桜物語外伝
表の月 影の日

作 凛子(Rinz) 最新連載回へ


 北原月影公の遺言
『北原家は鷹月に譲りたし候。必ずや良き藩主に相成り候。これは亡き日鷹へのせめてもの
償いに候へば、我が身の慰めとも相成り候』

 時の主は徳川家康、江戸に幕府を開いた後の頃である。戦乱の世を生き抜いた武将達が、
その刃を捨て一人の武将に忠誠を誓う。これを拒否する事は死を意味し、無論そんなそぶり
が見つかっても同様だった。武将は大名と名を変え、親藩、譜代、外様と格付けされ、慣れ
親しんだ領地を変えられる者もいた。絶大な権力の下に収まる者が大半だが、大人しく従う
ように見せかけながら、豊臣再興、あわよくば天下奪回を狙う者もいたに違いない。しかし、
時が進むにつれ、この権力者がどのくらい前から天下平定の構想を練っていたか、大名達は
気づく事だろう。この男は狸である。一体どこまで化かされているのか検討も着かない。無
論、今ここに生きる大名達がそれを知るはずがない。分っている事はもう二度と、戦乱の世
は訪れないだろうという事だけだった。
とある藩の藩主、北原月影は現在三五歳を迎えたばかりであった。戦国の世を生き抜いた者
が持つ自信と勝気さが表情に溢れている。目鼻立ちのはっきりとした鋭利な作りが、いっそ
うそう見せているのだろう。とはいえ、彼が生まれた頃はすでに天下の行方は豊臣か徳川か
という雰囲気で、武将達は天下取りよりもどちらへ着けば得策かという事に頭を悩ませてい
た。月影の父親は天下取りを夢見ていた武将の一人だったため、どちらにも付かずという立
場を確立していた。その為合戦もしばしば激しいものになりはしたが、負け戦は本当にまれ
である。彼は鋭い眼力と有能な家臣を揃えていたのだ。息子から見て父親は、武将としては
尊敬できるものの、時に見せる冷酷さや妻子への関心のなさが好きにはなれなかった。それ
ゆえ、戦場では一人の家臣として懸命に働き、それが父親や家臣に世継ぎとして認められた
のだ。本心、あまり戦は好きではなかった。憎みあってもいない者どうしがなぜ戦わなけれ
ばならないのか、その疑問が常に頭にあった。徳川が世を平定し、内心ほっとしているとい
うのが本音であった。
「殿、そろそろ戻りませぬと、ここから先は他藩の領土でございます」
 楽しげに馬の進める月影の後ろで、心配げな声は月影の家臣であり友人でもある栗原竜介
である。代々北原家の家老を勤める家柄で、二人は年が近かったせいもあり兄弟のように育
ったのである。気弱そうに見えるが、家臣一の切れ者と誰もが認める男である。
「分っておる、せっかく遠乗りに来たんだ。あの峰を越えて戻ろうではないか」
 数名の家臣を引き連れて遠乗りへやって来たが、慣れ親しんだ土地を快走しているうちに
遠くまで来てしまったのだ。ここまで来たのだから月影はウサ晴らしをする為によくやって
きた峠を越えたかった。そこは栗原もお供でよく来た場所、その峠を越えれば見通しの良い
場所へ出る事は良く知っている。しかし、最近この付近に山賊が出ると言う噂があったのだ。
栗原がそれを告げようと思った時、ヒュンという嫌な音が聞こえ誰もがハッとした。とっさ
に馬の首を内に曲げると、その目の前を矢が通り過ぎ、地面に刺さった。家臣達が月影の前
を固めると、奇妙な声を上げて数十人の山賊が姿を現した。
「山賊か!」
 栗原が何も言わないうちに、月影は馬から下りて刀を構える。向かってくる者を捕まえる
と、力任せにぶった切る。どの者もなかなか身軽で、剣の扱いも手馴れている。月影はこの
もの達がただの山賊ではない事に即座に気づいた。
「やめろ」
 突然林の中から声がした。すると今まで向かってきた者達がすっと距離を置き離れた。月
影目の前にやってきた男は、明らかに他の者たちとは様子が違っていた。中肉中背だが、そ
の体はとても身軽そうである。ほんのりと日に焼けた顔は、するどい眼差しを一層強いもの
に見せている。月影は、自分をじっと見つめるその目に縛り付けられたような気分になった。
「・・・ふん、北原月影だな。一国の主がこんなところで何してるんだ」
「なぜ、わしを知っておる」
 月影はその男の顔をまじまじと見るが、まったく見覚えがなかった。年はほぼ同じぐらい
か、少し上。声の調子はいたって穏やかだが、月影にはある種の刃を含んでいるように受け
止められた。
「さすがは、北原家一武勇に優れた男と言われただけの事はある、なかなかのものだ。だが
・・・オレにはかなうまい」
「なんだと!」
 この男の後ろで誰かが「頭領」と呟く。男はゆっくりと背中に渡してあった刀を引き抜く。
僅かだが笑みを浮かべているようであった。
「試してみるか?」
 神経を逆撫でするとはまさにこの事だ。この男の言葉は、瞬時に月影の頭を沸騰させた。
その様子を見て取った栗原が月影の袖を引く。月影は普段は冷静なのだが、武芸に関する事
になると、血が昇りやすいのだ。知ってか知らずか、この男はウマく月影を引っ掛けた。
「殿・・・」
 そして、どんなに言っても聞かない事も、栗原は分っている。
「そなたは下がっておれ」
「乗せられてはなりません・・・」
 そう言ってみるが、もう月影は相手にする気だった。
「武芸は得意ではないだろう?大丈夫だ」
 その一言で栗原は黙らざるを得なかった、本当の事である。月影が刀を構えた、気合負け
してはいけないと、体中の気を刀に集中する。男も刀を構えた・・・が、その姿は最初より
穏やかで、顔にも余裕の笑みが登っている気がした。だが、その体から立ち昇る気配は一部
の隙もなく、何か濃厚な気が男の周りを取り囲んでいるようだ。踏み込めない・・・それが
月影の自尊心を一層逆撫でする。今まで遭った事もない種類の者だ。
「この!」
 焦りと気合だけで勝てる相手ではない。分っていたが、体が勝手に動いた。月影は真正面
から突っ込む。それでも男はまったく動かない。切っ先が男の喉を捕らえ、月影が勝ったと
思った瞬間、男の刀が僅かに動いた。そして次の瞬間、月影の刀は宙を飛び、直後胸の辺り
で風を感じた。とっさに飛びのいたが、その際に足に激痛が走る。
「殿!」
 家臣達が助けようと刀を引き抜いたが、山賊達もそれを合図に家臣達に応戦する。立ち
上がろうとしたがやはり足がおかしい、思うように踏ん張れないばかりか、立ち上がる事さ
え困難だった。
「北原月影ともあろうお方がなんというザマだ・・・」
 地面で半身だけ起こしている月影に、男は刀の切っ先を突きつけた。じりじりと下がる月
影の脳裏に焦りがよぎる。このままここで打ち果てるのか・・・!男の表情が冷たく変わっ
ていた。捕らえて離さないその鋭いまなざし。やはり覚えはない。男の口元がわずかいに動
き、吸い付くように自分を追っていた切っ先が、その距離を破ろうとした時。突然地鳴りが
し、それはどんどん近づいて来る。はっとした男の張り詰めた気が反れた。全員がその方向
を向いた時、数頭の馬がこちらに向かって疾走して来るではないか。戦いどこではなくなり、
あっと言う間に突っ込んで来た馬達を避ける事が専決となった。男も敏速に道の脇へ逃れた。
迅速に動けない月影は身をかばうように伏せた。余程興奮していない限り、馬が障害物を踏
みつける事はしない、引っ掛けられる事から身を守ればいい。月影は馬がそれほど興奮して
いない事を願った。その矢先、何かが月影の体をぐいっと引っ張る。とっさに蹴られると思
った月影は身を硬くしたが、その引っ張ったものは月影の体を引き上げ、それから襟首を捕
まれ、次の瞬間は馬の背中に乗せられていた。
 すべては一瞬の出来事で誰もが混乱している間、疾走する馬と共に月影公は連れ去られて
しまった。栗原達は何が起きたのかまったく理解できなかった。もちろん山賊達も同じだっ
た。ただ一人、その姿を訝しげに見つめていたこの男を除いて・・・。

                                      


 道ではない道を走り抜け、馬にしがみついているのがやっとだった月影は、一体自分がど
こに連れて来られているのかまったく見当がつかずにいた。馬が止まり、そこでやっと顔を
上げて見ると、林の中にぽっかりと切り開かれた所に小さな家が立っているのが目に飛び込
む。馬の主はと言えば、さっさと馬から下りると、家の方へ向かって行っている。訝しさは
もちろんあるが、とにかく馬から下りてその男と話をしなければ何も始まらない。月影はそ
う思い、ゆっくりと馬から滑り落ちた。
「痛!」
 地面に足をつけた途端、激痛が頭のてっぺんまで駆け上がる。その声に入り口を開けよう
とした男が振り返った。
「ん?どうした・・・・」
 男は月影の側に寄ると、かがみこみ足を触る。
「い、痛い痛い!!!」
「ああ、くじいたんだな。ほら、真っ赤に腫れ上がってるぜ」
 そう言って少し身を離し、月影が確認できるように隙間を開けた。見れば本当に足首辺り
がひどく腫れ上がっている。
「ここで待ってろ」
 男は月影に肩を貸し縁側まで歩かせるとそこに座らせ、一人で家の中へ消えていった。そ
の瞬間、月影は本当に一人取り残された気分になる。とても静かな場所だった。風の音と、
遠くに聞こえる鳥の鳴き声以外は何の物音もしない。月影にはこれが本物の静けさであると
すぐに分った。本物ではない静けさ、それは何の物音もしない場所から押しつぶされそうな
重い空気がやって来るのだ。そういうのを気配というのだったか・・・。戦場で身についた
感である。ひとまずここは大丈夫だ、と思った時、男が何かを持って戻ってきた。
「これは薬草なんだ。これを塗っておけば腫れは引くよ」
「・・・お主、何者だ?なぜ私を助けた」
 包帯代わりに切り裂いた布を巻くと、男は月影に向かってまっすぐ顔を上げた。圧倒する
ような華やかさがある男である。整然と並んだ目鼻口、ひとつ間違うと冷たい印象になって
しまいそうだが、日に焼けた肌にその奥に潜む茶目っ気さが、ぱっと華やいだような印象に
させていた。年は自分より下だろう。しかし、今の彼の態度は対等である。男はにっと笑う
といたずらっぽく言った。
「助けず山賊達に切られてもよかったのか?そうしたら藩は大混乱だぜ、北原月影殿」
「・・・何だと、なぜわしが北原月影と知っておるのだ?」
 月影の目に不信感が再び湧き上がる。しかし見つめる男の目は面白おかしく月影の反応を
楽しんでいる以外何もなかった。月影が体制を整えようと身動きした時、突然男が笑い出し
た。
「奴らとのやり取りを少し見ていたんだ。あの男達がお前の事をそう呼んだので、分ったま
でのことさ」
 ちゃめっけたっぷりに月影に笑いかける。月影は呆気に取られてその男の顔を眺めた。一
体、こいつは何者だ・・・。そこで月影は始めて気がついた、まだ名を尋ねていない。
「そなた名はなんと言う?」
「オレか?オレの名は鷹月だ」
 鷹月・・・普通の浪人にしては少し特異した名前だ、と思っていると顔に出ていたらしく、
鷹月はまたからかうように笑った。
「お前とよく似た名前だろう?」
 そういえばそうだ。特に月という字は代々北原家の嫡男が継ぐ字である。その字を名前の
中に持つこの男は・・・。聞けば聞くほどこの男への疑念がつのる。しかし自分はこんな事
をしている場合ではない。そこで月影は率直に鷹月に言った。
「そなたの助けには感謝する。しかしわしは一刻も早く藩へ戻らねばならぬ。どうやれば・
・・」
「この足じゃ無理だぜ!」
「無理だろうが何だろうが、戻らねば家臣領民が心配するのだ」
 言っている意味が分らない、と言うように首を傾げ、口を尖らす。そして鷹月は、言葉を
続けた。
「たとえ馬に乗れたとしてもだ。何かがあって落ちたら、お前絶対騎乗できないぞ」
「お主何も分っておらぬ。このご時世、領主が城を空けていると公義に知れたら家名の存続
に関わるのだ」
「じゃ、なんだ?無理して帰る途中にまたあの山賊に襲われるか、谷の近くで落馬してまっ
さかさまに谷底に落ちて死んだら、家名の存続には関わらないってのか?」
「それは・・・」
 鷹月は大きくため息をつくと、真っ直ぐ月影を見た。それは問いかけるようでもあり、諭
すようでもある視線だった。
「一生じっとしてろなんて言ってないんだぜ。そんな2,3日ぐらいお主の家臣達がうまく
やってくれるんじゃないか?それとも家臣が信用ならんのか?」
 なんだこの男は、どうしていう事がこれほどまでに的を得ているのだ。自分の過大評価し
ているつもりはないが、一国の主が何も言えなくなるような物言いが、なぜこのような若者、
そしてこんな人里はなれた所に住んでいる男にできるのか。月影は疑念を強くする一方、知
らず知らずに信頼感を感じるようになっていた。
そんな黙っている月影の気持ちを分ってか分らないでか、鷹月はまたあの掛け値ない笑顔を
見せると、幾分優しげな口調で言った。
「城に書状でも書きなよ、あとでオレがアキで届けてやるから」
「アキ?」
「オレのいい女だよ」
 鷹月はそう言って外を見る。それに従うように外を見た月影の顔が思わず緩んだ。
 入り口近くで草を食んでいた馬が顔を上げる。すばらしい栗毛の艶やかな毛並み、体格は
小さいが均整の取れた体つき。長いまつ毛に大きく優しげな瞳。二人の視線が自分の注がれ
たのに気がついたのか、不思議そうにそして優しげにこちらを見ている。鷹月の愛馬アキを
見て、月影はなぜか一人の女性の顔を思い浮かべてしまった。わしがいなくなったと分れば
あいつも心配するのだろうか・・・。領主としての気がかり、そしてもう一つ、一人の男と
しての気がかり・・・。しかしそれを思い浮かべた瞬間、不思議と焦っていた気持ちがゆっ
くりとしぼんで行ったのだ。自分には頼りになる家臣、家を守る妻がいるではないか。思え
ばそれらから離れて一人になるなどと、初めての事かもしれない。そしてこれからもないだ
ろう。少しいい機会なのかもしれない。月影は何の気なしにこう呟いていた。
「綺麗な方だな」

                                                                            
 すっかり疲れきった様子で城へ戻ってきた栗原を待っていたのは、老体達の容赦ない責め
だった。前領主の重臣達は月影の親友という立場から側近になった栗原を何か失態がある度
に、これ幸いとばかりに責め立てていた。領主が何者かに連れ去られた、それも栗原がいた
にも関わらず、である。もちろん老体達は日ごろのよろよろぶりもなんのその、はりきって
栗原を叱咤した。
「栗原どの!一体どうするおつもりか」
「ただ今総力を挙げてお探ししておりますゆえ、もうしばらくのご猶予を」
「そのような事を申して、お館様がこのまま行き方知れずになったら・・・・」
 言われなくても分ってます、と言う言葉が喉までこみ上げるが、言った所で説教が伸びる
だけである。こんな無駄な時を過ごす為に捜索中戻って来た訳ではないのに・・・と応対を
しながらも思う栗原であった。もちろん自分がついていながらまんまと連れ去られた事の責
任を感じてない訳ではない。感じていればこそ、殿のいない間他国や徳川にそれを悟られる
訳にはいかないのだ。その対処をしに戻って来たのである。それにしても・・・と栗原は今
更ながら思う。あの頭と呼ばれた男、敵ながらすばらしい剣の腕前だった。構えただけで殺
気で誰も動けなくなるほどだった・・・。そしてそれを打ち破って殿を助け出したあの男も
相当な技量の持ち主と見た。北原の国境にあんな武人者達がいたとは・・・それとも誰かが
連れてきたのか、殿を襲う為に・・・。
「栗原殿」
「ああ、これは政平様」
 考え込みながら廊下を曲がり、庭に出た所で聞き覚えのある声に呼び止められた。それは
栗原にとって月影の次にほっとする声だった。顔を上げてみると、髪を上げたばかりの北原
政平が立っている。彼は月影の長男である。側室の子供で、母親はずいぶんときつい性格の
女性だ。あのきつい母親と存在感のある父親との間に、なぜこんな温和で奥ゆかしい子供が
生まれたのかみんな不思議に思ったものである。しかしだからと言って政平を嫌う者などい
なかった。人柄もだがこの元服したての若者は非常に頭が切れたのである。北原嫡男として
の器量は十分と評判の若者だ。栗原もまだ少年と言える若様だが、決して情勢を隠すような
事はせず、殿同様に何でも話していたのである。政平はまっすぐと栗原を見て言った。
「この顔からすると殿は見つからないようですね。それから老体どもにこってりしぼられま
したか?」
 図星の言葉に栗原は大きくため息をつくしかなかった。それを見た政平は少し笑顔を浮か
べただけで決してとがめようとはしない。
「はい・・・私が付いていながら、本当に面目ございません。・・・何とした事か・・・」
「襲って来たものに心当たりはないのですか?」
「山賊のようでございましたが、山賊に何かした事などございませんし・・・。そういえば、
頭らしき男は殿の名を顔を知っておりましたな」
 そうだ、あの者は殿の顔を見て、北原月影と言っていた。殿の顔を知っているという事は
やはりこの土地の者のはずだ。
「んん・・・。もしや隣国の刺客では・・・」
 語尾を濁すように政平は言ってみた。領地争いなどこの世ではなんの意味もないが、領地
争いを経験していた者にとっては今でも意味のある事であろう。政平も幼い時代を戦国の世
で過ごしていた。それゆえにあの頃と今の時代を冷静に見る事ができる。だから栗原があえ
て口に出すのをためらった言葉でも、口に出せてしまうのであろう。栗原は少し緊張がほぐ
れた様な気がした。
「連れ去った者も山賊のようでございましたが、なにゆえ一瞬の事でしたので誰も顔をみて
おりませんでした」
 政平はまた大きくうなった。栗原は栗原でこんな結果になってしまったのは、自分の剣の
腕がなかったせいだと悔やんで唇を噛んでいた。
「よく分らないのですが、その男は親方様を助けたのですよね?」
「その通りでございます。でなかれば、こんなに落ち着いてはおりません。ああそれから、
私が戻ってきたのは、殿のおらぬ間をどうしようかという事でございます」
「分っています。私もできるだけお役に立ちますから、なんなりと言ってください」
 そう答えて少し笑顔を見せる。この若者は分っているのだ。殿は無事に戻ってくるのだと。
今眉間にしわを寄せ瞳を地面に落として考え込んでいるのは、安否ではなく、いかにこれを
乗り切るか、だろう。老体達から悲観的な事ばかり聞かされていた栗原は、信頼できるお方
が自分と同じ意見だと分って勇気が沸いて来た。それにしても、こういう表情は月影によく
似ているな、と栗原はふいに思ってしまうのだった。
「わぁぁぁぁ!!!!」
「おっと・・・」
 と突然庭先の方で大きな泣き声があがった。政平ははっと顔を上げると慌てて庭に下り、
そこへ走って行く。またその声に聞き覚えのあった栗原であったが、事態が飲み込めず固ま
ったままだ。少しの間があり、やさしい声を掛けながら庭の茂みから出て来る政平の腕には、
泥だらけで大泣きしている自分の息子がいたのである。
「け、桂介!?」
 昨年生まれたばかりの桂介は、泥と涙でぐちゃぐちゃになった手でしっかりと政平にしが
みついている。栗原はあわてて息子を自分の方へ貰おうと手を差し出した。
「も、申し訳ございませぬ。お、お召し物が・・・」
「いや、いいんです。今手が開いているのは私ぐらいなものですから」
「しかし、どうして桂介が・・・。お桂は何をしておるのだ」
 完全に動転している栗原に政平は眉を吊り上げた。
「息子なんて二の次だ!ってほかられたんだよ、な?」
 顔を覗き込む政平に、笑顔を返す桂介。傍目には仲のよい兄弟にしか見えないだろう。自
分のおかれている状況がまったく分らなくなった栗原に追い討ちをかけるように、衝撃的な
言葉が浴びせられた。
「お紫の方様が御懐妊なんだそうですよ」
(2003年8月20日)


 林の中の家は夜になるとまるで覆いを被せられたように周囲を遮断され、暗闇の林は人が
踏み込む事を拒絶する。何も音のしない平和な静寂の中、なぜか月影は落ち着かなかった。
夜一人で知らない場所にいる恐怖。どうしても体が戦地での夜を思い出してしまうのだろう。
鷹月はと言うと、一言も発せず何が入っているか分らない鍋をかき混ぜている。しばらく鷹
月の様子を見ていたが、意を決して沈黙を破ってみた。
「あー・・・鷹月殿」
「殿なんて殿様に言われたくないね。鷹月でいい」
 と言いながらタメ口な鷹月に、今一調子の狂う月影である。一つ咳払いをし言葉を続ける。
「お主は、あの者どもが何者なのか知っておるのでははいのか?」
 真っ直ぐと月影を見る。鷹月は明らかにはぐらかすぞ、と言う表情で言った。
「さあなぁ、オレにはただの山賊にしか見えなかったけどな」
「見かけはそうだ。しかしあの剣を構えた時の動けなくなる程に気迫といい、隙のない構え
といい・・・。あれはただの山賊ではない、剣の達人だ」
 なるほど、とうなずく鷹月。
「それで?」
「あの者どもがもしどこかの刺客だったら捨て置けん。私が今城を空けている事が敵に知れ
たら、面倒な事になるんだ。早急に手を打たなければ・・・」
 かき混ぜた物を椀にすくい、さぁ食えとばかりに椀を差し出す。いやに冷静な鷹月の態度
に、熱くなっていた月影の気持ちも落ち着いて行く。ここへ連れて来られた時に言っていた
事をまた言っている。これでは本当に自分が家臣達を信頼していないという印象を鷹月に持
たれてしまうではないか。そんな月影の思いを見透かしたように黙って自分を見ている鷹月
に、月影は少し恨めしそうに鷹月の顔を見ながら椀を手にすると、行勢いよくかき込んだ。
月影が食べたのを見ると、鷹月も少し笑って椀を手にした。
「ところで・・・、北原家には代々伝わる剣術があると聞くが?」
 突然口を開いたかと思うとそんな事を言い出した。戸惑いながらも月影はうなずいた。
「あ・・・ああ、確かに代々北原の嫡男は父より伝授される剣術がある」
「月影殿もそれをお父上から伝授されたのか?」
「ああ、子供の頃から厳しく教え込まれたよ。だが、最後の秘技と言われる技を教え込まれ
る前に父上は亡くなってしまわれた」
「お父上とは・・・どんな人だったんだ?」
「天下人となる事にすべてを掛けておった男だ」
 人にも自分にも厳しく、すべては天下を取る事を夢見て生きていた男だった。父の時代は
そうでなければ生き抜いて行けなかったのだろう。すべての武将が京へ赴き、将軍の座を欲
しがっていた。父もそれに順じ、隣国との同盟、侵略、裏切りをしてきていた。多分自分が
知らない所でも、いろいろ何かしていたに違いない。そんな話を囲炉裏の音を聞きながらゆ
っくりと話す。話の中で月影の父は、月影の頭の中で鮮明に生き返っていた。
「大きくて遠いお人だったが、剣術の指南の時だけは父親だった・・・だが非常に厳しかっ
たがな」
 北原の家を継ぐ者しか教えられない剣術。そして嫡男しか伝授されない秘技。兄弟と共に
教わった頃は楽しかった。しかし、自分が嫡男として認められた後、地獄のような稽古が毎
日のように行われたのだ。だが月影は苦しいと思いながらもその時だけは父親が自分だけを
相手にしている、そう思い苦しさはそれほど感じなかった。
「北原の秘技は2つ」
 驚いて鷹月の顔を見る月影。相変わらず茶目っ気たっぷりの表情で見返してくる。
「相手の動きを見極め、相手よりも先に動く事により必勝をもたらす技。もう一つは相手の
意識を見極め、それを封じ込める事により必勝をもたらす技」
「な・・・なぜそれを・・・・」
 言い知れぬ不安が月影を襲った。秘技については家臣はおろか北原一族の中でもごく一部
の者しか知らない門外不出の剣術である。それをなぜ今日始めて見る男が知っているのか。
そういえばこの男は北原の継承者が継ぐ「月」の字を持っている。もしかして、この男は北
原の血を引く者なのか・・・。
「月影殿は二つ目の技をお父上から受け継いでないんだろう?」
 図星を突かれて凍り付き何も発せない月影に、鷹月は言葉を続けた。
「なぜそう思うか分るか?お主があの男の技を知らず、そして敗れなかったからだ」
「何だと!」
 武芸の事を言われると血が昇り易い月影である。またしても引っ掛けられている。
「北原月影、武芸に優れた武将と聞いていたが、はっきり言おう。お主はあの男には勝てん」
「なぜそんな事が分る!」
 勢いあまって立ち上がる。足の痛みなどどこかに行ってしまったようだ。そんな月影を鷹
月は挑むように見つめた。しかしその目の奥には明らかに楽しんでいる色がある。そしてそ
の後発せられた言葉は、夕方の出来事を思い起こさせるものだった。
「試してみるか?」
(2003年8月31日)

 闇に溶け込むようにその家はひっそりとそこにあった。しかしその屋敷に近づくに連れ、
それがただの家ではない事に気がつく。ひっそりとしているのは、外に人の気配が分らない
ような造りにしてあるからで、よく目を凝らしてみれば暗黒の茂みの中には沈黙し目だけを
光らせている人影がある。ここは要塞なのだ。内部へ入り、狭く入り組んだ造りの廊下を奥
へと進むと、やっと暖かな光と男たちの賑やかな声が聞こえてきた。
「いやぁ、あれはすごかった」
 今宵の酒の肴は、今日の月影襲撃の話であった。襲撃に行かなかった仲間達は驚愕の表情
でその話に聞き入っている。
「俺たちが家臣を抑えていた時に、突然馬が走ってきてよ」
「振り返った時には、もう馬の背中に乗って走り去って行ったんだよ」
 あちこちで同じ話が繰り返されている。聞き手はもちろんだが話し手も今でも信じられな
いと言った感じだ。というのも、自分達の頭領が今まで仕留めるべき者を逃した事はなかっ
たのである。それに頭領の剣が無敵であると信じていたのだ。
「一体その男は何者なんだ?」
「お頭のあの魔剣を破るなんてな・・・確かにああでもしないと敗れないかもな」
「だがお頭のあの剣術は秘技だろう?頭領以外誰も知らないはずだぜ」
 と話がだんだんと大きな声で議論のようになった時、突然障子が開いた。
「こら、いい加減にせんか!」
 古株の喝により、その場はたちまち静かになった。嘆くようにため息をつきながらその男
が障子を閉めて振り返る。その脇には氷のように冷たい表情で立っているあの男がいた。
「まったくあいつら、こんな所で言いたい放題いいおって・・・日鷹様の耳に入ると知って
おろうに」
「まぁ、酒が入っているのだ」
 日鷹と言う若き頭領は、構わないという口ぶりでそう言った。2人は黙ってそのまま奥の間
へと足を進める。その沈黙はそれほど長いものではなかったが、その間日鷹の頭の中ではみ
んなと同じ疑問が渦巻いている事はその背中から明らかだった。
「しかし・・・、あの馬の男の手口は見事でしたな」
「・・・」
 たとえ馬で突っ込んできたとしても、間合いが合えば馬ごと切り捨てる事もできたであろ
う。しかしあの瞬間、すべての神経が北原月影に注がれていたあの瞬間に飛び込んできた事
で日鷹の不意をついたのだ。あれはただの偶然か・・・そうでなければあの剣を知っている
者だという事だ。老体には一人だけ、その心当たりがあった。
「あの馬の男は・・・もしや・・・」
 その先を言おうかどうか迷って日鷹の顔を見る。眉間に皺を寄せ、じっと暗闇を睨み付け
ている。それを見て老体は、日鷹もまた同じ人物を思い浮かべているのだと悟った。
「北原ゆかりの者なのかもしれません」
「であれば、家臣達がこんな夜更けに君主の姿を探し続ける訳ないだろう。北原月影はどこ
かこの山の中にいるはずだ」
 老体が思う通り、日鷹にはその一人の人物のやった事だとはっきりと分かっていた。誰が
なんと言おうと日鷹疑惑は変わらないし、そしてそれは真実である。
「鷹月の仕業だ・・・・」
「・・・・やっかいですな」
 日鷹が自分の部屋の前へ立ったところで老体は、日鷹から離れる。部屋に入り後ろでに閉
めると、ゆっくりと部屋の真ん中に足を進める。一本の柱にの傍に奴を仕留めそこなった刀
が無造作に畳に突き刺さっていた。まるで戦に破れた無念の残骸のような姿である。日鷹は
それを眩しそうに睨みつける。おもむろにそれを抜き取り、建物の隙間をかいくぐって差し
込んできたわずかな月明かりをその刀身に当てた。水面のように青い流れを切っ先まで滑ら
せる日鷹。
 その切っ先を見つめる目はかすかに苦渋を含んでいる気がする。日鷹は幾度もなくそれを
くりかえしたのであった。



「な・・・・」
  月影は予期もしなかった事態に、刀をとり落としそうになった。鷹月の挑発にまんまと
乗ってしまった月影。おもしろそうに口端を上げ、刀を月影によこし、自分はその辺に落ち
ていた棒を拾い上げた。そして構えた今、月影は先ほど味わったあの感覚を蘇らせたのであ
る。
「どうした?ほら、かかって来いよ」
 鷹月が構えているのは、もちろんそこら辺に落ちていたただの棒である。月影は、正真正
銘の刀をある。しかし、月影は勝てる気がしなかった。隙のない構えは愚か、体から燃える
ような気が鷹月を包んでいる。にこやかだった表情が一変し、あの時の男と同じ冷めた無感
情な目で、月影を見つめていた。非常に淡々とした口調が、月影を焦らせる。そのくせ自分
の方からかかっては来たりはしない。相手が来るのを待っているのである。踏み込む隙もな
く、なによりこの状況がなかなか飲み込めないでいた月影にとって気の焦りはどんどん増し
て行った。とその時、鷹月の刀がちょっと振れた。その瞬間月影は、反射的に鷹月の体目掛
けて刀を振り上げていた。
「引っ掛かった!」
 そう言って笑うと、鷹月はちょっとだけ棒を動かした。次に月影が気づいた時はあの時の
ように持っていた刀は手から離れ、間口へと突き刺さった。そして鷹月の棒は、月影の胸に
一直線に突き当てられたのである。
「・・・・」
 放心状態でただただ突き当たった棒を見つめる月影に、鷹月はちょんっと肩をつついた。
「こう言う事だ」                 
 ニヤリと笑った鷹月は、その棒を高々と放り投げた。近くに転がったそれは、全くの無傷
で刀が当たりもしなかった事が分かる。
「・・・お前は・・・・やつらの仲間なのか?」
 その問いに鷹月はすんなり答える。
「向こうがまだそう思っていればな」
「お主達は何者だ・・・そしてこの剣術はなんだ!」
 二人の間には言い知れぬ強い気がみなぎっていた。よくよく考えれば、こんな山奥に住ん
でいる男が、一国の主と分かっている男と自然に互角の口を聞けるものではない。高い身分
の者と接しなれているのか、もしくは彼自身がどこかの領主なのかもしれないではないか。
武将仲間の中でさえ、これほど威圧を感じさせる者はそうそういない。月影は背筋に凍りつ
くような恐怖感に包まれた。その空気を壊したのはまたも鷹月である。少し寂しげな嘆願す
るような表情を作ると、ふっと体の力を抜いたのである。
「訳を話してやるけど・・・・・、その前に二つ約束してくれ」
「何をだ」
「俺が何者であろうとお前にとって敵じゃない。それを信じてくれ」
 月影は即座にうなずく事はできなかった。
「それから?」
「今から話す話はすべて本当の事だ。ちゃんとすべて受け止められるか?」
 受け止められると頷きたいのだが、何かが引っかかって、月影の言葉が口から飛び出すの
を止めていた。本当に受け止められるだろうか。これ程状況が目まぐるしく変わり、今でさ
え受け入れるのに必死だ。しかし、今の自分は彼を信じるしか道はないのだろう。この状況
では・・・・。月影はゆっくりと確実にこう答えた。
「分かった・・・・」
 少しだけ顔を綻ばせた鷹月は、丁寧に頷くと、奥の部屋に入った。月影が入ってきて鷹月
の前に座るのを待つと、神妙に口を開いた。
「あれは山賊ではない。われらはある山郷に住む日鷹の忍だ」
「忍・・・・?」
 聞いたことのない名前だった。
「あの技を使ってきたあの男は、日鷹を名乗る頭領。おれの兄だ。そしてあの剣術だが、あ
れは貴殿北原家に伝わるとされる秘術、貴殿が受け継がなかった秘技だよ」
 もうここで月影は、頭の中がめちゃくちゃになってしまった。
                              (2003年11月9日)
 もしも自分が北原という名前を持っていなかったら、これほどの勇気を持つ事できただろ
うか。と時折思うことがあった。武芸の家系である北原の一族にあって自分は自他認める武
芸音痴だ。体も華奢だし、おっとりした物腰は小さいころから変わっていない。おじい様も
父上も口にはしないが落胆していただろう。
「政平様、腹をお括りなさりませ」
 どっと政平の部屋へ押しかけてきた家老達は、年輪の圧力を前面に押し出して詰め寄って
きた。
「しかし、殿・・・父上は亡くなられておりません」
 側室とはいえ、自分は北原の長男だ。そこで自分は決めたのだ。武芸で北原を支えられぬ
なら、知恵で北原を支えようと。
 ちらりと人の後ろに控えている栗原を見る。しかし、いくら月影の側近でも家老を差し置
いて口を挟むわけには行かない。じっと斜め下を睨みつけ、家老の言葉を聞き逃している姿
に政平の闘志に火がついた。
「父上は必ず戻ります。父の留守はこの政平が守って見せます。もしそれが不服と申すな
ら、殿への謀反と取りますぞ!」
 栗原へ詰め寄った時と同じように、不満げな顔で政平を見る家老達。息をいっぱいに吸い
込み、つっと立ち上がると一気に言い放った。 一体自分のどこにこんな気力があるのだろ
う。まだ元服したての若者の一喝が、長年北原に勤めてきた者達を黙らせる。
ちらりと人の後ろに控えている栗原を見る。顔を上げ頼もしいそうに自分を見て僅かに微笑
んでいた。それを見て、政平は父親も微笑んでいるように思った。
「今しばらく、殿の安否を決め付けるのは待っていただきたいのです」
 頼むから早く戻ってきてくれ。これが政平の本心であった。



 鷹月は月影の頭が動き出すのを待って聞いた。
「話・・・続けるか?」
「・・・もちろんだ」
 少しの間を置いた後、月影はきっぱりと答えた。今自分の目の前に、自分の知らない北原
の事を知っている者がいる。一つの国を預かる領主としての父親は、息子たちにでさえ秘密
を持っていたのだ。それを今日初めて出会った同じ年代の若者が知っていると言う事に、月
影は戸惑いながらもある種嫉妬に似た感情を覚えた。鷹月はその潔い返事を受け、話を続け
ることにした。
「先代どうしはある戦の為に1代限りという条件で手を組んだ。その頃日鷹の者たちはどこ
の武将のお抱えにならず、高額な報酬を出す仕事をこなしていたらしい。その日鷹が一代限
りとはいてある武将と手を組んだ。それ相当の報酬として北原は門外不出の秘技の1つを日
鷹へ伝えた」
 今までまったく知らされていない話だった。自分が伝授された時にはもう日鷹という忍び
とは関係していたはずなのに、まったくその存在を知らなかったのだ。戦の世で密偵を抱え
る事はどこの武将もしていた事で、そこまで隠すにはよっぽどの理由があったのだろう。
「本当にその戦後は我らの一族は関係を切ったのか?」
「お主やお主の兄弟達が名にも知らなかったと言うのがそういう意味だろう?」
「それではお主ら一族が私を襲ったのは、密かに手を切られたうらみか」
 その問いにはすぐに首を横にふる。
「いや、それは絶対にない。忍びとはそういう使命の元に存在する者。手を組んだ時に覚悟
はしているよ」
「ではなぜお主の兄は仲間を伴い我々を襲撃したのだ?」
 もちろん月影は鷹月が納得の行く説明をするものだと思った。
「実は・・・俺もそれを知りたいんだ」
「・・・」
 ここで初めて鷹月は真剣な顔をした。そしてしっかりと月影の目を見ると、口調は変えず
に本題を切り出した。
「俺はとうの昔に里を離れた。父が他界し、日鷹の名を継いだ兄者が何をしようとしている
の分からなくなってしまったんだ」
「何をしようととは?」
「父を乗り越えようというか、そういう事しか見えなくなってしまっている」
 ああ、なるほどな、とその当たりは月影にも日鷹の事が理解ができる。最初自分もそんな
思いに捕らわれてしまった事があった。自分の場合、側近に幼なじみを迎えた事で肩肘張ら
ずにやってこれたが。
「そんな兄を側で見ていられなくなってな」
 そこで鷹月は軽く息を吐いた。今気が付いたが、この男の穏やかさは、苦しさを覆い隠す
為のものだったのだ。 
「日鷹の里へ戻る事はあまりないが、たまたま遭った里の者が今回の事を打ち明けたんだ」
「その者が真相を話したのではないのか?」
「いや、そいつは里の者だが忍びではない。企ての中身は知らないが、心底心配していた。
何が起きているのか俺も知りたいんだ」
「それでわしを助けたのか」
 鷹月は照れ臭そうに笑うと頷いた。真意を確信し月影は内心少しほっとした。 
「ただで力を貸せとは言わない。というより、ただで動かせてくれとは言わないと言った方
が正しいな。北原から譲り受けた剣術をお主に返す。そしてこの企てに一体どんな裏がある
のか明らかにしてやるよ。こう見えてもお前と同じ頃から戦場にでていた忍びだぜ。仕事が
終わったらおれを殺そうがどうしようと構わないからさ」 
 この話はうそでは無さそうだが、この男が本当に日鷹の企てに関係していないのかどうか
は疑問だった。忍びとはそういうものだろう。もしウソをついていたとして、この男を領内
に入れ手引きをされたら一貫の終わりだからだ。そこで月影はもう少しこの男を知る事に決
めた。
「まずはその剣術をわしに教えろ。その先はその後だ」
「いいだろう。そのかわりこっちも容赦しないぜ」
 良い返事と受け取った鷹月はにっこりとほほ笑んだ。そして早速と言った感じでさっと立
ち上がり、戸口へむかう。
「どこへ行く?」
「晩飯の調達だ。腹が減っては治るものも治るまい。明日からは剣術の稽古だ。頼むから
さっさと覚えてくれよ」
                                                     (2004年5月19日)

 今日は少し肌寒いけれどもいいお天気だわ。若い娘がちらりと空を見上げた。かの要塞の表
をホウキで掃こうと外に出てきたのだ。ふわりと纏めた丸髷に色が白くほんのり頬が薄紅に染
まっている。それが非常に幼くみせているが、空を見上げるまなざしには幾分世の中を知って
いる雰囲気があった。
「ゆみ!」
 低くよく通る日鷹の声がその娘の名前を短く呼んだ。その短くするどい言い方は怒られると
いう威圧もあるが、なぜかゆみには心地よかった。ゆみは笑顔を隠しながら声の方へ振り向く。
そこには眉間に皺を寄せているが、怒りの形相はなかった。
「おはよう、兄さん」
 まるで平穏な武家屋敷の女中のように佇んでいる様子に、日鷹の顔にもあきれた風に変わっ
た。
「ゆみ、どう言ったら分かるんだ。表に出るのは危険なんだ」
 日鷹は最近こう言ってはゆみが外へ出るのを止めている。どうしてなのかは一切言わないの
でゆみも聞かないが、言い付けを守るほどいい妹でもない。しかし、最近昼夜問わずに仲間た
ちの出入りは激しかった。今、日鷹が出てきたのも、またどこかへ出掛ける為で、手下の1人
が馬を引いてきている。
「兄さんが里にいてくれれば何も心配はないわ」
 あからさまな嫌みに日鷹は微妙に顔を緩ませた。こうしてみると鷹月と似ている所もある。
日鷹は馬上に上がりもう一度ゆみを見てクギを刺した。
「とにかく、私がいいというまでは外に出るな。掃除は庭にしろ。いいな」
 仲間数人と駆けてゆく後ろ姿を見つめながら、ゆみはいいしれない不安を胸に日鷹の顔を思
い出していた。一体何をしているのだろう。
「ゆみ・・・ゆみ」
 と突然どこからか名を呼ばれ飛び上がりそうな程驚いたが、ゆみはその声が絶対に敵ではな
いという確信があった。
「た・・・鷹月さん!」
 きょろきょろ見回していると。少し生け垣になった雑木林の向こうから手を振っている鷹月
がいた。
「なにしてらしたんです!というよりもどこでなにをしてるんです」
「まぁ、気楽にやっているよ」
 実に鷹月がここを飛び出してから初めての再開だった。ゆみは持っていたホウキをぱったり
と落とし、そのまま鷹月に近づくと確かめるように体を触った。目の前でうれしそうに自分を
見つめる鷹月は紛れも無くぬくもりのある人間だった。鷹月はと言えば、再会の挨拶もそこそ
こに、砂埃の残る道を見つめて、ゆみに聞いた。
「兄者は一体どこへ出掛けているんだ?」
「私に言う訳ないでしょ。言われている事といえば、危険だから外にでるな、だけ」
「分かった、こういう顔して言うんだろ」  
 鷹月は先程日鷹がゆみに見せた顔の通り、眉間にしわを寄せて見せる。これがまたそっくり
で、ゆみは声をたてて笑った。そんな中でもゆみは鷹月が当たりに気を配っている事にも気が
付いていた。日鷹と比べればなんとものんびりしたものだが、そこは日鷹の血を受け継ぐ者だ
けある。
「それで?突然戻ってきて。兄さんのマネをするためじゃないでしょ」
 その目が要塞主要部分の隅々まで向けていられる事でただ里帰りをした訳ではないとすぐ分
かる。日鷹がここを出たのを見計らってもいただろう。
「まぁ、そうだな。ちょっと忘れ物を取りに来たんだ」
 鷹月はゆみの手を取ると何かを掴ませた。そしてゆみの顔をのぞき込むように見た。それは
日鷹がと同じどこか有無を言わせない迫力がある。
「これやるから、俺が来ている事誰にも言うなよ」
 ゆみがきょとんとしている間に、鷹月は塀の向こうに消えてしまった。とほぼ同時に急に姿
が見えなくなったゆみを心配した見張りの者がゆみに声をかけて来た。
「お嬢さん?どうかしたんで?」
 どきっとしながら振り向くと、番の男がいぶかしげに自分の手元を見ているのに気が付いた。
「こ、これ?」
「ああ、頭領のですね」
 ゆみの手元を見た男の顔が緩んだ。鷹月が手渡したものを見て、それが日鷹の紋の入った小
柄である事に気づき慌てて言葉を探した。
「ええ、今そこで拾ったの。こんな大切な物落とすなんて、兄さんも疲れてるのかしらね」
 ゆみは笑いながらそう言って、それを胸にそっと押し当てたのだった。


 楽勝、と思いながらある部屋に忍び込み、後ろ手に障子をしめる。勝手知ったるわが家であ
るが、だからこそ余計に人目を気にする必要があった。それでも知り尽くした要塞など一般家
屋となんの変わりもない。鷹月は自分が出て行った当時から何も変わらない自分の部屋を眺め
た。この何年間、自分は	ここを出て変わったと思っていた。忍びを捨て、だまし合いや人殺し
から遠ざかり、それはすべて過去の事で、もう自分には関係無いだろうと思っていた。しかし
ここへ戻って見て、そこにはなんの違和感もない自分がいた。鷹月からあきらめた様なため息
が漏れる。月影を助けた時も、剣術を月影に披露した時も、自分の体は何一つ忘れていない事
を実感したのだ。この部屋もそうだ。まるで何年も空けていたようには思えなかった。このま
ま部屋着に着替えて、仲間達のいる広間へ飛んで行きたい気分だった。
「・・・さっさと済ましちまおうぜ」
 言い聞かせるように小声でつぶやく。今は敵なんだ、もし見つかったら飛びかかられ、捕ま
えられ、兄の前へ突き出されるんだ。そう思い直すと、鷹月はここへ来た目的である押し入れ
を開いた。押入の隅にある柱の一部を押すと、床板がすっとせり上がる。その板をゆっくりと
持ち上げると、それはそこにそのままあった。鷹月の忍び刀である。忍び刀は背中にさして抜
きやすいように、短く黒い。一見目立たないのだが、それは一族の血を引く者の証しの刀であ
るから、漆黒の中にも見事な彫りが施されている。鷹月はそれを力強く握り締め、立ち上がっ
た。そして、宣戦布告の証しとして、その刀で柱の角を削ぎ落としたのである。


 一人残されていた月影は剣術の稽古だ。一人で何ができる?と問う月影に鷹月はあのひょう
ひょうとした物言いで、よく考えてみろよ、と言い残した。よく考えて見ろと言われても何を
すればよいのか。取り合えず自分の習得している剣術を繰り返して見ようか・・・。さっそく
始めて見たものの、すぐにこれではないと感じた。かと言ってあの剣術をただ一度見ただけで、
分かるはずもない。しかし元はわが家の技だ。月影は非常に複雑な気分になった。北原の気象
か負けん気がめらめらと燃え上がる。たとえ会得していなくても、わが家のものなのだからで
きないはずはない。そう考えた月影は鷹月の姿を思い浮かべようと、目を閉じた。うろ覚えの
その姿は、あまり鮮明に剣を構えてはくれない。
いつの間にか月影は、鷹月の言うようにしっかりと考え始めていたのだった。

  
「日鷹の、しくじったそうだな?」
「面目次第もありません・・・」
 穏やかに頭を下げる。ある国の町外れの武家屋敷に日鷹とその雇い主はいた。相手は上座に
一人、右側に二人である。下座には向かい合わせて日鷹の面々が、日鷹を先頭にあの老体の側
近と若い手下が控えていた。上座に座るその雇い主は、きれいに整えられたさかやき、皺シミ
一つない上質の着物。たとえ武士の階級を知らない者がこの男を見ても、偉いお人だ分かる事
だろう。決して声を粗げたり感情を表に出したりしないが、その一言はとても冷ややかで、ひ
れ伏した日鷹は肩を押さえ付けられたように錯覚した。
「北原月影を切り捨てられるのは自分だけだと言ったのは、お前だぞ」
 これは右側から浴びせられた別の声である。自分の頭をお前呼ばわりし、明らかに軽蔑した
ような言い方に怒ったのは日鷹の若い手下だ。まだ十代と思われる彼は、年上身分に物おじな
く目くじらを立てて半身乗り出した。
「お頭様はあと一歩で月影公を切り捨てられたのです。ただそこに予期せぬ邪魔が入って・・
・」
「黙っていろ。殿には関係のない事だ。我らは果たせなかったのだ」
 慌てて老体が若い手下をたしなめたが、雇い主は邪魔者という言葉が気になったらしく、顔
をいささか曇らせた。  
「その邪魔とは。その者は北原とは関係のない者か?」
 どうやらこの事が外に漏れる事を心配しているらしい。
「町の様子を見ておりますと今だ北原月影の行方を探しております。家臣ではないと思われま
すが・・・」
 日鷹を庇護しようと、もう一度口を開く。今度は日鷹がたしなめたが、何も知らないとはい
え的を得た答えだと思った。
「その者も何とかしてくれるのだろうな」
「は・・・我が一族の正念場だと心得ております」
 雇い主はその答えを服従と捉えたようで、満足そうに頷いた。日鷹の方でも事情を知らない
ものは同じように感じたらしいが、老体だけはその言葉に込められた日鷹の心情を察し、俯い
た顔を上げる事ができなかったのである。 
「もしこの件が露見した時はお家断絶ではすまぬ。よいか肝に銘じておけ、我らの運命は共に
ある、お前達がしくじればわしもお前達も終わりだ。もっとも北原の事をよく知り、もっとも
恨みを持つお主達を見込んだのだ」
「我らにとりましても北原を討つ絶好の機会、必ず討ちますのでご安心を」
 そこで言葉を切り、日鷹達は退出した。彼らの気配が完全に消えるのを待って、家臣が口を
開いた。
「殿・・・、あやつらだけに任せておいて大丈夫でしょうか」
「失敗しても我らが手を出していなければ、後は何とでもなろう?」
 武将らしい打算的な笑いを浮かべ、そしてまた顔を引き締める。
「だが、少し事がやっかいになって来た。もしもの場合北原月影と日鷹の忍びどもをどうする
か・・・考えておけ」
「は、承知いたしました」
 帰路についた日鷹達も渋い顔をしていた。
「お頭、あの武将達は本当に信用できるのでしょうか?」
 あの場で意見をした若い忍びは、まだ言い足りないらしく、不満げな声を馬上の日鷹にぶつ
けた。
「小次郎!」
 前を歩いていた老体が眉をつり上げてそれを押さえようとしたが、日鷹は意見するの許すと
言った感じでそれを制した。小次郎と呼ばれた青年はそれに気づかず言葉を続ける。
「大体、我らはお頭からどういう目的で北原月影を殺さねばならないのかも聞いていない。そ
うですよね?」
 日鷹は黙ったままだった。
「お頭らしくない」
 この言葉は多分、今の一族すべての言葉だろう。その後ろから付いて来る手下達も黙ってこの
やり取りを聞いている。回答を待つように沈黙が流れたが、日鷹はやはり何も言わなかった。
「それともこれは日鷹一族の復讐ですか?先代のお頭を見返す為の・・・」
「いいかげんにせんか!小次郎。お前は何も知らぬくせに一人前の事を言うな」
 どれほど叱られようと、小次郎は引くことはない。日鷹は純粋でまっすぐな視線が背中に突
き刺さってくるのを感じた。あの日弟がしたように・・・。そこで日鷹は馬を止め、振り返っ
た。案の定小次郎の視線は期待で溢れている。日鷹はそれを跳ね飛ばすかのように低く冷たく
言い放った。
「小次郎・・・もし、私についてくる気がないなら、どこへでも好きな所へいけ!」
 小次郎の顔がさっと青ざめ固まった。そしてくるりと向きを変えると別の道へ走りだしてし
まった。
「まったく・・・」
 老体は小次郎の若さに任せた行動にため息しか出ない。他の者も心配そうに行方を目で追う
が、日鷹の手前追うことはできないでいる。
「あれは鷹月と仲がよかったからな。その事でも反感があるのだろう」
 特に感情を込める事もなく小次郎の後を目で追うと、日鷹は何事もなかったかのように家路
を進んだ。きっと落ち着きを取り戻したら戻ってくるだろう。誰もがそう思っていたのだが・
・・。 
2004年8月28日                               つづく


UP!   UP!   UP!   UP!
 小次郎はできるだけ高く、見晴らしのいい場所へ行こうと思いながら、山を駆け上がってい
た。鷹月を探すためだ。もう我慢の限界だった。あの時、鷹月があそこを出て行った時、つい
て行けばよかったのだ。ただあの時は、鷹月が統領を見限った理由が分からなかった。鷹月が
いなくなった後、だれも統領を止めるものがいなくなり、静かに暮らしていた一族は、再び戦
をしかけるような事になっていったのだ。長老でさえ今回の事に賛成している。他の年長の者
からも異論一つあがらない。それどころか逆に争いを楽しんでいるようだ。
 突然馬が足を止めた。注意を払っていなかった小次郎はつんのめって、馬の首を支えにして
こらえた。いつの間にか頂上へたどり着いたようだった。この場所なら四方八方見下ろす事が
できる。小次郎がどこか鷹月が住んでいそうな場所がないか見回して見た。木が不自然にない
場所はないか、だれか人がいないか・・・。
 小次郎の場所から先ほど会っていた侍達が移動しているのも見えた。数名の護衛と駕籠の目
立たない行列だった。やはり我らと謀をしている事は内密なのだろう。分かってはいるものの、
なんだか空しさを感じる。なぜこれほどの力のある我らが影に甘んじていなければいけないの
だろうか。
「・・・?」
 その時、小次郎はその行列に妙な動きをしているのに気がついた。突然なにもない場所で行
列が止まったのだ。目を凝らした小次郎の体が知らず知らずのうちに前へ出る。どこから現れ
たのか、行列と同じ人数の護衛の武士達が、姿を現した。今までついていた武士達が、持ち場
を離れるとその現れた者達がそれに変わる。そして行列は何事もなかったかのようにまた進み
始めたのだ。小次郎はいったい今目の前で何が起こったのか理解できずにいた。駕籠の中の侍
はそのままだから、回りだけ変わった事になる。いったい護衛だけ変わったという事にどんな
意味があるのか・・・。小次郎にはまったく分からなかった。交代した武士達はというと、周
りをすこし確認した後、そのまま逆の方向へ向かって移動し始めた。小次郎はどちらを追おう
か迷ったが、今まで会っていた人間の不穏な動きが気になった。そこで小次郎は行列の行方を
追う事にした。
 追えば追うほど不安がつのる。日鷹からは北原の隣国の国の者と聞いていたが、彼らは国境
から出るわけではなく、どんどん林の中へ入ってゆくのである。小次郎は高台からでは見えな
くなりそうだったので、そうっと彼らに近づいた。彼らは川べりにある小さな粗末な小屋の側
で止まった。先ほどの雇い主達は、あたりを注意深く見渡しはじめ、小次郎も慌てて身を伏せ
た。草の間から目だけで姿を追うと、彼らは駕籠や道具をその小屋の中にしまい、船のような
ものに乗り換えている。一体どこに下るというのだ。
「とにかく・・・・お頭に知らせないと・・・」
 そう思った時、もう小次郎の頭には先ほどの日鷹との言い争いは完全に抜け去ってしまって
いた。立ち上がったその時である。
「誰だ!」
 背後からの鋭い声に、即座に振り向いた。そこには火縄銃を持った男が射るような視線を向
けて立っていた。
その声を合図に、四方からその男と同じなりをしたもの達が集まって来た。
「さっき山の上からわれらの行く先を眺めていたガキだな?」
 見られていた!あの場所は上からは見やすいが、下からだと相当見上げなければ見えない場
所だった。それに気づくとは、一体彼らは何者なのだろうか。小次郎は動揺しそうなのを必死
に抑えて構えた。男たちは少しずつ間合いを詰めてきて、小次郎は知らず知らずのうちに後ろ
へ下がっていた。小次郎を最初に見つけた男が小次郎を上から下にじっくりと見、ふんと鼻で
笑った。
「日鷹の所の者か。こんな隙だらけのガキを見張りにさせるとは、かつては名門だった一族も
今は人手不足なんだな」
「何・・・・」
 という事は彼らも忍びなのか?しかしなぜ別の忍びがこんな所にいるのだろう。小次郎はこ
の企みが日鷹も知らない何か別の目的で動いてきる気がしてきた。
「・・・俺が戻らなかったら、お前らの存在を日鷹に知られる事になるんだぞ・・・」
 男はこの威嚇をまた鼻であしらった。
「お前の口を封じてしまった方が、事は早い」
 小次郎の華奢な体に複数の銃口が向けられた。逃げ場のなくなった小次郎はじりじりと後ず
さる。火縄の匂いが届くと小次郎は決意した。つま先で蹴ると、その上にあった枝に飛び上が
ったのである。男たちは慌てて枝の上に銃口を向けなおし撃った。完璧だった包囲が崩れ、雷
鳴のような銃声がばらばらに響く。男たちが撃ったと同時に、小次郎はそのまま後ろへ飛び、
川に飛び込んだのである。撃たなかった者達が、その川めがけて撃った。
「逃がしたか?」
 男達が川を覗き込むが、小次郎の姿はない。しかし、その途中、男たちは流れに赤い筋が浮
かび上がったのを見て取った。これだけの流れで血の筋が水面に残る場合、かなりの出血のは
ずだ。男たちは安堵の笑みを浮かべ、そこを後にした。
 
「ん?」
 月影は何か違和感を感じて顔を上げた。まるで澄んでいた水の中に数滴の血が混じったよう
なまずさを感じたのだ。匂いなのか味なのかは月影自身も定かではなかったが、何かが先ほど
までとは違う。しばらく状況を把握するようにじっとしていたが、その気配を探そうと決心す
ると力を超込めて立ち上がった。まだ痛む足を慎重に不安定な地面に置きながら、草木の茂る
林の中へ入っていった。林はいつものように風の音と動物の声だけが聞こえてきていた。足の
痛みが前ほどではなくなっている事で、少し余裕のできた月影はぐるりと視線を上に向けてみ
た。今まで自分は山の頂にいると思っていたが、斜面はまだ上へ続いていた。その場所はかな
り急で、壁のようになっている。やはり忍びが選ぶ場所だな、と感じた。とその時だった。
「わっ!」
 突然足首に生暖かいものが触れ、それが絡みつくとぎゅっと掴まれたのだ。驚きとそれが人
の手だと分かった動揺で、思わず側の木にしがみついてしまった。一呼吸おいて何事かと思い
足元を見ると、茂みの中から伸びる土にまみれた手が自分の足を掴んでいた。一度ごくりと唾
を飲み込んでその茂みを掻き分ける。
「あ・・・あああ・・・・」
「・・・・人間か・・・・」
 そこに倒れていたのは、ひどいなりの少年だった。全身びしょ濡れで、冷え切ったような青
白く鳥肌の立った顔が泥まみれだ。それはなんとかここまで逃げてきた小次郎だった。とりあ
えず違和感の元とそれが生身の人間だったことにホッとした月影である。そして相手が誰かも
分からず、必死でもう一方の手を差し出している者が、よく見るとまだほんの子供である事に
眉をしかめた。
小次郎は凍えたような震えた声を必死に振り絞って、月影に訴えた。
「と・・・とどめを・・・」
「とどめだと!?」
 そう言われ、一瞬唖然とした月影だったが腰をかがめ、怪我の具合を探すように小次郎の体
を転がす。複数の鉄砲に撃たれたのだろう。肩や足に着物の破れた後や、すり傷がある。一番
酷そうなのは腰の傷だ。固まりかけてはいるが弾が貫通している。月影は医者ではないので詳
しい事は言えないが、見た感じそれほど重症でもなさそうだった。ただ水に浸かっていたよう
だからどれほど血が流れたのかは分からない。とその時、月影は再び人の気配を感じ取った。
しばらくすると、自分の歩いてきた方向から草を掻き分ける音がしてきた。この少年を襲った
者達かとも思ったが、緊張感と敵意のないその動く音で違う事が分かる。きっと鷹月が帰って
きて、林の側に置いた刀を見つけてここへ来たのだろう。そう思った時、初めて自分が刀を置
いてここまで来た事に気がついた。
「月影・・・どの?」
 林に向かって 鷹月の声
が控えめに響いた。やはりそうだった、今日は一段と感が冴えているぞ、と月影はにんまりし
た。返事を返そうと思った一瞬、もしこの男の存在を知らせたら彼はこの男を殺すだろうか?
と息を飲んだ。少年の顔をもう1度見るが、本人も死にたいと言っているし、ここに放ってお
いてもいずれ死んでしまうだろう、なら連れて行っても同じ事だ、と思い直した。月影は小次
郎の顔を覗き込むと、冗談交じりですごんで見せる。
「とどめを刺すまでもない」
 月影は小次郎を一気に引き上げた。小次郎を肩まで抱えあげた後、月影は鷹月に返事をした。
「ここだ!ここに人が倒れている」
 このやり取りを聞いていた小次郎が小さくつぶやいた。
「あ、兄者・・・・・・?」
 (2005年4月12日)                            つづく

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