0005. 私の学校時代の数少ない自慢話

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2023年8月20日執筆

私は、中学生の時にサッカー部、高校と大学で柔道部に所属していた。サッカー部では、とにかく高校受験のときの「内申書(ないしんしょ)」の内容が悪くならないために、「途中でやめない」ことだけを考えていやいややり通し、やる気がなかったので試合にも出られず、試合の時にはもっぱらラインズマン(線審)要員として働いていた。小学校五年生のときからアントニオ猪木のプロレスに夢中になり、格闘技に興味があったこともあり、高校で柔道を始めた。しかしなかなか強くなれず、初段になった(黒帯を取った)のは高校二年の7月、1年浪人して大学でも柔道を続け、毎月のように昇段試合に通い詰めたが、なかなか二段になれなかった。今はどうか知らないが、当時は初段になれるのは14歳以上、学年で言えば中学二年生で、「高校二年生で初段取得」というのは、あまり早いほうではなかった。まして、大学生ともなると、周りは半分以上は二段で、喉から手が出るほど二段の段位が欲しかったが、なかなか昇段できない自分に歯がゆさを通り越して情けない、不甲斐ない、という自己嫌悪の感情さえ抱いていた。

学校時代はそんな劣等感の塊だった私にも、「このときだけは『頑張った』と胸を張って言える」という自慢話が、2つだけある。一つは、大学の柔道部主将だったときの、東京都立大学との対抗戦での主将対主将の戦いに勝ったこと、そして、現役最後の昇段試合のチャンスで、ようやく念願の二段になったこと、である。

私は、現在大阪公立大学として存在している、当時の大阪府立大学(府大)に入学し、平成3年(1991年)、私が大学三年生の年に主将となった。当時はアメリカンフットボール部や合気道部、少林寺拳法部、日本拳法部などに人気があり、私たち府大の柔道部は弱小部だった。三年生は私を含めて2人で、もう1人が副将兼主務を務めた。

その年の出来事は、「昭和の大横綱」千代の富士の引退、ソビエト連邦の崩壊などがあったが、私の身近では、東京都立大学が八王子に移転した、ということがあった。



ここで、府大の柔道部の当時の状況について。

弱小部だったので、公式戦はほとんど初戦で敗退しており、年間のイベントとしては、もっぱら大学同士の定期戦に関心が集まった。3つの定期戦があった。

・「五大学戦」:大阪府下国公立五大学戦(大阪大学、大阪教育大学、大阪外国語大学、大阪市立大学、大阪府立大学の総当たりのリーグ戦)
・「都立大戦」(都立大側は、「府大戦」):東京都立大学対大阪府立大学の対抗戦。
・「六公立戦」、関西六公立大学戦:京都方・大阪方・兵庫方の三つ巴で競う。
 京都方:京都府立大学。
 大阪方:大阪府立大学、大阪女子大学。
 兵庫方:神戸商科大学、姫路工業大学、姫路女子短期大学。

五大学戦が5月、都立大戦が7月、六公立戦が11月にあり、中でも夏休み前の七夕の時期に行われる都立大戦が、最も熱く燃え上がった。

東京と大阪で交互に行われ、私が大学一年生のときには、現在「都立大学」と駅名だけ残る目黒区八雲(やくも)の旧キャンパスで行われ、二年生のときは大阪で行われたが、三年生のときには、都立大学が八王子に移転となった。当時は平成3年、同じ東京都の施設である東京都庁が新宿に移転したのと同時期に都立大学も新キャンパスに移転し、その年に、府立大学の主将として乗り込むこととなった。

ほかの対抗戦もそうだったが、都立大戦の柔道の試合も、7人同士の団体戦、勝ち抜き戦ではない1対1での勝った者の数の多い方の勝ちというルールで、私は主将として、前日までのオーダーの決定(誰をどういう順番で出場させるか)に頭を悩ませ、相手のオーダーを想定して最善のオーダーを組んで試合に臨んだ。勝ち抜き戦ならば、1人強い者がいれば、極端な話、1人で7人を倒せばチームの勝利になるわけだが、1対1の戦いとなると、誰と誰を戦わせるか、時には「捨て駒」のような戦い方も必要とされた。

当日両チームのオーダーが明らかになると、私は都立大の主将のI君と戦うこととなった。I君とは戦ったことがなく、前年の都立大戦では、私の同学年の副将を務めた者が一本負けしている。私自身の試合には自信と不安で五分五分だったが、頼りにしていた四年生の先輩は勝ってくれるだろう、チーム全体は大敗しないだろう、との予想の上で、試合に臨んだ。試合当日には上の方の怖い卒業生の先輩も応援に駆けつけ、試合後の夜には、飲み会が控えていた。また、当時、府大は都立大に10年くらい連敗しており、主将として、責任感を重く感じながら試合に臨んだ。

結果、私は勝ったが、チーム全体は大敗した。私のオーダー予想自体はかなり当たったが、勝敗が予想に反した。私自身は、向こうの主将のI君に得意の背負い投げで「技あり」を奪って勝ったが、頼りにしていたところで一本負けを喫するなど、惨敗だった。

試合後の飲み会で、怖かった先輩に結果を報告すると、「ボケ」と叱られた。ちょうどそのとき、私と先輩のほかに都立大のI君がそばにいて、I君が「主将同士では小西君に負けました」と先輩に告げると、先輩が、「では、なんとか面目を保ったな」と、少しだけ褒められた。新キャンパスでの主将同士の記念すべき戦いに勝った、という、大敗しながらもかろうじて主将の面目を保てたと、口には出せなかったが、大きな喜びであった。



もう一つの私の「自慢話」としている、二段への昇段の話。

地方によって事情は異なるが、大阪は人口も多いので柔道も盛んで、昇段試合も月に1回のペースで行われていた。ただ、12月、1月はなぜか行われず、11月の昇段試合を逃すと、次は2月、という状況だった。そして、ルールは勝ち抜き戦、勝てばどんどん次の相手と試合をさせてもらえるが、引き分けたり負けたりするとそこで終わり、次の昇段試合を待たねばならなかった。そして、私は初段になってから3年以上経過していたので、昇段するには3点以上あればよいのだが、勝ち抜き戦で1人勝っても、次で負けるとだめで、引き分け以上でないと昇段できないルールであった。それが災いして、私は1試合は勝つのだが次で負ける、というのが繰り返されて、点数だけ溜まって昇段できない、という状況に陥っていた。

そうして迎えた大学三年生の11月の昇段試合。当時、府大の柔道部は、1月から3月は「オフ」で、練習はなく、これを逃すと2月の昇段試合で昇段できる可能性は極めて低くなることが予想された。

1試合目の相手は、前に1試合を戦って少し疲れた相手だった。おそらく高校生だったろう。私は左組みだったが、左の釣り手を取って右の一本背負いで「有効」を奪い、そのまま押さえ込んで一本勝ちした。

勝負はそれから。

2試合目の相手は、おそらく大学生の、私と同じ左組み。私は、自分が左組みなのだが、普段練習している相手がほとんど右組みなので、右組みの相手には強いが、左組みの相手には弱い、という弱点があった。2試合目が始まり、開始早々、左の背負い落としで「有効」を取られた。

「また今回もだめか。」
「次の昇段試合は来年の2月、練習をやっている出身高校にでも出稽古にいこうか。」
などという考えばかりが試合中の頭によぎる。

私の一つ上の先輩に強い人がいて、その人から「袖(そで)釣り込み腰」を習ったことがあった。私は左組みなので、「左で組んで右に投げる」という技である。いろいろな妄想が頭をよぎる中、「だめ元」で先輩譲りの袖釣り込み腰を放った。

そこからは、まるでスローモーションのように覚えているが、相手が私の背中に乗って、ゆっくりと大きく背中から落ちた。勢いがなかったので「一本」にはならなかったが、主審が「技あり」を宣告した。

「逆転した!」

向こうが「有効」、こちらが「技あり」である。このまま試合が終われば私の勝ち、二段の形(かた)は取得済みなので、昇段できる、そう思ってからが長かった。「どうしても昇段したい」という思いが出るが、あまり防御に走ると反則を取られる。反則を取られないように試合を進めつつ、時間が来るのを待つ。そこからは5分くらいに感じたが、ようやく、「それまで」の声がかかった。

私の勝ち、これで2勝。

勝ち抜き戦なので、3試合目に入ろうとしたとき、本部席から「ちょっと待って」と声がかかって呼ばれた。「君は点数は足りているし、形も取っているので昇段だ。もう試合をしなくていい。」と言われた。

やった。「昇段だ」と言われた。うれしくて、天にも上る思いだった。

当時、府大には柔道を教える先生がいなかった。高校のときの柔道の先生がそういう柔道の試合の役員をされていることを知っていて、なんとか報告したい、と思った。当時、二段以上の昇段試合はニュージャパン柔道協会(当時の名称。現在は、講道館大阪国際柔道センター)で、初段の昇段試合は、大阪城の天守閣近くにある修道館で行われており、私は、高校の先生に報告したくて、大阪城に向かった。修道館に到着し、高校時代の柔道の先生を見つけ、「先生、二段に昇段できました」と報告すると、先生は「そうか、よくやったなあ」と喜んでくださった。後年、高校の柔道部の卒業生の集まりの時に、その先生がそのときの話を紹介してくださり、「あのとき頑張ってよかったなあ」と、しみじみと思った。私の人生の中での、数少ない歓喜の瞬間であった。

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平成8年(1996年)、アトランタオリンピックのマラソン女子で、2大会連続のメダルを獲得してその年の流行語大賞にもなった有森裕子さんの、

「自分で自分をほめたい」

という言葉があるが、私は、これら2回の出来事に対して、この言葉を使いたいと思う。

黒帯
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