medical history

日本医療史

江戸時代において医業は、漢方を提供する「薬師」でした.医業は誰にでも解放されていたのですが、勉学は必要でした.医師にも身分の違いがあり、見る相手の身分によって医師の間でも格を生じていたのです.つまり「御典医」がおり町医者が居たけれども、全て個人の自由開業医制であったのです.伝説を除き日本には病弱者を収容する施設はなかった.徳川吉宗の小石川養生所のみが例外的存在である.武士は儒教による道徳的規範を拠り所としていたので、武士に支配される処の医師も又、儒教的仁術を建前としていたのが特徴.一方、西洋医学は1549のキリスト教伝来により交流がなされたポルトガル・スペインの南蛮医学が初めである.1600にオランダとの出会いがある.オランダとは1639の鎖国政策があった後も長崎出島が窓口とな里続いたので、以後は蘭学の隆盛を見ました.解剖は1754山崎東洋が、次いで1771に杉田玄白が刑死体の解剖を試み「解体新書」を発表しました.この頃から蘭学の外科、内科、眼科等も翻訳されるようになったのでした.蘭医師で有名なのはシーボルトとポンペで、西洋医学教育をも行ったのです
明治維新からは急速な欧化政策がとられ、ドイツ医学が選択されました.明治4年(1871)にはドイツ人医師2名の招聘がなされ東京大学に配置されましたた.ドイツ医学教育の始まりで、卒業生は全国の医学校に教育者として配置され、各医学は徐々に大学に昇格したが、私立の大部分は専門学校にとどまりました.明治7年に76条の医制が制定され翌8年、医術開業試験が実施された(専門学校のみ).又同年、病院という医療体系を導入することとなった.その結果医師の形態は、西洋医、漢方医、大学出医、専門出医、病院医、開業医と複雑になっていきました.病院においても、開業医が自分の診療所に病院を増設することが出来ました.明治16年(1883)より、医師免許は西洋医学を学んだもののみに交付されるようになったので漢方医は自然消滅に追い込まれたが、江戸時代から続いている自由な開業の形態は保たれていた.但し、東大の教授を頂点とした医師間の序列が構築されたため、これが後に病院の医療体系に影を落とすこととなります.総じて、明治においては、西洋医学への移行は大きな混乱も無く成されたといって良いでしょう.明治39年に、医師法、歯科医師法が制定され医師の身分が確定しました
昭和に入っても、体制の変化はなかったが、戦時局面により以下の如くなる.
・昭和13年に厚生省が誕生
・昭和17年に日本医療団が設立(多く病院が移管)
・昭和18年には薬事法が統合

敗戦を迎えたことで、日本医療団は解散され、ドイツ医学への傾倒が見直され、アメリカ化を余儀なくされました.具体的には、
・医学教育の6年制大学への1本化、
・インターン制度及び医師国家試験の義務化、
・医師の調剤の禁止、
・病院看護と管理の改善、
・開業医の小規模入院施設の閉院

等が計画されたが、達成されたのは前2者のみで、インターン制度は昭和43年に廃止された.病院看護の質は向上したが、基礎は不十分で保障もなく、病院管理に関しては全く発展しなかったのです.
昭和23年の医療法において、病院と診療所の区別がなされたが病院の定義はあいまいなままで、病院管理そのもの中途で挫折しています.従って医師の自由開業制は変わらず存続したので開業医の数は相当数ありました.そして、次に述べるようにして日本医師会が誕生しました.
日本医師会のルーツは大正12年(1923)に、慶應義塾大学医学部初代学部長であった北里柴三郎が大日本医師会を創設したことにある.これより先、大正8年に郡市医師会、都道府県医師会の強制設立がきまっており、大正12年に日本医師会が法的に認められた結果、日本医師会を頂点として、その傘下に地方医師会を置く職能団体が誕生しました.これ以後、医師の組織化が加速することになりました.この傾向は、現在においても開業医に根強い.
日本の医療保険は、大正11年に国が健康保険として制度化したのである.それ迄はすべて自由診療であった.当初は一部の大企業と国鉄向けではあったが、組合管掌健康保険の基礎となった.組合を作れない中小企業には政府管掌健康保険を用意した.昭和13年に個人自営業向けの国民健康保険を導入している.これが厚生省誕生の看板ともなった.その他、公務員向けの共済組合健康保険ほか2保険ある.これらが基礎的な保険となった.
1961(昭和36年)に国民皆保険は達成され診療報酬体系も統一されたので、国民は保険証1枚でどの医療機関にでも受診できるようになった.昭和58年に老人健康保険法が成立した.保険における給付率は時代により変遷があり複雑を極めます(後述).