●九尾伝説と玉藻前(たまものまえ)
 伝説上の美女。鳥羽法皇(1103-1156位1107-1123)の寵姫(ちょうき)玉藻前は、天竺と中国において、婬酒によって王を誘惑し、残虐な所行や悪の限りをつくして王朝を滅ぼし、日本に飛来した金毛九尾の狐の化身だった。この妖狐は、陰陽師安倍泰成に正体を見破られて天空に消え那須野に逃げるが、ついには射殺されたがその霊は石と化して近寄る人や鳥獣を殺す殺生石(せっしょうせき)になったという。のちに玄翁(げんのう)和尚の法力で、妖狐の精魂は散滅させられた。石を砕くときに用いる大金づちを玄翁というのは、殺生石を砕いたという、この玄翁和尚の故事によるという。
九尾を射殺

玄翁和尚と玉藻情魂


●九尾の狐
  尻尾が九つに分かれた狐。天下が太平になると出現する祥瑞の一つとされた。「古本竹書紀年」に夏(か)の伯杼子が東征して〈狐の九尾なる〉を得たといい、「山海経」海外東経には青丘国にいる狐は九尾だと書かれており、東方の霊獣と考えられたらしい。
「白虎通」では、九尾は子孫がふえることを象徴するとされ、また「呉越春秋」には、禹(う)は九尾狐を見て塗山氏の娘をめとったとあり、婚姻と子孫の多産などの生命力に関する信仰があったものと思われる。後漢時代の画像石では、女神、西王母の図像の周囲にしばしば九尾狐が描かれ、また甘粛省武威出土の銘旌(めいせい)では太陽の中に九尾狐がある。
  後世、狐の妖性が強調され、封神演義では、殷の紂王の妖妃、妲己は、〈九尾金毛の狐〉が化けたものだとされている。即ち、紂王を狂わせ国を滅ぼす.その700年後、インドの皇子の夫人におさまるが、名医によって正体を見破られる.その後中国に戻り、周帝の側室となり、周をも滅ぼす.唐の玄宗の頃、遣唐使吉備真備が帰国するその船に、中国人美少女、その名を若藻といったが博多上陸とともに姿を消したという.このときが日本上陸であった. その300年後、鳥羽上皇の宮中に藻と名乗る未少女が使えっていた.その美貌と才覚で上皇の寵愛を受ける.ある秋の日の和歌の夕べの時、一陣の風が吹いて燈火を消し去った.暗闇の中、突然、藻の体から光が放たれた殿中が明るくなった.上皇は之には痛く感激し、玉の様な光を放つということで、玉藻の前と呼ぶようになった.しかしその後から上皇は病にかかり一向に回復を見せなかった.
九尾の陰陽師、安部泰成が召され占ったところでは玉藻の邪気が原因とでたが、上皇は信用しなかった.しかし病状ははかばかしくないので泰成が邪気退散の儀を行ったところ玉藻は九尾の姿を現し天空へ消えていったという.そして那須野が原に現れるのである.
 「那須の昔ばなし」では狐は全身が子牛程の大きさで、顔の部分が白く、金色の毛に覆われて輝き、更に9本のふさふさしたとした狐だという(白面金毛九尾の狐).那須野に逃げこんだ狐は当地で悪行を重ねるというので、那須の領主須藤権守貞信は朝廷に退治を要請.朝廷の命により安倍泰成、三浦介、上総介及び貞信が那須野の谷に狐を追い込んで矢で射て退治するのだが話はそこで終わらない.以後詳細.   狐は那須野では蝉に化け、現在の黒羽町篠原にある玉藻稲荷神社の境内にある鏡が池付近に逃げ込み木枝に影を潜めたが、池面に姿が映ってしまいそこで射止められたとある.死んだ後は毒石(殺生石)となって殺生を続けたが、玄翁和尚の法力により散滅し石も三つに烈破したという.
・「下学集」という室町時代の漢和辞書に主なる記載があり.怪異譚.
九尾の妖狐の伝説は、中世において、謡曲「殺生石」に組み入れられて有名になった。江戸期に入ってから、高井蘭山の「絵本三国妖婦伝」(1804)や式亭三馬の「玉藻前三国伝記」(1809)などの小説が書かれ、人形浄瑠璃にもとりあげられた。これらを集大成したのが近松梅枝軒、佐川藤太による人形浄瑠璃《絵本増補玉藻前曦袂(あさひのたもと)》(1806)である。また、歌舞伎劇において、玉藻前を発展させた作品として鶴屋南北の「玉藻前御園公服(くもいのはれぎぬ)」(1821)などがある。

・その他

岡山県真庭郡勝山町化生寺に棲むという狐。招福の神として崇敬される。時折、人に憑くという。岡山県の人に憑く狐の中では、一番位が高い狐の一つとされる。化生寺境内には、九尾の狐由来の殺生石が伝わっている。参考文献:「世界大百科事典」平凡社.「妖怪事典」村上健司/毎日新聞社