西郷頼母 (さいごう たのも) |
西郷頼母近悳(ちかのり) / 1830(天保元年)−1903 (明治三十六年)/ 会津藩家老
藩祖以来の重臣、会津藩名門の西郷家当主。家老・西郷頼母近思(ちかもと)の長男。家禄千七百石。
名は近悳(ちかのり)、初称は源蔵。汝玉、栖雲、八握髯翁と号す。妻の千重子は飯沼家出身で、白虎隊士の飯沼貞吉は甥にあたる。子は、長男・吉十郎の他はすべて女子で、細布子、瀑布子、田鶴子、常盤子、季子。妻と母、祖母、妹二人、娘五人は親戚等と共に、慶応四年(明治元年)八月二十三日、邸内にて壮烈な自刃を遂げた。
文久二年、会津藩主・松平容保の「京都守護職」拝命に固く反対した筆頭家老。
頼母の反対を押し切って上洛した藩主・容保は、文久三年に起こった八月十八日の政変等で数々の功績を上げ、孝明天皇の信頼を得ていたので、度重なる頼母の守護職辞任帰国の勧告に怒り、家老職罷免の上蟄居を申しつける。その後五年間、頼母は若松郊外にて蟄居していたが、慶応四年、戊辰戦争が勃発すると藩政に復帰。家老復職後、鳥羽・伏見で惨敗を喫した旧幕府軍の分の悪さを感じ、藩主に恭順謝罪するよう進言するが、主戦派の重臣達を説き伏せることかなわず、白河口の軍事総督に任命された。白河城が陥落、敗戦が色濃くなると、自ら馬を馳せて敵中に突入しようとするが、義兄の飯沼時衛に諫められ、思い止まった。その後若松に戻り、再度恭順説を唱えた為、主戦派から城を追われることになった。これはある意味、容保の温情とも言われている。
長男の吉十郎を連れて若松を去った頼母は、米沢から仙台に入り、函館へ向かう。五稜郭で西軍(新政府軍)と戦った後、降伏後は館林藩にて謹慎を命じられた。
明治三年に赦され、先祖の保科姓に改姓。明治五年に伊豆松崎に謹申学舎を開いた。その後、明治八年、棚倉の都々古別神社の宮司となり、五年後の明治十三年に旧会津藩主・松平容保が宮司を務める日光東照宮の禰宜となった。若松に帰った後、明治三十六年四月二十八日、七十四歳で死去。戒名は栖雲院殿八握髯翁大居士。その墓碑に、「保科八握髯翁墓」と自分の名を入れ、側面に「室飯沼千重子位」と夫人の名を刻んだ。殉難した妻との来世での逢瀬を願うかのような、頼母の想いが伝わってくる。
頼母が詠んだ歌、二首
昔わが栖にし雲を尋ねれば 涙の雨の名残りなりけり
あひつねのおちこち人に知らせてよ 保科近悳けふしぬるなり(辞世)