0007. 「国際化」の是非
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2023年12月17日執筆
現代は「グローバル化」社会と呼ばれて久しい。これは良いとか悪いとかいう問題ではなく、事実である。その趨勢にともなって、様々な物が「体系的に統一される」ということが行われてきた。
その大きな例が、国際単位系(略称SI、[仏]Le Système International d'Unités)と言える。各国・各地域でばらばらに定義・運用されてきた計量単位を、世界中で統一しようという仕組みである。
計量単位は人間の生活には必要不可欠なもので、長さ、重さ(正確には質量)、面積など、あらゆる物理量に対応してその基準として生み出された物である。我が国では、例えば長さの単位の尺、質量の単位の貫、面積の単位の坪などが用いられてきた。しかし、時代の変遷とともに、国家間・地域間での取引が盛んになってくると、その都度、単位の「換算」という作業がともない、大きな障害となってきた。そこで、「世界共通の普遍的な単位体系」として、革命時代のフランスに端を発するメートル法を起源として誕生し、現在に至るまで改変が行われてきている。これは大変合理的で、人類の生活に甚大な貢献を果たしていると言って良いと言える。「国際化」が成功した例と言っても良い。
しかし、これはあくまで、それを支持する合理的な理由があって初めて支持されるべきである。
私が違和感を覚えるのは、柔道競技の「カラー柔道着化」、「無差別級の廃止」である。カラー柔道着については百歩譲れても、無差別級を廃止するというのは、私には「暴挙」に映る。
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柔道は、明治時代に嘉納治五郎が柔術を発展させて生み出された物であるが、その前身の柔術は、戦場で武器を失った後に敵に遭遇したときに、素手で相手を制する技として編み出された物を起源とする、と言われる。
それを想定すれば、戦場で敵味方が出会ったときに、いちいち体重別に分けるか?
格闘技・護身術としての実践的側面から見て、相手が自分と同程度の体格であるという保証はない。「目の前にいる相手を制する」ことが大事なのであって、「体重差がある場合は戦ってはならない」などと誰も言ってくれない。
柔道に限らず、空手・相撲など、日本の格闘技は、体重無差別で戦うのが基本であり、その方が合理的である。さらに柔道には、「柔よく剛を制す」、「小よく大を制す」という言葉があり、それが醍醐味であるとも言える。
また、「重い方が強い」とは限らない。小説「姿三四郎」では、主人公の三四郎が、大きな力士を得意の山嵐で投げて川に放り込む場面が存在する。打撃系異種格闘技戦のK-1(ケーワン)では、かつて2004年に、ガオグライ・ゲーンノラシン選手が、体重差53kgを跳ね返してマイティー・モー選手をノックアウトした。また、柔道の全日本選手権大会では、1990年に古賀稔彦選手が並み居る重量級の選手を退けて決勝戦に勝ち上がり、小川直也選手と7分余の激闘を繰り広げた。1967年と1969年の大会では、体重約80kgの岡野功選手が体重無差別で優勝を果たした。さらに言えば、柔道創始者の嘉納治五郎、「空気投げ」の三船久蔵などは、いずれも小柄な体格で技を極めた。
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「無差別級を廃止する」というのは、柔道を柔道でなくすようなものとも言える。
例えば、サッカーを、「手が使えないのは運動競技として不便だから」という理由で手を使えるようにルールを変えるだろうか。合理性ではなく多数決、政治的な理由で、その競技が本来持つ意味を無視して「世界の流れだから」と元のルールを変えてしまうのは、おかしいと思う。
私には、何でもかんでも西洋文化のやるように変える、というのは、明治時代の鹿鳴館の舞踏会を連想させてしまう。小説「姿三四郎」では、主人公の三四郎は、
「日本は月足らずの赤ん坊のような気がします。」
と語り、その愚かさを嘆く場面がある。
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「国際化」の美名の元に、実は「国際化」ではなく、「西洋化」に陥っていないか。一神教であるユダヤ教・キリスト教を精神的支柱に持つ西洋社会の精神が世界を席巻している。どこが「多様性尊重」なのか。日本は多神教の社会である。日本はもっと、自らの文化・精神性に自信を持って良いと思う。
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