バルジ大作戦
あらすじ
第二次世界大戦末期、日毎にドイツの敗色は濃くなっていき、連合軍陣営の中でもこの戦争は、年内のクリスマスまでには終わると考える者も出てきていた。しかしヒトラーは窮地に陥りながらも一人密かに、連合軍に対する大反攻作戦を計画する。作戦内容はアルデンヌの森を突破し、ミューズ川を渡り、アントウェルペンを再占領して連合軍(米・英)の補給線を断つとともに、アメリカ・イギリス両軍を分断しようというものである。もしこの戦闘で大勝利を挙げることができれば、何とか米英との和平交渉も可能となり、そして和平成立後に腰を据えてソ連と戦えばよい、というのがヒトラーの粗方の考えだったようだ。
1940年にドイツはこの方法で連合軍に大打撃を与えた経験から、今回も成功するであろうと考えたのであろうか、しかし当時のドイツ軍には決定的に軍需物資と兵力が足りておらず、そのためこの計画は完全な奇襲でないと成功は危うい物だった。ドイツ軍は密かにドイツ防衛の為に、西側の国境に築かれている対戦車障壁「ジークフリード線」のエヒテルナハからモンシャウにかけての区間に、大機甲師団を集中させる。連合軍上層部はこのことを察知したものの、敵軍がこの様な大反撃に出ようとは予想していなかった。
1944年12月16日、午前5時30分、兵員25万人、戦車1000両、大砲1900門、航空機350機(内ジェット戦闘機80機)からなるドイツ軍は一斉に砲門を開き、霧の濃いアルデンヌの森の静けさは破られた。ドイツ軍最後の賭け「ラインの監視」作戦が開始されたのである。
なおこの戦いは、戦線の形から「バルジ(突出部)の戦い」、また戦場となった地域の名前から「アルデンヌの戦い」と呼ばれることも有るが、一般的には前者の方が有名である。
アントウェルペンへの道
この作戦でドイツ軍は、北は「第6親衛隊機甲軍」がアントウェルペンを目指し、中心部を「第5機甲軍」が突進し親衛隊の左翼を担い、南を「第7軍」が支援しようとした、それに対し連合軍は北を「アメリカ第1軍」、中心部を「イギリス第30軍団」、南は「アメリカ第3軍」が受ける形となる。
12月15日出撃前夜、ドイツ軍の西部戦線総司令官フォン・ルンテシュタット元帥は兵士への激励でこう述べている「西部戦線の兵士諸君!諸士にとって重大な時が到来した。わが大軍はイギリス・アメリカ軍に対して攻撃を開始したのである。本職はこれ以上何も言う必要はない。諸士自らの心に期するところがあるであろうわれわれはすべてを賭けている。諸士は、わが祖国とわが総統のために超人的目標を達成すべく全力を尽くす義務を負っているのである」この発言からもわかるとおり、この老齢な元帥は早くからこの作戦の危険性に気づき、ヒトラーを説得しようと試みたが、受け入れられず、戦いは始まってしまう。
当初ヒトラーは、制空権を奪われてしまっているこの地域で、航空機による対地攻撃が命取りと考えたため、悪天候で飛行機を地上に釘図けになっている間に、2日以内にムーズ川に達するだろうと考えた。かくして天候は彼に味方し作戦開始から5日間悪天候が続くこととなる。
ドイツ軍は当初、悪天候により連合軍の航空兵力による対地攻撃を受けずにすみ、地上部隊の対応の遅さも相俟って、優位に作戦を進めることができた。アメリカ軍陣地に奇襲をかけて戦線を押し戻し約80kmに渡る突出部をを作り出した。この突出部を担っていた第5機甲軍は最大の成功を収め、その先端部はムーズ川までわずか10kmの「セル」に至っていた。
ドーナツの穴
次第に突出していく「第五機甲軍」にとって補給線の脅威となっていたのが、南部の要衝「バストーニュ」であった。12月20日にはドイツ軍はバストーニュを包囲し、孤立状態のアメリカ第101空挺師団に対して降伏勧告を発した、それに対し師団長であるアンソニー・マッコーリフ准将は「アメリカ軍指揮官よりドイツ軍指揮官へ。くそ食らえ!」と返答したことで一躍有名となり、後にドイツ駐留アメリカ軍司令官となるがそれは別の話である。
彼らは制空権を持っている連合軍が空から支援物資を投下することで持ちこたえ、結局ドイツ軍はこの都市を陥落させることができなかった。この孤立した状態を彼らは「ドーナッツの穴」と自称している。
19日には早くも「第6親衛隊機甲軍」がジークフリード線からそう遠く無い<エルゼンボルン>を攻略できずに進撃が止まり、また「第7軍」はそう進出しないうちに「アメリカ第3軍」とバストーニュの存在により進撃が止まっていた。この状況を見たフォン・ルンテシュタットは「第6親衛隊機甲軍の戦力を割いて、成果を挙げている第5機甲軍の戦力を増強して欲しい」と本国に訴えた、しかしこの意見はヒトラーに頑なに拒否される、老元帥の意見はまたも独裁者に受け入れられる事はなかったのだ。
くしくも同じ19日、連合軍最高司令官アイゼンハワー大将は「秋霧作戦」(ヒトラーは作戦決行直前に作戦名を「ラインの監視」から「秋霧」に変更していた)を撃退するために行なわれた、首脳会議でこう言って口火を切った「現在の戦況はわが軍にとって有利に展開するひとつの機会とみるべきであり、災難と考えてはならない。ここに列席の諸官も晴れやかな顔をして頂きたい。」この会議以降南部にいた「第3軍」が北に移動に移動したことにより。北は英国のモントゴメリー元帥が指揮し、南は米国のブラッドレー大将が指揮を執る、上下で圧力を掛けてドイツ軍を押し出す作戦が可能となったのである。
21日には、ドイツ軍は激戦の末サンヴィットを占領する、しかしこの頃にはもうドイツ軍の補給は続かなくなってきており、これ以上の戦闘は被害が増すばかりであると考えたフォン・ルンテシュタット元帥は、ヒトラーに撤退命令を求めた。しかしこの意見は拒絶されたばかりか、逆に予備軍を投入して更なる攻勢をかけろ、とヒトラーは命じてくる。結果、真冬の気だるい激戦に100万もの将兵が巻き込まれることとなる。
戦場のクリスマス
12月23日ついに天候が回復した連合軍はその圧倒的な航空兵力を駆使してドイツ軍に攻撃を仕掛けてくる。連合軍の再三に渡る空撃に対して弱体化したドイツ空軍は対応することが出来ず、ドイツ軍の前線での死傷者は急増し機甲師団も進撃を中止せざるをえなくなる。
12月24日クリスマス前夜、連合軍はこの戦地に大軍を投入して追いつめられたドイツ軍に対して猛反撃を加える。これにより突出部が孤立する可能性が起こりフォン・ルンテシュタットは何度もヒトラーに撤退命令を求めるが、「死守命令」が出ただけであった。そして25日クリスマス当日、突出していた「第五機甲軍」の大半が壊滅する。
翌26日午前4時45分バストーニュを包囲しているドイツ軍に対して、放火を浴びせながら戦車が突入白兵戦が行なわれた結果、ドイツ兵12000人、アメリカ兵3900人程が死亡、また戦車はドイツ軍450両、アメリカ軍150両が破壊された。これによりバストーニュは開放されドイツ軍の進撃はもはや不可能となたことをヒトラーもしぶしぶ認め、27日には撤退に合意したが、彼は最後までこの作戦には意義があったと主張し続けた。
1月8日正式に退却命令が出された後も、延々と20日間ほど戦いは続き、1月23日連合軍がサン・ヴィッドを再占領したことにより、約1ヶ月間で戦線は元の位置に戻されたのであった。
結果的にはドイツ軍の完敗に終わったこの戦闘で、ドイツ軍は12万人が戦死10万人が捕虜となり、参加兵力25万人の9割近い損害を出した。また連合軍(大部分がアメリカ軍)は8万人近くの損害を出している。
この作戦が行なわれたとにより、ドイツ軍はソ連に対する東部戦線の兵力が薄くなり結果としてソ連軍の進撃を早め、4月22日のベルリンへの進入を許すこととなる。
戻る