田中土佐 (たなか とさ) |
田中土佐玄清 / 1820(文政三年)−1868 (明治元年)/ 会津藩家老
田中土佐玄良の長男、名は玄清(はるきよ)。家禄は元々千二百石だったが、後に二千石に加増。若年寄を経て、文久二年、家老に就任。藩主・松平容保が京都守護職に任ぜられた際、入京の準備の為、藩主に先立って上洛した。
文久二年、土佐も最初は藩主・容保の京都守護職就任に反対だったが、藩祖・保科正之公以来の家訓により、徳川家に尽くす為に京都守護職を受けた容保の固い決意を知り、己も藩主の為に身命を捧げることを改めて心に誓ったという。
慶応四年、鳥羽・伏見の戦いに於いて陣将を務めたが、武器の違いによる手痛い敗戦を目の当たりにする。同年四月、隠居して大海と号した。
戊辰戦争の際は若松城下で西軍(新政府軍)と戦ったが、利あらず、八月二十三日、土屋一庵宅にて同僚の神保内蔵助と共に切腹した。享年四十九歳。戒名は精徹院殿忠亮玄清居士。