高杉晋作 (Shinsaku Takasugi) |
高杉晋作(東一・和作) / 1839(天保10年)−1867 (慶応3年)/ 長州藩士
変名:谷梅太郎・谷潜蔵 / 諱:春風 / 字:暢夫 / 雅:東行・西海一狂生(他多数)
1839年(天保10年)8月20日、萩藩八組士高杉小忠太春樹の長男として萩に生まれる。8歳の頃から吉松塾に学び(久坂玄瑞はそこの同窓生)、その後藩校明倫館に入学。松下村塾への入門は、安政4年9月頃。中谷正亮の紹介らしい。反対する親の目をぬすんで、夜に通い続けた。村塾では、久坂玄瑞と並んで双璧と呼ばれる。
安政5年7月、江戸の晶平黌に入学。松門四天王(高杉・久坂・吉田・入江)の中で最も遅い江戸行きだった。翌年10月、藩命で帰国。師・松陰の刑死は旅の途中で聞いたという。
文久元年、明倫館勤務中の3月、世子定広の小姓役になり、7月には再び江戸へ。翌年5月から2ヶ月間にわたり上海に滞在、見聞を広めた。この時列強の軍事力を目の当たりにして攘夷論に拍車をかけた為か、12月12日には英国公使館を久坂らと焼き討ちする。
文久3年1月5日、松陰の遺骨を改葬。その後、晋作の傍若無人の振る舞いぶりに頭を痛めた藩は、3月に彼を強制帰国させる。断髪して「東行」と号したのはこの時のことである。同年6月、藩主命令で馬関防衛を一任され、奇兵隊を結成。
元治元年8月、四国連合艦隊の下関砲撃後、講和条約の使節として活躍するが、主戦派に付け狙われて萩を脱出、九州へ。その後、四境戦争時には海軍総督となり、慶応2年6月には丙寅丸を指揮、幕艦4隻の夜襲に成功する。しかし、小倉口の戦いが始まった頃から持病の肺結核が進行。翌年4月14日、旧知の野村望東尼らに看取られて没する。享年29歳。
『送高杉暢夫叙』より (漢文読み下し)
暢夫よ、暢夫、天下もとより才多し。然れども唯一、玄瑞を失うべからず。桂、赤川は吾の重んずるところなり。無逸、無窮は吾の愛するところなり。新知杉蔵は一見して心与す。この五人の者、皆志士なり。暢夫これを知ること熟せり。今幸に東に在り。暢夫往かば、急ぎ玄瑞を招きてこれを道い、かつこれを五人の者に語れ。
(参考 : 『松下村塾』 古川 薫著)
注) 暢夫 : 高杉晋作、無逸 : 吉田稔麿、無窮 : 松浦松洞
これは、晋作が江戸に遊学することになった際、松陰先生が彼に与えた送叙の一部。先に江戸に出ていた門下生(桂・赤川は兵学門下)たち、とりわけ久坂玄瑞との交流をしきりに勧める内容になっている。松陰門下の双璧と呼ばれた二人を松蔭は常に突き合わせて、互いの性格の長短を補わせるような指導をしたという。
面白きこともなき世を面白く
すみなすものは心なりけり
上記は、辞世の歌として名高い野村望東尼との合作。上の句が晋作の作である。下の句には賛否両論あるが、ここでは触れないことにする。
さして面白くもない世の中、それ自体には何の価値も存在感も見出せない(と彼が見た)世の中で、彼が創造しようとしたものは決して無意味ではなかった。日本、という国が根本から変わったのは彼の死後であったが、その礎を創り上げたのは間違いなく晋作であったと思う。彼は新しい明治の世を見ることはなかったが、或いは彼の脳裏には既に描かれた図式であったかもしれない。しかし、彼が現在の日本の状況を見たら、果たしてどう思うだろうか。
高杉晋作については、もっと色々書きたいことがあるので、原典史料等をしっかり読んでから整理することにします。どうかご了承ください。
吉田沙羅