伝説の南方大陸


久しぶりの更新です。

南極大陸のネタは何度か取り上げましたが、

今回は、その完結編というトコロです。。。

 

 

古地図に記された南極大陸を取り上げて、

チャールズ・ハブグッド教授やグラハム・ハンコック、

エーリッヒ・フォン・デニケンといった人たちが、

『古代人が南極大陸を知っていた』証拠としてたりします。

ハンコックの理論がハブグッド教授のパクリなのは有名な話。

デニケンに至っては、

『古代人が衛星軌道上から地上を観測していた動かぬ証拠』

などと言ってたり・・・。

 

今回は、そういったオカルト愛好家はおいといて、

歴史や地理学上の南極大陸に関して追ってみようかと思います。

歴史の話なので、興味のない人には辛いかも・・・。

 

 

 

ー仮説としての”南方大陸”ー

歴史上、”南方大陸”という言葉が最初に登場するのは、

紀元前、ギリシャの哲学者達によって、でした。

 

例によってヘレニズム文化の時代なのです。

この頃既に知的エリート層の人たちにとっては、

地球が丸いと言うのは半ば常識的なことでした。

(そう思ってなかった人たちも当然いました)

 

1.地上は球形である

2.太陽は地球を周回している

3.太陽は、常に南側に見える

 

彼らは、この3点を元に自分達の住んでいる”世界”が、

地球の北半球にあると考えました。

ちなみに、ここで言う”世界”とは、

ヨーロッパ、アジア西部、アフリカ北部の事で、

彼らにとっても、世界はこれが全てだったようです。

 

で、球体の北半球に陸地を書き込んで、

それをマジマジと見つめながら思ったわけです。

「っつーか、南って、海ばっかジャン?」ってね。

これは、あまりにもバランスが悪い、おかしい、変だ。

で、彼らはこう結論づけました。

 

『南半球にも、北半球と同じくらいの大陸が存在するハズだ』

紀元前150年頃の地図です。

こんな感じですが、分かりづらいので平面図にすると、こんなです。

これは西暦40年頃の記述を元に1628年に書かれた地図です。

なんで1628年にこんな地図が書かれたのかは後述。

ちなみに、北半球にある大陸の詳細ですが、

左上のぐちゃぐちゃしてる辺りがヨーロッパ、

その下のやや広い部分がアフリカ。

半分から右は全てアジアで、

右下の出っ張りはインドです。

で、南半球にある巨大な大陸が”南方大陸”

自分達の世界と同じサイズと想定していたようです。

 

ちなみに、この時代の『知的エリート』達のなかでは、

”南方大陸”なんて無いと考えていたほうが多数派だったようです。

さらに、この時代の『知的エリート層でない人たち』にとっては、

やはり地上は平面で、

世界の果てには滝があったり、天蓋の柱があったりと考えていたようです。

 

 

ーアウグスティヌス、世にはばかるー

時は西暦426年、ローマ時代末期。

西ゴート族などの異教徒集団によって西ローマが”滅亡”寸前の時代、

アウグスティヌスという人物が

『神の国』

という本を世に送り出しました。

キリスト教の不変性を説いた著作なのですが、

この本がキリスト教社会のイデオロギーそのものを、

最悪のカタチで決定付けてしまいます。

 

アウグスティヌスは著作の中で、

『信仰を伴わない学問や研究』を全否定してしまいます。

 

キリスト教不信が蔓延していたこの時代、

神の奇跡なんてデタラメだと考えられていたこの時代、

異教徒の横暴を許す神に誰もが疑念を感じていたこの時代に、

「神サマのやる事や考えが人間ごときに分かるか、バーカ。

人間が無い知恵絞っても無駄無駄無駄。

自然界の働きや、様々な物理法則、

様々な世の動きも全て、

全部神サマが”お決めになった事”だから、

『聖書』の中にこそ、答えは”全て”書かれとるんじゃい。」

と、アウグスティヌスは言い放ったのです。

 

『神学』なるものが本格的に台頭し、

『ギリシャ哲学』が放棄された瞬間なわけです。

 

 

アウグスティヌス以降、ヨーロッパでは世界地図に関しては大きく停滞します。

というより、変化しないのです。

そうそう、一つだけ大きな変化がありました。

”南方大陸”がほぼ消滅してしまいます。

 

13世紀?の地図。

俗に『T−O地図』と呼ばれる地図ですが、

見たまんまです。

彼らが知る”世界”であった、

アジア・ヨーロッパ・アフリカ

それだけが記載されています。

もう、海岸線もへったくれもありません。

あえて説明を入れるなら、

北は左になります。

上がアジア、左下がヨーロッパ、右下がアフリカ。

アジアとヨーロッパを区切っている線が『ドン川』

アジアとアフリカを区切っている線は『ナイル川』

ヨーロッパとアフリカを区切っている線は地中海です。

全体を囲む大きな円は、世界の果てでしょうか。

 

これは10世紀頃の地図。

ちょっと海岸線をがんばってます。

しかし、何が何やら・・・。

 

ちなみに、ヨーロッパで消滅してしまった『ギリシャ哲学』ですが、

イスラム社会の中では無事に生き残ることができました。

 

 

 

ー『ギリシャ哲学』再発見ー

13世紀頃、ヨーロッパでギリシャ哲学が再発見されます。

ここで特にクローズアップされたのは『アリストテレス』でして、

これ以降、「アリストテレスいわく」といえば、

”世界の真理”の代名詞となってしまいます。

キリスト教圏の人は、考え方が極端でいけません。

 

こういった『ギリシャ哲学ブーム』到来は、

世界地図にも影響を及ぼし、大きく変化させることになります。

たとえば、これは1483年の地図。

変わったっつーか、戻りました。1000年前に。

南方大陸も復活しています。

変わったと言えば、宗教色が濃くなっている点でしょうか。

”バベルの塔”が書かれてるので、探してみるのもいいかも。

 

もう1点。

複写で失敗したのか、地形が左右逆になっています。

東にヨーロッパ、西にインドって事か・・・。

”複写ミス”、つまり複写元があるわけです。

ギリシャ文化が復活を遂げての『ギリシャ哲学』ブーム到来は、

地理学者たちにとっても転換点だったようですが、

大抵の場合、

「世界って、実はこうだったんだ。ふーん。」

といった感じで、割と無条件に(考えなしに)受け入れていたようです。

 

『T−O地図』も変化します。13世紀頃です。

園内の右側部分にアフリカ、ヨーロッパ、アジアがあります。

真ん中の部分は大洋で、対角線が黄道。

園内の左側部分が”南方大陸”です。

周辺の竜は”滝”でしょうか?

 

めでたく”南方大陸”が復活しました。

その論拠も、

『我々の知る大陸と”同規模の大陸”が南にもある』

と、これまたギリシャ時代そのままです。

 

 

当然、当時の地理学者が諸手を挙げて”南方大陸”を認めたわけではなく、

そうではない人も多数いました。

『存在が観測されていないものは、受け入れられない』

つまり、実存主義というか、より『科学的』な考えを持った人たちは、

南方大陸に関しては否定的でした。

 

たとえば、これは1375年の地図です。

これなどは、実際に確認されている範囲のみが記載されている地図です。

 

これは、1482年。

これも観測されている範囲のみが記載されています。

これに関しては、結局のところ古地図がベースとなっているのですが、

海岸線がかなり正確になってきています。

ちなみに大陸の右下はインドです。

 

これは1432年の、風変わりな地図。

分かりにくいですが、これは、

”聖地”エルサレムを中心に据えた地図です。

東が上になっています。

で、下がヨーロッパ、右がアフリカ、左がアジア、

最東端はインドです。

 

 

まあ、当時の”世界”に対する認識はこのような感じで、

これじゃコロンブスも

「ヨーロッパを西に行けばインドに着くはず」

と思ったのも無理からぬ事でしょう。

 

 

 

ー15世紀以降から18世紀にかけて、諸々の背景ー

15世紀以降、造船技術の高度化に伴い、

海に関しては様々な事件がおきました。

コロンブスが”キリスト教圏の人間として”初めて新大陸を発見し、

褒美として貰った新大陸の土地に自分の王国を築いたりとか、

(本人はインドだと思ってたのだけれど)

スペインとポルトガルが”勝手に”新大陸を二分して双方の領土に決めた、

『トルデリシャス条約』が締結されたりとか、

そんなスペインとポルトガルが、

島国イギリスにコテンパンにされたりとか、

フランシス・ドレイク卿が”南方大陸を発見したい”と進言し、

実際にやったのは西インド諸島の海賊行為とか、

まあ、ろくな事がないのですが。

 

マゼラン艦隊が世界周航に成功し、

(本人は途中で殺されちゃったけどね)

南方大陸発見!の報でヨーロッパを震撼させたのもこの時代ですね。

 

 

ー話を時系列に戻しましょうー

15世紀頃から、大航海時代として海洋冒険が本格化します。

眼前に広がる大海原。

様々な苦難を乗り越えた先に待ち受ける、

未知の世界との驚くべき出会い・・・。

 

そんな冒険やロマンに溢れた美しい話なら良かったんですけどね。

結局、世の中金です。金が全て。

 

エンリケ航海王子が『聖プレステ・ジョアンの国』発見に全力を挙げたのも、

単に交易独占を狙っての事ですし、

コロンブスが大西洋越えでインドを目指したのも、

マゼランを初め多くの航海者が西回りでの世界周航に挑戦したのも、

東回り航路が『東インド会社』に独占、というか”制圧”されてしまった中、

どうにかインドとの”おいしい交易”を続行したいが為に、

苦肉の策として西回りに挑戦したのが実情でした。

当時の航海術では、

海岸線沿いに船を進められないだけで、大冒険だったのですが。

 

そんな中では、マゼランの『南方大陸』発見も、

地理学者に喜ばれはしたものの、

国としては、結局「金にならない発見」だったので、

それほどクローズアップされませんでした。

ただ、領土的野心を満たすには

”大陸”というのはなかなかの響きでしたので、

ちらほらと、南方大陸捜索は行われました。

 

そしてそのころ、地理学の発展系?として、

『地球形体論』なるものが出てきます。

要は、地図をみて未発見の地形を推測しましょうという程度なのですが、

地球形体論者たちにとっても、南方大陸は関心のタネでした。

理論の根本はギリシャ時代とさほど変わらず、

北半球の大陸(アジア大陸)と同程度の大陸が南にもあるはず、

といった論法です。

 

ですが、発見された範囲がギリシャ時代よりも格段に広がっています。

この頃には、アジア大陸どころか”新大陸”も発見されています。

地図の規模がでかくなったので、

結果的に”南方大陸”の大きさも、

北半球の大陸と同程度として考えると、

ギリシャの哲学者が言っていた規模とは比較できないほどに大きくなります。

地球の周回も行われているので、

太平洋の存在も分かっていました。

今となっては妙な話ですが、地球形体論者にとって、

”南方大陸”よりも、”太平洋”などという広大な海洋のほうが

「信じられない存在」

だった為、その”空き”にも南方大陸をすっぽり入れてしまいます。

かくして、”アジア大陸”と同規模の巨大大陸、

南極海を含め、太平洋のほぼ全域を埋める”南方大陸”が誕生するわけです。

 

当時の知的エリートにとっては”太平洋”よりも”南方大陸”のほうが、

よっぽど信じられる存在だったようです。

 

 

 

ー未知なる大陸を夢に求めてー

1605年、”南方大陸”に関して、

事態は劇的に変化します。

 

キロスという、目立ちたがりのポルトガル人が、

”精霊の南方大陸”発見!の報をヨーロッパにぶちまけます。

キロスは、太平洋上に伝説の”南方大陸”を発見し、

そこで見てきた『楽園のような風土』、『豊かな産物』を絶賛します。

実際にはバヌアツだったのですが・・・。

 

遂に”南方大陸”が大ブレイクします。

オランダの東インド会社を含め、

多くの国や企業が、

”南方大陸”、もとい、”南方大陸の富”を求めて船出する事になります。

やっぱ、世の中金です。

 

 

ですが、結局この17世紀には大きな発見は成されませんでした。

オランダ人タスマンがタスマニア島を発見しましたが、

オーストラリア近海を周遊しておきながらオーストラリア大陸を発見できず、

帰国した後も雇い主の『東インド会社』に、

「金にならない発見ばかりしてきやがって」

と、冷遇される運の無さを見せてたりします。

 

かと思えば、海賊ウイリアム・ダンピアが、

太平洋諸島の動植物の標本を集めに行ったおりに、

”さらっと”オーストラリア大陸を発見してたり。

 

 

 

ー伝説の終焉ー

18世紀に入ると、羅針盤やクロノメーターなど、

航海者にとってのスーパーアイテムが続々と登場します。

これまで”目測”と”勘”が頼りだった地図製作においても、

これらのアイテムが素晴らしい効果を発揮し始めます。

 

そしてこの頃、航海に関しての目的が大きく変化します。

 

”利益(国益)最優先”の航海は終わりを告げ、

”学術的研究”を重視する『航海の新時代』が到来します。

 

ブーガンヴィルやラペルーズを初めとして、

多くの航海者が”学術的発見”重視の航海に乗り出します。

まあ、この頃でも、新島を発見するなり

『領有を宣言する』

因習は残っていたそうですが。

(ラペルーズが、それをしなかった始めての航海者だそうです)

 

とは言っても、この時代の航海者たちも、

”太平洋上にある南方大陸”を必死で探している状況でした。

ハワイやタヒチなど、太平洋上の多くの島々は発見されるのですが、

いつまで経っても”南方大陸”は発見されません。

”太平洋上にある南方大陸”の存在は絶望的、

と言うか、『無い』と誰もが思いました。

 

で、意を決した人がいました。

名をジェイムズ・クック、俗にキャプテン・クックと呼ばれる人です。

彼は遂に、『あまりの寒さで気が引けて』誰もやろうとしなかった、

”南極圏への航海”を実行に移します。

 

最初のアタックはアフリカ最南端からの南下でしたが、

氷と寒さに阻まれて断念。

次いで、タヒチで小休止した後、

再度アタックをかけますが、

またしても氷と寒さに阻まれて断念します。

と、言うより、クック船長自身、

「こんな寒い中で大陸見つけて、どうしようっていうんだよ・・・。

植民地?凍え死ぬって・・・。」

と、思ったそうです。

 

彼は無事本国に帰還し、

南極の”お寒い”実情を報告します。

南極大陸には富も無い、植民地にもできない・・・。

 

これが決定打でした。

 

これにより、ギリシャの哲学者達が推測し、

ポルトガルの目立ちたがりが『楽園』と賞した

”南方大陸”幻想は終焉を迎えます。

 

あと100年ほどすると、

”南極大陸”の時代がやってくるのですが、

それはまた別の話。

 

 

 

最後に余談ですが、

”欲求最優先”の航海は終わりを告げ、

”学術的研究”を重視する『航海の新時代』が到来します。

と、前述しましたが、

みなさんは、どう思われたでしょうか?

 

この”時代の変化”は、別に航海目的が高尚になったわけではありません。

 

18世紀には、国家や企業の目的が

『発見』から『開発』へシフトした時代でもあるのです。

『キリスト教化』の名目で行われたポリネシア文化の破壊、

『移民』という名目で土地を奪い、

『未開人に仕事を与える(文明化)』という”お題目”で、

土地を奪われた人々を続々と奴隷化していきます。

『白鯨』の著者であるハーマン・メルヴィルは、

ハワイ諸島で『ヨーロッパ由来』の疫病による島民の大量死、

馬の代わりに馬車を引く島民の姿を嘆いて、

「地球上で一番残酷な動物は、

我々文明人ではないと、どうして言えるのか?」

と、言っています。

 

 

”伝説の南方大陸”、その伝説も、

蓋を開けてみれば

『宇宙人』や『古代超文明』といったファンタジー性など欠片も無い、

人間の欲望の歴史でしかない、という事でしょうか。

さびしい話ですがね。

 

 

この話はひとまずこれで終わりです。


今回、15世紀以降のくだりに関しては、
創元社「知の再発見33『太平洋航海史』−失われた大陸を求めて−」
を一部参考にさせていただきました。
興味のある方は是非一読して頂けたらと思います。

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