有田(伊万里)焼

磁器の絵付けが特徴であって色彩の魔術.伊万里港で扱われたため伊万里焼の別称がある


[有田焼マップ]
から30分
[有田焼]
有田焼(ありたやき)は、「伊万里焼(いまりやき)」とも呼ばれる.佐賀県有田町を中心に焼かれる磁器である.伊万里焼とは、有田焼が伊万里港から積み出されたことによる別称である.泉山陶石・天草陶石等を原料とし、製造時期・様式などにより、初期伊万里古九谷様式柿右衛門様式金襴手(きんらんで)などに大別される.鍋島藩の藩窯で、主に献上用のみを焼いたものを「鍋島様式」、同じく天皇家に献上したものを「禁裏様式」と呼ぶ.
有田は本邦最古の磁器生産地で、豊臣秀吉が朝鮮出兵の際、鍋島藩主が朝鮮人陶工を連れ帰ったことが始まり(1616頃:李参平).江戸時代後期になり、各地で磁器生産が始まった.
  古伊万里・有田焼は、当初は藍染付であったが.色具を加えて五彩、七彩となった.鍋島様式とは赤・黄・緑の三彩のみの古九谷様式で(適当な呼称とはいえないと思う)、上絵付けするのが特徴一つ.大川内山の藩窯が正式な鍋島焼.鍋島焼は献上品として、藩の権威をかけて焼かれただけに、すべてに一流で、当時流行の江戸小紋、能装束、歌舞伎衣装などの図柄を江戸の絵師に描かせ、それを大川内山(地名)の職人に渡して学ばせたといわれてる.

古くは、九谷藩士の後藤才次郎
が有田で技術習得をし、九谷に技術導入をしている(1655頃).その焼は青手九谷であって、いわゆる 赤・黄・青(緑)の古九谷様式は、つまりは伊万里・有田焼きである.再興九谷になり九谷庄三が、能登呉須・黄・群青・紫を加えて五彩磁器の祖となっている.九谷焼きが、輸出で有名になり、古伊万里焼きが古九谷様式と誤って呼ばれたと言われている(1655)が、研究の余地を残している.

1806年に瀬戸の加藤民平が有田に潜入し、その技術を瀬戸に持ち込んでいる.
平杯
自分は訪れた事がありません.
[鍋島焼]