白虎隊顛末略記




口述:明治25年12月 於いて広島市上流川町 飯沼貞雄
記録:明治27年1月     広島市鉄砲町  原新太郎
清書:明治35年10月    仙台市北六番町 原新太郎
朱書:明治37年       仙台市     飯沼貞雄


注)黒字は原新太郎氏原文、
赤字は貞雄の朱書緑字は貞雄の削除部分
青字は管理人記入




教育之事

藩立の学校を日新館と云えり。当時藩士の子弟は其の身分の階級に拘らず読書・習、併(ならび)に弓馬槍刀の四術必ず其の館に就き修めざるを得ざる制度なりし、然らざるときは嫡子は其の家督を相続すること能わず、次三男は年長するも退館すること能わざりき。(けだ)し年齢概ね十歳にして日新館に入りて読書を学び、十二歳にして習をなし、十四歳より弓馬槍刀の四術を修む。又、定期試験ありて、其の優等及第者には藩主より褒賞せらる。即ち習字に在りては硯、読書に在りては四書、小学、近思録、且つ其の授与式には国老之れに臨み、優等及第者の父兄列席の上、其の賞品を受く。故に年齢十六七歳に達するときは、多少文武の覚えなきもの寡なかりき。今其の当時の流派(ならび) に教場の概略を挙ぐれば、左の如し。文は朱子学にして山ア闇斉派なり。而して其の教場は、毛詩塾、三礼塾、尚書塾、二経塾の四個に分たれ、外に一の大学校あり。後に幕臣林正十郎なる人来會あり、仏蘭西学を教授す。書は尊圓、瀧本、華様の三流にして其の教場四個、弓術は日置流印西派、日置流道雪派、豊秀流、馬術は大坪古流、大坪新流、槍術は大内流、日下一旨流、宝蔵院流、刀術は真天流、一刀流、太子流、安光流、精武流なりとす。而して各流派毎に其の教場を異にせり。其の他、礼式には小笠原流、兵学には長沼流、築城には山上流なりとす。又、医学・和学・柔術・算術・水練の術等師範ありて、馬術の外教場都て日新館内に備われり。右の外、尚各塾毎に各朋友の組合あり。其の組織は長幼の順序に因て成立し、団結尤も凝固なり。是れ、善を責め悪を懲し、武士道を研く所の機関なり。今、其の組合は、五ノ丁、四ノ丁、徒ノ町、水主丁、小田垣、二ノ丁、米代、花畑、御厩町、本丁、新町の十一組に分れたり。



隊各之事

国難に際し、軍隊の組織改正せられたり。其の内年齢により組織せられたる歩兵の隊名を、玄武、青龍、朱雀、白虎と云えり。之れ四神を象りたるものにして、玄武隊の年齢は五十才以上六十才まで、其の任務は国境関門若しくは各要所の関門を固むるに在り。青龍隊の年齢は四十才以上にして、其の任務は後備軍なり。朱雀隊の年齢は十八才以上にして、其の任務は先鋒軍なり。白虎隊の年齢は十六才及び十七才にして、其の任務は君側を護衛すると在り。白虎隊は、二個中隊に編成せらる。其の一個中隊は日新館学生にして身体強壮、技倆優等のものより之を選抜す。之を士中白虎隊と称す。他の一個中隊は日新館以外の学生、即ち身分の(や)や低きものより之を選抜す。之を寄合組白虎隊と称し、原早太が隊長たり。

後に戸ノ口原の戦に敗れ、飯盛山に於いて自刃したる白虎隊士は、日新館より選抜したる一個中隊にして、隊長日向内記の率いる所の者なり。



兵式訓練之事

年齢に因り組織せられたる歩兵隊は、幕臣畠山五郎七郎なる一を主脳とし、其の他五、六の幕臣より仏蘭西式の訓練を受けたり。当時幕府に於いては仏国人シャノアンなるものを招聘し、幕臣に専ら軍事教育を受けしむ。畠山氏は其の教育を受けたる人にして、会津に来たり、軍事教育の任務を掌れり訓練(や)や熟するに及んで白虎二個中隊は常に山野を拔渉し、発火演習を為し、繰銃最も巧みにして、進退殊に敏活なり。爰に白虎隊士の携えたるは仏国製「ヤーゲル」と称すものなり。其の他の歩兵隊の携えたる銃器は同じく仏国製にして、二つバンド先込め銃なり。砲兵、騎兵の銃器及び大砲も均しく仏国製なり。又、砲兵、騎兵も他の幕臣より訓練を受けたり。



出陣之事

茲(ここ)に隊長原早太の率いる寄合組白虎隊は、補充兵として出陣し、既に越後口石間の関門に於いて戦い、戦死者数名あり。其の負傷者皆九名後送せられ、若松の病院にて治療せり。然るに士中白虎隊士も同じ年齢の事として流石に哀憐の情黙止し難く、(しばしば)負傷者を病院に慰問し、親しく戦場の実況を聴き慨一方ならず、且つ常に訓練を共にしたる寄合組白虎隊に後れたるとの感情を惹き起こし、今は血気平生に倍し、寸時も早く戦場に臨まんことを熱望せり。

折柄八月二十二日、石筵口の敗報若松城に達するや、藩主直に滝沢坂に出馬せられたり。此の時君側の護衛として、隊長日向内記の率いる士中白虎隊、初めて出陣するを得たり。君側の護衛、其の任甚だ重けれども、腕に武術繰錬の覚えあり、且つ寄合組白虎隊に先ぜられたるを遺憾とする少年、今は早や戦わんとするの血気制し難く、直に戦場に臨まんことを隊長に請い、遂に其の日の午尅後、戸ノ口表へ出陣の令を受けたりき。(ここ)に於いて隊士の怡悦大方ならず。隊伍粛々として滝沢、金堀、強清水等の各地を経て、戸ノ口原の西端に至り、他の軍隊と共に戸ノ口街道左側の丘上に陣を張れり。

然れども尚進みて先鋒たらんことを強いて請いて止まず為に、白虎隊のみ独立行動の許可を受け、他の軍隊を離れ、十余丁も進軍したり時に、細雨蕭々、日方に暮れなんとす。殊に進撃は明廿三日払暁と決しければ、戸ノ口原上に宿陣する事となれり。

明けなば討死と覚悟したる少年、三々五々彼の地此の地に団欒し、無言の中に慈母姉妹に別れを告ぐる折、飢えたるときの補いにもと与えられたる食物を腰より取り出し、之を食らい、(とも)に文武を学びたるの既往を談じ、又明けなば人に後れじとの心事を話し、(ね)る間もなく東天正に明けなんとす。



戦争之事

終夜語り尽して早や八月二十三日、進撃の時刻となりける。(ここ)に意外なるは隊長日向内記影だに見えず、一同顧て呆然たり。此の時早くも教導の一人なる篠田儀三郎、揚言すらく、腰抜け隊長何の狗吾は教導の首席なるを以て、代わりて隊長の任務を執らんと直に気を付けの号令をし、人員点呼を行えり。其の点呼終わらずや否や、進めの号令を発せり。流石に死を決したる隊士、一人として篠田の進軍の令に違背するものなく、全軍粛然として戸ノ口差して行進す。未だ戸ノ口に達せざるに、銃声次第に間近く聞こえける。是れ(いよいよ)敵兵に接近せるを覚えたり。然るに戸ノ口原上一つも牆壁と為すべきものなかりしが、幸いに水なき溝あり、一時の急(ことごと)く其の溝内に潜伏したり。敵兵は既に戸ノ口の味方を打ち敗り、若松街道を驀直に発射しつつ進み行けり。此の間の距離り百米ばかり。突然、側面より敵兵を認むるを得たり。此に於いて篠田打てと令するや、一同溝内より連発す。敵兵初めて我が兵あるを知り、狼狽を極め、散乱したるものの如し。然れども暫くにして敵兵我が陣に向いて発射し、弾丸の飛来すること雨の如し。茲に隊士死力を尽くし、銃身熱し手にすること能わざる迄発射すれども、僅かに一個中隊の能く防御し、得べきにあらず。味方の死傷、殊に多く、殆ど全滅に垂んとす。茲に於いて、流石に篠田も最早当り難きと思いけん、引け引けの号令を為し、白刃を振りて真先に立ち、退却す。



会合之事

引けの号令を聞くや、各隊士は溝内を出て篠田に尾して退却す。行くこと約二十丁許にして、初めて敵兵の追撃を脱れたり。然れども砲声は尚、遠く聞こえけり。茲に何人か供養の為建立せる見上げる許の大なる石地蔵あり。其の周囲皆芝生にして、足を休むるに適せり。

爰に於いて人員点検するに僅かに十六名なり。其の氏名、左の如し。

     兵庫二男   篠田儀三郎  十七歳
     雄之助弟   安達藤三郎  十七歳
     守之進倅   井深茂太郎  十六歳
     丈之助二男  永瀬 雄治  十六歳
     忠蔵 倅   林 八十治  十六歳
     半之丞弟   西川勝太郎  十七歳
     卯之助弟   野村駒四郎  十七歳
     勝平 弟   有賀織之助  十六歳
     岩五郎弟   間瀬源七郎  十七歳
     玄甫二男   鈴木 源七  十七歳
     時衛二男   飯沼 貞吉  十六歳
     瀬兵衛倅   津川喜代美  十六歳
     軍蔵 弟   簗瀬勝三郎  十七歳
     克吉 弟   簗瀬 武治  十六歳
     亘  倅   伊藤 俊彦  十七歳
     龍玄二男   石田 和助  十六歳

是ぞ飯盛山に於いて自刃したる少年なりき。



飯盛山に登る事

茲に初めて前夜来の疲労を覚ゆ、且つ空腹に耐えざれども、近傍食を乞うべきの家なし。幸いにも十六士中には前夜の残飯多少腰にするものあり。是れ能く各自の口腹を癒するに足らざれども、一時の飢え凌ぎんとて腰より残飯を取り出し、之を石地蔵の前なる凹石内に投入し、水を加え手にて之を混せ、十六士(てつ)(交互に)に手ずから之を食い、稍々(やや)気力を得るに至れり。而して、偕に若松城に入らんとして径路を南方の山間に取りて退ける。如何に岐を踏み違いしにや、忽然若松街道なる滝沢坂の麓に出にけり。然るに滝沢坂を降り、若松城を差して行進する幾多の軍兵に遭逢す。之れ将た敵か味方か逡巡、之を試るに合詞を以てせり。彼れ之が応を為さざる(ばかり)ならず、忽ち銃を向けて打ち出せり。茲に始めて敵兵なるを知り、直に南方の山腹に副て退きける。此の時、永瀬雄治、股を打たれて(たお)る。衆皆之を擁し、敵の射撃を脱し、飯盛山に登りて足を止む。暫く西、若松城を望めば、炎焔は天に漲り、砲声は地に轟く。北、滝沢街道を看れば、敵兵の行進する其の数幾許(いくばく)なるを知らず。南、天神口を顧れば、(げき)として未だ敵兵の(かす)めさるものの如し。今や満目の有様、斯の如し。血気の少年、茲に(しょうぜん;しょげる)たり。



自刃之事

斯て果つべきにあらざれば、(ここ)に一同足を停めて議す。野村駒四郎、進みて曰く、今や満目の有様斯くの如し。臣士の分君に尽くすは正に此の秋なり。寧口今行進する滝沢街道の敵軍を衝き、斃て後に止んと。井茂太郎曰く、国に報ずるの今日、敢て寸時の命を(おしむ)にあらざれども、曽て父母の物語に聴けり。若松城は古の英雄蒲生氏郷の築ける名城なり。一朝幾多の兵、之を攻るも容易に取るを得ずと。今や焔は天を焦がし、砲声山岳を動かすも、決して城落たるにあらず。潜に道を南に求め、若松城に入るに如すと。甲怒り、乙罵り、激論以て之争う。篠田儀三郎曰く、最早斯くなる上は策の講ずべきなし、進撃の計、城に入る謀、元より不可と云うにあらざれども、(とて)も十有余士の能く為し得べき所にあらず。誤って敵に(とりこ)にせられ縄目の耻辱を受る如き事あらば、上は君に対して何の面目やある、下は祖先に対し何の申訳やある。如(し)かず潔きよく茲に自刃し、武士の本分を明にするにありと、議論(ここ)に始めて定まり、(おもむろ)に用意を為し、慶応四戊辰年八月廿三日巳の刻(午前10時)過ぎなりき、一同列座し西方鶴ヶ城に向え遙拝訣別の意を表し、従容として皆自刃したりき。


 時に明治二十五年十二月、広島市上流川町、戸枝某の宅に集りける折、飯盛山に於いて自刃したる一人にして蘇生せし飯沼氏より白虎隊士自刃の物語を聴き、茲に始めて其の真相を得たり。殊に自刃者中、安達氏篠田氏と日新館尚書塾に於いて倶に教育を受けたるのみならず、真に竹馬の交深かりき。今、其の真相を聴き、今昔の感に耐えず。故に其の事実を堙滅せん事を恐れ、之を書き綴るに当り、白虎隊の組織併に平生の教育等書記するにあらざれば、恰も龍虎を画て其の眼を入れざるの感なしとせず。依て繰錬之事より以上、余が記憶の儘に書き副て、白虎隊之顛末一打書と為したり這ば元より世に公にせんとには非ず。唯、余が朋友国難に斃れたる真相を永く家に伝えんとに在り。其の翌々二十七年一月、同市の鉄砲町に於いて誌す。其の後明治三十五年十月、仙台市北六番丁にて浄書す。

                    元会津若松米代一ノ丁
                     原 新太郎(注1)
                     平常大雅 (花押) 



(注1)原新太郎は
「安達氏篠田氏と日新館尚書塾に於いて倶に教育を受けたるのみならず、真に竹馬の交深かりき。元会津若松米代一ノ丁」となっているので士中二番隊の原マ三郎氏の改名であろう。

(注2)発見の経緯

発見のいきさつは2008年6月、西那須野の飯沼一浩(貞雄の二男一精の長男)宅で保管していた木箱に入った、貞雄遺品を整理していたところ、履歴書、従軍中の略歴等の下書きの書類の中から偶然発見した。

(注3)書かれた経緯

飯沼貞雄は明治24年8月から逓信省の広島電信局に勤務していたが、1年3ヶ月後の明治25年11月30日に東京転勤の辞令を受けた。そこで、広島在の戸枝氏が自宅で送別パーティを開いたときに、原新太郎氏も同席した。原氏は士中二番隊の生還組みでした。酔いもまわったころ、原氏が白虎隊で一緒に戦った話を切り出したのでしょう。一同興味深々で、タブーの飯盛山の事件に話が移り、貞雄も自刃までのいきさつについて話しました。原氏はこれを明治271月同市鉄砲町において書き物にし、その後、明治35年10月に仙台逓信局に勤務していた貞雄宅を訪ねて清書しました。二部作成し、一部を貞雄に渡し、一部は持ち帰ったのではないかと思われます。この文書は当初は公表する意図はなく歴史の記録としてまとめられたものですが、その後、貞雄はこれに推敲を加えて、朱で修正しました。その目的は、長男一雄の上官に当たる仙台陸軍第2師団の予備工兵軍曹で元会津藩士の関五郎氏に提出するためで、一雄は貞雄が朱書きした下書きを清書して提出したものと思われます。なお、一雄は、その後、予備工兵として日露戦争に出征し、帰国後間もなく病死しました。

(注4)文書の概要

元文書の題名は「会津藩白虎隊一打書」で、その内容は、教育之事、隊名之事、兵式訓練之事、出陣之事、戦争之事、会合之事、飯盛山に登る事、自刃之事で構成され全部で20ページ。自刃後のことは書かれていません。この資料の特徴は

1)出陣した37人の白虎隊士のうちの2人の隊士の合作で、一人は士中二番隊、原マ三郎氏で生還組(山内小隊長組)、もう一人は貞吉で飯盛山自刃組(篠田隊)という異体験の合作なこと。

2)原氏が浄書した元文書に、貞雄が後で推敲を加え、朱で修正して、一雄の所属する第2師団予備工兵隊軍曹関五郎氏への提出用としたこと。

3)特に、会合之事、飯盛山に登る事、自刃之事については、本邦初の資料であること。

  


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