0013. 集団生活の大原則

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2025年2月23日執筆

 今年は戦後80年、憲法9条に代表される平和憲法に治められる、平和な国家の形をとって、80年の時が経とうとしている。それまでの戦中・戦前の社会と異なり、すべての国民に基本的人権、様々な自由などが保証された、誠に結構な世の中であることは間違いない。

 戦後生まれの私にとって、戦前の社会のことは想像するしかないが、かつての社会に存在していた貧困・搾取・抑圧などの苦い経験から、先人たちの血のにじむような努力の積み重ねのおかげで、人々は基本的人権・自由などを勝ち得てきた。これは日本のみならず、世界のどの国も同様な流れで推移してきたことを歴史が物語っており、人々を縛り付けていたものから解放へと向かってきた。これは、繰り返しになるが、誠に結構なことだと思う。

 それならば、そういう縛りをどんどん取り払っていくのが、もっと「進んだ」、あるべき未来の姿なのだろうか。

 私は、これには絶対反対である。「過ぎたるは及ばざるがごとし。」



 誰も一人では生きられない。本当に「自分は一人で生きている」と言いたければ、それこそ無人島にでも行って、完全に自給自足の生活をして証明するほかはない。企業のワンマン経営者と言えども、従業員・顧客・取引先・株主などの協力があっての存在だ。何より、電気・ガス・水道・道路、昨今ではインターネットなど、また、国・自治体から提供される社会インフラを無言のうちに利用して成り立っている。人は、社会とのかかわりの中で生きている、というよりは、生かしてもらっている存在なのではないか。

 そうであるならば、自分を生かしてくれている、社会というもの、集団というものも、個人と同様に尊重すべきなのではないか?

 例えば、今の国会で話題になっている、選択的夫婦別姓の問題。また、性の多様性の問題。

 個人の自由を認めれば、当人たちにとってはよいかもしれない。しかし、社会全体の方向として、それらを許すことは、全体にとって幸せな結果をもたらすものなのかどうか。

 上で述べたように、人間は、社会の中でしか生きられない動物である。集団生活を営んでいく上では、忘れてはならない大原則がある。

「他人に迷惑を掛けるな。」

 夫婦別姓については、生まれた子供はどうなるのか。制度の導入によって、迷惑をこうむる存在とはならないか。また、性の多様性の問題については、社会全体の混乱にもつながりかねないし、少子化対策にも逆行しうる。子育て・教育に多額の負担をした人たちの子供のみが次世代の納税者・社会保険の負担者となって、子供をつくらない人たちをも支えなければならない構造を生んでしまう。不公平の極みではないか。「個人の自由」を尊重するあまり、大勢の迷惑をこうむる人を生む結果となってしまう。人間が社会という集団を支える存在であるならば、その集団への貢献の努力を促す方向に導くことが、真の解決策ではないか。

 全体主義と個人主義、社会の秩序と個人の自由、まさしく「過ぎたるは…」の言葉通り、どちらか一方がよいというものではなく、そのバランスが大事であり、どちらの観点も欠かしてはならない。

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 種々の閣僚を務めた経済学者の竹中平蔵氏は、その著書の中で、世の中の問題は誠に複雑で、政策の立案・実行は、さまざまな連立方程式を解く作業である、と述べている。応能負担・受益者負担という問題、世の中の様々なトレードオフの関係にある問題を扱う政治家の諸氏には、ぜひ政策を論じる際の大原則として、一人一人が「他人に迷惑をかけない」社会を築くこと、このことを常に念頭においてもらいたい。


全体主義と個人主義
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