平将門の首塚


関東最大の怨霊伝説といえば、将門でしょう。

もともと将門という人は、10世紀の初頭に千葉県北部の領主で、

一族の領地争いでの紛争等を経て、新皇を名乗った人物。

(伝承では、巫女の信託によって八幡大菩薩に皇位を授けられ、

藤原道真から証書を受けたとの事。道真の死はこの36年前)

 

もともと関東や関東以北の地域は、大和の人々から見れば

「まつろわぬ民」つまり朝廷に組しない人々の地域であり、

坂上田村麻呂等の討伐隊により朝廷に併合されて

間もないこの時代に、朝廷に反逆した彼は

「時代のヒーロー」

であった事は容易に想像がつきます。

神田明神や鎧神社、兜神社(兜町の由来)など、

現代に至るまで彼が信仰の対象でありつづける事も

その辺りのことをよく表していると思います。

 

将門に関する伝説や怪異というものはどんなものがあるでしょう。

1.切り落とされた彼の首が空を飛んで関東へ帰った

これはかなり有名な話です。が、首の落下地点に関しては

諸説があります。一番有名なのは千代田区ですが。

2.大蔵省員十数名の死。落雷による大蔵省の焼失

これは明治以降、首塚が大蔵省の構内にあったころの話で、

大正12年の震災の折、首塚の祠等が損壊した際に

特に復旧しようとはせず、塚が雨ざらしになっていた時期がありました。

その後大蔵省の現職役員十数名が死亡、怪我人が続出する事態になり、

昭和2年に鎮魂祭が行われた。

また将門の死後1000年にあたる昭和15年5月6日に

大蔵省に落雷があり、主要建造物が炎上、

やはり鎮魂祭が行われました。

現在、首塚にある慰霊碑は、このときに建てられたものです。

3.GHQが首塚を撤去しようとした際の事故

GHQが将門の首塚を撤去しようとした際、ブルドーザーが転倒、

運転手が死亡したという事故。

 

実はこのGHQこそが将門伝説を一般に認知させた張本人、

だという説があります。

2次大戦末期のアメリカの最大の懸念はソビエト、スターリンでした。

この頃のアメリカは、日本やドイツとの物理的な戦争の他に、

スターリンの南下政策を阻止するという政治的な戦争も

行っていたわけです。日本への原爆投下を強行したのも

その為で、もし終戦があと少し遅れ、日ソ不可侵条約の

期限切れと同時にソビエトが北海道へ侵攻してしまえば、

日本を米ソで割譲しなければならない。

それは最も阻止しなければならない事でした。

この考えは終戦後も変わりません。

アメリカは極東の日本を対ソの砦とするために

可能な限り早く日本を資本主義社会の中に組み込む必要があった訳です。

その最大の障害は天皇でした。

GHQは昭和天皇とマッカーサーの

2人を写真にとり、彼の身長の低さをアピールしたり、学校等の

民間施設を視察させることで「天皇イコール神」という意識を

草の根レベルで消していこうとします。

そんなGHQが、大蔵省にある将門の首塚の存在を見逃すでしょうか?

「反朝廷のヒーロー」に再度の御出馬を願ったのも

創造に難くないでしょう。

ブルドーザーの創作話などを故意に流して「将門公健在」を

アピールした可能性は十分にあります。

明治になって神田明神の祭神から消されてしまった将門が

昭和34年に再び神田明神の祭神に加えられた事も

決して無関係ではないように思えます。

 

ついでに述べるなら、昭和51年のNHKの大河ドラマや

小説「帝都物語」等が彼を祟り神として一般化させた要因でもあるでしょう。

将門の首が飛んで帰ったという話も、実は昔話などで同じような例が

沢山あります。僕の知るかぎりでは白鳥になって故郷へ帰った

ヤマトタケルが有名です。浦島太郎の地方バージョンでは

老人になった浦島太郎は、最後に白鷺になって故郷へ帰ります。

死んだ英雄が変化して故郷へ帰ったり、実は生きていたりする話は

日本ではかなりポピュラーなものなのです。

 

じゃあ将門伝説は全くの創作なのでしょうか?

結局のところ、?、です。

 

実際、上記の大蔵省の話は国の公的な記録に残っている事柄です。

大蔵省の人間が将門の話を粉飾する理由もありません。

僕が上記でつらつらと反対論を並べていますが、これだって

本当かどうかなんてのは結局分かりません。

 

この話はこれで終わりです。


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