飯沼貞吉 年譜
青字は参考文献よりの引用、管理人による付記。
この年譜は管理人・羽角のオリジナルです。無断転載は固くお断り致します。年齢は、当時の慣習に従って数え年で表記、日付の後の( )内は新暦での日付です。
慶応4年は、4月と5月との間に閏4月があります。←明治5年12月3日を明治6年1月1日とし、以後は新暦が採用されるようになりました。
和暦 | 西暦 | 年齢 | 略歴 | |
嘉永7年 安政元年 |
1854 | 1歳 | 3月25日 (4/22) 会津藩士・飯沼時衛一正(役職は物頭、家禄450石)の二男として郭内本二之丁と三之丁間、大町通りの邸に生まれる。 母文子は西郷十郎右衛門近登之(ちかとし。軍事奉行、家禄350石)の三女で、玉章(たまずさ)という雅号を持つ歌人。兄弟姉妹は、兄・源八、妹・ひろ、弟・関弥。祖父・粂之進、曾祖母と祖母、叔父、下男下女等を抱える大所帯であった。 |
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文久3年 | 1863 | 10歳 | 春 会津藩校・日新館に入学。二経塾一番組に編入。 4月29日 (6/15) 弟関弥、生まれる。 |
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慶応元年 | 1865 | 12歳 | 藩中の横田某(夢想流師範、横田勝之助と思われる)に就き、砲術を学ぶ。 | |
慶応4年 9月8日(10/23) より 明治元年 |
1868 | 15歳 | 1月5日 (1/29) 鳥羽・伏見戦役に出征中の叔父・飯沼友次郎一臣、淀にて戦死。享年26歳。 春 素読所を卒業、止善堂(講釈所、大学)に入学。 学業のみならず武術にも秀で、剣道(安光流)は武井酉次郎に入門、槍術は安藤市蔵の門に入り、馬術(大坪流)は笹原弥五郎に就き、弓術(道雪流)は樋口友弓に就いた。 学業の他、何れかの武術において「許」(免許)を得なければ、素読所を卒業できないので、武芸で一種目以上は免許を得ていたはずである。 3月10日 (4/2) 会津藩、軍制改革。年齢別に玄武・青龍・朱雀・白虎の各隊を組織。 白虎士中隊は、7月7日(8/24)までフランス式軍事訓練を受ける。 改革当時、白虎隊は15〜17歳となっていたが、15歳では発育が不十分で銃より背丈が低い者も居り、体力的にも無理があると考えられた為、16〜17歳に改められた。 どうしても入隊したかった貞吉は、長身だったこともあり、嘉永6年生まれの16歳と年齢を1歳偽って申請したところ、問題なく受理され、白虎士中二番隊に配属。 6月12日 (7/31) 5月1日に白河口にて負傷した叔父・飯沼友三郎一則、若松の自宅にて戦傷死。享年23歳。 7月8日または10日 (8/25または8/27) 白虎士中二番隊、一番隊と共に若殿(松平喜徳)に随従し福良へ出張。 出張中、毎日ヤーゲル銃にて訓練を続け、喜徳の御前にて調練を披露した。 7月25日 (9/11) 喜徳に従って福良を発ち、原村にて宿泊。 7月26日 (9/12) 猪苗代の見禰(峰)山にある土津公神社を参拝する喜徳に随従。猪苗代泊。 7月27日 (9/13) 若松に帰着。 8月5日 (9/20) 夕方、士中二番隊の仲間の家に集まり、母国危急の折、なるべく早く出陣したいと相談。日新館主宰御家老萱野権兵衛宛に出陣の建議書を提出することを決める。 起草委員は井深茂太郎と石山虎之助、書は井深の筆による。 8月22日 (10/7) 早朝、白虎士中一番・二番隊に登城命令。 二番隊には中隊長の日向内記より、回章文が出された。藩主・松平容保が戦場視察の為滝沢村に出陣することになり、その護衛が任務。 城中の武具役人に、ヤーゲル銃は戦場で役に立たないので他の銃に変更するよう訴え、馬上銃(マンソー銃と思われる)を受け取る。 貞吉の出陣時の服装は、神崎清『少年白虎隊』には、「黒ラシャ洋服に鼠色ズボン(義経袴ともいふ)をはき、韮山笠を被り、刀を革にて下ぐ」とある。 出陣前に母方の祖母を訪ね、「重き君軽き命と知れや知れ おその媼(おうな)のうへはおもはで」との短冊を与えられて家に帰り、母より出陣に際しての訓戒を受け、「梓弓むかふ矢先はしげくとも ひきなかへしそ武士の道」の歌を書いた短冊を上着に縫い込んでもらった。 髪型・服装については、小姓頭・藤沢正啓が記録した『白虎士中二番隊屠腹並戦死人別』には、「マンテル、ズボン、チョッキ、下着、胴巻、胴しめ皮、総髪」とあり、刀は背負っていたものと思われる。白虎隊記念館編『白虎隊奮戦記』には、「黒らしゃの筒袖服に義経袴、紺の脚絆にわらじばき、髪は大たぶさに結び、左肩には中二寸五分に長さ四寸位の白布に旭光を赤くぬり、その下に「会」の字を墨書した肩章をつけ、脇差をさし、外に大刀を紐で肩にかけ、ヤーゲル銃を持って、仲間(ちゅうげん)の藤吉を伴い、北出丸入口角の西郷家老邸に立寄り、叔母千重子(頼母妻)に告別し、三の丸の集合所に急いだ」とある。 同日午後2時過ぎ、士中二番隊に出撃命令が出され、戸ノ口原へ向かう。 8月23日 (10/8) 未明、半隊長の原田克吉が7人の隊士を連れて斥候に出る。中隊長・日向内記が食料調達に出掛けたまま帰らないので、教導・篠田儀三郎が残った隊士達を率い指揮を執る。 早朝より銃撃戦を繰り広げるが、撤退を余儀なくされ、露営地へ戻る。帰城を決意し、負傷者を助けながら城を目指すが、飯盛山の高台にて城が燃えていると誤認、論議の結果自刃を選ぶ。 貞吉も朋友に遅れを取ってはならぬと咽喉を突いて倒れたが、奇跡的に蘇生。23日夕方、救出された彼は渡部家の人々や印出ハツの手厚い看護を受け、一命を取り留める。その後、ハツに助けられながら塩川へ逃れ、近江屋にて医師(町医者、長岡藩の軍医)の手当てを受けた。塩川から喜多方へ移り、入田付村山中の不動堂に9月25、26日頃まで匿われていた。 同日(旧暦8月23日)、叔母・西郷千重子と従姉妹等合わせて21人、自邸にて自刃。 9月22日 (11/6) 会津藩、降伏。 9月23日 (11/7) 城中の15〜59歳の藩士、米沢兵の護衛にて本一之丁、天寧寺町、滝沢村を経て猪苗代に入り謹慎する。 9月25〜26日 (11/9〜10) 城外にて降伏した会津藩士、塩川に入り謹慎となる。 9月下旬〜末頃 貞吉は、自分を捜して戦場を奔走していた飯沼家の従僕・藤太(藤吉、藤助とも)の迎えで不動堂を出て、塩川の謹慎所に居た家族と再会。塩川の下遠田村にて静養後、10月上旬に猪苗代の謹慎所へ向かう。 10月1日 (11/14) 城内にて降伏の藩士は猪苗代、城外で降伏した藩士は塩川にて謹慎との正式な沙汰あり。女性や子供も塩川に集められたが、後に放免されている。 10月3日 (11/16) 籠城戦にて負傷した祖父・飯沼粂之進一孝、御山村にて死去。享年69歳(65歳説あり)。 10月19日 (12/2) 松平容保・喜徳および随従の藩士、東京へ出立。 その後の貞吉の消息は本人が寡黙だったこともあり、はっきりしないが、謹慎所にて知り合った長州藩士・楢崎頼三(与兵衛)に連れられて長州へ行ったとも言われている。楢崎は美祢(みね)郡厚保(あつ)村小杉の実家に貞吉を伴い、書生として面倒をみるつもりだったと思われる。 貞吉が滞在した部屋は、後に佐藤内閣の文部大臣になった高見三郎が少年期の勉強部屋として間借りしていたことから、高見氏の実兄や祖母(楢崎家の奉公人であった)を通じて、この話が郷土史家に伝えられた。楢崎頼三が長州に伴った会津の少年が貞吉であった確証はないが、下記のような話が残されている。 「楢崎は凱旋の時に馬に乗って来たが、轡をとる十五、六歳の少年がいた」 「楢崎の凱旋祝いの席で、ある村人に『お前ものう、戦争に負けて此処に来たんじゃからのう、さぁ呑め、呑め』と言われ、顔色を変えて自刃しようとした」 「楢崎は、その少年を『サダさぁ』(サダさん)と呼んでいた」等。 |
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明治2年 | 1869 | 16歳 | 1月3日 (2/11) 塩川謹慎者、高田藩に送られる。 1月7日 (2/17) 猪苗代謹慎者3254名、信州松代藩へ向けて第一陣が出立したが、宇都宮滞在中に行き先が東京へ変更される。続く第二、三陣も東京へ送られたが、第四陣のみ滝沢村まで護送された後、猪苗代に戻された。 東京での謹慎所は、旧幕府講武所(小川町)、護国寺(音羽)、幸田邸(麻布)、御搗屋(おつきや : 一ツ橋門内、旧幕府糧食倉庫)。後に芝増上寺が加わる。すべての謹慎所には監視兵が居たが、厳重な拘束はなかったという。 |
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明治3年 | 1870 | 17歳 | 3月 名を飯沼貞雄と改める(明治5年頃の説もあり)。 5月15日 (6/13) 松平容大が斗南藩知事に任命され、飯沼時衛が家令となる(半年で辞職)。 6月10日 (7/8) 旧藩士ら約1500名、大平(むつ市)へ入港、翌日上陸。貞吉を除く家族(両親、祖母、兄源八、妹ひろ、弟関弥)もその中に含まれており、三戸種原の荒地開墾に携わる。 秋 白虎隊、正式に解散される。斗南藩の安渡港(むつ市大湊)にて解体式を行う。 東京に残った貞吉は留学生の一人に選ばれ、静岡(静岡浅間神社の付近)の林三郎の塾に入門。同門に後の海軍大将・出羽重遠らがいた。 |
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明治4年 | 1871 | 18歳 | 1月13日 (3/3) 旧会津藩士・大竹秀蔵ら有志により、陸奥国三戸町同心町観福寺に日本最古と言われる白虎隊墓碑が建つ。此処には貞吉の名もあり。 年末 留学生制度が廃止され、藤澤次謙に就くが、同氏の出仕に伴い東京に向かう。出羽重遠と共に勉学に励む。 |
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明治5年 | 1872 | 19歳 | 藤澤次謙の斡旋にて、工部省(後の逓信省)技術教場に入所、電信技師の道を歩む。 海軍を志願した出羽重遠から陸軍入りを勧められたが、断ったらしい。 8月26日 (9/28) 工部省辞令「電信寮技術等外見習下級給申付候事」により電信技師として採用され、研修を受ける。 電信寮とは、電気通信の教授をした国内最初の機関のこと。 10月5日 (11/5) 「赤間関在勤申付候事」の辞令を電信寮から受け取る。 |
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明治6年 | 1873 | 20歳 | 4月10日 「小倉局在勤申付候事」、「技術主算申付候事」の辞令を受ける。 7月4日 「電信寮技術等外見習中給申付候事」の辞令を受ける。 秋 貞吉の家族、斗南より会津若松に帰る。 |
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明治7年 | 1874 | 21歳 | 5月4日 「山口局出張申付候事」の辞令を受ける。 7月16日 「山口局在勤申付候事」の辞令を受ける。 9月24日 「電信寮技術等外見習上給申付候事」の辞令を受ける。 12月12日 「補電信寮技術二等見習下給」の辞令を受ける。 |
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明治8年 | 1875 | 22歳 | 3月9日 「帰京申付候事」の辞令により、東京へ戻る。 4月10日 日本橋局詰となる。 5月25日 神戸局へ出張。 7月23日 「神戸局在勤申付候事」の辞令を受ける。 7月30日 「金八円五拾銭局務夛端之処勉励ニ付手当トシテ被下候事」の辞令を受ける。 上記辞令中、「夛」は「多」の意味。職務多忙の為の手当が出たと思われる。 10月8日 「ホストル手之建築出張申付候事」の辞令を受ける。 ホストルとは、英国人建築技師ジョン・タスクル・ホストル(John T. Foster)のこと。明治4年7月〜12年7月まで工部省在勤。 |
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明治9年 | 1876 | 23歳 | 2月12日 「金五円弐拾五銭局務夛端之処勉励ニ付為手当被下候事」の辞令を受ける。 6月26日 「補電信寮技術二等見習中給」の辞令を受ける。 |
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明治10年 | 1877 | 24歳 | 1月31日 工部十等技手三級となり、「電信局在勤申付候事」の辞令を受ける。 8月13日 工部十等技手二級となる。 |
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明治11年 | 1878 | 25歳 | 2月8日 曾祖母みの、没。享年92歳。 5月22日 福井出張を命ぜられる。 11月6日 工部九等技手二級となる。 |
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明治12年 | 1879 | 26歳 | 3月4日 工部九等技手一級となる。月給金弐拾円。 |
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明治13年 | 1880 | 27歳 | 2月28日 大阪在勤を命ぜられる。 |
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明治14年 | 1881 | 28歳 | 2月21日 熊本勤務を命ぜられる。 7月4日 工部八等技手となる。月給金弐拾弐円。 広島県士族松尾鍖太郎(旧芸州藩士、三百石)長女レンと結婚。 |
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明治15年 | 1882 | 29歳 | 1月12日 両親と兄、弟、妹、叔母の一家が会津若松市六日町に移り住む。 11月18日 長男一雄誕生。 |
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明治16年 | 1883 | 30歳 | 7月2日 工部七等技手となる。月給金弐拾七円。 |
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明治17年 | 1884 | 31歳 | 2月26日 松江勤務を命ぜられる。 8月23日 白虎隊十七回忌の法要が営まれるが、出席せず。 |
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明治18年 | 1885 | 32歳 | この年、工部省が逓信省に変わる。 3月10日 新潟勤務を命ぜられる。 7月1日 工部六等技手となる。月給金三拾弐円。 10月19日 長女浦路誕生。 |
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明治19年 | 1886 | 33歳 | 5月27日 逓信五等技手に任じられる。判任官、五等級下級俸を支給される。 9月2日 新潟逓信管理区電信建築主事を命ぜられる。逓信監察官補を兼任、新潟在勤。 10月25日 弟関弥、西岡直太郎長女とよと結婚。 12月1日 判任官五等に叙せられる。 |
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明治20年 | 1887 | 34歳 | 3月30日 兼官を免ぜられ、逓信省工務局第一課長に昇進。 9月9日 逓信省工務局次長、志田林三郎と共に逓信管理区の巡回・随行(大阪、岡山、赤間関、松江、熊本)を命ぜられる。 |
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明治21年 | 1888 | 35歳 | 7月19日 山形逓信管理区へ出張。 |
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明治22年 | 1889 | 36歳 | 7月30日 工務課第二課勤務を命ぜられる。 9月30日 第二課長代理を命ぜられる。 11月26日 名古屋、大阪、広島、松山の電信建築区へ出張。 |
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明治23年 | 1890 | 37歳 | 7月1日 電信局(第二課)勤務を命ぜられる。 10月21日 九州一円へ出張。 |
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明治24年 | 1891 | 38歳 | 3月31日 広島電信建築区電信建築長に就任。 8月16日 電信建築署技手を命ぜられる。三級俸を給付される。 広島電信建築署長代理を命ぜられる。 |
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明治25年 | 1892 | 39歳 | 2月5日 出京を命ぜられる。 6月18日 戸籍の生年(嘉永6年→安政元年)訂正願を提出、正式に許可される。 11月30日 広島電信建築署長代理を免ぜられ、東京電信建築署在勤となる。 12月31日 第一部担当主任を命ぜられる。 |
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明治26年 | 1893 | 40歳 | 1月28日 山梨、長野に出張。 2月 絶家飯沼友次郎(鳥羽・伏見の戦にて戦死した叔父)を再興、親子4人で分家。弟の関弥も戊辰戦争で戦傷死した叔父飯沼友三郎を再興分家。 3月9日 静岡に出張。 11月10日 東京郵便電信局勤務となる。 |
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明治27年 | 1894 | 41歳 | 2月5日 二級俸を給与される。 6月26日 大本営付を命ぜられる。軍での役職は歩兵大尉。 6月27日 弟関弥宛に書状を発信、朝鮮半島出征の後事を依頼。 6月28日 東京を発し、広島へ向かう(30日着)。 7月1日 第一電線架設枝隊付となり、宇品(広島港)を発し、釜山へ向かう(2日着)。 6月28日宇品発、29日釜山着説あり。 7月22日 第一電線架設枝隊より分離、釜山―大邱間電線架設担当主任を命ぜられる。 7月24日 技手4人、電信工夫10人、軍夫300人を引き連れ、釜山郵便電信局を起点として以北に向かい、工事に着手。 「技手や工夫達がみんな洋服の上に日本刀を背負っているのに飯沼だけは普通の背広姿で、広島(電信局の本部があった)を出る時さんざん外の人からすすめられて持って来た手槍を一本供の人夫にかつがせているきりだった。『私は白虎隊で死んでいるはずの人間です』飯沼はピストルを持って行くやうにすすめる私の言葉に答えて笑った。飯沼は白虎隊生残りだった『命はすててますよ』電信局の玄関を離れる時さう言って正面に掛けてある『大日本帝国郵便電信局』の横文字で書かれた金文字をじっとみつめていた。『元気で行って来ます。きっとやりとげますよ。船を使はんでも東京と通信ができるやうにして見せますよ』ヘルメットをぬいだ飯沼は、電信局の門のわきに立っている日の丸を仰いで明るく言った。さうして飯沼貞雄の一隊は二日前決死の電信建設行に旅立ったのだ」 (昭和15年10月8日付讀賣新聞に掲載された記事より。日清戦争当時、釜山の電信局にて活躍したオペレーター、八木鐘次郎翁の話に依る) 7月25日 明治廿七八年戦役(日清戦争)が始まる。 7月26日 夜9時、八重山入湾の電文を打つ。(上記、讀賣新聞記事) 8月13日 大邱までの陸線建設を成功させる。日本軍の捷報がこの電線から内地に伝わった。 9月8日 中路兵站電線架設隊に属す。 10月1日 中路兵站電線架設技手長を命ぜられる。 11月1日 臨時南部兵站電信部付技手長を命ぜられる。 12月26日 勲八等に叙せられ、瑞宝章を賜る。 |
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明治28年 | 1895 | 42歳 | 3月4日 臨時南部兵站電信部技長心得を命ぜられ、高等官の待遇を受ける。 8月2日 帰国を命ぜられ、東京郵便電信局在勤に復す。 帰国の際、乗り込んだ汽船が転覆、書類や日記帳等を流失した事が、飯沼貞雄著『電信隨想』に書かれている。 12月25日 明治廿七八年戦役(日清戦争)での功績により、勲七等青色桐葉章、金六拾円を受ける。 |
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明治29年 | 1896 | 43歳 | 4月15日 通信局勤務となる。 5月20日 従七位に叙せられる。 |
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明治30年 | 1897 | 44歳 | 1月14日 赤羽に出張。 3月23日 1月に降雪にて被害を受けた電線復旧工事に対する尽力を慰労、金三拾五円を給付される。 4月30日 電信建築技師に任ぜられ、高等官七等に叙せられる。十一級下賜。 仙台郵便電信局建築課長を命ぜられる。 6月18日 次男一精誕生。 8月17日 母ふみ(文子)、没。享年68歳。 8月18日 通信技師を命ぜられる。 |
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明治31年 | 1898 | 45歳 | 7月8日 十級俸下賜。 11月11日 兄源八一近、赤痢にて病死。享年48歳。 12月28日 勲六等を叙され、瑞宝章を授かる。 |
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明治32年 | 1899 | 46歳 | 3月10日 出京を命ぜられる。 3月15日 弟関弥、従兄・山川健次郎の推薦にて松平家家令となる。 7月14日 九級俸下賜。 |
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明治33年 | 1900 | 47歳 | 6月25日 八級俸下賜。 9月28日 高等官六等。 12月27日 正七位に叙される。 |
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明治34年 | 1901 | 48歳 | 2月14日 仙台電話交換局長心得兼務を命ぜられる。 |
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明治35年 | 1902 | 49歳 | 4月1日 七級俸下賜。 |
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明治36年 | 1903 | 50歳 | 1月1日 仙台郵便電信局通信講習生試験委員を命ぜられる。 2月13日 父時衛一正、没。享年77歳。 4月1日 官制改正により、通信技師に任ぜられる。六級俸下賜。 7月16日 高等官五等。 11月10日 従六位に叙せられる。 |
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明治37年 | 1904 | 51歳 | 12月27日 勲五等に叙せられ、瑞宝章を授かる。 |
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明治38年 | 1905 | 52歳 | 1月16日 札幌郵便局工務課長に栄転。 現在のNTT札幌会館敷地内にあった官舎に居住。 8月8日 五級俸下賜。 |
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明治39年 | 1906 | 53歳 | 7月20日 高等官四等。 9月10日 北海道物産大共進会が札幌市中島公園にて開催され、札幌郵便局は自動電話機を設置、電報の発信を取り扱う。貞雄は第六部会(工業関係)審査委員。金壱封と時計を拝受。 9月16日 長男一雄(陸軍工兵少尉)、羊蹄山登山中の腹痛(赤痢の説が有力)がもとで札幌区立病院にて死去。享年24歳。 10月20日 正六位に叙される。 |
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明治40年 | 1907 | 54歳 | 4月1日 明治三十七八年事件の功により雙光旭日章及び金四百円を授かる。 4月22日 四級俸下賜。 5月8日 出京を命ぜられる。 |
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明治41年 | 1908 | 55歳 | 6月 根室に置局のため、技師の浦田周次郎とともに現地へ出張。 12月26日 三級俸下賜。 |
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明治42年 | 1909 | 56歳 | 5月16日 札幌郵便局大運動会が開催される。 |
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明治43年 | 1910 | 57歳 | 4月1日 逓信省仙台逓信管理局工務部長となる。 新潟県を含む東北7県の電信電話網の敷設と、東京―仙台間の直通電話回線の確立に大きな功績があった。 貞雄は長身で日本人ばなれした容姿であったので、英国人顧問と仙台市内と歩いていると、「外国人が二人歩いている」と行き交う人に好奇の目で見られたという。後でうち一人は日本人であると判り、相手も貞雄本人も面食らったことが再三あったとの逸話(証言者は二男・一精氏の妻)が残されている。 |
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明治44年 | 1911 | 58歳 | 12月11日 従五位に叙される。 12月16日 勲四等に叙され、瑞宝章を授かる。 |
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大正2年 | 1913 | 60歳 | 5月31日 高等官三等二級従五位勲四等を授与される。退官後も仙台に住居を定める。 6月9日 後進に道を譲り、退官。二級俸下賜。 6月13日 退職辞令を受け取る。 「大正二年六月十三日 逓信大臣官房秘書課長 元休職逓信管理局技師 飯沼貞雄殿 今回逓信管理局官制廃止ニ依リ本月十二日限リ廃官ト心得ラレ度候」 8月11日 正五位勲四等に叙せられる。 詠歌の道に励み、若松市三園和歌会の同人として寄稿するなどして余生を過ごす。 仙台の自邸の庭に、貞雄は札幌から持って来た柏の木と、会津地方特産の身不知(みしらず)柿の木を植えている。この柿の木に、彼の会津への郷愁と先に逝った友への想いが込められているのかもしれない…。 |
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昭和3年 | 1928 | 75歳 | 9月 秩父宮殿下と松平勢津子姫との婚儀を祝し、歌を詠む。 「よろこびをかわすことばにどよむらん いいもり山の苔の下にも」 孤舟 12月 若松市内善龍寺「なよたけの碑」の歌碑の揮毫を依頼され、快諾。除幕式は病の為欠席。 |
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昭和6年 | 1931 | 78歳 | 2月12日 午前5時30分、仙台の自宅で感冒に肺炎を併発したため逝去。 仙台市北輪王寺に葬られた。戒名は、白厳院殿孤虎貞雄居士。 6月26日 従兄弟山川健次郎、没。享年78歳。 |
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昭和32年 | 1957 | ― | 9月 戊辰戦争90年祭に於いて、飯盛山に飯沼貞雄の墓が建てられ、遺髪と歯が埋葬された。 生前、貞雄は頭髪を少し切り、それに抜けた歯を添えて小箱に納めて釘付けし、二男一精氏に「死後若し形見のものを会津の方へ持って行って葬りたいという話があったらこれをやれ」と遺言していたという。 |
参考文献 : 『補修 會津白虎隊十九士傳』、『白虎隊事蹟』、『少年白虎隊』(神崎清著)、『会津藩戊辰戦争日誌』上下巻、『札幌にいた白虎隊士 ―飯沼貞吉―』、『会津白虎隊』(歴史春秋社)、『藻汐艸』、『白虎隊の蘇生者』、『会津史談』第23号(昭和18年2月)、『歴史と旅』(昭和57年10月号)、『会津白虎隊のすべて』、『会津戦争の群像』、『真説・会津白虎隊』、『帰る雁が祢 私注 会津藩老・西郷頼母の晩年の日誌』、飯沼貞雄自筆官歴書、『根室市博物館開設 準備室だより No.11』、『長州奇兵隊 勝者のなかの敗者たち』