尻尾が九つに分かれた狐。天下が太平になると出現する祥瑞の一つとされた。「古本竹書紀年」に夏(か)の伯杼子が東征して〈狐の九尾なる〉を得たといい、「山海経」海外東経には青丘国にいる狐は九尾だと書かれており、東方の霊獣と考えられたらしい。
「白虎通」では、九尾は子孫がふえることを象徴するとされ、また「呉越春秋」には、禹(う)は九尾狐を見て塗山氏の娘をめとったとあり、婚姻と子孫の多産などの生命力に関する信仰があったものと思われる。後漢時代の画像石では、女神、西王母の図像の周囲にしばしば九尾狐が描かれ、また甘粛省武威出土の銘旌(めいせい)では太陽の中に九尾狐がある。 |
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後世、狐の妖性が強調され、封神演義では、殷の紂王の妖妃、妲己は、〈九尾金毛の狐〉が化けたものだとされている。即ち、紂王を狂わせ国を滅ぼす.その700年後、インドの皇子の夫人におさまるが、名医によって正体を見破られる.その後中国に戻り、周帝の側室となり、周をも滅ぼす.唐の玄宗の頃、遣唐使吉備真備が帰国するその船に、中国人美少女、その名を若藻といったが博多上陸とともに姿を消したという.このときが日本上陸であった. |
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その300年後、鳥羽上皇の宮中に藻と名乗る未少女が使えっていた.その美貌と才覚で上皇の寵愛を受ける.ある秋の日の和歌の夕べの時、一陣の風が吹いて燈火を消し去った.暗闇の中、突然、藻の体から光が放たれた殿中が明るくなった.上皇は之には痛く感激し、玉の様な光を放つということで、玉藻の前と呼ぶようになった.しかしその後から上皇は病にかかり一向に回復を見せなかった.
九尾の陰陽師、安部泰成が召され占ったところでは玉藻の邪気が原因とでたが、上皇は信用しなかった.しかし病状ははかばかしくないので泰成が邪気退散の儀を行ったところ玉藻は九尾の姿を現し天空へ消えていったという.そして那須野が原に現れるのである.
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