鳥羽・伏見・淀



【モデルコース】
京都駅→(近鉄電車)→竹田駅…徒歩20分…小枝橋
「鳥羽伏見戦跡碑」…徒歩2分…鳥羽離宮跡公園「鳥羽伏見戦跡碑・小枝橋碑」…城南宮バス停→(バス7分)→国道下鳥羽バス停…徒歩10分…法伝寺「戊辰東軍戦死碑」…徒歩7分…悲願寺墓地「戊辰役東軍埋骨地碑」…徒歩3分…国道下鳥羽(バス停)→(市バス、中書島・横大路車庫行き)→中書島(バス停)…徒歩3分…京阪電車・中書島駅→(京阪電車)→淀駅…徒歩20分…「愛宕茶屋東軍戦死者埋骨地碑」…徒歩10分…妙教寺「戊辰之役東軍戦死者之碑」…徒歩20分…八番楳木(うめのき)戦場跡「戊辰役東軍西軍激戦之址碑」「戊辰役東軍戦死者埋骨地」慰霊碑…徒歩20分…「光明寺跡東軍戦死者埋骨地碑」…徒歩5分…京阪電車・淀駅→(京阪電車)→伏見桃山駅…徒歩10分…「会津藩駐屯地跡」…徒歩10分…近鉄・桃山御陵前駅→(近鉄電車)→京都駅



■鳥羽・伏見周辺

京都駅から近鉄電車で竹田駅下車(急行が停車します)、南口から西に出て、南方面(城南宮方面)へ向かいます。城南宮までは案内板が目印になるので、それに従って進み、城南宮に着いたら社の向こう側に出て、国道1号線を渡ります。(横断歩道がないので、車が来ていない事を確認して横断…ではなく、近くの歩道橋を利用しましょうね)
渡り終えたら、そのまま真直ぐ西へ進みます。3分も歩けば、
小枝橋です。右手に「鳥羽伏見戦跡碑」「小枝橋碑」が建っています。




橋は渡らずに、その前の通りを左手に少し行くと、鳥羽離宮跡公園があります。公園内にも、明治4年建立の
「鳥羽伏見戦跡碑」がありますが、これは新政府軍側による説明文なので、公平な解説とは言えません。そのすぐ傍に「小枝橋碑」「鳥羽・伏見方面戦闘図」があり、此方は後年京都市が建てたもので、解説文も極めて公正なものです。この小枝橋で対峙した幕府軍(東軍)と新政府軍(西軍)は、薩摩軍がアームストロング砲を発砲した事から戦闘となり、戊辰戦争の幕開けとなってしまいました。


鳥羽離宮跡公園にある、鳥羽伏見の戦いの布陣図と案内。



再び国道1号線に戻り、城南宮バス停からバスで国道下鳥羽まで行きます。バス停3つなので、健脚な方は歩いても平気でしょう。バスを降りたら、国道に沿って南へ歩き、次の交差点を右に曲がります。そのまま真直ぐ進むと鴨川の堤防に出ます。その前の通りを左折すると、すぐに法伝寺があります。このお寺の門前でも、激しい戦闘があったそうです。境内の囲いがされたところに、「戊辰東軍戦死之碑」(慰霊碑)が建っています。


元来た道を戻り、バス停に程近い場所に、悲願寺墓地があり、「戊辰役東軍戦死者埋骨地碑」が建てられています。



■納所・淀周辺

国道下鳥羽バス停からバス(中書島・横大路車庫方面行き)に乗り、中書島下車、そこから歩いてすぐの京阪・中書島駅から京阪電車で淀駅へ。競馬がお好きな方ならよくご存知の、京都競馬場があるところです。
淀駅は2008年初頭現在、高架工事中の為、京都方面と大阪方面のホームが離れているので少々判り難いかもしれませんが、京都方面側ホーム近くの本町商店街を抜け、広い通りを交差点のあるところまで行き、横断歩道を渡ると、左側の広い道路ではなく右側に伸びる細い道を進みます。そのまま真直ぐ行くこと20分ばかりで(途中で桂川の堤防沿いに出ます)、
愛宕茶屋東軍戦死者埋骨地に着きます。その名の通り、かつてはこの鳥羽街道沿いに茶屋があったそうです。
隣に金井病院バス停がありますが、この停留所の名前は「納所(のうそ)岸ノ下戊辰役碑」というのですよー。鳥羽街道(下記の写真左)沿いにあり、バス時刻表(写真右)の左隣です。


来た道を戻る途中にあるのが、妙教寺です。境内に榎本武揚筆「戊辰之役東軍戦死者之碑」が建っています。


本堂には、砲弾が貫通した柱が保存されています。

当時の住職が、寺を改築することはせずに後世に歴史を伝えよ、と弟子に言い残されたそうです。写真を見ていただければ、砲撃で傷んだ昔の柱を覆う丸柱の一部を刳り貫いて中が見えるようにしてあるのが判りますが、この板状の四角い部分(写真では取り外した状態)の裏側に住職の言い伝えが書かれていて、そのまま丸柱に嵌め込めるようになっています。

 


淀藩士の位牌(上の方にある上等なのは家老だそうです)が並ぶ中央にある穴が開いている箇所が「砲弾飛込口」。
右の写真は、愛宕茶屋跡と八番楳木(千両松)での戦死者位牌。

 



妙教寺を出て、大きな交差点(府道13号線、旧京阪国道)を渡り、今度は左斜め前に伸びる細い道を進みます。これが府道三栖納所(ふどうみすのうそ)線(府道124号線)です。右手には京阪電車の線路、その向こうに京都競馬場の建物が見えるはずです。競馬場の端まで来た辺りに、八番楳木(うめのき)戦場跡があります。此処は、淀千両松とも呼ばれ、周辺に東軍の陣が敷かれていました。慶応4年正月5日、佐川官兵衛率いる会津別選組、土方歳三率いる新選組、遊撃隊等が伏見から追撃してくる西軍を阻止しようと、激しい戦争が繰り広げられました。激戦の結果、東軍西軍とも夥しい死傷者を出したそうです。選りすぐりの弓馬槍刀の使い手40名で編制された精鋭部隊の別選組は、『會津藩戦死殉難者人名録』(加藤長四郎編、明治44年)で確認したところ、17名の戦死者の名が掲載されています。

 

鳥羽伏見の戦い時の住職(十六代)以来、妙教寺では代々の住職が毎年お墓参りをされているそうです。(現在の住職は十九代)

左の写真は、石碑近辺の風景。

昭和45年、競馬場拡張工事の為に此方の東軍戦死者埋骨地の慰霊碑を動かした際、この辺りに新選組隊士の幽霊が出たそうです。事故が多発し、夜になると元の場所に戻せと繰り返し訴える隊士の霊が現れるので、妙教寺さんに頼んで盛大な供養を行い、慰霊碑を元の場所に戻して墓所を整備したところ、幽霊はふっつりと出なくなったのだとか。(←『新選組と幕末の京都』ユニプラン編集部より)
慰霊碑やお墓の前では、亡くなられた方々のご冥福を祈り、静かに手を合わせたいものです…。



同じ道を戻り、踏切を越えて競馬場の方へ向かうと、砂利を敷いた空き地の中にお地蔵さんがあります。其処が光明寺跡で、お地蔵さんの隣に「東軍戦死者埋骨地碑」が建っています。

まだ余裕のある方は、バスが通っている通りまで戻り、南へ真直ぐ行くと、大専寺、文相寺、長円寺、東運寺それぞれに
「東軍戦死者埋骨地碑」がありますので、見て廻られるとよいかと思います。



■再び、伏見

京阪電車・淀駅から再び京阪電車で伏見桃山駅へ(普通のみ停車)。伏見桃山駅から南西に向かって徒歩10分くらいのところに、伏見幼児園があります。此処は本願寺の別院(伏見御堂)があった場所です。




慶応4年1月2日、会津藩の先鋒隊約200名が大坂から船で伏見京橋に上陸、此処を宿陣としました。このすぐ近くに幕府軍や新選組が詰めていた伏見奉行所があり、現在は碑のみ残されています。

お帰りの際は、もと来た道を戻り、近鉄電車・桃山御陵前駅(京阪・伏見桃山駅のすぐ近く。東へ1分くらい)から近鉄電車で京都駅へ。



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