0001. 私の心のヒーロー・斉藤仁(さいとう・ひとし)選手
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2022年5月18日執筆
柔道でのオリンピック連覇と言うと、とかく野村忠宏選手の3連覇がたたえられるが、日本人柔道選手で最初にオリンピック連覇を果たしたのは斉藤仁選手である。しかも、斉藤仁の2連覇は、ただの2連覇ではない。まず1984年ロサンゼルスオリンピックの金メダルの価値について。
「4年前の1980年モスクワオリンピックに日本がボイコットしたためいなかった山下泰裕選手が、今度のロサンゼルスオリンピックには無差別級で登場してくる。外国選手には無敗を続ける『外国選手にはめっぽう強い山下』には絶対勝ち目がない。」と踏んだ世界各国の重量級の選手は、山下選手との対戦をさけて、95キロ超級に殺到した。その激戦の95キロ超級を、決勝戦を除くすべての試合で一本勝ちをおさめたのが、斉藤仁選手のロサンゼルスオリンピックの金メダルであった。後年山下泰裕氏に、「私の柔道は心臓を狙う命中率の高いライフル。斉藤の柔道は、体のどこに当たっても一発で吹っ飛ばせる大砲。」と言わせた、豪快な内股による快進撃。柔道雑誌「近代柔道」には、無差別級金メダルの山下選手とともに、「日本が誇る無敵の双翼」とたたえられた斉藤仁、このとき23歳。
続く1988年ソウルオリンピックの金メダルも、ただの金メダルではなかった。それは、国内予選から始まる。
斉藤選手は、言わずと知れた重量級の選手である。前回のロサンゼルスオリンピックまでは、重量級の選手には、95キロ超級と無差別級の2つの選択肢があった。しかし、ロサンゼルスオリンピックを最後に無差別級は廃止。それまで無差別級を目指していた選手も95キロ超級に流れ、それだけでも難易度は高まっていた。当然日本代表も、重量級の選手は95キロ超級の1つの席のみ。
当時、日本には、重量級に3人の世界選手権王者が存在した。1983年の斉藤仁、1985年の正木嘉美(まさき・よしみ)、1987年の小川直也(おがわ・なおや)。歴代3代の世界選手権無差別級王者が、1つの代表の席を掛けて争う。世界で最も熾烈な代表争いだった。斉藤選手はまず、4月の全日本選手権決勝戦で正木選手を、7月の全日本選抜体重別選手権決勝戦で小川選手を下して、国内の激しい代表争いを制した。そして舞台はソウルオリンピックへ。
結果から言えば、ソウルオリンピック全体では、斉藤選手と合わせて、日本の金メダルは水泳の鈴木大地、レスリングの小林孝至・佐藤満の全部で4つと、それまでで最低数しか獲得できず、柔道競技が始まるまで、日本中が柔道の金メダルラッシュに期待していた。軽い階級から柔道競技が始まったが、細川伸二(銅メダル)・山本洋祐(銅メダル)・古賀稔彦(3回戦敗退)・岡田弘隆(3回戦敗退)・大迫明伸(銅メダル)・須貝等(2回戦敗退)と、いずれも金メダルを期待された日本選手が次々と敗れていく怒涛の総崩れの波。中でも岡田弘隆選手は、プレッシャーからくる興奮で柔道初日の細川伸二選手の試合の日から3日間一睡もできなかったという。しかも、斉藤選手は軸足のひざの怪我により、ロス五輪のときのような豪快な立ち技は鳴りを潜め、さらに斉藤選手は日本選手団主将、否が応でも最終日の斉藤選手にプレッシャーはこれでもかとのしかかる。
柔道最終日、斉藤選手は、初戦(2回戦)のブルガリアのサブリアノフ、3回戦のエジプトのラシュワンを抑え込みで一本勝ちに仕留め、準決勝戦では宿敵の韓国の趙容徹(チョ・ヨンチョル)に優勢勝ち、そして決勝戦では東ドイツのストールとの対戦。斉藤が優勢のまま試合時間残り10秒で、NHKのアナウンサーの実況放送、今でも記憶している。
「さあニッポン有利、ニッポン有利。初の金メダルに、10秒を切った、9秒だ、さあ斉藤が出ます、大変なコールだ。さあ5秒を切った、4秒だ、2秒だ、1秒だ、ブザーーーーっ。やりました斉藤。土壇場、どーたんばで踏ん張りましたニッポン柔道。ついに期待の斉藤、95キロで見事に金メダルです。斉藤やりました。最後の最後、本当に最後の最後で最も頼りになる男、日本の斉藤仁が見事に責任を果たした金メダルです。」
この「最も頼りになる男」という言葉、前日までの6階級で金メダルゼロが続く流れを終わらせた斉藤選手への、NHKアナウンサーの最高の賛辞に聞こえた。当日のNHKニュースの見出しは、「最後のとりで」。まさしく、「最後のとりで」を守った「最も頼りになる男」、斉藤仁が輝いた瞬間だった。
そして表彰式。紹介のアナウンス。
「ジ・オリンピック・チャンピオン、ゴールド・メダリスト。ヒトシ・サイトウ、ジャパン!」
会場中で振られる日の丸の旗。そして、「ザ・ナショナル・アンセム・オブ・ジャパン(日本国歌)!」
「きーみーがーよーおーはー、…」の音楽とともに上がる日の丸、そこに斉藤仁選手の汗まみれ・涙まみれの顔が重なる。私の人生で一番感動したオリンピックだった。斉藤仁、このとき27歳。
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「エベレストには登ったが、富士山にはまだ登っていない。」
「ポスト山下ではない、自分は斉藤一世。」
数々の名言を残した、人間味あふれる柔道家だった。
テレビで「柔道一直線」を見て柔道を始めたという。故郷の青森県の雪の中で、「柔道一直線」の必殺技「地獄車(じごくぐるま)」の練習を、お友達と真剣にされたそうだ。二人で雪の中をぐるぐる転げ回って、「おーい、掛かったか?」と確認され、「分からん!」と答えたという。何とも純真なエピソードだ。
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先日の全日本選手権で、次男の斉藤立(たつる)君が、お父さんの優勝から実に34年後に、20歳にして史上初の親子優勝を果たした。これほどうれしい結果はなかった。ときおり見せる細かなしぐさがお父さんそっくりで、まさに「生き写しとはこのことだ」と感じさせた。全日本選手権9連覇・世界選手権3連覇・公式戦203連勝・外国人選手には無敗という、数々の記録を誇った山下泰裕選手の記録を塗り替える素質と可能性は十分にある。ぜひともこれを果たして、お父さんが勝てなかった山下選手を超えてほしい。「斉藤二世」として。
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