奥平謙輔 (おくだいら けんすけ) |
奥平謙輔居正/ 1841(天保12年)−1876 (明治9年)/ 長州藩士 / 雅号:弘毅斎
1841年(天保12年)1月21日、長州藩士・奥平清兵衛の五男として萩城下土原に生まれる。役職は馬廻役。八組、大組士で家禄九十四石五斗。藩校明倫館で学んだが、少年時代から強烈な個性の持ち主で、教師を困らせることも屡々あったという。
慶応4年に戊辰戦争が始まり、干城隊(かんじょうたい:上士から成る部隊)の参謀として北越方面に出征。奇兵隊、報国隊と共に長岡、新発田、新潟を転戦、平定した後、坂下(ばんげ:会津若松の北西約三里、現在の会津坂下町)に進攻したところで会津藩降伏の報に接した。降伏を申し入れてきた会津軍の将が旧知の会津藩士・秋月悌次郎であったことを知り、9月24日、猪苗代に謹慎中の秋月宛に手紙を書き送る。その内容は、会津藩と敵対し戦わなければならなかった不幸を嘆き、会津藩の徳川幕府に対する忠義を讃え、今後は朝廷の為に尽くして欲しい、といったもので、手紙を受け取った秋月は謙輔を理解者として見込み、越後に居る謙輔を密かに訪ね、藩主父子の助命や会津藩士の将来について頼んだ。謙輔は秋月の期待に応えるよう努力すると約束し、さらに二人の会津少年を書生として預かった。
明治元年11月、越後府権判事参謀という役に就き、民政実務を担当する為、佐渡へ向かうが、明治新政府のやり方は謙輔が思い描いていたものとは異なっていたようで、明治2年8月、佐渡を離れた。
明治9年8月、政府に不満を抱く萩の士族と共に、朋友・前原一誠を首領として「萩の乱」を起こすが敗走。12月3日、萩の獄にて斬罪に処された。享年36歳。
奥平謙輔は吉田松陰門下ではないが、彼が学んだ明倫館では松陰の遺著を生徒に読ませ、尊皇攘夷を唱えて藩内の団結を図っていた。しかし、藩が松陰を「尊皇攘夷」の象徴として祭り上げていることに疑問を感じた謙輔は、松陰を利用する藩政府を批判する漢詩を作っている。
読松陰遺稿有感
到身誓欲掃妖気 一夕夢迷東海雲
今日和親非宿志 当年尊攘所嘗聞
為収鷹犬姑容彼 何料豺狼反噬君
諒否平生相愛意 欲将遺稿付坑焚
松本健一著『秋月邸次郎』より書き下しと大意を引用 :
松陰遺稿を読みて感有り
身を致し誓って妖気を掃(はら)わんと欲す 一夕夢迷、東海の雲
今日の和親、宿志に非ず 当年の尊攘、嘗(かつ)て聞く所
鷹犬を収める為に姑(しばら)く彼を容(い)る 何ぞ料(はか)らん豺狼(さいろう)の君に反噬(はんぜい)するを
平生相愛の意を諒否し まさに遺稿を坑焚に付さんと欲す
「吉田松陰の遺稿を読んでいたら、彼が海内の妖気を掃わんと一身を致していたことが改めてよくわかった。一夕、東海に船を出してアメリカに渡らんと幻想を抱いたこともあるが、松陰の宿志はついに『尊攘』であり、わが民族の自立であった。『和親』は彼の素志ではない。当今の政治家は尊攘の激徒をなだめ治める為に、しばらく松陰先生などと崇め奉っているにすぎない。実は、貪欲な山犬と狼が先生に噛み付いて、日常において愛読することも忘れ、まさに遺稿を焚書坑儒の刑に処しているにひとしく、驚くべきことである、と」
謙輔は、松陰門下の前原一誠と交友関係にあったので、松陰の思想や性質を前原から聞く機会も多かったと思われる。
会津戦争後、謙輔が旧友の秋月悌次郎から預かった会津少年とは、後に東京帝国大学総長となった山川健次郎と、陸軍大佐になった小川亮の二人である。最初はもう一人いたが、勉学が嫌で脱走したらしい。
山川健次郎と小川亮は、謙輔について佐渡へ渡ったが、明治2年8月に謙輔が佐渡を離れる折、少年達に学業を続けさせる為、東京の前原一誠に二人を託した。山川健次郎は、奥平謙輔から貰った書を生涯大切に持っていたという。
近年、会津若松市長が萩市を訪れた際、奥平謙輔の墓参を希望され、それを実現されたことは、会津と長州の未来を考える上で、心温まる出来事だったのではないだろうか。
参考文献 : 一坂太郎『長州奇兵隊 勝者のなかの敗者たち』、一坂太郎『防長の隠れた偉人たち』、田村哲夫編『防長維新関係者要覧』
Special thanks to : 瑶春さま