2001年1月13日〜14日
レポート : 沖田冴月
昨年の長州・土佐の史跡巡りに続いて、新世紀の幕開け記念は壬生探訪です。
2年前のやはり1月、新選組話が盛り上がった我々は、地元の吉田の案内で新選組が最初に屯所とした壬生の八木邸を訪ねた事がありました。
場所は吉田が熟知していたので下調べをせずにいったのですが、『新選組血風録』のリメイク作品がTV放映された後だったこともあってか、期間限定で特別公開中という幸運に与りました。そのしんとした空間を今でもはっきり覚えております。
さて、寄ると触ると風を巻き起こし、なにやら起る我ら2人の珍道中、今回は何が待ち受けているのでしょうか。
週中頃からの寒波がますます激しくなり、雪が降るのではと言われた土曜日の昼過ぎ。烏丸で落ち合った我々は、すぐに壬生の屯所へ向かうべく大宮へ移動、ここから徒歩で新選組の面影を追ってゆきます。まずは本命の壬生屯所跡・八木邸です。駅から約10分ほど、古い街並を留めた静かな通りに鶴屋という御菓子屋さんが見えまして、八木邸はその横の私道を入った所にあります。
現在も八木家の御当主一家がお住まいですので通常は非公開、今回は外観だけを拝見するつもりでした。ところが、路地のとりつきに建てられた『新選組遺蹟』の隣には『新選組屯所 公開中』のお知らせが。これは運命の思し召しとばかり、喜んで伺いました。
拝観料は、係員の解説付き見学にお茶とお菓子がついて1000円。これは2年前と変わりません。案内して下さるのは、京都の歴史/文化を守ろうと言う有志の団体の方だったと思うのですが、この度は笑顔の優しいK氏に御案内頂きました。
この八木邸は長屋門と玄関の式台がみられますが、K氏の解説ではこれは武家屋敷の造りで、武家以外では郷士にしか許されなかったそうです。元々八木家は、織田信長に桶狭間の戦いで敗れた戦国大名の浅井氏の末裔でいらっしゃるそうで、家紋が記された箱もこちらで拝見出来ます。
公開されているのは本邸で、主に芹沢鴨の一派が使用しており、後に新選組の主流となる近藤、土方らの試衛館一門は離れを使っていたそうです。離れそのものは既にないのですが、その跡地にあるのが前述の御菓子処の鶴屋さん。当時は庭も現在の2倍ほどで、周囲は壬生菜を栽培する畑であったとか。遮るものが殆どなかったので、八木邸からは北は二条城、南は島原の灯が見えたそうです。
この玄関を上がった間に不思議なものが吊るされています。よく時代劇の捕り物シーンで、野党や狼藉ものを取り押さえる道具がありますが、それらと弓が平行に並ぶように造られています。ただ、先端の鉄製の部分は戦後、国の命で切り取られてしまったとか。これは決して実際の捕り物の為ではなく、一種の魔除けだそうです。玄関から入ってくる魔は、この下を通る事で祓われるとのこと。
本間には新選組ファンの方が造られた一刀彫りの近藤勇像が置かれ、今回は特別公開ということで、この像だけは撮影が許されていました。どっしりとした見事なもので、造られた方の新選組に寄せる熱い想いが伝わってくるようでした。
この本間で休んでいた芹沢鴨一派が、試衛館一門に暗殺されたのは有名なお話。腕のたつ芹沢は斬り付けられながらも果敢に応戦し、廊下に飛び出し隣室へ向かったということで、廊下の柱と隣室の鴨居に刀傷が残っています。柱の傷は随分と多くの方が触ったので、今では角が取れてしまっています(子母澤寛も触ったかもしれませんね)が、鴨居の方はさすがにざっくりと切り込まれた跡が見えます。130年近く前、血まみれになった芹沢が逃げまどい、血飛沫のついた刀を構えた土方、沖田らがじりじりと迫って行った、その場所に自分が立っているのはなんとも不思議な気持ちです。鳥の声とK氏の柔らかな声以外は何も聞こえず、ただ冬の昼下がりの冷えた空気がしんしんと我々を囲んでいました。
八木邸は京都の古い家が持つ独特の雰囲気と、その精巧かつ頑丈な建築技術を今に伝えるだけでなく、”新選組”の名の元、夢を語り、理想に燃え、心を熱く滾らせ、幕末を駆け抜けた若者達の残照を垣間見せてくれる場所でもありました。
ゆったりと見学を終えたら、鶴屋さんへ。こちらでお抹茶と壬生名物(?)屯所餅を頂きました。屯所餅、というのは柔らかな餅生地の中に壬生菜の入った餡餅です。あっさりした甘味の美味しい御菓子です。
この八木邸の通りを挟んだ向いに、前川邸があります。こちらも後に隊士が増えた頃に分宿し、屯所として使用されていました。現在は『田野製袋所』とあり、非公開です。前川邸には切腹前の山南敬助と、恋仲だった明里が格子窓越しに最後の別れをしたという逸話がありますが、今はその格子窓はありません。
この前川邸の左側の通りをまっすぐ200メートルほど行くと、左手に光縁寺というお寺があります。ここは山南敬助ほか、新選組隊士の墓碑が祀られています。お寺の正面門の前に『新選組之墓』と彫られた石碑があるのですぐに解ると思います。
墓碑は三基あり、尤も右にあるものが山南敬助のお墓。それぞれに連名で隊士の名前が彫られています。少し剥落しかけていた墓碑に、時の流れを感じました。その三基の右側に少し小さめのお墓があり、これは沖田氏縁者の墓、となっています。沖田の謎の一つとされるこれは、彼の想い人のものであるなど諸説が語り伝えられています。
こちらの本堂には、現在は絶版で手に入らないような新選組/幕末関係の史料本が多くあり、自由に閲覧できるように配慮下さっているので、思わず時間を忘れて拝読致しました。
さて、次はもと来た道を辿り、八木邸の前を過ごして壬生寺へ。
こちらは子母澤寛の『新選組始末記』に、八木為三郎老人の話として紹介されていますが、沖田総司が近所の子供達と鬼ごっこや隠れんぼをした場所だそうです。他にも大坂力士との乱闘の後、彼らと和解し、壬生での相撲興行を行った場所でもあります。
元々は地蔵院、宝憧三昧寺と言い、壬生寺は通称だったそうですが、現在はこれが正式名になっています。壬生狂言で有名ですね。
正門から入って右手側、水かけ地蔵とあみだ堂の間を抜けて、小さな池にかかる橋を渡ると壬生塚。新選組隊士のお墓があります。一番に目を引くのはやはり近藤勇の胸像でしょう。右手には『新選組顕彰碑』が建てられています。
見落としがちなのですが、壬生寺と通りを挟んで新徳寺というお寺があります。こちらは清河八郎が江戸から到着した日に浪士たちを集め、『我が真意は将軍警護にあらず、尊王攘夷である』と発表した場所だそうです。正門前に『新選組発祥地』という石碑があります。
壬生寺を一巡りした後、いよいよ新選組隊士がよく通った(?)島原へ。
古い町家がそのままあるかと思えば、最新式の2階建てアパートが立ち並ぶ、といった風景を少し外れ、道と道とが交差するそこに島原大門が建っています。
島原、つまり花街。新選組隊士も贔屓の太夫や天神を持っていたそうですが、特に池田屋騒動の後、働きのあったものには報奨金が出たので羽振りよく遊んだとか。もちろん、現在は普通の住宅やお店が並んでいますが、当時はさぞ華やかであったでしょう。それにしてもこういうものが当然のように街中に残っているのは、さすが京都という感じがしますね。
さて、花君太夫に会いに土方歳三もくぐったであろうその大門を通り抜け、まず輪違屋へ。島原には置屋と揚屋の2種類があって、輪違屋は置屋だったそうです。今はひっそりとしていますが、当時は美しくこしらえた太夫達が想い人、贔屓の旦那衆からのお声掛かりに備えていたのでしょうか。もしあの扉をくぐったら…。幽玄の世界から美しくも哀しい瞳をした女性達が、静かに手招きをしていたかもしれません。
輪違屋からさほど遠くなく、角屋があります。こちらは揚屋、つまり太夫や芸妓をかかえず、置屋から彼女達を呼んで宴会を催した場所です。
新選組との関わりで最も大きい逸話は、芹沢鴨一派の暗殺事件。その日、隊の宴会がこの角屋で行われ、泥酔して戻った芹沢一派は暗殺されたのでした。敷地が広く、なるほど旦那衆が派手に遊んだ名残りが伺えます。因にこちらは『新選組の云々』ではなく、『長州藩志士 久坂玄瑞密議の角屋』なる石碑が建っております。久坂殿もかなりお遊び召されたようで…(笑)
最後は西本願寺へ。隊士が増え、壬生の屯所では収まりきれなくなった慶応元年に、この西本願寺の集会所に屯所を移したそうです。集会所は600畳敷の広さで、普段は使われなかったそうです。現在は姫路市の本徳寺の本堂として移転、再築されているそうです。それにしても広いこと、広いこと。さすが本山だけあるなぁ、と妙な所で感心してしまいました。件の集会所が敷地のどこにあったのか、はっきりは解りませんでした。西の方へと急ぐ陽を背に密やかに佇む本堂は、当時もこうして彼らを見ていたのでしょう。
この日も伏見の吉田宅へお邪魔した沖田、酒杯を片手にまたもや夜明け近くまで協議・密談(笑)酔いと共に今回は久坂殿の暴露ネタで大盛り上がり。
翌日、寝ぼけ眼の沖田は叩き起こしてくれた吉田に連れられて、伏見の街へとくり出します。
近鉄線の桃山御陵前駅で下車、そのまま真直ぐゆくと商店街が開けて来ますが、ここは元の伏見奉行所近く。つまり鳥羽・伏見の戦いで新選組が陣営を張った辺りなのです。有為転変をまさに目の当たりにした思いでした。
この商店街を抜けて左へ折れ、しばらく行くと今度はこぢんまりとした商店街にあたります。その名もなんと竜馬通り。昭和の頃を偲ばせる、個人経営の商店が細い路地を挟んで立ち並びます。古い家屋をそのまま利用しセンスよくまとめた喫茶店や、祖父母の時代から継いでいます、といった風情のお漬け物屋さんなど、なんだか懐かしい場所に迷い込んだような雰囲気。目玉はなんといっても”竜馬寿司”(笑)お味のほどはまたの機会に、そのまま進みます。
この竜馬商店街を抜けた広い通りを右に折れ、しばらく行きますと、寺田屋が見えます。そう、かの坂本龍馬が常宿とし、おりょうさんとの恋物語でも有名な舟宿です。現在も当時のままで、しばらく前までは変わらず旅館として泊まる事も出来たそうですが、今は見学のみとなっています。磨き込まれた床や階段は当時から変わらないのでしょうか。2階はそれぞれ花の間、松の間と名前があり、龍馬や関わりのあった人々の書画他が展示されています。また、1階には危険を察知したおりょうさんが裸のまま飛び出し、龍馬に危険を知らせたという逸話で有名なお風呂があります。
さすがに床のたわみや柱の傾斜がそれとわかるほど見て取れ、できればこのまま残ってほしいと思わずにはいられません。江戸時代の舟宿は大概こういう作りなのか、とあれこれ思いを巡らしながら拝見させていただきました。
伏見にはこの他にも歴史的な建物が多く残っています。この街並には今後も変わる事なく、静かに時を見つめていてほしいものです。
名残惜しくも今回の探訪はこれまで。
また、機会があれば訪ねたい所ばかりです。新選組に限らず、幕末と言う短くも激しい時代を駆け抜けた人々への哀悼と憧憬を抱きつつ、晴れ上がった空の下、京都を去りました。
古の王路に風花散らし過ぐ 追風(おいて)に君が残り香をきく (霽月)
注:文中の逸話及び史蹟解説には八木邸で御案内下さったK氏のお話、壬生寺発行の小冊子(1冊250円、寺務所にて購入出来ます)も参考にさせていただきました。
改めてここで御礼申し上げます。 (沖田冴月)