山南敬助 (Keisuke Yamanami)

 

山南敬助 藤原知信
1833(天保4年)〜1865(慶応元年)
陸奥伊達藩脱藩 試衛館師範代 新選組副長、後に総長 / 北辰一刀流免許皆伝




山南敬介、啓輔、三南敬助、啓助、三郎、三治郎、三男敬介、勇助とも表記される。正しくは『さんなん』と読むとする説が有力。

1833(天保4年。5年とする説もあり)、陸奥仙台の剣術師範山南某の次男として誕生。江戸の千葉道場にて北辰一刀流を学び、免許皆伝。近藤勇と立ち合って敗れ、彼の門下に入ったと言われる。文久元年に行われた近藤の天然理心流四代目就任披露の野試合に参加した記録があることから、その時は既に門人であったらしい。翌年には師範代として、沖田総司と共に多摩への出稽古を行っている。
文久3年に試衛館一門として、近藤らと共に浪士隊へ参加、後に新選組副長、総長を歴任するも、病に臥することが多かった。元々学者肌で尊王攘夷論者であった山南は、やがて新選組の在り様と意義に疑問を持ったのか孤立してゆき、慶応元年2月、脱走を試みるも沖田総司によって追跡され、2月23日壬生屯所にて隊規違反の咎により切腹する。享年33歳。





愛された理想家の死の謎

山南敬助、彼もまた、様々な謎と憶測の中で語られる一人である。
伊達藩脱藩とあるも、伊達藩には山南姓がないことから、偽名であったとか、藩士ではなかった等、諸説ある。
また、彼は様々な文献から文武両道に秀でた人物と推察されているが、実質何を何処で学んだかと言う記録には言及されていない。が、学者肌だったのは事実らしく、新選組結成当初より参謀的役割を担っていた。

色白で中背、愛嬌のある顔で、性格も実に温厚であったといわれ、隊内のみならず、壬生界隈でもその人柄を愛されたと言う。『さんなんさん』と親しみを込めて呼ばれた、というのは事実だったかもしれない。沖田総司が特に親しくしていたらしく、沖田と同じく子供にも好かれ、親切な人、という定評があったそうだ。
とはいうものの、其処は剣を極めた武人でもあり、苛烈な面も持ち合わせていたようだ。上洛の際、一組の統率者である山南と目付役の間に一騒動があった。この際、山南は頑に譲らず、相手が帯刀せずに謝罪を申し入れた事でようやく事が収まったという逸話も残っている。

当初より彼は熱烈な尊王攘夷論者であり、尊王思想でありながら結果的に佐幕の立場となった新選組に行き詰まり、あるいは失望を感じていたとされる。また、同じ武州多摩出身である近藤、土方の強い繋がりの前に疎外感を感じていたとも言われる。
実際、山南は当初は副長として参謀の役割を担ったが、後に総長の名の元、実質的な役職からは排除された形になっている。このことから、山南の理想主義と、実戦集団としての組織を統率している近藤、土方との考え方の隔たり、軋轢が読み取れる。ただ、山南が病に臥することが多かったのも事実で、剣に秀でたはずの彼が、実際の出動にはほとんど参加できなかった事も考慮せねばならないだろう。

そしてついに、慶応元年2月、山南は隊を脱走する。
これを、北辰一刀流の同門であり、志を同じくする尊王攘夷論者であった伊東甲子太郎(元治元年、新たに参謀として迎え入れられた)に傾倒し、密約を持ったからだとする説が有力である。
たしかに伊東は後に御陵衛士に任ぜられ、新選組と袂を分つ事になるが、山南が一人、”脱走”という形で先に抜けようというのは不自然に思われる。

幹部であった山南が、隊規を知らぬはずがない。
だが、彼は敢えてそれを強行した。
その先にあったのは”死”以外の何ものでもない、むしろ彼はそう思ったからこそ、敢えて”脱走”を選んだのではないか。
なぜなら、山南はあろうことか、わざわざ書き置きを残していたというのである。しかも、まるで追っ手を待つかのように、さほど離れていない大津で投宿していたとされる。もしこれが事実であり、山南がそれで逃げおおせると考えていたのなら、短絡で、楽観的すぎる。むしろ思索的で理論派だった男にしては、あまりに無思慮ではないだろうか。その行動は実に不可解で、どこか作為的である。

同時に、山南は脱走してはいなかったとする説もある。
西本願寺侍臣の西村兼文の『新選組始末記』によれば、山南は西本願寺への屯所移転に反対し、当時”増長していた近藤”に意見するものの受け入れられず、死をもって彼らに抗議した、という。近年の参考資料で取りざたされるように、”局中法度”なる隊規が存在していなかったとすれば、彼の死が”隊規違反による切腹”である可能性は極端に低くなる。それを考慮すれば西村兼文の記述の信憑性が高まるのであるが、ただし、彼が西本願寺侍臣であり、新選組とはある意味で対極にいたこと、これらの記述の多くは隊士を介しての聞き書きである事、近藤・土方とは思想的にも反目しあう一派との交流が深かった事も事実である。

いずれにせよ、山南は死んだ。
そこに、思想的、個人的な食い違い、反目があったのは事実だろう。
そしてもう一つ、山南自身が己自身に対する葛藤を抱いていた、そんな思いが残る。

山南が目指したものは何だったのか。
自らの”死”をもって何を知らしめようとしたのか。
剣を極め、学を極めた男。けれど、彼はそれを用いる事が、用いる場を得る事が出来なかった。
理想を追い、理想に生き、最後はその理想に喰い殺されるように、自らの命を散らせた山南。
彼の葬儀には隊士だけでなく壬生界隈の人も多く列し、その死を悼んだと言う。

 


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