原田左之助 (Sanosuke Harada)

 

原田左之助(佐之助、忠一) 
1840(天保11年)〜1868(慶応4年)
伊予松山藩脱藩 新選組副長助勤 十番隊隊長 / 種田流槍術




1840(天保11年)、原田長次の長男として誕生。
安政3年頃に江戸の松山藩邸で中間として働いていたが、郷里に戻り若党となる。後に出奔、江戸に流れ、試衛館に食客として居着いた後、文久3年に近藤らと共に浪士隊に参加、新選組の核をなす一員となる。沖田らと同様、大坂での力士との乱闘、芹沢暗殺、池田屋事変、油小路の変等、新選組の主な事件殆どに加わっている。
慶応元年、菅原まさと結婚、長男・茂が誕生。
鳥羽/伏見の戦いを経て江戸へ帰還、甲州勝沼の戦いにも参加する。勝沼の戦いに敗れた後、永倉と共に新選組を脱退し靖兵隊を結成するが、最終的には江戸に戻り彰義隊に参加、上野にて戦死した。享年29歳。





大陸までも駆け抜けた男

原田左之助は丈高く、しかも大層美男子であったという。
『二言目には”斬れ斬れ!”という』ほど、短気であったとも伝わる。
これが槍を振り回し、大暴れするのだから、確かに相手はひとたまりもないであろう。
基本的には剣術よりも槍術使いで、松山藩を脱藩後、大阪で谷三十郎/万太郎兄弟の道場で種田柳を修めたと言われる。試衛館では食客として居着いていたらしく、剣術とでは力量を比べられるものかは解らないが、おそらく気迫と度胸は随一ではなかっただろうか。

そう思わせる結構な逸話がある。

松山藩で若党をしていた頃、おそらく上司であろうか、『腹を斬る作法も知らぬ下司下郎』と罵った者があったそうだ。すると左之助、その場で小刀を抜き放ち、『だったら斬ってやらぁ!しっかと見てやがれ!』(と言ったかどうかは知らないが)と己の腹に突き立て、当の相手が事の顛末に泡を喰って逃げだすのを、血まみれになりながら『俺のはらわたを喰らわしてやる!』と追い掛けようとしたらしい。
幸いにも止めに入った者がいて、手当ても早かったからか一命は取り留めたがこの傷は生涯残り、何かと言うとその傷を見せ、やがてはそれを模して丸に一文字を定紋にしたという。

他にも日頃の驕慢さを諌められた話、奇行の数々などが語り残されており、察するにかなり短気で傲慢な上、変わり者だったらしい。
短気で傲慢と言えば、なにやら暴れるしか能のない暴力男を連想しそうだが、実際は頭もよく、新選組内でも結成時からの一員ということもあろうが、それなりに意見をした人だと言う事だ。実際、近藤が少々天狗になった時期に、死を覚悟しての告発をした一人でもある。

京都では”休息所”などと言って妾を囲った幹部が多かったが、左之助は祝言をあげた。大層な美男子ならば、さぞもてたであろうし、島原などでの女遊びも多かったと思われるが、結婚後は家族を大切にしたらしい、こんな逸話がある。鳥羽/伏見に参戦するにあたり、左之助は身重だった妻、まさの所へ200両を届け、自分になにかあったら息子、茂を立派に武士として育ててくれ、と言い残したそうだ。

その後、鳥羽から甲州勝沼の戦いまでを、新選組として生きた。江戸に帰還後、新たなる道を模索し、ついに近藤、土方と袂を分つ。その後に試衛館の食客仲間であった永倉と共に靖兵隊を結成しながら、何故か途中で離隊、江戸に戻り彰義隊に身を投じた。

こういった様々な記述から、左之助は豪放磊落で、言葉よりも体が先に動き、直感とそれを信じる自信があった人物のように思えてならない。
何事にも一本気で曲がった事が許せず、それを隠そうともしない直情型人間。まさに槍一本に気迫を纏って戦場を駆け抜け、そして死んだ。

そう、上野で死んだはずである。

だが、左之助にはもう一つ、語り伝えられた最期がある。
明治27年の日清戦争の折に昔語りをする老軍人がいて、これが左之助らしいという話である。左之助は上野から新潟、下関、釜山を経て大陸へ入り、そこで馬賊の頭目になったというのだ。
これが作り話なのか事実なのかは解らないが、日清戦争の折に新選組について詳しい人物がいたのは事実とされている。

果たして、それは大陸へ渡って馬賊の頭目となった原田左之助だったのか。左之助は本当に助かって大陸へ渡っていたのか。

もしもそれが左之助であれば、彼はまさに大陸までも駆け抜けた事になる。

真実は解らない、だが。
原田左之助が、人にそう思わせるだけの器量を持った男だったのは確かであろう。

 


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