0016. そろそろ「LGBT」という呼び方をやめませんか

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2025年6月4日掲載

 「0006」、「0009」で取り上げた、「性の多様性」の問題。杉田水脈氏の提言にあったように、ずっと引っかかっていることがある。

 それは、繰り返しになるが、「『LGB』と『T』は違う」ということだ。



 私は医者ではないから、医学の専門的なことは分からない。しかし、「身体における障害」と「個人の生き方」の違いくらいは分かる。

 ウィキペディアの「トランスジェンダー」日本語2025年4月17日16:14[UTC]版では、

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出生時点の身体の観察の結果、医師により割り当てられ、出生証明書や出生届に記入された性別、あるいは続柄が、性同一性(ジェンダー・アイデンティティ)と異なる人々、またはジェンダー表現と異なる人々を示す総称。
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トランスジェンダーに性同一性障害の人々も含まれるが、その用語の成り立ちや当事者の使用感覚の観点からも「トランスジェンダー=性同一性障害」ではない。
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とされる。



 何も勉強しないで批判するのはいけないと思って、自民党の特命委員会が推薦書としているという「そうだったのかLGBT」(株式会社エピック・2018年発行)という本を取り寄せ、繰り返し読んでいる。1回や2回読んだくらいでは腹に落ちないので、何度も読んでいるが、いまだに何を言っているのかよく分からないところが複数箇所ある。また、一冊だけでは考えが偏るかもしれないので、他の複数の書籍にも当たろうかとも思ったが、本屋で立ち読みしてみると、本当に訳の分からないことばかり書き連ねてあり、買う気にならない。

 また、この分野に関しては、時間が経つにつれどんどんと見解が複雑化しているようで、学会員などとなって頻繁にそういう場に参加して知識を仕入れていない限り、知識が陳腐化している、とされてしまうようである。一般人の私にはそんな時間的・経済的余裕もなく、もっぱらインターネットか、ときどき新聞の記事に頼るばかりである。



 例えば、鍵となる「ジェンダー」という言葉。私の認識では、言語学の用語に由来するものだと思っていたが、ウィキペディアによると、工学的なねじ、すなわち、雄ねじと雌ねじ、プラグとジャックなどの用法に端を発するものらしい。それから現在に至るまで、「性」の定義がめまぐるしく変遷してきたようで、どれに依るべきか、判断できない。記事を一通り読んだ結果、どうやら、

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セックス(sex)=生物学的な性
ジェンダー(gender)=社会的・文化的な性
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と考えればよい、というのが、今現在の私の認識である。

 しかし、私の腹に落ちない理由となっている、大きな疑問がある。

「なぜ、『生物学的な性』と『社会的・文化的な性』が違うと考えなければならないのか」

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 選挙になると、革新的政党の候補者たちは、「ジェンダー平等」と大声で訴える。上の定義を当てはめると、「社会的・文化的な性の平等」と言っていることになる。

 なぜ、「生物学的な性」を軽視するのか。

 上の人たちも生物である。選挙の合間にトイレに駆け込むだろう。男性は男性用、女性は女性用トイレに入るはずである。昨今は、トイレ事情も変化してきてはいるが、基本的にトイレの性別というのは、「生物学的な性」で分けられている。すわなち、外見上の性別で、それに対応した方のトイレに入る、という暗黙のルールに従って、皆が利用しているのである。これに反すれば、たちまちお巡りさんの出動、となってしまう。何を言いたいかというと、口では「ジェンダーが重要」と言っている人たちも、体は「セックス(生物学的な性)の区別に従う」という事を、日常的に行っているのである。

 つまり、「社会的・文化的な性」というものは、「生物学的な性」とは切っても切れないものであり、決して後者は軽視すべきものではない。いろいろ考えてみると、あることに気付いた。何のことはない、政治家が、大声で「セックス」と言うと、性行為を連想され、自分たちの印象を悪くするのを嫌って、「ジェンダー」という言葉を多用しているのではないのか。社会的弱者の権利向上とは無関係の、自分たちの利益に基づく打算的な意図が、そこに見え隠れする。「生物学的な性」、「自己認識の性」、「魅力を感じる性」などがそれぞれ個別に存在するなど、なぜ、「性」というものの定義が一つではなく、いくつも存在すると考えねばならないのか。私に言わせれば、理屈に理屈をくっつけた、「屁理屈」だ。それによって得をする一部の人たちやビジネスが、どこかに存在するような気がしてならない。専門医の人たちも、自分たちの知的意欲を満たしたいという欲望よりも、社会に有益な研究や概念を打ち出すべきではないのか。世の中をいたずらに混乱させる学問など、害悪ではないのか。「医者の社会的使命」を、一人一人に自覚してもらいたい。たまには、突然変異のような人が誕生するかもしれないが、それに合わせて社会の方を変えさせるのではなく、医者ならまず、「病気を治す」ことを考えるべきではないか。



 「0006」の杉田水脈氏の寄稿文では、2018年当時のフェイスブック・アメリカ版には58種類もの性別が存在したということを紹介したが、そんなもの、もはや「性別」ではなく、「個人の趣味」の範疇ではないか。私の経験では、人が100人いれば100人とも考えが違うと思って、ちょうどよいくらいである。まさしく「十人十色」だ。アメリカのトランプ大統領は、はっきり言ってやっていることはめちゃくちゃだが、賛同できるのは、「性別は男女の2つだけとする」という大統領令だ。世界に80億人の人がいれば、それこそ80億の性を与えねばならない。さらに人が増えれば、性の数も増えていく。そんなもの、「性」という言葉の定義を遥かに逸脱した、漫画のような世界である。誰がこんな、「性の多様性」などということを言い出したのか。私に言わせれば、1920年代のアメリカの禁酒法や、徳川綱吉の生類憐みの令と同様の、「天下の悪法」だ。「0013」で述べた、「過ぎたるは及ばざるがごとし」の通りで、「自由のはき違え」にも通じる。今、世界では同性婚を合法化していない日本のような国は、もはや「性的少数国」と化しており、私は、「地球温暖化」と同じく、世界の風潮がおかしくなっているのを感じ、何だか背筋がぞっとする。「0006」で述べたが、同性婚など合法化していいはずがない。一旦同性間に認めてしまうと、近親婚・異生物間での婚姻・機械や構造物との婚姻などを望む声に対してそれを阻止するための論理的根拠を失う。杉田水脈氏はこれを、「歯止めがかからなくなる」と危惧した。今放映されている大河ドラマの平賀源内は男色家だったそうだが、誰にも迷惑を掛けないところで静かに嗜好を楽しむのは好きにやればいい。しかし、なぜパレードを行う必要がある? あの人数、もはや「少数者」とは思えない。馬鹿騒ぎしたい有象無象が尻馬に乗って、人数が嵩増しされているのではないのか。あの「レインボーフラッグ」、本当にやめてほしい。虹の七色は、自然界が人に与えた「色覚」という機能を駆使した、天然の芸術品だ。色覚は、動物の種によって異なっている。「レインボーカラーは性の多様性を表す」などということに使ってほしくない。

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 今では、もはや「LGBT」という言葉さえ使われず、日曜日の朝にやっている、口では「多様性」を唱えながら、似たような意見しか言わない左翼コメンテーターばかりずらりと並べた予定調和の偏向情報番組などでは競って「LGBTQ+」という言葉が使われている。まるで新しい物好きのおっちょこちょいだ。「私の性別はクエスチョニングです。」、こういうことを、役所が公的に認めることが、理想の社会なのか? 各人、まじめに考えてほしい。いい加減に目を覚ませ。日本への関税は困るが、それでも頑張れ、トランプ大統領。


虹の七色
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