飯沼貞吉 (いいぬま さだきち)


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飯沼貞吉(加納貞吉)/ 1854(嘉永七年/安政元年)−1931 (昭和六年)/ 白虎隊士(士中二番隊所属)/ 雅号:孤舟・孤虎 


嘉永七年(1854)三月二十五日、会津藩士・飯沼時衛一正(物頭を勤め、家禄四百五十石)の二男として郭内本二之丁と三之丁間、大町通りの邸に生まれる。母文子は西郷十郎右衛門近登之の娘で、玉章(たまずさ)という雅号を持つ歌人でもあった。家紋は、からおしきにちがい鷹羽。
家族は、両親と兄の源八、妹のひろ、弟の関弥。他に祖父の粂之進、祖母、曾祖母、叔父、下男下女が同居していたという。
会津藩家老・西郷頼母の妻千重子は叔母にあたる。山川大蔵(浩)、健次郎、捨松は従兄弟(母同士が姉妹)。
年齢を偽って白虎隊に参加したが、戦い利あらず、飯盛山にて他の十九士と共に自刃に及んだが、死にきれず蘇生。維新後は貞雄と改名、逓信省の通信技師となり、明治五年の赤間関(山口県下関市)を振り出しに各地に勤務、日清戦争にも従軍した。明治四十三年、仙台逓信管理局工務部長に就任。退職後も仙台に住み、昭和六年二月十二日、七十七歳で生涯を終えた。戒名は、白巖院殿孤虎貞雄居士。


武士の心得、出陣の朝


幼くして穎悟(えいご:聡いこと)、十歳で藩校日新館に入学。二経塾一番組に編入され、十五歳で止善堂(講釈所。大学のこと)に入った。学業・武術ともに優秀で、武術はとりわけ砲術を好み、十二歳より藩中の横田某(江川英龍門下で修行した夢想流師範の横田勝之助と思われる)の教えを受ける。剣術(安光流)は武井酉次郎に入門、槍術は安藤市蔵の門に入り、馬術(大坪流)は笹原弥五郎に就き、弓術(道雪流)は樋口友弓に就いた。
白虎隊の編成時はまだ十五歳だったが、どうしても入隊したかった彼は、長身だったせいもあり、嘉永六年生まれの十六歳と年齢を一歳偽って申請したところ、問題なく受理され入隊できた。

白虎士中二番隊出陣の慶応四年八月二十二日、父の時衛は既に白河口に出陣、兄の源八(十八歳)も越後口の戦線に出ていた為、母の文子から厳かな訓戒を受けた。
「いよいよ御前は君公の御為に身命を捧げる時が来ました。日頃父上よりの御訓えもあり、今日この家の門を出たならば、オメオメと生きて再び帰るような卑怯な振る舞いをしてはなりません。就いては、武士の子として目出度い今日の門出なれば、西郷のお祖母さまにも御暇乞いをして来なさい」と、母より(母方の)祖母との面会を許されたので、貞吉は祖母の西郷なほ子を訪ね、はなむけの一首を賜った。

「重き君軽き命と知れや知れ おその媼(おうな)のうへはおもはで」

この歌を示しながら、戦場での心得や覚悟を祖母が優しく説いてくれたので、貞吉は涙が出そうになったが、「武士の門出に涙は不吉、会津武士たる者、勇んで戦場に向かいなさい」と叱られたので堪え、祖母に暇を告げた。
帰宅後、玉章(たまずさ)という雅号を持つ歌人でもある母が、短冊に一首したためてくれた。

「梓弓むかふ矢先はしげくとも ひきなかへしそ武士(もののふ)の道」

武士が戦場にのぞんだら、決して逃げ隠れをするでない、との心得である。貞吉は、この歌を黒ラシャ筒袖服の襟に縫い込んで出陣したという。
更に母は、「鉄砲にて敵を狙う時は、必ず臍の辺りを狙いなさい。太刀打ちをなす時は、臆せず、怯じず、思い切って、先の先々と心がけ斬り込みなさい」と教えた。飯沼家は神道なので、貞吉は神棚の前に跪いて礼拝をなし、母に別れを告げた。
この時の貞吉の服装は、黒ラシャの洋服に灰色のズボン(義経袴とも)、髪は総髪。胴を結んだ姫路革の胴らんには五十発の玉が入っていて、太刀を革の紐でつるして左肩にかけ、小刀を腰にたばさんで、韮山笠と銃を持って邸を出た。
若党の藤太が後からついて来たが、叔母にあたる千重子(家老・西郷頼母の妻)に挨拶をして城へ向かう途中で家に帰した。

士中二番隊の戦い、飯盛山の悲劇

白虎士中二番隊は戸ノ口原に出撃。平石弁蔵著『會津戊辰戦争』に、「秋の日は暮れそめて晩鴉塒(ねぐら)に急ぐ頃微かに戸ノ口村を望み得る附近に達した。其処に敢死隊が露営して熾(さか)んに火を焚き夕餉の炊爨(すいさん)をして居った、白虎隊には兵糧の用意がなかったので、敢死隊から握り飯一箇宛(づつ)を貰うて飢を凌いだ」とある。
この日、旧暦の八月二十二日は新暦の十月七日頃にあたり、寒い夜だったらしい。『會津戊辰戦争』には、飯沼談として中隊長の日向内記(ひなたないき)が食糧を調達してくると言って単身出て行ったきり帰って来なかったことが書かれているが、貞吉がそう言ったという事実は確認されていない。彼は『河北新報』等にて、隊長が離れた理由を「他の隊に用があった為」としており、日向は何らかのアクシデントに見舞われて隊士達の許に戻れなかったのではないかと思われる。

翌二十三日の早朝四時頃、新政府軍が前進を開始。未だ帰らない日向を待つのを止め、彼らは副隊長格の教導、篠田儀三郎の指揮の下、敵と一戦を交えることになった。
敵との距離は僅か二百メートルほど、警戒しつつ小高い丘の上から一斉に射撃するものの、こちらの所在を知った敵も猛烈な射撃で反撃。武器の違い、兵の数、戦場での経験不足等もあってか、池上新太郎ら数名が負傷、退却を余儀なくされる。無我夢中で退却したせいか、隊士は幾つかのグループに分かれてしまい、篠田率いる十数名は新政府軍の進路を避け、城に戻って君公を護衛しながら敵を迎え撃つつもりで城への帰還を目指す。途中、滝沢の白糸神社から本街道に入ったところで敵に遭遇、銃撃戦となって永瀬雄次が負傷。彼を背負い、飯盛山の東側に掘られた弁天洞の洞門を抜け、弁天祠の傍に出た。其処から飯盛山の高台に進んだ彼らの視界に開けたのは炎に包まれた城下で、彼らの眼には城も炎上しているように映ったのだった。
「城下は早や紅蓮の焔を上げ、君公の居ます鶴ケ城は全く黒煙に包まれ、天守閣なども今にも焼け落つるかと思はれた、この惨状を眺めた一同は実に落胆し暫時言葉もなく悄然として佇んだ、実際昨夜より何一つ食するものもなく、只水を呑んで戦闘を継続してきたのであるから、此(この)悲惨なる光景を見るや否や、気も力も挫けたのである」(『會津戊辰戦争』飯沼貞吉の回想)
彼らは自刃か尚も戦うか論議したが、敵に生け捕られて恥辱を味わうよりは……と、自刃を選択することになった。宗川虎次著『補修 會津白虎隊十九士傳』によると、教導の一人である西川勝太郎がこう言ったという。「今こそ殉ずべきの秋(とき)である。諸君、覚悟し給え」
そうして、彼らは自刃に及んだ。
貞吉も、皆に遅れじと咽喉に脇差を突き立てた。『會津戊辰戦争』より彼自身の回想を引くと、「自分も同僚の者が咽喉を突き或は腹をかき切ってバタリバタリ倒れるので遅れてはならぬと脇差の鞘を払ひ、力をこめて咽喉に突き立てた、ブスリと音して切先が咽喉へ深く入ったと思ふたが、其(その)切先が何かにつかへるやうな気がして、切先が後ろへ出ない、再び力を入れて押してみたが、矢張りガチリとつかへるものがあって思ふ様に突き通らない、不審に思ひ突き立てた脇差を抜いて見ると、切先一寸余も血潮に染まっていて、刃こぼれもしていない、この上は……と傍にあった岩石に脇差の柄頭をあて、切先を手探りに血潮の流れ出る傷口にさしこみ、岩石の両側に生えて居った躑躅(つつじ)の根株を両手にて緊(しっ)かと握り、満身に力をこめてグッと前に上体を突き出した、今度はうまく通ったなと思ふた迄は明瞭に判って居るが其後は夢路を辿るが如く人事不省になった」
人事不省とは、意識を失うこと。また、この時の心理状態として、「単に会津藩のみの教育ではないが、武士たる者は一朝有事に際会しては、主君の為に身命を捧げることは忠たり孝たるの至大善事であると、幼少から学童に於いてもまた家庭に於いても教育されて、それが心魂に徹して居るから、イザといふ場合には自然平素の覚悟が表れて、毛頭卑怯な考へなど起こるものでない、実際自分の体験からいふても、全く死を見る帰するが如しであった。そして自刃に臨んでも欣然として死を急ぎ、絶息の間際まで心神に余裕があり、またさほど痛いとも思はなんだ」と語っている。

蘇生した飯沼貞吉

しかしながら、幸か不幸か、貞吉は死にきれずにいた。彼を救出し、介抱したのは微禄の会津藩士・印出新蔵の妻ハツと言われている。
『會津戊辰戦争』にある貞吉の回想を紐解くと、人事不省に陥った彼は、まだ身体に温もりがあるのを印出ハツに発見され、その呼びかけに意識を取り戻した。ハツに城も殿様も自分の両親も無事だと聞かされ、信じられぬと反論したが、ハツが真実であると再度強調するので、貞吉は両親に会いたくなった。
「生死を共にせんと誓った同僚の死を見て自分一人オメオメと一刻でも生き居ることの苦しさに、かくまで言ひ争ったが、御城も無事両親も存生と聞き、ただ一目でも御逢い申して御暇しよう……、といふ心を起こしたのが所謂未練で、実は白虎隊の話が出るたびに誠に申し訳がなく今更ながら残念至極であるが一目たりとも両親にといふ心が出たので、咽喉の傷口に手を当て、起き上がり、婆さんに扶(たす)けられ飯盛山の麓の叢(くさむら)まで下がったのが日の暮れ方、今の五時頃か」(『會津戊辰戦争』飯沼貞吉の回想)
婆さんとは印出新蔵の妻ハツのこと。印出氏は武具役人を勤めていたので、物頭の飯沼家にはハツも時々出入りしていたのかもしれない。ハツには貞吉と同じ年頃の息子がおり、その子が鉄砲を持って家を出たまま帰らないので、心配して飯盛山に捜しに来たところ、まだ息のある貞吉を見つけたという。
ハツが城下の様子を見に行っている間、貞吉は叢の中で一人煩悶し、傷の痛みを堪えながら蘇生してしまったことを痛切に悲観していたが、やがて日が暮れてからハツが戻って来て、城下は敵ばかりで貴方様のような方を隠す処はありませんが、塩川あたりが安全なので、今からそちらへ参りましょうと言ったので、彼女に助けられながら暗闇の道を歩いて塩川に辿り着き、近江屋(現在は東邦銀行塩川支店)という醸造業を営む深田文内宅に匿われた。
無事に到着できたことで気がゆるんだのか、貞吉は再び人事不省に陥り、心配した主人が翌朝町医者の三本住庵(みつもとじゅあん)を呼んでくれた。三本住庵は傷口を縫い、膏薬を貼ってくれたが、夕刻には傷口が非常に痛み出したので、たまたま居合わせた長岡藩の軍医がハツから事情を聞き、治療をし直してくれた。
「丁度其日の夜今の九時頃になると武装した人が私の部屋の戸が明いて居たので、私の方を見ながら前を通り去ったが、其人が突然私の部屋に這入って来て、私の寝ている傍にて、何か印出の婆さんと話をして立ち去った、それより十分間程経つと又来て、黒革製の箱より外科用の道具を取り出し、私の創口を縫った糸を残らず抜き取り、水にて洗ひ其あとに、白き粉薬を水にて溶き、それに綿散糸(木綿の糸をほどきたるものにしてガーゼの如きもの)を浸し、之を丸めて創口に詰め込み、其上を包帯した後、外用粉薬、綿散糸、包帯用木綿等を充分に与へ、今後の手当方を婆さんに教へてくれた、それがため創も快方に向かったのである」(『會津戊辰戦争』飯沼貞吉の回想)
その長岡藩の軍医の名を貞吉は聞いたそうだが、残念ながら忘れてしまったらしい。(←軍医は阿部宗達、吉見雲台の二人。河井継之助の治療にあたっていたが、河井が只見で亡くなった後、米沢へ向かう長岡藩兵に合流した。貞吉の傷を治療してくれたのは、この二人のいずれかと思われる)
傷の経過は良好で、ハツも大いに喜び、一心に看護したが、表通りより裏通りの方がより安全だろうということで中島屋(300メートルほど北、代官所の北側竹屋町通りにあったという)の二階に移り、町医者の諏訪竹圃(すわちくほ)の手当てを受けた。一週間ほど経って、少しでも戦場から離れた方がよいとして、貞吉は印出ハツと橋爪勇記に連れられて喜多方へ向かった。喜多方の名主・池上某の家に匿われ(入田付治里の肝煎、佐藤善衛門宅とする資料もあり)、さらに入田付沼尻の清流寺不動堂に隠棲。そのうちに会津藩は降伏となり、貞吉は各地の戦場で自分を捜し廻っていた飯沼家の若党、藤太の迎えで不動堂を出て、塩川に向かった。藤太は八月二十三日、家族と離れ離れになって城に入ることができなかった貞吉の母ふみ(文子)と妹ひろ(比呂子)を自分の家に案内し、世話をしていたので、ふみに頼まれて貞吉の行方を捜していたと思われる。そしてようやく貞吉は親と再会したが、「何とも申し訳のない感じがして、暫く無言で居った」という。
余談ながら、『新東北』第17巻190号掲載の芳山史哲『飯沼貞雄翁を訪ふ』によると、若党の藤太は維新後若松に居住していたが、明治三十一年(←貞雄氏の令孫、飯沼一元氏より、明治三十四年の間違いではないかとの情報をいただきました。有難うございますm(_ _)m。)に貞吉と再会し、暫く飯沼氏の許(貞吉改め貞雄は当時仙台在住)に遊んで余生を楽しんでいたそうだ。

貞吉救助の真相

以上が『會津戊辰戦争』にて紹介された貞吉の回想に幾つかの資料の記述を加えてまとめたものであるが、実は印出ハツより先に貞吉を救助した人物が居たという説がある。
『会津史談』第50号に掲載された秋月一江『飯沼貞吉救助の実証を追って』に、その詳細が記されている。著者の秋月氏は、会津若松市在住の渡部左伊記氏より、昭和四十二年に着工されたバイパス工事の為に旧家屋の取り壊しを行った際に神棚の奥から出てきた文書を見せられ、レポートをまとめられたらしい。
その文書は、左伊記氏の曾祖母にあたる渡部ムメが明治三十三年三月九日に語り残した事を飯盛山に地所を持つ飯盛正信氏が書き取ったもので、戊辰の年に飯沼貞吉を最初に発見したのは印出ハツではなく、ムメの義父・渡部佐平であることが書かれていた。

明治戊辰八月二十三日、自刃した白虎隊士二十名の中で、咽喉を突き損じた飯沼貞吉は唯一人死にきれずに人事不省に陥っていた。その現場に、戦死者の懐中物を漁る盗賊が現れ、斃れた隊士達の刀や金子を奪い、貞吉の懐にも手を入れようとした。おぼろげながら気がついた貞吉は敵かと思い、その手を掴んで離さずにいると、盗賊は「旦那様、死に急いではなりませぬ」と言葉丁寧に言い、「私共の隠れ居る山までお連れ申します」と告げたので、貞吉は手を離した。盗賊は、自刃の場所のすぐ下を流れている戸ノ口堰にて水を飲ませて一息つかせ、安心させると、貞吉を背負って水路に沿った道を飯盛山の南に位置する八ヶ森の南側の岩山までやって来て、「水を汲んで来てあげます」と貞吉を騙して刀を奪い、意識朦朧として動けない彼を其処に置き去りにした。
その彼を救ってくれたのが、戦争を避けて八ヶ森の南の袋山に隠れ住んでいた渡部佐平であった。薪と茸を取りに来ていた佐平は、「忠ぎん、忠ぎん、水をくれ、水をくれ」(原文通り。忠ぎん=中間か?)という声を聞いた。一旦袋山に戻った佐平が「官軍に撃たれた者が倒れている」と知らせ、長男の妻のムメと、たまたま避難に来ていた印出ハツがその場に行ってみると、咽喉から血を流しながら呻いている者がいた。名を訊ねると、「本三之丁、飯沼の次男、年は十六」と返事があり、ムメは持っていた手拭いを咽喉の傷に巻いて仮包帯をしてやり、貞吉を袋山の隠れ家へ連れ帰った。彼女らは、其処で水を飲ませ、血だらけの上衣を脱がせ、履物を取ってやると、代わりにムメの山着物を着せ、山袴をはかせて箪笥と布団の陰に隠して、三日三晩、彼をかくまって介抱したという。
ところが、ついに其処へも新政府軍の兵が来て「敵(会津兵)がおらぬか」と家捜しするので、貞吉を袋山にかくまっておくのが困難になり、佐平と印出ハツは彼を連れて塩川方面へ潜行することにした。その途中で佐平はハツに貞吉を託し、自分は袋山へ引き返した。
そこからは、貞吉自身の回想に繋がるが、渡部氏所蔵の古文書によると、最後に避難したのは喜多方の入田付村山中の不動堂であったらしい。其処には貞吉と印出ハツ、それにハツの叔父の三人で会津降伏後の九月二十五、六日頃まで隠れていたという。平成十一年、この入田付沼尻の不動堂前に、子孫の方々によって「蘇生白虎隊士 飯沼貞吉ゆかりの地」碑が建てられた。

 飯沼貞吉救出の秘話は、本人の回顧談により、『印出ハツによって救われた』というのが長年定説になっていた。ムメの話が(部分的にでも)真実であるなら、貞吉は何故、渡部佐平とムメのことを語らなかったのだろうか。
まず考えられるのは、記憶の消失、である。自刃後救出されてから傷が癒えるまで、貞吉は何度も人事不省に陥っている。その為、当時の記憶がところどころ失われ、傷が落ち着くまで傍に居た印出ハツの存在しか思い出せなかったのではないだろうか。また、印出ハツも、傷の治療を最優先と考え、思い出せないでいる彼に佐平達のことをあらためて語らなかったのかもしれない。 ←「渡部家文書」は、当サイト内『史料』に現代語訳を載せています。

飯盛山に現れた盗賊の存在については、最初に書かれた白虎隊自刃十九士の伝記とされる二瓶由民『白虎隊勇士列伝』(明治二十三年発行)にも記述がある。
が、後に出版された白虎隊に関する書物は、盗賊のことには一切触れていない。やはり、藩(国)に殉ずべく自ら生命を絶った少年達が、その死後新政府軍側ではなく地元の盗賊の被害に遭っていたとは考えたくない…といった哀切の念が働いたのだろうか。

しかしながら唯一つ、白虎隊士の遺族を訪ね、飯沼貞吉の口述に基づいて書かれた『白虎隊事蹟』(中村謙著、明治二十七年発行)に、盗賊らしき男の存在が窺える。「飯沼貞雄君事蹟」によると、印出の老婦(ハツのこと)によって救出された貞吉は、最初に運び込まれた炭焼小屋で傷の痛みに苦悶しつつ薬を得る為に一旦山を下りたハツが戻るのを待っていたが、冬木村の只蔵と名乗る人足が炭焼小屋にやって来て、貞吉の様子を探り、城の方へ行き助けてくれる者を捜して来るので何卒用心の為に御身の大小(刀のこと)を暫しお貸し下さいと言ったので、貞吉は苦痛のあまり何の思慮もなく貸し与えた上、この戦乱の中で人を雇うにも金が要るだろうから幾らかお預かりしたいと言われ、同国人であれば偽りは申すまい…と、持ち合わせの金をも人足に渡したという。その男は戻らず、やがてハツが少々医術の心得がある義弟(夫・新蔵の弟)を連れて炭焼小屋に戻って来て再び介抱したが、山の中では飲食医薬に支障をきたすので、小田付村の病院へ貞吉を伴おうと塩川方面に向かうことにした。塩川近辺の村で、敵兵の掠奪に遭った村民達に敵と間違われて取り囲まれ、難儀しながらも、塩川村の名主の計らいで近江亭(近江屋)にて医師(町医者、長岡藩の軍医)の手当てを受けることができた。その後の経緯は定説とほぼ同じだが、上記の記述より、『白虎隊事蹟』が書かれた明治二十〜二十六年頃、貞吉は盗難に遭ったことを著者の中村謙に語っていた事が判る。盗賊がいつ、何処に現れたのかは史資料により差異があるが、当時貞吉は奇跡的な蘇生を遂げ、意識朦朧とした状態で、幾度も人事不省に陥ったこともあり、渡部家の人々のことと同様に、はっきりと思い出せなかったのではないか。とにかく、複数の史資料に記されていることから、盗賊の存在は信憑性が高いように思う。

『会津史談』第79号の花見詮氏の記事によると、会津藩降伏後、貞吉は塩川下遠田村の星初太郎(西郷頼母邸の中間だった人)の宅にて静養させてもらっていた。当時、母や祖母、弟の関弥ら飯沼の家族が塩川の謹慎所に居た事を考えると、塩川での静養は納得がゆく。案内したのは初太郎と面識のあった飯沼家の若党藤太で、貞吉は主屋の奥座敷に匿われ、星家の家族の方がこっそりと食膳の差し入れをしていたという。世話になったお礼に、貞吉が置いていったとされる大刀が、今も星家に保存されているそうだ。また、星初太郎は西郷頼母の信頼が大層厚く、一時は頼母の養子になり、西郷太郎と改名していたとのことである。花見氏の説を裏付けているのは、恐らく平石弁蔵『會津戊辰戦争』に収録されている河原翁談であろう。河原翁とは、会津藩士・河原善左衛門の子息の河原勝治で、十月三日に亡くなった叔父を埋葬した翌日、塩川の西、下遠田村に落ち着いた際、咽喉に白い包帯をした貞吉に会ったという。勝治は飯盛山の話を聞こうと思い、後日再び貞吉に会いに行ったが、貞吉は既に猪苗代に移った後で不在だったとの記述がある。(←會津會雑誌32号所載「戊辰會津戦争回顧談(二)」にも記載あり)

いずれにせよ、会津藩降伏後、貞吉は塩川で静養中に家族と再会したのち、猪苗代の謹慎所に向かった。そこで同じ白虎隊生存者に飯盛山での出来事を話したとも言われ、明治四十一年発行の佐瀬三余編纂『飯盛山白虎隊列伝』に「まえがき」として収められるはずだったのが、何故か別の序文に置き換えられ、収録されなかったらしい。何か問題があったのか、最近の研究・解説書にもその件については触れられていない。

長州滞在の可能性

猪苗代到着後しばらくの消息は本人が寡黙だったこともあり、はっきり判らないが、長州藩士の楢崎頼三(与兵衛)が長州に連れ帰ったという話がある。会津戦争直後に貞吉と出会った楢崎は、彼が飯盛山で自刃しようとしたものの死にきれずに蘇生し、救出されたことを恥じて悶々と日々を過ごし、殆ど外出もせずにいることを知った。傷ついた少年の心を哀れんで、彼を長州の実家(現在の山口県美祢市厚保に在った)に伴ったという。貞吉は一室を与えられ、其処で勉学に励み、楢崎は彼の生活万端の面倒を見た。
貞吉が滞在した部屋は、後に佐藤内閣の文部大臣になった高見三郎氏が少年期の勉学の場として間借りしていたことから、高見氏の実兄や祖母(楢崎家の奉公人であったという)を通じて、この話が郷土史家に伝えられているそうである。
楢崎頼三が長州に伴った会津の少年が飯沼貞吉であったという確証はないが、他にもこんな話が残されている。
「楢崎は凱旋の時に馬に乗って来たが、轡をとる十五、六歳の少年がいた」
「楢崎の凱旋祝いの席で、ある村人に『お前も戦争に負けて此処に来たのだから、さぁ呑め、呑め』と言われ、顔色を変えて自刃しようとした」
「楢崎は、その少年を『サダさぁ』(サダさん)と呼んでいた」等々。

楢崎頼三は明治三年六月にフランスへ留学し、現地で病を得て明治八年にパリで病死(墓はモンパルナスにある)。貞吉とのことについては何も書き残していないので、真相は不明のままだが、当時貞吉は会津に居るのが辛かったと思われるので、楢崎について行ったとしても不思議ではないし、また、後に電信技師となった貞吉の最初の赴任先が赤間関(山口県下関市)であったことから、何か縁があるように思えてならない。

結び

その後、貞吉は貞雄と改名し、静岡の林三郎の塾(静岡浅間神社の近辺に在ったらしい)に入り、後の海軍大将・出羽重遠らと共に学ぶが、明治五年に工部省技術教場(東京)に入所、電信技師となり、同年十月五日には赤間関に赴任。その後、国内各地での勤務を経て、明治十八年に工部省が逓信省に変わった時には新潟に勤務。明治二十四年、広島電信建築区電信建築長に就任、二年後には東京郵便電信局勤務となり、翌二十七年、日清戦争の為、大本営付となった。また、明治二十五年六月十八日付で戸籍訂正し、生年を真実の安政元年に改正している。
彼が白虎隊について多くを語ることはなかったが、技師として日清戦争に従軍、弾丸が飛び交う中、手槍一本携えて電信を敷設した。その時、危険だからとピストルを持参するよう促した者に、「私は白虎隊で死んでいるはずの人間です」と言って笑ったという。(←詳細は当サイト内『史料』の「飯沼貞雄翁の電信線架設に就いて」を参照ください)
明治三十八年、札幌郵便局工務課長となり、四十三年に仙台逓信管理局工務部長に就任、日本の電信電話の発展に大きく貢献した。
長身で、鼻が高くはっきりした顔立ち、スーツにネクタイ姿がよく似合った彼は、英国人の電信建築顧問と並んでも全くひけを取らず、外国人が二人並んで歩いている、と言われたという。
仙台市の自邸の庭に、貞雄は札幌から持って来た柏の木と、会津地方特産の身不知(みしらず)柿の木を植えている。この柿の木にこそ、貞雄の会津への郷愁と先に逝った友や親族への想いが込められているのではないだろうか。彼が二度と再び会津の土を踏むことはなかったとか、晩年は会津人との係わりを一切拒んだとかいう人がいるが、それらが事実でないことは明白である。二十四歳で亡くなった長男の墓は両親や先祖代々と同じ会津にあり、會津三園會のメンバーであった彼は同じ会津人の秋月満志子女史に和歌の指導を受けている。(←貞雄氏がまとめた詠草が飯沼家に保存されており、ご厚意にてコピーをいただきましたm(_ _)m)
昭和六年二月十二日、仙台にて永眠した彼の墓は同市内の輪王寺にあるが、「死後若し形見のものを会津の方へ持って葬りたいという話があったら、これをやれ」と、次男・一精氏に髪と抜けた歯を収めた箱を渡して遺言。昭和三十二年九月、戊辰戦争九十年祭の時、飯盛山に彼の墓碑が建てられた。唯一蘇生したことを恥と考え、辛く苦しい人生を生きた彼も、此処でようやく自刃した仲間の許に帰り、十五歳の少年に戻れたのだろう。
実際彼は、飯盛山で自決した白虎隊士達の壮烈な最期を後世に伝える天命を受け、唯一人この世に残されたのかもしれない。

往年、彼が詠んだ歌、三首

皇太子殿下の飯盛山行啓をききて
「日の御子の御かけあふきて若桜 ちりての後も春を知るらん」

祝 節子姫
「よろこびをかわすことばにどよむらん いいもり山の苔の下にも」

往時如夢
「すぎし世は夢か現(うつつ)か白雲の 空にうかべる心地こそすれ」



参考文献: 平石弁蔵『會津戊辰戦争』、宗川虎次『補修 會津白虎隊十九士傳』、中村謙『白虎隊事蹟』、神崎清『少年白虎隊』、秋月一江『飯沼貞吉救助の実証を追って』(『会津史談』第50号に収録)、中村彰彦『白虎隊』、金山徳次『札幌にいた白虎隊士 ―飯沼貞吉―』、堀田節夫『帰る雁が祢 私注』、NHK取材班『白虎隊 生死を分けた二日間』(『堂々日本史』第3巻)、二瓶由民『白虎隊勇士伝』、戊辰戦争120年記念出版『会津白虎隊』、宮崎十三八『少年白虎隊』、前田宣裕『会津戦争の群像』、小桧山六郎編『会津白虎隊のすべて』、花見詮『白虎隊士自刃蘇生者飯沼貞吉の生涯 ―塩川での治療と静養を中心に―』(『会津史談』第79号に収録)、飯沼孤舟(貞雄)『會津三園會 詠草』、芳山史哲『飯沼貞雄翁を訪ふ』(『新東北』第17巻190号に収録)、一坂太郎『長州奇兵隊』、田村哲夫編『防長維新関係者要覧』

*長州藩士・楢崎頼三については、当サイト内『関連人物紹介』を参照ください。



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