0032. 日本語と英語から見える文化の違い
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2025年6月14日掲載
私は中学校一年生で、初めて英語というものを学んだが、そのときからずっと抱いてきた疑問がある。
なぜ、日本人は英語で自己紹介をするときに、
「私は、シゲル・イシバです。」
と、日本語とは逆の「名・姓」という語順にするのに、アメリカ人は日本語に合わせて
「私は、トランプ・ドナルドです。」
と言わないのか、ということだ。
その答えとして、長年の考察を経て自分の中で出した結論は、
「日本の文化は『相手が中心』、欧米の文化は『自分が中心』だからだ。」
というものだ。
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こういう例もある。否定疑問文と付加疑問文の答え方である。これらは、普通の疑問文の日本語と英語での答え方と比べてみれば、その違いがよく分かる。例えば、
●普通の疑問文の答え方
Did you come by car? 「車で来たのですか。」
来た場合の応答………Yes, I did. 「はい、来ました。」
来なかった場合………No, I didn't. 「いいえ、来ませんでした。」
●否定疑問文の答え方
Didn't you come by car? 「車で来なかったのですか。」
来た場合の応答………Yes, I did. 「いいえ、来ました。」
来なかった場合………No, I didn't. 「はい、来ませんでした。」
日本語では「はい」と「いいえ」が逆になるが、英語ではどちらも答え方は同じである。次に、付加疑問文の場合はどうなるか。
●付加疑問文の答え方
You came by car, didn't you? 「車で来たんでしょう?」
来た場合の応答………Yes, I did. 「はい、来ました。」
来なかった場合………No, I didn't. 「いいえ、来ませんでした。」
この場合も、英語の答え方は同じである。つまり、普通の疑問文も、否定疑問文も付加疑問文も、英語では答え方は変わらない。質問文の形態に関係なく、自分側の事実を言えばよいのである。すなわちこれらのことは、日本語は、相手の聞き方に合わせて答え方(「はい」か「いいえ」か)を変える一方、英語は、相手の聞き方がどうであれ、答え方("yes"か"no"か)を変えないということである。
そのほかにも…
【場合によって正反対の意味になってしまう日本語の単語】
- 「先(さき)」という言葉。
- 電池や電解槽の電極の呼び方、「正極」・「負極」と「陽極」・「陰極」。
- 例えば、「お先(さき)真っ暗」・「先行き」など、「前途」・「目的地」を表す場合と、「先に行く」・「料金先払い」のように、「順序が前であること」を表す場合がある。英語で言うと、前者は"future"であろうし、後者は"first"、"previous"、"former"、"in advance"や"pre-"などとなろう。英語の母語話者(ネイティブスピーカー)が日本語を学んだ時に、このことには大変混乱することと思われる。単語の意味が明解な"furure"や"first"、"previous"などに対し、前後の文脈を考えないと意味が分からないこのような単語の存在は、私の大嫌いな大江健三郎がノーベル賞の受賞記念講演で語った、「あいまいな日本」ということのゆえんだろう。
- これらは私の専門の化学の用語である。「正極」と「負極」は電池の電極、「陽極」と「陰極」は電解槽の電極である。そして、「正極」と「陽極」は、ともに「電位の高い方」、「負極」と「陰極」は、「電位の低い方」と定義されている。電池というのは外部に電流を流す装置、その反対に、電解槽は外部から電流を流して電気分解を起こす装置である。これらの用語は、現象を巨視的(きょしてき)な観点でとらえたものであり、化学反応という微視的(びしてき)な観点でとらえると、次のような奇妙な関係にあることが分かる。
少し化学の専門的な話になるが、電池の正極では、そこから外部に向かって正の電荷が流れ出し、電池内部では、溶液から電極に向かって正の電荷が流れる。「正の電荷が流れる」ということは、負の電荷を持つ電子が正の電荷と逆向きに流れることと同じであり、溶液中の、正の電荷を持つ陽イオンが電子を得て、電気的に中性の金属原子となる、すなわち、「還元(かんげん)反応」という変化が起こることになる。電子の流れで言うと、外部から正極に電子が流れ込み、これが溶液中から来た陽イオンに電子を与えて、中性の原子となって、電極表面に付着・堆積する、ということである。つまり、電池の正極では、還元反応が起こるのである。その反対に、電池の負極では、中性の金属原子からなる電極から電子が奪われる、「酸化(さんか)反応」が起こり、生じた電子は外部の回路へと流れ出し、また原子から電子を奪われた陽イオン、すなわち正の電荷は、電極から溶液に流れるのである。このように、電池の負極では酸化反応が起こる。
一方、電解槽すなわち電気分解の場合は、電位の高い方の陽極では、外部から正の電荷が流れ込むのであるが、これは、負の電荷を持つ電子が陽極から外部の回路に流れ出すことと同じであり、ここで起こる化学反応は、溶液中の陰イオンが陽極に近づいて来て、電子を奪われる、すなわち酸化反応が起こり、陰イオンは電子を失って、多くは中性の塩素分子や酸素分子などの気体となって、泡(あわ)の発生が見られる。こうして電解槽の陽極では酸化反応が起こるのである。
また、電解槽の陰極では、外部から負の電荷を持つ電子が流れ込み、この電子が溶液中の金属陽イオンや水分子に与えられる、すなわち還元反応が起こり、金属陽イオンの場合は電極への金属の付着、水分子の場合は水素気体の発生などとなる。電解槽の陰極では還元反応が起こる。
上で「奇妙」と言ったのは、
電池の負極と電解槽の陽極では酸化反応が起こる。
電池の正極と電解槽の陰極では還元反応が起こる。
という、電池と電解槽で、電位の高さが反対のものが、同じ種類の化学反応を起こす、ということである。
英語ではこのような定義をせず、
酸化反応が起こる電極をアノード(anode)
還元反応が起こる電極をカソード(cathode)
と定義される。これらのことを、私たちは大学で「アノード酸化、カソード還元」と習った。
長くなったが、英語での定義は明快で、起こる反応の種類によって電極を定義し、電位が高い・低いには定義が左右されないのに対し、日本語では、巨視的な電位の高さに応じてその定義が逆転する、という定義になっている。
最後の例として、日本語と英語の、文の構成要素の語順の違いを述べる。
●日本語
肯定文
これはペンです。
否定分
これはペンではありません。
●英語
肯定文
This is a pen.
否定分
This is not a pen.
日本語では、結論や問題の核心部分を文の最後に言う一方、英語では、それを先に言う。かつて、平成15年(西暦2003年)11月2日のTBSテレビ「サンデーモーニング」では、当時の東京都知事の石原慎太郎氏の発言、
「私は日韓併合を100パーセント正当化するつもりはない。」
に対して、
「私は日韓併合を100パーセント正当化するつもりだ。」
と、正反対の意味のテロップをつけて放送し、訴訟騒ぎになったのを思い出した。私もこのときの発言と放送を視聴していたが、石原氏の発言は、語尾のところが聞こえづらく、
「…正当化するつもりは(モゴモゴ)」
となって、正当化するつもりがあるのかないのか、最後まで私には分からなかった。このことも、英語なら起きなかった問題かもしれない。
これは、上で述べた、相手に合わせるのか自分を中心におくのかとは少し違うが、「日本語と英語の違い」として私が感じてきた違いの話として、あえて一緒に述べた。強いて上の話と共通点を見いだすとすれば、日本語では自分を押し出すのを控えめにするのに対し、英語では自分を強く、明快に押し出す、という態度で一貫しているのではないか、と考えた。日本人は自分の意見を主張して相手を説得するディベートに弱いと言われるようだが、こうした言語構造にも起因するのかもしれない。
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以上の話から飛躍するようだが、最後に付け加えたい。なぜこのように違うのか。私の考えを述べる。
これは、「一神教と多神教」、「天動説と地動説」、「絶対的と相対的」の違いではないか。いずれも前者が欧米的な文化、後者が日本的な文化というのが、私の意見である。「地動説が発表されたのは西洋だから、それは違う」と言われればその通りである。私が言いたいのは、日本の文化の方が、欧米の文化に比べて、より自然の実態に近いものではないか、という説である。これは、養老孟司氏の持論にも通じるが、氏は、日本はもともと自然信仰で、山があれば山を拝み、滝があれば滝を拝む、大きな木があればそれを拝む。「八百万(やおよろず)の神」である。一方、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教というのは、いずれも「唯一絶対神」の一神教である。ある中心となる「絶対に正しい存在」があり、それを尊ぶ。日本は、出会ったものにいちいち頭を下げ、敬うのである。「一貫性がない」と言われるゆえんだが、日本人はそうして生きてきた。それでは、なぜそんなことになったのかを考察してみると、日本は、四方を海に囲まれた島国で、地震があれば火山もある、毎年台風は来るし、津波もある。自然災害とかかわらずには生きてこられなかったのである。一方、欧米はどうか。ヨーロッパには、何百年も前からの建築物が今も建っているのがざらにあるが、地震国の日本ではそれはあり得ない。「世界最古の木造建築物の法隆寺の五重の塔などはどうなのか」と問われれば、それは、地震にも耐えうる巧みな設計があって今まで生き延びてきたのであり、自然災害に耐えて生き延びてきたという違いがある。火山も台風も津波も、まったくないことはないが、日本と比べると欧米ではその頻度は遥かに少ない。
そして最後に言いたいのが、「日本の考えの方が、正しいのではないか」ということである。この考えに到ったのは、20世紀になって生まれた物理学の一分野である量子力学の、「光や物質の粒子性と波動性の二重性」という考え方からである。それまでの物理学では、「同じ物質が同時に違う場所に存在する」などあり得なかった。しかし、「黒体放射」、「光電効果」、「水素原子の構造」など、研究が進むにつれていわゆる「古典物理学」という従来の学説では説明できない現象に次々に遭遇した。西暦1900年のプランク(Planck)の量子仮説に端を発し、1905年にアインシュタイン(Einstein)が、それまで「波動」とされていた光を、ある大きさのエネルギーを持つ「粒子」だとし、ハイゼンベルク(Heisenberg)の行列力学・シュレーディンガー(Shrödinger)の波動力学によって理論が確立し、今日まで自然現象を正しく表す姿として支持されている。一元論的な考え方に立てば、「自分が正しいのであって、相手が正しいというのは許せない」となるが、「自分も正しい、相手も正しい、互いの違いはそのままにしておく」という多元論的な姿勢が現代物理学にも見て取れる。これは、日本の文化が、太古の昔から自然と取ってきた姿勢に通じるのではないか。
「つれづれ書き」の「0007.『国際化』の是非」の結語に述べたが、日本は、異国の文化にへりくだるのではなく、自信を持って自分たちの文化を発信していけばいいと考える、これがゆえんである。
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