これは
 日本人からみれば不愉快千万である。hearingの授業中でも、音を立てて飲食している。
   このような時、我々はよく「 文化の違いがあるから 」と言うが、それは間違いだろう。
 各国の文化の違いにより、価値観や習慣が違うのは理解できるが、hearingの授業のよう
 な静寂な時間が求められる中で、自らの飲食の音を立てる事は、迷惑意識の欠如であり
 人間性の問題だ。私が婉曲に注意すると、"朝寝坊したから、今朝食・・"との返事。?!だ。

   寮生活で必要なことは洗濯である。10回分40元(=640円)の洗濯機用カ-ドを買って、約
 40分の全自動洗濯。その後、7Fの私の部屋でベランダのロ-プに干すと、僅か一日で乾く。
   寮には、炊事設備等もあるが料理したこと無い。ある日、調理場で良い香がするので、
 覗いたら、白人美人学生がCooking中。何料理かと尋ねたら、ロシア料理だと、なるほどだ。
   寮の部屋にはTVは無い。しかし、日本から持参したノ-トパソコンで、中国のPPS-TVが
 無料で見られる。内容豊富で中国ならではの番組や日本のNHKの番組(日本語放送)もあ
 り、これは実に有り難かった。郷愁が慰められた。

   寮の部屋には、電話機と配線はあったが不能の状態だ。今時、使う人が居ないからだ。
 寮の部屋のエアコンは有り難い。但し、やや旧式と言えようか。それでも役には立ったのだ。
 寮の部屋のバスタブ&シャワ-は、夏場になってやっと湯船に浸かれるようになった。洗面台と
 洋式便座は悪くない。机と椅子にベッド、クロ-ゼットもあり、設備は悪くない。一人部屋なので
 寮の滞在費は、1日80元(=\1,280)とやや高い。電気代は別で、別にカ-ドの購入が必要。
   寮には共用の談話室は無いが、1Fのロビ-が所謂社交の場で、そこで勉強している学生
 も居るが、いつも騒がしく活気に満ちている。猫たちさえも餌を求めて遊びに来るのだ。

 
 単語カ-ドを使って熱心に中国語の漢字を勉強する米国留学生。

        中国上海・復旦大学留学記(第24話): 授業について(最後の感想)

   この五ケ月間の全81日の授業を振り返ると、様々な想いが思いだされる。楽な授業もあ
 ればきつい授業や試験内容もあった。過ぎてみればこれ総て懐かしい思い出である。最初
 に報告するが、全授業の無遅刻・無欠席を達成したのは、我が班では唯一私だけの快挙
 である。尚、先生は総て女性の先生であった。

  C4班(2ケ月後にD4班)の授業科目は五科目である。授業がきつい順に並べて紹介しよう。

  「精読」:  テキストの各lessonの内容をじっくり勉強する授業で、新漢字、文法、練習問題
       の多さに、多くの学生がしんどい思いをする科目である。一週間で、90分×5回
       の時間が費やされ、全授業時間の約半分である。予習をしていないと授業には
       全くついて行けない。次々と授業中に当てられる。毎回、必ず宿題が出される。

         この授業で特徴的な事は、教科書の各lessonの課文で訳が無いことである。
       一体、学生は何語に訳せよと言うのか。英語でもよいが、その英語の正しさを
       教師は判るのか? 日本では、英文(もしくは中文)の音読の後は、和訳での確認
       がある。しかし、各国の留学生を対象とした中国語の授業では、中国語の発音
       のチェックはあっても、それ以上は無い。訳文は、各人が勝手に思っているのであ
       り、言わば " 同床異夢 " かもしれない。だが、これは仕方のないことである。
         先生に英語の能力があり、訳文を宿題として英語で提出させれば、そして、
       その英文を十分に訂正できれば問題は無い。ただ、そこまで出来るかである。

  「口読」:  所謂、中国語日常会話で、先生の話す速度が極めて速い。口語独特の表現
       もあり、"出出主意"(アイデアを出してよ) 、"被公司炒鱿鱼"(会社を首になった)、
       "买一送一"(一つ買ったら一つ無料で差し上げる) 等は、その代表的な例であ
       る。この科目は、中間試験と期末試験の両方で、対話と単独で話す試験があり、
       テ-マに基づいて自分で文章を作り、全部の話す内容を暗記しなけならないので、
       最もしんどい。しかし、この授業は教師と学生間の掛け合いのような授業の点
       で、刺激的で面白い。また学生間の会話練習もあり、最も騒がしい授業である。

  「听力」:  所謂hearingであり、新HSK四級より少しだけ易しいレベルかと思う。クラスメ-ト
       の中には親が華僑の人も居て、そのような人達は、hearingは得意で羨ましい。

  「泛读」: 上記の「精読」の反対で、文章を速読で読み内容を理解する授業である。総て
       漢字である中国語の新聞や雑誌の内容を速読で理解するのは、日本人は最も
       得意とする所である。中国の多くの知識に触れられる楽しい授業でもある。この
       授業科目では、事前にテキストを予習してはならないことになっている。

  「写作」: 所謂、中国語作文である。テ-マに基づき、Max.400字の作文を授業中に作成
       して提出し、翌週に先生から朱字の訂正とコメント、評価点数が付けられて返され
       る。私は、四回中の二回も、クラスのトップの出来として、名指しで褒められた。

   特に最初の精読の授業が最もハ-ドである。学生は、自然と教室の中で坐る座席が定位
 置となっている。私は縦三列中の中央列で前から二番目で、前には誰もいない。この教室
 に、在籍は21人だが、期初は16人が坐り、期中は12人、期末には7人となり、遂に出席者
 は 1/3迄に減少した。欠席する理由は様々であるが、以下、いくつかの理由を例示する。

   ①入学目的がそもそも本来的に違う。ビザの関係だろう。授業が目的ではない。
   ②梅雨季の雨の朝など、寮の部屋から出たくないとの心理が働く(のだそうだ)。
   ③一旦休むと、授業の進行度が判らず予習ができない。だから欠席するの悪循環。
   ④友達の結婚式出席などの理由で帰国し、再び戻っては来ない。
   ⑤試験勉強とその準備をしたくない。スマホや電子辞書で多くの漢字を調べる必要がある。
   ⑥各種の手続きの為。ビザの延長などで丸一日休む。
   ⑦意欲の減退。遅刻が多い学生は、やがては出席しなくなる。

   他方、残った1/3の学生(勿論、私も含む。)は、本来的に真面目で成績も優秀で、学習
 の目的も明快である。授業態度も当然良い。基本的に目的意識がしっかりしているからだ。
   その"残りし七人の勇者"が、精読の教科書の練習問題に対して、次々と正解の答えを
 出してゆく。その度毎に先生が"对(正解の意味)"と言う。そんな光景は感動的でさえある。
 この世界中から集まった学生が、難言語の一つである中国語に対して、学習の成果を出し
 ていくその姿は、発音は未だ完全に正確でなくても、一文一文を読んでいる姿は、美しい。
  人生、何事も努力だろう。努力する姿は美しい。学ぶ姿は実に美しい。

   授業開始から数週間後に、ある男子学生が寮の前で煙草を吹かしながら私に微笑みを
 送る。その笑顔の横顔の意味は、「私はもう授業に出ないから、頑張って」と私は理解した。
 まだ若い彼こそ頑張って欲しいが、ただ老婆心ながら、若い時から困難を乗り越えて行く経
 験を持たないと、将来は不満足な人生を歩むことにならないかと。努力は大切と言いたい。
 下記写真に示すように、この緑の板を眺めるよりは、気持ちよく眼を閉じた学生も居ただろ
 う。それも各々の人生の青春だが、努力無くして感動は無く、感動無くして何が人生だろう
 か。下記写真のように、私が卒業式で会えたクラスメ-トは、在籍21名中の僅か5名であった。
   最後に、私の成績だが勿論優秀である。10個中の7個はA(80点以上)である。(笑い)

 
 教室室風景

   私達の教室の黒板(緑の板)である。この緑の板を真剣に見つめた学生、静かに眼を閉じ
 た学生、眺めることを放棄した学生。それぞれの想いを映したものは、まさに、このみどり
 の板とプロジェクタ-のスクリ-ンなのである。


 
 国際文化交流学院の2013年春季・結业典礼の会場にて。晴れの卒業式(2013.07.06)。

 【2013年06月】

        中国上海・復旦大学留学記(第23話): 水郷ノスタルジア ~鳥鎮の散策

   上海と杭州の中間に位置する、江南六大水郷の一つである「鳥鎮」を散策した。曇天で
 やや小雨の天気が、かえって中国の情緒を増してくれる。霧雨の中の水郷風景であった。
 鳥鎮の歴史は 1,300 年前 の唐代にまで遡る。河沿いに浮かぶ水上楼閣や、古い建物の
 路地は、ノスタルジックな風景だ。平日だったが、沢山の観光客に溢れていた。私もすっかり
 と、この"江南水郷の世界"に浸ってしまった。現在の時間の中で過去の時間が 瞬停 し、
 そして連続微動する。そんな異次元の体験であった。

   私の心の中には、二つの相い矛盾する想いが去来して、交錯する。 

   【非現実の心】 いつまでも、この穏やかで、絵のような 水郷風景 を眺めていたい。
   【真現実の心】 この風景は過去の幻であり、現実に生きる私は溺れてはならない。

   「過去に生きるか、未来に生きるか。」の単純な二者択一ではなく、本当は、どちらが
  " 自分らしい、正しい生き方なのか? "、と考えてしまう。

   文学や歴史学・芸術志向なら前者で、技術や社会学・学問志向なら、後者なのか。
 ただ、これらの風景には、現実の生活の匂いはしないが、現実の暮らしの香りは感じられ
 る。清朝時代の、その質素な江南水郷の暮らしの、その" 残り香 "なのである。

     過去に生きることは、即ち、未来に生きること  ・・  だが、
     過去への埋没の恐れが ・・・・ 

     現在に生きることは、即ち、今を生きること   ・・  だが、
     過去も未来も失う恐れが ・・・・

     未来に生きることは、即ち、" 新たなる過去 " に生きること。
     未来への熱き心が、人生への智慧が、掴めるだろう。

 
 西柵地区の水郷風景、2007年に観光地区としてオ-プン。セットと解っていても心魅かれる。

 
 西柵地区・草木本色染坊にて。高竿に干されて揺らぐ染布。若い観光客が非常に多い。

        中国上海・復旦大学留学記(第22話): 中国結婚最新事情

   最初に、現実の中国における実情から紹介しよう。以下は、ある記事を私が和訳したも
 のである。出典は、《新民晩報》である。

    母はいつも電話して来て、その度ごとに三年来の話題を繰り返す。"お前はいつ
   結婚するのかい? 私は答えられないけれども、ただ母を安心させようと、" もうすぐ、
   もうすぐ "と答える。母は電話して来る度に、いつも同じ話題を繰り返す。
    私達が一緒に居るのはもう三年になった。知り合ってから一年で、二人は同棲
   を始めた。二人で住むことは多くの費用の節約になるし、更にお互い世話をするこ
   ともできる。結婚か、それはめんどうなことだ、とその後も言っていた。

    しかし、友達達はみんな急いで早く結婚しろと勧める。言われ続けて三年、急い
   で結婚しないと、将来は結婚しようと思っても結婚できない結果となる。残るものは、
   もしかしたら、ただ一つの道、即ち、別れ。(注*)
    友達達はもしかしたら正しいのかも。私は彼の眼の中に確かに"結婚したくない"
   という四文字(不想結婚)を見てしまった。

    ある日、私達は友達の結婚祝いの会に参加し、夜家に帰る路上では私は少しも
   彼のことをもはやかまわなかった。彼もまた話をせず、ただ黙々と車を運転した。
  
家に戻って、私はバスル-ムの扉を閉じ、顔を洗い、体を洗って、そこに二時間も留ま
   った。彼は私に一言も声を掛けなかった。私は出て来たまさにその時、彼がソファ-の
   上に寝そべって眠っているのを見つけた。私は彼を起して、泣きながら彼と言い争
   いになった。次の日、彼は私との結婚を承諾した。

     ( 注; 恋人達の別れを、中国語では、「分手」(フンショウ)と言う。)

   次に、結婚に関する最新の流行語について、説明しよう。

  ①裸婚(luo3hun1)

     マンションを買わず、車を買わず、式も挙げず、指輪も無なく、旅行も行かず、
   結婚証明書だけの結婚方式。日本での所謂、"ジミ婚"に近いが、更にそれを
   徹底したもの。婚姻届(金額は9元)だけで済ませる質素な結婚。"80后"(1980
   年以降に出生した若者)の最新流行の結婚形態である。婚姻に自由と独立を
   求める傾向に基づく。反対語は「炒婚(chao3hun)」と言い、"ハデ婚"である。
     ( 参考; TVドラマ 《裸婚》 《裸婚時代》 )


  ②闪婚(shan3hun1)

     所謂スピ-ド婚である。知り合ってから三ケ月以内に結婚。ファ-ストフ-ド式愛情
   に基づく結婚。青年男女の上に多く発生している。( 参考; TVドラマ 《闪婚》 )

  ③単身贵族(dan1shen1gui4zu2)

     日本の独身貴族と同じ。独身貴族の日として、11月11日が制定された。

  ④剩女(sheng4nu3)

     剩の意味は「余る」であるから、剩女とは行き遅れた女(余った女)の意味で
   ある。女性版の三高(高学歴、高収入、高"
年齢")である。
     25歳-28歳は、「初級剩女」と呼ばれ、伴侶を捜す勇気を継続できる「剩闘
   士」とも言われる。
     28歳-32歳は、「中級剩女」と呼ばれ、出会いの機会は既に多くなく、また
   仕事が大変忙しく、結婚相手を探す時間が無い。
     32歳-35歳は、「高級剩女」と呼ばれ、残酷な職場において存活の闘争下、
   独身を続けている。
     35歳を過ぎたら、「特級剩女」と呼ばれる。
      ( 参考; TVドラマ 《大女当嫁》 《剩男剩女》 )

  ⑤宅男宅女(zhai2nan2zha2nu3)

     日本の所謂"オタク"と同じである。いつも家に居るのを好み、外出を嫌がる。
   ある事やインタ-ネットに固執する、1980年代以降の出生の若者のことである。
   これに関する流行語として、不要叫我宅女、請叫我居里夫人(私のことを宅女
   と呼ばないで。キュ-リ-夫人と呼んで。) と言うのが、「居里」を「キュ-リ-」と敢えて
   読ませている。
 実に上手い表現で面白い。

  
中国の地方の農村では、女性は19-20歳が結婚年齢。男性も22-23歳。これはひとえに、
 農村社会の典型的現象である。即ち、結婚とは、嫁取りとは、労働人口の獲得に他ならな
 い。そして、早く出産することも早期の農業労働力の確保に結び付くのである。その上更に、
 中国にある54の少数民族においては、実態は更に若年化しているようだ。

   他方で、都市においては晩婚化の傾向は進展し、その背景には教育と就業機会の拡大
 に対する要望の高まりがある。成人後から結婚の間に介在するのが、教育と就労である。
  "都会の空気は自由にする。"と言う中世ヨ-ロッパの格言は、ここ中国でも同様である。
 豊かさを求めて、機会の拡大を求めて、人々が都会へ大移動するのは、当然であろう。

   中国では、結婚のことを「終身大事」とか「一生大事」とか中国語でも言い、結婚すること
 を「成家」(文字どおり一家を成す)と言う。しかし、若者たちの結婚観は、日本よりももっと進
 んでいるかもしれない。そして、都会における離婚率の急増は、社会問題となっている。
   離婚を前提に結婚する人は、一部の結婚詐欺と遺産目当以外はいないはずである。
 誰もが、デメリットを上回るメリットを信じて結婚する。しかし、結婚と言う枠に入った人は枠から
 は出たがるし、入ってない人は枠に入りたがると言う。これは世界共通の動向である。

   だから、枠が明確にならないような、所謂「同棲」が流行するのであろう。また、「丁克族」
 (DINKs族:夫婦二人の収入、子供無し)の急増も問題である。それは人口大国の中国にお
 いては、人口減少に貢献?するだろうが、世代間の命の継承がなされないのは懸念事項で
 ある。今を享受して生きるDINKs族も、やがては老いるのである。自然の法則なのである。

 
 いつもながら、新婚さんの羨ましい風景である。

        中国上海・復旦大学留学記(第21話): 上海風景に溶け込む

   上海に来て百日以上。十数回も道を尋ねられ、その度に 「 我是外国人、所以、听不懂
 (私は外国人だ。従って、聴いて解らない。)」と答える。相手も「没事儿(気にするな)」と応じ
 る。この風景は中国の上海風景に溶け込んだ私の姿。顔立ちや、体型、行動も 中国人と
 同じ。が、一言でも発すると外国人だとすぐ判る。
韓国人かと問われ、自信を以って日本人
 だと答える。半年前の 尖閣問題は嘘のよう。
日本人への反発は全くない。我々は同じ亚洲
 人(アジア人)だ。国際都市の上海風景は、New York にも似ている。

   上海風景に溶け込むとは何か。私の中国語発音は未だ未熟で、アィデンティティ- を示す物
 は护照(Passport)だけだ。外国人が飲むには危険な水道水。我慢できない悪臭の臭豆腐。
 だが、ここはアジアであり、隣国の大国、文化の母国、中国なのだ。

   僅か三ケ月半の滞在でおこがましくも、私は 上海風景の一部。中国語の格段の上達を
 自覚しつつ、更に言葉の力でより上海風景に溶け込む。私が質問して、上海人が笑い、時
 には 英語でどうぞ、と言われる。こうして、上海風景の絵の中の私( エトランゼ )の色彩が鮮
 明となる。大都会上海の五ケ月余の通行人の私に、エキストラとしての無駄は無い。

   前世は中国人かと苦笑し、この中華文化に強く食らいつく。この硬き牛肉(niu2rou4)を、
 牛込(niu2ru4)が噛み下したい。牛肉は牛込にピンイン1文字が多いだけで声調は全く同じで
 ある。以下の文章は、私のある中国語プレゼンの冒頭であり、口語の先生には受けた。

   我叫牛込恒,不是牛肉饭。如果我是牛肉饭,吃一碗牛肉饭的时候,
   我把自己吃掉吗? 我觉得非常可怕啦。所以,我是牛込恒

    ( 日本語訳 ⇒ 私は牛込恒と言い、牛肉めしではありません。もし、私が牛肉めし
      なら、 私が一杯の牛肉めしを食べる時は、私自身を食べることになり、とても
      怖いことです。だから、私は牛込恒です。)

   上海惜別まであと一月半。上海再来は必至だろうか。その時如何なる姿で、再び上
 海風景に溶け込むか。我自身も如何なる色彩と形となるか、興味深々である。

 
 上海風景(1) 軒下の麻雀 日本とは、牌の種類が一部異なっている。即ち、白牌が違う。

 
 上海風景(2) 路上の子供たち。子供は宝であり、未来への希望である。子供を大切にしてこそ
 国家の未来の繁栄がある。日本は経済政策、雇用政策がおかしいから少子化を誘発している。

 
 上海風景(3) 路上に張り出した洗濯物の竿と衣服。洗濯物に暮らしが偲ばれる。

 
 上海風景(4) 店先での端午節の粽作り。私は見事な手さばきをしばし眺めていた。

 
 上海風景(6) 南京路上での、少数民族のパフォ-マンス。エキゾチックである。

 
 上海風景(7) 南京路上での熱心に刺繍をする女。

 
 上海風景(8) 人民広場付近での物売りの男。籠の中身は鈴虫等の愛玩昆虫。かって清末に、
 最後の皇帝:愛新覚羅溥儀の心を慰めたのもこれらの愛玩昆虫であった。北京人は特に好む。

 
 上海風景(9) たまにこんな光景に出合うと、やはり心が痛む。

 
 上海風景(10) 上海の郊外には、こんなに美しい水郷がある。上海市内の「七宝」である。

 
 上海風景(11) 今は日本の都会ではほとんど見ない、懐かしい洗濯板での手もみ洗いだ。

 
 上海風景(12) 社会主義の中国でも信仰の自由はあり(憲法36条)、耶蘇教も信仰されている。

 
 上海風景(13) 南京路の歩行者街はやはりいつも活気がある。

 
 上海風景(14) さすがは食の大国中国。何でも食べ、四足は寝台以外、空飛ぶものは飛行機
 以外、二本足は両親以外と言われている。凄い話だが、ちと面白すぎないか(笑い)。

 
 上海風景(15) あらためて見るアジア経済の中心の一つである上海・外灘である。

 
 上海風景(16) 中国の母親は、肉類が好きなようだ。

 
 上海風景(17) こんな楼閣にも、歴史の重みを感じさせるのが、さすがに中国である。

 
 上海風景(18) 魯迅故居である。簡素で質素な机や寝台などがあった。

 

 
 上海風景(19) 郊外の公園。中国らしい風景である。湖面と塔の相性が絶妙である。

 
 上海風景(20) ダンスが好きな中国人であり、特に上海人はそのようだ。

 
 上海風景(21) 果物屋。豊富な種類であり、特に西瓜が目立つ。

        中国上海・復旦大学留学記(第20話): 伝説の夏王朝は? ~紹興市の旅

   中華民族の始祖にして大禹の終焉の地であり、中国第一王朝である夏王朝のその聖地
 を訪ねることができた。四十四年前の高校時代の漢文授業以来の念願であった。
   次の殷(商)王朝の殷墟のように、確実に考古学的証拠がある訳ではないが、司馬遷の
 「史記」の記載を始め幾多の文献的記述があって、紹興市の東南のこの会稽山が 夏王朝
 の地だと伝えられている。小雨が降る中、頂上までの石段を登り、この大禹銅像を背に写
 真を撮ることができた。茲に中国留学の目的の一つが達成された訳である。

   火车の紹興駅から タクシ- を飛ばし、市街地の東南に向かうと、なだらかな山に一際大き
 いモニュメントが見え、次第に大きく見える時、そこはもう大禹陵の公園である。入場料の50元
 を支払い、無料のカ-トに乗り込み少し走ると、古代の雰囲気満載の古陵の佇まいである。
 あいにく小雨だったが、山頂までの二尋巾の石畳をゆっくりと登ると、下記の写真のような
 巨大な大禹銅像が出迎えてくれる。中国治水の英雄としてもよく知られている大禹だが、大
 禹に関する有名な諺「三过家門而不入」( 家の門の前を三度通り過ぎたが、家には入らな
 かった。 )について、購入したパンフレットの中国語の解説を、私なりに日本語の古文調で、
 以下のように翻訳してみた。

   " 大禹、治水一心にして爾来、三十余年婚を成さずも、女娇と呼ばれし娘と
   後に婚せり。然れども婚後四日にして、愛妻と惜しみつつ別れぬ。

     大禹家を離れし時より、妻深く大禹を懐かしみ、子供をい抱きて山に登り
   て眺望し、朝に思い夕べに想いて、夫の帰り来たりしを渇望しつるなり。

     過日、妻遥かに遠望すれば、一軍の隊列向かい来たりし。
   走り寄りて近きに一目見つれば、果たせるかな、大禹なり。然れども、その
   御身余りの別人なるが如し。被りし帽は破れ、肌は黄色にして痩せこけ、握
   りしかの御手は大いなるたこに数多満てり。
    かの妻、喜びまた心を痛み、大禹を家に招き入れむと欲するに、夫(大禹)
   しばし休まむと思えども、時の過ぎゆくを恐れ、しばしも休まずなりにし。
    大禹の心中、賢妻の好意に感謝すれども、手を振りて妻に曰く、
    治水未だ治服せず、百姓未だに難を受くるに、我何処にか我が足を休む
   る所や有らんや。・・・ 省略 ・・・ 。

     妻に句を託し、頭を回らせず、手を前に差し向けて帰り去りぬ。
     背に聞こえ伝わりし" 父上、父上 ・・ "との息子慟哭の声。然れど大禹
   足を止むるを肯ぜず、一軍の列の諸氏の心を更に掴まんと欲す。

     平素、山の如き法を裁きたる皋陶、眼の縁を赤らめ大禹に曰く、君主禹
   様、女娇殿の求めに応じて職を代わるは如何、茲より直ちに帰宅され、家
   門を跨ぐるは如何や。大禹、皋陶の正面を見ずして答うるなり。即ち、前方
   を指さして曰く、" 聞こゆるかな河川の咆哮たるの声を。聴こゆるかな難民
   の呼救たるの声を。 " 茲に至りて、大禹に更に勧むる者有らんや。

   ・・省略・・・ 一軍引き続き前に向うて進軍しつるに、荒れたる山河に女娇の
   御姿も隠され、大いなる隊列の行進の音にて、大禹に呼びかける慟哭の声
   も既にかき消されつるなり。

     爾来、一年、二年、三年、・・・ 八年、大禹遂に艱難辛苦の治水を完成し
   つるなり。長き歳月の黄河、長江の奔流も遂に治められしとかや。 "

   拙い日本語への翻訳を行いつつ、今を去る四千年前の中国の故事に、生き生きとした
 歴史が偲ばれるのである。その頃の日本は、縄文期以前の果てしない狩猟生活ではなか
 ったか。文字無くして、東海の島々にて、文明の波未だ寄せずの未開生活なりしか。

   このパンレットの記載内容は、歴史文書に基づくものであり、つくづくと漢字文化の起源の
 遠きを思うのである。世界の文明には文字を持たなかった文明も少なくはない。しかし、
 漢字の「山」や「川」が自然の象形から作られたように、豊かな自然に恵まれた中華文化な
 ればこその、漢字の発明である。無論、日本はひらがなを発明し、朝鮮はハングルを発明し
 た。然れども、その源流はあまたの漢字であることに、何人も異論はあるまい。
  参道の向こうに見える大禹銅像は巨大である。

 
 2001年4月、紹興市・会稽山石帆山山頂に"大禹銅像"建成。高さ21m、重さ118トン。
 遥か北面を見据え、黄河長江治水の悠久なるを祈りたるか。

 
 紹興の街。呉越同舟の諺で名高い、越の国の都であった。


 【2013年05月】

        中国上海・復旦大学留学記(第19話): 中国のここは何とか・・・

   中国上海の滞在も100日を過ぎたが、" ここを何とか・・・・・ して "と思う点が多々ある。
 中国に対する苦言ではなく、中国を愛すればこその、一日本人から見た想いである。

   第一に、所かまわずに痰を吐くのは如何なものか。特に、中年の男性に多い。日本では
 はほとんど見られない光景で、文明国としては恥ずかしい。子供も大人になったら真似をす
 るので、まず大人の男性から改めるのが望ましい。道路は痰壺ではない。
   北京の冬は乾燥し喉を傷めやすいし、上海でも春先から黄砂が来る。しかし、中国人の
 男性は季節に関係なく、習慣となっているようだ。

   第二に、湯船に浸かる習慣が無いのは辛い。夏場はまだしも冬場は熱いお湯にゆっくり
 と浸かって温まってから眠りたい。疲労回復にもシャワ-だけでは不十分である。寮の各部屋
 には給水タンクがあり、そのタンク一杯分 しかお湯として温められない。湯船に入れて半身浴
 をしていても、次の一杯分が温まる間に既に湯船の湯は冷えてしまう訳である。
  これは文化の違いで仕方がないが、学生用浴場にも全く行く気がしない。日本人の為に
 極めて清潔なSpaが営業していると聞くが、軒数も少なく料金は余りにも高いと聞いている。

   水問題で言えば、中国は硬水であり、最初、寮での石鹸の泡立ちが悪いことにびっくり
 した。そして、水道水は飲めない。消毒していないからである。日本のように塩素消毒すれ
 ばよいが、これだけの人口なので作業も大変だろう。大学では、学生の為に特別に飲用水
 の設備がある。寮でも沸騰水が完備されている。カップ麺やお茶のお湯はこれを使用してい
 るが、今の所下痢などの問題は無い。この摂氏97度のお湯をバケツに汲んで湯船に入れた
 ら良いかもと思ったが、日本人として恥ずかしい行為なので、思っただけに留めた。

   第三に、街全体では綺麗な場所もあるが、所々極めて異常に汚い場所がある。ゴミの山
 を放置しているのは如何なものか。そして、悪臭が放出している。河川も極めて汚い。環境
 汚染問題は、今後の中国の大きな社会問題となる。道路を竹箒で掃除しているが、廃家屋
 など異常に汚い。なんとか撤去して見た目にも綺麗にして欲しい。厨房ももしかして・・・と思
 うと、気分が滅入って来る。

   上海のある露天市場で魚を捌いているが、なんと路上の軒下( 歩道 )の石の上で直接に
 である。これには驚いた。お客も平然として買っていく。まな板ぐらいしろよ、と言いたい。
 日本では絶対に有り得えない光景だ。清潔意識は環境でかくも変わるのか。台湾の屋台で
 も同じ バケツ で何度もなんども汚水のまま、食器を払っている。実に見たくない光景だ。
   又、有名な「臭豆腐」の臭さに鼻が曲がるかと思えた。(食べると美味しいとは聞くが)。
 但し、日本の納豆も外国人から見れば閉口ものだろう。日本人の私には、芳香である。
 下水や川の汚染による悪臭は酷い。川の綺麗さが都市の綺麗さであり文明国の証である。

   第四に、中国人は話が速くてとても長くて、機関銃のように喋って止まらないのには、本
 当に閉口する。特に旅行のガイドである。息をつく間もなく、たたみかけるように喋る。サ-ビ
 ス精神の表れだろうが、本当に喋りっぱなしであり、当然、こちらは閉口するのだ。話の中
 身が聞いて判れば苦痛も緩和されるが、当方の听力が低い段階では苦痛だ。これは私個
 人の自助努力(听力の向上)で、解決できる問題なのであるが・・・。時間がかかる。
   話ついでに言えば、中国の携帯マナ-はのべつまくなし状態である。しかも大きな声で。
 日本から来た者として、車中での余りのマナ-の違いに、本当に驚いている。

   第五に、一般に果物店や露店の果物は品質が不十分である。汁けや 甘さ が少ない。
 パサパサしていて美味しくない。バナナだけは当たり外れがないので、よくバナナを買うように
 している。気候や土質の問題か、農業技術の問題かは知らないが、美味しいフル-ツを食べ
 たいけれどもそれが無い。高い価格の果物でもそうだ。

   第六に、横断歩道中なのに右左折の車が走り込んでくる。危険この上ない。日本ではこ
 の事は道交法違反で減点である。中国は車優先なのか、何度も怖い目に遭った。警笛等
 (クラクション) も喧しい。車優先社会の中国では、特に外国人は絶対に轢かれ損である。

   第七に、紙幣の品質が悪く汚い。これは仕方がない事か。日本で子供の頃に、私は一
 円札を使っていた。これは確かな記憶であり、一円札一枚で芋飴一個が買えたのである。
 現在の為替レ-ト;1元=16円で計算すると、中国の一元札(RMB)は、日本円で16円となる。
 ここで思い出すのが、昭和35年( 今から53年前 )の日本の庶民家庭の生活費は、約二万
 円であった。現在では、15倍の30万円であろう。中国と日本の現在の一人当たりの GDP
 は日本が中国の10倍だから、単純計算として中国全体の生活費月額は3万円 となり、約
 2,000元/月となる。上海での最低賃金は 1,600元 と聞いている。ともかく、現在の中国の
 一元札は、現在の日本円では1.6円 となり、結局、結論として、中国の現の生活水準は、
 日本の 昭和35年頃 より以降で、日本の高度経済成長前の頃に近いのではないかと、即
 ち、昭和42-43年頃に相当すると思われる。実に粗っぽい推計なのだが・・・・ 。
   しかし、上海の最低賃金の月額1,600元(約3万円)で、一体どんな生活ができるのか。

   言いたいことは、日本の一円札もそうであったのだ。中国より少し綺麗なだけだった。
 しかし、もう一つ思い出すことは、小学六年で貰ったお年玉が、真新しい板垣退助の百円
 札二枚であったことである。この鮮明な記憶は今でも脳裏を離れない。私も子供心に明る
 い日本の未来を感じた。高度経済成長時代の到来、正に「坂の上の雲」の時代であった。

   第八に、私は既に九州人から大阪人になっていて、「なんぼの物や」という価値観、即
 ち、本当に価値ある物には金は払うが、価値の無い物には金を払いたくないと思うのであ
 る。そんな訳で、この物価が高い上海において、ときどき " ムカツク " 時がある。この品質
 でその金額は有り得ない。日本以上だと思うと腹が立って仕方がない。勿論、値切るが、
 あいても簡単に妥協しないので余計に腹が立つことがしばしばである。品質意識が低い。
 例えば、スニ-カ- などは絶対に文句を言いたい。この品質でこの値段、なんぼのもんじゃ。

 
 ある路上の魚屋である。これは綺麗な魚屋の部類に入るだろう。

 
 上海駅近くの風景。開発されてない昔そのままの風景だ。残念ながら、家屋内は汚い。

        中国上海・復旦大学留学記(第18話): 中国の大学について

   中国の大学について概説することは、甚だ僭越ではあると思うが、復旦大学・国際文化交
 流学院を通して、中国の大学が垣間見られるので、以下、日本の 国立大学との比較におい
 て述べてみる。

   第一に、思うことは、授業の進め方に甘い所も少しあるが、基本的に甘くない点である。
 出席&宿題点が約三割を占めるし、遅刻さえ先生によっては、減点している可能性がある。
 出席回数(出席率)が一定基準以下の学生の場合は、中間/期末試験は受験できない。

   第二に、少人数のせいもあるが対話型の授業である。しかも、我々漢語生の授業は当然
 に中国語(普通語)であり、質問、その他も、すべて中国語であって、しかも、とても速い。
 従って、一定能力以上の会話力が無いと、発狂するか、登校拒否になる。但し、「当クラスの
 レベルダウン」は可能だが、これも最初の一週間以内に限られている。21名からスタ-トした我
 々のクラスの同級生は、少ない時は3名、多い時でも13名程度である。他のクラスメ-トは一体、
 どうしているのか。同情できる理由もあれば、全く同情できない理由もある。

   授業中は、ランダムに当てられたり、座席順番で当てられたりするが、予習は必須である。
 予習をしてないと授業に出られないことと同じ事である。次々と質問され、その度毎に当然
 に中国語で答えなければならない。英語は禁止である。うっかり英語で言うと、ここは中国
 語の授業をしてる、と先生から怒られる。

   第三に、海外からの留学生等は、多様な文化を引きずっているが、国家間の比較による
 優劣意識が全く無いことが良い。無論、授業内容として、米国や日本は先進国で、中国は、
 未だ発展中の国家だと先生は言うが、意識は実にグロ-バルに平等である。当然な事として
 Gender(性差)の格差意識は全くもって無い。男女平等で共に働くのが当然の国家である中
 国である。"主婦"の存在が厳然と認められている日本などは、例外の部類に入る。この事
 は、即ち、主婦の存在は、果たして「日本の美徳」と言えようか。私の答えは"否"である。
   「主婦階層」の出現と消滅は、社会学的に究明されている。資本主義の産物であるこの
 階級は、建前、社会主義国の中国には、本質的に存在しないものである。

   第四に、学生はよく勉強する。中国の伝統的な「科挙」の影響かもしれないが、エリ-ト意識
 は強いであろう。「男子、志を立て郷関を出ず、学若しなるなくんば死すとも帰らじ」 である。
   一例を挙げると、厳しくて極めて重要な「高考」(大学入学資格検定試験)が毎年六月頃に
 実施される。その後の人生を決める程に、極めて極めて重要だと言われている。
   某先生の説明によると、中国のある省の受験生が60万人居て、試験の結果、私達の復
 旦大学に入学できるのは僅か50人で、北京大学なら更に僅か20人だそうである。如何に厳
 しい倍率かが、自ずと理解できるであろう。

   第五に、学生は ディベ-ト に慣れていて、討論に強く、英語での質疑応答も実に見事だ。
 勿論、全学生の平均レベルは定かではないが、トップのレベルを見たら平均値のレベルも解ると
 言うものである。そのトップのレベルが極めて高いのである。

   第六に、聡明な女子学生が多い。彼女達の数人に授業の課題としてインタビュ-をしたこと
 があるが、実にしっかりとした職業観を持っている。これは余談だが・・・・ 中国では、
 「地球上の人類は三種類しかなく、男・女・女博士(女性の博士号取得者)」 だと言われる。
 彼女達は、美人というよりは、知性的な顔立ちで、意志が強く教養に溢れた顔をしている。
 それらのせいか、特に北京や上海では、30才過ぎの高学歴未婚女性がとても多いそうであ
 る。そして、結婚しても「丁克(族)」(DINKs)が、最近は急増しているとのことである。
  育児は仕事にとってはマイナス要因であろうが、"小皇帝"も"80后"もまた問題である。

   第七に、市政府か中央政府の派遣かは知らないが、学生監督官が常駐しているのが、
 如何にも中国らしい。特に何かを監視している様子ではない。ただ、黙って立っている。

   第八に、学生は基本的に真面目で素朴である。しかし、なんと男女学生同士のその熱い
 カップルが多いことか。手を繋ぎ異常接近し? アツアツぶりを見せつけられて困る時がある。
 私には、何かのプレッシャ-の反作用にも思えなくはないのだが・・・・ 。

   第九に、学生達のスポ-ツも、芸術も、その他の自己表現のレベルも、高いと思えるのだ。
 特に、私が鑑賞した経験がある舞台芸術では、レベルは高いと思う。

   第十として、最後に、思想的アピ-ル、体制議論に関するアピ-ル等が無いのが、これもやは
 中国かなと思うのだ。中国社会を上から薄くかぶせている物は何だろう。答えは、・・・
 没有□□□就没有新中国、の□□□であると言う意見がある。私は・・・・・・ 。

   以上、中国の大学でも日本でも共通部分は同じである。しかし、日本の私立大学・文科系
 が就活に蝕まれている事と比較して、中国ではそのような悪弊は無いようである。確固とし
 た専門意識と職業意識、その両者が日本のように軟弱でなく、実に頼もしい。
   ただ、「高考」や「留学生の編入試験」の問題をネット上で拝見すると、日本の方がやはり、
 レベルは遥かに上である。これは蛇足だが、中国の理系大学では未だ ノ-ペル賞受賞者が居
 ないのも事実である。中国ファンとして、今後に期待したい。

 
 この写真の建物に私が学んだ311教室がある。

 
 光華楼近くのモニュメント、「驢背詩思」と刻されている。詩を愛する中国になんと相応しいことか。

 
 宋慶齢の顕彰碑

     中国上海・復旦大学留学記(第17話): 望郷( ノスタルジア )

  上海に来て100日が過ぎた。残りは一月半となったが、さすがに望郷の念が浮かぶ。この
 窓からの風景を眺めながら、朝の誰も教室に居ない時間帯で一人で歌う望郷の歌は、日本
 の懐かしい「椰子の実」などの海の歌である。
   大陸に居るからこその、思う島国日本の白砂青松の旅情なのか、椰子の実の歌である。
 上海では、近くの果物屋でも、中国海南島産の椰子の実ジュ-スが、手軽にストロ-で飲める。
  しかし、海南島よりももっと北の、日本の九州西海の渚への、熱きノスタルジア なのである。
  藤村の「椰子の実」の歌詞に、今更ながら日本人の Identity を思うと、泣けてくる。

  ♪ 実を取りて胸にあつれば あらたなり流離の憂い
     海の陽の沈むを見れば  たぎり落つ異郷の涙  ♪

   大雑把で掴みどころが無い大陸の風景に対して、時には"箱庭のように美しい"日本の
 島影と渚を無性に恋しく思う。海外滞在100日を越えての、望郷の念である。無論、大阪に
 は渚は無い。思うのは、故郷長崎の "西海の渚" なのであり、長崎南高校時代に先輩達
 が歌っていたコ-ラス部での名曲「渚歩めば」の調べである。この曲こそ私の望郷の原点の
 一つなのである。この曲を口ずさむ度に、やはり郷愁に感涙抑え難い。

      作詞: 山沖 慎 作曲: 佐藤 真 ( 備考; 歌詞の一部を漢字化した。 )

  ♪ 渚歩めば 聞こゆるは 遠き潮鳴り
    切なくも胸を打つ 遠く過ぎし日
    めくるめく光の波に 声あわせしぶきあげて
    二匹の魚の ほとばしる あの日の宴よ
    渚歩めば 懐かしき夏の 想い出うかぶ

    寂しき甘き愁い はかなくも 夢みたる
    遥かな海原は 藍にかげろう
    渚歩めば 懐かしき夏の 想い出うかぶ
    果てしなき 想い出 ♪

   外国に長期滞在して、初めて解る日本の良さ。実に愛おしい程の祖国への郷愁である。
 日本の熱くてたっぷりのお風呂が恋しい。ご飯と味噌汁、納豆と生卵と葱、海苔と焼魚の和
 食が欲しい。そして、浴衣姿に下駄と団扇で、日本の夏の街をそぞろ歩きたい。
   それもあと一月半で可能となる。丁度、浪華の天神祭り、京の祇園祭りの頃だ。

    ◆ 外つ国の風背に受けて春の海 愛しき渚へ夢はいざなう   - 恒

 
 長崎市内の実家から25km、今や市内に編入された野母崎の渚。私の郷愁の原点のひ
 とつでもある。この渚には、遥か台湾からの黒潮が寄せては返し、地球の海の呼吸を伝
 えている。

 
 光華楼311教室の窓から眺めた風景。方角は北であり、山東半島、遼東半島を望む。

        中国上海・復旦大学留学記(第16話): 大熊猫(パンダ)の話

   世界中の動物の中で、人間に愛される要素を最も多く持つ動物は、パンダ であろう。
 なんと可愛いのか。コアラや他にも可愛い動物は居るが、群を抜いて文句無しに可愛い。
 その理由について、知的能力の側面は除外して、多方面から分析してみよう。分析の視点
 は、科学的知識に立脚した、私の私見である。以下、パンダが愛される理由は、

  ①白黒ツ-トンカラ-の肥満体 ⇒ これだけで中国の赤ちゃん ("宝宝") を想起させる。
  ②体高が適切(大きくもなく、小さくもない) ⇒ 人間に近いサイズが、むしろ好感だ。
  ③性格が従順 ⇒ 愛玩動物としては必須の条件。
  ④毛並が綺麗 ⇒ 野生動物としての、汚い感じがほとんど無い。
  ⑤均整の取れた模様 ⇒ 白黒の毛並が、意匠的にもバランスがとれて美しい。
  ⑥目の周囲は黒毛 ⇒ 一見殴られた跡の感がして、同情を得る所がある。
  ⑦餌の99%は竹である。 ⇒ 一見雑食性でないことが、清潔感のイメ-ジを招来している。
  ⑧赤子は平均120gと極小 ⇒ 絶滅危惧種ということで、人間の同情を得る。
  ⑨他の動物を殺生しない。 ⇒ 他の動物の天敵でないことが、平和動物のイメ-ジ。
  ⑩舌の色はピンク ⇒ 舌色が青色の動物は冷温冷徹なイメ-ジだが、パンダはピンク色だ。
  ⑪遊び好き ⇒ いつも寝てばかりではない。よく遊ぶし、運動は大好き。
  ⑫集団にボスが居ない。 ⇒ 社会構造が希薄で、各自が平等の感がある。
  ⑬日中交流のシンボル ⇒ 中国からの贈り物として、日本で大パンダフィバ-を喚起した。
  ⑭鳴き声が不快ではない ⇒ 不快でけたたましい鳴き声ではない。
  ⑮呼び名のパンダが良い ⇒ " パンダ "という響きが、メルヘンチック で親しまれる。
  ⑯食事の仕草が可愛い ⇒ 竹を掴み易いように、特別の指を使って食事をする。
  ⑰鼻先の黒毛が良い ⇒ 鼻先の黒毛部分は、顔全体の良いアクセントになっている。
  ⑱積極的に進化したこと ⇒ 環境適応の為に、雑食から竹主食に自ら進化した。
  ⑲逞しさの温存 ⇒ 手足の鋭い爪は逞しさを温存して、逆に謙虚な姿勢に見える。
  ⑳全体の体型が丸っこい。 ⇒ これだけでも愛くるしさを十分に喚起する。

   私としては、パンダ が進化論的に、何故に主食を「竹」に限定したか、に特に興味がある。
 主食を限定して環境変化に対応したのか、主食を限定したが故に、将来は絶滅するのか。
 現実は、パンダは今日でも実は雑食性なのである。しかし、食餌の99%は、実は「竹」である。
   写真のように動物園でまじかに観察すると、実に美味しそうに竹を噛み砕いては飲み込
 み、笹の葉は殆ど食べなかった。人間の観点からすると、確かに竹はまずくはないが、特
 に甘くて美味しいとも思えず、栄養素的には不十分であろう、と思えるのだが。果てしない
 進化の過程で、生物は生体的に必要な栄養素を、選択して進化して来ているようだ。
   例えば、肉食動物のライオンは、なぜ草食動物の肉 だけで足りているのか、疑問だろう。
 草食動物を食することでその植物性の栄養素をも体内に取り込んでいるとしたら、疑問は
 即座に氷解するはずだ。水分も然りで、他の動物を食して水分を得ている動物も多いので
 ある。まさしく食物連鎖の妙である。がしかし、やはり、パンダは例外である。

   パンダの天敵はかっては虎などであった。しかし、現在、両者の棲息範囲は重なっていな
 いが故に、パンダの天敵は居ないと言って良い。しかも、1年中枯れない竹を主食に進化し
 たとは凄い智慧である。ただし、竹も60年周期で不作となるのではあるが ・・・ 。
 自らの環境順応策として、食の限定化路線を追求したパンダだが、人間の保護は不可欠で
 ある。特に繁殖能力や育児能力等に乏しいのが、このパンダの弱点でもある。

   熊と猫の合体名としての「熊猫」。レッサ-パンダ-は全く様子が違うパンダである。こちらは、
 大熊猫のパンダであり。熊と猫のDNAのそれぞれ何%を継承しているかは興味深い。呼び
 名はパンダでも、生物進化論や分子生物学上ではどうだろう。竹を持つ為に独自に進化し
 たと聞く 第6、第7 の指は、猫にも熊にさえも無いものである。
   そしてこの白黒の ツ-トンカラ- の個体色である。当然、生息環境下では目立たないように
 進化している訳ではあろうが、何故に、この色、この配色、この デザイン なのかを考察する
 時、生物進化学上の研究対象としては、さだめし面白いに違いない。
   以上でひとまずパンダの話は終わるが、本当に可愛くて貴重で、稀有な動物である。

 
 上海動物園の人気者:パンダを撮影。20枚撮影中のベストショットである。

       中国上海・復旦大学留学記(第15話): 無錫旅情

   土曜日の好天下、22年ぶりに無錫を再訪した。下記に掲載した22年前の自分の写真と
 比較する為に、敢えてこの企画とした。今でも気分は若いが、さすがに22年前は若かった。
   38歳と言えば、娘は最も可愛い盛りだったが、しかし仕事的には精神的に苦しかった。
 幸い多趣味でストレスに縁遠い性格なので、会社の労働組合主催の全社挙げての一大行事
 「高貴優雅の旅(スコ-レ・クル-ジング)」に、研究所でただ一人、参加した訳である。
   神戸から中国の上海・無錫、台湾の台北・鳥来、沖縄の石垣島と巡る長い船旅だった。
 眠るのも忘れて徹底的に、遊び・学び・交流を深めた事は、生涯の貴重な想い出である。
   こうして、その後22年が過ぎ、娘は大学卒業後、立派に社会人となり、妻も健康で、私も
 無事に定年を迎え、現在、中国の大学に留学していることは、本当に幸せな事である。

   あの頃は、上海から無錫までは数時間かかり、汽車(中国語では火车)には軟座・硬座の
 区別があり、お茶は服務員がお湯を運んで来て、汽車は田園地帯をのどかに走っていた。
 組合中央執行委員長ご夫妻に、お見知り置きを頂いたのも、この時である。
   無錫は上海からはそれ程遠くはないとは知っていたが、長い時間がかかった気がする。
 太湖の大きさには驚いたが、帰国して中国の地図上の太湖の余りの小ささに 二度目に驚
 き、中国大陸の余りの広大さを認識して、三度目として、又、驚いたことになる。
   無錫は、まだ夜も暗かったが、この22年の中国の発展には目を見張るばかりである。
 下段の写真のように、バンド演奏で「無錫旅情」が流れた時、我先に檀上に飛び上がって、
 無錫旅情を日本語で歌ったが、すぐに後を追ってマイクを持って歌った写真の彼女は、今は
 どうしているだろう。はからずも日本人二人の目立ちたがり屋 デュエット になった訳である。
 (笑い) 参考までに、歌唱力は勿論、中国語で "非常好" と自負している。
   蛇足だが、彼女は歌詞を見ながら、私は歌詞を見ないで歌っている。 (これも 笑い)

   今も昔も、無錫は私の関心事(歴史など)としては、特記すべきものは余りない。無錫の
 命名の由来は、錫の鉱山が漢代で掘りつくされ、錫が無くなったから無錫となった訳であ
 る。今は錫は無いが太湖があり、中国五大湖水中の第三位の面積を誇っている。また、
 屋敷の庭園に使われる太湖石の産地でもあり、無錫の特産品は「泥人形」である。
   近年、中国中央TV局(CCTV)の撮影用として作られた テ-マパ-ク として、「三国城」と
 「水滸城」がある。私もロケのセットながら三国時代の往時の雰囲気を散策して楽しんだ。
 三国城では、騎馬による戦闘シ-ンがあったが、あれだけの装備ならもっともっと迫力ある
 演出ができたと思うが、事故を恐れてなのか、歴男の私には残念でならなかった。

   無錫では、福岡出身の尾形大作が歌った「無錫旅情」を忘れてはならない。1986年の
 レコ-ド発売で130万枚以上の大ヒットとなった。彼は2年連続の紅白出場を果たした。中山
 大三郎氏の歌詞もとても良く、竜崎孝路さんの作曲もなかなか軽快で良い。一気に日本
 中に中国ブ-ムを招来した感であった。この曲で初めて無錫の名を知った人も少なくない
 はずである。この曲は、「 企画力の勝利 」の賜物と言えよう。
   1986年は、日中国交回復から14年後である。十分に日中交流が相互浸透した時期
 の満を持しての、流行歌のご当地ソングとして、中国の無錫が選定された訳である。
   無錫には何も無ないが、太湖はある。だからこそ太湖にフォ-カスし易いという企画だ。
  「無錫旅情」の一番の歌詞は、

  ♪ 君の知らない異国の街で 君を想えば泣けてくる
     俺など忘れてしあわせつかめと チャイナの旅路を行く俺さ
     上海 蘇州 と汽車に乗り 太湖のほとり無錫の街へ  ♪

   単純な内容の歌詞であり、演歌の歌詞の定番ではあるが、なぜか、エキゾチックである。
 ご当地ソングの手法としての、圧倒的に有名な都市のイメ-ジを活用したのではなく、逆に、
 無名の都市( 無錫 )の曖昧さ・神秘性・未知への好奇心、を上手く利用したと思うのだ。
 手垢の付いてない都市が必要で、それは蘇州では駄目で(蘇州は「蘇州夜曲」で余りに
 も有名)、その先の南京も戦争のイメ-ジが強すぎるので不可で、太湖に着目し、無錫の
 ご当地ソングとして企画した事が、成功の秘訣であったと私は分析する。

   二番、三番の歌詞は、演歌調の定番の歌詞の内容とスト-リ-で、私はやや不満だが、
 大衆受けには良いのであろう。なんせ大ヒットしたのだから。この世界、売れてナンボの世
 界である。歴史性や格調高過ぎる芸術性は、不要と知るべきであろう。
   実は本音を言えば、私は作詞家として成功したいとの思いを、心の底に持っている。
 なぜなら、自身の創造性が大衆に愛されることは、無上の至福感だと思うからである。

   写真の背景は、所謂、三山であり、素晴らしい島である。道教の寺院があり、山中に
 は滝もあって、独特の雰囲気がある。太湖の広々としたすがすがしさを実感できる。

 
 22年後の無錫。60歳、太湖遊覧。背景は太湖仙島(三山)。撮影日付2013年5月25日。

 
 22年前の無錫。38歳の私。熱唱曲は「無錫旅情」。撮影日付1991年4月25日。

       中国上海・復旦大学留学記(第14話): 中国の地理と歴史の話

   毎朝、授業開始の3時間前から授業の予習をしているが、そのしばしの息抜きの間に、
 教室に飾っている中国の全国地図を眺めながら、中国の地理と歴史について考える。
  下記の写真に示す中国全土の地図は、いろんな事を私に教えてくれる。
だから、中国の
 地理と歴史について熱く語ろう。私は中国迷(中国マニュア)だから ・・・・ 。
   傍らのスコッチウィスキ-も、今初めて開封した。時間良し、酒有り、意欲満々からの開始だ。

   中国のこの形は何だ。中国の象徴は龍だが、龍の形ならベトナムが最上である。中国の
 国土の形を動物に例えると馬である。河北省から東北三省にかけての形が 馬頭の形で
 あり、それは正しく北西方向を睨んでいる。これ即ち、中国の地理と歴史の暗示そのもの
 なのである。北西部の騎馬民族との攻防の歴史が、中国北方の歴史でもある。そして更
 に、中国には東の概念(指向性)が希薄なことが面白い。即ち、東への関心が薄いことに
 最初に我々は括目して置くべきである。このことは実に重要なポイントである。

   この馬頭の立て髪部分は、中朝及び中露国境に相当する。中朝国境を中心にして、分
 布する朝鮮族の存在は、現代政治に少なからぬ影響を与えている。そして、象徴としての
 長白山(北朝鮮では白頭山、2,744m)と噴火口の天池は朝鮮族にとっては特別な存在と聞
 く。私も本当に行きたいと念願する山であり、現実に中国側からは行けるのである。その
 日が我が残りの人生にあるか否かは不明だが、その実現の確率は低いだろう。

   更に、中国全図を見て思うのだが、中国全土が社会主義の象徴としての ハンマ- の形に
 見えないか。馬頭の部分がハンマ-の持手の部分で、ハンマ-の本体は中国のそれ以外の部
 分であって、北西から東南にかけての矩形をしている。そして面白いことに、ハンマ-は何処
 を打っているのか。それは南シナ海への出口である。このことは偶然な事だが、実に面白
 いと私は思う。又、見方によっては台湾を打っているようにも見える。中台の因縁浅からぬ
 関係が想起されて面白い。又、上記矩形(長方形)はバズ-カ 砲にも見え、引き金が都合の
 良いことに山東半島に符合する。

   余談だが、この山東半島にある青島はかってのドイツの侵略地で、その要塞を日本軍が
 空爆した際は、航空機は未だ双葉機であり、爆弾の投下法も原始的な手動式であった。
 そんな映画「青島要塞爆撃命令」が昔日本で上映され、少年の私は観たことがあった。

   かっての ロシア帝国 は南方政策を進め、現在の中国も東南海進出を進めている。台湾
 付近迄は日本領海との関係から厳しいが、バシ-海峡 (台湾南端の海峡)以南は中国の権
 利範囲にあるだろう。従って、越南との絡みもあるが、中国は南の海に出たいのである。
 経済的にも外交戦略的にも、現代中国は史上初めて、東南( 東 )方向を志向したと言える
 のだろうか。海に面している国家は、古来より制海権を渇望するのが常である。

 【北部地方】

   まず、北部中央が窪んで凹字型であるのは、言うまでもなくモンゴル族(蒙古族)の領域で
 ある。その南側は広い範囲に及んで内モンゴル自治区として、既に中国に編入されている。
 したがって、この凹みは元朝の歴史の名残と言えよう。「元朝秘史」という珍本の詳しい内
 容は未だ不勉強だが、元朝にとって大海とは何なのかを考えると面白い。そして、それは
 既に実験されている。日本史上における所謂,元寇である。大陸から朝鮮半島を通じて島
 国日本へ侵攻する際、戦略上の問題は無かったのかと思うのである。日本側の鎌倉幕府
 の重鎮:北条実時以上の知恵者が居なかったとは、とても思えないが・・。所謂、台風
 シ-ズンを避けるという単純な選択もできなかったのかと、私は訝るのである。

   因みに、北条実時は実に博覧強記の人で無類の読書家として知られ、現在にも残る金
 沢文庫(鎌倉市)を開設した智者でもある。当時の大陸情報は、留学僧や南宋との貿易商
 人らが博多に伝えた僅かな拠り所しか無かったはずである。逆も然りで、フビライ汗にどれ
 だけ正しい日本の情勢が伝わったは疑問である。なぜなら、朝鮮半島においては、虐げら
 れた高麗軍には厭戦感が漂い、また「三別抄」の激しい抵抗もあったのだからだ。

  【東北地方】

   次に、馬頭の形の由来は、勿論、清朝に起因する。征服王朝としての清朝は、女真族か
 ら満州族へ族名を改め国号も清と称した。明に対する清とは「火に対する水」であり、水を
 以て火を制すの意味である。明朝を討たんが為の族名変更と国号樹立の訳なのであり、こ
 の東北部の盛り上がりこそが、中国最後の清王朝の名残なのである。この所謂、"満州"に
 ついては、特別に、後日、改めて語りたいものであり、それだけの内容(話題)がある。

   二年半程前、旅順・大連・金州を旅行したが、この時の印象は、大きく心に残っている。
 そこは確かに中国なのだが、中国らしくない異文化の確かな香であり、潮の香りでもある。
 ロシア の影響も濃厚である。大連とはロシア語で 「ダ-レン」、即ち遠いと言うのが原義である。
 203高地に登ると、日本人ならば誰しも、あの「坂の上の雲」の世界を想起するはずだ。
 この東北地方(満州)と当時の日本との関わりは、とても言葉では言えないくらいに深い。

  【南部地方】

   更に、南部は遥か海南島の彼方まで中国領であり、海南島の最南端には、中国最南端
 の記念碑があると聞く。この島からすぐ西は、もうベトナムの景勝地(海の桂林)ハロン湾である。
 この海南島は中国のハワイで、この島のお蔭で、上海ではいつでも椰子の実ジュ-スを生で味
 わうことができる。これは中国統一後に諸国を巡幸した秦始皇帝の所産と言えるかもしれ
 ない。始皇帝は短い時間の間に、全国に郡県制を実施した。
   勿論、この海南島まで始皇帝が巡幸した筈もないが、秦とChinaの関係は濃厚なのであ
 る。Chin(秦)+大陸の接尾語(a)を付けた単語が、正しく China と同一である。
   この南部地方で必見すべきは、桂林である。子供の頃、実家にあった掛け軸にこの桂林
 のような山水が描かれていたのを思い出す。「白髪三千丈」の大げさな中国的誇大表現を
 信じていなかったが、桂林を見てその雄大さに圧倒されたのは、今を去る15年前である。

  【西南部地方】

   雲南省を始めとする少数民族の居留地である。既に、三国時代には蜀国の支配下にあ
 り、少数民族ながら早くから漢民族の支配下にあったと考えられる。この中国の所謂Deep
 Southは、実は日本人のル-ツの一つと言われている。だからこそ、幾多の雪嶺を越えて、
 昆明・大理・そして 香格里拉 (シャングリラ)、を訪れたいと思うのである。少数民族の生活文
 化の様式に、日本文化の源流を懐かしく見る思いがするであろう。代表的な民族は「納西
 族」で、人口は約30万人、独特の"東巴文化"で有名である。
  もう一つ忘れてならないのが「客家」の存在である。鄧小平氏も客家の出身である。

  【西部地方】

   世界の屋根のヒマラヤこそ、中国における自然のGreat Wallと言うべきであり、その内側
 はチベット族の居住地である。新中国建国後、人民解放軍が中国に侵入したことは歴史的
 事実として、若干の政治問題を残しつつも中国の領土となっている。首都北京から、 ラサ
 までは約45時間の列車の旅である。飛行機ならばいきなり富士山9合目に到着することと
 なり、充分に"高原反応"(日本語で言う高山病)の危険性がある。このチベット、即ち、西藏
 は、新生中国の版図拡大活動の結果と言えよう。
   "西藏"は、西に隠れるという意味なので、なかなか チベットの地理的位置を言い得て妙
 だと思っていたが、実はそうでないようだ。チベットと言う名称は、現在の自治区中央部を指
 す古称「トゥボット」に由来する。漢字の藏は、ラサ・シガツェを中心とするウ-・ツァン地方の音訳
  "卫藏"に由来する。従って、"西藏"とは中国の西にあるツァン地方と言う意味である。

 
  遥かなる拉薩のポタラ宮殿を拝観したい。このポタラ宮殿を建造した偉大なるダライラマ五
 世と、その次代の異色で悲劇的なダライラマ六世のことを偲んでみたいと思う。しかし、この
 ダライラマ六世は、不思議な人で、聖職の最高位にありながら、夜な夜な紅灯の巷に入りび
 たり、俗世の快楽に酔いしれたと言われている。作った歌( poem )も世に伝わっているが
 中々の力作であり、私はいくつかを読んだ。聖人でも俗人でもない我が身の、その苦悩の
 果てに、偉大なる先代のプレッシャ-もあってか、短い生涯を終えた。その祭壇は 歴代の
  ダライラマ の中で唯一ポタラ宮殿には無い。( 注; ダライラマ六世は、1705年、23歳で逝去 )

   チベットにおける ダライラマ の選定法については、知っている諸氏も少なくないであろう。
 即ち、リ・インカネ-ション(生まれ変わり)の思想である。先代の逝去日時と同時に誕生した男
 子をチベット全土から探索し、先代の遺品に異常に執着を示した子を次の ダライラマ とする
 という選定法は極めて独特である。 ~ ここで疑問が発生する。
   逝去後直ちに再誕生するのなら、「チベットの死者の書」は不要なのかと。聖人なるが故
 に、既に輪廻転生を超越しているのかと。それにしても、忙しい人生の連続かな。少しは
 休ませて上げたいものだと思う。この選定法のミスマッチの悲劇がダライラマ六世なのかどうか
 は、想像の域内だが、彼自身の自らの記録(詩文)を読み解くことは、実に興味深いと言わ
 ざるを得ない。今日でもその残された詩文は翻訳で読めるのである。


   " チベットは、自然が人間を、圧倒している。 "と、有名な社会学者の上野千鶴子 女史
 (64歳、元東大教授)は述べている。有名な「チベット死者の書」は中陰に至るhow to 本とし
 て有用と聞く。このような本が生まれる素地として、チベット仏教、鳥葬の風習、何よりも標
 高3~5千mの厳しい高原である。この遠因は今や周知で、地球のマントル対流なのである。

 
 ポタラ宮殿(チベット自治区、ラサ) あまりにも有名なチベットの象徴である。


  【西北地方】

   ここは所謂、西域でありシルクロ-ドのル-トである。中国特産のシルクは遥か ロ-マ まで交易
 されたが、その西域経営は、前漢帝国の武帝により始まると言われる。張騫の活躍や汗
 血馬の発見と飼育により、中国の眼は遥かに西の彼方に広がったと言う。このことは、前
 漢の偉大な武帝の見識の所産と言えよう。
   長安(現在の西安)に行ったことがあるが、シルクロ-ドの香り満載である。大雁塔に登ると
 遥かなる西域が瞼に浮かぶ。だから、将来いつの日か玄奘三蔵の「大唐西域記」をじっく
 りと熟読したいと思うのである。この名著は、岩波文庫にもあるのだから。

 【中国真央部】

   地図を見て敢えて述べれば、蜀国の成都と古都長安を中心とする地域ではあろうか。
 ここは正に、漢中から広元へと至る「 蜀の桟道 」があり、歴史的にも特に関心が高い。
 これらの地域の北方には、古戦場として名高い「五丈原」や麦積山石窟があり、東南に
 は、漢詩でも大変有名な「白帝城」があり、西には美しい九寨溝があって、そして南には、
 長江沿いの大都市「重慶」がある。中心部は秦嶺山脈であり、この山々が黄河の流れを
 大きく北方へ突き上げていると言えば、それは言い過ぎだろうか。

   以上、概観してきたように、中国では 「東」という地理的概念が希薄である。ところで、

   中国では、山と言えば、泰山であり・・ その東西に、山東省、山西省 がある。
   中国では、河と言えば、黄河であり・・ その南北に、河南省、河北省 がある。
   中国では、湖と言えば、洞庭湖であり その南北に、湖南省、湖北省 がある。
   尚、海の名が付く青海省と海南省があるが、前者の海の意は湖水の意である。 

   ここで、古代中国を考察する際の重要キ-ワ-ドは、諺の「中原に鹿を追う。」なのである。
 中原とはなにか、それはどこか。現代中国の版図から見れば、まさに中国最東部である。
 より正しく述べれば、黄河下流流域と言うべきである。
   即ち、中国は東から始まったことになる。中国の伝説的な最初の古代王朝「夏王朝」は、
 堯、舜、禹と続いた三皇五帝の禹が、現在の浙江省紹興市南部の会稽山付近に建国した
 と言う。まさに、現在の中国の、最東端に位置するのである。
   ≪ 夏王朝は、BC2070年頃に禹が建国し、BC1600年頃に殷(商)によって滅亡。 ≫

   伝説の夏王朝の後は殷王朝である。その都の 殷墟 では数々の考古学的発掘がなさ
 れている。その場所は、現在の河南省安陽市であり、近代的なビルが林立する市街地とな
 っていると聞く。殷墟はまさしく華北平原の西南に位置している。
   殷を討った周は、BC1046年に建国し、都を現在の陝西省・西安市の南西に定めた。
 中国の王都は、ここに秦嶺山脈中の盆地の西安に鎮まったのである。

   そして、中原とは戦国の七雄が覇権を争った華北平原である。古代中国とは、この華北
 平原そのものであり、その最西部に在ったのが最強国の戦国の雄:秦であった。従って、
 統一後の始皇帝には東を目指す指向性はあったが、更なる指向性はなかった。不老長寿
 の妙薬があると言う蓬莱山(現在の日本)に、興味があっただけである。古代中国から見れ
 ば、東は大海であり、未開の島はあっても大陸は無いのである。
   余談だが、 この論拠として、私は古代中国占術の易経「八掛」の思想を茲に紹介する。
 「八掛」とは自然現象を八の事象に区分したもので、天・沢・火・雷・風・水・山・地、である。
 この中で「海」の事象が無いことに注目して欲しい。天に対しては地なのである。

   参考迄に、弘法大師:空海は、四国室戸岬の洞窟で修業し、悟りを開いた時に覚醒して
 名付けた自らの名を、天と海から取って空海とした。私もその洞窟に入ったことがあるが、
 洞窟からは本当に空と海しか見えないのである。日本では天に対しては海なのである。中
 国では、山や河の認識はあっても「海」に対する認識が希薄なのである。世界観の中での
 海は本来的に希薄なのである。

   これは私の独断と偏見だが、地形的にも中国を中国たらしめているもの、とは何か ?
 それは、「西蔵高原」であると私は思う。そして、その原因はインドである。ユ-ラシア大陸に対
 するインド亜大陸の衝突と潜り込みが総ての遠因である。(プレ-ト・テクトニクス理論) この事に
 関して、飛躍するようだが、チベット高原 が無ければ日本の梅雨もない、と言われている。
 この気象学的考察は、面白いので、後日の記載に譲ることとしよう。

   話が戻って、古代国家の成立の為の必須要件は、豊かな食糧生産の為の土地である。
 中国の地図を見て、平野があり、河川があり、気候が温暖なのは、華中平原である。だか
 ら中国の諺に「蘇江満つれば天下満つ。」とあるように、江蘇省と浙江省は一大穀倉地帯
 なのである。蘇江の「蘇」、蘇州の「蘇」の字は、米と魚が豊かであるという意味である。

   人口衛星からの夜の地球を眺める時、街の明かり(人の暮らしの密度)は、中国の東海
 岸沿いと二大河川沿いに集中していることに気付くはずである。中国は人口をはじめとし
 て、人の暮らしの多くの活動指標が東に偏在しているのである。中国の重心は、東(もしく
 は東北東)に偏心していると言っても過言ではない。極論すれば、西半分は不毛地帯なの
 であり、荒涼とした大地や高地なのである。
   そこであらためて中国とは何か。中国文化は即ち、・・ 「華中北文化」なのである。
 華南地方の広州市を中心とした華南文化もあったが、その影響力は小さかった。

   否、との声が聞こえて来る。現代中国の基礎はすべて明・清時代にあるという学者もい
 る。となると、清の所謂、満州文化はどうなるのかと、その影響たるや如何と・・・・ 。
   答えの一つとして、清朝は巧みな同化政策、懐柔政策を採ったと言われている。即ち、
 漢民族文化の受け入れるべきものは受け入れ、強要すべきものはしたと言う。例えば、
 科挙の継承は前者で弁髪の強要は後者である。巧な統治で清朝の隆盛をもたらした康熙
 ・雍正・乾隆の三代は、当時の世界最盛の国家と言えよう。特に康熙帝は中国史上最長
 不倒の在位60年(1662-1722)を誇り、"康乾盛世"と称されている。

   ここで面白い話を紹介する。蒋介石が毛沢東に対して、中国分割統治案を提案し、毛沢
 東はそれを拒否したと言う。その時、地理上のどこを境界線の案としたのか。答えは、「長
 江」である。この中国における南北意識は、従来よりあった。幾多の王朝の中でも有名な
 のが、宋朝の分裂による北宋から南宋への移動である。長江を境界線とすることはごく自
 然な発想であり、首肯できるものである。

   しかし、中国の諺にある「南船北馬」の認識として、この際の南北の境界線は、私には
 長江とは思えない。それは長江ではなく黄河であろう。
   時代と共に諺も変遷するが、中国の古代文明と言えば、やはり「黄河文明」である。
 しかし、最近では長江下流流域の所謂「揚子江文明」の研究も進んでいると、聞いている。
   東西と南北の二軸で中国を分割して思考する時、中国の原点はやはり東北部分の第一
 象限部分と考えて良い。その中心に鎮座するのが、言うまでもなく泰山である。泰山こそが
 中国の原点の臍である。封禅の儀式にふさわしい名山である。

   だが、この天に感謝する「封」と地に感謝する「禅」の儀式を、一貴族が勝手に行ったこ
 とを知ったかの孔子が、"何故、止められなかったのか" と、弟子に嘆いたという逸話が残
 っている。地上を統一し民に幸せを与え、天地に感謝し、天地より王たる承認を得る為の
 神聖なこの儀式を、一貴族にすぎない者が挙行するとは、甚だ僭越であると・・・・ 。

   そして更に面白いことに、始皇帝が泰山に登る途中に大雨に遭遇し、その意味を儒者
 達に問うた時の儒者達の返答が、天が怒っている(この儀式を認めていない)と伝えたと。
 この出来事が、後の焚書坑儒の遠因になったという話がある。それは本当だろうか。

 
 311教室の東壁に掛かっている中華人民共和国の全図


       中国上海・復旦大学留学記(第13話): 寮の猫と中国の哲学論議

   毎日の生活の時間帯の中で、いつの間にか寮の猫に餌を与える習慣が付いてしまった。
 午後2時15分に授業が終わり15分で徒歩帰寮し、宿題や予習をして午後6時~7時の間は、
 寮1階のロビ-に降りて、夕食や酒、お喋りで1時間を過ごす。その間に、1本2.6元(約42円)の
 ソ-セ-ジを、複数の猫に毎日2本与えるのが習慣となっている。
   寮の玄関外側で、写真のように白猫・黒猫・三毛猫にいつも与えている。最近では私が一
 階のロビ-に降りると、ニャン~と泣いて寄ってくる。そして売店の前で私を待ち、私がソ-セ-ジを
 見せると一目散に餌場となっている玄関外に走っていく。実に可愛いものである。そして、複
 数の猫に手で千切ったソ-セ-ジを平等に投げ与える。投げ終わって、猫たちの食事の姿を眺
 めながら、しばしの間、私は考えるのである。

   設問①: 今この瞬間、この猫と私の自己意識が、突然入れ替わったらどうなる?

   【答えA】 何も変わらない。私は食事後、しばらくして、いつものねぐらに帰る。
         猫は自分の身体にとまどうが、やはりいつものねぐらを捜すだけ。
       世界は何も変わらないが、授業に出なくなり、叢に寝そべっている猫の
       私がやがて発見され、結局は、行き倒れ人として、処理されるだけ。

   これはありえない話だが、思考実験によって、人間は考えることができる。私も猫もこの時
 この場で、同じ生物、DNAも類似した哺乳類として、この世に、この地球上に、同時に存在し
 生きている。何が違うのか。何が世界に対して、どう違うのか。

   【答えB】 存在の価値が違う。世界に与える影響力の差が、格段に違うはずだ。
         それは然りだろう。猫一匹と人間一人とでは、全く違うはずであろう。
       だが、しかし、本当にそうだろうか、絶対にそうだろうか。

   授業で習ったことだが、猫に関する中国語の表現で中国人の誰もが知っているのが「猫有
 九条命」である。聴いたとき何のことかさっぱり判らなかったが、「条」とは細長いものを数え
 る際の量詞で、ある種の動物の「匹」と同じ語法である。つまりは、猫は究極の命を持ってい
 る。猫は殺しても死なない。これでもその意味が判らなかったが、隣の席の英国人W君が、
 英語で書いて教えてくれた。なんだそれなら知っているぞと。
   彼の英文は, A cat is very hard to kill, every time it falls it lands on its feet.である。
 即ち、猫を何度放り投げても、その運動能力(平衡感覚)で、いつも四足で着地して、安全で
 ある。他方、人間なら、頭蓋骨骨折で簡単に死んでしまう。この厳然とした事実を考えると、
 人間の命など実に軽くて、儚いものである。だが、猫もさすがに高層ビルからの自殺はできま
 い。人間はできる。がしかし、そもそも猫は自殺はできるのか。高層ビルから猫を放り投げた
 ら、やはり四足で立つだろうが、骨折して結果的には、やはり落命するだろう。例え猫の四足
 のクッションが如何に有効であったとしてもだ。悲しいかな人間の老人は、旅先の浴室で転倒し
 て、それが原因で客死する人も少なくないのである。

   【答えC】 ある簡単な動作では猫は死なない。人間は簡単に死ぬ。しかし、
         猫の自己意識を持った人間の私は、猫のことはいざ知らず、人間
       の私の自己意識を持った猫は、どう行動するのか。

   夏目家の猫なら、ご主人様の漱石先生に対して、前足で書いて問うであろう。中国の猫な
 ので、「我还没有名字、請給我名字。」
( 私にはまだ名前がありません、名前を下さい。)と。
 漢籍に詳しい漱石先生も、すかさず茶目っ気を出して、即座に「我的小説従猫名字没有的時
 候開始~」
( 私の小説では猫には名前が無いことから始まる・・・。)と書くだろう。
   注: この時期(明治時代)は、まだ中国語の簡体字体は無い。
   また、中島敦「山月記」で虎に豹変した人間では、どうなるだろうかも興味深い。

   養老先生の「唯脳論」の立場に立てば、脳が唯一なので、性同一性障害どころの問題で
 はない。発狂による 自害死 か、限りない諦観の果ての 餓死 しかあるまい。そう考えると、
 体と自意識は一体不二でなければならない。が、それでも、しかし、自分の体の嫌いなパ-ツ
 に日夜うんざりしている人も、少なからず多いはずである。私は私のここが好きでここが嫌
 いとは、人間の女性ならば、猶更に深刻である。他方、猫はどうであろう。オスの猫は美顔の
 メス猫を常に求めているのだろうか。

   話は戻るが、人間は簡単に猫の命を奪えて、猫は簡単には人間の命は奪えず、ほんど
 無理である。無論、当今の三味線の需要は知らないので、猫を処分することはあまり無い
 と思うが、いたずらでも方法によっては新聞ネタとなる。ゆめゆめ、猫を虐待をする勿れで
 ある。猫はエジプトのミイラに成る程に、五千年の昔からの人間の老朋友なのである。

   再び猫の食事の話をすると、一般に野良猫の食事は気まぐれで少食である。犬は餌を
 与えると何時でも食べるが、猫は食べないこともある。これはそれらのル-ツの動物の性質
 に起因すると言われている。即ち、猫はいつでも狩をして食事にありつける動物を先祖とし
 ている。従って、それ故に食事には気まぐれであると。

   しかし、悲しいかな犬猫も人間も、時間がたてば必ず空腹になるのである。血液中の空
 腹物質、例えば遊離脂肪酸が多くなると、空腹感を感じ、更に増えると怒りっぽくなり、もっ
 と増えると犯罪を起こすと医学的にも証明されている。他方、満腹物質、例えばブドウ糖を
 点滴で血液中に注入すると、食事をしなくても空腹感を感じないという。「人間は、畢竟す
 る所、蛋白質と電気信号の集合体」と極言する学者も居るが、なるほどそうかもしれない。
 喜怒哀楽も、生老病死も、死生観も価値的創造も、これ総て蛋白質内を駆け巡る電気信
 号の結果としたら、話は簡潔で解り易い。猫も同様で脳の内容量は人間より格段に少な
 いが、基本設計はほぼ同じなのである。

   「世界に対して影響力を持ちたい。この世に生きた証を残したい。」というこの思いは、
 猫には無くても人間には有って、ある電気信号の儚い波動なのかもしれない。いやしかし、
 これは人間の勝手な思い上がりで、猫には無いとどうして言えようか。より高等な動物の
 猿では、実に知的な眼をしていて、時に哲学的に沈思黙考しているのではないかと感じる
 時がある。猫も、ましてや猿も、知的動物なのである。

   思い出す一例がある。
   猿が ソニ-製ウォ-クマン の音楽をヘッドホンでじっと聴いているCMである。凄いと思う。このC
 Mのアイデアを考えた人間は偉い。猿はこの地球の有様や自分の猿生(人生)に対する理解
 力は人間よりは少ないと思うが、猿は猿なりに限りある命については考えることはあるだろ
 う。だから、ウォ-クマンから流れる名曲が、もし「ツアウストラはかく語りき」だったら、それはそれ
 として静かに目を瞑って聞き入るだろう。犬も然りだろう。しかし、より現実的で気まぐれな
 猫ではそうはいくまい。よほど洗練された家庭で育てられた愛玩猫なら可能であろう。

   いずれにしても、人間であるが故の悩みが、即ち「 人生の意味の追及 」である。この世
 に生きた証はすでに残している。DNA の半分を引き継いだ我が子である。そして、創造的
 所産としての生きた証も、卒論・技術資料・学会発表・論文・特許、著作、等で残している。
 しかし、まだまだ足らないと、「我が電気信号」が訴えている。この我が身の蛋白質から発
 する電気信号の正体は一体何なのか・・ 。人が人としての命と、その実存する世界に対す
 る影響力について、考えるのである。

   命と影響力に関してこうした哲学思索をすると、人はどうあるべかと思うのである。他方、
 猫は他の多くの哺乳類と違って、犬と同様に余りにも人間の身近に居るので、食べ物を自
 ら自給することができない。魚屋の魚を奪うことはできるが、人間が阻止すればできない。
 猿は野生の木の実を食べられる。猫は鼠は捕まえて実際に食べるが、近頃、そんな光景
 は見ることは皆無である。人が餌を与えないと可哀そうな存在である。野良猫、家猫、愛
 玩猫は、余りにも生活格差が違い、栄養水準も違うはずである。猫の社会にも、人間によ
 って区別された階級社会が厳然とあるのである。

   ただ、この大学のキャンパス内に多くいる幾多の猫達は、日頃は何を食しているのか気に
 なる所である。絶滅していない以上、何かを食して露命を繋いでいる筈であり、また、生きて
 いる以上、どこかに睡眠の場所は有る筈である。
   かって、この人間の私でさえ、熊のように冬は冬眠したいと思ったものだ。厳しい寒さの
 中で活動するよりも、暖かい安らかな眠りを好んだのである。なぜ、進化の過程で人間は
 冬眠遺伝子を獲得できなかったのか、と疑問に思うのである。

   生物は二つに大別できる。即ち、恒温動物か変温動物かである。結果として、この地球
 上では恒温動物が勝利している訳だが、常に食さねばならぬという宿命も負うたのである。
 体温維持の為の果てしない食物摂取は、恒常的活動の為の宿命である。人間も猫も、この
 恒温動物としての宿命からは逃れられないのである。

   最後にもう一つだけ猫の話題でお付き合い願いたい。十二干支の話である。鼠から猪は
 日本であり、韓国と中国では鼠から豚である。最後の12番目だけが違うのである。
   故事として、昔、お釈迦様が動物皆んなに一月一日の早朝に集まるようにおっしゃった。
 鈍い牛は早めに出発した。猫が鼠に尋ねた、何日に集まるのかと。鼠は猫を騙して一月二
 日と答えた。そこでもともと怠惰な猫はのんびりかまえていた。鼠はあざといので牛の背中
 に乗り、予定日の予定時刻にひょいと牛の背中から飛び降りて一番になった。次いで牛が
 二番で、猫は番外。そのことを翌日知った猫は、爾来鼠を恨み見つけ次第に殺して食べる
 ようになったと。こんな故事にも寓意が隠されているが、どんな寓意だろう。作り話にしては
 面白い。また、創造上の動物である辰が中位(6位)に位置しているのは、何故だろう。この
 分野の話は、かの南海の巨人、即ち博覧強記の南方熊楠の専門である。

   そして、いよいよ最後に、中国との絡みである。
 「黒い猫も白い猫も、鼠を捕る猫は良い猫だ。」は、余りにも有名な鄧小平氏の名言である。
 これは改革開放政策の基礎であり、社会主義的市場経済 の指針となっている。
   ここで、動物行動学的疑問である。黒い猫と白い猫とでは、行動様式がどう違うのか。
 その僅かの DNA の違いは、遺伝子の優劣性は、行動様式にどう影響するのか。勿論、見
 かけがどうあれ、本質的な行動価値が良ければ価値、という話ではある。ふと、また疑問が
 過る。中国は猫だったのかと。否、眠れる獅子であったし、これからは、「蛟竜破天の雲を
 行く。」の蛟竜のはずである。しかし、それは確実なのかと。必要十分条件の内、未だ足ら
 ないものについて、日本に帰国した後、中国を今一度外から見つめ直して考えてみたい。
 この点に関する【作業仮説】を、既に私は持っている。人 民 が再び 主 となる 化 学変化
 は、考察の価値がある。

 
 寮玄関前の猫。黒猫の傷跡が痛々しい。欧米人にも、黒猫はやはり不吉の象徴とか。

       中国上海・復旦大学留学記(第12話): 中国とは何か

   昼間、下の写真のように上海市・松江区の方塔園を散策し、池に映る姿が美しいこの興
 聖教塔にも登り、中国について考えた。夜は大学の近くの飲み屋で学友と中国について大
 いに議論した。話の結論は、日本に帰国した後に、改めて検討するとして、ここでは前中盤
 の内容を語ろう。テ-マはずばり、「中国とは何か」である・・・・・ 。

   中国とは何か、世界にとって、アジアにとって、日本にとって、そして私にとって・・ 。どの
 視座からも、どの観点からも難しい論点である。しかし、残りがそう多くない自己の状況か
 ら考えると、演繹的な視点らしきものは、やはり以下の如くであろう。即ち、「かけがえのな
 い日本と中国の両者の架け橋こそが出生の本懐。」、とは言い過ぎか・・・ 。
   中国の視点から日本を見据え、日本の視点から中国を再認識する。そんな思索の所産
 として、学問・芸術の分野で貢献できたら、これは私の無上の喜びである。
   古来より多くの日本人の祖先は中国人であり、私のル-ツも九州西海岸の都市である(長
 崎市)。最も中国大陸に近いと都市と言えよう。これもご縁なのである。

   こうして中国上海に三ケ月程暮らしてみると、中国はもはや外国ではなく、さりとて日本
 でもない。会話の言葉だけが異なる日本の一地方のような気がする。中国から見ても日本
 は、会話の言葉だけが異なる中国の東海にある、辺境だが、発展した列島国家である。
   日中両国の一衣帯水の歴史を思い起こす時、去来する想念は「中国とは私にとって何
 か」ではもはやなく、思い出すべきテ-マとしての「中国の何を書くべきだったのか」と言う忘
 れていた問題なのである。それを思い出す為に、今回の留学の意味がある。勿論、中国
 の古典を含め自由に書籍を読む為の読解力の養成が第一の目的ではあるが、忘れてい
 た前世からの課題を想起することも、実はMissionに違いない。

   それ故に、私にとって中国とは何か、その答えを実は性急に述べれば、「宿題」である。
 中国に関する何らかの所産を残すことが、我が人生の課題、即ちこの世での宿題である。
 「人は皆、宿題を持ってこの世に必然的に生まれてきた。」と言う一大テ-ゼが、私の人生観
 の根本にあって、そこから必然的に帰納されるのが、この「人間宿題論」である。そしてヒント
 は中国にある。中国こそ我が人生への深き縁(エニシ)の国なのである。

   改めて問う「中国とは何か」。持って回る言い方になるが、晩年の私の専攻テ-マである。
 「中国学」こそが、化学・社会学に続く私の専攻科目であると言えよう。この分野で、博士論
 文を書き学位を授与されることが、晩年の具体的な目標となってきた。但し、訓詁学的な論
 文を書く気は全くない。現代から未来へ繋がる提言を含めた論文としたい。それは、即ち、
 更なる
近代化への提言である。

 
 池に映る姿が美しい方塔園の興聖教塔を背景に。

       中国上海・復旦大学留学記(第11話): 復旦大学の学生

   今時の中国若者(中国語で"年轻人")が自主的に開催する歴史演劇人形劇を、大学構内
 で見物した。パワ-、内容、技術、芸術性のいずれもが優れている。優秀な秀才が 全中国か
 ら集まるこの復旦大学なればこそかもしれないが、私は感心しきりである。
   いつの時代でも若者は同じだとは言うものの、全球的ネット社会において、若者気質は明
 らかに変容しつつある。その行先は、ネット&携帯不可欠の社会である。即ち,個の identity
 の基礎にはネット&携帯は不可欠であり、不則不離なのである。このことの考察は後日に譲
 るとして、復旦大学の学生について今一度簡単に述べてみたい。

   基本的に真面目で良く勉強する。"高考"を勝ち抜き、故郷の期待を背負ってこの大都会
 上海の名門国立大学に学ぶ学生としては当然だろう。(日本で言えば、京都大学に相当。)
 ただ、彼/彼女らの日常生活は、質素/Net/朋友 がキ-ワ-ドだろうか。彼/彼女を連れて歩
 くカップル、自転車やバイクに乗せているカップルが如何に多いことか。そして、結構難しい本も
 読んでいるのである。デベ-ト力 も巧みだ。英語力もある。勿論、スポ-ツも盛んである。大い
 に青春を謳歌していると思われる。

  
以前の中国では、大学卒業後の仕事先は、政府が成績に基づいて決めていた。今日で
 はそのようなことはないが、共産党機関等への就職も少なくない。卒業直後の入党もある。
 最近の傾向として、外資系企業、金融関係か増えている。香港で働きたいと言う学生もい
 る。志望は様々である。なお、中国の大学院修士課程は日本と違って三年間である。

   かって、文革の時代、"下放"の号令の元に、多くの学生が全国各地の農村に赴いた。
 今となってはその是非は検証されていないが、実際はどうだったのだろうか。
   今の学生は幸せと言うべきだろう。

 
 復旦大学102教室での歴史演劇人形劇。

 
      中国上海・復旦大学留学記(第10話): 上海・嘉定地区の散策

   上海市内、地下鉄11号線の嘉定北駅に登り立ち、歴史ある江南庭園を巡る。ここは特に
 水郷の風情は乏しいが、印象的だったのは科挙博物館であった。隋代に始まり清末に廃止
 となった千三百年余の公開人材選抜試験は、凄いものである。特に、寒村に生まれし有為
 な人材の出世には、唯一の手段だったのである。その博物館をじっくりと見学しながら、あら
 ためて中国の奥深さを実感したことだった。

   科挙について述べれば、清末にはその弊害が指摘され遂に終焉を迎える訳だが、中国の
 古典の「四書五経」の暗記を主体とする勉強は、もはや時代の要求に適応しなくなったと言う
 ことだろう。暗記主義、教養主義だけでは、時代の要請に対応できないのだろう。
   中国の歴代王朝は北方騎馬民族の侵攻に常に悩まされたが、科挙の最終段階での皇帝
 自らが問う所謂「殿試」では、この侵攻問題に対する対策を問う問題が出されることもあった
 と聞く。単なる訓詁学ではなく、実践的政治課題に関する具体的な解決策の質問である。
   日本もこの科挙を一度だけ実施したのであるが、以後、続かなかったのは、何故なのか。
 朝鮮では定着したようだ。事大主義で両班制度が確立している朝鮮では、その素地があっ
 たからであろうか。日本で定着しなかった理由について、岩波新書「科挙」を調べてみたい。

 
 上海市内・嘉定の老街にて。

       中国上海・復旦大学留学記(第09話): 南京旅行

 
  南京と言えばすぐに想起されるのが南京虫だが、今の若者達は日本でも中国でも知るま
 い。私は微かに覚えている。実際の南京は、中国の古都であり、前世紀にはある期間は中
 国の首都でもあった。その南京に中国国旅のツァ-で一日旅行をした。初めての南京に歴史
 心が大いに弾んだ。いろいろと新しい発見があった。

   南京は古来より幾多の王朝が都とし、有名なのは明朝の永楽帝が南京から北京に遷都
 をしたと言う歴史的事実である。この事について以前からその理由に疑問を持っていたが、
 今回の初旅行で私なりの見解を得て、納得することができた。即ち、南京は、
   ①狭い、②風水的な四神相応の地にあらず、③中国の北方経営には南過ぎる。
 の三点である。南京はかっては「金陵」とも呼ばれ、大いに繁栄したのではあるが・・・ 。
 永楽帝の真意は不勉強で未だ知らないが、さすがに遷都の必要はあったのであろう。

   中国の歴代王朝の歴史的緊張課題は、常に北からの侵略の脅威である。北方の騎馬民
 族が華中の豊かな農業資源を目指すことは、当然の行動的指向である。逆に中国王朝とし
 て、華南に憂いが無く、華中も平穏であり、実際に華北の大都(現在の北京)に遷都したのは
 明朝が最初で最後である。この事が歴史的に面白いのである。
   だが一つの疑問がある。何故、王都北京と万里の長城はかくも近いのかである。今日の
 姿の万里の長城は、大部分が明時代に補強再建されたと聞く。北方対策は施したしたはず
 である。しかし、明朝滅亡の原因の一つは、明朝の将軍が自ら万里の長城を開門したこと
 にあるのである。皮肉な結果と言わざるを得ない。しかも、一人の"傾国"の為にである。

   他方、この南京城は日本陸軍によって落城させられた。当時の日本国民は熱狂して、提
 灯行列まで行って祝賀したと聞くが、私は複雑な心境である。70余年の歳月を経て、下の
 写真のようにこの南京落城の現場に来てみると、やはり複雑なのである。当時、もし、私が
 少年だったら、軍国少年として提灯行列の先頭に勇んで立っていたであろう。しかし、今は
 歴史を知り、歴史の意味を理解している。私が生まれる以前のことだが、あの戦争は何だ
 ったのか。祖国は大陸侵攻にしか生きる道は無かったのかと。

  今更ながら南京大虐殺の有無が巷間言われているが論外であろう。当時の日本の軍部
 としては、尊大な帝国主義、大東亜共栄主義の偏狂から見て、その非道さはあったに違い
 ない。日本人としての「負の所業」だったと言わざるを得ないと、私は思う。
   この長い南京城の城壁に日章旗が翻った日々はもう70年近く前の昔であるが、感慨無
 量である。今は何事も無かったかのように、「国破れて城壁有り。」の感である。

   「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。」と言う。我々、現在を生きている者は、過去
 の歴史に学び、未来に対する正しい選択に努めなければならない。そうでなければ、戦場
 に散り戦禍に倒れた幾多の人々の、数多の無念の思いが報われない。

 
 南京城の城壁にて。ぐるりとした城壁上は、騎馬車で走行できるようになっている。

 
  この南京の中山陵は、中国革命の父、孫中山先生を顕彰した墓陵である。南京市内の西
 方に位置する紫金山の全山が、偉大なる領導の永眠の地として、熱く保存・喧伝されている。
 かの"革命未だ成らず。"の名言は蓋し有名だが、そんなに長い生涯ではなかっが夫人の宋
 慶齢と共に革命に全力を傾けた、一人の人間の偉大なる一生であった。

   清朝打倒の為の孫文らの革命勢力の台頭と、日本を含む帝国主義勢力の蹂躪の正に内
 憂外患の世情の中、この激動期の歴史的登場人物は実に多彩である。中国革命は、その揺
 籃期より今日に至る迄に百年余の歳月を有している。無論、現在も革命中である。改革開放
 政策は着々と進んでいると私は見る。

   こうして僅か約2時間の見学を経て、改めて中山先生の偉大さを思う。歴史の転換の必然
 期には、必然的に必然的人物が歴史の舞台に登場する。中国ではその人物を "花神"と呼
 ぶ。日本語で言えば「花咲爺さん」の意味であるが、厳しさが天と地ほど違うのだ。
   革命家の常としての最期
の悲劇的結末が無かったことは、私には嬉しいことである。

  
最上段の中山先生の坐像を背にして南京市内を南面俯瞰すると、登り来し汗が春の涼風
 に冷やされて心地良い。そして、週末の観光客の余りの多さに、人口大国中国の潜在パワ-
 を見る思いがするのである。

 
 
南京の中山陵の最上の廟。孫中山先生の坐像が静かに南面している。

 【2013年04月】


        中国上海・復旦大学留学記(第08話): 成都&峨眉山への教学旅行

   中国華中東端の上海から、西方内陸部の成都市まで、片道約20時間の寝台列車の旅
 である。これは教学旅行(日本の修学旅行)であり、仲間34名と教師4名の メンバ-だった。
 寝台列車は久しぶりだが悪くはない。同室の中国人と酒酌み交わしながら盛り上がった。
 会話でカバ-しきれない部分は筆談だ。日本人と中国人の間でのみ通用するこのコミュニケ-
 ションツ-ル(漢字)は有益である。20時間は大変長いが、車中一泊なので短いのかもと思う。

   蜀の国成都は大都会だ。何が日本と変わろうか。日本が縄文から弥生にやっと移る頃、
 既に都邑を成していた。それが現在でも東京を遥かに凌ぐ人口を誇っている。四川盆地の
 豊かさが蜀の国を富ませ、多くの人々を養って来た所以である。まさに、「天下三分の計」
 に叶うこの蜀国の豊穣であり、実際に当地で実感できたことだった。

   今回の旅行では、行けた所は 武候祠、楽山大仏、峨眉山、都江堰 などだが、逆に行き
 たくても時間的に不可能だったのが 杜甫草堂 と 蜀の桟道である。残り少ない人生の月日
 の中で、今後その地を訪れる機会はあるのだろうか ? 歴史好きの私には、後者のこの二
 つの歴史的な名所は、本当に垂涎の的なのである。

    盛唐の詩聖杜甫の漢詩「 岳陽楼に登る 」の五言律詩中の名句「 親朋一字無く、老病
 孤舟有り、戎馬関山の北、軒に憑りて悌泗流る。」は、千数百年の時空を超えて 今尚、感
 動的であり、胸に迫るものがある。なぜかくも、中国の大地は戦乱と束の間の平和との繰
 り返しの歴史なのかと。歴史潮流の王朝興亡の波間に、詩人は嘆息して嘆くのである。私
 もまた詩人の心に吸引され、遥かなる時空を超えてその思いを未来に伝えたいのである。

   "杜甫の草堂に行きたかったな~。" と同じ思いの東京育ちの三十路の歴女と、帰途
 車中にて、二人して共に嘆息したことだった。

 
 上海から成都に向かう寝台列車にて。知的好奇心に満ちた姿である。

   楽南市にある世界遺産の「楽南大仏」を船上から見学した。別に何のことはない。奈良
 の大仏より格段に大きいらしいが、削りやすい岩質ならそれもできよう。何たってそこは中
 国。お得意の人海戦術で山をも移す故事の国である。◆愚公移山の諺あり。ただ大仏造
 成の目的が、海難事故の多いこの場所において、船舶の通行の安全を祈願してという点
 が泣かせる。ドイツのライン川のロ-レライ伝説とは逆の話である。現場はなるほど浅瀬も多く、
 難破しそうな危険な状況もあった。上陸し近くで見学したかったがそれは叶わなかった。
  それにしてもこの大仏、何を見つめ何を考えているのか。

 
 世界遺産:楽山大仏。大仏は幾星霜、何を見つめ、何を考えてきたのであろうか。

   峨眉山に生息するこの老成した猿を見よ。いかにもこの山の"主"たる風情である。幾多
 の風雪に耐えたる感ありのこの人類の祖先は何を考えて毎日を暮しているのか。日本の猿
 には無い何か古色蒼然とした印象は、この峨眉山の山自体のせいなのか。十分に観光客
 に慣れてはいるものの、古典的DNAは堅持しているその野性味の凄さがある。
   太く長い荒れた毛並みは、この高山環境の厳しさのせいか。眼光も鋭く威圧感がある。
 やはり猿でさえも軟弱で甘い「島国日本」とは違った大陸猿の、その厳しさを漂わせている。

 
 積雪の峨眉山に生息する老成した野生猿。いかにも深山幽谷の猿の趣である。

   まさしく峨眉山山頂に立つ。高校時代の古典の授業で憧れた李白の詩「峨眉山月半輪の
 秋」で始まる七言絶句の舞台である。こうして四十年来の夢が叶えられ、誠に嬉しい。歴史
 の舞台や詩歌の歌枕に寄せる思いは、歴女ならぬ歴男として格別である。芸術は素晴らし
 い。そして、特に詩文は、中でも漢詩は、簡潔にして幽妙である。

   世俗の栄枯盛衰、毀誉褒貶を遥かに超越して、時空を超えて今日に伝わる感動は、もち
 ろん現代人皆んなのものではあるが、特に渇望する私には法悦の甘露の如きである。
  "感動は人生の扉を開く。" 感動、そして扉の向こうから始まる細く狭い道は、まさに狭き
 門への新たな道である。 聖書に曰く、

    "  力を尽くして狭き門より入れ
     滅びに至る門は大きく、その道は広く、これより入る者多し
     生命に至る門は小さく、その道は細く、これを見い出す者少し 
"

   大学受験参考書の栞に書かれたこの引用句に、どれだけ励まされたことか・・・。

   人生の真理は、洋の東西を問わず同様である。感動もまた然りであろう。憧れの峨眉山
 に登頂して、私の感動は未だ結晶化への熟成中であるが、記憶の奥底には峨眉山の積雪
 のように幾重にも積層している幾多の感動の雪片がある。
   それらをいずれの日かに、芸術として結晶化したいと思っている。

 
 峨眉山の山頂(海抜3,099m)

   同学(中国語で同級生)の写真である。一見アジア人に見える者も、実はハ-フだったりして、
 国際色は豊かである。これで防寒対策中である。この時の薬酒は旨くて、何杯も飲んでしま
 った。霧の中だったが、宿泊して半輪の月を眺めたいと思ったものだった。峨眉山は古来よ
 り有名な山で、まさに震旦第一の山岳なのである。

 
 教学旅行(成都&峨眉山班)のメンハ

 【2013年03月】

          中国上海・復旦大学留学記(第07話): 杭州の西湖を巡る

  
江南随一の景勝地:杭州の西湖は、やはり素晴らしかった。天気は曇天でやや肌寒く
 感じた。天候の暖かな四月に、またゆっくりと、汽車で一人で来たいと思ったものだ。
   今回はCITS中国国旅の一日ツァ-に参加(費用240元)しての初めての杭州の旅だった。
 湖岸には安いユ-スホステル( 60元 )もあるようなので、次回はのんびりと散策したい。

   約1万2,000年前の銭塘江の浅い入り江が、長い年月の後に北宋時代に湖となり、詩人
 の蘇東坡がその美しさを春秋時代の美女:西施に喩えて「西施湖」と呼び、それが西湖の
 名の由来となったと言う。世界遺産であり中国十大風景名所にも数えられるこの西湖は、
 杭州随一の観光名所である。周囲15km最大水深3mで、「西湖十景」は余りにも有名であ
 る。最近は、新たに「西湖新十景」も指定されているようだ。

   その西湖の湖面を遊覧船で進むと、白堤と蘇堤の長い湖上の遊歩道、三譚印月の人
 工の小島、遠く雷峰山の頂上には七層の雷峰塔が聳え、中国情緒は満載である。清朝皇
 帝の康熙帝と乾隆帝がこの風景を愛し、何度も訪れていることは、如何にこの江南の旅情
 が万人に愛されているかの証左であろう。

   中国には「南船北馬」と言う言葉がある。交通の手段として、南方人は船で、北方人は
 馬でと言う意味である。北方の ツング-ス系騎馬民族の女真族が、族名を「満州族」と改名
 し、征服王朝として「清朝」を樹立した訳だが、暖かい水や湖水への憧れは十分に首肯で
 きる。江蘇・浙江省に跨って太湖もあるが、その太湖は西湖よりは格段に大きく、情緒は
 西湖よりは乏しいと言わざるを得ない。但し、「無錫旅情」で有名となり日本人にも周知だ。
   西湖にはそのような流行歌が無いのが残念と言えば残念だが、本来、西湖には似つか
 わしくないのかもしれない。西湖は太湖ではなく,やはり小湖なのだからである。

 
 西湖十景「雷峰夕照」で有名な雷峰塔( 呉越王:銭弘俶と黄妃の男子誕生祝いで977年創建 )。

      
中国上海・復旦大学留学記(第06話): 上海今昔物語

  
故郷長崎より最も近い大都市は、東京ではなく、その約2倍弱の人口を持つ上海である。
 その上海の今昔を記するに当たって、情報や知識は格段に乏しいが、それでも記載するこ
 とにしたい。なぜなら、今まさに上海で、留学生活を過ごしているからである。
   時代の区分は五つとする。即ち、戦前・戦中・戦後・数十年間・現在である。

 [1] 戦前の革命前後の時代

   現在残っている上海を映した記録のフィルムや、映画にも再現された当時の上海は、
 一言で言うと魔界都市だったかもしれない。あらゆる混沌とした権力・欲望・快楽・暗
 躍が蠢いた一大喧噪都市だったのであろう。特に1920年代の上海は、そのようにも
 言われている。作家芥川龍之介が上海で京劇を鑑賞した、あの1920年代である。
   西洋なるものが東洋に乱入して蹂躪した所謂、帝国主義の時代である。***と犬は
 入るべからずとの旧租界区域は、西洋の異国の文化で怪しげに煌めいていたであろ
 う。上海事変、中共の重要会議、魯迅の文学、孫中山・宋慶齢の活躍 などなど・・ 。

 [2] 戦中の父母在住の時代

   父母のほんの僅かの写真から推測すれば、一応は優雅な生活だったようである。
 現地では使用人を多く使い豪華な屋敷に居住していたようだ。有名な宋美齢の屋敷
 跡に住んでいたと母親は回顧している。軍関係の仕事なので、生活物資も豊富だっ
 ただろう。南京路は大きい、とも母は話していたが、今でも上海一の繁華街である。

 [3] 戦後の文革混乱の時代

   当時の状況は、僅かな報道しかなく、眠れる獅子から赤い龍に変貌した新生中国
 は、やはり「没有共産党就没有新中国」であり、公式見解にも「 功績第一誤り第二 」
 とある。生みの苦しみと育ての苦労の後に、現在の中国の繁栄があるのであろう。
  そして、上海はその激動の歴史の舞台を、いつも提供していた大都市であった。

 [4] 数十年間の旅行時代

   未だ薄い雲の歴史の中に眠っているようだった30年程前の中国上海は、私の人
 生の記憶と記録にしっかりと残っている。冬場の渡航だったので、喉を傷めたことを
 よく覚えている。友諠商店や市外の土産物店では、書画骨董の類しかなく、片言の
 中国語で話し、英語で文句を言って、日本語で怒鳴って、結局買わないで店を出た
 ことを、今では懐かしく思い出す。 
   しかし、この時代を経て、中国は改革開放政策で大きく変貌した。白黒問題という
 少異を残して、鼠を捕る猫という大同に帰着させた鄧小平の大英断は、現在の中国
 発展の礎である。"社会主義市場経済"の壮大なる実験は、成功しつつあるようだ。

 [5] 現在の上海留学の時代

   現在の中国は見違えるばかりだ、・・これが中国かと・・。改革開放の賜物である。
 下記の写真は正に発展する中国の象徴であり、繁栄する上海の姿そのものである。

   私は中国の悠久の歴史が大好きであり、その中華文化も好きである。中国は日本
 にとっての母なる国であり、清朝の乾隆帝時代までは世界の先進国であった。而して
 しばしの休眠の後に、覚醒したこの巨龍は、21世紀の覇者になることは必至である。
  その大中国の成長の姿を一生見続ける為の原点が、この上海留学なのである。

 
 背景のタワ-は上海・外灘のシンボル「東方明珠塔」(高さ468m、TV塔としてはアジア第2位の高さ)。

      
中国上海・復旦大学留学記(第05話): 京劇の鑑賞

  
留学期間中、中国の演芸文化への接触は重要だと思い、京劇にも大いに期待していた。
 しかし、正直言ってその面白みが良く判らなかった、と言うのが本音である。それらの原因を
 考察してみたい。何故に面白く感じなかったのか。劇中では随時、観衆の拍手や感嘆詞が
 飛び交っていたのに、私はエトランゼ(異邦人)として、黙ったままであった。
   以下に、それら体験した実感と原因について列記する。

  ①ストリ-がよく判らない。

     題材が歴史的事実ではなく、言葉は普通語だが、会話の発声が独特であったこ
    と、電子掲示板に表示された漢字に少し違和感を覚えたこと、等も原因であろう。

  ②話の展開は単純だが、特別に興味を引く題材ではない。

     日本人が好む題材と中国人が好む題材は、大きく異なるのだろう。日本人の
    それが「勧善懲悪」や「判官贔屓」としたら、中国人のそれは何なのか。その為
    の基礎知識さえも私が持ち合わせていなかったこと、等も原因であろう。

  ③衣装や音楽への違和感はないが、筋書への理解の助けにはならない。

      音楽に哀愁を帯びたメロディ-性が希薄なことが印象付けられた。ただ、所作と
    打楽器との一致は小気味好く、凛とした顔の動から静への瞬停止も良い。ただ、
    その効果は内容の理解には結び付かないこと、等も原因であろう。

   学割を使って半額の40元(\640)で、三時間弱の三演目を一階席の第七列目中央
 右よりで鑑賞したが、"こんなものか・・"、との印象である。日本の歌舞伎だったら、
 もう少し理解できていたのかもしれない。

   勿論、上海の観客(多くは老人)は ヤンヤの喝采を発していた。今回の初体験を通して別の
 演目にも触れるべきだと思った。2階席後列でも半額では15元(\240)と安い。人民広場から
 も近いし、もっと足繁く通うべきであろう。夜の公演はPM 7:15からだ。 
   土曜日は文化に触れる日と決めているので、今後はそうしようと思う。そうでないと京劇を
 理解しないままで日本に帰国することとなり、大変残念と言わざるを得ない。

 
 京劇の一場面、演目は「四郎探母・坐宮」 大体の筋は判るが、細かい話までは解らない。

       中国上海・復旦大学留学記(第04話): 新入寮生歓迎夜会

   入寮して1ケ月になるが新入寮生の歓迎夜会が開催された。言うまでもなく、世界中から
 集った留学生の歓迎の宴であり、多くは中国語を学ぶ私たち語言生と本科生の為の、所謂
  Welcome Party であって、勿論、会費は無料である。

   司会者の進行による大学側や寮側の挨拶、そして各国代表の流暢な中国語での挨拶等
 があり、立食Partyとなる。薄いビニ-ルコップに注がれた青島ビ-ル、バナナなどの果物やサンド
 イッチ、その他があり、質素だが楽しい宴であった。下の写真のように各国のダンスや踊りが
 あり、実に楽しい。乗りのいい外国人留学生ばかりだ。

   こうした催しにつくづく寮での留学生活は有意義で楽しいものだと思う。政治が経済がど
 うであれ、国際社会上の諸問題が如何にあれ、国際交流する留学生達には国境は無い。
 こうして中国上海の復旦大学に集った留学生が、将来各国で重要な立場に立った時、この
 経験を基に世界文化の相互理解と世界平和を推進して欲しい。

   騒がしいロビ-内を離れ戸外で、または別のロビ-で会話が弾んでいる。私は日本人留学
 生達と話が盛り上がった後、寮外に出た。その時、ある クラスメ-ト から、声を掛けられた。
  " ニュ-ル-ホン "(niu2ru4heng2, 牛込恒の中国語名)であり、その一瞬、幸福感を感じた。
 声を掛けたのは ドイツ人 の若い女性で、時空を一瞬にして、タイムスリップ した感覚なのだ。
 即ち、私は60歳の日本人ではなく、20歳の中国人学生なのだと。この一瞬の幸福感は無
 上のものであった。今20歳の学生であったら、どんなにか未来は希望に満ちているだろう
 かと。経験・知識・人生の智慧を活かして素晴らしい人生を過ごせる事は間違いないはず
 だ。生まれ変わった自分の人生を一瞬体験した、不思議な感覚の幸福な高揚感であった。

 
 新入寮生歓迎会の写真である。薄いビニ-ルのコップに注がれた薄いビ-ル(青島ビ-ル)を飲む。

 
 新入寮生歓迎夜会。さすがに、欧米人は乗りがよいものだ。

       
中国上海・復旦大学留学記(第03話): 蘇州に遊ぶ

  
上海駅から西へ長距離バスで僅か1時間20分( 運賃38元 )。憧れの古都蘇州はあった。
 蘇州は両親がかって戦前に在住していた異国の地であり、名曲「蘇州夜曲」 にも歌われた
 江南の景勝地である。私の出生前の昭和15年頃に日本中で大ヒッしたこの水の都の歌が、
 どうしてこんなにも愛おしく懐かしく思うのか ・・・・ 私自身にも実は解らない。
   作詞は西条八十、作曲は服部良一という、戦前の名コンビの作品である。
  
     ♪ 君がみ胸に抱かれて聴くは  夢の舟歌  恋の歌*    (*鳥の歌 とも)
       水の蘇州の花散る春を 惜しむか柳が すすり泣く

       花を浮かべて流れる水に 明日の行方は 知らねども  
       今宵、映した二人の姿  消えてくれるな  いつまでも

      髪に飾ろか接吻(クチヅケ)しよか 君が手折りし 桃の花
      涙ぐむような朧(オボロ)の月に 鐘が鳴ります 寒山寺

   当時余りにも日本中に流布したこの曲は、" 時局がら好ましからず。 "として軍部により
 発禁処分となった。しかし、後年、服部先生自身は "会心の作だった" と述懐されている。
 あの不穏で重苦しい戦況下で、日中友好の歌ともとれるこの歌は、若い二人の男女に仮託
 した反戦歌ではなかったのか。軍事戦線が支那中に拡大して行くこの時代に、束の間の逢
 瀬のラブロマンスの哀歌であろう。蘇州の姑娘(ク-ニャン)と日本人兵士との悲恋が想像される。
 まさしく流行歌は芸術の力、歌の力を有して、時代を映す鏡でもある。いつの世も、戦争は
 理不尽であり、幸せを打ち砕いてしまう、非情な、非人間的な所業である。
   名歌の力によって、感情移入と想像が素直にできるが故に、愛おしく思えるのであろう。

   そんな蘇州夜曲を口ずさみながら、南から北へと人民路を北上して、蘇州の シンボル: 北
 塔報恩寺の八角九層の塔に登れば、眼下の街並みは広大である。" 往時、父母の居宅は
 那辺に在りしや ? "と風に問えども、風蕭蕭として答え無く、そっと瞼を閉じるばかりの私が
 身である。指折り数うれば、遥か七十年余の昔日の話。父母と現地で逝った幼き長女長男
 は如何なる暮らしなりしか。今は末弟の小生に一枚の写真のみ残りき、なのである。

   それから、僅か1元(\16円)のバス代で、蘇州駅から虎丘に着く。呉国第一の山(丘)であ
 る。越王との戦に敗れた呉王がこの丘に埋葬され、葬儀の三日後に墓の上に白い虎がう
 ずくまっていたという伝説から「虎丘」と呼ばれるようになったと言う。丘に建つ雲巌寺塔は
 西暦961年創建の蘇州最古の塔(写真中央)であるが、地盤沈下により北に3.5度傾斜して
 おり、東洋の斜塔として名高い。堀に囲まれたこの虎丘は蓮華の花が美しく、堀割りの 静
 かな水面を、観光の小舟二艘が、たゆたゆと滑って往く。(4人1組で100元)。

   帰途は高鉄(中国版新幹線,40元)で蘇州から上海へ約30分。最高時速は 300km/hで、
 車内は清潔で美しく、グレ-ドは日本の新幹線と同等以上かもしれない。定時の発車は立派
 である。大陸的でアバウトな中国(中華文化)にしては、本当に立派である。
   風光明媚な江南の蘇州は父母縁の地でもあり、何度でも散策したい古都である。

 
 古都蘇州の有名な虎丘の入り口「呉中大一山」の額が架かる。

       
中国上海・復旦大学留学記(第02話): 授業について(最初の感想)

   入学手続直後に実施される分班試験は中国語の筆記試験であり、二級で78点であった。
 口頭試験ではランクアップを申し入れCクラスとなった。A, A+,B~J の10段階である。もし、一週
 間の授業を体験して、難しかったら、その間にクラスレベルのダウン申請は認められる。

   授業は10分休憩の午前中90分、午後も同じく90分が基本である。AM 9:55-PM 2:15であ
 るが、総て中国語での授業であり、しかも速い。勿論授業には付いて行っているが、中国語
 の初心者では、発狂するか、登校拒否になるだろう。幸いにも私は大丈夫である。二年間の
 NHKテレビ講座のお蔭だと、今はとてもNHKに感謝している。

   精読が全体時間の半分で、口語、ヒアリング、作文、泛读(記事の粗読)、等がある。絶対に
 予習が必要でランダムに当てられる。先生にもよるが、日本みたいに甘い授業ではない。毎日
 宿題もある。早朝の3時間、帰寮後の5時間は予習復習の為に必要である。これが本当の大
 学の授業であり、中国語以外は使用禁止である。世界各国から来ている学生の自由時間で
 の共通語は英語であり、これもとても速い。しかし、私は話には参加している。

   日本人の私は漢字文化で育ったせいで、幸いにも記事の粗読などは得意であり、むしろ
 易しいかもしれない。漢字という表意文字のお蔭で、瞬時に大意が読み取れるからである。
 勿論、ヒアリングは苦手だが、これはもう馴れるしかない。

   我々のC4班の在籍数は21名だが、いつも15-16名程度であり、他の人はどうしている
 のか。出席、遅刻、早退、病欠、怠け… 等の細かい記録が、毎回先生によりネットで入力さ
 れる。なのに遅刻者は少なくないし、授業中の私語や飲食も日常化している・・・ 。

 
 早朝8時前の教室での予習風景(授業開始は、AM 9:55より)

 【2013年02月】
              中国上海・復旦大学留学記(第01話): 中国上海留学の動機

   小学五年の時、故郷長崎市の実家で見つけた日中会話本が、総ての始まりである。その
 簡潔な漢字だけの表現は今でも瞼に浮かぶ -冬天很冷-。何と日本人の私には 即座にそ
 の意味が判るのだ。その驚きから約五十年。今こうして上海に留学している。

   私の両親は約七十年前に上海や蘇州に在住していたと聞く。そして四十年前には、あの
 劇的な日中国交回復が行われ、その約十年後に、私は初めて中国へ渡航した。
  上海や蘇州はまだ質素な生活で、長い歴史の薄雲の中に、眠っているようであったのだ。
 三交代制工員が深夜に帰宅する夥しい自転車の陸続としたその洪水に、圧倒されていた。
   地理や歴史が大好きな私は、大学受験の勉強での漢詩にしばし心が慰められていた。
 それから中国へは七回も旅行した。今度の九回目は約五ケ月もの長期の滞在なのである。
 沢山の行きたい所がある。中国の聖地・泰山にも登頂したいし、夢は膨らむばかりである。
   そして、何故に上海なのかは、大阪(長崎)からして、そこに上海があるからである。

 
 復旦大学(邯鄲キャンパス) 学生食堂の朝の様子、少し塩味のきいた朝粥が美味しい。

 【2013年01月】
             
米国東海岸四大都市を巡る建国の歴史旅

   米国とは何か。この建国後僅か240年弱のこの国に歴史はそもそもあるのかと思う。
 悠久の歴史を刻む四千年のエジプトや二千年のロ-マ帝国と比べれば、何と新参者か。
 東海岸四都市を今回旅行して、確かに歴史は浅い。自由の歴史はあるがそれも浅い。

   米国は、現在では世界一の国家であり、政治経済力、軍事力、科学技術力は突出し
 ている。世界の警察を自負しているのもむべなるかなである。世界における米国の力
 は強大である。しかしながら、米国民の"民力"は如何であろう。米国は農業国であり、
 総じて大陸国家としての農村社会に思えてならない。工業国家を越えて今は金融国家
 であり、米国はその目指すべき方向に迷走しているように思えてならない。

 
 ワシントンD.C. の連邦議会議事堂

   小さい街のワシントンDCの連邦議会は、米国の自由の象徴とも言える。四年に一
 度の大統領就任式が挙行される場所であり、ホワイトハウスも近い。


 
 フィラデルフィアのホテルにて

   フィラデルフィアとは「兄弟愛」という意味である。アジア人の私と、アフリカ系米国人の子孫の
 女性のこのようなツ-ショットは、まさに人類皆兄弟を象徴するものである。英会話をして親し
 くなった上で、写真撮影に気軽に応じてくれた彼女であった。

 
 New Yorkの「 自由の女神」

   リバティ-島のあまりにも有名な「自由の女神」である。現在は上陸観光は許可されていな
 かったが、それなりに自由の国の象徴としてのNew Yorkの顔である。こんなものかと思い
 つつも、たかが自由の女神、されど自由の女神である。
   思い出すのは米国映画「猿の惑星」のラストシ-ンである。浜辺に埋もれていたその自由の
 女神は、そこが地球の未来であったことを示していたのだ。


 
 マンハッタンのEmpire State ビルからの展望。背景は East River。

   言わずと知れた世界経済の中心マンハッタンである。やっとNew Yorkに来れたという
 その満足の笑みである。

 
 ボストン Harvard大学の構内

   少年の頃からの憧れのHarvard大学を散策した。米国最古の歴史と伝統と実績があり、
 世界No.1の大学と言えよう。ただ、寮の外観を見る限り居住性は如何なものかとも思う。
 それにしても、中学の頃に日本で放映された米国のTV番組「タイムトンネル」は、少年の熱い
 サイエンス心にとてつもない火を付けたと言える。トニ-とダグは、ボストンの大学の卒業生とい
 う設定だったので、このHarvard大学か直ぐ近くのMIT(マサチュ-セッツ工科大学)のことであ
 るのは間違いないようだ。

 【2012年12月】
            
【 満60歳定年退職の日 】

  35年間勤務したパナソニック㈱を定年退職した。喜怒哀楽の日々だった。

 

 【2012年11月】
            【 雲海の竹田城 】

   但馬和田山の竹田城は最近特に人気が出ている。雲海の竹田城は幻想的である。
 前世の地と比定している私の竹田城の対岸で、前夜よりキャンプでテント泊をした翌早朝、
 素晴らしい気象条件にも恵まれこの写真撮影に成功したのだ。天空の城(日本のマチュ
 ピチュ)は雲海の竹田城である。

 

 【2012年10月】
           
欧州4ケ国(英・仏・スイス・独)の旅 】

   英国のウインザ-城は私のお気に入りの城となった。如何にも英国らしい。今日でも
 週末にはエリザベス女王は週末には静養されるという。おもちゃの国のような上記写真
 には英国の深い歴史が感じられる。

 
 英国ロンドン郊外のウインザ-城

   最近、人気急上昇中の世界遺産と言えば、このモンサンミッシェルである。そこには、聖俗
 の興亡の歴史が刻まれているとは知らなかったのだ。

 
 仏国の世界遺産モンサンミッシェル

   欧州のほぼ頂点に立つ。アルプスの氷河が壮大で美しい。銀嶺の山々、スイスの牧場
 はまさにアルプスの少女ハイジの世界だ。

 
 スイスのアルプス登山列車の終点(Top of Europe)

   この息を吞む美しさ。おとぎの国の世界だ。この世にこんな美しい風景があるとは、
 信じられないくらいこの中世風のお城は、実は、明治時代の建築なのである。

 
 ドイツのノイシュバイシュタイン城

   ネッカ-河のとある古城。ドイツ文化が彷彿とされるこの風景は本当にヨ-ロッパ的である。
 内陸交通としての水運の豊かさは、欧州を豊穣な国々にさせていいる。この川の流れ
 と共にドイツ文化は栄えて行ったのかと思うと、また風景が新しく感じてくるものだ。

 
 ドイツの古城

 【2012年09月】
            
第100回牛込Party(最終回)の開催

   中学2年のとある朝、NHKの朝番組でふと見た日高(東大・海洋研・教授)Partyの話。
 この瞬間、私の脳裏でSwitchがONとなった。将来、私もそれを必ずするだろうと。爾来、
 自分自身の予言の自己実現として、三十年近くに及んで実施したこの牛込Partyは、
 100回の開催と17組のゴ-ルインを達成し、私の生涯のライフワ-クとなった。     

 
 パナソニック厚生年金基金施設「松心会館」(門真市) (ビデオ画像より採取

          【 能登半島一周バイクツ-リングの旅 】

   今回は2回目の能登半島一周バイクツ-リング(左回り)で、好季節の3泊4日旅となった。
 「能登はやさしや草木まで」の言葉があるように、日本海に抱かれてこの半島は優しい。
 揚浜式塩田や御陣乗太鼓、海を眺める千枚田や渚ドライブウェイは能登ならではのもの
 である。特に、上記写真の渚ドライブウェイは、日本唯一無二の観光名所なのである。
 走行感は抜群で、爽やかな幸福感を感じた。打ち寄せる波がなんと心地良いことか。
   日本海から打ち寄せる悠久の波濤が極めて微細な砂粒を造り、浜を形成したのだ。
 砂浜だがまるで土の道路であり、また走行可能な距離も満足いくほどに十分である。

 
 石川県羽咋の渚ドライブウェイ

 【2012年08月】
               鬼の霍乱始末記

   いつも元気な者が急に病気になることを、「鬼の霍乱」と言う。まさに、今年の夏休み
 の私に起こったことで、どこにも行かなかった夏休みとなった。症状は頭痛でいくつかの
 病院を渡り歩いた結果、最後の耳鼻咽喉科の薬で、一発で劇的に完治したのだ。その
 薬はパセトシンで、実によく効いた。この抗生物質は優れた医薬品と言えよう。病気の原
 因は不明だが、一週間は寝込んだ。体温は38度超でそのせいで体重も10kgは減った。
 発熱の為に体脂肪を燃焼するしかないからだ。皮肉なことに、病気ダイエットとなった。

 【2012年07月】

            【 関西電力㈱・大飯原発へのバイクツ-リング 】

   ふと思い立った原発見学だったが上の写真のように通行は規制され警戒中だった。
 関西電力・大飯原発は再稼働後の厳重警戒の最中で、それでも何人かの見学者は訪
 れ、連絡橋前での検問ポイントでは私は氏名を聴取記録されたことだった。でも、それら
 は丁寧な対応であった。原発に対する世論が二分しているのは是とする。環境か産業
 かとの短絡的発想はしないが、原発廃絶の理想に至る過渡期の現実の厳しさである。

 
 大飯原発に至る検問の場所

 【2012年06月】
             【 第1回目の欧州旅行: イタリア旅行記 】

   五万人収容のロ-マ帝国首都のコロッセオは圧巻だが、入場&観光は時間的に叶わず、
 されどその偉容は十分に満足で、時空を超えて往時のロ-マ人の大観衆の歓声が偲ば
 れた。ただ、観衆の総意に応えて、皇帝が右手親指を下に向ける時、そこには敗れし
 剣闘士の即座の死があったことは忘れてはならない。

 
 永遠の都の古代遺跡コロッセオ(円形競技場)( ロ-マ)

   憧れの有名なピサの斜塔を僅か15分での登頂。トナカ-ナ地方の街並みの眺望は、ま
 さに中世の観であった。この斜塔において、ガリレオは物体の落下実験を行ったと言う。
 軽重2つの物体の地上への同時到達音は、新時代の科学の幕開けの祝音と言えよう。

 
 有名な斜塔( 15分で登頂した。)(ピサ)

   憧れのフィレンチェ。ミケランジェロ広場からのド-モやベッキオ橋の眺望は正にイタリアの定番。
 やっと来たという嬉しさが込み上げてきた。天才レオナルド・ダ・ビンチが活躍した街だ。花
 の都フィレンチェは、どこまでもゆかしい。一週間でよいから滞在したかったことだ。

 
 憧れのルネサンスの花の都

   ゴンドラでの遊覧はベネチア観光のハイライト。水路にはゆったりとした時間が流れている。
 ベネチィア情緒が満載である。この穏やかな表情を見て欲しい。旅の喜びである。日本に
 はない旅情であり、思わずイタリア民謡を口ずさんだことだった。ただ、僅30分の遊覧なの
 に\3,000は高い。金持ち日本人が値段を釣り上げたと言う(苦笑)。

 
 旅情豊かな水の都のゴンドラの舟(ベネチア)

   ミラノ市はイタリア最大の商業都市で、アルプスも近く、活気があるオシャレなファッションの町だ。
 レオナルド・ダ・ビンチ公園は、ミラノの中心地でスカラ座にも近く、ルネッサンスの面影がある。
 北イタリアと南イタリアは活度がかなり違うが、ミラノは活気ある北イタリアの中心都市だ。

 
 尊敬するレオナルド・ダ・ビィンチの像を背景に(ミラノ)

 【2012年05月】
            【 金環日食の観察 】

   こんな天体ショ-を見逃すはずもなく、私は前夜から熊野市のYHに宿泊し、翌朝は、
 より食分率が高い那智勝浦へバイクで移動し、この金環日食をまさに"生"で体験した。
   熊野灘の海沿い、風が強く白波が立つ中、折しもの曇天で大変にその瞬間が危ぶま
 れたが、雲の切れ間から観察することができた。感激以外の何ものでもない。天体の動
 きと連動して、この命とこの世界(社会)が呼応していることを、まさに痛感した。

   遙かはるかの昔。日食はほとんどが皆既日食であった。しかし、地球が水の惑星な
 るが故に、自転の速度が徐々に遅くなり、物理の法則、即ち、角運動量保存則に従い、
 年間3.8cm程度、月は地球から遠ざかってきた。その積み重ねの結果として、未来では
 皆既日食は起こらず金環日食のみになると言う。今回の金環日食でもそのリングの太さ
 は意外に大きかった。月の楕円軌道のたまたまのせいかもしれないが、皆既日食が起
 こりにくくなるのは、物理学的に正しい予測なのである。

   皆既日食の方が、金環日食よりドラマチックである。皆既日食では、急に周囲に暗闇が
 広がり、気温が大きく低下(約10度弱)し、動物たちは異常行動を起こし、世界は時なら
 ぬ闇に包まれる。この希有なる現象が、日本神話での天照大神の神話と、その根拠の
 「2年連続の皆既日食の出現による卑弥呼の暗殺?」を引き起こしたのかもしれない。
  これはあくまでも推論であるが、古天文学に基づく根拠のある科学的推論である。

 
 和歌山県・那智勝浦での日食観察

 【2012年04月】
            【 東北津波災害の物理学的考察 】

   東北の被災地の気仙沼まで北上した。17年前の阪神淡路大震災を想起するが、今回
 の被災情況は津波の被害であり、まさに総なめの状況であった。ただ、やや高台の家屋
 は全くの被害がなく、建物の強度によって歯抜け状態となった前者の地震と好対象であ
 る。たかが海水されど海水だが、津波の恐ろしさをあらためて実感した。

   水(海水)は物性的には粘弾性体である。このことは重要で、対象物との相対速度によ
 って、弾性的挙動と粘性的挙動のいずれかが顕著となる。即ち、津波の被害においては、
 地上の建物の運動速度は0として、問題は津波の高さもさることながら速度も重要なので
 ある。津波が高速度の場合、津波は弾性的に挙動し、他方、津波が低速度の場合には、
 粘性的(非弾性的)に挙動し、結果として津波の被害は減少すると考えられる。これを別
 の例で述べると、水泳の高跳びで高い場合は壁にぶつかるように水から跳ね返され、
 低い場合はゆっくりと滑り込むように水の中に入るのである。

   次に海水の温度の考察だが、3月11日はまだ冬であり、海水温もかなり低い。このこと
 は、津波がより弾性的に挙動したことを意味し、それだけ被害は増大したことであろう。
 何よりも津波に持って行かれた人々は、やがて低体温症で命を失ったことが残念で、夏
 場の発生だったら、死亡率はもっと少なかったかもしれない。

   粘弾性の時間・周波数、温度・周波数の換算則は実用的で日常的感覚とも一致する。
 やや難しい話になったが、このような物理学的観点から被災地の情況を観察すると、又、
 新たな知見を得ることができるのである。だが、こんなことを言えるのは、被害が全く無
 かった関西在住の私だからである。やがて起る三連動地震と津波に備えなければならな
 いのは、関西人の必然的な運命なのである。

 
 宮城県・石巻市・女川の被災地

 【2012年03月】

              芥川龍之介を語る 】

   私にとって、芥川龍之介は少年時代から最も親しんだ作家と言える。その風貌の異様
 さ、題材のユニ-クさ、鬼才と言うべき才能、波乱の生い立ち、悲劇的で突然な人生の結末。
 まさに、その名が文学賞に冠された、大正期の秀逸の作家である。芥川龍之介全集の古
 本を熟読した大学時代が懐かしい。「蜘蛛の糸」、「鼻」は、巷間、特に有名である。

   出張の機会を利用して、東京・築地にある彼の生誕地を再訪した。今は医科大学の傍
 にひっそりと建つこの記念碑には、訪れる人も少ないのかもしれない。だが、時には狂気
 に包まれて古典を題材にして創作した数々の作品は、彼の独特の文学的世界観である。
  芥川の出世作「鼻」は、夏目漱石によって激賞され、その文学的テ-マが、"自尊心"とい
 うことで、近代的自我を描き出したものと言えよう。時代の先駆者的感覚であったろう。

   龍之介は、実は、辰年・辰月・辰日・辰刻に生誕したが故に、龍之介と命名された。
 四柱推命学では、古来より辰年生まれは天才肌が多い( 蛇足だが、私も辰年生まれ。)。
 鬼才・芥川龍之介は東京築地生まれである。この事の影響も少なくないはずである。
 雑誌「新思潮」の旗手として、多くの文才ある才人が集まる東京なのだからである。

 
 東京・築地の芥川龍之介・生誕地

 【2012年02月】
              セミナ-参加記 】

  大阪市内での某セミナ-に参加し、見聞を広めて、出席者との交流を深められたことは嬉
 しいかぎりである。セミナ-の内容もさることながら、交流会の意義は大きい。こちらの方が
 mainの行事であり本命とも言える。詳細は記さないが、絶好の人脈拡大のチャンスである。
 その人脈が直ぐに役立つ訳ではない。しかし、know how よりも know who なのである。
 金脈以前の人脈と言えばかっこよいが、なんどもこのような交流会に参加することが大切
 である。中国の諺に「一回生、二回熟」なのである。いわく、一回目は他人でも二回目は
 友人の如しと。

 【2012年01月】
            【 マレ-半島の旅 】

   今年1月のアジアの旅は、会社の友人とのマレ-シア旅行で、カンボジアに続くアジアの旅だ。
 ホ-チミンからクアラルンプ-ルへ、南下し港町マラッカで東インド会社の遺跡等を見学し、クアラルン
 プ-ルに戻ってからは、今度はマレ-鉄道でバタ-ワ-スまで行き、ペナン島に渡る。そして、又、
 首都クアラルンプ-ルに戻り、ホ-チミン経由で僅か5時間で日本に帰国したのであった。

   マレ-シアの国は、マレ-半島の中南部とカリマンタン(ボルネオ)島・北西部からなる。しかし、普
 通マレ-シアと言えば、このマレ-半島の方を想起する。戦後10年以内生まれの世代は、TV
 番組「怪傑ハリマオ」を連想するであろう。それは実在の日本人であった。本名は谷 豊であ
 り、福岡市南区の出身で、昭和初期にマレ-半島で活動した盗賊であった。因みに、ハリマオ
 とはマレ-語で虎のことである。日本軍と共に戦った彼の存在は、幼少の頃の懐かしいTV
 番組の記憶として思い出される。

   アジア大陸からインドネシアに向け、赤道まで長く伸びた手がマレ-半島である。そこに成育
 され保護されているオランウ-タンはほとんどヒトと同じDNAを持つ。その知的な瞳はさすがに
 我々の祖先の縁者である。"森の人"の意味をもつオランウ-タンが、地上に降りなかっただ
 けである。ヒトとオランウ-タンの違いは何か、この文化人類学的問題は実におもしろい。

 
 マレ-半島のオランウ-タン保護区にて

 【2011年12月】
           
大阪府政モニタ-経験者協議会の30年の活動を終えて 】

  
本年12月で大阪府政モニタ-経験者協議会は閉会し、私はこの会に20年間関係した。
 
会としての知っている20年の歴史を振り返って見る。
   大阪府政モニタ-を1年間経験した者が、OBとして入会するNPO活動組織である。私
 はこの会で事務局長、副会長、会長、相談役、事務局長を務め、最盛期はの会員数
 約120名で私が会長職の時であり、大阪の女優:三林京子さんをお呼びし松心会館
 (松下電器産業㈱の社交クラブ)で総会を開催したものであった。

 
 大阪駅屋上広場にて(筆者は後列中央)

 【2011年11月】

            【 丹波篠山の散策 】

  
丹波篠山は近い。天下普請で名高い篠山城は長方形の平城で独特の縄張りである。
 この陣屋様のお城を散策すると、秋日の晴天の下、この篠山盆地は手頃な広さである。
 遥かに望む周囲の山々、ここ篠山は江戸幕府には西国大名の抑えの要地であった。
   篠山と言えば何を想起するだろう。デカンショ節、ボタン鍋・・、しかし近年はオシャレな街並
 である。プチ軽井沢と言えば言い過ぎか。阪神から近いせいか訪れる若者も少なくない。
 だが、若者たちはどれだけ歴史に関心があるかは知らないが、有名な諺として、「愚者
 は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。」とある。もっと歴史を勉強して観光して欲しいもの
 である。世界史の中でのアジア史、そして日本史を学ぶべきである。篠山にはそれらの
 歴史の記録が処々にある。学ぶ意欲のある者だけに、それらの重い扉は開かれる。

 【2011年10月】

              出石の喧嘩だんじり 】

   兵庫県は但馬の国、小京都の出石の町は自宅からバイクで約4時間であった。10月の
 とある日曜日、但馬散策でたまたま出石の秋祭りに遭遇したのは、実に幸運だった。
   その祭りたるや、まさに喧嘩だんじりで、2台のだんじりのぶつけ合いは、勇壮壮観で
 あった。小京都出石に秘められたエネルギ-がほとばしる喧嘩祭りである。
   だんじりと言ってもそれは神輿であって、4本の長い角材がとても長く突き出ている。
 それを相手側神輿に貫入させ破壊するのだから、すごいものである。住居による各組の
 仲間意識と勝利へのこだわりは積年の思い。10組近い1対1の対決は徐々にエスカレ-ト
 していき、警備の警察との乱闘にもなり、怪我人も出た。やや無法状態である。

   出石は鉄道網や高速道路網から離れた平素はひっそりとした但馬の城下町である。
 特に冬場は雪に閉ざされ、冬眠しているかのような町である。そのエネルギ-が秋の祭り
 で一気に爆発するのか。独特の名物「出石蕎麦」を食べながら、そう思ったことだった。
 ただ、出石にも革新性はあった。幕末の「仙石騒動」であり、この顛末は興味深い。
  また、春の日に再度訪れたい。桜花爛漫が良く似合いそうな但馬の小京都である。

 
 兵庫県・出石町の秋祭り

 【2011年09月】
              【 伊賀越えのバイク・ツ-リング 】

   私の最大の趣味はバイクツ-リングである。そして、特に歴史散策は最大の喜びである。
 祖国日本を津々浦々まで疾走する私は、「地理と歴史のミステリ-ハンタ-」とも言えようか。
 長期休暇は日本全国を駆け巡り、週末に走る歴史の宝庫の畿内は、我が庭でもある。
  今回も忍者の里:伊賀と甲賀を散策した。伊賀上野盆地は伊賀一国そのものである。
 御斉峠に立つと伊賀の眺望が素晴らしい。まさに歴史の里である。だが、負の歴史と
 して、織田信長の焼打ちに対する悲劇の"天正伊賀の乱"がある。詳細は記するまい。
 ただ伊賀一国を峠から見おろすと、涼風に歴史の感慨が沸々と湧いて来るのである。

   幼い頃の私は、バナナが食べたくて何故、台湾に生れなかったか嘆いたものだった。
 そして同様に、当時の"忍者ごっこ"の遊びの際は、伊賀に生れなかったことを悔しがっ
 たものであった。そんな伊賀の風土が、自宅からバイクで、僅かに90分の距離である。
 今はいつでも伊賀や甲賀の風土(地勢・空気)にふれることができる。なぜかしら伊賀が
 懐かしい。日本六十余州の一国を一目で収められる国は珍しい。それが伊賀である。

   もう一つの歴史として、家康の"加太越え"も名高い。そして、何よりも伊賀と言えば、
 かの松尾芭蕉の故郷である。辞世の句「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」とは、
 蓋し名句である。旅人芭蕉の本質を明示する終焉名作である。
   だからこそ、バイクを降りて、この自らの足で伊賀路を踏破することは乙であり、一興
 でもあろう。

 
 伊賀と甲賀の境界である御斉峠にて、伊賀上野を背景に

 【2011年08月】
            
【 中部・北関東・南東北のバイク・ツ-リング 】

   今年の夏も110ccバイクで中部・北関東・南東北を歴史散策ツ-リングをした。

  1日目=自宅-美濃加茂-飛騨高山-乗鞍高原温泉YH泊
  2日目=松本-諏訪湖-白樺湖-日光杉並木YH泊
  3日目=宇都宮-那須岳(茶臼岳登頂、安達太良山ロ-プウェ-)-裏磐梯YH泊
  4日目=猪苗代湖-勿来関-東京隅田川YH泊
  5日目=八王子-猿橋-甲府-河口湖YH泊
  6日目=冨士山一周(冨士風穴・白糸の滝・柿田川湧水群・箱根-富士吉田YH泊
  7日目=御坂峠-諏訪湖-木曽-木曽旅情庵YH泊
  8日目=明治村散策-自宅

 【2011年07月】
            【 アンコ-ルワット遺跡群を訪ねて 】

   少年の頃からの50年来の夢をついに実現した。憧れのアンコ-ル・ワット探訪の夢である。
 遙かなる東南アジアのクメ-ル文化の華;アンコ-ルワット遺跡群は、長年の行きたい
世界遺産
 の常に上位であった。少年時代に読んだアンコ-ル・ワット発見物語が想起される。

   関空より約5時間強(ベトナン航空)でホ-チミンへ飛び、プノンペンへと乗り継ぐ。市内観光を
 して1泊し、アジアハイウェ-でシェムリアップへ向かう。果てしない草原をバスで疾走する。走って
 も走っても風景は余り変わらず、さすがにカンボジア国の面積は日本の半分弱である。

   途中のベンメリア遺跡をスコ-ルの中で散策し、シェムリアップ(シャム族を退却させた土地の意
 味)の4つ星ホテルに泊ると、クメ-ル文化の真ん中である。暁のアンコ-ル・ワットは雲に隠され
 たが荘大な寺院のすごさ、そしてアンコ-ル・トムのバイヨン寺院も素晴らしかった。夕陽の中
 のアンコ-ル遺跡も雲に阻まれたが、遙かなる密林の中に遠望する石の尖塔は、インドシナ
 半島にいることを改めて実感させてくれた。ここに終に私の夢は果たされたのである。

   深夜便でホ-チミンの広大な市街の夜景を瞼に残して、翌朝、関空に帰国した。会社の
 友人と参加したこのJTBのツァ-は全19名で、格安(\49,800)で充実した内容だった。

 
 カンボジアのアンコ-ルワットにて

 【2011年06月】

             勝竜寺城の散策 】

   北摂・天王山近くの古都長岡京に近い勝竜寺である。細川ガラシャの新婚の城として
 有名でもあり、コンパクトで端正な小さな城である。お城好きな私にはどんなに小さくても嬉
 しい。所謂平城で特に防備上の特徴はないが、狭い堀が城の小規模さを象徴している。

   戦略的に重要であり、本能寺の変直後、山崎の合戦に深く絡んだこの城は、ガラシャ
 夫人の所縁がある。関が原の戦い直前、石田三成による西国大名の妻子の人質を拒
 み、決然と自害して果てたガラシャ夫人の辞世の句が有名である。巷間著名な名句で
 ある。日本人の無常感を象徴すると言えよう。


     散りぬベき 時知りてこそ 世の中の  花は花なれ 人も人なれ

 
 長岡京市の勝竜寺城にて

 【2011年05月】
            【 近畿最高峰; 八経ケ岳(1,915m)の登山 】 ( 2011年5月15日 )

    近畿最高峰の八経ケ岳を目指す。これも実に私の永年の悲願であった。
  私は旅の悲願は必ず達成する「旅の強運」の持ち主であり、今回もまた感謝である。
 世界遺産の熊野古道(大峯奥駈道)は快晴で、新緑の爽やかベストシ-ズンであった。
 天川の宿に集った仲間たち10名での山行は、ほんとうに楽しく賑やかなものであった。

   行者還西口トンネルの登山口から丁度三時間。弥山の頂上は"山上の楽園"である。
 弥山神社の古式ゆかしき荘厳さ。そして、弥山から往復1時間の八経ケ岳は、近畿の
 最高峰(1,915m)であり、その昔、役の行者が「法華経八巻」を納めたとの伝承があり、
 八剣山とも仏経ケ岳とも呼ばれている。

    眺望は実に素晴らしい。北に稲村ケ岳と山上ケ岳(女人禁制)、東には大普賢岳と
 大台ケ原、南に釈迦岳と峯々は連なり、まさに、近畿の屋根の見事な偉容である。
 弥山からコバイケの群落やシモヤシロ、石楠花の花を見つつの下山は二時間半であった。
   山の魅力を十分に満喫し、修験道の歴史にも触れ、自然に抱かれた一日であった。

 
 大峯奥駈道で弥山(1,895m)に至る「聖宝の宿」跡

 
 八経ケ岳の眺望

         【 山陰地方のバイクツ-リング(歴史散策)】 ( 2011年5/7-5/11 )

   永らくの悲願であった投入堂(ナゲイレドウ)に、やっと登拝した。
 役の行者がその昔、法力で岩窟に投げ入れたこの建物は、やはり驚くべき哉である。
 峻険なる崖を急登し、鎖を伝い慎重に登った50分後、この満足感に薫風が心地良い。

    伯耆国のこの古刹には、山形領の立石寺とは異なったまた別の山寺の趣がある。
  こうして日本各地から多くの登拝者を引き寄せる魅力とは、一体で何であろうか。
  その答えは、・・・・ そこにとても不思議な建物があるからである。
   だから登りたい。それ故に登る。 ・・・・・ 何かを感得する、パワ-スポットである。

 
 三徳山・三仏寺の投入堂(鳥取県・三朝町)

 【2011年04月】
             【 前世の地; 但馬の竹田古城を訪ねて 】

   兵庫県和田山の南峰で威容を誇る山城の竹田城は、私が思う私の前世の地である。
 何度も訪れる度に、心の底から懐かしい感情が湧き上ってくる。六百余年の昔である。
 前世の地を証明するものは無い。確信だけである。室町から戦国の世に生きていたと。
 だから懐かしい。京への思いも強く築城技術に長じていて、遥かな坂東の足利学校にも
 私は遊学したことがある。これらの思いには根拠があり私の幼児体験が傍証している。

   竹田城は素晴らしい。今は累々とした石垣のみで櫓もないが石垣が見事である。
 天守台より見下ろす南二の丸(写真)は、なんと美しい縄張りではないか。桜も舞い散り、
 これぞ日本の美である。あれから六百余年。私はこうして摂津国の北部で生きている。

  但馬なる  竹田古城の  石垣に  頬添え聴きし 武士の声  (武士:もののふ)

  さくら花  乱れ舞い散る  古城は  懐かし山河  過ぎにし昔日  (古城:ふるじろ)

 【2011年03月】
              【 紀伊半島一周&お伊勢参りのバイクツ-リング2泊3日 】

   お伊勢参りを兼ね、熊野古道大辺路ル-ト(国道42号)を通り、紀伊半島一周を試みた。
 日本最大の半島と言えば、実はそれは紀伊半島である。意外な感じがするが、それは
 まぎれもない事実で、日本地図をもう一度見直す方がよい。

   この半島を2泊3日でバイクで一周した。1泊目は潮岬、2泊目は二見ケ浦であった。ゆっ
 くりと走りながら半島の各地を見物すると、歴史を知る楽しさをまた実感するのである。

 
 剣峠(三重県道12号、五か所湾-伊勢への中間点)

 【2011年02月】
              東京への思い 】

   毎年2月には数日間の東京出張が恒例となっている。今年は時間の合間をみて東京
 の新名所:東京スカイツリ-の建設現場まで訪れた。武蔵(ムサシ)国にふさわしく最高634mの
 計画で、見学日はその高さ到達への僅か数日前であった。

   新東京の開幕でもある新TV塔の建設は関東の生活文化に大きく影響を与える。子供
 時代を思い出せば、TVこそ情報・教養・娯楽の大部分であった。日本の最西端の長崎
 で
育った私には、東京の子供はもの凄い羨望の対象であった。半ズボン姿で合唱をして
 いる山の手っ
子への憧れは、そのまま東京(金持ちお坊っ様)への憧れであったのだ。
   しかし、現実の私は今や大阪人であり、東京に羨望しつつも対抗心はやはりある。

 日本の関東・関西の二大文化圏の構図は不変だが相手は首都圏の大東京だ。だが、
 関東大震災以降から昭和初期迄は、大阪が日本の中心であり"大大阪"であったのだ。
 関西の若者はこの史実を知らないだろうが、浪花こそ日本の中心だったのである。
   しかしながら、それでも東京は凄い。一言でいえば「文化力」の圧倒的な高さである。

 【2011年01月】
             【 中国東北部: 旅順・大連・金州の三泊四日の旅 】

  新年早々、憧れの中国大連・旅順・金州への格安旅行に参加した。

 
 203高地の記念塔(爾霊山)

 
 203高地から望む旅順港の遠景

 
 乃木希典将軍とステッセル将軍の「水師営」の会見場(再現)

 【2010年12月】
             【 室生寺に思う

   室生寺は長谷寺と並んで、奈良県の"奥"(宇陀地区)の名所である。関西に在住の諸
 氏
は一度は訪れて欲しい名所である。"古"にふれるなんとも心安らかな山間の聖地で
 ある。
奥の古だから、「古奥の地」と言うべきであり、週末に訪れるのには最適の地だ
 と言える。

   室生寺の境内の建物には各々趣があり、特に五重塔は古色蒼然として素晴らしい。
 心のふるさとである気もして、一泊して早朝に「春眠暁を覚えず処々に啼鳥を聴く」の体
 体験をしたいと思う。朝粥・写経・座禅等の体験も日常の世俗を離れる点で貴重である。

   ここで最晩年を過ごすという枯淡の心境には未だ成れないが、年を経るにつれ古きも
 のが恋しくなるのは人の心であろう。それは、「生老病死が人の定め」だからである。
   室生寺をゆっくり散策すると、来し方を思いながら、あれは30年前、あれも40年前な
 どと思う年齢になったことが寂しいが、元気に"若者らしく"バイクで古寺を後にした。

        黒髪に 霜降りし今 青春に  見し若き夢 遂げて果てなむ 

   
(歌意)  頭髪に今や白髪が目立つ年齢になってしまったが、青春時代に抱いた夢を
       必ず実現して、この人生に別れを告げてあの世に往きたい。


 
 室生寺

 【2010年11月】
            
平城京遷都に思う 】

  
"ナント(710)綺麗な平城京"と覚えた西暦710年の平城京は、今は広大な平原である。
 
京の平安京が完全に市街化している事を考えると、希有な温存には感謝すべきであり、
 
先人の努力には頭が下がる。近年、再建された朱雀門や大極殿に佇むと、この奈良の
 都
がシルクロ-ドの東終端であることが実感され、正倉院の宝物にその物証を得る。

  
飛鳥より、藤原京、そして平城京へと北遷し、浪華の宮、恭仁宮、信楽宮、大津京等
 とめまぐるしく変遷して、またこの平城京に落ち着いた狂おしい遷都熱は、長岡京を経
 て、終には平安京1100年の都へとようやく安定したのである。


  
平城遷都1300年祭に参加すると、下記のような"流鏑馬"の行事に往時が偲ばれる。
 
簡素な服装、未洗練の弓具、子柄な日本固有馬、稚拙な技術に違いない筈である。
 往時の神事としての騎射の高成績の報奨は幾段階にも色分けされた布であったと言う。
 
今を遡る約1300年前の武人の精進が偲ばれて、何度もこの神事を見物した訳だった。

 
 平城京での流鏑馬

 【2010年10月】
            【 大阪城天主閣に思う 】

   天下の名城:大阪城は大阪人の否日本人の誇りである。世界遺産の姫路城の優美
 さにはやや劣るが、縄張りの威容は江戸城と両雄であり天守閣は圧倒的存在である。
 近年、アジア系の観光客が多く訪れる理由も、この日本の美を放つ天守閣ゆえであろう。
 鉄筋コンクリ-トでエレベ-タ-付き天守に幾ばくかの興覚めの感無きにしもあらずだが、浪花
 の上町台地の北端に鎮座するこの天守閣は近代の造物であることはよく知られている。
 即ち、石山本願寺の上に秀吉の大阪城、そして江戸時代の大阪城代。更に昭和に入っ
 て大阪市民の浄財が当時の軍部を懐柔し得て、天主閣は再建され今日に至っている。

   落城したこの大阪城には感慨深いものがある。天主閣北側の山里丸は、淀君秀頼母
 子の自刃の場として知られているが、遥か京を望む高所にある。他方、落城の際、紅蓮
 の炎から立ち上る黒煙は、洛東の"ねね"の居所(高台寺)からも確認できたと言われて
 いる。

   この大阪城天主閣を毎日眺めながら、OBP Panasonic ツインタワ-で仕事をしているお
 城好きのこの私は、何と幸せ者かと思っている。

   小学6年生のある日、自転車事故で怪我をして入院した時に、母親にせがんで買って
 貰った唯一の
プラモデルがまさにこの大阪城天守閣であった。お前は大阪に行く定めだ
 との神仏の思し召しだったのかもしれない。ベットの枕元に置いたプラモデルの大阪城天
 主閣は、決して大きいものではなかったが、少年の頃の実に懐かしい宝物であった。

 
 大阪城天守閣

 【2010年9月】
            【 東尋坊にて思う 】

   晩夏の日本海に東尋坊は映える。観望のテラスとしての柱状節理のテ-ブルは自然から
 の賜り物である。海良し空良し島も又良し。晩夏から初秋にかけての季節は特に良し。

 冬には荒れ狂う日本海だが、越前海岸のこの穏やかさは多くの観光客を魅了する。
 東尋坊の命名の由来は巷間つとに知られる。そのおどろおどろしさとは異なり、この優し
 い海の島影の風景には、心落ち着かせるものがある。が、しかし、・・・・ 。


   遥か北西の視線の彼方には、見えるはずない北朝鮮の国がある。その地より擦れた
 ハングル文字の漂流物が流れ着く。それ故に辛い「拉致問題」が右の拳に想起される。

   怪力で乱行の怪僧:東尋坊は、この地で葬り去られた。その怨念かここは名高き自殺
 の名所である。風も強く、割れやすい岩盤は、酔客にはとても危険である。ゆめゆめ、こ
 の地を甘くみてはならない。一瞬の油断が闇に繋がり人生は危険と隣り合わせである。

 初秋の一日、ただただ雄島でテントを張り、夜間の星の流れに夢の実現への願いを託し
 たい。東尋坊で思うは、穏やかな晩夏から初秋への愛しい風景と潮の香の旅情である。


 
 東尋坊の雄島

 【2010年8月】
            【 琵琶湖一周のバイクの旅 】

   逢坂の関跡を90ccのバイクで越えると直に琵琶湖である。気温30℃の中、浜街道とさ
 ざなみ街道を涼風に吹かれて走ると、旅の楽しさを感じる。しかし、琵琶湖大橋の右岸
 まで来ると異常が・・・。パンクでもないのにタイヤが凹んでいる。パンク修理の道具や技術も
 あるが、やや面倒だ。バイク屋さんに行くと、いつもと違った原因だ。つまり、後輪の規定
 空気圧2.8kg/cm2以下で走ったため、タイヤの中のチュ-ブが疲労していて空気漏れをして
 いたようだ。親切なバイク屋さんのお蔭で修理も完了し、彦根を目指す。長浜城を観て、
 姉川を渡り小谷城に行き、「近江を制する者は天下を制す。」とは何故か、を走りながら
 考えつつ、帰宅後の司馬遼太郎「街道をゆく24 近江散歩・奈良散歩」の再読を思った。


  古戦場賤ケ岳にリフトで登る。素晴らしい眺望だ。奥琵琶湖の静寂さ、天女の羽衣伝説
 で名高い余呉湖の神秘な佇まい。ここで約四百年前に大きな戦があったのだ。リフトで降
 りる数分間の静かな時間に、スピ--より流れる日本の叙情歌が林間と心に沁み渡る。
 あぁ~旅はいいな。内なる自分との素直な対話が生まれる。私は今自分の人生を自分
 らしく素直に生きているのか、との問いが湧いてくる。人生を自分らしく生きるしかない。
 「私らしさの徹底こそ私の処世哲学」である。他の何ものでもない私の人生なのだから。

 
 下山して、湖西をひたすらに走る。昔、大学院時代、研究室のメンバ-と来た懐かしい海
 海津大崎も沿線の小駅のように過ぎ去って、暮れなずむ志賀の都大津に到着する。そ
 して再び逢坂の関跡に戻り、琵琶湖一周のバイク・ツ-リングを茲に生涯初めて完遂した。
 約200kmの走行距離と10時間の長い真夏の一日旅であった。


   旅は人の心を素直にさせる。自然の中を走り自然に癒されて、歴史に学び、私はまた
 自然と歴史から元気を頂くのである。だから歴史散策のバイク・ツ-リングは止められない。

 元気な私だから、古希の年に至るまで、日本全国をバイクで疾走していることだろう・・・。

 
 秀吉の天下取りの第一歩となった長浜城

 
 天女の羽衣伝説で名高い余呉湖の眺望

 
 静寂な奥琵琶湖の風情、竹生島も指呼の間

 
 賤ケ岳頂上

 【2010年7月】
           【 富山県のセミナ--に参加して 】

   大阪市内のホテルで開催された富山県のセミナ-に参加した。富山県は実に不思議な県
 である。皆さんは富山県のことをどれだけご存知であろうか。富山の三大不思議とは、
 以下の三つである。①蜃気楼、②ホタルイカ、③埋没林 他にも全国的に有名なものは
 越中富山の薬売り、立山、黒四タ゚ム、雷鳥、風の盆、黒百合、チュ-リップ、キトキト である。

   能登半島が日本海に突き出した定置網ならば、水深の深い富山湾は天然の生簀で
 ある。寒ブリも有名である。こうした魚業県のせいか、富山の結婚披露宴の引き出物は
 めでたい魚の大きな色とりどりの蒲鉾である
。無論、地酒も旨いものがある。立山の清
 流のせいでもあろうか。それにしても、越中おわら風の盆は情趣豊かで味わい深い。
  (備考)
  牛込Partyの第1号のカップルの披露宴は、富山市で開催され、私も出席した。勿論、引き出物は蒲鉾だった。

 
 富山県のセミナ-のレセプション

 【2010年6月】
          【 神戸・三宮での月例の異業種交流会:サロンドソラ(Salon de SORA) 】

   関西・神戸での異業交流会である。毎月月末土曜日の夜は、神戸・三宮で過ごすこと
 が多くなった。㈱SORAの社長:角本沙織さんが主催する異業種交流のサロンである。
 神戸は意外と近い。大阪からJRの新快速で約30分、\540である。エキゾチックな神戸は、
 長崎や横浜と似ているが、地形は全然違う。圧倒的な存在感の六甲の山並みが、港神
 戸の魅力でもある。ビ-ナスラインから見下ろす見る夜景は、正に「街の灯」の群落である。
 エキゾチックな潮風に、オシャレなファッションを靡かせる神戸っ子は、ほんとうにエレガントである。

   関西人の理想は、「京都で学び、大阪で仕事をし、神戸に住み、奈良に別荘を持つ。」
 ことであろう。神戸の六甲山麓の高台に住むことは、やはり、ステ-タス・シンボルである。

 
 全体写真

 【2010年5月】
           【 平家の里へのバイク・ツ-リング 】

   ゴ-ルデンウィ-クに奈良県・野迫川町にある「平家の里」を見学した、憧れの地であった。
 紀の川を越えて、十津川に入り、野迫川村から更に進み、やっとこの平家の里に着く。
 遥か南方に小辺路ル-トを見降ろす伯母子岳(1344m)が聳えている平和な山里である。
 平清盛直系の孫の平維盛は、若くして桜梅将軍として、また富士川での敗走の当事者
 として有名である。悲劇の将軍と言うべきか、ゆかしき、栄枯盛衰深き将軍である。

  私はこの山里が大好きで、何度も訪れているのである。願わくば仲秋の名月の時に、
 この地に宿泊して、深更、配所での観月の酒杯の風流を味わいたいものである。

 
 平維盛(タイラノコレモリ)の終焉の地

 【2010年4月】
          【 パナソニック㈱枚方社員研修所 】

   久し振りに訪れたパナソニック㈱枚方社員研修所であった。西宮市より移設した創業者
 :故松下幸之助翁の私邸であった「光雲荘」を見学した。( 以下、割愛 )

 
 松下幸之助創業者の私邸「光雲荘」

 【2010年3月】
           【 ル-ツへの憧れ:父祖の地薩摩 】

   来春、新幹線の直行で鹿児島へ4時間の旅が実現する。一昔前からは信じられない。
 我が先祖の地:薩摩が、この生業の地:大阪より、一睡の転寝の間に到達できるとは。
 素晴らしい時代である。まさに日本の技術力の賜物であり世界に誇る鉄道技術である。

   私の曾祖父は、薩摩の島津忠重公(第30代当主)の側近であった。祖父は鹿児島で
 育った父を連れて、郵政官僚として長崎に来任したので、私の故郷は正に長崎である。
 しかし、我が五尺七寸の体内には、薩摩の熱きあつき血潮がまぎれもなく流れている。
 無論、幕末の志士:平野國臣には及ばないが、青雲の熱き思いは今でも健在である。

     我が胸の 燃ゆる思いに 比ぶれば  煙は薄し 桜島山  ( 平野國臣 ) 

   大阪から思い立って新幹線乗車後、4時間で桜島が望めるのはなんと嬉しいことか。
 薩摩のエネルギ-を使命感に注いで、また大都会大阪で活躍する。それは有難いことだ。

   薩摩人は鹿児島を" かごんま"と呼び、西郷さんを" せごどん"と慕う。独特の文化を
 誇る薩摩は、関ヶ原敵中突破で勇猛を馳せた島津義弘、幕末の開明君主の島津斉彬
 など、まさに島津家30代の歴史において「島津に暗君無し」である。郷中教育や薩摩示
 現流の影響も少なくないだろう。壱の太刀必殺の" チェスト行け~ "の剣法である。
   こんな鹿児島(薩摩)が私は大好きである。確かに、もうひとつの我が故郷でもある。

   現在、我が一族には、「長助会」と言う親睦会があり、日本全国約300所帯の子孫が
 健在に暮らしている。家系図も整備され、昨夏、本家の跡取りがめでたくも衆議院議員
  (民主党、九州B)となったことは、大変喜ばしいことであり一族の誇りでもある。

 【2010年2月】
           【 飛鳥の奇祭「おんだ祭り」 】

   我が国文化発祥の飛鳥、飛鳥坐神社で毎年2月第1日曜日に開催される「おんだ祭」
 は、天下の奇祭である。「 豊年を予祝する夫婦和合の神事 」(奈良検定テキスト)であり、
 奈良検定の勉強の前までは知らなかったが、先日、バイクを飛ばして初めて見物した。
 良い場所を確保し辛抱強く2時間も立って待って、祭り自体は2時から1時間半であった。

   第一部は儀式で、宮司が唱える祝詞に、遥かなる古代の農耕文化の素形が偲ばれた。
 次の神楽の奉納は実に端麗で、若い巫女の清浄な舞には心が洗われる思いであった。

   第二部は夫婦の新婚初夜の儀式であり、地元の青年団の有志による天狗とお多福の
 それと、翁の介添えはユ-モラスで、外国人を含む多くの観客の笑いを誘っていた。

   最後に、五穀撒き(約2,000個の餅撒き)があり、私も良い場所を得ていたせいか4個を
 getできた。飛鳥の地の伝統行事に日本文化の素形を見たことで、有意義な休日となっ
 た。節分と立春を過ぎたが春まだ浅い大和路も、やがて梅そして桜に満ちた春となる。

 
 結婚式

 【2010年1月】
           【 大和の国バイク・ツ-リング歴史散策 】

   奈良検定の受験も終わり、公式テキストを26回も熟読した後のいわば修学旅行として、
 凛とした冬の風の中、早朝、気温2℃の大和路を90ccバイクで駆ける。ツ-リングは楽しい
 ものだ。自由を満喫して歴史に触れるとき、温故知新の新しい感慨や発見がある。

   大和の国の奥、宇陀の地の松山城・本丸に登る。1615年、織田信長の次男:信雄が
 封じられ、元禄年間に丹波・柏原に国換えとなったその真実は何だったのか興味深い。
 家を守ること、国を護ること、時空を超え、現代にも通じる智慧がそこにはあると思う。

   天の香具山に立つと、「大和は国のまほろば・・・」という古代人の感慨がひしひしと伝
 わってくる。「香具山は 畝傍を惜しと 耳梨と 相争ひき・・ 」との歌は、天智・天武の兄弟
 天皇と額田王との三角関係を詠ったもので、いつの世にもある男女の心情である。

   葛城山の麓、茅原の地の吉祥草寺にたどり着くと、そこはかの日本史上のス-パ-スタ-
 役小角(役行者)の誕生寺である。私はその直系の子孫とお話をしたことがあるが、実在
 した人物としての過去の超人と子孫の方のご本人とを比較すると実に面白い。

 
 宇陀松山城(奈良県)

 【2010年正月】
           【 新年のご挨拶 】

   皆様、あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。
 今年も、寸暇を惜しんで、9個の試験に合格し、目標達成に邁進する所存です。

 
 橿原神宮参拝と畝傍山登拝

 【2009年12月】
            【 邪馬台国のロマンを訪ねて 】

   最近、JR 巻向駅のすぐ傍らで、壮大な宮殿の遺構跡が発見された。今回、この地を
 訪れ、古代のロマンに浸るとき、やはりこここそが邪馬台国だと思えてくるのである。その
 理由は、大和の国中にある壮麗な三輪山を背景にした箸墓古墳の存在であり、そして
 この度のこの本格的な遺構の発見であり、更に、この土地柄への天啓的な直感である。

   箸墓古墳の形状寸法は、「魏志倭人伝」の記述と一致し、最近の年代測定技術によっ
 ても、卑弥呼の死亡年(西暦248年)の3世紀中頃とも同じくするのである。そして、古天
 文学によるシミュレ-ション計算でも、西暦247年・248年と2年連続で日食がこの地で見られ
 たことが証明されている。卑弥呼(中国側の蔑称)とは「日の巫女」、即ち、鬼道を以って
 国を治めた占術者であり、2年続けた日食の出現によりその権威が失墜し、暗殺された
 ものと思われる。(朝鮮半島では権威が失墜した為政者は、しばしば暗殺されたという。)
 更に、このことは古事記の「天の岩戸」伝説に繋がるとものと思われる。邪馬台国がこ
 の地であると比定するに足る決定的な証拠は、いつの日かの箸墓古墳の発掘によって
 得られるであろうか。私の命の存命中に、期待したいものである。

  
卑弥呼が貰ったとされる金印ではなく、その封泥でなければ絶対的証拠にはならない
 と言われている。九州の邪馬台国が金印と共に、この大和に東遷したとする説もある。

   倭国の国の始まりがこの奈良盆地であり、大和政権の進展とともに、遂に大宝律令に
 おいて、我が国の国号「日本」は確定した。遥かなる時空を超え、東に三輪山を背にし、
 西に二上山、その彼方の瀬戸内、九州、朝鮮半島、中国大陸へと思いを馳せる時、思う
 ことは渡来人のことである。日本人の私もまた渡来人であると。遥か東アジアの大陸より
 渡り来し者たちの末裔なりしと ・・・・・ 。

 
 箸墓古墳(奈良県・桜井市)と三輪山

 【2009年11月】
            【 万葉の娘たち:今どきの奈良女子大生は 】

   11月3日の文化の日、オ-プンキャンパスのその日、今年創立100年の奈良女子大学を初
 めて訪問した。はるか昔のNHKの番組「万葉の娘たち」を想起しつつ、国立の女子大を
 隈なく見学し、多くの学生・教員・職員と話をして、実に収穫の多い秋の一日であった。

   奈良女子大学は、東京のお茶の水女子大と共に我が国女子教育の両雄であり、明治
 42年創立の奈良女子高等師範学校をそのル-ツとし、全国から優秀な学生が結集する。
 そんなイメ-ジを持ちながら、丸一日かけて見学すると、私なりの感慨が醸成されてくる。

   今日の「万葉の娘たち」(奈良女子大生)とは、どのような乙女たちであろうか。西日本
 の庶民家庭の優秀な女子が広く参集するのが、この奈良女というイメ-ジである。どこか
 ロ-カル( 垢ぬけしない)で、真面目かつ勤勉で親孝行という先入観があったが、現実の私
 の印象は、「なんと知的な美人が多いのか。」である。一定水準以上の知性に現代的な
 センスを加味して、今日の万葉の娘たちは、この古都の青春を満喫しているようである。
 女子大という異性の視線が無い気楽さ。若草山の陽光にも似た青春の輝き。夜の店閉
 まいが早く、歓楽には遠い静かな奈良の街並み。愛らしい鹿の群れむれ・・・・ 。
 どのような4年、もしくは6年間を過ごし社会に巣立って行くのか。私にとって小説のモデル
 としての興味は尽きない。

   かってそのようなT嬢がいた。既に他界しているその万葉の乙女とは、共に同じ学生の
 山焼きの日に、奈良公園で最初で最後のデートをしたことがある。20代で逝った訃報を
 聞いたあの日、涙がとめどもなく流れたことは生涯忘れられない
。将来、いつの日か、
 一期一会の万葉の君(T嬢)に、小説を書いて捧げたいと思っているのである。

 
 奈良女子大学のオ-プンキヤンパス

 【2009年10月】
            【 ハ-レ-・ダビットソンは過去の一時の夢であった 】

   ライダ-の垂涎の的は言うまでもなく、この写真のようなハ-レ-・ダビットソンである。だが、
 今はもう見果てた夢である。憧れでもなく、希望でもなく、過去のうたかたの夢である。
 私の自動二輪の免許は中型(400ccまで)しかない。(但し、免許取得は難しくない。)

   私とバイクとの出会いは30年以上になる。勿論、最初はミニバイク(50cc、JOG)であり、
 次に、250ccの中古のアメリカンであり、現在は、ホンダの名車ス-パ-カブ(90cc)である。
   50ccでは、北海道から大阪まで帰阪し(行きは新日本海フェリ-)、250ccでは中国自動
 車道を爆走し、90ccでは京都-東京(1号線)を1日(15時間)で完走し、また、北海道道南
 や沖縄本島一周なども達成した。バイクに乗って、フェリ-&バイクで日本中を隈なく走破した
 と言えるであろう。本当に、バイクの御蔭で自然散策と好きな歴史散策ができた。

   上の写真のハ-レ-・ダビットソンは、\327万である。小型テントを積めば、日本中を気まま
 な旅ができ、時折、旅先で出会う人も1人は乗せられる。ステレオを聴きつつ、高速道路を
 爆走すれば、それは自尊心が突き上げる強烈な自己満足を満たす。当に見栄である。
 しかし、燃費は高速で22km/Lで悪くはないが、心配も多い。まず、盗難に極めて遭いや
 すい。イタズラやキズを付けられる心配も大きい。マンションの駐車場にも入らない。高速代、
 フェリ-代、保険代も勿論高い。まさに車であるが、雨はともかく、雷は避けねばならない。

   以上のような訳で、今やハ-レ-・ダビットソンは、私には憧れでも夢でもないのである。

 
 大阪・中之島公会堂前のハ-レ-・ダビットソンの展示会場

 
 走らない試乗

 【2009年9月】
           【 ブラジル移民100年に思う 】

   「神戸学検定」試験の勉強の仕上げとして、丸一日かけ神戸市内を歩いて散策した。
 夜景で有名なビ-ナスブリッジから海側に下ると、旧神戸移住センタ-に辿り着いた。ここは
 ブラジルへの移住船・笠戸丸に乗船する前に待機するための施設であった。ゆっくりと見
 学すると故郷長崎での幼少の頃が思い出された。遥か昔の昭和30年代のことである。

   数軒先の20代のおじさんがブラジルに移住すると言って、ほど無く居無くなった。当時
 はどこでも子だくさんであったが、如何に国際都市の長崎とはいえ、意外な感じがした。
 その後、風の噂にも聞かなかった。その親戚の幼馴染の女の子も居無くなった。赤い靴
 を履いていたかどうかは知らないが、横浜ではなく、神戸の港からだったのか ・・・・。
   移住船は、前期はインド洋・南アフリカからブラジルへ、後期は太平洋からパナマ運河を経
 てブラジルへ。約40日かけて到着し、入植後はひたすら馬鈴薯作りに専念したとか・・・。

  旅立つ前のこの施設での生活は、石川達三の小説「蒼氓」(第一回芥川賞)に詳しい。
  大人になって日本国中を旅して、紀州のアメリカ村に至った。山が迫り海が広がるこの
 狭い土地の人々は主にアメリカに移住した。そんな土地に比べ何故長崎の人が移住しな
 ければならなかったのかと今でも思うのである。貧しさ故か成功への熱い憧れなのか。

   ブラジルでの開拓生活は写真でしか見れない。以前、日系四世の女性と話をしたこと
 があるが、ブラジル人だが心はやはり日本人だった。ただ、考え方は大陸的であった。
   身近にブラジルへ移民した人はいたけど、噂もなかったのでなんとも言えない。しかし、
 NHK紅白はブラジルでも放映されるし、今日では新興国「BRICs」の B はブラジルである。
 施設内の写真を見ながら、地球の真反対での先人の苦労を想像するのみであった。
   約25万人が新天地を求めて船出した・・。 2008年はブラジル移民100年に当たる。

 
 海外移住と文化の交流センタ-(旧神戸移住センタ-、旧国立神戸移民収容所)

 【2009年8月】
           【 ピ-スボ-ト世界一周の船旅の説明会に参加して 】

   定年後の大きな楽しみは、「107日間世界一周の船旅」である。その説明会に参加し
 一足早くピ-スボ-トの旅の雰囲気を味わってきた。季節は春4月、横浜港を約700名の仲
 間たちと一路南下して各港で上陸しつつ、インド洋からスエズ運河、地中海、北欧フィヨルド
 観光、大西洋からN.Y.、パナマ運河から、ハワイ経て日本へ。考えるだけで、楽しい世界の
 船旅である。この間、ピラミッドやマチュピチュなどの世界遺産も見学することになるだろう。
 この生まれた星:地球を一周できるとは、何と素晴らしいことだろうか。

   世界の地の果て海の彼方まで行きたいと思うのは、人間の本能であろう。しかし、実
 現できる人は、ほんの一握りである。妻の了解も得ている現在、出発の日が心楽しい。
 徹底して旅を満喫し、船内でも大いに学び、自主ゼミの講師もしたりして、多くの友達を
 作り、人脈をめいっぱい拡大したい。そのことは、やがて起業する私にとって大いに役
 立つことにもなるだろう。今から、ワクワク、ドキドキ、の夢の旅である。

 
 神戸ポ-トタ-ミナル大ホ-ル

 【2009年7月】
           【 阪大を巡る思い出 】

   大阪大学のこの刀根山の地を30数年振りに訪れた。実に様変わりして、こうして立派
 な総合学術博物館が建設されている。館内展示をじっくりと見学すると、阪大を巡る私
 の思い出が蘇って来る。人生航路は、ふとしたことで大きく変化するものである。

   大学院修士課程で産業科学研究所の研究室に有機化学専攻で合格したものの、好
 きな有機合成の実験でなく、X線回折による結晶解析を教授より要請されていた私は、
 その進学を断り、もうひとつ合格していた京大の化学研究所で無機合成化学を専攻す
 ることとなったのである。その選択の理由はささいなことであるが、それが人生の岐路に
 おける不思議な力の結果なのである。勿論、後悔はしていない。

   阪大に進学してX線結晶解析学を専攻し、狭い世界の学者になっている姿は、やはり
 私の本来の姿ではないと思う。生来、気が多く何にでも興味を持つ私は、深遠な学問、
 しかも分子構造解析だけの世界に一生を捧げるのは、やはり違うのではないかと思う。
 結果として、現在の私が学問的に深遠さを深めたとは言わないが、相対的により広い世
 界を楽しんだことは事実であろう。

   阪大の学風は京大とは異なり、おそらく東大とも異なるだろうが、企業の研究者として
 は、出身大学院に余り関係はない。大学で成功するか、企業で成功するかは大した問
 題ではなく、良いテ-マに恵まれるかどうかに集約される。蓋し、"運"そのものである。
 だから、阪大の方に進学していればという未練は、一度も思ったことはない。

 
 大阪大学・総合学術博物館

 【2009年6月】
           【 東大を巡る感慨 】

   東京出張の会議とPartyも終わり、午後の時間に、久しぶりに東大構内を散策した。
 この本郷キャンパスの安田講堂の前に佇むと、"東大を巡る感慨"には、深いものがある。
 東大の歴史的役割、大学紛争時の安田講堂落城、そして現在の課題である。学生食堂
 での早い夕食の後、三四郎池を巡って、赤門を抜けてキャンパスを出た。心に去来するこ
 とは、私自身が西の東大のOBとして、東大に対する複雑なアンビバレンスな思いである。

  東大への羨望と嫌悪、特に法学部への憧れと憎しみ、は近代日本の成立とも深く関わ
 っている。東大法学部OBが君臨する官僚制と政官財界のヒエラルキ-は、功罪相半ばであ
 ろうか。東大理学部・工学部は、西の東大(京大)と共に、学会を牽引したことは疑いは
 ない。そして東大・医学部は、昭和40年代の大学紛争のまさに発火点であった。全学連
 闘争、大学時限立法、東大入試の中止、安田講堂落城と、目まぐるしく変動した。世界
 的にも Student Power により、象牙の塔=大学 が自己批判を迫られたのである。もう
 遥かに40年程の歳月が流れたが、今見る安田講堂は未だ痛々しい傷痕は拭えない。

   最難関の受験に勝利し、その虚脱感で5月病に罹患した時、やっと大学と社会の矛盾
 に覚醒したのか、単なる青春の目標喪失なのか。 かって、東大総長による入学式の祝
 辞、「太った豚より、痩せたソクラテスになれ」は蓋し名言であった。また後年、別の総長の
 祝辞も有名になった。曰く、「社会に出ると東大卒は、むしろマイナスの面も少なくない。」
 である。この言葉を私なりに解釈すれば、学力・品格・見識が不十分なまま、OBとなって
 いく卒業生が少なくないということなのだろうか。

   現在、この大学には静かで穏やかな時間が流れている。だが、何となく学生に覇気が
 ない。おりこうな草食動物の馬であり、速く走ることだけを追求している感がある。これは
 西の東大でも同じ傾向だが、首都から遠く離れた京大には、バンカラ気風の余韻はある。
 従って、現在の課題は、東大はどこへ行くのか、研究・教育・(政府諮問)のバランスを保ち
 つつ、どうそのミッションをコミットして行くかが重要であろう。

   世界における大学のランキングにおいて、東大は決して上位の範疇には入っていない。
 しかし、やはり我が国の最高学府であることには異論はない。大学の規模、総予算額、
 教官と学生の質・量、学際性などである。東西の東大でノ-ベル賞の数を云々しても余り
 意味はない。ここでは、東大の研究・教育制度には言及しないが、世界に冠たる大学の
 証左は、全世界からの留学生をどれだけ結集できるかがそのバロメ-タであると思う。

 
 東京大学・安田講堂(本郷キャンパス)

 【2009年5月】
           【 人生は生まれながらに不平等である、されど・・・・ 】

   ここ大阪・梅田のお初天神は、都会の中のしばし安らぎの場所である。実話としての
 お初&徳兵衛の終焉の地であり、世に曽根崎心中として名高い。今回はこの心中事件
 への考察は控えて、思うことを述べたい。曰く、人生の不平等についてである。

   人生は不平等である。法の下には何人も平等でも、出自においては不平等である。
 「どの時代、どの国、どの家に生まれるか」で、人の人生は極めて大きな影響を受ける。
 報復戦争が果てしないパレスチナ、民主主義人民共和国とは名ばかりの北朝鮮、子供の
 給食費も払えない/払わない家庭 ・・・・・ 最も辛いのが、次の一言である。
  "お母さん、わたし、高校へは行けないの?"、いろんな事情での貧困のせいである。
 こんな家庭が日本中には未だあまたある。教育を受けられないことは、悲しいことだ。
 将来、私が起業し、もし大成したとしたら、財産を何に捧げるだろうか。

   親が子供にするべきことの第一は、言うまでもなく教育の機会を与えることである。
 幸いながら、我が家では一人娘を京都での女子大生とし、親の務めを果たしている。
 定年後に私が企図している「起業」は、だからこそ、教育に関するものも包含している。
 例え、生まれながらに不幸であっても、それを克服する道は、やはり教育なのである。

   大阪・中之島公会堂の建設資金100万円(当時)を寄贈したのは、岩本栄之助である。
 彼は米国視察で触発され、株相場で得た大金を社会貢献に使おうと思った。奨学資金
 の創設か、商業学校の設立か、公会堂の建設かと悩み、当時の斯界の重鎮であった
 渋沢栄一氏の助言を受けて、公会堂建設を決断した。しかし、その後の株式相場の大
 暴落により、落慶の日を迎えることなく自ら命を絶ってしまった。人生の終末もまた、不
 平等なのである。

   もし私が晩年にそれなりの財産を為し得たとしたら、・・・・・・・・・・ 
 ①奨学資金を設立するとしたら、それは無償だから、調査表に基づく徹底した面接をし
   たい。しかし、人の人生は見通せない、無形の人材育成は所詮は賭けである。
 ②公共の建物を建設するとしたら、それはこの世に残る。しかし、建物は有形だから、
   天変地異によって灰塵に帰さないとも限らない。形あるものの定めである。
 ③学校を設立するとしたら、人材育成と形あるものを共に実現できる。しかし、それを
   しっかりと運営する後継者が要る。そのような人材に出会えるかは運である。

  人生は不平等である、されど、それがその人の個性である。確かな個性である。

 
 大阪・梅田のお初天神にて、韓国語のCDを聴きながら

 【2009年4月】

           【 いつもの店のいつもの酒と歌 】

   12連休の前夜の金曜の夜、親しい人といつもの店で酒を飲む、至福の時である。
 良い酒よい歌、傍らに親しい人、気心が知れたママ、馴染みの常連さん、いつもの歌。
 この大阪・梅田のお初天神の「ふじ」は、いつもの店である。
   焼酎と沖縄の歌。「刃傷松の廊下」から「サンタルチア」まで、私のレパ-トリ-は広い
 常連さんとの語らい、一見さんとのお互いの自己紹介、ママとの気の置けないお喋り。
 こうして週末の夜は、過ぎてゆく。・・・ "酒・歌・友、我にあり。" ・・ 感謝・感謝。

 
 行きつけの「ふじ」の店にて

 【2009年3月】
            【 年間5資格の挑戦

   定年後に会社設立を企図している私は資格マニュアであり、現在の取得資格は20個で
 ある。それを4年間で倍増する計画を既に実施している。再就職の為の資格取得ではな
 く、目的は逆であり、雇用の為の資格取得である。即ち、自分がどこかに雇用されるた
 めではなく、自分が誰かを雇用するための精進なのである。

   設立計画予定の会社の定款構想は検討中だが、資格に絡む人材を雇用する以上、
 社長として当該資格について熟知する必要があることは言うまでもない。
   しかも、目指すところは日本に留まらず海外(特にアジア)を志向している。BRICs&
  VISTA諸国の発展は必至である。韓国語の読解能力はすでにクリア-している。
   投資を最少限にとどめ、高い収益性を確保し、その資金を活動資金として世界を旅
  して、普遍的価値(芸術・知的所産)を希求する。すべてがその使命の為である。
   古来より、暖衣飽食にて大成した人はいない。
   努力なくして大願成就は無し。
 そして、受験勉強の最初は苦しいが、山を越えけば楽しいものである。
 年間5資格の獲得を目指す。

   2009年最初の合格: QC検定(3級)合格( Webによる合格発表, 2009.04.27 )

 
 資格試験の受験前のおさらい(関西大学にて)

 【2009年2月】
            【 広島・原爆ド-ムにて 】

   広島を訪れる度に、磁石に引かれるようにこの原爆爆心地に来てしまう。それはなぜ
 だろうか。この世にて起ってはならないことが起ってしまった現実の確かな証拠が、厳然
 とそこにあるからである。なぜこんなものが、この穏やかな山陽の都市の川沿いに無残
 な
遺骸を風雨に曝しているのか。六十余年前の上空の"ピカドン"は、神国日本に対する
 科学立国米国の超絶的な鉄鎚であったのか。川の流れのみぞ知る過去の現実である。

   我が故郷長崎の町もその3日後に同様の原子雲に包まれた。両親は当時、上海に居
 てこの悪夢を逃れたが、親戚の叔父は"キノコ雲"を見たと言う。その叔父も既に他界し

 た。歴史の証人達は独りづつ後遺症をその身に残しつつ、鬼籍への門をくぐってゆく。

  「リトル・ボ-イ」と「ビッグ・ファット」そして「エノラ・ゲイ」。歴史を知らねばその響きは単なる異国
 の言葉である。しかし、語り部には一生決して忘れられない「悪魔の呼び名」であろう。

 「怒りの広島」「祈りの長崎」と巷間よく言われるが、人類史上の極負のこの世界遺産を
 訪れる外国人は余りにも多い。ナチスのアウシュビッツにも似て、一瞬の悲劇の現場である。
 私は掌を合わせ黙祷した後、涙雨の中、ゆっくりとこの原爆ド-ムを一周したのだった。
   感慨が言葉にならない。ことばなんかに、言えるはずもない・・・・・ 。

 
 広島原爆ド-ム

 【2009年1月】
            大和国の三輪山への新春登拝 】

   大和の三輪山はすばらしい。低い二等辺三角形の端正な山容は、それだけでよい。
 遥かなる古代、渡来人が初めてこの山を発見した時、聖地として崇めたことに肯ける。
 大和三山よりはるかに古く、大神神社のご神体(神体山)として鎮座するこの聖山は、そ
 の存在だけで、私は心が落ち着き嬉しいのである。懐かしさと同時に怖れでもある。

   そんなこの山を、いつの日か登拝できたらと学生時代より長い間思いつつ、禁断の山
 として諦めていた。古来より、"万古不斧"で有名な聖山であったからである。

   しかし、昨年ふとしたことから、最近では登拝できることを知り、心は躍り昂ぶった。
 新春の1月4日、終に念願の登拝は実現された。・・多くを語り残すことは、控えよう・・・。
 ゆったりと1時間で頂上に立ち、奥津磐座(オクツイワクラ)まで往還し2時間で下山したのだ。
 今年の初登山であり、古代人の心に優しく抱かれた至福の時であった。

 
 三輪山(神体山)の登拝

 【2009年正月】

           【 新年のご挨拶(大阪・住吉大社) 】

   皆様、あけましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しく、お願い申し上げます。
   米国に起因する金融危機と世界同時不況の厳しい時代ですが、金融資本主義が
 っとその愚かさを露呈し、猛省すべき時を迎えたものと思っています。
マネ-・ゲ-ムによる
 不労所得の追及は、技術立国・日本としては、目指すべき道ではありません。愚直であ
 ろうとも、「社会正義に基づく実体経済の繁栄と社会福祉のバランス」こそが大切です。

   今年も、できるだけ旅をし多くを見聞して学び、また益々読書と体験に精進して、皆様
 により良質な情報・知見・見識をお伝えして行きたいと考えております。記録によれば、
 世界中より毎日平均10名の方々に、このMy H.P.へご訪問いただいています。作成者と
 して、自称レオナルド・ウッシ-として、大変嬉しく、心から感謝申し上げます。

   本年も旧年以上に宜しく。人生を真面目に、楽しく、前向きに、は不滅のモット-です。
 大阪・住吉大社での元旦の初詣の御神籤は「中吉」でした。今年も全速で疾走します。

 【2008年12月】
             琵琶湖一周¥140ぽっきりJRの旅】

   琵琶湖一周が合法的に\140で済むという新聞記事を読んで、翌日、早速にTryした。
 JR大津駅まで行き、東隣の膳所駅まで\140切符を買った後、西隣の山科駅に向かう。
 そこで、湖西線に乗り換え、琵琶湖北端の近江塩津駅まで行き、北陸本線と琵琶湖線
 を南下して膳所駅で降りる。途中下車や逆行の乗車は無効の、約3時間の旅であった。

   琵琶湖のいろんな顔の風景が見れて結構楽しかった。何よりも\140とは格安である。
 琵琶湖と淡路島は大きさも形も似ている美しき天然の配材か。畿内に大いなる水甕を
 を造りその土でオノコロ淡路島を造化したのであるのか。豊かなり畿内、古代よりの関西。

 

 【2008年11月】

            琵琶湖・沖島(おきしま)の散策 】

   近江八幡市の散策の後、憧れの琵琶湖の沖島に渡った。何も無い島だから行きたく
 て初めて訪れたのである。淡水湖の中の島に人が居住しているのは、世界的にも珍し
 いことであるとか。沖島はその稀有な例であるという。現在、人口は約600人程度とか。

 対岸より船で10数分、通学もありその便数は少なくない。一周の道路はなく、山がちで
 南側に僅かな平地がある。島民は鮒鮨や佃煮などの魚業と加工を、生業としている。

   西側から見る琵琶湖西岸の比良山の山並は美しい。湖上生活は特別である。何がそ
 の特別かというと、島民全員がほとんど親戚で、名前も顔も完全に周知であることだ。
 誰ひとりとして知らない者はなく、よそ者はすぐに判るとのことである。そんな意味では、
 漁村社会学の格好の研究テ-マとなるであろうと思う。


 

 【2008年10月】
            【アルゼンチンのセミナ-に参加してやがて訪れるアルゼンチン

   大阪市内のアルゼンチン・セミナ-に参加し、Partyでタンゴの踊りとアルゼンチンワインを楽しむ。
 地球の真下、南米大陸の草原の国に思いをはせながら、数々の種類のワインを味わう。
 思うことは、定年後訪れる予定のマガジャ-ネス(マゼラン)海峡のプンタアレナスの町と、白銀の
 パタゴニアの氷河。少年時代に憧れて読んだ冒険物語を、大人になって現地に行くことで
 その夢を実現する。この生まれた星(地球)を一周したいとは、誰しもが描く夢であろう。
 しかし、多くの人が夢を実現できないまま、空しくなっていくのが、世の多くの常である。

  マゼラン海峡の南側は最果てのフェゴ島であり、ドレ-ク海峡を経て、もう南極大陸である。
 マゼランは、インディオたちの焚き火を見て、フェゴ島を「火の国」と呼んだという。しかし、煙
 を見ただけとも言われている。更に、煙の島と呼んだのを、チャ-ルズ五世が地図にこの
 名前を見つけ、火のない所に煙は立たぬと言って、名前を変えてしまったのだという。
 世界一周の船旅の途中に訪れるマゼラン海峡は、私がやがて訪れるアルゼンチンである。

 

 【2008年9月】

           【 京橋慕情 大阪・京橋の立ち飲み街にて

   大阪・京橋は大阪城の丑寅にあり、京街道の入口にあって、庶民的な歓楽街である。
 職場のインテリジェント・ビルがあるOBPの傍らであり、会社帰りに一杯の酔客も少なくない。
 私もややさかな常連客であり、行きつけの飲み屋には馴染みの仲間も多い。黄昏の時、
 立ち飲み処での下賤な話から高尚な話までの幅広い会話は、それなりに楽しいものだ。

 いろんな人生の生き様が見れて、参考になることも実は、少しはやはりあるのである。

   酔うために飲むのではなく、考えをまとめるために飲む。そして、新しい考えや発想を
 得たら、そっと社用の手帳に書き込む。仲間から"黙んまりしないで飲めよ。"と言われ、
 "ヨッシャ"と即座に応え、手帳をしまい込む。新しい発想を得て、私は、和して同ぜずだ。
 単なる酒好きの大阪のおっさんではなく、考えるために飲む、その誇りが私にはある。

   京橋の慕情は、大阪庶民の哀歓を酒と会話に映して、賑やかに流れていく。

 

 【2008年7-8月】
             【 琉球へのフェリ-&バイクの歴史散策一人旅 】
               国内最後の旅 ~琉球国への歴史散策~

   大学1年の夏より一人旅を始め早数十年、祖国日本の旅も今年で終にほぼ完遂とな
 った。ゴ-ルデンウイ-ク前半の北海道三大岬巡り、後半の八丈島、そして、今夏の沖縄へ
 の旅である。鹿児島より、吐喝喇(トカラ)列島・奄美大島を経て沖縄を完全踏破した今回
 の17日間に及ぶフェリ-&バイクの一人旅は、まさに最後の国内旅行にふさわしい充実し
 た歴史散策の旅でもあった。

  [1]十島村村営「フェリ-としま」での吐喝喇(トカラ)列島への寄港

     悲願の吐喝喇列島への寄港であった。"トカラ"という響きに未開のロマンを感じる。
   深夜に鹿児島を出航し払暁前に遠望する最初の口之島は、北緯30°東経130°
   に位置し、黒毛和牛の原種が草を食む火山島である。

     次に寄港した中之島は、面積・人口共に列島最大で、最高峰の御岳(トカラ富士、
   979m)の山麓には、天然記念物のトカラ馬が放牧されている。
    トカラに平家の落人が最初に漂着したという平島(タイラジマ)では、中世の頃から続く
   元服の儀式が今も当時の形式をほとんど変えずに行われているという。

    諏訪之瀬島の御岳は1813年に大噴火し、全島民が避難したため約70年間は
   無人島であったが、明治期に入り奄美大島出身の藤井富伝らが入植し開拓した。
     悪石島(アクセキジマ)は、仮面神ボゼ祭り(旧暦7月16日)で有名であり周囲を断崖
   絶壁に囲まれた神々の島である。2009年7月の皆既日食は最適観測地となる。
     子宝島は周囲4kmの隆起サンゴ礁の島。海上から見ると妊婦さんのように見え、約
   30分で島を徒歩で一周できるという。こんな小島にも人は住んでいる。

    最後に寄港した宝島には、イギリスの海賊キャプテンキッドが財宝を隠したという伝説が
   あり、その鍾乳洞もあるという。1824年、数人のイギリス人が上陸し食用の牛を求めた
   が断られ、逆恨みをして銃を乱射し牛3頭を強奪した。その後、藩庁から島に来てい
   た役人らが応戦し、イギリス人の1人を射殺した。そこはイギリス坂と呼ばれ、このことが
   きっかけで、翌年、「外国船打払令」が出されたという。

  [2]奄美大島でのバイク散策

    名瀬の港に上陸し、あまみYHに3泊して全島を走り回り、加計呂麻島にも渡った。
   龍郷町の西郷配流の地を訪れ感慨に耽り、名瀬でのハブ・マング-ス対決ショ-、大浜海
   浜公園での夕陽、マングロ-ブの森、瀬戸内町、そしてカンツメ伝説の地。初めての奄美
   には多くの発見があった。沖の立神への朝の西風(北風)は奄美らしさである。

  [3]徳之島・沖永良部島・与論島への寄港

    船上のデッキからの遠望と近望だけだった。下船して島を楽しめなかったが、またい
   つの日かチャンスがあるかもしれない。徳州会の原点、マリンスポ-ツの聖地、ハネム-ンの
   メッカなどの島々である。島に足を下ろし、散策をしないと、島の文化は語れない。

  [4]沖縄本島の完全歴史散策踏破

     見知らぬ島に下船した・・・・

    中国のようで中国でなく、アジアの他の国でもなく、・・・・ 日本語が飛び交う
    この南の島

       どこにたどり着いたのか

     トロピカル・フル-ツ  曲面の石垣の城  突然のスコ-ル めずらしい食べ物と音楽

     石畳の坂道をゆっくりと登り着くと、何やら不思議なものが見える

       どこかで見たような門、・・・ それは守礼の邦の証

        そうか ! 、 ここは、 琉球国だったのか ・・・・・・ 。

  [5]座間味島を楽しむ

    太平洋戦争末期、米国海軍が雲霞のように迫ってきたとは思えない平和の島だ。
   港で釣りをし、古座間味ビ-チで泳ぎ、酒場で泡盛を飲むゆったりとした時間の流れ。
   たまにはこんな時間もいいかもしれない。

    無人島に流れ着いたらどんなだろうかと思い、浮き輪に身をまかせて渚にくり返し
  打ち寄せられていた。すると、監視員のお兄さんが飛んで来て、溺死者のように見え
  るから止めて下さいと注意された。

    少年のような遊び心がオッサンに溢れていた夏の一日だった。


 
 フェリ-としま(吐喝喇列島を繫ぐ十島村村営の定期船)の船中にて

 
 悪石島(仮面神ボゼの奇祭で有名)。2009年7月には日本で最も長い皆既日食が見られる

 
 西郷吉之助(隆盛)が現地妻:愛加那と暮らした質素な家である(奄美大島・龍郷町)

 
 背景の左側は、沖縄本島の北端:辺戸岬にある琉球石灰岩よりなる金剛石林山の奇峰群

 
 沖縄の新民謡「芭蕉布」の歌詞に出てくる首里の古城の石畳。しみじみと歩いて往復した

 
 琉球国のシンボルである首里城の守礼門。意外と小さいが、異国情緒たっぷりである

 
 首里城の本殿の中。「中山世土」の額は、中国・清朝の康煕帝から送られたものである

 
 琉球の宮廷舞踊。独特の音楽と立ち振る舞いであり、赤色は魔除けの色でもある。

 
 琉球国随一の斎場御嶽(セ-ファウタキ)。東方海上に久高島が望めるニライ・カナイ信仰の地

 
 沖縄のパワフルなエイサ-に酔い、みんなで踊るカチャ-シ-にも加わって楽しんだ

 
 那覇市・公設市場のメンソ-レ(ようこそ)の豚さんであり、長寿県沖縄の滋養の源である

 
 那覇市・国際通りの民謡酒場にて。涙そうそう、てぃんさぐの花などがよく歌われていた。

 【2008年6月】
           【 関西大阪長崎県人会(大阪・中津、ラマダホテル) 】 2008年6月15日()


   ふるさと(私は長崎市出身)の長崎県人会は、毎年6月に大阪・中津のラマダホテル(旧、
 東洋ホテル)で盛大に開催される。年に一度、故郷を思い懐かしむ恒例の行事である。

   第一部の総会はシャンシャン総会だが、続く政治家や来賓の挨拶が長く、始まって2時間
 近くになって、小休止の後、やっと第二部の宴会となる。プロの芸人の歌・踊り、出席者
 のカラオケ、最後に郷土の産物が当る大抽選会で盛り上がって、3時間後にお開きとなる。
   大阪にある41の県人会の内、沖縄は別格として、長崎県人会は活発な活動をしてい
 ると前会長は述べていた。長崎県人会は実に半世紀を越える歴史を有している。前会
 長は16年の在任後勇退し、今年より新会長に引き継がれた。新しい発展を祈念したい。

   長崎は故郷としては好きではあるが、人生を賭ける都市としては不十分であるという
 のが私の積年の思いである。日本最西端の県では、才能を発揮する機会は乏しい。
  "ふるさとは遠きにありて思うもの ・・・" との詩人の感慨がある。母・兄姉は今も健在
 で長崎市内に在住しているが、末っ子の私だけは十分に関西人(大阪人)になっている。

  年に一度の県人会は、ふるさと言葉を耳にして、" なつかしかバッテン "、定年後は、
 やはり帰る処にあるまじ哉である。

 

 【2008年5月】
          【 八丈島の伝説 】

   遥か昔、中国の秦の国より徐福の配下がこの島に漂着した。この暮らしやすい島に
 女たちを残し、男たちは南の青ケ島に渡った。そして、南風が吹く年に一度のその日、
 男たちはこの女だけの島(女護ケ島:八丈島)に上陸し、一夜の契りを結んだと言う伝説
 がある。この風習は、源為朝の来島に至るまで、約千年間も続いたという。

    南風だよ 皆出ておじゃれ  迎え草履の 紅花緒   [八丈島民謡:ショメ節]

   女たちは自分だけが判る紅の鼻緒を作って草履に結ぶ。子船の接近を見つけると、
 浜辺に皆んなで並べておく。そして、眼元涼しく筋骨逞しい男が丹精込めた紅鼻緒に足
 を入れる瞬間を固唾を飲んで見守る。紅鼻緒の男が一夜夫。一夜だけの契りの翌日、
 男たちは青ケ島に向けて南の方へと帰って行く定めである。生まれた子が男なら、男
 だけの島(男ケ島:青ケ島)へと連れて帰る。女の子なら、この女護ケ島に残される。

   厳しい断崖の孤島の青ケ島と、その島よりは少しは暮らしやすい平地がある八丈島。
 人口を減らさぬよう増さぬようにした平等的雑婚のこの風習は、やはり少し哀しい。


 
 八丈富士(西山、標高854.3m)を望む

 
 八丈島の流人第1号となった宇喜多秀家(戦国大名、関ケ原の敗軍の将)の墓

 
 樫立(カシタテ)地区より三原山を望む

 
 底土港に着岸する客船のカメリン号(1日1便、東京・竹芝桟橋から11時間、海上約290km)

 【2008年4月】

          【 北海道の三大岬めぐり 】

   私の日本の旅で北海道オホ-ツク海沿いは未踏の地であった。ゴ-ルデンウィ-クの前半に
 友人と一緒に参加したJTB旅物語「北海道三大岬巡り」(3泊4日、\39,800)は有意義な
 旅となった。

   第1日目は、伊丹から羽田を経て千歳空港へ。そしてバスで北上して、稚内に宿泊。
   第2日目は、宗谷岬を後にしてオホ-ツク海沿いを南下し、弟子屈・川湯温泉に宿泊。
   第3日目は、摩周湖を見物後、納沙布岬で北方領土を望み、十勝幕別温泉に宿泊。
   第4日目は、襟裳岬を見物後、日高を経て千歳空港から、JALで夜の神戸空港へ。

   あの伊能忠敬が測量できなかったオホ-ツク海沿いを駆け足で走破し、日本本土の旅
 をすべて踏破して、残すは僅かの離島(奄美大島など)のみとなった。

   札幌のバス会社のベテランガイドさんの名調子を聴き多くの知識を得た。北海道6回目
 の旅は良い旅となった。また、今更ながら、摩周湖の美しさにも感動したことだった。
   多くの語ることがあり、言葉にならない。だから、このエッセ-にも語り尽くせない。
   思う事の一つは、遠く明治の頃、あの石川啄木が釧路を詠んだ短歌である。

      さいはての 駅に降り立ち 雪明かり  さびしき街に 歩み入りにき

   その日の啄木の後姿がありありと思い出される。あたかもそれを私が目撃していた
 かのように・・・・、ほんとうに鮮やかに脳裏に映し出すことができる。なぜなのか・・ 。
   当時の開拓時代の北海道の状況、薄倖な歌人の境遇( 27歳で夭折 )を夜の釧路の
 雪の駅に投影して、なぜこんなにも想像できるのかと、自分でも不思議である。 
   三大岬を巡り終えた充実感と、日本本土の旅を終えた満足感が、私を包んでいる。

 
 遂に、日本最北端の宗谷岬に到達。天候不順でサハリン(樺太)は望めなかった。
 遥か貝殻島、水晶島、歯舞諸島などの北方領土を望む


 日高山脈の尾根が海中に没してゆく風景は、襟裳岬の圧巻である。

 
 北海の珍味であるホヤは安くて美味しく、酒飲みにはたまらない

 
 JTB旅物語の格安パックツァ-である。3泊4日、\39,800

 
 白鳥や鴨に食パンを与えるクッチャロ湖はふれあいの場である

 【2008年3月】
           【 ベトナム投資セミナ-に参加して 】
                         
   大阪・西心斎橋のホテル日航大阪で開催されたベトナム投資・貿易セミナ-に初参加した。
 今、ビジネスにおいてベトナムが注目されている。ベトナムは、BRICsに次ぐVISTAの筆頭で
 あり、中国のリスク・ヘッジとしても、特に日本の企業からは期待され、進出が活発になり
 つつある。ベトナムについては未だ訪問の機会はないが、いろんな思いが浮かんでくる。

   歴史を振り返れば、中国の越の南に位置するので、越南(エツナン) ⇒ベトナムと呼ばれ
 るようになったと言う。帝国主義の時代にはフランスに支配され、戦後も米国に蹂躙され
 たが今は平和なこの国は、昇龍の姿にも似て、インドシナ半島の東海岸を占めている。
   首都ハノイの東方には"海の桂林"として有名なハロン湾があり、中部の街フエは阮王朝
 の古都であり、南部のホ-チミン(旧サイゴン)は南ベトナムのかっての首都であって、ミュ-ジカル
 「ミス・サイゴン」の舞台としても有名である。

   高くてコロコロ回るような発音のベトナム語、セクシ-で清楚な女性の衣装のアオザイ、米か
 ら作る麺類や春巻などは、ベトナム文化を感じさせ、穏やかな農村風景を想起させる。
   私たちは日本人は、ベトナムを訪れば、中国文化と欧州(フランス)文化の両方の影響を
 感得できるに違いない。ただ、残念なのは、ベトナム人は意外と英語が話せない人が多
 いと聞くのでコミュニケ-ションには不便かもしれない。だが、思い出す事は、1年程前に大阪
 で知り合った若いベトナムの女性であって、彼女とは英語で共にベトナムを語り合った。
   "貴女が生まれる前、私が子供の頃、あなたの国は大国アメリカと戦争していて、遂に
 アメリカに勝利したよね、…."。そんな感慨を私が熱く語るにつれ、じっと私を見つめる彼
 女の瞳も熱く潤んでいくその様子に、私は感動を覚えたことだった。

 

 【2008年2月
】  
            【 東京・神楽坂で、偶然に、牛込城跡を見つけて 】

   東京の都電・荒川線の終着:早稲田から牛込橋(JR飯田橋)を目指して歩いていると、
 ふと横道に入った時、思いもかけず牛込城跡の標識に遭遇した。なんという偶然だろう
 か、いや人生の必然的めぐり逢わせであろうか・・・・。

   この付近が古くから牛込とい地名であることは有名であるが、かってお城があったと
 は驚きであった。上州(群馬県)の領主であった大胡氏が後北条氏の家臣となって、この
 地を拝領して築城し、名も牛込氏に改名したという。当時は、現在のような壮大な江戸
 城の縄張りもなく、この高台からは遥か千代田の平原に質素な太田道灌の城が見えた
 だけのことだっただろう。

   生来、お城が大好きで、物心ついた頃には、いつも城の絵を描き国盗り物語に夢想し
 ていた私としては、自分の苗字の城跡があることに、それを見出したことに、とても感動
 したのだった。今はお寺となり、石垣しか往時を偲ぶよすがもないが、その石垣に頬ず
 りしたい
ほどに愛おしく思うのである。

   ただ残念なことは、私の遠い先祖は牛込氏ではなく、明治以降、皆吉⇒久保⇒牛込と
 変遷したそうである。従って、この牛込城は先祖とは無関係というのが偽らざる事実で
 る。しかし、それはそれとして、現在、生きている私はやはり牛込を名乗っている訳であ
 り、お城好きなのは紛れもない事実である。

   旅をしてどんな城跡に登る時でも、心はいつも嬉しさ懐かしさでいっぱいなのである。

 
 牛込城跡にて

 【2008年1月】
            【 韓国語・中国語・英語・大阪弁を、楽しみながら飲む店 】

   友人から初めて連れて行ってもらった日本橋の店。その店では4つの言語が楽しめ
 める。韓国・釜山出身のママと、中国・広州市出身の美人看板娘、英語を話す常連さん、
 そして勿論大阪弁を喋る日本人だ。異文化交流が大好きで、語学に関心が強い私には
 魅力ある店である。店の名前が「居酒屋 タコちゅ-」ときわめて日本的なのも面白い。

   知っていて使わないと忘れるのが外国語。錆びた包丁を研ぐように、時々このような
 多言語を駆使して楽しめる環境でお酒を飲むことは、必要で有意義なことと思っている。
   日本語で言えない口説き文句。それが外国語でなら、すんなりと言えるから面白い。
 英語ではやや恥ずかしくても、韓国語や中国語ではズバリ言えてしまうから不思議だ。

     貴女は韓国的美人ですね  ⇒ 당신은 한국적 미인이네요
                        (タンシヌン ハングンチョク ミイニエヨ)

     君は見れば見るほど綺麗だね。 ⇒ 你真是越看越漂亮
                          (ニイ- チェンシ- イエカン イエピャオリャン)

     勿論、僕が奢るよ。 ⇒ of course, it's on me. ( of course, it's my treat. )

  酒場外国語は、おやじギャグよりも、相手の女性にはうけるかも。ともかくも宴の夜の
 浪花の酒は楽しい酒である。

  「タコちゅ-」:堺筋で高島屋を背にして右手に黒門市場の看板を見る時の左手側。
    (〒542-0073 大阪市中央区日本橋2-5-21 TEL06-6631-1517)

 

 【2008年の新春のご挨拶】
                   新春のご挨拶

   2008年、新年明けましておめでとうございます。このホ-ムペ-ジも皆様のお陰をもちま
  まして、昨年1年間で 3554人様のご訪問を頂いています。今年も、より一層の豊かで
  洗練された内容をお送りしたいと思いますので、皆様ご愛顧の程、どうぞ宜しくご期待下
  さい。本年も更に気合を入れて、目標必達に向い、人生を真面目に楽しく前向きに。
   特に、今年は12年に一度の「達成の年」(六星占術)です。

 

  大阪・住吉大社での御神籤は第1番「大吉」で、今年1年の絶好調が期待される。

 【2007年12月】
            【 京大・吉田寮の感慨 】

   今春から娘が父と同じように京都での学生となった。11月は家族で京大・11月祭を見
 物したが、その時にも寄った吉田寮を師走に再び独りで訪れてみた。私は遥か数十年
 前
にこの寮に2泊したことがあったからで、その時の数々の思い出は今も鮮明である。

   吉田寮は現在も使われていて、京大生やアジアからの留学生が生活している。かなり
 老朽化しているが、女性も、かっては学生結婚の夫婦も住んでいたという。現在ある建
 物は歴史的遺産のように見える。幾多の青春があったことだろうか。特に、昭和
40年代
 半ばの大学紛争の頃は、過激な京大はどれほど青春の哀歓をこの寮に浸み込ませた
 ことだろうか。滝川事件の昔より、マル経の牙城として、学園紛争の西の拠点として、反
 骨で自由の学風は、旧制三高(森外三郎校長は私の先輩の祖父)以来の校風である。

  地方の秀才が憧れの理学部(湯川博士で喧伝)に合格し、初めて吉田寮に入寮する時、
 付き添って上洛して来た母が、この吉田寮の余りの粗末さに泣いたという伝説があると
 聞く。"されど、母殿、嘆き給うな、学問は志あらば蛍雪の庵、蜜柑箱上にても可なり。"
 古来より、暖衣飽食にて大成した例なし。この一見廃屋のような吉田寮にこそ、現在に
 おいても、旧制高校の良き美風「友が憂いに我は泣き、我が喜びに友は舞う。」が残照
 と
して輝いているのかもしれない。

   遥か昔、理学部の大学院を受験した時、縁あって泊めていただいた部屋の人の言は
 「物理と数学は無茶苦茶難しいが、化学なら大丈夫だろうと」と。実際、化学だったので
 そうだった。 専門科目の受験科目は、たった選択三科目だった(無機化学・有機化学・
 物理化学)。当時としては、他の大学院より受験勉強の的を絞りやすかったと言えよう。

   結果として、私は化学研究所(宇治キャンパス)で、修士課程2年間を過すこととなり、
 田寮に住むことはなかった。吉田寮は、近くにあるもう一つの鉄筋コンクリ-ト製の熊野寮
 と比較して、その住環境
には余りにも違いがある。しかし、何が幸いかは「人間万事塞
 翁が馬」である。人生において、
長い月日の果てに、やっと、往時の経験の真の意味を
 心から悟ることもあるのである。たとえ、当時はそのことが不如意や恨みに思えても。

 

 【2007年11月】
            【 定年後は芸術家をめざして 】

   会議の開催中、司会役を務めながら、忙中閑あり。しばしの休息の時間に撮影した。
 長い準備期間を経て、成功裏に終了できそうな様子で、" ほっとしている心境"である。
 晩秋の北摂の地で、晴天下の紅葉と落葉の小径を散策すると、あと30年はこの世に存
 したいと思うのである。私は化学技術者から現職を得て、晩年は芸術家の道へと進む
 つもりである。旅行作家・森本哲郎、作詞家・阿久悠や阿木燿子、そして、宗教哲学者・
 山折哲雄などの著名な各氏のように。いずれもあらまほしき、かくありたい先達である。

   今年から髪を伸ばし始め、周囲からは"学者のようだ、芸術家のようだ"と言われ、心
 ひそかに我が意を得たりと嬉しがる、未だ少年のような気持ちが残っている私だが、目
 指
すべき道は定まっている。「我は行く、心の命ずるままに・・・」。昴を去って、オリオン
 ン座の三ツ星の彼方へ。この地球での所産を、未来の地球の人々の為に残して・・・ 。
  夜の懇親会での"出現マジック"の一発芸が、とても好評で、一芸人として嬉しかった。

   定年後、まずは「ピ-ス・ボ-ト」による世界一周の船旅をして、会社を起業する。どんな
 ビジネスを行うか、こんな時代だからこそ知恵の出しがいがある。得た利益を使って、世
 界各国を巡る。世界遺産を訪ね、文明論に関する著作を行いたい。この生まれた母な
 る星: 地球における自然と人類の文明の興亡について深く思索し、著述し、出版したい
 と心から願っている。それが私が思う 私のMission(使命) のひとつである。

 
 会議にて、忙中閑あり

 【2007年10月】
              室生寺の秋 】

   20年ぶりぐらいの室生寺。私はバイクでの歴史散策が本当に好きである。手軽に行け
 る休日ツ-リングは、私の楽しみの一つである。旅をし歴史の中に自らを置くとき、悠久の
 時の流れと自身が繋がっているという本能的喜びを感じる。"人間はみな歴史の産物 "
 というこの当たり前の事実を想起するのである。父母がいて、その双方の父母がいて、
 人間は偶然に生まれたのではない。魂の進化の為に、必然的に主体的に生まれたの
 であるという信念( 心の修行の為に、宿題を持ってこの世に生まれた。)は不変である


   かって、台風で倒壊したこの室生寺の五重塔も、すでに再建されていて、往時が偲ば
 れる。この三奈県境の室生寺は、室生火口群の中にあって、古よりの隠れ里である。
 草餅を食み甘柿を食して一句を作り、勢和国境の秋を心行くまで楽しんだのである。

        秋風に 室生初柿 食すれば  女人高野の 瀬音やさしき

   居住する大阪・寝屋川市からひたすら東走し室生寺まで至ると、僅かに東海(伊勢湾)
 の潮風を心に感じる。大阪湾の海風とは明らかに異なる。黒潮が洗う伊良湖岬を吹く、
 東海の風(中京の風)だ。ここ室生寺では、関西の風と中京の風が共にめぐり会う。文化
 の風も混ざり合う。そして、ここは日本の東西の食文化の交差点でもあるのだ。

 

 【2007年9月(実際は8月)】
                  【新しい趣味の海釣り(
愛媛県・松山市付近の漁港)】
                       心の名曲への感傷と海釣り

   海釣りは楽しい。四国は豊かな海の幸が満載だ。入れ食い状態でグレ(メジナ)釣りを
 堪能した。釣りという人間の狩猟本能の、潜在的な喜びを感じたものだ。
   幼少の頃、故郷長崎市の港で小鰺を釣っていた日々が懐かしい。私の心の原風景は
 "西海"である。長崎南高校のコ-ラス部で聴いた先輩たちが合唱する名曲「 渚歩めば 」
 は、いつも私の心の中に響いている ・・・・・ 。私の青春の心の名曲である。

 ♪ 渚歩めば 聴こゆるは遠き潮鳴り  せつなくも胸を打つ 遠く過ぎし日よ
   めくるめく光の波に 声合わせ響きあって 二匹の魚のほとばしる あの日の宴よ
   渚歩めば 懐かしき母の 思い出~ おもいで~ 浮かぶ ♪

 遥かなる青春への甘い感傷である。あの頃の日々に、しばし戻りたいと思う時がある。
 その私の心の名曲を口ずさみながら、旅の空の下で釣り糸を垂れ、現在から過去へ、
 過去から未来へと思いを廻らせば、なりたい自分の未来の姿が見えてくる。
   そうだ、できれば、作詞家になりたいと。歌詞で、世の中に伝えたいものがある。
 海釣りをしながら、その潮の香りに、前世からの潜在的な願望をかすかに思い出す。

 

 【2007年8月】
 
           【 四国バイク釣り紀行で高知城の見学

   四国バイク釣り紀行で高知城を見学した。山内一豊の築城になる南海の名城である。
 土佐一国(二十万石)の城郭の規模としてかなり立派である。現存する本丸の遺構として
 有数である高知城は、なるほど素晴らしいものがあった。生来、お城好きの私としては
 こたえられないものがある。一豊やその妻の千代は、どのように浦戸湾を眺め、桂浜の
 上に輝く名月をどう愛でたのであろうか。NHK大河「功名が辻」で好演した千代役の今を
 ときめく女優・仲間由紀恵が、一ファンとして思い出される。彼女は声も素敵である。

   8月9日の夕刻、「よさこい祭り」の前夜祭、缶ビ-ルを飲みながらその土佐情緒を味わ
 っている最中、どうにも耐えられない背中の痛みに、生涯で初めての救急車の人になっ
 た。高知赤十字病院でのCT検査が終了した時には、痛みも既に消え事なきを得ていた
 が、CT画像の最後の1枚に映っていたものは、膀胱の縁に至った3ミリの白く輝く尿路結
 石であった。点滴が終わって、けろっとしてホテルまで歩いて帰った時、その方角の目印
 となったのが、このライト・アップされた高知城の天守閣であった。

   生涯で初めての救急車への乗車体験。救急車には乗ったが、ついでの霊柩車にはこ
 ちの方から遠慮した、という「真夏の夜の夢」のような体験話は、これもまた高知城にま
 つわる思いで話である。


 
 南海の名城:高知城

 【2007年7月】
           【 JR福知山線脱線事故の現場にて 】

   初めて現場を訪れた。当時の事故が、スロ-モ-ションで想像される。ただ、鎮魂である。
 線路の曲率と傾斜を観察して見ると、確かに危険なカ-ブである。それがいつの日か
 "魔のカ-ブ"となることは、必然だったのかもしれない。(結果論ではあるが・・・・ )

 
 JR尼崎事故現場で鎮魂

 【2007年6月
           【 水力発電所の見学 】

  水力発電所の見学を行った。ロックフィ-ルド式ダムの地下である。

 

 【2007年5月】
          【 大阪府政モニタ-経験者協議会(OFMCO)の総会 】
               (大阪府立ド-ンセンタ-)


   この団体と出会って、はや15年だ。ささやかな会だが、私はかっては会長職を務め、
 現在はのんびりと相談役として、時たま参加している。平均年齢は高いが、大阪府の
 発展の為に少しでも貢献しようとしている会である。
   微力ではあるが、その微力のたゆまない継続こそ、やはり大切である。


 

 【2007年4月】
         【みちのく一人バイク旅、 草津・白根山 】


    90ccのホンダのス-パ-カブでみちのく一人旅。大阪から北東北の八幡平までの往還だ。
 雪の草津・白根山、天の、雪の白、点々とした、僅かに見える土の茶色。これらの
 四色だけの世界に居ると、大阪の"こてこての喧噪"など別世界で、雲上の天国である。
 凛とした冷気に包まれた雲上の氷湖は、人の魂をも吸い込みそうな妖気がある。

   日光・白根山と対をなすこの草津・白根山は、中腹に有名な草津温泉がある。恋の病
 以外はすべて治すというが、上州の四万(シマ)温泉(四万もの病を治すという)とはどちら
 がより優れているのか。そんな比較は冗談だが、零度近い頂上にいると、100度近い
 源泉の草津温泉に浸りたくなる。だが、ご注意、民謡にもあるように、草津温泉は湯揉
 みをして湯温を下げないととても入れない。体温が42℃以上になると危険である。

  (参考; 蛋白質は42℃以上では不可逆の熱変性を生じる。人間は体温が42℃以上
    になると、まさに死に至る。体温計の目盛が42℃までしかないのもこの理由。)
  ともかくも、北国は未だ早春であり、温泉か南の島に行きたいものである。

 
 草津・白根山への登頂

 【2007年3月】
          【 東京での「レオナルド・ダビンチ」展の見学 】


   憧れの「レオナルド・ダビンチ展」を東京・上野で見学した。大天才の業績が圧倒していた。
 特に、世界的な名画「受胎告知」は、腰が抜けるほど超絶だった。これが500年前とは。
 天才と我々凡人とのあまりにもすごい隔たり。だだただ、感動に感動だった・・・・・ 。

   あらゆる科学技術・工学に精通し、医術にも優れ、絵画では天才の名をほしいままに
 した。もし、彼が電気の時代に遅れて誕生していたら、その動力を駆使して、更に素晴
 らしい大発明を陸続と行ったであろうことは疑いない。

   生涯独身で心情的には不遇であった彼の天才は、世俗の幸不幸の次元を超越して、
 人間としての超ス-パ-知性の足跡を、この地球上に残したのであった。名画1枚でも天
 才の人生を生きた価値が十分にあると思うのである。 だが、・・・・・・

   絵画という芸術への情念からか、若いころは男色疑惑で裁判にかけられ、中年になっ
 てからは、夜な夜な死体発掘の墓掘り奇行(人体の構造の理解のため)を行ったと知ら
 れている奇人である。常軌を逸した行動か、そもそも常軌という規範がないのか・・・ 、

 何とも天才は天才である。名画モナリザにおける「スフマ-ト技法」や、最期の晩餐における
 「空気遠近法」というの新技法の確立は、充分な光学研究に裏付けされたものである。

   やはり、惜しむらくは、ダビンチの時代には、未だ動力源の電気がなかったことである。
 もしそれがあったならば、彼の天才は自作の小型ヘリコプタ-で、故郷ビンチ村だけではな
 く、花の都フィレンチェまでもその遊覧飛行を
楽しんだことであろう。

 

 【2007年2月】
          【 東京での平将門の墓の見学、平将門伝説


   関東の覇者・平将門(たいらのまさかど)の墓が、東京は皇居前の大手町のオフィス・ビル
 街にある。数々の伝説に満ちたその歴史的人物は、今も、現代人を魅了して止まない。
 畿内から天空を天駆けて将門の首級がこの地に落ちたという伝承は、いったい何を意
 味しているのか。私にとっては、実に興味が尽きないテ-マである。

  荒らぶる坂東武者の雄としての東の将門は、西の藤原純友とは両雄をなす。火の玉と
 なって畿内よりこの吾妻(アヅマ)地に飛来した将門の首は活きていて、すざましい怪光を
 放っていたと言う。これは凄い伝説である。

  かって、戦前には強大な権限をもった内務省があったこの場所は、たびたびの移転や
 再開発の波に洗われた。そしてその度毎に、少なからずの凶兆、異変があったという。

 それを将門の霊力・怨念という人もいる。時空を遥かに越えて、これも負のロマンなのか。

   伝説とは荒唐無稽の話ではない。何らかの事実があればこそである。それが象徴的
 に誇張され、巷間、長い間伝承されてきたものが伝説である。有名なものとして、天神
 様(菅原道真)にまつわる彼の死後における京の都での数々の異変がある。これには、
 歴史的裏付けがある。他方、将門伝説では、裏付けは相対的には乏しいのかもしれな
 い。
しかし、時の権力より祀り上げられ神となった天神様よりも、未だ怨念のパワ- を秘
 めている
将門の方が、作家の卵の私としては、やはり興味をそそられるのである。

 

 【2007年1月】
           【 熊野古道と川湯温泉を楽しむ 】


   熊野での野趣溢れる露天風呂を楽しんだ。川そのものが天然の温泉であり、湯船は
 プ-ル並で、もちろん無料だ。自然そのもののまさに仙人風呂である。"熊野の自然"に
 抱かれて、ゆったりと自然の恵みを味わった。さぞや、冬の星空も素晴らしいだろう。

   この川湯温泉の前に旅館街があり、河鹿荘YHもある。そこに宿泊し、深夜午後11時
 まで入浴できるこの温泉は、まさに観光客のための温泉である。かっては、野猿ものん
 びりと入浴していただろう。人と野猿が共に入浴する光景は、癒しの熊野にふさわしい。

   現在の熊野本宮大社からやや近い往時の熊野本宮(現、大斎原)をしばし散策した後
 に、この天然風呂で沐浴すれば、心も体も清浄に清められるのである。川底からプクプク
 と湧き出す温かい湯玉に、心がほっこりと温まり、浮世の憂いがしばし流れ去る。

   石鹸の使用は禁止で裸体は不可。私はご覧のように海水パンツを持参していた。家族
 連れも多い混浴の天然風呂だ。下半身の温かみと上半身の川風の涼しさが心地良い。

       熊野路に 詣でる足を 癒しけむ  川湯の恵み 慈悲の心ぞ

 
 川湯温泉の沐浴

 【2006年12月】
           【 釈迦岳登山と誕生日のお祝い 】

    熊野古道の大峰奥駈道に位置する釈迦岳(1,799m)に会社の友人と登頂した。季節
 は初冬の師走であったが、穏やかで、なだらかな登山道を登ると、凛とした冬の寒さが
 心地良い。頂上は霧氷であった。保護の為、釈迦像は解体され無かったが、そのことは
 やはり残念なことではあった。大峰奥駈道を下り、山小屋でしばし休憩した。紀伊山地
 の背骨のようなこの大峰奥駈道を散策すると、遙か修験者への思いが偲ばれる。

   登山の2日後は誕生日。行き付けの大阪・梅田のお初天神の「ふじ」に行くと、ママが
 極上のワインで祝ってくれた。誕生日が嬉しい年ではないが、4人兄姉の末子の私だが、
 父の享年を越えたことがやはり嬉しい。兄姉と私の4人全員が父の年を皆越えて、元気
 で居て、母(88歳)も長崎市で元気でいることは、子供として心から嬉しい。

   健康で元気で、仕事も趣味もボランティアも大いに行い、大好きな登山もたっぷりと楽し
 めるこの我が身の幸せをつくづく喜んでいる。来年も、春夏秋冬の季節毎に登山をした
 い。いつまでも元気で、自然の山を大いに楽しみ、かつ人生も楽しみたいと思っている。
   「人生を、真面目に、楽しく、前向きに。」は、私の人生の方針である。


 
 釈迦岳登山

 
 満54歳誕生日祝い

 【2006年11月】
           【 関西大学・天六学舎で「情報検索基礎能力試験」の受験 】
                 (2006.11.26)


   数年前、某私立大学の嘱託指導員として学生の指導を行っていた関西大学・天六学
 舎を久しぶりに訪れた。私自身の「情報検索能力試験」の受験のためである。

   資格マニュアでもある私は、現在12個の資格を有しているが、今回の受験でほぼ13個
 目を手中にした。学ぶことは、苦しい面もあるが、基本的には楽しいことである。

   古人いわく、「 少にして学べば壮にして為すことあり、壮にして学べば老いて衰えず、
 老にして学べば死して朽ちず。」(佐藤一斎)。学んでその研鑽の所産をこの世に残すと
 いうことは、人間として当然のことではないかと思う。ただ、誰もができることではないの
 かもしれないが、世界の全知識体系は先人の膨大な知的財産の賜物であるのだから、
 私も及ばずながら貢献して行きたいと思っている。そして、社会に伝えることも大切で、
 そのような文化の創造・発信・伝承の為にも、このホ-ムペ-ジは在るのである。

   今後も具体的な数値目標をもって、資格取得に邁進したい。今まで未知の世界であ
 った新規分野等を学び、しっかりとその知識体系を自家薬籠中の物とすることは、人間
 としての大いなる喜びである。

   昨今、人間として間脳(官能)の快感のみを追求する人々が少なくない中、知的生
  としての"痺れるような前頭葉の知的感動"をもっと味わうべきだと思っている。
  
(備考; 2006/12/24「合格通知」を受領)

 
 「情報検索能力」試験を受験して

 【2006年10月】
           
【 浅間山の外輪山:ト-ミ-頭より中央火口丘を望む 】 (2006.10.21)

    人生が旅なら登山もまた小さな旅である。登山は私にいつも多くの事を教えてくれる。
 僅かでも大きな教訓を残してくれる。命に関わる危機に接する時には、過去の経験が
 きて来る。今回も無事に日本百名山を連続登頂した。又、山の教訓を学んだのである。

   会社のいつもの友人から、浅間山の火山警告のレベルが1ランク下がったので、行こう
 と誘われ三人で行くことにした。会社の友人とは信州の山は初の遠出となった。

  早朝、大阪・梅田を車で出発し、初日に上信国境の四阿山(あずまやさん、2354m)
  登頂し、落陽後の暗闇の中、ヘッドランプを照らしつつ菅平スキ-場まで帰着した。昔、日本
 武尊が東征からの帰り、鳥居峠の上で弟橘姫を偲んで、「吾妻はや!」と嘆いたと
いう伝
 承に基づいて名付けられたこの山の頂には、古い苔むした石祠があるのみであった。

  下山後、浅間山麓の車坂峠に移動し、ホテルの温泉に浸かり、寝袋で車中泊をした。
 翌朝、登山を開始して、三重カルデラの2重目の前掛山に立つと、噴火口丘は目前だが
 立入禁止である。外輪山の1つからは、遠くの槍ケ岳や穂高連峰も見え、中部山岳の雄
 大な眺望が堪能できた。そして、紅葉で錦秋の裾を染めた浅間山の中央火口丘には心
 から感動した。山の恵みをたっぷりと膨らました母の乳房のようなその豊饒なるふくらみ
 を、しっかりと旅の瞼に焼き付けた。こんなに美しい絶景は、本当に何年ぶりだろか。

 "暮れ行けば浅間も見えず、歌哀し佐久の草笛"、と藤村が詠ったように、夕暮れ
近い
 浅間山を背にして、喧騒溢れる大都会・大阪へ向って、風のように高速道路を走り去っ
 たのであった。

 
 浅間山

 

 

 
 日本百名山の連続登山(四阿山・浅間山)

 【2006年9月】
          【 近畿の屋根「大台ケ原」の散策
 ( 2006.09.09 )
   
 
  会社のいつもの友人と、私としては、20数年ぶりに大台ケ原を訪れた。初秋のこの時
 期、小雨の中、頂上付近の広い駐車場はそれでも数十台が駐車していた。整備された
 公園のような日出が岳の山頂への短い道。霧の中で眺望はきかず、期待してい
た眼下
 の尾鷲湾と熊野灘の遠望も空しかった。それでも、ゆったりとした時空間の中、
霧の中
 の散策として森林浴を楽しんだ。ミヤコザサ・苔・枯木の風景のある道を歩くと、自
然と動
 植物との共生について思うのである。

   年間4500mmもの日本一の降水量を誇るこの大台ケ原は風も強く雷も多い。従って
  頂上付近の枯れ木は一見、それらの自然の風雨や落雷が原因と思われる。だが真の
 原因は食害なのである。野生の鹿が樹皮の外皮を食べることにより樹木の導管がなく
 なり、地中からの水や養分の吸い上げが不能となって、樹木は枯死することになる。

  かって、NHK朝ドラ「ほんまもん」で山中木葉さんの主人:松岡(パ-クレンジャ-)さんが取
 り
組んだこの大台ケ原の環境問題(鹿と植生)は、難しい問題であるようだ。

   小処温泉の露天風呂にゆったりとつかりながら、雨の晴れ間に流れる雲を見上げて
 小さい秋を感じた。今年ももう秋の始まり。熊野の自然に触れてのんびりした気分にな
 った。来週も何かと忙しいぞ。山を楽しんだ次の週末は久しぶりの海釣としよう。

 
 大台ケ原・小処温泉から1km 上の「くらがり又谷の滝」

 【2006年8月】
          【 上高地の名山・「焼岳」(北峰、2,393m)の登山 】 ( 2006.08.05 )


  名鉄観光の登山ツァ-で、上高地の名峰・焼岳に登頂した。前夜、PM10時に大阪・梅田
 を出発し、6時間で長野県の平湯へ到着。安房トンネルを抜け、早朝5時に、登山口から頂
 上を目指す。快晴の中、総勢36名で登攀すると、やがて、森林限界を越え、噴煙上がる
 焼岳の北峰が遠望できる。日本アルプスの中で唯一の活火山である焼岳は、その名のと
 おり活きている。そしてやっとのことで登りつくと、噴火口には森閑とした小さな火口湖が
 あり、眼下は上高地から穂高・槍ケ岳・傘ケ岳の素晴らしい眺望だ。遙か白山の嶺々や
 我が国第2の高峰(北岳)を盟峰とする南アルプスの連なり。自然は素晴らしい。

   山は最
高である。 本邦第3位の奥穂高がかくも雄々しく見えるのは、焼岳なればこそ
 である。
日本百名山の第26峰として、今年の夏に登頂できたことは、まことに嬉しい。

 
 北アルプスの名山「焼岳」の登山

 【2006年7月】
          【 紀尾井坂事件の現場を訪れて 】  ( 2006.07.28 )

   東京出張の日の早朝、早めに新幹線に乗り、東京の歴史散策を試みた。かねてから
 の念願であった紀尾井坂(現在、「清水谷公園」)は、大久保利通公の遭難の地である。

   西郷の情、大久保の理、破壊の西郷、建設の大久保と、巷間、つとに言われている。
 薩摩第30代当主島津忠重公の側近を曽祖父(皆吉金助)に持つ私は、薩摩の熱き血潮
 が流れているせいか、幕末維新史に特別の執着と熱い感慨がある。曽祖父は忠重公
 従って上京し、明治初年頃の大久保利通公とも交流があったに違いない。時代が変り、
 立場は逆転して、いささか戸惑いの中、曽祖父は大久保利通公とどんな話をしたこと
 ろうか。 "創業と守成はいずれが難きや"、私はやはり僅差で大久保の偉業に軍配を上
 げる。心ある人は、是非、「日本の100人、No.025、大久保利通」を購読して欲しい。

   そこには興味深い話が数多くある。今や、私はこの宿願の大久保利通公の最期の
 を
やっと訪れお参りすることができて、偉業を偲びつつ、心からほっとしている。

 
 大久保利通公の遭難の地を散策(東京・清水谷公園)

 【2006年6月】
          【九州の日本百名山「祖母山」に登頂】  ( 2006.06.17
)

  
九州の百名山「祖母山」登山の名鉄観光㈱のツァ-に、会社の山好きの友人と一緒に
 参加した。大阪南港から瀬戸内海を通って別府港へ。そして、バスに乗車して大分
 崎・熊本の三県にまたがる祖母山(ソボサン、1,756m)の登山口から、頂上を目指した。

   遥か神話時代の昔、当時の九州ではこの山が最も高いと信じられ、伝説の初代天
  皇「神武天皇」の祖母を祭ったとされることにより、以来、祖母山と呼ばれている。今年
 は紀元(=2600+66)2666年であり、今から2666年前頃にこの山に誰かが登頂したとは、
 信じられないが、天孫降臨の高千穂も近いことであり、あり得る話かもしれない。

   当日の天候は午前中は小雨で、合羽を着た総勢12名(ご婦人5名を含む)は、なんと
 か全員無事に登頂した。霧の間から僅かに見えた、豊後富士(由布岳)の秀麗な双頭の
 峰と久住連山の連なりが美しかった。午後は雨も上がったが、ヘトヘトでフラフラの状態で
 やっとの思いで下山した。自然と歴史を感じつつも、九州の山と言うだけで故郷のような
 懐かしさに包まれていた。また一峰、頂上に足跡を残した。この祖母山は日本百名山中
 の25峰目となるが、50峰登頂計画の丁度半分に至ったことが心から嬉しい。

 
 九州の百名山・祖母山の登山

 【2006年5月】
           【 和泉佐野市・犬鳴山(イヌナキヤマ)の行者場 】  ( 2006.05.28 )

   大阪府下・和泉佐野市の和歌山県境近くの犬鳴山は、修験道の行場として有名であ
 る。役の行者の開基にして、あの大峰山よりも歴史は古く、今日も、現代人の修行者
 絶えない。中年の主婦が白衣に身を包み、無心に滝に打たれるその姿に、時代は変れ
 ど「人の世の苦難と祈り」の目くるめく繰り返しに、心打たれるのである。


  今を去る約1200年の昔、和泉国の猟師が山中にてまさに鹿を弓矢で射んとしたその
 時、引き連れし犬が吼え、鹿は難を逃れた。その事に怒った猟師がその犬の首を切り
 落とした瞬間、犬の首は近くにいた大蛇に飛び食らい付き大蛇と共に果てた。猟師は
 の犬の忠義を憐み自ら恥じ犬の亡骸を供養した。爾来、犬鳴山と呼ばれると言う。

  そんな日本昔話のような「犬鳴山伝説」に魅かれつつ、境内を散策すると、香華にさえ
 もゆかしさが感じられる。滝の音にも行く河の流れの末にさえも清浄が感じられる。
  大都会・大阪の喧騒を俗離し、はたまたその喧騒を懐かしみ、しばしのあいだ山中の
 人となるとき、ふと残りの人生を思う。あと三十数年、人生の修行は更に続くが、思いは
 変らず「唯藝是真」の四文字である。何らかの藝術的所産をこの世に残さんと・・・ 。

   私も滝に打たれ、心身を清めたいという衝動に駆られたが、そんな強烈な「彼岸への
 渇望」以前の自らの未熟さに、だだ恥じ入る思いであった。生きるか死ぬかの、まさに
 瀬戸際の状況で滝に打たれ祈念する人と比べ、何と軟弱な私かと思うばかりである。

 
 和泉国・犬鳴山の散策

 【2006年4月】
            【 ポ-ランド企業誘致説明会(関西経済連合会(大阪・中之島))
                ( 2006.04.28 )

   EU25ケ国の中で、人口・国土・経済力が共に最大規模を誇るポ-ランド共和国は、実
 
質GDP成長率5.4%(2004年実績)を記録し、好調な輸出と個人消費を背景に、高成長を
 維持している。そんなポ-ランドの勉強会(レグニツァ経済特別区)に連休前の平日に参加し
 た。銘酒ズブロッカを飲みつつ、遙か東欧ポ-ランドに思いを馳せたのである。

   ポ-ランドが生んだ世界の有名人としては、以下の5人の方が著名ではないだろうか。

  1.地動説の提唱者:コペルニクス、2.ピアノの詩人:ショパン、3.ノ-ベル賞を2度も受賞し
   たキュ-リ-夫人、4.連帯議長:ワレサ氏、世界を飛び回ったロ-マ法王:ヨハネ・パウロ二世。

   いずれも人類の歴史に大きな足跡を残した偉人であり、大いなる恩人とも言える。
 過去の祖国喪失の悲劇を乗り越え、1989年に、最初に共産圏を離脱し、自由世界へと
 雄飛したポ-ランドは、今日、当に隆々と発展しつつある。そんなポ-ランドの皆さんと話を
 して多くの知識を吸収し、更に人脈も拡大できたことは、誠に有益なことであった。

 
 関西経済連合会でポ-ランド交流会

 【2006年3月】
           【鎧岳・兜岳の縦走登山】  ( 2006.03.18(土) ) 

   念願だった鎧岳・兜岳縦走登山の名鉄観光の日帰り旅行に(\5,600)に参加した。
 多数の老夫婦を含む20数名で梅田から高速で奈良県最東部の曽爾村へ。写真のよう
 な鎧岳(ヨロイダケ)の奇峰は強烈な圧倒感を与える。本当に登れるのか?との疑念があっ
 たが、裏側にまわると稜線はなだらかで、国道369号線沿いの登山口から僅か65分で
 登頂した。曽爾高原(秋のススキ原が有名)の遠望が印象的で、霧の上の天上人となる。

  小雨の中で弁当を食べ、次の兜岳(920m)に向う。険しい登りをロ-プと樹木に助けられ
 ながら登頂する。下りは速く、肌着を着替えて、居眠りをしつつ、梅田まで戻ってきた。

   正面から見たら決して登れそうには見えない。しかし、裏側に回れば登れる稜線があ
 る。鎧岳は柱状節理の岩肌が剥き出しで、鎧のように見えることからその名がついた。
 そこに山があるから登る。人生も然り。目標に対して強い意志を持続すれば道は開け
 る。約20年前、新聞の写真で鎧岳を見た感動のその日から、いつかは征服したいと思
 い続けていた。結果として登頂までは僅か65分だった。あっけなかったが長年の念願を
 達成できたことは嬉しい。

   小さいけれど目標を立て、いつの日にか着実に達成する。
   そんなたゆまざる努力の人生を、これからもずっと歩いてゆきたい。

 
 兜岳の勇姿

 
 兜岳山頂

 【2006年2月】
           【道頓堀極楽商店街劇場】  ( 2006.02.12 )

   大阪・道頓堀の食い倒れの近くのビル内には、"レトロ"な極楽橋商店街と劇場がある。
 そのあまりにもコテコテな大阪文化にいつも圧倒されている。古き良き時代の飲食店街が
 再現され、占いコ-ナ-や寄席もあり、この日は、私もマジックのアシスタントとして指名されて、
 舞台でスポットライトを浴びた。写真は、劇場の出し物で、ミュ-ジカルの中での宙吊りもあり、
 とにかく大いに楽しめるのである。大阪の人情物語が多彩なキャラクタ-と、軽快な音楽に
 乗って進行し、本当に楽しい。まさに、大阪庶民文化の濃厚で具沢山な味噌汁である。
   私は演目が変る度に毎回訪れている。尚、観劇料は無料である。

  [写真は割愛]

 【2006年1月】
            【 阿波座会(地下鉄中央線「阿波座」⑩番出口「金陵飯店」) 】
                ( 2006.01.13 )


    大阪の数ある異業種交流会の内で、地下鉄「阿波座」⑩番出口すぐの「金陵飯店」
 で毎月第2金曜日の夕刻に開催される阿波座会は、実にユニ-クな出会いの場である。
 中国の南京(旧名、金陵)出身の"ケンちゃん"が経営するこの中華料理の店では、老若
 男女というより若い男女の宴会モ-ドのハイテンションが満ち溢れている。私は、ほぼ毎月、
 参加して約3年になるが、毎回楽しみにしている熱い異業種交流会である。
  この会のユニ-クな特徴として、以下の事項を紹介しておきたい。

   ①出欠の予約は不要で、気が向いた時に参加すればよく、男性は\5,000均一。
   ②開催日(毎月第2金曜日)は固定していて、中国の食材と酒も豊富である。
   ③開始時刻も終了時刻も決まっていないが、午後5時から来ている参加者もいる。
   ④常連メンバ-も多いが、新しいメンバ-(初参加組)も毎回少なくない。
   ⑤時折、極めて洗練された美人も参加することがあり、女性は\3,000均一と安い。
   ⑥時々、私の芸の披露・パフォ-マンスがある。詩吟・楽器演奏・マジック・ゲ-ム・占い。
   ⑦中華料理の店にふさわしい私の油絵「中国桂林」(F10号)が飾ってある。

  大都会大阪の会社での慌しい日々に追われる人々は、誰でも何時でもふと人恋しい
 時がある。誰かに会って無性に語りたくなる時がある。そんな時の出逢いの場として、
 この会の扉はいつも開かれている。この阿波座会がご縁で、2組のカップルも誕生した。
  どうか、気軽に参加してみて欲しい。気に入って毎月参加の「はまり屋」さんになって
 しまう人もいる。私も既に3年前から、そんな「はまり屋」さんになっているようだ。

 【2005年12月】
           【 熊野古道(小辺路ル-ト)の果無峠(ハテナシ峠、標高1,114m) 】
                ( 2005.12.11 )

                 
    今年は、何度も熊野古道を散策し、最後は雪化粧の小辺路ル-トの果無峠であった。
 会社のいつもの友人と真面目な会話をしながら、十津川の登山口から3時間程で果無
 峠(1,114m)に登り至ると、雪景色の樹間を吹き抜ける冷風に、" 凛とした冬の厳しさ "、
 神々しささえも感じるのである。この果無峠には雪景色がよく似合う。もしかして、我が
 遠い遠い先祖の誰かがこの熊野古道(小辺路ル-ト)を踏破したのかしれない。そんな思
 いを抱かせるこの小辺路ル-トは、高野山から熊野本宮へと至るル-トであり、いくつかの
 熊野古道の内、最も往時の古道の風情を残していると言われている。

  日本最大の半島
としての紀伊半島、その半島を東西方向に幾重にも横たわる紀伊山
 地の山並み。熊野
本宮を目指す巡礼の旅は、現代の我々にも癒しの心を与えてくれる。
 なぜなら、この地
では生と死が近くに意識されるからである。峨々たる山塊は、旅人がも
 し古道を踏みは
ずせば疲労と飢餓で死に至らしめ、清浄なる樹林の精気は旅人がもし
 真に人生の
再生を願えば瞑想と天啓によって生を与えるからである。このことは決して
 大袈裟な物
言いではない。紀伊山地の霊場に至る参詣道は、歴史的にも死と再生の古
 道だったの
である。修験道の大峰奥駈けル-トには及ぶべくもないが、やや、平坦な中辺
 路ル-トと比
較していくつもの峠を越えるこの小辺路ル-トは、初冬か早春に散策するのが
 望ましい。


   この熊野古道の細道を一歩一歩踏みしめながら歩くとき、自分の人生について、過去
 へのプレイ・バックのスイッチがONとなる。自分と内なる自分と、その対話を聴く第三の自分
 が居ることに気付くことになる。初冬の雪化粧の熊野古道小辺路ル-トは、凛とした冬の
 厳しさの中、神々しささえも感じさせ、第二・第三の自分と語り合える古道なのである。

 
 熊野古道(小辺路ル-ト) 果無峠

 【2005年11月】 大阪・OBPのレストランにて(2005.11.21)

              Welcome Party for Dr. Greg. in Osaka

     It's our pleasure yearly that our friend, Dr. Greg., physicist, comes from the republic of
  South Africa to Japan and he takes part in our welcome party for him held in Oaska city.
  This November, he came to Japan with his cute female friend,. in spite of his full schedule,
  he carried out some special lectures concerning nuclear physics at Kyushu University etc..
  He has participated our banquet with her, and has enjoyed the night of Osaka enoughly.
  Several years ago, I met him at "Pig & Whistle"; a british pub at umeda in Osaka city for
  the first time. Then, we used to have nice conversations each other with some glasses of
  Irish beer; Guinness. Therefore I still believe that our encountering is a great boon for me.
   Remembering the memories in my childhood, it may be unbelievable the fact that I can
  have a younger friend from "South Africa" locating in opposite side of our globe; the earth.
  During my days in Nagasaki city; my sweet home town, I used to think it impossible to visit
  the continent of Africa. But as everybody knows, if we have a lot of time and money, it will
  be real that I can visit the republic. of South Africa, namely Dr. Greg.'s sweet home town.

 

 【2005年10月】
           【 大阪市内・天神橋商店街(天三付近)にて 】  ( 2005.10.30 )


    私は、休日よく大阪市内を散策する。この浪華の都・商工大都は「生業の地」である。
 九州の故郷長崎市を離れ福岡・京都(宇治)での学生生活の後、関西にJタ-ンして早や、
 数十年の月日が流れた。今や私は、関西人(大阪人)となり女房&子供と暮らしている。

   そして、バイクツ-リングをしない休日は、新世界・心斎橋・及び、天神橋筋を散策する。
 京橋から梅田へと至る東西の道は、日本一長いこの南北の天神橋商店街と交差する。
  天一の大阪天満宮から天六までをゆったり北に向ってそぞろ歩くその40分間は楽しい
 時間である。大阪ミナミが"コテコテ文化"なら、キタのここは"サラサラ文化"なのかもしれない。
 
   昨今、特に増えた百円均一の店、夥しい飲食・衣料店、100円のキャベツ焼き、占い所、

 パチンコ店、それら店は混在はしているが明るい外光の下でどこかしら垢抜けしている。
 天神祭の時にはギャル神輿で賑わい、選挙の時には最後のお願いの連呼が響く、ここ
 天神橋商店街は、"あきんどの街"の象徴である。商品の値段が"むっちゃ安い!"という
 ことは、新世界とは違ってない。だが、長い、なが~いア-ケ-ド街は、賑やかで明るい。

   私はこの商店街を散策する度に、大阪人の商売の仕方や感性について、いつも何か
 と考えさせられるのである。即ち、商売の哲学であり、儲けの哲学とは何か、である。

 
 大阪・天神橋商店街の散策

 【2005年9月】
           後醍醐天皇ゆかりの笠置山散策】  ( 2005.09.23 )

    私は地理や歴史が好きで、休日はバイクで近畿地方を散策する。今回は、何度も訪れ
 ている笠置山である。柳生の北方に位置し、木津川南岸の一見何の変哲もないこの山
 は、しかしながら、歴史的には有名である。後醍醐天皇の行在所があり北条軍に攻め
 られ、全山焼尽した悲劇の歴史を持ち、また、奇岩と磨崖佛でも巷間よく知られている。
 この写真は、行在所の階段下であり、階段を登ると今は侘しい猫の額のような遺跡があ
 る。そしてそこには、私の好きな後醍醐天皇の御製となるゆかしき歌碑がある。

     浮かりける 身を秋風に 誘われて 思わぬ山の 紅葉をぞ見る

   世俗の最高権威者ではあるが、武士に抑圧され、決して最高権力者ではない儚い立
  場の天皇(スメラミコト)の嘆息が伝わってくる。我が意に沿わぬもの三つあり・・・・ と豪語し
  た白河法皇の御世から幾世代を経て、親政復古を夢見た後醍醐天皇の悲運の歴史で
  あった。意に沿わぬことが多いこの人の世においてスメラミコトも嘆息なされた。ましてや
 平凡無力たる庶民の嘆息や嘆きは如何ばかりか。思い通りにならぬのが、人の世であ
 る。生きてみなければわからないのが人生である。人生で大切なことは、やけになって
 自暴自棄にならないこと。辛い時にはじっと耐えること。「艱難、汝を玉にす。」である。

   だが、老境に至り「死に至る病」を背負った時、もう艱難は要らないと叫びたいもので
 ある。穏やかな生きがいを何に求めるのか、スメラミコトはどうだったのか、尊氏は、義貞
 は、楠正成はどうだったのか。この笠置山の巨石の上から西流する木津川の清流を見
 下ろせば、人の世の無常の思いが憂愁として私を包んでゆく。やがて来る老境の生き
 がいは人それぞれだろう。そして私にとっては、益々「芸術至上主義」、「世間仮虚、
 芸是真」こそが、人生の指針(価値観、生きがい)になっていくだろう ・・・・・。


 
 南朝の歴史探訪の笠置山散策

 【2005年8月】
          【 四国・九州・山陽路のバイクツァ-(8/7~8/18の12日間、約2,400km)

                   九州・長崎への帰省の旅

   父祖の地:薩摩を目指し、また故郷長崎に帰省すべく、今夏も90ccバイクの旅をした。
 四国の剣山(日本百名山、1955m)をリフト後40分で登頂し、素晴らしい展望を堪能した。
 (剣山は石鎚山より標高は僅かに低いが、登山は極めて楽である) [上段写真を参照]
 平家の隠れ里である祖谷を下り、松山を経て、深夜、八幡浜から別府へ海峡を渡海。
 早朝、朝靄に眠る湯布院、懐かしい久住の山々、雄大な阿蘇に遊んで熊本に泊まる。
 人吉から肥薩国境:九七峠を越え、先祖が暮した鹿児島の磯御殿の見学後、親戚の家
 に泊まる。そこで初めて聞く我々の先祖の逸話には、実に感慨深いものがあった。

   皆吉金助曽祖父は、磯御殿の"お庭番"として島津家第30代当主:島津忠重公とは
 竹馬の友(相撲の相手)であり、忠重公に随伴上京後は郷里へ仕送りし、留守家族は
 広大な田畑を購入し今日の資産家の礎を作った。また、牛込金太郎祖父は郵政官僚
 (高等官)として長崎に赴任し、長崎牛込家の祖となったという。

  (明治維新に貢献した薩摩の血が流れていることを、誇りに思う) [中段写真を参照]

    桜島を60分で一周後、鹿児島を後にし、3号線を北上して水俣・宇土・天草を過ぎて
 島原半島に渡る。白い雲行く雲仙から青い港の長崎に着き、墓参と家族団欒に触れ、
 今夏は30数年ぶりに精霊流しに参加し、花火・ドラ打ち(進行)に興じTVで放映された。
 (8/15の精霊流しの夜が終わると、長崎も、はや夏の終りである)  [下段写真を参照]
 長崎で4泊の親孝行をし、佐賀から背振山系を越え、懐かしい学舎や大宰府に遊ぶ。
 飯塚から関門トンネルを抜け、一路山陽路をひたすら東へ走る。呉での戦艦大和の1/10
 模型に感嘆し、笠岡市のY.H.に宿泊。備前の「閑谷学校」をゆっくり見学後、帰阪した。

 
 日本百名山の剣山(標高1955m)

 
 鹿児島の維新ふるさと館

 
 長崎での精霊流し

 

 [追加写真、大和ミュ-ジアムの1F展示場の戦艦大和の1/10模型]

   日本全国を走っても日本は日本であるが、幕末の伊能忠敬が歩いた道を旅し、その
 忠敬先生が生涯において未測量だったオホ-ツク海沿岸を、私も未だ旅ができていない。
 旅に地理と歴史は付き物で、その地理と歴史もまた表裏一体である。旅を愛し、歴史
 愛して親しみ、またバイクを友とする、こんな人生(My Life)はなんと幸せか。与えられ
  天賦の"旅の幸運"に心から感謝し、皆様の為にもこれらの感動を多く伝えたい。

 【2005年7月】
            家電量販店にて(2005.07)、開店前の静寂な時に

   この7月は、家電量販店での市場体験研修(販売応援、実質20日間)であった。家電
 メ-カ-に勤務する社員として、最先端の販売の現場を体験することは、大切な意味があ
 るといことでということで、この熱い夏の日に、店内は涼しいものの、駆けずり回り汗を
 かきなが
ら、お客様に接客させて戴いたことだった。研究・開発・製造・販売・の物の流
 れと販売
によるお金(対価)の還流、そして付随する情報の流れ。この円環はしっかりと
 繋がり、
澱み(ヨドミ)無く常に流れ続けなければ、メ-カ-から販売店までの存続性はないこ
 とを今
さらながら痛感した。余談ながら、リング(円環)は閉じなければならない。閉じたら
 アカンの
は、磁気回路や視力検査のランベルト環ぐらいなものである。

   "薄利多売"、"競合店との価格&顧客獲得競争"という、量販店業界の熾烈な現実に
 対して、見識が深まったと思える。また、この販売体験を通して思うことは、販売員とし
 ては、何が求められるかということである。この発見を胸に、明日から職場での本来の
 仕事に戻るが、この研修体験を生活習慣を改めるよい契機にしたいと強く思っている。
 その為に、研修させて戴いたこの店で、記念にある電気製品を購入したのであった。

 
 家電量販店での販売応援

 【2005年6月】
           【 兵庫県・香寺町の休養センタ-「香寺荘」にて 】  ( 2005.06.18(土) )

   行きつけの店(大阪・梅田)の常連の皆さんと一緒に温泉へ一泊旅行をした。姫路の
 北にある香寺町の休養センタ-で、楽しくて有意義な大宴会であった。20数名の皆さ
 は、皆が芸人で、大いに盛り上がったことだった。私もオ-プニングの詩吟やカラオケ、踊り
 付きのデュエット・カラオケを楽しみ、2次会も深夜12時にやっとお開きになったことだった。

   常連さんばかりのこの異業種交流会はVIPな人も少なくなく、紳士と淑女の大人の付
 き合いはやはり有益であり、いろんな話を聴いたり語ったりした。人生の価値ある人脈
 と元気、そして「将来への指針のヒント」を得られるのが、この年数回の一泊旅行である。
 他人から情報・知識・智恵・元気を与えて貰い、また私も及ばずながら他人に与える。
 もう十分にそのような年であり、次の世代のために文化を継承するのが責務でもある。
 その意味でもこのHome Pageは、私という一個人からの文化の発信であり、ささやか
 社会貢献としての私なりの社会への一助であると信じている。

   継続は力なりであり、金脈は無くも人脈は豊富にして、人生をより心豊かに生きたい
 ものである。人は人によってこそ鍛えられる。ギリシャの諸先哲が遙かに看破したように、
 「私にとって、人間に関することは、何ひとつ無縁ではない。」なのである。
   また、佛典にあるように、人と触れ合う喜びと哀しみ「愛別離苦」もまた人生である。
 常連の皆さんに囲まれ、そのようなことをしみじみ感じながら、何度もグラスを傾けた。

 
 行きつけ飲み屋の常連の皆さんとの一泊旅行

 【2005年5月】
           【 鳥取砂丘にて、鳥取砂丘の感慨 】  ( 2005.05.05 )


   今年のGWは、中国地方の東半分をバイク・ツ-リングの旅をした。10数年ぶりのここは、
 鳥取砂丘である。異国のようなこの風景の中で、細かい砂をスニ-カ-で踏みしめ一気に
 砂の丘を駆け上がり頂に立つと、日本海からの風が心地良い。この荒涼とした砂の海
 を眼前にして、行楽の人々の姿を心の風景からしばし消し去る時、見えて来るものは
 映画「猿の惑星」のラスト・シ-ンである。文明とは何か、人類が築きし知的遺産とは何か。
   この狭い日本でそんなことをふと考えさせてくれるのが、この鳥取の大砂丘である。

    砂丘とは 浮かべるものに あらずして  踏めば鳴るかな 寂しき音に

   30年前から知っているこの与謝野晶子の短歌で、「浮かべるものに あらずして」の
 意味が長いあいだ解らなかったが、今回の再散策で少し解ったような気がする。即ち、
 砂丘は海ではなく、波濤逆巻く大海でもなく、やはり細かい砂の膨大な集まりなのであ
 る。そして、砂も鳴くのである。石英の砂粒の粒径が極めて均一で、細かい場合には
 踏めば鳴るのである("鳴き砂現象")。晶子はその短歌で何を言いたかったのか。私は
 思う、"人の世も同じだと"。多くの貧しき庶民の集まりである世の中で、いつも弱者は
 権力(又は軍部)によって抑圧され虐げられてきたのだと。晶子が生きた暗い時代背景
 に、感情移入し過ぎた私の考え過ぎであろうか。真砂の一粒に過ぎない一個人は、いつ

 の世も時代の大きな権力に鳴かされる(泣かされる)ことがあるのである。

 
 鳥取砂丘にて

 【2005年4月】
           【 大阪城公園の「桃園」にて 】  ( 2005.04.10 )

   大阪城公園で花見の会があり参加した。「年々歳々花相似たり、年々歳々人同じか
 らず。」 冬の季節を過ぎ、今年も無事に迎えた日本の春は、ここ大阪城公園ではまさ
 に桜花爛漫の春である。落花の下、芝生での酒宴は日本人の毎年の楽しみでもあり、
 日本人としての喜びをしみじみ感じる季節である。

   大阪城公園は京橋に近く、大阪冬の陣・夏の陣の兵どもの夢の跡でもあり、戦争中
 は米軍の空襲により、幾多の被害と不発弾の埋没があった場所である。しかし、今日、
 水上バスの運行を傍らにして、水の都を穏やかな桜花の中に、しみじみと眺めている。
 大阪は我が国第二の都市にして、活気に満ちた関西の都市。京都・大阪・神戸の三都
 物語の中核大阪は、実に上方の"おもろい都市(まち)"である。

   この大阪に暮らして早や27年。四半世紀を過ぎ、すっかり関西人、大阪人になって
 しまった。九州(長崎市)出身の良さを残しつつ、大阪人の良さを益々取り込みつつ、こ
 の都市に生きる定めだったことを良い形にして、今後の人生を全うしたいものだ。

   「世間虚仮、唯仏是真」と諦観した、かの聖徳太子にならって、今、心境を述べれば、
 「名利空疎、唯芸解脱」となろうか。しかしながら、「浪華のことも夢のまたゆめ」ではなく
 「浪華のことは夢の正夢」と、更に前向きに、より心豊かに生きたいものである。

 
 大阪城公園での花見

 【2005年3月】
            大阪梅田の大融寺境内の淀君の墓所にて 】   ( 2005.03.30 )

   職場のある大阪・OBPの高層ビルから、大阪城の本丸にある山里丸が見下ろせる。
 大阪夏の陣の淀君と秀頼の自刃の場所である。その淀君の墓所が、ここの大融寺にあ
 る。戦国史上、淀君は生涯に三度も落城の憂き目をみたことで、余りにも有名である。
 落城はどんなに悲惨であろうか。湖北の小谷城内で、最愛の父である浅井長政を失い、
 越前の北の庄にて二度目の夫である柴田勝家を亡くし、最後は紅蓮の炎中の大阪城に
 に息子の秀頼と共に自ら自刃したのであった。秀頼は果たして太閤の子種であったか
 どうかはともかくとして、淀君の実家である信長の血筋は、徳川将軍家(尾張家)に継承
 されたのである(但し、第7代将軍で断絶)。ただ、家光は実は家康の実子だったかもし
 れないとすると、徳川将軍家には継承されなかったことになる。いずれにしても、この
 都会・大阪の梅田に静寂な大融寺があり、明治期に京橋の鴫野から改葬されたこの

 君の墓所をひっそりと守っている。梅香の余韻もゆかしい中、訪れる人は決して少なく
 はな
い。週末に近くのダンス教室に行く前に、独り詩吟の独習をするには、実に最適
 場所である。大阪の地もまた、数多の歴史の宝庫なのである。


 
 淀君の墓の墓参

 【2005年2月】
           【 竜門岳の雪中登山 】  ( 2005.02.11 )

  奈良県の吉野山の東北に位置する「竜門岳」(904m)に、会社の友人と雪中登山を行
 った。かって、車窓から見たその勇姿に感動し、いつか登りたいと思っていたからである。

   実際に登ってみると、最短登山口(山の北側)から約1時間で、簡単に登れたことだ。

 途中の景色はやはり素晴しかったが、頂上はこの写真にあるように粗祠があるだけで、
 やや愛想なしの感があった。この山の南側には滝もあるが、結局は、余り面白くない山
 だということが解かった。だが、歴史的にはこの山は有名な久米仙人が修行した山とし
 て知られている。久米仙人は、「空から見下ろした時、女性のすねに魅惑され神通力を
 失い地上に落下した。」という逸話で有名である。

   そんな昔の話を思い出しながら、し
らくの間、雪と戯れたのだった。

 
 吉野・竜門岳の山頂にて

 【2005年1月】
             大阪国際交流センタ-での日本文化を楽しもう「餅付き」 】
                ( 2005.01.30 )


   大阪国際交流センタ-での行事「日本文化を楽しもう「餅付き」」に、昨年同様参加した。
 昔と違って、今ではもう近所では見れなくなった餅付きに淡い郷愁を感じ、懐かしい匂い
 と食感に少年時代を思い出す。杵を打つ音、臼からの反響、だんだんと疲れてきて良
 響きも不協和音となってゆくが、心地よい疲れが残る。スタッフの人が丸めてくれるいろい
 ろな餅、キナコ餅、あん餅、大根おろし餅、醤油味の海苔巻き餅・・・ がある。餅を
いただ
 きながら、参加している外国人、特に若い中国・台湾人とお話をする楽しい国際
交流の
 ひと時を持てるのである。


 
 日本の正月行事

 【2005年の新春のご挨拶】
                     新春のご挨拶

    2005年、新年明けましておめでとうございます。このホ-ムペ-ジも皆様のお陰を
  もちまして
、毎日3~18人の範囲(昨年実績)でご訪問を頂いています。今年も、より
  一
層の充実した内容をお送りしたいと思いますので、皆様ご愛顧の程、どうぞ宜しくご
  期
待下さい。本年も気合を持って目標必達に向い人生を真面目に楽しく前向きに。

 
  奈良県・大神神社への初詣(御神籤としては、生涯初めての「大吉」だった)

 【2004年12月】   
           【 誕生日お祝い会(梅田・お初天神の「ふじ」にて 】
              ( 2004.12.04 )


   梅田・お初天神の行きつけの店のママが、私の誕生お祝い会を催してくれた。この年
  まで大きな病気や事故もなく、無事に健康に生きてこられたことに心から感謝している。

   亡父の享年まであと1年と迫り、兄達や姉は既に父の享年を越え私も健康で越えられ
  るであろう。そして、命を受け継ぐ娘はもうすぐ16歳であり、早ければあと10年で孫の顔
  が見られる可能性がある。DNAを繋ぎ、文化を伝える家族としての、世代の継承におい 
  て人の世に確実に残せる子供、しかも心身共に健全な子孫を残したいということは、知 
  的生物としての人間の本質的な願望である。娘の可愛い頃の写真に絵筆を取って、丹
  精込めて描いた油絵を店に飾ってもらう。ただ、一部のお客さんの感想では、酒を飲ん
  でいても絵を眺めると"里心が付き、孫の顔を思い出す。"とのこと。なるほどそうかと私
  も同意し、年末までには新作("韓流"ブ-ムに乗った韓国ノルティギ遊び)を完成して、交換
  する予定である。

   山上憶良が詠じた二首に、時代を越えて、人の子の親の思いを共感する。

    瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来たりしものぞ

    しろがねも くがねもたまも なにせむに まされるたから こにしかめやも

   娘はこれから多感な青春時代。「親の思いと子の定め」の諺を噛み締めて、親として
  の必要な援助を行なってゆこう。油絵に残されたその可能性一杯の笑顔と黒白の瞳は、
  やがて浮世の不浄を観て、世に経るにつれ少しずつ混濁して行くけれども、親としては、
  生ある限り親子であり、前世からの深い縁なのである。誕生日を迎えて、娘の将来を思
  いつつ、健康に生んで丈夫に育ててくれた故郷長崎の母に感謝している。

 
 梅田の行きつけの店「ふじ」

 【2004年11月】
           【 熊野三山の奥の宮:玉置山の大峰奥駈道にて 】  ( 2004.11.03 )

   友人と熊野奥の宮の玉置山に登り玉置神社に参拝した。頂上付近の駐車場からは
 徒歩では僅かの距離だが、大峰奥駈道が通るこの神社の格式は高い。遙か遠い昔、
 神武天皇の頃からの歴史を誇るこの神社は、森閑とした樹林の中にある。世界遺産と
 なったこの熊野はなんと歴史が古いことか。今にも往時の修験者達がこの大峰奥駈道
 を風のように駆け抜けて行きそうな気配である。

   峨々たる紀伊山地の山並み、西方の
眼下には十津川の街並み。天の気は清浄に
 して、地は森林浴の芳香に満ち、杉の木
立の中、熊笹に注ぐ木漏れ陽を浴びてふり仰
 けは゛、秋の碧空に白い浮雲。あ~油絵
に描き留めたいと思えども、ポイントとなる点景
 の無きを、我が画才の無さの言い訳とし
ている。

   熊野を描くには、才能、熟達、深い人生経験のいずれもが未だ乏しいだろう。

 
 熊野大峰奥駈道の玉奥山散策

 【2004年10月】     
           【 大阪府実業団詩吟連盟第10回記念吟詠大会 】  ( 2004.10.24 )

            和泉市生涯学習センタ-和泉シティプラザ「弥生の風ホ-ル」(和泉中央)

   大阪府下の実業団22社の詩吟部からなる第10回記念吟詠大会に参加した。尺八と
 琴の音をバックに会社の先輩と二人で合吟した佐久間象山の「漫述」は、幕末の先覚者
 として登場し刺客のために斃れた象山の気概を示す漢詩である。

     謗(ソシ)る者は汝の謗るに任す  嗤(ワロ)うものは汝の嗤うに任せん

     天公本(テンコウモト)我を知る    他人の知るを覓(モト)めず

   【意解】 私を非難する者も、また、あざけり笑う者も、ともに諸君の意にまかせよう。
       天はもとより私のことを知ってくれているから、他人から認められようなどと
       は思ってもいない。

   幕末、開国論を唱え、世人のそしりや嘲笑を一身に浴びながらも、自説を曲げなかっ
 た作者の信念を述べたものである。今時、そのような強烈な信念をもっている青年
 近に居ようかとも思うが、時代の激変期にこそ強い危機感と使命感を身に戴した
逸材が
 出てくるのでであろう。ともかく、詩吟は素晴らしい。心の修養に最もよいものと
確信して
 いる。


   詩吟は"ユビキタス藝術"である。いつでも、どこでも、何も準備も要らず、ただ、心
 留めた詩吟を吟じるだけである。こんな簡素でかつ味わい深い藝術はあろうか。
   詩吟を愛する老若男女の益々の"詩吟開眼"を祈念するものである。

 
 大阪府実業団の詩吟の大会

 【2004年9月】
          【 和歌山県新宮市の熊野速玉神社 】  ( 2004.09.26 )

   友人と車で熊野詣を行い新宮市内を散策した。南紀のこの穏やかで暖かい城下町は
 半日コ-スの散策の路である。毎年如月2月6日の火祭りで有名な神倉神社の巨大な岩。
 上田秋成の「雨月物語」にも登場する不思議な「浮島」。徐福の渡来地として本邦随一
 の徐福公園。水野家の居城:丹鶴城。そして熊野三山のひとつ熊野速玉神社とその境
 内にある佐藤春夫記念館。「秋刀魚の歌」の詩をそらんじながら、黒潮の彼方への補
 洛(フダラク)渡海への信仰を想起する。「山の熊野」に続く、「海の熊野」でもあるのだ。

   南紀新宮は明るい。私は何度もこの地を訪れているが、夏の日の、早朝の熊野川の
 河口は九州の宮崎市の大淀川の河口に似て、その"ぼ~とした、気だるい南の島のよ
  うな怠惰な旅情"を醸し出している。だが、私達は幾重にも連なった熊野の峻険な嶺峰
 をくぐりぬけ、熊野川の広い川原から、突然に熊野灘という太平洋に開放される時、山
 と海が河を接点にして、共に広大に連結していることを知る。まさに、新宮はその接点
 であり、有史以前の本邦への最初の漂着者はこの新宮の浜にその第一歩を踏み占め
 たのかもしれないと思えてくる。だからこそ、真偽はともかく当に徐福伝説が生まれる。

   しかしながら、現代の海洋学は「熊野灘における黒潮の蛇行」という現象を教えてく
 る。遙かに約2,200年前の秦始皇帝の時代、徐福は黒潮に乗って新宮に漂着したのか、
  蛇行により漂着できなかったのかは、今となっては謎である。万有引力に基づく天体
 運行ほどには、往時の黒潮の蛇行の有無の推定は複雑で困難なのも事実である。

   ロマンはロマンとしてともかくも、黒潮と親潮に悠久に洗われる我国は島国であり、私
 は
、群青の彼方から寄せ来る白波に興じて、日本人の幸せを心から実感したのである。

 
 海の熊野:新宮速玉大社の参詣

 【2004年8月】
           【 霊峰白山の登山(最高峰:御前峰2702m) 】  ( 2004.08.21 )

   遙か少年時代よりの念願だった白山に登頂した。登山口から4時間半、頂上は意外
 にも簡素で霧のため噴火口や池を見られず残念であったが満足できるものであった。
 様々な可憐な高山植物、弥陀ヶ原の風景、喉を潤す湧水、遙かなる周辺の山々。日本
 三名山(他に、富士山・立山)の最後として、日本百名山の22番目として今年の夏の終
 りの日となった。

   AM4時の到着時のオリオン座(冬の大星座)の強烈な美しさ、早朝5時から
の寝不足の
 ままでの登山開始、登頂後の室堂での生ビ-ルやラ-メンの美味さ、膝が笑う
下山時の長
 い道のり。なんとか無事にバス迄たどり着いて、やっと車中の人となった。

   小学生の頃、NHKの番組「黒百合城の兄弟」(ちぎれた地図をもとに、白山の嶺峰の
 どこかにあるという黒百合の城の財宝を探す冒険物語)に毎回胸をときめかせたことが
 懐かしく思い出される。ただ、実際に白山に登ってみて、物語のような黒百合の花もな
 ければ城址さえもなかったが、それはそれとして、そのTV番組は甘い記憶である。

   私にとって"白山とは何か"の疑問は、今やっと現実的に始まったばかりである。私の
 心の中の日本三名山の一つに認知できるかどうか、"白山の雄々しい山容"を想起し
 つ、これからゆっくりと考えて行きたいと思ったことであった。


 
 白山登山

      【 奥吉野の修験道の聖地:大峰山(山上ケ岳)登山 】  ( 2004.08.08 )

    大峰山登拝15回目という先輩にお願いして、念願の「修験道の聖地大峰山」に登る
 ことができた。折りしも「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されたその直後
 の
記念すべき初登山であった。「役の行者」がなぜこの地で修行をしたか、を初めとする
 様々な疑問について実際に登山してみると、その答えが次第に解かって来るのである。

   天川村:洞川温泉の少し上方の登山口にある「従是女人結界」の石碑から、林間の
 道を1時間、役の行者お助け水に喉を潤し、更に、1時間で表の行場に着く。鐘掛岩や
 有名な「西の覗き」の体験をし、昼食後、新客の私達8名は、裏の行場に向う。胎内く
 りや、絶壁を回る蟻のと渡りという荒行を経験して、般若心経の読経でお参りは終了し
 た。山上ケ岳のお花畑を巡り稲村ガ岳を遥か遠望して、下山後には温泉で汗を流した。

   役の行者は人間であり、人故にこそ食は必要である。こんな山上で、食事はどうした
 のかが疑問であった。山上ケ岳は深山幽谷ではなく、麓の天川村からは2時間である。
 下山後、振り返り見れば、険しき岩塊の嶺峰。下界と山上を往還する修験者の修行は
 やはり人こそ故であろう。"食なくして生なし、生なくして、また修行も悟りもなし"と思う
 のは、都会の砂塵に塗れた現代人の浅はかな精神のゆえこそであろうか。

 
 大峰山の信仰登山

 【2004年7月】
           【 奥高野の名山:伯母子岳に登山 】  ( 2004.07.03 )
 
   熊野古道が日本で第12番目の「世界遺産」に認定されようとする日、友人と奥高野の
  名山:伯母子岳(標高1,344m)を登山をした。日本の地学上の重要な中央構造線がこの
  うねるような幾重もの山ひだを形成した時以来、熊野は独特の文化を育んできたのだ。

  伯母子岳の頂上に立ち四方を眺めると、北には霊場:高野山と眼下には平家の里、西
  には遙かに護摩壇山を望み、南には熊野本宮、そして、東には果無と大峰山系の修験
  道の嶺峰。大都会大阪から俗離すること数時間で、この雄大な自然の造化が味わえる。 
  天気は最高、草の上に寝そべりしばし流れゆく雲を眺めると、生きていることを実感する。

   山はいいとにかくいい。さあ登山の趣味を復活するぞとの思いをこめ、麓の温泉
で湯
 浴みしながら、しばし日本百名山の第21峰目からの計画に酔いしれたことだった。


 
 熊野古道の伯母子岳の登山

 【2004年6月】
          【 第34回鷺恵会競吟大会(大阪・西九条、梅花殿) 】  ( 2004.06.20 )

    (社)関西吟詩文化協会鷺恵会第34回競吟大会の初級(初段・二段)の部で第3位に
 入賞した。初級出場者は全16名。詩吟を始めて満二年。初段となり、吟題は「爾霊山」
 (乃木希典が作った二百三高地の激戦の漢詩)であった。結果は、念願の3位内入賞を
 果たし実に嬉しい。詩吟が心から好きであり、それ故に、日々の研鑽を認められたこと
 を本当に嬉しく思う。更に精進を重ね、来年は優勝杯を獲得し、その栄冠に名を刻した
 いと思うのである。

   無論、芸道は勝負事のみが目的ではなく、心の修養と練磨が肝要である。だが、又、
 同時に勝負が無ければ安易な自己満足に陥り易い。道を知りこれを好み、そして楽し
 む。いつの日か、詩中の人となり、詩と同化し、詩の感動を人生の指針とする。そんな
 吟道を愛し精進する人生の最晩年に、私の大好きな詩聖杜甫の「岳陽楼に登る」を心
 から吟じ得る日々が来ることを、信じている。大中国の数多の漢詩の中の、素晴らしい
 唐詩の中で、最も心魅かれる詩である。この詩のことを思うと言葉にならない・・・。

 
 詩吟の大会の入賞

    【 第80回牛込Party、大阪・天満橋の居酒屋「くねんぼ」 】  ( 2004.06.05 )

   私のLife-Workとなっている独身男女の出逢いの会「牛込Party」を、一年半ぶりに
 再開した。21年目となる第80回目の開催であった。淀屋橋の史蹟:蘭学塾「適塾」を
 見学した後、天満橋の居酒屋「くねんぼ」での大宴会(約5時間半)はカラオケもあり、
 有意義で実に楽しかった。このような出逢いの中から、あらたなカップルが誕生すること
 を心から祈念している。主宰者の私としては、25年間-100回開催-20組成婚が大願
 あり悲願でもあるので、私の生涯の責務(ライフ・ワ-ク)として、必ず達成したいと思う。

   人生における出逢いは実は多いようで意外に少ないもの。無論、ベタ-ハ-フはOnly-
 One(唯一人の人)でよいのではあるが、青春における時間との関係もあり、是非、時
 味方にして欲しい。即ち、"勝機を逸するなかれ、チャンスの後はハゲ頭"なのである。
  運命の人と出逢ったその日から人生は激変する。その感動を体験できなくては、やは
 り淋しく虚しい人生と言わざるを得ないのではないか。・・・ 少なくとも私はそう思う。

 

 【2004年5月】
          【 能登半島一周のバイク・ツ-リングで禄剛埼灯台て】  ( 2004.05.02 )

   念願だったバイク・90ccによる能登半島一周を達成した。前泊の金沢から富山までの
  一日の内、15時間かけて途中数ケ所を見学しながら、ともかくも能登半島を堪能した。

 「能登は優しや草木まで」と言われるように、穏やかな丘陵と田畑があり、冬の厳しさ
 別にすれば、暮らしやすい土地であろう。荒々しいものは能登金剛とてなく、輪島の
 かさ、棚田の見事さ、ここ禄剛埼の穏やかな光、そして、能登島の優しさと七尾湾の

 ったりとした広がり、そして圧巻は七尾城からの見る雄大な眺め、といずれも心に
残る
 風景である。能登(ロシア語由来のノット=突き出た鼻)は、まさしく日本海における所の
自然
 の定置網であり豊かな海の恵みがあり、この禄剛埼からは海から昇る日出と海に
沈む
 日没を共に見られることでも有名である。


   かって、能登畠山氏が栄華を誇り、上杉謙信に攻められ、落城した七尾城の本丸に
  佇み、謙信生涯の唯一の漢詩「九月十三夜」を吟じると、427年昔の攻城戦が想像でき
 るのである。その上杉軍を駆逐した奇異な変装の踊りと音曲は、「御陣乗太鼓」として、
 今日に伝わる素晴らしい郷土芸能である。もう少し路銀(旅のお金)があったら、七尾市
 の和倉温泉に宿泊して、詩吟を吟じ御陣乗太鼓を満喫したいと思ったことだった。 

 
 能登半島一周バイクツ-リング

 【2004年4月】
          【 花見ドライブ:薄墨桜・郡上八幡・一乗谷朝倉氏遺跡 】  ( 2004.04.03 )

   会社の友人と、美濃・越前を花見ドライブ散策した。岐阜県・根尾村の薄墨桜(推定樹
  齢1500年)を眼前にして、妻みどりの手作りのおにぎりを友人と食べながら、やっと来れ
  たな~と感慨深いものがあった。根尾断層(6m移動)を見学後、郡上八幡に向う。お城
 を散策し、宗祇水と蕎麦( 「平甚」 )に舌鼓を打ち越前に向う。一乗谷の朝倉氏遺跡の
 広々とした空間に開放感を感じ、往時を再現した町並みをゆっくりと見学した。
 

   この一乗谷にて五代百年続いた朝倉氏も最期の朝倉義景の時、織田信長の侵攻に
 よって灰燼に帰した。小京都の繁栄を誇った(住民は約1万人)一乗谷の滅亡の理由は、
 何であろうか。隣邦の浅井氏との同盟のみを頼み、京文化の遊興に耽り、新興勢力の
 台頭(信長)に対する外交失策によるものだったろうか。諺「治にいて、乱を忘れず」
  やはりもって銘すべし、と思うものである。
   歴史を学んでその智恵(教訓)を現在に活かす。往時も今も人の心は同じである。

 
 
 【2004年3月】
          【 牛込Party17組目の結婚披露宴での詩吟「富士山」 】 ( 2004.03.28 )

   牛込Partyの第17組目の結婚披露宴で、詩吟:「富士山」を披露させていただいた。
 思えば10数年前、松下の定年退職の方への感謝の集い(守口プリンスホテル)で、ある方
 がご披露された詩吟:富士山に感動したのが始まりである。私もいつの日か万座の中
 でこの富士山を朗々と吟じたいと発願して、今日こうして実現できた感動は本当
に心か
 ら嬉しいものがある。自分で自分の頭を少しだけ撫でてやりたい心境である。


   お二人への祝辞として、"結婚とは文化の融合と伝承、そして喜怒哀楽に満ちた長い
 旅路の会話である。数十年後、あんな夫婦になりたい・あんな家庭を作りたいと周囲か
 ら仰ぎ見られるようになって欲しい、(牛込Partyの卒業生だから)。従って、お
祝いの吟
 として、日本人なら誰もが仰ぎ見る富士山の詩吟をご披露したい。"、と申し
上げた。

  お二人の(喜怒哀楽の果ての)真の幸せを、心からお祈りしたい。

  私自身としても無から有を生じる芸道には(芸道に限らず)、感動し努力し続けること
 大切さを今更ながら噛みしめている。
   「努力なくして感動なし、感動なくして人生なし」は、私の口癖となっている。

 
  結婚披露宴で詩吟を披露

 【2004年2月】
          【 霧島連峰の韓国岳[カラクニダケ、標高1700m]の登山 】 ( 2004.02.21 )

  名鉄観光㈱の超格安ツア-(\8,800船中で二泊)で、南九州:霧島連峰群の韓国岳に
 登頂した。金曜日の定時後、大阪南港から2等寝台(片道運賃は\9,800)で宮崎港へ。
 貸切バスで「えびの高原」へ向い、韓国岳登山口から登山(登り1時間半、距離2km超、
 標高差500m)。頂上はガスと強風でコンデションは良くなかったが下山時には雄大な霧島
 の風景が眺められ、また鹿児島県側の硫黄谷温泉ではゆっくりと温泉を堪能できた。

 遙か昔、朝鮮半島からの渡来人がこの山に登り、韓の国(からの国)までも見えるであろ
 うとの由来のこの韓国岳は、霧島連峰の最高峰であり日本百名山の1つである。

   山容は高千穂の峰の方が格段に秀麗であるが、この韓国岳では外輪山の一部が
 落し外輪山は、視力検査のリング(ランベルト環)に似ている。その噴火口には雪渓の中で、

 野生の鹿が天敵もなく静かに生息している。・・・・・ そして、美しい冬の星空を土佐沖上
 で眺め、翌日曜日の朝には大阪南港に帰港した。本当に充実した週末となった。

 
 (背景は、韓国岳の外輪山、右手の頂が頂上:標高1,700mである。)

 【2004年1月】
         【 松下幸之助創業者生誕地(和歌山市・千旦)の再訪 】 ( 2004.01.03 )

   松下グル-プの創業者で"経営の神様"と称され、絶大な貢献をなされた松下幸之助
 創業者の生誕地を20数年ぶりに再訪した。そこでのしばしの散策に思うことがある。

 紀ノ川の流れと和泉山脈の山並みを越えて、商工大都の大阪に丁稚奉公に出たのは
 幼い少年の時であった。故郷から眺める西に沈みゆく夕陽と黄昏、そしてやがておと
 れる漆黒の夜。明治のその時代、田舎の夜の暗さはいかに心細かっただろう・・・。
 街の灯り・・、そこに人々の暮らしがあり団欒の幸せもまたあることを信じて、電器産業
 の創業の道を歩み始められたのであろう。少年の心に刻まれた「明るさ」への渇望。

   青年になって電気の時代の到来に遭遇し、全世界に広がったPanasonicのブランド。
 かって、私も社員として一度お会いした時の言葉 "この製品はなぜ(わが社で)作ってな
 いんのや?"という車椅子からの檄に、水道哲学と産業報国の原点を見た思いがした。
 生誕地の夜の暗さ、自然のハザ-ド(大河と山脈)、・・まさに、故郷が人を造るのである。

 
  (写真中、「松下幸之助君生誕の地」の書は、湯川秀樹博士による。)

 【2003年12月】
            高取城の歴史探訪散策 】  ( 2003.12.29 )

   私は物心ついた頃から城が大変好きであり、お城の絵ばかりを描き、国取り物語の
  空想に耽っていた。大学生になって全国の旅を始め、初めての土地ではまずまっ先に
  城址に行き、天守閣に登る(あるいは、天守台に立つ)ことを必ず心がけた。だが、この
 高取城(奈良県・高取町)は数年前まで知らなかった。会社の友人と共に訪れたこの日、
 冬晴れの冷たく凛とした空気の中、麓の飛鳥から遠く金剛・葛城・山城の嶺峰を望むと、
 この城の持つ意味が解ってくるのである。積み上げし石垣と白壁の遠景は、以
下に歌
 われ今日に伝わっている。 (巽は東南の方向、土佐は高取城が在る地名)


         巽 高取 雪かとみれば 城ではござらぬ 土佐の城

   中世(1332年)から営々として築かれ明治に至って廃棄されたこの高取城は、大和に
 おける山城の名城として、今日でもその縄張りと石垣の見事さで有名である。お城の石
 垣にそっと掌を触れると、遙か往時の築きし人々の心が伝わってくるのだ。


 
 高取城に遊ぶ本丸石垣下

 【2003年11月】
          【 北海道バイオ産業セミナ-・懇親会(三井ア-バンホテル大阪) 】 ( 2003.11.19 )

   大好きな北海道の道庁からのご案内を受け、上記のセミナ-に出席させていただいた。
 ①「宮田 満、北海道のバイオを語る」「元気印! ジェネテックラボはただ今、挑戦中!」
  両講演は共に素晴らしい内容であり、バイオの未来・北海道の魅力が十分な迫力をもっ
 て聴衆に伝えられた。
また、北海道副知事の主催者挨拶及びプレゼンテ-ションも、大変丁
 寧かつ解かり易い内容であった。


   私は化学を専攻し、また、従来より医学やバイオには大変興味を持ち勉強して来たの
 で、講演を拝聴しながら"知的快感で頭がHi"になっていた。21世紀は"生命の世紀"
  ある。バイオテクノロジ-、医学、IT技術の今後の発展の恩恵を享受し、健康余命を更
 らに自ら延長し、微力ながらも"世界文化の進展に寄与したい"ものである。

   北海道は日本の頭(日本地図を人体に喩えても)である。自由な気風と、開拓精神が
 脈々と生きている北海道は、バイオ・IT技術をその頭脳の大地に集約して、益々発展す
 るに違いない。その為には、TLO・アントレプレ-ナ-・知財サポ-ト etc.の拡充が更に必須
 である。オ-ロラの下、北の大地での超ハイテク環境と豊かな自然を共有して、人生の晩年
 を過ごすのも悪くないな~、と思ったしだいである。

 【2003年10月】
            平成15年度松下詩吟連盟吟詠大会】  ( 2003.10.18 )

   詩吟を始めて約1年半。社内大会において昨年の雪辱を果たし、見事に優秀賞を得
 た。最優秀賞は逸したものの、毎週の熱心な練習の成果が結実して誠に嬉しい限りで
 ある。来年度は初段として参加することとなるが、更に上位に入賞できるよう、なお一層
 の精進をする所存である。


   余りにも素晴らしい優秀吟士の涙が出てくるような最高の模範吟に聴き惚れながら
  らも、10年後には我こそはこのように人の琴線を爪弾ける名吟を詠じるたいものだと、
 切
に熱望する。そのための今日の一歩であった。

   数多の趣味がある中で、自他共に最適だと認め認められている趣味が詩吟である。
 なぜもっと早く始めなかったのかと後悔しても、今は詮無き事なれば、継続は力なり。

   いつの日か来たる人生最期の日。その前日もそしてその日も朗々と吟を詠じたい。
 その最期の詩吟の吟題は果たして何であろうか。今はまだ誰にも判らない。

 
 詩吟の大会での入賞

 【2003年9月】
            大阪梅田お初天神の行きつけの和風スナックで友人と一献 】
               ( 2003.09.10 )
 

   長崎県人会のメンバ-がよく集う「ふじ」(TEL 06-6311-2864)は、焼酎と手料理の店
  である。多彩な人々が集まり交友を深めるこの大阪梅田・お初天神の店は、私の行き
  つけの飲み屋である。沖縄出身の友人と飲んだ夜は、焼酎・ゴ-ヤ等の沖縄の味と、カラ
 オケでの沖縄民謡に、日本の異国文化(琉球文化)を心から堪能したことだった。

   異文化に触れることは自らの文化をより理解することのキッカケとなる。しかも、琉球の
 文化は日本文化の源流の1つである。言語・音楽・習慣・風俗を見れば容易に解る。
 開幕の緒、家康の了解を得ての島津氏による琉球侵攻。この歴史的事実が、台湾の
 直近(波照間島)まで日本の領土とすることとなり、また、幕末には倒幕資金をも得るこ
 とができ(薩摩の密貿易・サトウキビによる搾取)、倒幕と明治維新を実現できた。

 そして、沖縄では先の大戦で唯一の地上戦が行われ、戦後の今日は"不沈空母"と
 て、21世紀の「日米安保体制(日米安全保障条約)」を支えている。

   沖縄の犠牲の上に、本邦(同じ日本)があることを再認識し、感謝すべきである。

 【2003年8月】
          【 関門海峡に浮かぶ巌流島の対決 】  ( 2003.08.03 )


    約四百年前、天下無双の剣豪を決めるべく、細川藩によりその対決は画策された。
 敗れし小次郎は、その名を島の名の「巌流島」として後世に留め、生き残れし武蔵は、
 文武両道の剣聖として書画にも秀で、後世に「五輪の書」を残すことになった。

   豊前細川藩領前のこの舟島(当時)は最適の闘いの場であったと言えるだろう。対岸
 には、小次郎を悼み手向山(タムケヤマ)と名付けられた小山がある。小次郎・武蔵の碑が
 共にそこにあって、この馬関(関門)海峡の潮流の中の対決を伝承し続けている。

 
 小次郎・武蔵の対決の像

 【2003年7月】
          【 熊野・湯峰温泉での熊野古道の散策 】  ( 2003.07.27 )

   友人と熊野詣の日帰り参拝。熊野本宮・大斎原の散策の後、小栗判官の蘇生の湯
 として有名な湯峰温泉の壷湯で沐浴した。熊野の自然が実に豊かであった。

  往時、京から中辺路ル-トで40日。それを十津川ル-トで車で日帰り参拝とは誠に先人
 に申し訳ないが、"広大慈悲の路なれば"とご容赦願って、壷湯にしっかりと温まった。

 
 壷湯入浴後、温泉卵を茹でる間に撮影

 【2003年6月】
           【 憧れの尾瀬の散策 】  ( 2003.06.01 )


   尾瀬全域に降るすべての雨を集めて只見川に注ぐ途中にある三条の滝。季節がら
 豊富な水量を集めて落下するすざまじい轟音と水煙を背にして、念願の尾瀬散策の達
 成に感謝しつつ、自然と満悦の笑みがこぼれてきたことだった。水芭蕉の可憐さ
座禅
 草の面白さに魅かれ、我が国最大の高山湿原に魅了されたことだった。


   "遥かな尾瀬、遠い空・・・"、尾瀬の涼風は心の中に今でも軽やかに吹いている。

 
 三条の滝展望台で水煙を背景にして

 【2003年5月】
          【 関西吟詩文化協会・全国新人競吟出場選考会を終えて 】
                ( 2003.05.25 )
 
   詩吟を初めて約1年。(社)関西吟詩文化協会総本部主催の全国新人競吟大会への
 出吟資格者としての権利を獲得した。この1年間、毎週木曜日、会社のクラブとして真面
 目
に練習を積んで来た結果が競吟大会で認められ心から嬉しく思ったものだ。

   詩吟は本当にすばらしい。9月7日の全国大会でも、同じく乃木希典作の「金州城」を
 朗々と吟じるつもりである。

 
 詩吟の大会での入賞

 【2003年4月】
           【 詩吟の鷺恵会・練成大会にて(大阪市・福島コミュニティ-センタ-) 】
                ( 2003.04.13 )

   詩吟は素晴らしい。古人の感動を留めた漢詩に接し、未熟ながら詩吟として詠じる。
 その時、私たちは遥かに時空間を越えて、古人の感動を私達の感動としている。謙虚
 に、そして素直に、感じ得た古人の人生の感動と知恵を我が感動として、ささやかなが
 らも後世に伝えたい。それが「人が生きること=文化の体得と継承」ではないだろうか。

  "感動は人生の扉を開く。" と言う。人それぞれの人生があるにせよ、「深い感動無く
 して、不退転の決意の人生などあり得ないのではないか。」、と思うこの頃である。

 
 詩吟の練習において

 【2003年3月】 
          【 「阿波座会」(異業種交流会、大阪・阿波座「金陵飯店」) 】
                ( 2003.03.07 )


   異業種交流会(独身男女の出逢いの会も兼ねる)は、毎月1回開催。大阪地下鉄
  阿波座の中華料理「金陵飯店」でのその宴は楽しく、大変有意義である。多種多彩の
 老若男女に遇えて毎月楽しみである。安い当日の会費で、予約は特に不要でもある。

    自分の世界・文化に固執することなく、他人の多くの世界・種々の文化に触れよう。
 そのことが、自分をもっともっと大きく心豊かな人間にしてくれるだろう。

 
 「阿波座会」

 【2003年2月】 
           【 海外青年協力隊々員の帰国宴(守口市・レストラン「タジ・ハル」 】
               ( 2003.02.04 )


   会社の同期の仲間や海外関係のスタッフも集まって、特にアジアの話で盛り上がった。
 言うまでもなく現代はグロ-バル・インタ-ネットウェブの時代。情報は瞬時に世界を駆け巡る。

   交友関係・情報網・通信手段を駆使し、豊富な人脈を大切に更に拡大発展させたい。
 21世紀、こんな世界が実現できるとは・・・・、人類皆やはり親戚なのであろう。

 
 海外青年協力隊員の帰国を祝って

 【2003年1月】
            【住吉大社での初詣にて(大阪市・住吉大社)】  ( 2003.01.11 )

   初詣での恒例の和服(大島紬)姿。アジア人から純日本人に戻る心地である。古代に
 は直ぐ傍が海であったこの住吉大社において、しみじみと、往時への思いを馳せる。
 上町台地を見上げた渡来人は、そこを大きな坂に感じ(大阪)、そして寄せ来る白波を
 穏やかならぬ波(難い波)と感じたのかもしれない。大阪の地名の由来の一説である。
   年に数度、歴史的な土地、名所・旧跡を訪れて、往時を偲ぶ事が私は大好きである。

 
 初詣の住吉大社

 【2002年12月】 
             友人主催の私の誕生会(ステ-キハウス「雪峰」大阪・東三国 】
               ( 2002.12.04 )


   これまでの人生の半生を半世紀において反省する。特別な50回目の誕生日であっ
 た。親しい人たちに見守られ、ケ-キのロ-ソクを吹き消す時、なんとも面映い感じがした。
 しかし、ともかくも20世紀の後半世紀を生きて来た訳で、21世紀の前半世紀も、既に、
 生き始めている。そう、夢に向って、進んでいるのである。

   会社の親しい友人("できの良い従妹"と呼んでいる)のご主人が経営するこのステ-キ
  ハウスは、落ち着いてゆっくりとステ-キを楽しめるとても良い味の店でありお薦めしたい。

 
 50歳の宴の前に

 【2002年11月】
            【 第79回牛込Party(大阪市・京橋、レストラン「ロレ-ヌ」) 】
                ( 2002.11.30 )


    宴もたけなわ、それぞれの人がより親しく感じる人と集中的に盛り上がって話しを
 る。鍋料理のこのバイキング形式は便利で、酒類も豊富で、飲み放題の上料金も安い

 で、酒党にはことに好評である。宴会はいつも楽しい。
得意な話題がある人も、聞き
 にまわる人も共にふと日常を離れて、しばし過去と未来を語るのである。


 
 京橋での牛込Party

 【2002年10月】
            【 某大学通信教育部創立50周年祝賀会(京都市・「都ホテル」) 】
                 ( 2002.10.14 )


   少子化、大学教育の改革、学生からの逆評価、福祉関係大学等の多立のアゲインスト、
 高齢化(再教育熱)、大学教育の自由化、独立法人化、TLO進展のフォロ-の両風を受け、
 教育現場の乱気流の中、大学は混迷から生き残りを賭けて、温帯低気圧の中を
駆けて
 いく。あるべき姿について悩みつつ、諺"
親の思いと子の定め "を想起した。

 

 【2002年9月】
           【 大阪府政モニタ-経験者協議会の秋季行事:NHK大阪見学会 】
              (2002.09.14)

   私は、3年間会長を務め、今春5月より相談役に勇退した。現役の大阪府政モニタ-か
 ら積算すると12年間が過ぎていた。府政モニタ-を経験した見識ある諸先輩と交流し、い
 ろんな経験をして大変勉強になったと思う。府民となって既に四半世紀。財政再建を達
 成し、第二の故郷となった大阪府の今後の発展を祈りたい。 (著者:前列左端)

 
 NHK大阪の見学

 【2002年8月】
            【 新現役ネットの8月勉強会(大阪・飛田新地「鯛よし百番」) 】
             ( 2002.08.21 )


   戦災にも遭わず、大正建築のロマンを伝えた飛田遊郭の「鯛よし百番」(通称;おいらん
 百番)。そのコテコテ大阪文化を満載した宴会場は西成区山王3丁目で通天閣から近い。
 車寄せのこの玄関の屏風間を見ていただきたい。新現役ネットの月例勉強会は、8月
 の盛夏の夜に盛況に開催された。大広間の窓を開けると、涼風が心地良かった。

 
 大正ロマンを伝える大阪の飛田遊郭

 【2002年7月】 
            ある送別会(大阪市・京橋、レストラン「ロレ-ヌ」)

    新しい旅立ちへの送別会、それはお世話になった人達が集う感謝の宴なのである。
 歓迎会では誰もが戸惑いの中にも希望に燃えて挨拶をするが、やがて月日は流れて、
 送別会が行われないままに(本人が固辞するままに)、去ってゆく人々もいる。だが、
 くの場合は送別会は行われる。その中には義理としての出席もなくはない。でも上
記送
 別会は本当に心温まるものであった。

   送られる人の人徳、送る人たちの感謝の念に満ちていた。未来に旅立つ若い彼女
 の人生の旅路に、きっと暖かい励ましになっ
とだろう。そしてまた、半年後、中年男
 性への心温まる送別会が行われた・・・。


  出逢いと別れが繰り返されるのが人生であり、人の世のならいなのである。

 
 京橋での送別会

 【2002年6月】
          【 大阪府政モニタ-経験者協議会シンポジゥム(天満、ド-ンセンタ-) 】
               ( 2002.06.25
)

   寝屋川市市議会議員の宮本正一氏を迎えて、大阪府政モニタ-経験者協議会の第3回
 シンポジゥム「市政から府政への提言」は、天満のド-ンセンタ-で開催され盛況であった。
 市町村合併・大阪都構想・道州制と行政域の改変の動きの昨今、我々の意識は未だ
 いのではないかと思う。「
"Tax Payer(納税者)"の強さは米国に及ぶべくも無い。と言
 われるこの国日本の住民の特性は、今後変わって行けるのだろうか・・・ 。


 
 宮本正一寝屋川市議との懇談会

 【2002年5月】
   
       【 ゴ-ルデンウイ-クのバイク・ツ-リング 上越国境越え 】  ( 2002.05.02 )

   春まだ浅き上越国境をバイクで越える。日本海を見て引き返し、白嶺を越えて関東の
 平野を目指す。途中の新潟・群馬県境は必然のル-トだ。5月の紫外線は強く、日焼けし
 た紅顔(厚顔?)に紺碧・新緑・白雪が眩しい。早朝、コンビニでおにぎり・ハム・牛乳等を買っ
 て食べ、しばし休憩する。
"ああ旅をしている、自由で気ままな旅を続けている。"
 という心の底からの感動の喜びが湧き上がってくる。生来の旅好きは生涯の不治の
 (
笑い)にして、治らないようだし治すつもりもない。一人旅こそ最大の趣味である。

 
 上越国境にて

 【2002年4月】
           【親しい友人と飲む大阪京橋の屋台】   ( 2002.04.19 )

   "花金"は飲み会が多い。4月ともなると桜の花見が恋しいが、ここ京橋の路上の
  ち飲み屋では、マグロ・海栗・イクラ等の海産物と鶏肉等がてんこ盛りでワイルドな料理を提
 供する。
ビ-ル瓶は自前で取り出しのセルフサ-ビスで、いかにも大阪商法らしい。

   隣は墓地で、強い照明、強力な扇風機がガンガンと姦しいが、近くのOBPの若いOL
 も珍しがられて、結構人気のようである。
それが他にない面白さでもある。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

 《第2章》
     自己紹介

 名前/住所/愛称  Ushigome Hisashi
  /大阪府/ウッシ、モ-やん、ゴメさん、牛ちゃん。
 職業/
ボランティア
 【本職】
 元パナソニック株式会社・本社部門・勤務
 【ボランティア】
 /大阪府政モニタ-経験者協議会・事務局長(元会長、元相談役)
 Ushigome Party、四土会(独身男女の出逢いの会)・主宰者
 長崎よかもん大使
 【過去の役職】
 大阪府政モニタ-経験者協議会・会長(2000年-2年、3年間)
  佛教大学通信教育部・嘱託指導員(1999年-2002年、4年間)
  好っきゃねんアジア(アジアからの来日者との交流会)・代表代行(2年間)
 松下電器産業㈱本社美術部・部長(2000年、1年間)
  松下電器産業㈱本社詩吟部(OBP)・部長(2004年-6年、2年半)
 出身/
誕生日/
クラブ
 長崎市内(大浦天主堂・グラバ-園は少年時代の遊び場)
  /レオナルド・ダ・ヴィンチの生誕より500年後 (アントニオ・ガウディ[スペインの
 建築家]より100年後)の、19**年12月04日(木)
 小学校 郷土史、中学校: 柔道部・天文気象部、長崎南高:コ-ラス部・
  文芸部、大学:コ-ラス部・柔道部、大学院:コ-ラス(茶だんご合唱団)
 学位/研究発表
 取得特許件/資格
 【学位】
・理学士[九州大学・理学部・化学科] 有機合成化学
  卒業論文「ベンゼン環6個を持つカゴ型化合物の合成の試み」
・理学修士[京都大学・大学院・理学研究科・博士課程前期] 無機合成化学
  修士論文「The Epitaxial Growth of Magnetite by Reactive Evaporation」 
・社会学士[佛教大学・社会学部・社会学科(通信課程)] 産業社会学
  卒業論文「技術者集団の特異性に関する考察」(優秀論文賞・受賞))

・復旦大学*国際文化交流学院・結業(2013年春季) (*中国上海市)
【研究歴】  
 松下電器産業㈱の研究所で塗布型磁気記録媒体の研究開発(16年間)
 【学会発表歴】  
  日本化学会・口頭発表(磁性薄膜のエピタキシャル成長に関する内容) 
 日本化学会・口頭発表(ポリアニリンの塗布型磁気記録媒体への応用)
 【取得特許権】
  日本・外国特許権の取得件数は多数、米国特許で磁気記録研究所のベストパテント賞
***************************************************************************
 【主要な資格&検定】現在97個
カード登録証、書状登録証、手帳免許(登録)証、▲その他、$無し
01. ■普通運転免許証 H23.12.02更新
02. ■自動二輪(中型)運転免許証 H23.12.02更新
03. ■危険物取扱者(甲種)
交付番号00315 交付年月日S580422 大阪府知事
04.
毒物劇物取扱者
05. ◎特定化学物質等作業主任者(第83.113号) 昭和56年11月4日)大阪労働基準連合会
06.  高圧ガス取扱主任者(丙種化学)

07. ◎有機溶剤作業主任者(第72.32号) 交付日、昭和58年8月8日
08. ◎アマチュア無線技師(電話級)免許証番号EAFN6977(認定日、昭和56年9月18日)
09. ■ユ-スホステル活動初級指導者(第0142号) (財)日本ユ-ス・ホステル協会
10. ■防火管理者(甲種)(有資格者)(第2006-0315号) 資格認定2006.09.14
11. ■16mm映像技術認定者(No.C-0035) 2004.03.11 (大阪市視聴覚教育協議会)
12. ○詩吟二段((社)関西吟詩文化協会)(受験2006.2.19-資格認定2006.07.01)
13. ○情報検索基礎能力試験(2006-5913)(受験日2006.11.26-合格通知12.18)
14. ■秘書技能検定2級(秘82 第04065-230257号)(受験日2007.06.24-合格)
15. ○国内旅行業務取扱管理者(19-39-5911)(受験日2007.09.09-合格.11.01)
16. ■メンタルヘルス・マネジメントⅡ種(認証番号070420001630)(受験2008.03.16-合格04.25)
17. ○ISO14001内部環境監査員(第E0806-13号)(資格認定2008.06.18)
18.   国内旅行地理検定(2級)受験番号99000100013 (受験2008.06.08-合格07.09)
19. ■食生活アドバイザ-(3級)(証20-3-2 第30923号) (受験2008.11.16-発表12.15)
20. ■環境社会(eco)検定(証書番号5-1-10794) (受験(第5回)2008.12.21-発表
21. ○QC検定(3級) (受験2009.03.22-Web合格04.27) 合格証091-302811
22. ■ビジネス文書検定(3級) 合格証 文 45 第04206-330050号
23. ■なにわなんでも大阪検定(3級) 認証番号30901201 (受験(第1回2009.06.21)
24. ■ビジネス会計(3級) 認証番号090530000807 (受験日2009.07.19)
25. ■第一種衛生管理者(国家資格) (交付日2009.10.02)免許証第60003426201号
26. ■神戸学検定(初級) 証書番号 証03-3第0149号 ( 試験日2009.09.27 )
27. ■環境カオリスタ 認定No.091104451(認定日2009年11月25日)
28. ○経営学検定(初級) 第A-910087号 (第14回経営学検定、試験日2009.11.29)

29. ■ビジネス実務法務(3級) 証書番号 26-3-06995(第26回試験、2009.12.13)
30. ■薬学検定(4級) 受験日2010年6月6日 (100点満点中、98点)
31. ■国語力検定(3級) ID番号0110232、知識133/150点、理解87/150点
32. ■福祉住環境コ-ディネ-タ-(3級) 証書番号24-3-03886 (試験日2010.07.11)
33. ■上級救命講習修了証(救第6222号)、平成22年9月9日交付(大阪市消防局長)
    ■普通救命講習修了証(第488号) 寝屋川市消防署長 平成30年7月7日
34. ○食品衛生責任者講習修了証(第22-7786号)、受講日2010.11.05
35. ■応急手当普及員認定証(救第9866-1号)、受講日2010.11.19-21大阪市消防局長
36.  キャンプインストラクタ-(大阪府キャンプ協会、合格日2011.05.10)
37. ○婚活アドバイザ-(お見合い業務研修・修了、㈱結婚情報センタ-、2011.05.08)
38. ■日本常識力検定(3級)、81点/100点満点、認定番号第114303005号、H23.06.05
39. ○地図地理検定(一般)、第15回、84点/100点満点、20110704P27004
40. ■世界遺産検定(3級)、82点/100点満点、認定番号311101617K、2011/7/25
41. ○歴史能力検定(4級 歴史基本)、90点/100点満点、第20111000230222K号
42. ○ことわざ能力検定(4級)、82点/100点満点、11-8-104、受験日2011.08.07
43. ○社会常識能力検定(2級)、88点/100点満点、証第0176号、第9回検定2011.09.24
44. ○天文宇宙検定(2級、銀河博士)、76点/100点満点、211010350061、2-2-000389#
45. ○ニュ-ス時事能力検定(2級)、63点/100点満点、第17-2-00289号、H23/12/5発行
46. ■市民ボランティア検定(2級) 登録番号61、資格取得日2012/3/27
47. ■消防設備士(乙種六類) 筆記70点、実技74点、交付番号00113 大阪 H24.05.25
48.  海外旅行地理検定(3級)、84点/100点満点、受験番号99000100010、2012/7/9
49. ○日本語検定(準2級)、正解率75.3%、第12122000767号、認定日H24.07.04
50. ■料理検定(3級)、78点/100点満点、認定番号1203100299、H24.06.17受験
51. ■(寝屋川) 災害ボランティアセンタ-スタッフ、2014.09.28取得
52. ■(寝屋川市) ゴミ減量マイスタ-(初級)、第66号、2014.09.30取得(寝屋川市長)
    中級に昇格 第66号、2018.08.01取得(寝屋川市長)
53. ■赤十字救急法救急員養成講習・受講(平成22年3月19日) 日本赤十字社大阪府支部
54. ○事業場内メンタルヘルス推進担当者(基礎コ-ス)、受講2014.11.05、修了証明書H26.11.05
  〇事業場内メンタルヘルス推進担当者(アドバンスコ-ス)、受講2015.03.05、
    受講証明書H27.03.19
55. ■美術検定(4級)、88点/100点満点、交付2015.01.01、資格No. 4140200077
56. $(四条畷市)識字・日本語ボランティア資格、2014年11月受講終了)
57. ○(赤十字)健康生活支援員養成講座、支援員第27-14-0242号( 2014.12.10 )
58. ○工業英語検定(3級)、合格、Certificate No. 117447 020-3-002、2014.01.24受験
59. 〇販売士(3級)、82/73/85/80/76(平均79.2点) 証75-3第04320号、平成27年02月18日
60. ○測量士補(国家資格) 合格番号 大阪府 補 第0363号
61. ■カラ-コ-ディネ-タ-(3級) 認証番号38-3-01423、受検日2015.06.21、大阪商工会議所
62. ○囲碁五級(日本棋院)、級位認定大会2016.10.02
   ○囲碁三級(日本棋院)、認定日(平成29年07月02日)
63. $Gate Keeper 養成研修の受講(2016.12.06、寝屋川市健康保健センタ-)
64. $認知症サポ-タ-養成研修の受講(2017.02.02、寝屋川市健康保険センタ-)
65. ○ワガヤネヤガワ検定(寝屋川検定) 2017.02.28 得点83点/100点、順位150人中30位
66. ○日本化粧品検定(3級) Web受験&合格日2017.03.13 認定No. 17300374538
67. ○ビ-ル検定(初級) Web受験&合格日2017.04.14 20問全問正解 認定書No.3381
68. ○日本酒検定(初級) Web受検&合格日2017.14.18 20問中19問正解 認定書No.15185
69. ◎介護予防サポ-タ-(寝屋川市) 講習会受講日2018.01.15 サポ-タ-登録番号1089
70. ○日本城郭検定(3級)合格、73点/100点、順位134位/424受検者、317110470139号
     (受験日2017.11.19)
71. ■○AED管理士 会員番号10720 認定日平成30年6月1日
72. ○寝屋川市スポ-ツインストラクタ- No.18-3 認定日2018.07.12
73. ▲楽譜検定8級(19問正解/20問) 2018.08.02 日本音楽教育振興会
74. ▲エネルギ-検定(26問正解/30問) 合格証 7-00557 2018.08.02 エネルギ-検定委員会
56. ▲P検5級(29問正解/30問) 2018.08.06 合格証無し、NET受検の成績表の写真あり
76. ○(寝屋川市)在宅支援員(23問正解/25問) 2018.10.25
77. ■色彩士検定4級、証明書番号418001323、得点80点、色彩士検定委員会20181220
78. ■○茶道文化検定4級、認定番号41100076、得点59点(60点満点)
    認定日平成30年12月19日、一般財団法人今日庵 茶道資料館
79. ▲人事評価者検定(初級) Web受検(22問正解/30問中) 第2017-人評初ー275号
   認定日2019年01月07日 特定非営利活動法人 人事コンサルタント協会
80 ○木力(モクリョク)検定(初級) 合格証番号 B0008284 「木ムリエ」 2019年1月8日
  ○木力(モクリョク)検定(中級) 合格証番号 10003240 「ウッドコンシェルジュ」 2019年1月9日
    14問正解/20問中、Web受験 木力検定委員会
81.○タイル検定(二級) No. 00002600 一般社団法人 全国タイル業協会 2019.01.10
82.○安全運転能力検定(3級) 認定番号第28950号 2019.01.11 16問正解/20問中
    Web受験 一般社団法人 安全運転推進協会
83.○相続総合コンサルタント(初級) 合格証(15問正解/20問) 2019.01.28
84.○昆布検定、Web受験 全15問正解。 2019.02.01 こんぶネット事務局
85.▲マナ-検定準3級、Web受検、70/100点、2019.08.30
86.■宇治茶ムリエ、認定日 令和元年(2019)9月4日、認定第01163号、宇治茶の郷づくり
   協議会会長、京都府山城広域振興局局長
87.▲姿勢診断士(5級)、Web受検、認定日2019.09.017  S1901065、日本姿勢検定協会
88.▲化粧品成分検定3級、9問正解/10問中、2019.09.25
89.○高齢者入浴アドバイザ-、20問全問正解、認定日2019.09.26 認定No. EBAA-000829
90.■ハワイスペシャル検定(初級)、76点、認定日2019.10.14
91.▲ビジネス実務与信管理検定(3級)、Web受験日2019.10.**、得点率73%(合格)
92.○パソコン能力評価試験、プレゼンテ-ション部門パワ-ポイント4級、
   合格銀号 2019/10/22-PowerP410888

93.▲ハイヒ-ル検定3級、Web受検日2019.10.23、26問正解/30問、(社)日本ハイヒ-ル協会
94.▲EF英語テスト、62点、中級者に認定、Web受験日2019.10.24 www.efjapan.co.jp
95.▲任意後見コンサルタント補 (初級) Web受験日2019.10.29、得点85点、合格
96.○睡眠検定(入門) Web受験日2019.10.31、得点80点、合格、(社)日本睡眠教育機構30
97.○どぼく(土木)検定(一般ネット)、17問正解/20門中、合格、Web受験日2019.11.01
98.▲柿検定、Web受験日2019.11.03、得点60点、合格、けんていDo !
99.▲書道楷書5級、行書6級、第465回一般部競書成績、2019年10号記載
100. (予定) 中国百科検定、受験日2019.12.10
 
≪その他の資格&検定(現在4個)≫
01.○数学検定(2級、1次)、認定日2010.08.04、(財)日本数学検定協会
02.
営業力強化検定、受検日2019.10.31、30問正解/50問中(60点)、サ-ティファイ
03.▲冠婚葬祭検定、Web受験日2019.11.12、得点80点、合格、けんていDo !
04.▲しきたり検定、 Web受験日2019.11.12、得点88点、合格、けんていDo !
備考
 射手座/AB型、Rh+(献血回数=166回) 信条"人生は魂の進化のための道場である。"
 嗜好品/お酒+磯の幸+名曲 非嗜好品/禁煙(煙草は健康に悪いので吸わない)。
  性格/姿勢
 /モット-/愛読書
 明るく何事にも前向き、数値目標に挑戦、綺麗好き、ややせっかち
 /人生を真面目に、楽しく、人のために生きる[ 人生前向き ]
  /昨日の夢は、今日の目標、明日の現実[ ロケットの父:ゴダ-ドの名言]
 /司馬遼太郎作: アサヒ文庫「街道をゆく」(全43巻)の他、著作
  主な趣味/所属会 
 /関心事/生活姿勢
 旅・海外旅行・バイク(90cc)・歴史散策・随筆・油絵・音楽(歌唱・楽器
 演奏・作詩・作曲)・詩吟・語学(英・韓・中・独)・囲碁・将棋・麻雀・PC
  (Windows XP)・バソコン日記・マジック・登山・デジカメ写真・読書・社交
 ダンス・宴会企画・料理・短歌・キャンプ・カラオケ・国際交流・縁談の世話・
 地図鑑賞・料理・和服での古都散策・海釣り、etc.
  /(社)学士会(旧帝国大卒業生のOB会)・会員
 関西大阪長崎県人会・会員
 長崎よかもん大使
  サロンドソラ(Salon de SORA、神戸での異業種交流会)・メンバ-
 「阿波座会」・元メンバ-
  (社)関西吟詩文化協会(鷺恵会)・元会員
 「SPRITの会」・元会員
 天通会・会員
  /21世紀のアジアの発展・生命科学の進歩・世界遺産を巡る旅。
 /遅寝早起、寸暇を惜しむ、禁愚痴、約束・時間は早めに守る。
 好きな事/嫌いな事
 好きな人/嫌いな人
 【好きな芸能人】
 【嫌いな芸能人】
 酒+磯の幸+名曲+知的でシャレタ会話/ 時間を守らないこと。
 明るく元気で前向きで楽しい人/ネクラな人・無口な人
  【好きな芸能人】
 李 英愛(イ・ヨンエ)(韓国の大河ドラマの主人公チャングム)-すべて。
 岡江久美子-前向きな姿勢、主婦業を基本とした自己実現の人。
 田中美佐子-日本人女性の良さのすべて兼ね備えてい人。
 黒木瞳   -九州の香り、今をときめく人の輝き、天性の才能。
 林 隆三  -シャイな雰囲気の良き兄貴としての同世代の共有感。
  【嫌いな芸能人】
 神田うの  -わがまま女の典型のイメ-ジ。
日本百名山の登山
(目標50山中31山)

 [ ] 内は未踏峰
赤字は登頂年月日
北海道地方-
東北地方 -岩木山・月山・蔵王山・八幡平(2007.04.30)、那須岳(2011.08.14)
関東地方 -筑波山
中部地方 -立山・美ケ原・霧ケ峰・蓼科山・乗鞍岳・御嶽・八ケ岳・
         富士山・北岳・白山(2004.08.21)・焼岳(2006.08.05)・
         草津白根山(2007.04.27)
         四阿山(2006.10.20)・浅間山(2006.10.21)

近畿地方 -伊吹山・大台ケ原山
         大峰山(山上ケ岳2004.08.08、弥山&八経ケ岳2010.05.15)
中国地方 -大山
四国地方 -石鎚山(1994)、剣山(2005.08.07)
九州地方 -九重山・阿蘇山・開聞岳、祖母山(2006.06.17)、
          霧島(韓国岳)(2004.02.21)
その他の名山の登山 新日本100名山-釈迦岳(大峰奥駈道、1799m)(2006.12.02)

【受賞・対外発表・資格獲得等の記録】
時代
賞・資格の内容
授与機関・主催団体
内容
小学校
作文(努力賞)
長崎市教育委員会
長崎のおくんちについての内容
中学校
読売科学賞
読売新聞社
流星の研究に関する内容
高校
校内弁論大会:2位
各合唱コンク-ル入賞
県立長崎南高等学校
西部合唱コンク-ル、等
演題:「現在を如何に生きるべきか」
「大地賛頌」、等
大学
大学院入試合格
京大(理)・阪大(理)
固体化学・有機化学系
大学院
学会発表
日本化学会
テ-マ:磁性薄膜のエピタキシャル成長

会社
賞・資格の内容
授与機関・主催団体
内容
"
各種国家試験資格    (上記に記載)
"
学会発表 日本化学会 導電性高分子の磁気記録媒体応用
"
Best Patent 賞 社内:磁気デバイス研究所 対象:同上の発明内容の米国特許権
  Patent Number; 5,523,153
"
優秀卒業論文賞 佛教大学通信教育部 「技術者集団の特異性に関する考察」
"
献血150回表彰 日本赤十字社 AB型、Rh+
"
16mm映技認定証 大阪市視聴覚教育(協) 筆記試験で、30問中29問正解で合格
"
詩吟:入賞
詩吟:入賞(初級)
詩吟:初段に昇段
詩吟:3位入賞
詩吟:二段に昇段
全国新人競吟大会予選
第38回松下社内大会
得点84点(100点満点中)
初級参加者16名中
合格
吟題「金州城」、全国大会出場権獲得
吟題「金州城」(乃木希典)
吟題「月照墓前作」(西郷南州)
吟題「爾霊山」(乃木希典)
吟題「示塾生」(廣瀬淡窓)

 【 2001年盛夏 北海道・利尻島のペシ岬にて、利尻富士を背景にデジカメで撮影 】

                        利尻富士

  北海に浮かびし孤高秀麗なる北の城山  地殻より湧出したる海上の三角富士
  圧倒たる存在感、受容する峻厳の急頂  北国の旅人を慰撫する北限の美関門


                           利尻島

    アイヌ語で「リ・シリ」(高い山がある島)の意味で、遥か遠望より水平線上に突出して見える。
  周囲50数㌔、レンタル・ミニバイクで一周が僅か70分。熊や蛇が棲息せず安心して登山できる山。
  北海の幸(ウニ・コンブ島)が豊饒な夢の島で、サハリンを望む最北の百名山は全国に遍くも有名。
  なだらかな隣島の礼文島を従え、海島繁殖地ポンモシリ島に、自然の楽園を垣間見る。


 

                    On my own " the Great Journey "

   My hot desire is arounding not only the sweet country; Japan but also Asian countries.
  I was born in Nagasaki city and grown up there; the deepest west prefecture of Japan.
  Now I remember the memory that I used to long for my accomplishing taking trips all of
  Japan. As soon as I entered a university, I started a small great journey for myself alone.
  I've already passed 47 nights in all 47 prefectures of Japan during my single life.
  Now I still have only one island; Miyakojima to long for going, but have already given up.
  Anyway I indeed would like to continue completeing out the great journey in order to
  realize the soul of Japan and Asia with some excellent friends where I might encounter
  on the way of roads of my own the Great Journey. Needless to say, "tabi"( what we call, 
  trip or journey ) is what I'm very interested in. Indeed, that must be the basement of my
  life. "Life is a tabi", therefore I would like to continue my own trip or journey from now
 on.


                                         徒然草243段(最終段)に思う

        八つになりし年、父に問ひていはく、「仏は如何なる者にか候ふらむ」といふ。
     父がいはく、「仏には人のなりたるなり」と。また問う、「人は何として仏には
     なり候ふやらむ」と。父また、「仏の教へによりてなるなり」と答ふ。また問ふ、
     「教え候ひける仏をば、なにかをしえ候ひける」と。また答ふ、「それもまた、
     さきの仏の教へによりてなり給ふなり」と。また問ふ、「その教えはじめ候ひ
     ける第一の仏は、如何なる仏にか候ひける」といふ時、

     父、「空よりやふりけむ。土よりやわきけむ」といひて笑う。
     「問ひつめられてえこたえずなり侍りつ」と、諸人に語りて興じき。

                        ( 転載、改訂「徒然草」角川ソフィア文庫 P186 )

         受験時代、しばし安らいだ古典「徒然草」が、今この年になって味わい深い。
     昔、故郷長崎で、遥かに亡き父とこの最終段のような会話があり、懐かしい。
     "宇宙の果ては、深海の底はどんな?"と、次々に尋ねる質問少年の息子に、
     父は、「お前の質問はいつもスケ-ルが大きいな~・・・・」と目を細めていた。
       世代を越えて、いつの時代においても、このような父と幼い息子との男同士
     の会話は、少年の心の中にある「未知の世界への知的好奇心の炎」を燃え
     上がらせる。

       学び、考え、そして創造する ・・・・・・・
      レオナルド・ダ・ヴィンチのように、科学・技術・芸術の世界で・・・・・・ 。


++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

 《第3章》

         私の趣味の世界

   人生に趣味あってこそ、人生の味わいあり。趣味なき人は悲し。趣味は人に感動を与
 え、努力の大切さを教え、よりも豊かな交友関係を築いてくれる。趣味人生こそ素晴ら
 しい。 旅、海外旅行、歴史散策、宴会、バイクツ-リング、楽器演奏、歌・カラオケ・作詩・作曲、
 油絵、詩吟、英会話、韓国語会話、キャンプ、料理、登山、囲碁、人の縁談の世話、国際
 交流、海釣り、資格取得、和服散策 ・・・ 。
  以上の趣味を、下記に掲載しています。


 【旅】  人生は旅である。旅こそ人生であり、私の最大の趣味である。一人旅を続けなが
    ら、内なる自分との”心の旅”を、生涯をとおして続けている。


   福岡県・柳川の北原白秋の生家にて。帰去来の辞を詠じ、同じ九州人として深く感動
 した。めしいし老後にどのような故郷:筑後の情景が去来したことだろうか。
   [めしい : 失明者]

 
 
    この地球上の自然の営みを眼の前にして、"人生は短し、されど自然は悠久"を実感
 する。湧出せし熱き茶褐色の奇異なる山塊。されどこの活動こそ"生きている地球"の証
 左である。 [ 2002年夏、北海道・昭和新山にて。 ]


 

   南紀串本の橋杭岩である。弘法大師が掛けられたこの橋杭岩の向こうには、民謡で
 有名な大島があり、この写真の背景にも見える。1994年の一人旅である。


 

 【海外旅行】 私の海外旅行はアジア志向。安・近・短の海外旅行だが、21世紀に大いに
        発展するアジアの風に吹かれると、いつも心が浮き立つのである。


   大中国の旅、シルクロ-ドの東の起点-長安(現在の西安)で旅情よく駱駝に乗ると、遠く
 遠く
遥かなる敦煌・カシュガル・サマルカンドを夢想する。ひたすら遥かなる西方への思いなの
 である。
(備考: この思いが原点となって喜多郎の「シルクロ-ド」の曲に私は作詩した。)
   この時、この駱駝君が私を乗せて立ち上がろうとしながら、"こいつなんと重い奴っち
 ゃ!"
とでも言いたげに、何度も何度も私の方を振り返って見たのが、実におかしかった。

 

   シンガポ-ルからフェリ-で1時間以内。インドネシア領のビンタン島はアジアでも屈指のリゾ-ト地
 だ。水泳・水上バイク・ゴルフ・カラオケ・エスニック料理に興じると、北極星が水平線のぎりぎり
 の所に認められ(北緯1度)。赤道直下である事を、なるほどと実感させてくれたのだ。


 

   バリ島の日本料理店にて。お店のバリ娘たちとナイスショット。日本料理は美味しかった。
  海鮮料理に舌鼓を打ちつつ、遥かはるか北方の祖国日本をふと懐かしく思った。

 

 【歴史散策】 日本人に生まれて日本の歴史を現地に行って直接に学ぶ。現場に道あり、
        現地にこそ歴史の舞台の余韻が残っている。

   近江の国、織田信長の安土城の天守閣跡。歴史散策を兼ねた楽しい合ハイであった。
 (牛込Partyの行事として開催)  男性陣 : 松下電器  女性陣 : 三菱電機
 4人が持っている用紙に記載の文字は、「近江国 信長の 安土城 天守閣」である。

 

    肥前国: 佐賀城址にて。質実剛健で有名な佐賀・鍋島藩は、城郭もやはり質素であっ
 た。
佐賀平野は広い。昔、次郎物語、現在、気球大会。豊かなクリ-クは広くてのびやか
 だ。
佐賀を揶揄してブレ-クした芸人=はなわ、は実は最も佐賀を愛している人なのかも。

 

 【宴会】 人生に宴会は必須であり、人と触れ合う喜びと素晴らしさは無上のもの。
   「好っきゃねんアジア」の恒例のクリスマス・パ-ティ-での、民族衣装(和服)の私。 自慢じゃ
 ないが良く似合っている。私の好きな写真の1枚でもある。
 (於、大阪国際交流センタ-)

 

   お祝いの宴は、いつの時代でも楽しいもの。この日から毎日パソコンで日記を綴ってい
 る。
我が人生の1/3の記録は、しっかりと電子的記録(パソコン日記)として残ることにな
 る。
誕生日を契機に不退転の決意で何かを始める。その何かこそ大切だと思う。

   開宴前のしばし静寂な時間。さて、これからどんな話どんな感動が待っているのだろう
 か。
日頃話さない人、いつも話している人でも、宴の会話では新しい文化に触れる喜びが 
 ある。
宴会は生来好きである。そこには、常に何がしかの感動があるからである。

 

 【バイク】 フェリ-&バイクで日本全国どこへでも行ける。歴史散策にはバイクは最適である。

   日本史上あまりにも有名な、三河・長篠の古戦場(織田・徳川連合軍 vs. 武田軍)で
 ある。
馬防柵は火縄銃の固定にも有用で、それ故に弾丸の命中率も向上し、武田軍は
 壊滅した。
バイクはまさに歴史散策には最適で、私がバイクを愛用する最大の理由である。

 

   和歌山県の護摩壇山へ向かう道。深山幽谷の感がある。山また山の紀伊山地である。
 この「奇絶峡」は新緑の頃に、また訪れたいものである。平家の隠れ里:地名は文字通り
 「平」(タイラ)。そこにある墓陵に登る時、私は遥かに日本史は源氏の歴史と思うのである。

 

   四国一周の旅にて。童謡「叱られて」が生まれた高知県のある町にて。雨中での走行。
 カッパの着用は蒸し暑いが、バイクツ-リングにはなくてはならぬもの。
 「叱られて」は名曲である。歌詞中の"コン と狐が泣きゃせぬか・・・"、は良い感性である。

 

 【楽器演奏】 楽器は楽しい。ポ-タ-ブルな楽器の演奏は、宴会で主役にさせてくれる

   ピアノは楽器の王様であり基本中の基本の楽器である。Portable(持ち運び可能)では
 ない
が、日本中の多くの家庭にあり、そのことは日本の音楽環境の高さを物語っている。
 思えば
高校時代、コ-ラスの練習の前後に、ピアノを自己流で練習したおかげて、こうして好
 きなアレンシ
を付けてピアノを楽しんでいる。友人・知人のお宅にお呼ばれした際、または公
 共の施設を
利用した際、ピアノを弾くと楽しい音楽のひとときが得られる。実に嬉しい限り
 である。
世界の歌曲を弾くが、ショパンの「別れの曲」は特に好きな曲の1つである。

 

   牛込Partyでの出し物で、フル-ト演奏。 曲目は「故郷」 "兎追いしかの山、・・・"。
 この3番の歌詞「志を果たして、いつの日にか帰らん ・ 」 いつもいつも心に響く。
 日本人の心に沁みるこの歌詞は、作詩家の故郷の信州で醸成されたのかも。

    「故郷」の 曲にし聴けば 眼閉じ 心もしのに 幼き思ほゆ    作 牛込 恒

 

   好っきゃねんアジアの「浴衣まつり」で、フル-ト合奏。曲は「ロ-レライ」だったか。お寺での
 フル-ト演奏とは異色な催しとなった。お相手はお寺さんのご内儀。(大阪市内、大雲寺)
 フル-トはやはりお洒落である。下手でもおシャレである。甘い音色が本当に暖かくやさしい。

 

   大阪城公園でのピアニカ演奏。曲目は、私の大好きな「ダニ-・ボ-イ」。
  "わが子よ 愛しの汝を ・・・"、というこの世界的名曲は私がとてもとても好きな曲であ
 る。
スコットランド民謡が本当に日本人の心に沁みる。島国文化の共通性なのであろうか。

 

    関西吟詩文化協会鷺恵会の新年会(大阪リバ-サイドホテル)で、頼まれての音楽パフォ-
 マンス。
喜多郎の名曲「シルクロ-ド」のテ-マ曲に、私が僭越ながら作詞して歌いかつピアニカ
 演奏
をすると、歌詞の良さ、声の良さに、大変好評だったようでした。
   日本人なら必ず憧れるシルクロ-ドについて、私の作詞した歌詞は、本ホ-ムペ-シ゚には、
 「これまで
の所産」のコ-ナ-に掲載しています。是非、ご覧下さい。

 

   美術部のスケッチ・ハイキング(武田尾温泉)でのリコ-ダ-演奏。曲目は、「アニ-・ロ-リ-」。
 小学校の下校時の放送曲はこのアニ-ロ-リ。誰からも慕われた英国の実在の女性であっ
 た。
大好きな曲である。

 

   キャンプでインドネシア(バリ島)の民族楽器演奏。横笛の音は素朴で太い。曲目は有名な
 「野バラ」。
フル-トが吹けると、他の横笛は簡単に吹ける。縦笛より横笛の方がやっぱり
 カッコいいかも。
民族楽器は更にかっこいいかも ・・・・ 。

 

   夏山の別荘の夜。ハ-モニカ-で吹く曲目は、やはり、スコットランド民謡が多い。複音式の
 ハ-モニカ-は音が広がってゆく。最も簡単で、ベスト・ポ-タブルな楽器の代表であるハ-モニカ-
 は、最も手軽な楽器である。

 

    中国の桂林で買った二胡(胡弓)を、上海の街角で弾いている。簡単だが練習は必要
 だ。その哀愁をおびた調べに、日本人は痺れるだろう。富山県・八尾町の「越中おわら
 風の盆」(毎年9/1-3)では、この二胡の調べが心に染み入り、しだいに泣けてくるのだ。

 
 

 【歌・カラオケ】 歌・カラオケは人生の必要条件。酒・歌なくして何んぞ人生ぞ。

   職場旅行: 岡山県・牛窓の民宿での熱唱。曲名は、もはや忘却の彼方に ・・・・ 。
 8年前のパフォ-マンスである。

 

   カラオケ18番、マイク2本を持っての一人二役のデュエット。曲目「男と女のラブゲ-ム」
 静岡県嬬恋での電機連合の技術者フォ-ラムの宴会で披露したら、一躍有名になってしま
 った。

   [写真は無し]

   カラオケ・Boxでのカラオケ風景。職場の仲間と楽しいアフタ-5だ。大阪・京橋にて。カラオケの
 最後の曲は、しばしば「Tunami(サザンオ-ルスタ-ズ)」であった。

   [写真は無し]

 【油絵】 油絵は素晴らしい。世界の中の一瞬の美を切り留める、まさに至福である。

   奈良市・東大寺境内の猿沢池にて野外スケッチ。晩秋の奈良は、やはり古都の風情。
 油絵は、毎週描いて約4~5回、1ケ月程度で完成する。乾かして描き、乾かして描きだ。

 

   奈良県・吉野山・奥千本の西行庵の写生。800年前の往時を偲び、私も西行法師の
 よう
に、「願わくば花の下にて春死なむ、その如月の望月のころ」という心境だ。

 

   絵画は、観る喜び・描く喜び・出展する喜び・そして人に与える喜びがある。絵画も、
  水彩・油彩・水墨画、また、切り絵・貼り絵・版画もあるだろう。しかし、しばらくは、描き
 直し
が可能な油彩(油絵)こそ、私は十分に楽しみたいと思っている。
   やがて老境に至り、枯淡の水墨画にひかれてゆくにせよ・・・・・ 。

 【詩吟】 詩吟を通じて、古え人の感動に触れる時、私もまたひとり時空の旅人。

   関西吟詩文化協会・鷺恵会の総会・競吟大会に初出場。当日の松下支部の皆さんと
 師範の先生。私の吟題は「九月十三夜」(上杉謙信作)であった。

 

 【英会話】 世界の人口の1/6は英語を日常語としている。英会話はもはや常識。

   大阪・梅田のブリテッシュ・パブ「Pig&Whistle」で、友人の南アフリカの物理学者と英会話が
 弾む。
彼は日本語はほとんど話さないが、だから、私の英語の勉強にはありがたい。

 

   東北の遠野ユ-スホステルで、英国人旅行者と。彼は日本文化に大変な興味を持ってい
 た。
民話の里=遠野は、何度行っても落ち着く里で、朝の朝霧と雲海が素晴らしい。

 

   香川県・屋島ユ-スホステルで知り合ったフランス人夫妻(実際は入籍はしていないとか)。
 日本語
が解らないお二人に対し、長時間延々と英語だけを話すのはやはり疲れるもの
 だった。


 

 【韓国語会話】 ハングルを少し勉強すれば、韓国は近くて最も近い国になるのです。

   中央の素敵な韓国女性は、私の韓国語の先生です。韓国釜山のご出身。高麗茶道にも
 お詳しい。昨年、日韓文化交流について講演をお願いしました。

 

  こちらは私の友人の女性は中国人。、でも韓国語も話せます。(以下、韓国語へ翻訳)
      [ イ ナエチングエ ヨジャヌン チュング-サラミエヨ、クロナ ハングンマルド ハルスイッソヨ ]

 

  以下は、私が作成した簡単な「韓国語入門のテキスト」」

 
 【キャンプ】 大都会暮らしの日常を離れ、自然に親しむキャンプは心体の清涼剤。

   枚方市野外活動センタ-でのキャンプ。20歳前後の若いカウンセラ-がお世話をしてくれます。
 キャンプは楽しい。特に、新緑の5月と、名月に出会える9月は、ベストシ-ズンである。
   かなり昔からキャンプをしているが、デジカメの日付は間違っていて、今から数年前の
 キャンプ。 枚方市野外活動センタ-。牛込Partyの行事。

 

   キャンプ・ファイヤ-の夏の夜、みんなで花火もしたあの頃の懐かしい場所は ・・・・ 、
 松下電器労働組合の施設「ユニトピア篠山」(兵庫県)だった。浴衣姿はウッシ-さん(私)。

 
 【料理】 時間があればゆっくり料理を作りたい。化学屋さんだから料理は上手いは
      ずだよね。創作料理を目指すが、魚料理・卵料理・汁物&椀物が好きである。
       刺身や磯の幸は欠かせない。特に、海のパイナップル「ホヤ」は珍味です。

   料理は楽しい。カレ-やだし巻きの他、故郷長崎の「長崎ちゃんぽん」もよく作ります。
 冷やしソ-メンも作りますが、麵ツユは鶏ガラがベ-スでしょう、勿論、金糸卵や海苔も。
   おじさんたちとの男の料理。皆さんなかなか上手いものです。バ-ベキュ-とか、etc.
      (大阪府政モニタ-経験者協議会の行事)

 

 【登山】 一生の間に日本百名山は30数峰程で終わるかもしれない。しかし、山は良し。
      登頂の達成感もさることながら、登った者でないと解らない感動もあるのだ。

   木曾・御嶽山の8合目。これからいよいよ頂上を目指す。いよいよ、正念場。でも、
 オッサン
とオバサンですから、マイペ-スで行きますか。 
   頂上付近の池。素晴らしく澄んでいて美しい。突然に霧が晴れ、なんと幸運だったこ
 とか。
素晴らしい眺めだった。山は良いね~。山は楽しいね。木曾御嶽山の一の池。

 

   終に登頂。やったね。小雨と霧で、噴火口も見えないが・・・・・ 。いつか、近年噴火
 した
噴火口を見てみたいと思っているが、2回の登頂で2回とも残念だった。

 

 【囲碁】 将棋が殺戮戦争なら囲碁は経済戦争。穏やかなゲ-ムであり老後に最適。

   会社の先輩に白で打たせてもらった。さて、結果は?  既に忘却の彼方に・・・・・・。
 将棋より囲碁がやはり好ましい。"王手、参ったか"という将棋は高齢者には馴染まな
 いのだ。

 
 【人の縁談の世話】 20年目を迎えた「独身男女の出逢いの場(通称;牛込Party)」
             では16組が成婚し、本当に楽しい出逢いがたくさんありました。

   京都の町でナイト・ライフ。男性陣-松下電器、三洋電機、女性陣-松下電器、三菱電
 機
の皆さんで、西陣織物会館や夜の木屋町での宴会と散策をしました。

 

 【国際交流】 国際交流は素晴らしい。特に、異国の地での饗宴はなお更感慨深い。

   中国・無錫市の無錫飯店で、「無錫旅情」を歌う。松下労働組合主催の「スコ-レ・クル-
 ジング」
 (高貴優雅の旅)に大勢の仲間と共に参加し、最高に楽しく有意義な国際交流
 を行った。


 

 【海釣り】

   海釣りを始めてまだ2年。ポイントが分かるようになった。

 

 【資格取得】

   日々の努力の確かな証として、検定試験の受験と合格は自分に自信がつく。

 

 【和服散策】 大島紡を着ての初詣や古都の散策は、よくぞ日本男子に生まれけり。


   京都・知恩院(浄土宗の総本山)にて。和服はいいね。自然と心までもが古風になって
 くる。
初詣や古都散策では、いつもながらしみじみと、日本人とは何かについて考える。

 

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

 《第4章》
       これまでの所産

 【NHK歌壇への短歌の投稿の記録】

    《選者》 三枝昻之

  ◆とうきょうと 叫んだ昔の 憧れは 美しき空 雲雀の歌に        2005年06月  選外

  ◆通学の 夢を果たして 郷関の 駅舎を背にし 我が家を出ずる  2005年07月  選外

  ◆九州の 阿蘇中岳の 白煙は 天に落ちゆく 一条の滝       2005年08月  選外

  ◆帰省して 母の元気の 訳を知る 故郷の味 食卓の朝       2005年09月  選外

  ◆コンビニが 溢れる洪水 消えて行く 近所の絆 ゆかしき商店   2005年10月  選外

  【 My Essay(寄稿文)のリスト[ 抜粋 ] 】

タイトル
掲載雑誌等
上梓年月
備考
01 深夜タクシ-の相乗りのすすめ 読売新聞投書欄「気流」 1992年08月
02 私の人生観 文芸同人雑誌「多島海」 1993年04月 原稿16枚
03 願い実現の小さな歩み OFMCO(1994年号) 1994年02月
04 関西支部長を引き受けて 一族の会誌「長助会」第2号 1995年04月
05 東アジアの東風 雑誌「アジア万華鏡」 1996年04月 注2
06 南の島シンガポ-ル OFMCO(1997年号) 1997年07月 注3
07 中国桂林に魅せられて OFMCO(1998年号) 1998年07月 注4
08 人権博物館と「百番」の探訪記 OFMCO(1999年号) 1999年07月
09 生涯学習のすすめ OFMCO(2000年号) 2000年07月 下欄記載
10 縁や運について思うこと 佛大通信(2001年11月号) 2001年05月 下欄記載
 注1)  OFMCO: 「大阪府政モニタ-経験者協議会」の機関紙

         生涯学習のすすめ

   健康寿命70年の時代。健康で豊かな老後の為に、趣味・ボランティア・通信教育などの
 余暇活動が盛んです。特に定年を契機として通信制大学に入学する人も多く、社会学
 や社会福祉学、仏教学を学ぶシルバ-世代をよく見かけます。
   勉学による脳の活性化は、老化による神経細胞の減少以上に細胞間の連携を増加
 させ、より豊かな教養の獲得と人格の練磨を実現させます。美しく豊かに老いるには、
 常に何かを勉強し成長しているという日常の生活習慣が大切でしょう。

   今日、志ある人には生涯学習の機会は十分に提供されています。通信制大学への
 入学は無試験、資格取得には政府の補助、多彩なNGOや趣味団体・サ-クルの存在など、
 学べる環境は揃っています。人生において志を立てるには年齢は無関係です。
   志を立てて実行すれば生活習慣が変わり、性格も変わって、運命さえも転換します。
 自発能動的な「立志」こそ、自分の人生を有意義にする原点だと確信します。

   幕末の伊能忠敬の生き方に憧れ、千葉県佐原市の記念館で、等身大の伊豆半島の
 地図を見上げた時の感動は今でも忘れられません。何歳になっても、自分の生き方の
 再発見を通して再び学び始め、人生をより豊かかつ価値あるものにしたいものです。

   歴史に残る偉業は凡人にはほど遠いものですが、生涯学習を持続する大勢の人々
 はやがて大きな力を獲得し、そして発揮していくことでしょう。

        「縁」や「運」について思うこと

  さだまさしの「無縁坂」を聴く度に思っていた。"母がまだ若い頃僕の手を引いて・・
 運がいいとか悪いとか人は時々口にするけど・・・"という歌詞に出てくる縁や運の本質と
 は一体何なのだろうかと。そんな長年の疑問に、今ようやく答えを掴んだ気がしている。

  二十年近く出逢いの会を開催してきて、なぜこんな素敵な人に良縁がないのかと疑問
 に思うことがある。また、不満足な結果に対する理由付けとして私達は"運が悪かった"
 などと慰められることがある。しかし、結果は結果として厳然と残り、慰めの言葉だけで
 は次への頑張る元気は湧いて来ない。前者の場合の結婚と後者の場合の面接試験と
 では単純な比較はできないが、それでも原因があって結果があるという「因果の法則」
 は正しい。"不思議な勝ち方はあるが不思議な負け方はない。"という名言があるように、
 負けるには負ける原因が必ずあったはずである。人はともすると物事の本質を見ようと
 しないで、自らを深く反省しないで、縁とか運のせいにしてしまうきらいがある。

   私は縁(エン)を敢えて"フチ"と読みたいと思う。フチとは形あるものの外形である。形
 あるものは皆その外形があり、形作りとはフチ作りである。したがって、ある希望する結
 果(結婚・合格など)を得るためには、積極的なフチ作りが必要である。この当たり前の
 ことに気遅れしている人が少なくない。「豊かさ・優しさの時代」の背景等もあるだろう。
 しかし、無形から有形への継続的なフチ作りの努力なくしては何も得られないと思う。

   私は運(ウン)を敢えて"課題"と呼びたいと思う。課題とは人生の個々のテ-マである。
 人は幾つかのテ-マを通じて心の修行を行い、魂を進化させていくものと思う。従って、
 運が良いとか悪いとかの問題ではなく、個人としての課題を積極的に解決する努力こそ
 が大切である。このような視点に立てば、人生は自ずから楽しくなってくる。二十一世紀
 は、「不確実で混迷の時代」と言われている。しかし、"成功の秘訣は成功するまで止め
 ないこと。"であり、その前向きな姿勢を維持すれば必ず何かは得られると思う。

  「人はその人の性格に合った出来事に必ず遭遇し、上り坂・下り坂・まさか! の人生の
 三つの坂を歩む。」は私の信念である。志を高くして具体的な目標達成への精進を続け
 れば、縁や運は私たちの味方になってくれるものと思う。なぜなら、縁や運は私達の周
 囲にある不可解なものではなく、"極論すれば、「縁や運とは私達自身が発するエネルギ
 の所作に他ならないのではないか! "と、思うからである。

 【11 英文レタ-】

   Dear Rika-san

   Hello, how is every thing going? Thank you for your heartful letter from U.S..
  Receiving it, I remembered the days we enjoyed in. U.S., especially West Coast
 as a 
honey moon done 12 years ago. Many slides and pictures remind us of our
 holidays 
after just married. ... U.C.L.A., Hollywood, Universal Studio, and Disney
 -Land etc. 
We of course visited San Francisco, and enjoyed riding a fomous
 street car, walking 
the golden gate bridge in sunset, and eating delicious seafoods.
 A nice blue sky, windy
hill, cozy downtown, American music and so on ....... they
 might be the basement of 
"American Dream" indeed, even now I think the
 dreaming California was there.
   ( I've been belonged to the California-Club exisiting in Osaka since 1996. )

   Now I recognize, before I knew all too soon, myself a father with a pretty daughter.
  And generally speaking, it's difficult for me to go abroad easily as often as I wish
  because I'm not single ........... However, in fact my No.1th hobby is taking trips all over
  the world, therefore I am willing to go oversea at 2times a year, especially Asian
  countries. In this year, 1998, July August, the destination of my especting trip was
  Thailand, and Cheju-ialand( Golf in Korean-Hawaii ) respectively.

   Let's put the topic of trip aside for a while, reading Rika-san's letter, I can imagine
  your crying face when you study for the examination, but such efforts will bring a
  better experiance to you and may bring you a high mark; as a result, to Confidence.
  I belive, it's confidence that is one of the most important things of being alive in the
  life; in not only job but hobbies and even human relationships.

   By the way, recently I have continued 3 kind of lessions; water-color painting, playing
  musical instruments and cooking( It's my duty to make a dinner for my family even
  Sunday evening). My daughter, Yuika(age;9) of course help me, provided that she lose
  a "Janken-game" with my wife; Midori(age;39) and me
  Concerning "Ushigome's Party", I shall continue the event, hopefully until the 
  accomplishing of the 100 times if God would permit. Therefore please don't worry, I
  do because that's really my destiny. Mr. Kuwahara(age;35), a engineer of Matsushita
  and Miss Nishiyama(age;31) are going to get married on December 12th, Sat., 1998 as
  the 14th couples of the Ushigome's Party, which has been for 13 years.

   Anyway, I would like you and your husband to enjoy a wonderful American life and also
  would like Rika-san & Kenichi-san to be come a more farther sophistcated lady and
  gentleman.

  Best Regard.
  from Hisashi Ushigome in Osaka, Japan

 【15  Dr. Gregory HillhouseへのE-mail Letter】

 Dear Greg-san

   First of all, I 'd like to appreciate your heartful offer, ..thank you. As you may be aware,
 even now I has been involved in my special job. Therefore, I will not be able to leave
 Osaka in spite of my will. I think that it was the very nice exprience that you visited the
 castle of Kumamoto, one of the most three excellent castles of Japan. So, I will show
 you a very famous prediction as following.

   About four hundred years ago, when the castle of Kumamoto was constructed completely,
 Kiyomasa Kato, a brave militaly commander, the Lord of Kumamoto prefecture, namely then,
 called "Higo" predicted. When a top of gingko planted at front yard of donjon of the castle
 grew up to arrive at the same level of the height of the donjon, the castle must be fired out
 to ruin. As a result, Kiyomasa's prediction became
real.

   In the final Civil War of Japan, "Seinan-Senso"(South-West War) happened in 1878, as 
 the prediction, the donjon was really fired out by the disaster of the war. It's my pleasure 
 that the captioned story will be useful to your understanding for the histrory of my lovely 
 country; Japan. I'm looking forward to seeing you in Osaka again.

 Regards
                                              by Leonard Usshii

  【油絵のリスト[抜粋]】  (赤字:以下に油絵を掲載)

タイトル
サイズ
現状
備考(展示場所、出展等)
01 落陽タ-ジ・マハ-ル F12横 完成 1999年大阪府日曜画家展出展、自宅
02 万里の長城 F12横 完成 2000年OBP文化祭出展、自宅
03 嵯峨野直指庵 F10横 完成 自宅
04 バンコクの佛教寺院 F12横 完成 自宅
05 晩秋の木曾御岳山 F10横 完成 '00年大阪府日曜画家展出展、M氏別荘寄贈
06 フル-ティスト山形由美 F12横 完成 自宅
07 女優ジュディオング F12横 完成 自宅
08 唐長安・大雁塔 F10横 完成 2001年OBP文化祭出展、自宅
09 中国・桂林 F10横 完成 2002年OBP文化祭出展、自宅
10 晩秋の奈良 F10横 完成
自宅
11 沖縄・由布島への路 F10横 完成 2002年OBP文化祭へ出展、自宅
12 バリ島の踊り子 F12横 完成 自宅
13 結香1歳半の頃 F10横 完成 自宅
14 韓国ノルティギ遊び F12横 完成 自宅

 【01 洛陽タ-ジ・マハ-ル】

 

 【04 バンコクの佛教寺院】


 

 【05 晩秋の木曾御岳山】


 

 【08 唐長安・大雁塔】


 

 【09 中国・桂林】


 

 【11 沖縄・由布島への路】

 

 【1歳半の頃】 


 

 【韓国ノルティギ遊び】


 

 【五色の滝】

   山中に幻の滝あり、名づけて「五色の滝」という。滝壷の涼風にしばし汗が冷えてゆく。
 修験者の修行往時を偲び、山中にて覚悟のなんたるかを知らんや、の感がある。

 

 【護摩壇山の頂上付近】

  愛車-ホンダ「ス-パ-カブ」90cc 燃費=55km/リットル、最大走行距離=220km(満タン時)

 

 【風屋ダム湖】
  風屋ダム湖は大きな湖である。夏至近く、日差しもまぶしい。

 

 【谷瀬の吊橋】

   有名な「谷瀬の吊橋」。吊橋は長く高く狭く川風も強い。揺れる歩道の板の隙間から川面
 がキラキラと見える。地元の人はバイクでも走行するという。バイク歴は長い私だが、とてもとても
 バイクではこの橋は渡れそうもなく、ただただこの広い谷間の空間に佇むばかり
だった。
   川幅の広さに一見ゆったりの感があるが、初めての場合、恐怖がまず先に立つ。
  平成15年02月15日(土) 紀ノ川周辺を、会社の友人Kさんと日帰りバイクツ-リングをしました。

 【不動山の不思議な音の岩】

  紀ノ川北岸の丘陵の林間に佇む。如月の中旬にしては、木洩れ日は暖かく美しい。

 

 【紀ノ川南岸の梅園から、紀ノ川越に和泉山脈の紀見峠付近を遠望】

  梅園の向こうに、紀ノ川越しに、遥か「金剛生駒国定公園」を望む。

 

 【楠正成の篭城戦(太平記)で有名な千早城の本丸】

   念願の千早城を散策した。歴史が好きな私は感慨深いものがあった。約七百年の時
 が流れた今日、「つわものどもがゆめのあと」に佇み、NHK大河ドラマ「太平記」を思い出
 しながら、戦いの攻防、駆け引き、武士(モノノフ)の心情をできるかぎり想像してみたことで
 あった。以下、私の好きな詩吟の一つであり、掲載して紹介する。

          河内路上
                                            菊池渓琴

     南 朝 古 木 鎖 寒 霏     六 百 春 秋 一 夢 非

     幾 度 問 天 天 不 答     金 剛 山 下 暮 雲 歸

     南朝の古木(コボク)寒霏(カンピ)に鎖(トザ)さる  六百の春秋一夢非なり
     幾度(イクタビ)か天に問えども天は答えず    金剛山下暮雲(ボウン)歸(カエ)る

  【意解】
        南朝の頃からの古木は冷たいもやにとざされ、六百年の歳月を経て、
        楠公の事跡もひとつの夢となって、今はすべてが変わってしまった。
        天に向かって何度も往時を問うてみたが、天は答えてくれずに・・・ただ
        金剛山麓に往時と同じように、夕暮の雲が帰るのが見えるばかりだ。

****************************************************************************

                 素晴らしい「黒部アルペンル-ト」へのいざない

   信州松本で朝日を眺め富山平野に沈む落陽を見る旅は、日本一のコ-スだ。
 季節は夏がベスト。登山バス・リフト・ロ-プウェイ、黒四ダム、立山(雄山)への登頂
 (富士山遠望)、高原めぐり。

   碧い空、緑の山々、白雲と雪渓、そして訪れる人々の明るい原色の服装。
 すべてが自然に抱かれ、北アルプスの醍醐味を冷たいカルピスのようにグイッ-と
 ひと飲みする、それが黒部アルペンル-トの旅だ。

   交通費は約2万円。でも賢い人は格安パックツァ-でご満悦のはず。
 雄山に登り、富士山までの距離を目視で実感しよう。日本列島のお腹の幅だ。
 草原で雷鳥と日光キスゲと同じ空気を吸おう。標高三千メ-トルの高山の風の味だ。
 夕陽に感動しよう。それが日本人の心の原風景だ

  日本文化は山と森の文化だ。立山は富士山と同じく一度は登山すべき霊峰だ。
 富士山と違って高山病の心配もなく、スニ-カ-で簡単に登頂できる。
 日本文化の理解のためにも、是非、夏に山岳信仰の象徴: 越中立山へ。
 大自然の魅力溢れる素晴らしい黒部アルペンル-トを旅しよう。

  京都・知恩院にて2001年正月撮影)

 

 【作詞・作曲&楽器演奏のリスト[抜粋]】

内容
タイトル
元の曲
備考
01 作詞・作曲 青春黄昏 なし(完全オリジナル)
02 作詞 アジアの旅路 シルクロ-ドのテ-マ(喜多郎) 下欄記載
03 作詞 長崎県人会の歌 悲しき口笛(美空ひばり)
下欄記載
04 楽器演奏 ビアノ(オルガン) 別れの曲(ショパン)
05 楽器演奏 フル-ト 故郷・ロ-レライなど
06 楽器演奏 ハ-モニカ アニ-ロ-リ-など
07 楽器演奏 ビアニカ シルクロ-ドのテ-マ
08 楽器演奏 アコ-ディオン 日本の歌曲
09 楽器演奏 オカリナ 日本の歌曲
10 楽器演奏 リコ-ダ- 世界の歌曲

 【作詞01 青春黄昏】

                          作詞・作曲 Ushigome Hisashi
                          昭和53年作
                          京大宇治キャンパスにて

    1. 果てしなき地平に陽は沈み 宵闇迫る黄昏の
         只中に一人立ちて 見上げれば
         月はさやけき夜のとばりに 吹く風甘く揺れる
         過ぎし日思い出 青春去り行く

    2. 限りある青春の時を過ぎ 友みな別れて生きてゆく
         心あわせ慕う君と過ごしてた
         日ごと夜ごとの愛の語らい  とこしえ今はいずこ
          明けゆくみ空に 陽はまた昇る

    3. 今僕は黄昏にただひとり 故郷思い涙ぐむ
         人の世の波にもまれ 思い知る
         遠き昔の若き心の きらめく青春の夢を
         再びこの手で 暖め生きよう

 【作詞02 アジアの旅路】
 
   歌詞を全面的に改訂しました。

     アジアの旅路
                作詞 牛込 恒   作曲 喜多郎  音楽 MP3 TUBE(*)
                完成日(著作権発生日) 2013.02.02

   遥か昔アジアの道を 人は旅ゆく
   ラクダに揺られて 砂漠の道を

   目指す緑オアシスの街 憩う水辺に
   星降る大空 かがり火赤く
   ああ 敦煌 カシュガルを越え ああ サマルカンドよ
   ああ 長安 無事に還らん 文化を伝えて

   道は続く西の彼方へ シルクの道は 幾百千里草原の旅路
   ああ 悠久の時空を超えて 行き交う人々の数は知れず

   目指すブル-潮の香の街 憩う海辺に
   大空青く 遺跡は白く
   ああ テヘラン パルミュラを過ぎ ああ コンスタンチノ-プル
   ああ 遥かなるロ-マへ 道は続く

   ああ サライの夜は 月影冴えて  星空に響く コ-ランの声よ
   ああ サライの朝は 光に溢れ   喧噪のバザ-ル ひずめの音よ

   古き昔の歴史の道 東西文化を繋ぐ古道

  (*) navier4alanさんが 2009/11/4に公開 葉加瀬太郎さんと喜多郎さんの共演)
    Google検索は、喜多郎 シルクロ-ド で行う。


 【作詞04 長崎県人会の歌】
                              平成15年

   1.  白い雲ゆく 雲仙も  青い潮路の 西海も
      港~ 長崎 ふるさとの~
      甘き思い出 ロマンの街よ
      汽車に飛び乗り 思いは遥か 大阪へ・・・・・

   2.  老いた父母 浮かぶ瞼に 友の笑顔も 懐かしい
      都会(まち)の~ 人波に 流されて~
      忘れかけてた ロマンの歌よ
      耳にする時 思いは帰る 長崎へ・・・・・

   3.  広い関西 仲間たちよ 集い語ろう 同胞(はらから)よ
      お酒~ 飲みつつ 歌いつつ~
      老いも若きも ロマンの人よ
      酔うて楽しき 心嬉しき 県人会・・・・・・

    【備考】  作詞は1~3番まで。曲は、美空ひばりの「悲しき口笛」

 【作詞05 アルファンブラの思い出】

      アルファンブラの思いで
                    作詞 牛込 恒
                    作曲 フランシスコ・タレガ
                        音楽 MP3 TUBE(*)
                    完成日(著作権発生日) 2013.12.12

   グラナダの青き空 冬の朝に赤き城は白旗上げ
   国王は鍵を渡し シェラネバタの山へ逃れ
   返り見るは イスラムの花の城
   異教の民は 朽ちせしままに
   幾星霜住む人もなく 栄華儚し夢の城
   ああトレモロ ギタ-を弾く
   ああ思い出 アルファンブラ

  (*) take5t0ky0j  演奏はナルシスコ・イエペス (3分43秒)


 【作詞06 忘れろ忘るな】

       忘れろ忘るな
                        作詞 牛込 恒
                      作曲
                          原曲  「とんぽり人情」

                      完成日(著作権発生日) 2007.03.24

  1.  落ち込む一言 忘れろ忘る~な 今が心を磨く時
     なめたらアカン なめたらアカンよ 人生は
     甘うな~い いろいろあるよ 人の世は
     酒を飲んで 酒に飲まれぬ
     強い男の ほんまの酒がある

  2.  気に病む二言 忘れろ忘る~な 今が心を正す時
     なめたらアカン なめたらアカンよ 人生は
     甘うな~い いろいろあるよ 人の世は
     歌を歌って まことを伝えてる
     凄い男の ほんまの歌がある

  3.  身にしむ三言 忘れろ忘る~な 今が心を決める時
     なめたらアカン なめたらアカンよ 人生は
     甘うな~い いろいろあるよ 人の世は
     夢を探して 夢を叶える
     偉い男の ほんまの夢がある

 【詞作01 大中国】
                   原詩作成1997.09.19、一部推敲2015.01.11

    砂塵に乾いたアカシアの街路樹のあいだから、
   背の低い家並みから、
   異国の太陽が昇る、
   悠久の中の一日が、また大陸の上に始まる。

   「油条」を食べながら、" あっ 中国だ "と、自転車の洪水が教えてくれる。

   思えば、寒風の長城も、
        銀輝の長江も、
        山水のあの桂林も、
        上海の熱気・活力も、
   幼少の頃より、故郷長崎から、憧れていた ・・・・ 中華文化。

   母なる国の、地理、歴史、文化、風俗に接し
   今、日本人男子として、心の思い向くまま、
   大中国への「パッション」が、我が熱き動脈の中へ溶け込む。

   古都の満月と胡弓の音に偲ぶ心は、遠く西域・シルクロ-ドの人々か。
   トルファン、サマルカンド、イスタンブ-ル、そして ・・・ ロ-マへ至らんと。
   漂白の思い抑え難く・・・、 大中国への憧れ。

 【過去のボランテイア活動/現在の活動[抜粋]】

内容
役割
回数、等
01 社内・無線研究所合同同期会 仕掛け人 年1回、6年間
02 社内・無線研究所・ユニ-ク会 創設者&幹事 年2回、8年間
03 社内・無線研究所・牛込劇団 創設者&企画・演出 毎夏1回、3年間
04 高梁YH(岡山県)同好会・グル-プ"たかはし" 常連メンバ- 過去10年間
05 関西大阪長崎県人会、長崎よかもん大使 会員(常連メンバ-)
06 長崎県立長崎南高等学校関西同窓会 会員(常連メンバ-)
07 大阪府政モニタ-経験者協議会 相談役(前会長) 入会12年目
08 佛教大学通信教育部(近畿ブロック) 元嘱託指導員 4年間
09 牛込Party(独身男女の出逢いコンパ) 主宰者 19年目
10 「阿波座会」(異業種間交流会) (常連メンバ-) 入会2年目
 11  好っきゃねんアジア(アジア来日者交流会))  代表代行  2002年10月~

 【著作集】

内容
枚数
作成日(著作権)
01 よくわかる韓国語講座(入門編) A4横12枚 2002年05月30日

 

   才能に慢心することなく、できるだけ謙虚にいきたいものです。
 そうでないと、上記のアニメ-ションのように、自らの才能に逆襲されるかも。
 謙虚に、しかし自信をもって、更にしなやかに、着実に前向きに。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

  《第5章》
         諸国漫遊記  
      
     本エッセ-には、著作権があることをご理解下さい。


   下記は、「諸国漫遊記」(日本全国47都道府県の旅行記)の目次。

 

   01(和歌山県)のみ未公開、他は非公開。

 【01】(和歌山県)
                                   神々の地「熊野」は心を癒したのか

   喧騒の都会大阪を脱出し、ゆったりと西行する紀ノ川を渡るとそこは南紀の入口である。
 橋本から高野龍神スカイラインを南へ下り田辺から中辺路を通るか、あるいは十津川をひたす
  ら南下するか、もしくは吉野から東熊野街道を南行するとやがて熊野本宮町に至る。
  寝屋川市からバイクで僅か5時間の距離だが、そこはまさに神々の住む熊野の地である。

    熊野(都からみて奥まった所にある未開の地)は、千余年の平安の昔より浄・不浄・貴賎
 を問わず広く人々の憧れの参詣地であった。「蟻の熊野詣」の言葉があるように、貴人は
  京より輿に乗り、庶民は徒(かち)より熊野古道をひたすら歩き続けたのである。そして、熊
  野三山としての熊野本宮大社・新宮速玉大社・那智大社を廻り、往復30~40日の後に京に
  帰り着いた人々の心は、熊野の神々によって十分に癒されたことだろう。

   先日(2002/03/22-24)、この熊野古道の予備探索として愛車の90ccバイクにまたがり、往
 路は東熊野街道から、復路は中辺路ル-トで熊野を散策し、竜神から高野山へ走り抜けた。

    熊野は重畳たる連山の威容で、自然と共に生まれ・生き・死ぬ人の定めを想起させる。
 熊野は豊かな自然の恵みで、都会人の偏った価値観(金儲け第一主義)を鋭く詰問する。
  熊野は路傍のあまたの野仏で、信仰即生活という中世・近世の素朴さへの回帰を誘う。

   しかし、都会の風に長い間吹かれ続けたこの身にも心にも、その自然や神々の教えは
  旅をしている日々は心地よく素直にさせるけれども、都会に戻ると次第に忘れられていく。
  旅の余韻に浸れた数日間の後、あの川湯温泉での川の中での早朝露天風呂の豊かささえ
  も冷めていく。なんとも人の心は変わり行くもの、なんと頼りにならないものかと・・・・・ 。
  熊野の神々によって癒された私の心も、なんとも情けなくも現実の大阪人の心に戻ってゆ
  くのかと・・・・・・、少しさびしい気持ちになったことであった。

   高野龍神スカイラインの最高点(護摩壇山の頂上[海抜1372m])付近で、吹雪の中でバイク
  を降り立つと、案内板がふと目に止まった。そこに書かれていた説明の内容は・・・・・ 。

   遥か昔、屋島の戦いで破れた平維盛(清盛の孫)がこの山の近くまで逃げ延びて来て
   隠れ住んでいた。ある日、この山の頂上で護摩を焚き、その煙の流れる方向で、平家
   一門の今後の盛衰を占った。
   煙が上に昇れば吉(平家は再家し繁栄)、下に降りれば凶(没落し滅亡)と。
   そして、その結果、煙は西の方に流れ下って ・・・・・・・ 、
   やがて、その落人(平維盛)は武士を捨てたとか。

   煙が天にたなびくのは自然のならいだ。だからこそ、上にたなびくを吉と定めてトした。
  しかしながら、あにはからんや、自然は平家一門の定めに対して、予言で答えたのである。
  維盛の心中とその後の短い人生を思い、熊野の神々は果たして人々の心を癒したのか
  どうか、なんとも答えに窮して、私は苦笑しつつ考え込んでしまったことだった。

 
 熊野の川湯温泉の仙人風呂
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

  《第6章》
      過去の日本旅
                                       
 【積丹半島・神威岬】 アイヌ伝説の聖なる岬

   積丹半島の突端、神威岬。日本海に鋭く突き刺す岬の突端に立てば、ロシアの沿海州は
 近く、韃靼からの風に吹かれて、蝶さえもが飛んで来そうな感じである。約八百年前の昔、
 源義経と彼を慕うアイヌの酋長の娘との悲恋の伝説の小道( チャレンカの小道 )。その小道
  を小雨の中、上り下りし潮騒を聞きながら歩き続けると、やがて、”遥けきも来つるもの哉”
  の感のその岬の灯台は、幾星霜の風雨に白亜の裸身を晒し続けて、じっと耐えていた。

 

 【積丹半島・泊村に現存する鰊御殿】 海のダイヤ=鰊(ニシン)は、海から湧くが如く。

   泊村の鰊御殿の番屋である。充分な時間で見学し、往時に思いを馳せたことだった。
 作詞家なかにしれいの「石狩挽歌」の歌詞が想起される。
 ”ゴメが鳴くから鰊(ニシン)が来ると、赤いつっぽのヤンシュが騒ぐ・・・ ”
 往時は、大漁につぐ大漁で畑の肥料にした程であるが、今日では京や大阪の蕎麦屋で、
 鰊蕎麦として庶民に賞味されているが、消費量は言うまでもなく少ない。

 

 【有珠山のGPS】 山形の変容の観測は、GPS(Global Positioning System)が最適

   有珠山の山形観測用のGPS受信装置である。すごい時代になったものである。
 人類にとって、緯度の観測は古来より容易であった。他方、経度の観測は、実は正確な
 時計の発明によって初めてなされるものであった。しかし現在、数個の人工衛星によって、
 人はその存する地球上の位置をリアルタイムで極めて正確に知り得るのである。

 

 【有珠山の小噴火口の一つ】 今も噴気が立ち上り、数年前の往時を想起させる。

   噴煙・噴気を残す噴火口の一つである。硫黄や硫化水素の臭いは余り感じなかった。
 日本は火山国であり、地震国。こうして噴火口の直近まで行けるのは、生きた地学の勉強
 である。当時は洞爺湖温泉を覆うがごとくの黒煙であり、脅威を感じたものであった。

 

   見学遊歩道を巡る。噴火が収って、こうして地球科学の実地見学ができるわけである。
 自然は驚異でもって、被害と恩恵を与える。火山国日本、地震国日本だが、どこに行っても
 温泉があり、美しい風景とともに旅人の心を安らげてくれる。

 【昭和新山の雄姿】 地中からの突出物、赤茶けた山塊だ。

   昭和新山を背後にしたバイク男。いくつになっても、一人旅のロマンは見果てぬ夢か。
 この生まれた星: 地球を、地の果て海の彼方まで往かんとする熱き心は、人間の本能。

 

 【樽前山(支笏湖の側にある)の山頂溶岩ドーム】 世界的に珍しい三重式カルデラ

  今回の旅の目的の一つ、樽前山の登頂。この世ならずの溶岩ド-ムは驚嘆すべきである。
 ぐる~と一周して、このド-ムをあらゆる角度から眺めた。実物の迫力はすごいものがある。

 

 【道南の道】 道南の風景は牧歌的。牧草を食む乳牛に、自由への憧れ。

   しばしのバイク休め。舗装道路の反対側から、乳牛たちののんびりした姿を眺める。
 アッという間の「企業戦士人生」で良いのか。技術・芸術・文化を後世に伝え得るのか。
 のんびりと草を食む牛になりたいとは思わないが、自然の光・風・匂いは感じていたい。
  自由への憧れ。「自由・創造・貢献」は、私の昔からの価値観である。

 
 【真狩村の歌う細川たかし像】 なかなかスマ-トで美声、そして優れた歌唱力

   羊蹄山麓、真狩村(マッカリムラ)にある歌う細川たかしの銅像(彼は同村出身)。
 台座のボタンを何度も何度も押して、名曲の数々に聴き入った。「北酒場」・「矢切の渡し」
 「心のこり」 等々、高くて朗々とした美声と優れた歌唱力は蝦夷富士の賜物であろう。

 

 【まっかりユ-スホステル】 このユ-スホステルは若い(新しい)、スタッフも若い

   「まっかりユ-スホステル」のスタッフの皆さん。このユ-スは実に綺麗で、居心地が良く、食事も
 美味しい。今後も北海道旅行の基点のYH(ユ-スホステル)になりそうで、すっかり気に入ってし
 まった。アット・ホ-ムなスタッフの皆さんに感謝、感謝。北海道の旅が益々好きになってくる。

 

 【江差遠望】 近くの日本海は天然の良い魚場だ。民謡「江差追分」の発祥の地

   江差の遠望。時間の都合上、ゆっくり見学できなかったこと(ほとんど通過状態)がきわめ
  て残念だった。巷間「江差の春は江戸にもない」とその繁栄ぶりが喧伝された往時が想起さ
  れてくる。機会があれば、江差の酒場で民謡「江差追分」をじっくりと聴きたいものだ。

 
 【本邦最北の城郭、松前城】 小さいながら端正な天守閣である。

   本邦最北の城郭・松前城。まさに、北の城である。質素にして、強固、かつ堅牢。守りの
 城のその縄張りは、意外にも堂々たるものだった。

 

    案内版の記述は、松前城の面目躍如を示している。北辺警備の松前城と異なり、西海
 警備の肥前国・五島・福江の石田城は、同時期に築城されたが全くおもむきを異にする。

 【松前の血脈桜の伝説】 この伝説は面白い。不思議な話である。

  不思議な伝説の話は、いつの世にも感動的である。事実があるからこそ伝説になる。
 この血脈桜も季節が夏故にこそ葉桜である。毎年の春の雄姿はいかばかりか

 

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

  《第6章》
      諸国外遊記

 

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

  《第7章》
           科学講話

    以下の諸問題は、私自身が問題を作り、自ら解決したものである。即ち、全くの
  私自身のオリジナリティ-であることを宣言しておきたい。
  参考文献はなく、このコ-ナ-のために、事前に勉強したわけではない。

タイトル
facebook先行投稿日
該当分野(難易度)
(★は5段階表示)

01
02
03
04
05
06
07
08
09
10

科学講話の(不定期)連載の予告
赤道に行けば減量できるのか
放物線が描く軌道曲線の美学
水素原子の電子の平均速度の計算
四面体(三角錐)体積の一般的公式
三大ピラミッドのLED電飾問題のトポロジ-
3次魔法陣の超速解法
化学反応速度定数の数値計算




 以下は、非公開
2020年11月03日
2020年11月27日
2020年12月16日
2021年01月15日
2021年02月24日
2021年03月02日
2021年04月01日
2021年05月02日

地球物理学(★★)
運動物理学(★★★)
原子物理学(★★★★)
立体幾何学(★★★)
位相幾何学(★★)
代数学(★)
物理化学(★★★)
       
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

  《第8章》
          文芸のコ-ナ-

               長女; 結香(ゆいか)の命名の由来
                                              平成元年

     妻、みどりの"おめでた"がわかって、名前を考えないといけないな~と思った。どうも、
   男の子しか考えられないし、長男は欲しいし、早く息子と旅をしたいと思った。お腹が大き
   くなる前から、胎教ということで名前を付けることにした。私のカンでは長男であることか
   ら、長男は太郎なので"勘太郎"と名付け、勘ちゃん、と二人で呼んでいた。その後、超音
   波診断で女の子と判ったので、名前は一から考え直すこととなった。

     姓名判断で、良妻賢母・才色兼備である総画31画とし、牛込は(4+6)として、名前は美
   人になる21画とすることに決めた。更に、"今"風に「子」などは付けず、元号と同じように
   俗用されていない、見た目の美しい漢字にすることにした。子供の名前の決定権は、もち
   ろん我々夫婦にあるが、女の子だから妻のみどりが気に入ってくれる名前でないといけな
   いと、思っていた。

     友人・知人の名前と人となりをあれこれ思い浮かべ、出生後2週間が届出の期限だか 
   ら、その時までには"この名前しかない"と、必然的に決まるであろうとのんびりしていた。
   また、誕生後の娘の手相を観て、この世に生まれて生きるこの長女の「人生の意味と課
   題」を、父親として感じ取り、その運命(テ-マ)にふさわしい名前をつけてあげたい、と考え
   ていた。 背が高く、黒髪がスラッとして、やや古風で美しい微笑みの女性をイメ-ジして、
   「美香子」の「子」の無いような感じの名前にしたいな~、と思っていた。
     今年の正月、妻の実家で、早く名前を決めてというみどりの声にせかされて、赤ちゃん
   の名前の付け方の本を見ながら、やや本気で考えてみた。

     "結"という漢字が湧いた。そういえば私の学生時代の友人に「結子」という人がいた。
   良く躾られた、男性を立てる才色兼備の女性だった。私は女性の名前は、古風で ナウイの
   が好きである。この"結ぶ"という「結」の字は、いいな~と思った。「結」に合う下の
字、し
   かも9画の字は・・・・?。結んでどうする、結んだらどうなる・・・・。花が咲き、実を結
んだら、
   その芳ばしい香に人は集まり、その集まった人々に安らぎと素直な気持ち(自然
に対する
   謙虚な気持ち)を与えてくれる。そうだ!、その人がそこにいることで、周りの人た
ちが慰め
   られ、元気づけられるような、そんな女性になって欲しいな~と思った。

     結んで香る・・・。「ゆか」ではなく、「ゆいか」。"ゆい"とキリリと引き締まり、"か"と優し 
   く、人のために尽くせる女性となれるように、父の座右の銘「春風を以って人に接し、秋霜
   を以って自らを戒める。」を実践してくれるように、・・・・・祈りを込めて。

     みどりに、「結香(ゆいか)」はどうだろう?、と尋ねると、即、OK!となった。ありふれてない
   から良い、と。一瞬で我々の長女の名前は決まった。

     昭和の時代が終わって新しい平成の時代を迎えた。最初の診断では、昭和最後の日
   (昭和64年1月7日)がなんと出産予定日であった。平成元年1月19日午後2時35分、兵庫
   県氷上郡柏原町の柏原赤十字病院で、長女は生まれた。かわいい顔を見つめ、小さな
   掌を開いて紅葉手をみると、彼女の人生のテ-マに関して、父親の私に伝わってくるものが
   あった。

    そして、出生届の提出期限が近まってきて、ほんとうにこの名前で良いか、と考えた。
   名前の変更はできないし、一生ついてまわるものだし、おばあちゃんになっても使うもの
   だし・・・・。でもよし、この名前しかない、と決断し提出した。まわりの人達に名前を知らせ
   ると、大変好評である。本当にこの名前でよかったな~と嬉しく思いつつ、父親の喜びを
   かみしめている。

 【紀行文】
                                      下北に亡き父を尋ねて
                                                  1980年盛夏

     青森発上野行、23時58分。寝台券を胸ポケットに入れ、缶ビ-ルを飲みつつ名残惜しい
   ねぶた祭りの賑わいの中に歩みを進める。しかし、ラッセラ-・ラッセラ-と跳ねる喧騒に浸っ
   てみても、異邦人の私には宴の後の虚しさか。ふと目の前の民謡酒場の暖簾をくぐる。
    一人の妙齢の女性がお相手をしてくれた。

   "あ~、はるばると来たものだ"、私は妙に饒舌になっている。"冬、雪はどれくらい積も
   る? ・・・・ 信じられないな~、九州は長崎の南国育ちだから。" "ところで、恐山に行
   ったけどイタコは居なかったな~。『青森にもいるのよ」 "えっ どこに? "  「電話局の
   裏の・・・」 "残念だな~、あと3時間しかないし・・・。" 「夜はダメよ。」 "でも、度々、
   青森くんだりまで来れないし-" -胸騒ぎ- はっとして席を立ち、表に飛び出しタクシ-を
   飛ばす。

    "あの~ 降ろしていただけますか? 大阪から来て、もうすぐ寝台車に乗って帰るの
   ですが・・・ " 祭壇の怪しげな揺らめき。盲目の老婆(イタコ)が私の手をしっかり握り、
   詠うような呪文を唱え始めた。"父です。昭和40年3月3日に亡くなった。" 私は終に
   父と語らうその刹那を迎えた。胸の鼓動が激しく鳴った。

     思えば不思議なものだ。旅立つ前夜、京阪電車のある駅でふと手相を観てもらって、
   夏の旅を四国にしようか東北にしようかと尋ねたとき、四国はよくないとの明確な易断。
   それならやはり東北は下北半島の恐山しかないと決めたことも、亡き父が呼んだため
   であろうか。数日後、私は東北本線の長いなが~い車中の人となっていた。

     旅路の果ての青森市は運よくねぶた祭りの初日で、私も浴衣姿で踊りの輪の中に
   入ってみちのくの夏祭りを心ゆくまで楽しんだ。明くる朝、「野辺地」という怪しい響きの
   する駅から、本州最崖の地:下北半島へ向けバスは一路北上する。やがて、むつ市に
   着く。いよいよ、まさかりの刃の形に酷似した下北半島の中央部に位置する、高野山・
   比叡山と並ぶ日本の三大霊場のひとつ恐山に向かう。冬は雪で全く途絶するという原
   生林の曲がり路をバスに揺られ、ガイドさんがしみじみ歌う「賽の河原和讃」を聴くと、
   妖気が漂ってきて、肌寒ささえ覚える。

         これはこの世のことならず  死出の山路の裾野なる
         賽の河原の物語  聴くにつけても哀れなり ・・・・・・・ 

     冥府に誘うかの如きその調べに、車中の老若男女は一同しんみりしていた。この世
   に生まれる前、かって先祖の御霊と住んでいたあの世を懐かしく思い出すように。

    やがて眼前に広がる森閑とした宇曾利の湖。三途の川の橋を渡ると、そこはもうこの
   世ならぬあの世なのだ。火口湖特有の腐卵臭が車内にたちこめ、さながら地獄の様を
   呈している。・・・ バスは境内に入り、終に恐山に来たのだった。

    それから、私は亡き父とふたりで3時間ほど一緒に霊場を散歩したのだった。その事
   を知らず、血の池地獄・極楽浜・賽の河原などを巡り、人々にならって卒塔婆の傍らに
   供養のために小石を積む。

         一つ積んでは父のため  二つ積んでは母のため
         三つ積んではふるさとの  兄弟、わが身と回向して・・・・

     湖を見下ろす丘の上、碧空の下。寝転がってそっと瞼を閉じると、私の魂はこのま
   ま幽明界へ溶け込んでゆくようだ。

    そうだ、せっかく来たのだから今夜ここに泊まろう、と思って宿坊の受付に行くと、3時
   まで待って下さいとのこと。仕方なくバス停へ戻り下北バスの路線図を何気なく眺める
   と、なんと大間から函館へフェリ-が通っている。北海道の土が踏める、という驚きと
   感激。もしその夜、宿坊に一泊していたら、深夜父の霊が現れて、お互いの想念の中
   で懐かしい語らいができたのかもしれない。
    でも、私は函館へと渡り、そしてまた青森に戻って来ていたのだった。

    イタコは尋ねた。「テ-プレコ-ダ-は持ってきたが?」 、"いいえ" そしたら紙と鉛筆を下さ
   った。「この仏は本当に苦しまず、安らかに逝ったよ。」 ・・・・ 「立派な葬式を出しても
   らって感謝しているって。」 ・・・・ 「一緒に散歩したと言っているよ、・・・  お前が来た
   のは知っているって」と、イタコの声。私は胸がキュ-として、はらはらと落涙した・・・・。
   "お父さん ! ・・・・・ 。"

      15年前のあの朝。前の晩の危篤の床の父の寝顔がはっきりと思い出されて。朝早く
   おヒサ叔母さんの知らせに起こされ、・・・・・・ 子供心に、ただその日の小学校のお別
   れ遠足に行けなかったことが残念で・・・・ 。

     "父は、今何をしているのですか?"と、イタコに尋ねると、「慈覚大師(恐山の開祖)様
   の側で、相当身分の高い位で、毎日修行に励んでいるから安心してくれ!」との返事。
   そして、母のこと、親戚のこと、私の結婚のことなどを父は語った。難解な青森の方言
   をなんとか理解しながら、あの世の人はこの世の現在と未来がやはり判るのだろうと、
   考えていた。

     あ~、日本人は死んだらみな恐山にあつまり、先の人生を反省し、そして尊い仏様
   の傍らで魂を磨くための修行に励むのだろう。いや、きっとそうだ。私は予てからの
   持論の[ 人生は魂の進化のための道場である。]との考えを益々深くしたものだった。

     恐山の散策の時、ひとりの老婆が呟いていた。「一度来ておけば、死んでから来る
   時に迷わなくてすむから・・」と。この短いようで長い人生を、こんな人生観(死生観)で
   私はこれからも生きていくようだ。

 【宇曾利の湖と大尽山】

 
 【恐山の寺院】

 

 【短歌】

                紀の国を詠む七首
                                       1994年 春の旅にて

    1. 紀の国の 旅にしあれば 熊野灘  洗う磯辺に 普陀洛思ほゆ

    2. 紀の国の 海山迫り 細路なる 紀勢の鉄路  南海の道

    3. 紀の国の 山海近く 耕地なく など五十五の 万石誇るか

    4.  紀の国の 南縁山塊 海面す 黒潮近し 渡来のロ-ド

           「黒潮百葉集」(全64首中12番目に選出、川合英夫京大名誉教授選)
           [ 掲載URL http://blogs.dion.ne.jp/kawaihid ]

     5. 紀の国の 雨雲彼方 熊野路は 死者のまします 黄泉の国とぞ

    6. 紀の国の 新宮近し 潮の香に 匂える花ぞ ゆかしかりしか

    7. 紀の国の 桜花を愛でる 草枕 ああ紀の国の 満開の空

 
   (旧熊野本宮跡、現「大斎原(オオユノハラ)」の桜)

         但馬・竹田古城を詠む五首
                                             1995年

    1.  桜花咲く 竹田古城の 見事さに 築きし人へ 垂れる頭ぞ
 
    2.  夏の日の 竹田古城は 青雲の つわものの夢  覇権の墓碑か

    3.  黄昏の 竹田古城の 病葉に 秋霜ぬらす 武士の夢

    4.  冬枯れの 竹田古城は 寂しけり みぞれの空に しばし春待つ

    5.  但馬なる 竹田古城の 石垣に 頬添え聴きし 益荒男の声

 【俳句】
           奈良シルクロ-ド博覧会関係の入選作

                  秋桜や 果てにゆかしき 絹の道

 

   [解説]
      奈良の都は、ユ-ラシア大陸を貫く「絹の道」の終点である。

    遥かロ-マより長い旅路の果てに、大和の国の奈良にたどり着いた異邦人たちは、

    その思い荷を降ろしたとき、ふと路傍の路の傍らに
可憐に咲く秋桜(コスモス)の美しさに、

    さだめし眼を奪われたことであろう。
  
      絹の道(シルクロ-ド)の果て: 奈良の都で、季節は秋の只中に、そのコスモスの咲き誇るを 

    見んことを夢見つつ、旅路を急ぐアジアの交易
の民を想像するとき、喜多郎の「シルクロ-ド」

    のテ-マ曲にのせて、私はいつしか
思いが膨らんでゆくのである。

 

 【狂歌/川柳】

              サラリ-マンの時事狂歌/川柳

    1. 本当か すべてを貫く ニュ-トリノ  すべてを通さぬ ものもあるべし

    2. ノ-ベル賞 対象分野は 回遊中  せめて欲しいぞ N賞探知機

    3. ガムランの 巨音の如く バリ島の  ヒンズ-の神 鉄拳加えよ

    4. 五十まで 働き後は ボランティア  これがほんとの 豊かな国ぞ

    5. これからは 日韓台中 大競争  負けるな日本 情報立国

    6. "Ko・su・mo・su "と  おシャレに綴る  思秋~期

    7.  手にとって  拝みあやかる  一葉札  (樋口一葉の一万円札が計画中)

    8.  組織にて  回す歯車  楽しかり

    9.  一杯を  控えて健康  速歩き

   10.  趣味資格  持って老後は  長生きよ

 【名言・至言】 ( 私個人としての、オリジナリティ-を尊重して戴きたく・・・・・・ 著作権)

    1. 人生とは 魂の進化のための 道場である。    [ 私の人生経営基本方針]

    2. 籠に乗る人 担ぐ人 そのまた草鞋を作る人   [ ここまでは人口に膾炙]
         そのまた日記を綴る人                [ 人生に第4の道がある]

         【2009年度国政モニタ-報告書】

 【2009年4月提出】
                  特許流通アドバイザ-制度の改善

   特許流通アドバイザ-制度(以下、特アド)制度は、現在存廃が検討されている。その理由
 は異例のロングラン事業のせいと言う。本制度への改善策を示し、廃止の是非を考察する。
  特アドに対するヒアリングや私自身の企業におけるライセンス業務の経験からも、我が国の休眠
 特許率は大きく、活用は不十分である。即ち、特アドの現状には問題がある。
  1. 未だ社会での認知度が低い。2. 県単位では狭すぎる。3. 知財だけの紹介では不十分。
  4. インセンティブが低い。5. 海外との連携が必要。

 1については、TVでのCM放送をすべきだ。広く国民に本制度を認知させることは甚だ有益で
  ある。
 2については、現行の県単位では狭すぎる。道州単位こそ適切な広さである。
 3については、知財だけで製品は作れない。材料・生産設備・ノウハウ保有の技術者までも包括
  して紹介し派遣する必要がある。
 4については、特アドへの成功報酬がやる気を起こす。多少の報奨金は利点がある。
 5については、本制度はアジア諸国とも連携すべきである。

   知財立国の日本が成長し続ける為には、特アド制度の中身を改善して、より多くの特許流
 通の実績を築くことが肝要である。休眠特許は、知的財産ではあるが不良債権とも言え、又、
 諸外国に対する無償の技術情報の提供でもある。国際競争力が激化している今日において
 は、対価の獲得を伴わない技術情報の開示は無益どころか国家的損失でもある。
  従って、技術のブラックボックス化は重要だが、確立した特許権はホワイトボックスとして益々有効に
 活用しなければ意味がない。そして、特アド制度は「初めに特許活用ありき」ではない。喜んで
 ライセンス導入する気になるまでとことん納得させることが重要であり、特許活用は最後に付いて
 来るものである。
  上述の5点に留意して、特アド制度を改善しつつ、同時に特アド自身の意識改革も必要であ
 る。その上でこの有益な本制度を確実に存続させるべきであると思う。

 【2009年5月提出】
                  大学院生不登校問題の調査と是正を

  現在、旧帝大の理工系学生の不登校問題が潜在化している。ある研究科においては、実に
 2割の院生が不登校であるのが実態である。理工系は実験が必須であり登校なくしては研究
 は進展しない。一体、不登校の背景にはどのような潜在的問題が隠れているのか。

  先日も、博士論文に絡んで学生が自殺したという新聞報道があり、教官の指導の問題が指
 摘された。教官の絶対的権威:単位認定権は今なお絶大である。アカデミックハラスメントは権限の
 乱用であり、倫理上の問題もある。大学は閉鎖社会にして密室社会でもあり、セクハラやパワハラ
 の温床にもなりやすい。今一度、この問題を潜在化させ、対策を早急に実施するべきである。

   我が国の多くの大学では、研究活動の主体は大学院生と言っても過言ではない。従って、
 優秀な学生による精力的な研究活動が不可欠である。しかしながら、オ-バ-ドクタ-問題もあり、
 昨今の就職難の現状ともあいまって、多くの優秀な学生は悩んでいる。
  では、国の施策として何ができるか。その第一は、確かな本音を抽出する院生の実態調査
 の実施だろう。本当に本音を把握する為の工夫ある調査が必要である。匿名性の確保は言う
 までもないが、インタ-ネットを使った総合的な調査や、NHK特番での番組中アンケ-トという調査の
 方法もあるだろう。

   現在、各大学は独自性を求めて新しい道を模索している。その過程において、学生を大事
 にしない道などはあり得ない。即ち、不登校の問題を大学として看過することは絶対に許され
 るべきではない。監督官庁も当然ながら対策を検討し、実施するべきである。
   このような現状を学生の個人的な問題として矮小化してはならない。人材は宝であり、技術
 立国日本にとって大学院生の健全な研究活動は、不可欠なのである。
  是非、実態調査を実施し現状を把握して、適切な行政指導や是正を行って欲しい。

 【2009年6月提出】
                      韓国語教育のすすめ

   現在は韓流ブ-ムである。しかし、多くの日本人にとって韓国語は、未だ近くて遠い言語であ
 る。だが、韓国語は日本語と酷似し、それ故に日本人にとっては最も習得しやすい言語なの
 である。英語よりも格段にやさしい。

  こんな言語をなぜ学校教育でもっと教えないのかが私の長年の疑問である。無論、外国語
 を学ぶ理由は、実利が第一であろう。その意味では韓国語の実利は乏しい。しかし、多大の
 学習時間を費やしても喋れない英語に対して、韓国語は極めて簡単なのである。文法や単語
 の理解は極めて容易で、発音も簡単である。日本人にとっては先祖の言葉なのであり、まさ
 に隣国の言葉である。昨今の韓国の興隆は目覚ましい。従って、日本人は韓国文化を学ぶ
 べきであり、日韓両国の文化は一衣帯水の同根文化なのである。

  私はあえて言いたい。中等教育初期の学校教育において、韓国語の簡単な手ほどきを行っ
 たら、必ずや有益であると確信する。学校教育の使命は、生徒や学生の可能性の導出の啓
 蒙であり、何に触発され何を進んで深く自学するかは、本人の選択事項である。
  無論、国民の義務としての教育は、基礎的知識の習得が第一である。しかしながら、韓国語
 の啓蒙的教育は、その効果が甚大だと思われる。なぜなら、日韓は本質的に同じような言語
 と文化を有しているからである。

   国際社会の理解は、英語は必須である。しかし、韓国語は極めて容易に習得でき、隣国
 韓国のみならず中国朝鮮族、更には海外の韓国移民とも語れるのである。世界に冠たる韓
 国語は、「ウリマル(我々の言葉)」として世界に誇るべき人類最新の言語だと、私は心から確
 信している。
   戦争を無くす為には、お互いの文化の理解と、その前提としての言葉の理解こそが重要で
 ある。朝鮮半島の情勢が緊迫している昨今、日本人として韓国語(朝鮮語)を理解し、お互い
 の平和な社会の実現を希求したい。

 【2009年7月】
                経済連携協定と自由貿易協定の締結促進

   
昨今の不況打開策の一つとして、諸外国との経済連携協定(EPA)と自由貿易協定(FTA)の
 促進がある。現在、我が国のEPA締結国は十指に満たず、韓国、インド、オ-ストラリア等と
 は未だに交渉段階である。言うまでもなく、これらの二国間協定は両国の貿易促進に利する
 ものであり、世界の大勢は世界貿易機関(WTO)の協定よりは、特恵税率を含む二国間協定
 を重視する傾向にあるのが実情である。

   巨大市場であり、早晩GDP(国内総生産)で日本を凌駕する中国の内陸部経済圏との交渉
 は進んでいない。中国の内陸部市場が日本経済の活路であることに、疑念の余地はない。
 また、BRICs諸国とその後のポストBRICs諸国も極めて重要である。特にポストBRICsとして、
 今日までまったく視野に無かったのがアフリカ諸国である。しかし、アフリカ市場ではLG電子
 を筆頭とした韓国が家電市場を席巻しているのが実態である。

   「なぜ韓国勢がアフリカへ進出したのか」という背景には、ブル-オ-シャン戦略がある。
 日本は従来から余りにも、レッドオ-シャン戦略であった。限られたパイを巡って激しい競争
 に明け暮れ、頑張って儲かると模倣され、低価格路線を余義なくされ疲弊したのである。
   他方、ブル-オ-シャン戦略は、未開拓の市場、未知の市場の創造を目指す戦略であり、
 そこには競争相手はなく、穏やかで争いの無い市場と高い収益が約束されている。
   貿易立国こそ日本の生きるべき未知である。その為にはEPAとFTAの選択を峻別し、より
 高次元の経済展望に立脚して締結交渉を進めるべきである。それは遅ればせながらのブル
 -オ-シャン戦略であり、資源・富裕層・購買力重視・低開発国尊重の政策でもある。

   今や政府として、ポストBRICs諸国を選定し、まずはFTA、続いてEPA締結に向けて強力に
 進めるべきである。海外輸出の拡大なくして日本の未来はないからである。

 【2009年8月提出】
                  国家試験の受験料の更なる減額を

   昨今の不況に苦しむ国家試験の受験者を代表し、受験料の更なる減額をお願いしたい。
 近年、資格検定ブ-ムが益々盛況となり、良い意味で国民の好学意欲を喚起していることは
 結構なことではある。しかしながら、何かにつけ資格取得が必要となり、法的に義務付けられ
 るのは如何なものであろうか。業務上の必要資格、試験、受験料について、特に国家試験の
 場合での再検討をお願いしたい。

   最近、民間の「漢字検定」において不祥事が発覚した。国民の漢字文化の向上に貢献はあ
 ったが、検定が入学試験と結びつき、そこに必須という関門に利権が生まれ、言わば弱みに
 付け込んだ主催者が高い受験料を課し、私腹を肥やした結果である。誠に許し難い。

   国家試験においては、そのような悪弊は無いと思うが、法制化が国民の義務を誘起し、義
 務化が高い受験料を誘発するという構造は無いであろうか。どう考えても、試験実施の手間
 の割には、受験料が高すぎるという例があった。しかも、当該国家資格は極めて多くの受験
 者を対象とする反面、過去問の繰り返しにより試験実施の実質必要経費は極めて安いと思
 われるのであった。このような現実は、インタ-ネット上で批判され、最近、受験料が減額されるこ
 とになった。世論の力の結果として、喜ばしいことである。

   国家試験の受験料の適正金額は如何にあるべきかは議論の余地がある。しかし、広く国
 民に資格取得を義務付けるなら、そこに経費が余りかからないのなら、当然に減額されてし
 かるべきである。
   昨今の不況で、受験料を受験者:社員の善意に依存して、企業は企業にとって必要な資格
 にもかかわらず、合格後に精算しない場合がある。これでは、年収が減少している昨今の会
 社員に対して、余りにも気の毒である。
   国家試験の受験料は固定額である必要はまったくない。現下の経済状況に応じて、適時、
 減額していただければ有難いことである。

 【2009年9月提出】
                     夏至の日を国民の祝日に

   夏至の日を国民の祝日にすることを提案する。国民の祝日が増えることに、原則、異論を
 唱える国民は少ないと思う。特に、6月は祝日が無い唯一の月である。また、1年の半分の折
 り返し点にも近く、季節的にも夏の始まりである。初夏の日に休日を取り、後半の半年を乗り
 切る英気を養うことは大切であると思う。何故、夏至の日かについては、私はまた、以下のよ
 うにも考える。

   我が国は、国名からも国旗からも、旭日をシンボルとしている。その太陽が中天に最も高く
 輝くのがまさしく夏至の日であり、日本国と旭日と夏至は深い関係があると言える。また、世界
 的にも北欧諸国は古来より夏至の日を祝い、日本人とル-ツを同じくすると言うインカ文明も
 ことのほか夏至の日を大切にしている。
   そして、現状の経済状況を考える時、特に、内需の拡大の為には、祝日の増加がひとつの
 刺激策になるとも考えられる。
   もとより国民の祝日は、国民のコンセンサスが得られなければならない。その点において、
 既に春分の日、秋分の日が祝日であることから国民の理解も得られやすいと考える。

   かって、国民の祝日は、議員立法において上程された経緯もあるが、内閣府が中心となっ
 て夏至の日祝日法案の立法化を実現していただければ、多くの国民の喜ぶことになると思わ
 れる。不況の中でも、依然として働き過ぎの国民が多いなか、確かな休日は実に有難く思う。
 また、暦によっては当然に三連休にもなり、このことが国内旅行を喚起し、消費拡大、内需拡
 大に結び付くと思われる。そして、何よりも毎月どこかに国民の祝日があることは、とても嬉し
 いことである。

   夏至の日が祝日となれば、天文ブ-ム等の新しい企画が創出され、新たな潜在需要も堀
 り起こされると期待される。国民の祝日の増加は、需要創出の起爆剤である。夏至の日を新
 たな国民の祝日にすることを提案する。

 【2009年10月提出】
                 オバマ米国大統領の広島・長崎訪問の実現を

   オバマ米国大統領のノ-ベル平和賞の受賞は何はともあれ喜ばしく、選考委員会に敬意
 を表したい。この慶事により各廃絶による世界平和が大きく進展することを期待する。

   さて、日本人なら誰しも思う事は、長年の悲願である米国大統領の広島・長崎訪問である。
 広島の原爆ド-ムで祈り、資料館で原爆投下直後の惨状を目のあたりにし、また、長崎では
 原爆投下地点に佇み、資料館で被爆者の被災の現状を肌で感じて欲しい。故郷が長崎市で
 ある私は、心の底からそう願う。

   戦後六十余年が経過し、未だに米国大統領の両市の訪問が実現しないのは、複雑な政治
 背景や米国世論の事情のせいであろう。しかし、両市の訪問で謝罪の表明までを求めている
 のではない。核廃絶の表明に続く具体的な行動として、爆心地において献花をし平和を祈念
 して欲しいと思うのである。このことの世界へのアピ-ルの高価は甚大である。

   ノ-ベル平和賞は時として政治的と良く言われる。選考委員会もオバマ米国大統領に対す
 る有言実行を期待してのことであることは疑いがない。だからこそ、ここ1年はまさにチャンス
 到来なのである。日本国政府は、是非この国民の悲願を実現させるべく外交交渉を粘り強く
 進めて欲しい。

  無論、少なからず障害もあるであろう。しかし、最後はオバマ大統領自身の決断事項である
 と思われる。実現すれば、世界に歓呼の大合唱が起こるであろう。謝罪ではなくてもよい。哀
 悼の意を示すしてくれればそれでよい。世界遺産となった原爆ド-ムの前で、米国の現役大
 統領が頭を垂れる、ただそれだけでもよい。ただし、両市は共に訪問して欲しい。

   オバマ米国大統領の真価が問われるのはこれからである。ノ-ベル平和賞選考委員会は
 よくぞ、この英断を行ってくれた。日本国政府はこの絶好のチャンスを活かして、精力的に交
 渉を進めて欲しい。これは日本国民の総意であり、強い悲願であるからである。

 【2009年11月提出】
                 全国一斉の大学卒業資格試験の実施を

   現在、大学生の学力低下と、特に私立大学の経営危機が懸念されている。この問題に関し
 て、私立大学側、及び許認可権を有する監督官庁には責任は無いのか、と問いたい。

  豊かな時代に育った学生のハングリ-精神や上昇志向の欠如は、ある意味では仕方ない。
 しかし、それに迎合する大学側も、行政側も、そして社会も甘すぎると思う。いつの時代も競
 争は社会の発展の原動力である。

   多くの大学の職員と懇談すると、ほんの一部の学生は優秀だが、残りの大部分の学生の
 平均値は毎年低下していると本音を漏らしている。その背景には、大学の乱立と、経営至上
 主義、文科省の形式主義的な認可、AO入試等があり、根底には厳しさの欠如がある。 

   国立大学でもこんなにやさしい入学試験問題でよいのかと思うし、定員割れを心配する私
 立大学の入試のハ-ドルは低すぎる。学校法人も経営は大切だが、卒業基準も甘いことか
 ら、そんな駄目学生を社会に出してよいのか、と私たち三十五年前の卒業生は憂慮する。

   私立大学は有名大学の肥大化と無名大学の多様化に両極化している。また、有名大学の
 一つの新学部の開設は、無名の新設大学に匹敵するほどの集客力がある。文科省は設置
 基準さえ満たせば認可していると聞く。更に、経営難に陥った大学の不法行為もある。新設大
 学の安易な乱立とそれに起因する経営的破綻は、今や社会問題である。勿論、少子化の問
 題も背景にあるが、監督官庁の規制を強めて、安易な大学乱立は抑制すべきである。

  無論、高等教育を受ける機会の喪失は学生にとっては不幸であり、国家的にも損失である。
 しかしやはり、大学全体として学生の学力向上に厳しく取り組むべきである。その方法として、
 全国一斉の卒業資格試験の実施がある。就職活動もあるが、就職内定後に資格試験を年内
 に実施し、不合格者には翌春に再試験の機会を与えるなどをして、卒業する学生のレベルを
 保つべきである。

 【2009年12月】
                公立高校授業料無償化への懸念と対策

   政権交代後の民主党政権の政策として、公立高校授業料の実質無償化が実現する見込
 みであり、このこと自体は喜ばしい。育った家庭の生活水準に関係なく教育の機会を等しく与
 えることは、国家としての責務であり国民の権利でもある。また、科学技術立国を目指すべく
 我が国が、高い教育水準を維持するべきことには論はまたない。教育は日本の最重要生命
 線であるからである。

  しかしながら、昨今の大学生の学力低下は著しく、その前段階としての高校生は、公立高校
 と私立高校の格差は大きい。特に、一部の公立高校が荒廃している現状は憂慮すべき事態
 であり、改善も進んでいない。
   このような状況において、懸念されることとして一部の公立高校の益々の荒廃がある。高齢
 者による社会的入院もしくは通院の現状に似て、無償化による負の効果として、中学卒業生
 の社会的進学、即ち、望ましくない高校進学による悪影響がないかと懸念される。この問題に
 関して、現在、マスコミでの議論はないが、やがて問題になると思われる。

   結論を先に言えば、問題児にまで授業料を無償にする必要があるのか。何が問題児か、
 公平性に反しないかとの議論はあるが、高校は義務教育ではない。公立高校での著しい問題
 児には、授業料は卒業後に返還債務を課してもよいかと思われる。そのような対策は、やが
 て必要になってくるとの懸念がある。税金で無償化を実現して行くのだから、公立高校生も自
 覚をもって行動を慎むべきである。退学処分に至らない懲罰として、授業料返還債務に関し
 て、都道府県で条例として検討されてもよいのではないかと思う。また、監督官庁としての文部
 科学省は、そのような見解を発表してもよいかと思う。

   受益者としての高校生、及びその保護者は、授業料無償化を単純に喜ぶべきではない。品
 行方正で優秀な生徒には朗報でも、問題児には金銭的債務の警告を与えるべきである。

 【2010年1月提出】
                   踏切の無謀横断の罰則強化を

   大阪のJR線では踏切の無謀横断が頻発している。早朝の通勤時に、踏切の遮断棒が破
 損され、その安全性確認の為にしばしば電車は遅れる。時には1時間近くのこともある。この
 ことは大変な迷惑であり、もし踏切内で車がエンストした場合は、重大な列車事故となる。決し
 て過失ではなく、故意の列車転覆罪にも至る可能性がある。沿線住民のモラルの低さが情け
 ないし、日々通勤する市民として、そのような者は厳罰に処して欲しい。

   関係者に尋ねると、踏切には監視カメラは必ずしも完備されていないと言う。将来必ず重大
 な転覆事故が起こり、多くの死傷者が発生する懸念がある。監督官庁としての国土交通省は
 しかるべき法改正をして、違反者の摘発と厳罰化を実施して欲しいし、JRの監視カメラの完備
 への補助金を出して欲しい。

   常習者のモラルの向上を期待している時間的な余裕等はない。遮断棒を間隔を開けて複
 数本にするとか新聞広告やTVでのキャンペ-ンを行うなどのことを実施して欲しい。事故が発
 生して多数の死傷者が出てからでは遅いのである。自分がそのような事故に巻き込まれる危
 険性も少なくないのだから、決して人ごとではない。明日にも起こり得るのである。

   遮断棒に表示板を付け、警告の文言を表示することは有効だろう。「監視カメラ作動中、違
 反者は直ちに通報する。」などと明記するのも効果があるだろう。いずれにしても、喫緊の課
 題である。重大事故が起きてからでは遅いのである。器物破損という犯罪に留まらず、その気
 はなかったとしても、重大事故の発生が起こり得ると知った上での行為なので、列車往来妨害
 罪だ。

   国土交通省として、重大事故が起こる前に対策を行って欲しい。違反者の検挙の徹底と厳
 罰化は絶対に必要である。また、道路交通法でも免許停止処分に罰則改正をすべきである。
 近い内に重大事故が起こる危険性が高いので、早急に対策を行うべきである。

 【2010年2月提出】
                     難民認定基準の緩和を

   先日、アフリカ難民の男性と話をする機会があった。彼らの地位は不安定であり、国連重
 視、命重視の鳩山内閣の方針に鑑み、難民認定基準の緩和を行うべきだと痛感した。

   アフリカ難民は、国情不安や民族対立と浄化、貧困、武装集団や国軍からの逃亡が主な
 理由であるようだ。特に、コンゴやウガンダでは、貴重な金属資源が豊富にあることから、軍
 政による重大な人権侵害がある。我々は日本において、それらのマスコミ報道を見聞すること
 は稀であり、アフリカの難民問題は余りにも、対岸の火事との認識しかない。
   遠く離れた日本に何故来たのかと尋ねると、日本は安全な国の象徴であり、故国より極め
 て遠いから安心だという理由であった。

   さて、日本の現行の難民認定基準は、複雑というより根本的に人道主義的な立場ではない
 と思われる。なぜなら、証拠主義、公平性の欠如、立証機会の剥奪があるからである。
   まず、難民は迫害を受け、命からがら祖国を逃れた人が多く、難民であることの証拠を持ち
 合わせない場合がほとんどである。次に、難民認定の一次審査と異議申立の二次審査は共
 に入国管理局が行うし、参与委員の任命権も事実上は入管が握っていて、中立性や公平性
 が確保されていないのが現状のようである。更に、「逃亡の恐れあり」との理由で収容された
 難民申請者は、難民の立証機会は剥奪されたのも同然だと言える。

   現在、アフリカへのビジネス進出を標榜している日本の大企業がある。確かにその国の経
 済に貢献する面もあるだろうが、その国からの難民の受け入れには基準緩和の配慮はでき
 ないものだろうか。資源外交、経済優先外交だけの実態では、日本国としては恥ずかしい。

   難民問題が極めて難しいことは承知している。しかし、たまたまその国に命を受けたことだ
 けで苦難の人生になることは可哀そうである。命を大事にする現内閣は、是非とも現行の難
 民基準の緩和を検討して欲しい。

 【2010年3月提出】
                    日本は真摯に韓国に学べ

   今日、韓国サムスン・LGの躍進は顕著である。製造業において何故日本はかくも後塵を拝
 しているのか。答えは日本企業における世界戦略の欠如であり、更に言えば日本の危機意識
 の喪失である。安穏な島国国家と幾多の辛酸を経た半島国家との国家戦略の差異である。

   新内閣の国家戦略室は、早急に日本の世界戦略を策定せよ。現状は余りにも稚拙である。
 海外市場開拓に賭ける多くの施策が、韓国より劣っていることは疑うくもない。
  その指針として、ブル-オ-シャン戦略がある。電機・自動車のメ-カ-を統廃合させ、不
 毛な国内競争を無くし、新興国の富裕層への販売拡大を早急に急ぐべきである。サムスンと
 LGはその先駆者であり、今や技術と販売力とブランドで世界を席巻している。

   国家の方向性は国家戦略室が策定すべきである。ライバルは外にあり、韓国・中国・インド
 である。特に韓国には心情的に負けたくない。バンク-バ-オリンピックのスケ-トで象徴さ
 れるように、勝負に勝つことへの執念の差である。若者を鍛え直さないと、日本の未来は緩や
 かだが確実な凋落が必至となる。

   国家戦略室は、国家の目指すべく繁栄の道への模索へ国民的議論を喚起すべきである。
 国民に懸賞付き論文投稿を呼び掛けるのもよい。その時、視点のヒントはサムスン・LGの英
 断である。第一は、大胆かつ迅速な経営判断、第二は、高付加価値の商品の集中的販売戦
 略、第三は、新興・途上国への果敢な海外戦略だ。日本は真摯に、サムスン・LGに学ばなけ
 れはならない。

   日本のライバルは、韓国から中国・インドへと続く。今日、当面の韓国に打ち勝つ戦略を策
 定し、実施しなければ日本の未来はない。

   もし、韓国を見下したり、侮ったりする心情があれば、それは大問題だ。隣国が強いライバ
 ルに育ったことは、日本には幸せである。今や韓国に本当に真摯に学ぶべき時が来ていると
 と、確信を持って明言できるのである。
                                          - 全12提言 完 -

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++