何故、新選組と長州なのか?

 

『志耀館』にお越しいただき、有難うございます。トップページにも書いていますとおり、当サイトは新選組と長州藩中心の幕末サイトです。こちらを訪れてくださった方の中には、『何故、新選組と長州を並べて扱うの?』と疑問に思う方もいらっしゃるでしょう。確かに、佐幕と倒幕、対峙する関係にあった新選組と長州藩ですが、どちらかに肩入れされている方々の中には、相手方のことをよく知らない為に大きな誤解をされている方がいらっしゃるようです。

例えば、新選組がお好きな方なら、
『長州藩は、天誅と称して暗殺を繰り返し、都を騒がせ、洛中を火の海にして天皇をさらい、政権を我がものにしようと企んだ、倒幕派の不逞浪士たちの中心』

長州や土佐など倒幕派に思い入れのある方なら、
『日本の政治体制を、天皇を中心とした本来あるべき形に戻し、外国の圧力に屈せぬ新しい社会の枠組みを作ろうとする勢力(勤皇倒幕派志士たち)の計画・活動を、幕府の手先となって邪魔した連中が新選組』
ということになるのでしょうか。

それらはどちらも一方的な解釈にすぎません。

長州藩は最初から倒幕(のちに討幕)を唱えていたわけではないし、そもそも長州の志士たちは "浪士" ではありません。彼らの殆どは、藩籍を持つ歴とした "藩士" です。また、脱藩者の多くは、藩命による任務を遂行する為だったと考えられます。そこが他藩の志士たちと大きく違います。
朝廷の信頼を取り戻そうとした長州藩にとって、長州贔屓の公卿たちの協力を得て、京都守護職・会津侯を暗殺し、天皇を長州にお連れして新しい政権を…との過激な計画は、あくまで最終手段でした。あれほど事態が切迫していなければ、もう少し穏やかな方法を選んでいたかもしれないのです。勿論、必ずしもそうだとは言えませんが。

当時の "政府" は幕府でした。しかし、秩序が保たれ、誰もが安心して暮らせる社会をつくり、人々から信頼される政治を行なっていたと言えるでしょうか? 
外国船が次々に押し寄せ、要求されるがままに日本に不利な条約を勅許なしに結び、一般庶民に不安を抱かせた江戸末期の幕府。その直属の家臣である旗本・御家人たちをはじめとする、武士階級の堕落。そんな世の中に反感を持ち、変革を望む人々が現れたのは当然でしょう。
勿論、幕府側に有能な人材が全くなかった訳ではありません。が、そうした一部の人々が改革を行なうには遅過ぎたのです。250年間ぬるま湯に浸かり続けてきた幕府には、既に近代化を果たし、開国を迫る西欧列強を退ける力はありませんでした。

だからといって、幕府に与した新選組を「悪者」扱いするのも間違っています。
彼らは、京都の治安を乱す過激な倒幕派志士たちを取り締まる任務を受け、それをこなしただけなのです。
しかしながら、佐幕派と呼ばれた藩や個人が持っていた、幕府擁護の思想と同じものを新選組も持っていた、とは断言出来ないでしょう。彼ら(のちの新選組の中心メンバーとなった試衛館の門人たち。伊東甲子太郎ら高台寺党の人々を除く)が将軍警護の浪士隊募集に応じたのは、政治的な野心や思想によるものではなく、近藤勇や土方歳三が抱いていたという『真の武士になる』ことへの強い憧れと、それを叶える為の手段からであったのだろうと私は思います。もし彼らが幕府直轄地の江戸・武州でなく、長州や土佐に生まれ育っていたとしたら、どうしたと思いますか? 彼らが幕府の許で働く集団になっていたとは考え難いのではないでしょうか。

双方のやったこと、全てが正しいとは思いません。長州藩がやろうとした計画の中にはあまりに大胆不敵なものもありましたし、天誅事件の中には暴挙としか思えないものもあったでしょう。新選組にしても、初代局長・芹沢鴨一派による商家や遊郭での狼藉ぶりは、京都の庶民の信用を失い、嫌われ者のイメージを作り上げてしまった直接の原因だったかもしれません。それに、隊内での粛清にも謎の部分が多く存在します。

どちらかが正しくて、もう片方が悪い、という考えそのものを捨ててください。現代ならいざ知らず、一寸先も見えぬような混沌としたあの時代を生きた人々には、自らの信じる道のみが正義であり続けたのだと思うのです。倒幕派であろうと佐幕派であろうと、「幕末」という時代を精一杯生き抜いた人々であることに、変わりはありません。

このサイトで、新選組と長州藩、それぞれの立場やものの見方、主な人物について知って頂くことが出来れば本望です。うまくお伝えできるよう、努力して行きたいと思います。少しでも興味をお持ちになったら、ぜひ相手方のことも知ってください。そうすることで、歴史は一段と面白さを増すのですから。

 

何故、沖田総司と吉田稔麿なのか?

 

当サイトは、新選組の沖田総司と長州藩の吉田稔麿を主に取り上げて構築しています。
小説 『風想伝』 のページにも書きましたが、総司と稔麿が関わったのは、元治元年6月5日の池田屋事変のみ。池田屋で、二人が白刃を交えたかもしれない…というだけです。

ここで間違えないで頂きたいのは、「かもしれない」であって、必ずしもそうであるとは言えないことです。小説などにはよく二人の斬り合う場面が出てきますし、その多くの結末は稔麿が総司に討たれたことになっています。
でも、それは史実ではありません。新選組局長・近藤勇も、当日殺害した志士の名前を書き残していませんし(実際、行灯の消された暗闇の中での死闘であったと思われるだけに、斬った方も斬られた方も相手が誰であるかを見定める余裕はなかったのではないでしょうか)、『新選組大事典(コンパクト版)』(新人物往来社刊)にも、「沖田総司と斬り合って討たれたというのは小説である」と書かれています。さらに、多くの小説や映画が手本にしたと思われる『新選組始末記』の著者・子母澤寛氏も、総司と稔麿の斬り合いについて質問された際、「あれはわたしの作り話だから……」と答えたそうです。(『歴史と人物』昭和55年9月号所収の結束信二氏の文章より)
また、池田屋事変について研究を続けておられる冨成博氏は、著書『池田屋事変始末記 新選組と吉田稔麿』にて、「新選組ファンは、吉田稔麿をも、沖田総司に斬らせないと承知できないらしい。何しろ宮部鼎蔵、吉田稔麿、松田重助はこの夜の会合の首謀者と目されている重要人物であるだけに、そのいずれをも斬り捨てたとなれば、総司の株は、いやが上にもあがるのだ」と書かれています。それらの記述・口述から、沖田総司と首領格の志士達との斬り合いは、新選組の名を轟かせた池田屋事変で天才剣士・沖田総司を活躍させる為の虚構であった事が明らかです。

数多くの池田屋事変関連の史料には、稔麿は 『一旦池田屋を脱し、ほど近い長州藩邸に注進に走ったあと、手槍を持って再び池田屋に赴こうとしたが、加賀藩邸前で多くの敵に出くわして討死した』、または 『重傷を負いながらも池田屋を脱出、長州藩邸に帰ったが、門が閉ざされていた為、門前にて自刃に及んだ』 とあります。しかも彼はこの日、辞世の歌を遺しています。もし池田屋で総司と闘って死んだのであれば、歌を遺す暇などなかったはずです。さらに最近では、稔麿について研究されている町田明広氏が、これまで世に出なかった信頼性の高い史資料を駆使して導き出された新説、『吉田稔麿は新選組が御用改めに訪れた時には池田屋にいなかった』説を発表されています(『霊山歴史館紀要』第16号)。

本題に戻りましょう。
何故、総司と稔麿がこのサイトの中心なのか。
創作ページの小説『風想伝』のストーリィを思いついたことにも関連しますが、新選組の中では有名な人であるにも拘わらず、意外と史料が少なくて謎の多い総司と、吉田松陰の愛弟子で、『松陰門下の三秀』 に数えられながら、ほかの二人(高杉晋作、久坂玄瑞)に較べて一般によく知られていない稔麿を、もっともっと研究してみたかったからです。
私が『吉田稔麿FILE』を作り始めたのは、元はといえば自分用の「稔麿に関する覚え書」をまとめる為でした。が、探求が進むにつれ、どうせなら興味をお持ちの方々にも見て頂けるように、と思うようになり、ネット上で公開することにしました。
史料が少ない、となると、余計に掘り下げて調べてみたくなる冴月殿と私ですから(苦笑)、この組み合わせになったのは当然の成り行きだったかもしれません。
勿論、この二人だけでなく、今後は気になる人物をはじめとする幕末の群像にもどんどんスポットを当てて紹介してゆきたいと思います。手始めに、『久坂玄瑞FILE』を独立させました。

とにかく、新選組をお好きな方にも、長州に思い入れのある方にも見て頂けるサイトを作るのが目的です。堅すぎず、柔らかすぎず、史実の追求と創作物の充実をはかりたいと思います。
新選組と長州藩、その他多くの魅力ある人々を通じて、幕末という時代をよりよく理解して頂けることを願います。

 

2004年2月4日  吉田沙羅


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