吉田稔麿誕生地

 


吉田栄太郎稔麿(年麿、稔丸)/ 1841(天保12年)−1864 (元治元年)/ 長州藩士
変名: 松村小介・松里勇・岩間水之允・関口敬介 /
諱: 秀實 / 字: 無逸 / 雅: 風萍軒

1841年(天保12年)閏1月24日、長州藩下級武士(足軽)の吉田清内の嫡子として萩松本新道に生まれる。吉田姓は自称(正式な姓となったのは文久年間)。幼名は栄太郎。久保五郎左衛門の松下村塾に学んだ後、江戸藩邸に小者として仕え、安政3年2月に帰郷。同年11月、16歳で幽室にあった吉田松陰に師事する。真摯な態度で学問を求める姿勢は松陰を喜ばせ、深く愛されたという。

『実甫の才は縦横無尽なり。暢夫は陽頑、無逸は陰頑にして皆人の駕馭を受けざる高等の人物なり (途中略) 常にこの三人を推すべし』

上記は、師である吉田松陰による久坂玄瑞(実甫)、高杉晋作(暢夫)、吉田稔麿(無逸)の三人を比較しながらの人物評。この三人を『松陰門下の三秀』、入江九一を加えて『松門四天王』と呼ぶ。また、松浦松洞(無窮)、増野徳民(無咎)と共に『松門三無生』とも言われる。安政4年9月末には藩命で江戸に出て、久坂玄瑞・松浦松洞らと共に江戸における最新の情報を萩に送る傍ら、桂小五郎とも親交を結び、斎藤弥九郎の道場・練兵館で剣を学んだ(神道無念流)。

安政の大獄に連座して松陰が江戸で刑死した後、万延元年10月に突如脱藩して江戸へ。旗本・妻木田宮の用人となり、幕閣の情報収集に携わる。この半ば公然たる脱藩は、幕府の内情を探れとの藩命があったといわれる。文久2年夏、長州藩に禁闕守護の役が下ると同時に帰藩。その後の志士としての活動はめざましく、本格的に尊皇攘夷運動の渦中に身を投じる。

文久3年6月6日、奇兵隊に参加。翌月には士籍に加えられ、藩から屠勇取建方引受に任ぜられる。8月18日に京都朝廷内で起こった政変で失脚した長州藩と幕府との調停工作の為、江戸・京都を奔走するが、元治元年6月5日、京都三条小橋の池田屋にて他の志士たちと談合中、新選組の襲撃を受けてしまう。包囲網を突破、池田屋から逃れることに成功するが、河原町の長州藩邸の門が閉ざされていた為、その場で自刃したという。または、包囲網を切り抜けて長州藩邸に注進に走り、手槍を持って再び池田屋に向かう途中、加賀藩邸前で多数の敵に出くわして闘死したとする説もある。また、最近では、これまで殆ど取り上げられる事のなかった池田屋事件直後に認められた稔麿の周辺人物の書簡史料等より導き出された新説として、新選組襲撃時には稔麿は池田屋にはおらず一旦藩邸に戻っており、事件の報せを受けて長州藩邸を飛び出し、池田屋に向かう途中で会津藩兵等に遭遇して討死したとする説もある。享年24歳。明治24年、贈従四位。


松下村塾から徒歩3分。現在は石碑しか残されておらず、幼馴染みの伊藤博文が遊びに来て登っていたことから「大臣松」と呼ばれた有名な松の木(当時は吉田家の庭にあった)もなくなっているが、来栖守衛著『松陰先生と吉田稔麿』にて昭和初期に存在した旧家の写真を見ることが出来る。

石碑は「吉田稔丸誕生地」となっているが、麿と丸は当時よく混同された為、間違いという訳ではない。



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