『古事記』と『日本書紀』


日本史としては外せない2作品ですね。

今回は、昭和の日本史研究において指標となっていた、

この2著に関する話。

 

ところで・・・

『古事記』『日本書紀』は、本当に正しい?

個人的には、記紀神話に関しては、

正しくはないが、ある部分では信頼できるかも

と考えています。

 

この両著を総称して『記紀神話』などとも呼びますが、

そのそも、この『記紀神話』なるものは、

日本の歴史を統合する意図で編纂された歴史書です。

被支配国の歴史を取り込むことで、

自分達が外部の人間でないことを主張するのは、

”占領”という行為においては重要だからです。

ローマがこの手段を用いていたのは有名です。

 

この両著は、日本建国時代の歴史を記載しているもので、

書かれている時代の範囲はほとんど一緒です。

ですが、両著を比較すると、

同じ人物や、同じ事件に関して書かれている記述に、

まれに相違がある事が分かります。

 

 

例によってケーススタディ

有名な”神武東征”の箇所。

”神武東征”となっている『日本書紀』では、

神武一行は軍隊ではありません。

少なくとも、その編成は戦うための集団とは違うようです。

内容も、神武の”大和への婿入り”が話の主題になっているように思えます。

難波(なにわ)に上陸したところで、

婿入りに反発する”ナガスネヒコ”の軍隊に攻撃され、

ほうほうの体で逃走します。

とても大和には近づけなくなってしまいました。

で、紀伊半島の反対側から再上陸、再度大和へ向かいます。

で、大和に到達したところで、

もうひとりの天孫(ニギヤハヒノミコト)が何の伏線もなく現れ、

神武天皇に大和の主権を譲渡して突然の終幕。

ナガスネヒコは、何故かニギハヤヒに殺されてしまいます。

 

 

で、『古事記』では”神武東遷”となっています。

編成は、おそらく、完全な軍隊です。

やはり難波から上陸しようとしてナガスネヒコに阻まれます。

方位が悪かったから負けました。

で、吉方位である紀伊半島の反対側にまわり、

他の部族を制圧しつつ、再度大和に進行します。

(酒宴を開いてだまし討ちとか、結構汚い手口)

そしてナガスネヒコとの決戦になるのですが、

何故か唐突に詩が二首読まれ、

気がついたら勝利しています。

ナガスネヒコは逃亡します。

ニギハヤヒノミコトは登場しません。

『古事記』版”神武東遷”での最大の特徴といえるのは、

”大和勢との戦闘場面は短歌を詠んでるだけで、具体的な内容には一切触れない”

という点でしょうかね。

無茶苦茶な話の逸らしかたです。

ちなみに、この時にでてくる短歌には、

有名な「打ちてし止まぬ」の一文が出てきます。

 

双方の記述を表にしてみましょう。

日本書紀

古事記

神武東征

神武東遷

目的は大和

目的は大和

編成は、非戦闘員のほうが多い?

編成は、軍隊(遠征軍)

難波に上陸

難波に上陸

ナガスネヒコの襲撃

ナガスネヒコとの戦闘

慌てて逃走

戦術的撤退

紀伊半島の反対側から大和へ向かう

紀伊半島の反対側から大和へ向かう

 

土着部族を併合し、軍の強化

大和へ到達

大和へ到達

ニギハヤヒの主権譲渡

大和勢力との戦闘、勝利

ナガスネヒコはニギハヤヒに殺害される

ナガスネヒコ敗走

 

私見を交えて考えてみましょう。

この2作品で内容が同じなのは目的地と行程、ナガスネヒコの攻撃だけで、

それ以外の部分は両著でばらばらです。

それをふまえて考えると、

両著の編纂者が元ネタとしたものは同じものだったのでしょう。

おそらくは”行程に関する記録”です。

ただ、神武一行がどのような集団だったのかという解釈に関しては、

両著の編纂者はそれぞれ別の解釈を持ったのでしょう。

軍隊なのか、そうでないのかという違いによって、

登場人物たちの行動は当然変わってくるわけです。

両著での相違は、そのまま神武一行に対する解釈の違いな訳です。

 

解釈によって内容に差異が出ると言うことは、

とどのつまり、どちらも編纂者の創作なのだと思われます。

ただ、全てが創作なのかというと、そうではなく、

九州勢が何らかの理由で大和入りしたのは事実なのかも知れません。

 

 

これは、両著の相違から導き出した結論ですので、

この話を裏付けるものは何もありません。

 そもそも、この神武天皇が実在の天皇なのか、

これに関しても諸説あります。

と言うより、神武天皇とその後の8人の天皇は、

実在しないか、もしくは別の王朝だったのではと言われています。

 

理由は様々です。

初代神武天皇と10代崇神天皇の大和入りの行程がよく似ている

2代〜9代天皇の事績に関する記載がほとんど無い

明治になるまで、神武天皇を主祭神とする神社が存在しなかった

主にこの3点です。

 

神武天皇と崇神天皇に関しては色々あります。

神武天皇の記載に関しては、

大和入りに関する記述が『記紀神話』どちらも詳細なのに反し、

大和入りした後の事績に関する記載はほとんど皆無です。

逆に崇神天皇に関しては、

即位する経緯はややあいまいなのですが、

即位後の事績に関しては、

税制や国勢などが詳細に記載されています。

その為、崇神天皇の話を分割して、

神武天皇の話としたのでは、と言う説があります。

 

政治的な内容が記載されるのは崇神天皇が最初で、

それ以前の9人には全く記載がありません。

9代開化天皇に至っては、

生没年と姻戚関係ぐらいしか記載がありません。

その為、彼ら9人は別の王朝(葛城王朝)の王達で、

後年『記紀神話』を編纂する歳に

天皇家の歴史を古くするために勝手に追加したのではと言われています。

 

 

まあ、実証できるものは何一つ発見されていないので、

真相は闇の中ですが。

 

 

 

もう一例

 継体天皇に関する箇所です。

継体天皇は、即位してから大和入りするまでに20年かかった、

謎の多い天皇です。

 

『日本書紀』には、この天皇が即位して御所に入るまでの顛末が

細かく描写されています。

先代の武烈天皇に後継者がいなかった為、

遠〜い親戚を引っ張ってきたという話です。

即位して20年後、ようやく大和入りします。

そして、継体天皇の地位が安泰となると、

九州に”天皇を詐称する人物”が現れ、

大規模な軍事行動が行われた事が記載されています。

(筑紫磐井の乱)

ところが・・・

『古事記』では、なぜか即位に関する事はあまり触れていません。

かわりに、継体天皇の姻戚関係などが長々と記載されています。

九州の戦乱に関しても、

「九州に磐井という礼に欠けた者がいるので討った」

といった2行たらずの記載だけです。

 

両著を比較すると、

この時期、数人の天皇候補による

皇位争奪戦の様子が見えてきたりします。

継体天皇以降数代にわたって、

両著間で天皇の系譜に整合性がなくなっているのも面白いです。

 

これは余談ですが、

継体天皇の先代である武烈天皇が暴君であった点も、

なかなか気になります。

武烈天皇の暴君ぶりは、

中国の『封神演戯』に登場する殷の最後の王”紂王”と良く似ていますし、

かえりみると夏の最後の王”傑王”の暴君ぶりとも酷似しています。

王権交代の前に暴君あり。

武烈天皇→継体天皇の交代劇も、

このような”事態”があった可能性が十分考えられます。

継体天皇も、本当は正当な継承者ではなかったのかも知れません。

 

 

この継体天皇の記述でも顕著に見られる特徴なのですが、

『古事記』と比較すると、

『日本書紀』は内容が詳細であるのが特徴のようです。

うがった見方をすると、

「物語として、よく出来ている」と言えるかもしれません。

歴史書の集大成というよりは、

歴史書を元にして書かれた物語という印象があります。

対する『古事記』ですが、

これも、やはり神代の記述に関しては、

良く出来た物語といえるかもしれません。

が、皇紀に入った途端に物語色が薄れてしまい、

あいまいな記述が散見されるようになります。

原因を書かずに結果だけ書くような記述が多い気がします。

 

おそらく双方の編纂者に意思の疎通はなかったのでしょう。

都合の悪い歴史に手を加える手法として、

『日本書紀』は別の物語に作り変える手段を選び、

『古事記』は、最初から記述しない方法を選んだ、

そう考えるのが妥当でしょうか。

 

 

ただ、編纂者たちを歴史の捏造者と言い切れない点があります。

「実際にそうだったのかは、もう分からない」「異説あり」

とかいった記述が散見され、

どうにも歯切れが悪いという箇所がいくつかあります。

中には、

正しい日本史として編纂されたはずなのに、

編纂者が意図的に断定を避けている箇所があるのです。

 特に、第14代仲哀(ちゅうあい)天皇の死因に関しては、

日本に残されている史料と朝鮮半島側の史料との記述が合わない、

そのような記述が『日本書紀』になされている点は特筆に値する事です。

どうも、『日本書紀』に関しては、

依頼者の意図どおりには編纂されていない可能性があるように思えます。

編纂者の葛藤の現れなのでしょうか?

 

同じ事件に関して両著を比較すると見つかる”記述の相違”、

”記述の相違”というのは、そこに”何らかの意図”が介入したという事も考えられる訳で、

”何らかの意図”が介入せざるを得ないような事態がその時起こった事をうかがい知れる、

そういう事です。

 極論ですけれども。

 

 

 

『記紀神話』の相違に関する、別の見解

”記述の相違”に介在する”何らかの意図”、

歴史の改ざんと言う意図とは違う、別の意図があったのかも知れません。

 

そもそも、歴史を”真に正しく”伝える事は可能なのでしょうか?

 

20世紀の日本近代史ですら、そうではない気がします。

『自由民権運動』の活動なぞはほとんどが”テロ行為”で、

烈士と呼ばれるテロリスト達の自爆テロが横行していた事はご存知でしょうか?

『南京大虐殺』を否定する人たちがいるのは、何故でしょうか?

『夜這い』の風習が20世紀にも残っていた事は、ご存知でしょうか?

『隠れキリシタン』は今も存在するのはご存知でしょうか?

 

人それぞれに忘れたい過去があるように、

歴史にも、未来へ伝える事が”拒まれる”ものもあるのでしょう。

その時代を生きた人が次代へと伝える事を拒んでしまえば、

それは100年と待たずに消えてしまう事になります。

ましてや、情報伝達技術が未熟な西暦700年代の日本です。

伝えられずに消えてしまった事実も多いのでしょう。

 

『記紀神話』の編纂者たちがそういった壁に阻まれたということは、

とりたてて無茶な想像ではないでしょう。

編纂者たちは穴だらけの情報ソースを元に、

日本の歴史を編纂する試練に直面したのかも知れません。

してみると、

壁に直面した編纂者たちは、

『日本書紀』側は物語の空白を埋める歴史物語を書き上げ、

『古事記』側は歴史を創作することを極力避けたのかも知れません。

 

 

 

見解を2つも並べて、じゃあ結論は何かというと、

実はさっぱり分からない(w

これに尽きます。

そもそも日本古代史自体、謎が多く、

新たな発見がまた別の謎を掘り起こしたりしているのが現状です。

学校で習う日本古代史なぞは、

実際は数十年前に考えられていた歴史なのはご存知でしょうか?

たとえば弥生時代の特色は農耕文化と習いましたが、

実際には縄文後期から既に行われていました。

さらに、今年(2005年)になって縄文前期の貝塚から

イネや麦など農耕の痕跡が確認されました。

(岡山市の彦崎貝塚)

これが事実なら、日本の農耕文化は

当初の想定より2000年以上早かった事になるそうです。

 

 

日本古代史は、

こういった地道な発掘調査や、

最近活発になっている中国大陸に残された古代日本に関する記録の研究、

そういった様々な研究によって、いつか解明される日が来るのかもしれません。

そしてその時になって、

ようやく『古事記』『日本書紀』の真偽がはっきりするのでしょうね。

 

 

 

さて、結論(?)が出た後でナニなのですが、

現在の日本史研究をとりまく環境に関して私見を述べてみようかと・・・。

これを踏まえて”秘史”を考えてみるのも一興かもしれませんね。

 

 

現在の日本史研究には、3つの大きな壁があると考えます。

 

1.記紀神話主体の研究から脱却できない

記紀神話が正しい歴史であるという見解は、

そうです、戦前の考え方ですね。

この考えは、戦後の今も依然として残っています。

”記紀神話を正しいと仮定して”日本史を研究する方向性には賛同しますが、

”記紀神話の正しさを前提として”研究するという方向性は、いかがなものでしょう。

真偽の分からないものを基準とする姿勢は、あまりにも不可解です。

 

2.学会の権威主義

日本史学界には、いまだ時代遅れな権威主義が残っています。

昨今では、かつてアウトサイダーだった方々も脚光を浴びるようになりましたが、

それでもなお、

強力な権威を持つ大先生と仲間達、

といった集団が幅を利かせているのも事実だったりします。

それゆえに、

本来疑ってかかるべきであった捏造石器などが無条件に肯定され、

あまつさえ教科書に記載される事態になるのでしょう。

捏造者だけを悪人とする姿勢は、いかがなものか。

(捏造者がエライ先生でなかったら、あの一件は違う結末だったと思いますが)

 

3.皇室の秘密主義

天皇史にまつわる遺跡は、宮内庁の管轄となっています。

そのため、ほとんどの遺跡は調査が手付かず、というのが現状です。

(調査許可が下りないのです・・・)

たとえば、仁徳天皇が埋葬されているという古墳、

教科書などで”仁徳天皇陵”と書かれているあれですが、

正確には”伝・仁徳天皇陵”という名称です。

”伝”?

つまり、実際に中を調査していないので、

本当は誰の陵墓なのか分かっていないのです。

単純に、

日本最大の前方後円墳である

仁徳天皇の人徳の高さは、記紀神話上傑出していた

記紀神話に記載された埋葬地と、なんとなく一致する

この3点から、仁徳天皇の陵墓に違いなかろうと言われているのに過ぎないのです。

実は、現存する古墳のほとんどがこのような状態です。

このような状況ですので、

皇室には”本当に正しい”日本史がつたわってるんじゃないだろうか?

だから、調査許可を出さないのでは?

などという話も出てくるわけです。

 

古墳の埋葬者が、皇室の人間である保障がないから。

 

 

 

 この話はひとまずこれで終わりです。


BACK  HOME