信じるという事/宗教考(2)


ま、今回は独白みたいなものです。きっと、つまんないです。

最近、色々と思うことがあったので・・・。

 

前回、反宗教論みたいな事を書きましたが、

正直、世に言う「宗教」というものには歴史的興味くらいしかありません。

と言うより、

「宗教」というのは嫌いです。

 

「信心」と言うものが自身の心の内にあるという事は、

神(またはそれに類するもの)もまた、自身の心の内にあるという事です。

他人に与えてもらうものではないし、

ましてや、そんな事はもっての他。

信じてないから、なんて理由だけで

やれ天罰だ呪いだなどと、そんな神サマの何を信じろというのだろう。

 

ただ、自身の心の内にある神が現存する宗教の神に

うまく重なる人は、別にそれでいいと思うし、否定はしないけど。

自身の信じるものを感覚的に確認できると言うこと、

それはきっと幸せなことなのだと思う。

 

そういう人は、いくら他人に否定されようとも、信じつづけてほしい、と思う。

 

ただ、新興宗教などにハマッている人の中には、

何もかもを宗教(団体)に依存して生きている人が意外に多いけど、

それはまちがいだと思う。

 

・・・・・・

 

自分の場合、過去に知人の死を幾度か経験しているので、

常に人の死というのを身近に感じてきました。

 

なかでも、心から離れないのは2人の友人の死と、

宗教について考えされられた祖父の死です。

 

最初の友人の死は投身自殺でした。

考えた事あります?

昨日まで一緒に騒いでいた友人が

翌日にはもう亡くなってるんですから・・・。

あの日も、前日に「一緒に帰らない?」と誘われた時、

「部活があるから」と断ったんだけど・・・。

確かに、そんな事は予想できなかったから、

日常的な対応だったのだけれど、

もしあの時、一緒に帰っていたら、彼は何か相談してくれたのだろうか?

それとも・・・。

考えすぎかも知れないけど、忘れる訳にもいかない。

考えない訳にはいかない事だって、きっとある。

 

もう一人の友人は過労でした。25歳だったのに。

彼には、人生についてある助言を受けたことがあり、

「今はまだダメだけど、いつかは・・・」

なんて話をしていた事があります。

結局それは未だに果たせてはいないけど、いつかは、と思う。

 

これは2人の時両方に言える事なんだけれど、

僕はあまり感情を表に出すのは嫌いなので、よく周囲の人に

「あんまり悲しんでないね。」

「冷たいね。」

「あんまり仲良くなかったんでしょ?」

なんて言われて、その度に張り倒してやろうかと思った事がしばしばあった。

もう昔の話だけど・・。

 

(どうせ見る事はないと思うけど、H本っちゃん、あん時は悪かったね。

あんなに怒る気はなかったんだけど・・・。)

 

 

祖父の死。

これが、僕が宗教嫌いになる決定打だったんだと思う。

親戚の何人かがある宗教団体に所属していて、

本当は葬儀にも参列できないのだけれど、

参列するだけなら、と来ていた。

僕が違和感を最も感じたのは焼き場での出来事。

 

宗教の関係で、本来なら顕花にも納骨にも参加できないのだけれど、

焼き場から祖父の遺骨が出てきたときに、

遠くから眺めていた彼らみんな一斉に、それこそ「わっと」泣き出した。

駆け寄りたいのを必死にこらえて泣いている姿を見て、すごい違和感を感じた。

駆け寄りたいなら駆け寄ればいい。

傍に来たいのなら、それでもいいじゃないか。

いくら宗教で定められてるからと言って、

あんな、何も見えないような所でこらえる必要なんて無い。

これが、本当に最後の別れなのに・・・。

 

いくら神様だからって、人にあんな思いをさせる権利があるのだろうか?

自分の思いどおりにしている信者を見て、それで満足しているような神様の、

何を、どう信じろと言うのか。

世に「独裁者」と言われた連中と、どこに違いがあると言うのだろう?

 

信心というものは、自身の良心と共に

自身の内に在るものでなければならない。

きっと、そうでなければならないんだ、と思う。

 

なんだか悲しくなってきた。

これが、信じるという事を考える機会になってくれればいいのだけれど・・。

 

 

今回はこれで終わりです。もうこんな事は書かないと思う。


BACK  HOME