PERSONAL NOTE

<飯沼貞吉に関する基本事項>

名前

通称飯沼貞吉(いいぬまさだきち)。後に貞雄(さだお)と改名。本名同じ。
加納貞吉(かのうさだきち)と称した事も。(注)
雅号孤舟、孤虎

誕生

安政元年(1854)3月25日、会津藩士(家禄450石、役職は物頭御弓)飯沼時衛の二男として、会津若松城下(郭内)本二之丁と三之丁の間、大町通りの邸に生まれる。

家族

父 : 飯沼時衛一正(いいぬまときえかずまさ)=戊辰時42歳、朱雀士中一番隊小隊長。
母 : ふみ(文子)=戊辰時39歳
兄 : 源八一近(げんぱちかずちか)=戊辰時18歳、朱雀士中隊。
妹 : ひろ(比呂子)=戊辰時9歳
弟 : 関弥一寿(せきやかずとし)=戊辰時6歳
祖父 : 久米之進一孝(くめのしんかずたか)=戊辰時65歳、籠城中に負傷、死去。
祖母 : 幸、曾祖母 : みの

■母・ふみは西郷十郎右衛門近登之(ちかとし。軍事奉行、家禄350石)の三女。歌人で、雅号は玉章(たまずさ)。

家系

本姓 : 源
本国 : 不詳
(初)飯沼伊兵衛重友 ― (2)猪兵衛精一 ― (3)猪兵衛一公 ― (4)勘左衛門一棟 ― (5)猪左衛門一豊(婿養子) ― (6)勘左衛門一次(嫡子) ― (7)猪兵衛一貞(嫡子) ― (8)繁八一道(嫡子) ― (9)久米之進一孝 ― (10)時衛一正

「先祖、重友ハ本国不詳トアルモ岐阜中納言秀信公ニ仕ヘタル飯沼小勘平(禄四千石、室ハ岐阜加納公ノ女)ノ末孫ナリト代々伝ヘ来リタリト祖父ヨリ聞キ得タリ。」
【飯沼貞雄(貞吉)による分家系図より】
■岐阜中納言秀信公は、織田信長の嫡孫。幼名三法師。  

家紋  
左 : からおしきにちがい鷹羽  右 : 角切角内蕨手(「要略 会津藩諸士系譜」より)
日新館での
学籍

二経塾一番組。15歳で止善堂(講釈所。大学のこと)に進む。

性質

幼にして頴悟(えいご:聡いこと)。【宗川虎次 『補修 會津白虎隊十九士傳』】
稍々東西を弁すの頃より巍然頭角を顕し、活発怜悧の聞こえあり。【中村謙 『白虎隊事蹟』】
学業・武術ともに優秀で、武術はとりわけ砲術を好んだ。
【中村謙 『白虎隊事蹟』】
酒は、量より雰囲気で呑むタイプ。【金山徳次 『札幌にいた白虎隊士 飯沼貞吉』】
母方の血筋か、詠歌を趣味とし、数首の和歌を残している。

【性質についての逸話】
少より頴敏、兎角兄を凌ぐの風があったから、府君(父)は二三男は浪人者で兄の世話にならねばならぬから、何事でも兄の命に惟れ従うようにしようと仕付けられたそうであるが、なかなか云う事を聞かず兄の方が負け気味であったから、いつも貞雄の方を叱られたそうだ。そうすると、直ぐ三ノ丁のおさと(母の実家、西郷家)へ走り行き、其の事をおじいさん(十郎右衛門近登之)、おばあさんに話する。此のおじいさん、おばあさんは大の貞雄びいきであったそうだ。兄をいじめて府君に手ひどく叱られた時などは、日が暮れかかっても帰ろうとしない。おじいさんが拠り所なくお詫びをしてやるから一緒に来いと、肩衣をつけてお詫びに来られる事もあったそうだ。【飯沼一寿(関弥) 『藻汐艸』】←文章は現代仮名遣いに改めました(管理人・羽角)

容姿

體小肥りにて、頬やせ、色白く、眉あつく、眼やや小さく、顎とがる。【神崎清 『少年白虎隊』】
「貞吉氏は、立派な頬髭をたくわえた、背の高い人でした。気品の漂う中に優しさがあり、いつもニコニコしていました。だが自分から話しかけることのない寡黙な人で、とても、腹を切る(自刃)ようなことは、想像もできない人でした」【金山徳次 『札幌にいた白虎隊士 飯沼貞吉』】←札幌時代の貞吉を知る小村豊翁(二男一精氏の学友だった人)の話

貞吉の容姿は写真で見る通り、日本人ばなれをしていた。なかなかの好男子である。ある日英国人顧問と揃って仙台市内を往くとき、当時は外国人が珍しがられた頃でもあって「外国人が二人歩いている」と、往き交う人たちに好奇の目で見られていた。やがて、一人が日本人とわかり、相手も貞吉も大いに面くらったことが再三だったという。
【金山徳次 『札幌にいた白虎隊士 飯沼貞吉』】←二男一精氏の奥様より、金山氏が直接聞かれた話

「長身だったこともあり、15歳を16歳と偽って白虎隊に入隊した」ことが多くの研究・解説書に書かれているけれど、上記『少年白虎隊』の記述を信用するなら、少年時代の貞吉は目立って長身だったわけではないのかも。15歳にしては大きかった、という程度か?
明治以後には「背が高く、寡黙な人」との証言が多いので、少年→青年への成長期にぐんと伸びたのかもしれません。
青年期以後の写真で見る限り、均整のとれた身体つきで背は高そう。色白で、ルックスも西洋人ぽい。←外国人に間違えられるくらいですからねー。 

出陣時の服装・髪型

黒ラシャ洋服に鼠色ズボン(義経袴ともいう)をはき、韮山笠を被り、刀を革にて下ぐ。【神崎清 『少年白虎隊』】

マンテル、ズボン、チョッキ、下着、胴巻、胴しめ皮、総髪。
【藤沢正啓 『白虎士中二番隊屠腹並戦死人別』】

黒らしゃの筒袖服に義経袴、紺の脚絆にわらじばき、髪は大たぶさに結び、左肩には中二寸五分に長さ四寸位の白布に旭光を赤くぬり、その下に「会」の字を墨書した肩章をつけ、脇差をさし、外に大刀を紐で肩にかけ、ヤーゲル銃を持つ。
【白虎隊記念館編 『白虎隊奮戦記』】

武術

剣術 : 安光流(師は武井酉次郎)
槍術 : 安藤市蔵の門人
馬術 : 大坪流(師は笹原弥五郎)
弓術 : 道雪流(師は樋口友弓)
砲術 : 12歳より藩中の横田某(江川英龍門下で修行した夢想流師範の横田勝之助と思われる)の教えを受ける。

素読所を卒業し、止善堂に進む為には学業の他に上記武術に於いて何れか一種目でも「許」(免許)の位を取得することが必要であったので、何らかの免許を得ていたはず。

維新後の職業

逓信省の電信技師。逓信省仙台逓信管理局工務部長として、新潟県を含む東北7県の電信電話網の敷設と、東京―仙台間の直通電話回線の確立に大きな功績があった。会津碍子の開発・普及にも尽力したと伝えられる。また、電信建築顧問の英国人技師より技術を習得、通訳としても活躍。正五位勲四等。

妻子

妻 : れん(連子)=広島県士族(旧広島藩士、家禄300石)、松尾鎭太郎長女。文久元年(1861)9月15日生まれ
長男 : 一雄(かずお)=明治15年11月18日生まれ
長女 : 浦路(うらじ)=明治18年10月19日生まれ
二男 : 一精(かずきよ)=明治30年6月18日生まれ

■長男・一雄は長じて陸軍工兵大尉となり、日露戦争に出征。正八位。明治39年9月16日、札幌にて病没。24歳。
■長女・浦路は北海道士族、松田一雄氏と結婚。

死没

昭和6年(1931)2月12日、午前5時30分、仙台の自宅で感冒に肺炎を併発したため逝去。墓は仙台市北輪王寺、戒名は白巖院殿孤虎貞雄居士。
昭和32年9月、戊辰戦争90年祭に於いて、飯盛山に飯沼貞雄の墓が建てられ、遺髪と歯が埋葬された。

(注)飯沼氏の先祖、織田信長の嫡孫・岐阜中納言秀信公に仕えた飯沼小勘平(家禄四千石)の正室が岐阜加納公の娘であったことから、飯沼家の次男以下が加納姓を名乗ることがあったのでは…と推測。



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