| 『英国の医療改革から学ぶ』(全9回) 近藤克則(日本福祉大学社会福祉学部教授) |
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| (1) | 経済協力開発機構(OECD)には、現在、30カ国が加盟している.各国の医療費の国内総生産(GDP)比のデータを見ると、平均が8%前後である.日本の医療費は高いイメージだが、実は、その平均値より低く、他の国と比べて決して高くはない.また、国の経済力が豊かになり、GDPが大きくなるほど、より多くのお金を医療に使う傾向がある. 先進7カ国に限れば平均9%で、日本は第6位、最下位の第7位はイギリスである.しかし、おそらく3年以内に、この立場は逆転する.なぜなら、イギリスは、先進7カ国中最下位の医療費水準を長年続けた結果、医療が荒廃したため、2000年に、5年かけて医療費を1.5倍に増やすという政策に転換したからである.その成果が徐々に現れているとの報告もあり、いずれ日本は追い抜かれて医療費で最下位になる. もし日本が、引き続き医療費抑制政策を続けるならば、どのような事態が起きてくるのか―イギリスの医療は、現地のジャーナリストが、「イギリスの医療の状況は、今や第三世界並みだ」というほど荒廃した.その背景、経過を、紹介しようと思う. |
| (2) | 救急医療で3時間半待ち!? 1979年、サッチャー首相が政権につき、医療を良くしようと、種々の改革を行ったが、その青写真を描いたのが、全英にチェーン展開しているセインズベリーというスーパーマーケットのグリフィス会長だった.彼は、日本でいえばイトーヨーカ堂グループの会長のような人で、「もっと民間マネジメント手法を学べ.外枠は税金でも、内部に市場を」というレポートで医療改革をリードした.今の日本に似ており、イギリスは株式会社参入の議論を経験済みである.競争を導入すれば、医療費を増やさずに質は上がると信じて取り組んだが、結果は、いろいろな問題を招いた. その一端として、“waiting list”と呼ばれる待機者問題が挙げられる(★).例えば、イギリスの200を超える病院の救命救急センターを受診した約3,900人を対象にした、入院待機時間の調査では、平均が3時間半を超えていた. 日本でも、“3時間待ちの3分診療”といわれるが、これは救急医療ではなく一般医療での話である. ところが、イギリスでは、救命救急が問われる重症患者でも平均3時間半待つのである.しかも、救命救急センターで「入院が必要なほど重症と診断された時点でストップウォッチを押し、無事病室にたどり着くまで」の時間である.最長記録は78時間(3日と6時間)で、待たされる間は、ストレッチャー(車輪付き担架)に乗せられている.他の人が来るといつでも移動させられるような劣悪な環境に置かれるのである. また、冬になると、インフルエンザ等の流行でベッド不足になり、“wintercrisis(冬の危機)”が毎年のように起きる.看護師が、この“winter crisis”の前に辞めたいということで、秋に退職希望者が増えるほどである.私が滞在していた年には、保健省に対策本部が設置され、退職を考えている看護師に、冬の間働いたら退職金を割り増すなどして、乗り切ろうというほど、深刻な状況だった.一方、一般医療受診患者の半数は、原則予約制で、2日以上待たないと診てもらえない. (★) 待機者問題(waiting list) ・救急医療 200超の救命救急センターを受診した3,893人 →入院待機時間の平均が3時間32分 ・一般医療 一般医療受診患者の半数が2日以上待機(2000年) ・専門医療 10万人分の入院待機者リスト削減の公約を超過達成 しかし、さらに100.7万人分も待機者が残っていた |
| (3) | 人手不足で入院待機者100万人 さらに、信じられない話があった.私が滞英中に、ブレア首相が二期目の政権をねらう総選挙があった.彼は、一期目の政権に就くとき、専門医療の“待機者リスト”を10万人分減らしてみせると公約し、二期目の選挙直前に、15万人分も減らし、目標を超過達成したという.選挙公約は守られないものだと思っていた私は感心したが、イギリス国民の反応は非常に冷ややかだった. 実は、15万人分削減しても、さらに100万人分も待機者が残っていたからである.手術を1年半以上待っている人が118人もいて、なかには、他の緊急手術を理由に手術を4回も延ばされ、その間にがんが進行し、手遅れになったという悲惨なケースもある. この背景には、深刻な人手不足がある.人口当たりの医師数は、ヨーロッパ諸国に比べ約3分の2と少ない.さらに、年間新規登録医師が5年前には1万1,000人いたが、最近は、医学部を卒業しても登録せず海外に出てしまい、8,700人に減少している.その分、研修医たちが一生懸命働いている.ヨーロッパの労働基準法による労働時間は週48時間で、日曜日を休み、週6日働いて1日8時間労働である.一方、イギリスでは、医師不足のため、日曜日まで毎日8時間、つまり、8時間余分に働いてよいという労働基準である.しかし、調査をしたら、この56時間を超える研修医が6割を占めていて、社会問題化した. その対策が、“大英帝国”らしいのだが、海外から医師・看護師を受け入れているのである.その規模は、看護師で5,000人、多い年では1万人を超え、ある地域では、看護師の7割がフィリピン人だという.加えて、医学部の定員増などの努力はしているが、なかなか改善しない状況である. |
| (4) | 医療費抑制政策からの転換 それらが医療従事者の士気の低下につながっていて、医師の自殺率は、他の同程度の学歴を持つ専門職の2倍だという.イギリスの医師会雑誌『BMJ』の2001年322巻の巻頭言のタイトルは、「なぜ医師はこれほど不幸なのか」.皆そういう思いを抱きながら働いているという. 看護師の自殺率は、同学歴の他職種の女性の4倍で、死にたくなるほどつらい仕事だというわけだ.毎年21%の看護師が辞めている.ナイチンゲールを生んだ国であり、看護学校は人気なのだが、現場の大変さを知り、進路変更したりして脱落する者が17%に上る. イギリスの医療保障制度NHS(National Health Service)が、なぜ、これほど荒廃したのか.多くの研究者が口を揃えていうのが、(1)これほど長期間、医療費抑制政策を続ければ、医療が荒廃して当たり前という理由である.加えて、(2)NHSの組織の肥大化、(3)イギリス人にもよく分からないほどの頻繁な制度改革、(4)これらの積み重なりによる医療従事者の士気の低下―という4つの理由にまとめられそうである. これらを踏まえ、ブレア首相が、医療費抑制のままでは無理ということで、2000年から5年かけて医療費を1.5倍にすると宣言した(★).「大盤振る舞い」との批判には、「贅沢ではない.ドイツ、フランス並みのGDP比9%に近づけるには、医療費を1.5倍にしなければならない」というのである. 日本も、もし、ヨーロッパ諸国並みにしようとすれば、医療費を3〜4割、増やして当然だということである. (★) ブレア首相の医療費投入宣言 ・医療費抑制したままでは無理 ・2005年までの5年間に1.5倍=ヨーロッパの平均レベルへ ・The NHS plan(2000) ・The NHS improvement plan(2004) |
| (5) | 人手不足と研修医の惨状 医療の質については、イギリスでも医療事故が多発し、社会問題化した.日本でも多発しているが、その背景として、医療現場の人手不足が挙げられる. 例えば、日本では、急性期病棟の看護師数は欧米の約半分の水準で、医師数も、医師不足が叫ばれているイギリスと、さほど変わらない.しかも、イギリスは医学部定員を増やしており、いずれ日本より高い水準になるであろう. 日本の医療法が定める基準からみても医師不足である.入院患者16人ごとに1人、および外来患者40人ごとに1人の医師を配置するという標準数(人員配置基準)を満たしていない、いわゆる“標欠病院”が、全国調査で25%もあるのが、わが国の実情である. さらに、昨年4月に、国立病院が独立行政法人化し、監督官庁になった厚生労働省が、病院職員のサービス残業を調査したところ、残業代の財源が足りないことが明らかになった.逆にいえば、今まで億円単位で残業代を払っていなかった違法状態であったのである. 前述のように、イギリスの研修医はよく働くが、日本でも同様であり、過去の判例では、週73時間以上働いていて亡くなった研修医が過労死と認定されている.しかも、日本全国の国立大学病院の研修医の平均労働時間は、週88時間であった.医療事故は、航空機事故とよく比較されるが、日本の研修医は、月に85時間に制限されているパイロットの4倍働いている.航空機事故の専門家は、「このような労働実態が現実だとしたら、医療事故が起きないほうが不思議である」とコメントしている.これが、今の日本の医療現場である. |
| (6) | 対岸の火事とはいえないイギリス事情 待機者問題についても、「日本はフリーアクセスでよかった」と思うかも知れないが、これは1次・2次医療の話である.病院での急性期治療後の長期療養施設入所希望者が増えて、33万人が待機、地域によっては、半年から2年待つといった状況が、現実に日本でも発生している.ところが、日本では医療費をもっと上げるべきだという世論にはならない.同じような状況に置かれていたイギリスでは、医療費を1.5倍にするという政策にも国民的な支持がある.この違いの原因は、実情が国民に十分周知されていないせいではないかと思う. 次に、日本の医療従事者の士気はどうか.保険医団体が、会員に対し、将来に希望を持てるかと聞いたところ、80歳以上の会員は87%が希望を持っていたが、これから医療を担わなければいけない若い会員は、15%しか希望を持っていなかった.昔は、自宅の電話番号を患者さんに伝え、必要があれば夜間でも診るという開業医が多かった.ところが、今や、ビルにクリニックを開業するスタイルが増えた.夜電話すると留守番電話が流れていて、不安に感じた母親が、小児科の当直医がいる基幹病院に集中し、病院の小児科医が過労状態になるという悪循環に陥っている.これらの状況を考え合わせると、イギリスは決して対岸の火事ではない.日本も同じ状況なのに、実は気づかれていないだけではないか. |
| (7) | 医療費抑制がもたらすもの 医療費抑制論者たちは、効率を高めればいいというが、果たして費用をかけずに可能なのかを吟味してみたい.医療政策研究者の間では、(1)必要な人がだれでもアクセスできる公平な医療、(2)医療費の安さ、(3)医療の質が高いという3つを同時に満たすことはできない、と意見が一致している(★). 日本は、フリーアクセスで、コストもそこそこ、質も悪くない.イギリスは、安上がりだが、待機者リスト問題が深刻で、質は日本並み.アメリカは、質は高いが、コストは世界一高く、アクセスは、無保険者が4,000万人もいる深刻な状況である.日本の医療制度は、トータルで評価すると決して悪くない.高齢者増に伴い過去に比べ増えているという理由のみで、医療費抑制の論議を重ねていてよいのであろうか. 医療費を抑え続けた場合、ふたつの可能性がある.ひとつは、自己負担を増やさず、医療費の総枠を減らす方向で、この場合、医療の質が低下し、供給量が不足して待機者問題が深刻になる.もうひとつは、財界人が主張する、自己負担を増やす方向である.これだと公的医療費が縮小し、民間保険に入る人が増え、保険会社は儲かり、お金持ちは大丈夫だが、保険に入れない人たちのアクセスが悪化する.このような行く末を国民は望んでいるのか. 社会的に見て、疾患や障害が低所得者層に多いことは、世界中で確認されている.医療を必要とする人たちが自己負担できないという理由で医療から排除されてしまうなら、果たして何のための社会保障制度であろうか. (★)同時に3つは満たせない 日 本:アクセス(公平)「○」、コスト(効率)「○」、質(効果)「△」 イギリス:アクセス(公平)「△」、コスト(効率)「○」、質(効果)「△」 アメリカ:アクセス(公平)「△」、コスト(効率)「×」、質(効果)「○」 日本の医療制度の総合評価は悪くない |
| (8) | 国民が選択する医療の質と医療費水準 過少医療や誤用医療(医療・処方ミス)の対策には、医療費の拡大が必要であり、医療の質向上と費用節減は、過剰医療の抑制でのみ両立し得る.医療質を犠牲にしない医療費抑制のためには、情報化への投資と無駄な部分の特定をする評価研究が不可欠である.医療費を抑制し過ぎると、医療の質が低下する.イギリスやアメリカでは、個々の技術や医療機関を評価し、その結果を開示して、国民に選んでもらう時代に向かっている.イギリスでは、国が、インターネット等を使って、スタンダードの医療水準を国民に公開し、現場では、そのレベルを保つように努力する.さらに、平均在院日数や治療成績も、チェックする仕組みが導入されている. 「評価と説明責任の時代」である.イギリスの研究では、病院の医師が少なければ、医療費は安くなるが、死亡率は高くなる.一方、医師数が多ければ、医療費は高いが、死亡率が低い.これを説明されたうえで、国民がどちらかを選ぶ、そういう時代に向かっているのではないか. |
| (9) | 日本の医療の本当の課題 以上、イギリスから学ぶべきものは、医療費を長期間抑制し続ければ医療は荒廃し、その回復には、膨大なお金と時間がかかること、さらに、医療の質や安全性の向上のためには、国レベルの仕組みづくりが必要であること.大局的には、「医療費抑制の時代」を超え、「評価と説明責任の時代」に向かうことが、今、求められている. 日本の医療費水準は先進国のなかでは低い(★).だとすれば、医療費の抑制が課題なのではなく、医療の質、安全性、公平性を崩さないことが課題である.そのためには、適正な医療費拡大は不可欠だという主張に、国民の支持が得られるかどうか.さらに、拡大する医療費を、自己負担とするか、公的負担とするか.これは国民が、どちらを選択するかによって決まる. 加えて、医療従事者、医療機関の自己改革も重要であり、診療報酬による誘導のみでなく、医療全体を底上げするような、国レベルの仕組みづくりが、今求められている. 〈参考文献〉 近藤克則:「医療費抑制の時代」を超えて―イギリスの医療・福祉改革(医学書院) (★)どうする日本の医療 ・医療費水準、先進国で最低レベル、医療費のマクロの効率は世界一 (WHO;2000) ・むしろ課題は医療の質・安全、公平性確保 ・適度な医療費拡大は不可欠 ・医療費の総枠拡大に、国民の支持が得られるか? ・拡大する医療費は、公的 or 私的どちらで? ・必要な医療従事者・機関の自己改革 ・全体を底上げする仕組みづくりの論議を |