久坂玄瑞 年譜
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天保11年 | 1840 | 1歳 | 5月 【日未詳】 長門萩平安古八軒屋に生まれる。名は秀三郎。 寺社組医師久坂良迪の第二子(次兄が夭逝した為。実際は三男)、母富子は長門生雲村大谷忠左衛門の娘であるが、藩士中井氏を仮親として良迪と結婚。 |
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嘉永6年 | 1853 | 14歳 | 8月4日 (9/6) 母富子、死去。 |
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安政元年 | 1854 | 15歳 | 2月27日 (3/25) 兄玄機、死去。それにより、父良迪の嫡子となる。 3月4日 (4/1) 父良迪、死去。 6月9日 (7/3) 家督を相続、知行高二十五石。 6月晦日 (7/24) 名を玄瑞と改める。 この年、兄玄機の盟友中村道太郎の指導を受け、更に僧月性に就き書読を学ぶ。月性より吉田松陰、口羽憂庵に就学する事を勧められる。 この年以前、幼時に吉松塾(吉松淳蔵の私塾。高杉晋作もここで学んでいた)に学び、後に藩校明倫館に入り、その後医師の養成機関である好生館の寮生となる。 |
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安政3年 | 1856 | 17歳 | 3月6日 (4/10) 九州遊歴の為、萩を出発。秋吉台から赤間関を経て豊前、中津、耶馬渓、久留米、柳川、大村、熊本、長崎等を周遊。村上仏山、恒藤醒窓、和田逸平、宮部鼎蔵等を訪ねて時事を談する。 5月下旬 萩に帰着後、土屋蕭海(矢之助)に吉田松陰との面会を勧められ、『義卿吉田君の案下に奉呈す』と題した長文の手紙を松陰に送る。 6月2日(7/3)または3日(7/4)付にて吉田松陰より返書(『評久坂生文』)。持論を批判され、再び松陰宛に書(『再び吉田義卿に与ふる書』を送る。 7月18日(8/18)付の吉田松陰からの返書『復久坂玄瑞書』を土屋蕭海を通じて受け取る。 7月24日 (8/24) 再々の反論、『吉田義卿に与ふる書』を書く。 8月初旬 7月25日(8/25)付の吉田松陰からの返書『再復玄瑞書』をやはり土屋蕭海を通じて受け取る。 11月22日(12/19)付にて月性より詩の批評を受け取り、面会の後月性に師事。 11月26日(12/23)付、中村道太郎より月性の来萩を伝える書を受け取り、道太郎の指導を受ける。同日、月性に近況報告を兼ねて米艦の下田来泊と幕府の洋学館建設に憤慨を表す書を送る。 |
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安政4年 | 1857 | 18歳 | 5月頃 中谷正亮に伴われて吉田松陰を訪ねる。 6月5日 (7/25) 口羽憂庵の辞官に当たり、『送口羽君序』を作る。 12月5日 (1858/1/19) 松陰の妹文(文子)と結婚。この時、松陰は「久坂玄瑞、防長年少第一流人物…」の詩文を文に贈る。好生館の寮より杉家に居を移す。 |
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安政5年 | 1858 | 19歳 | 1月5日 (2/18) 松陰と新年短古三十首を作る。 安芸へ行く松浦亀太郎(松洞)に送序。 1月14日 (2/27) 益田弾正に宛てた書にて尊皇攘夷の急務を訴える。 1月19日 (3/4) 月性に書を送る。 1月〜2月初旬頃、江戸遊学を許可される。 「久坂玄瑞。右、業事稽古のため自力(自費)を以て江戸へまかり登りたく存じ奉り候間、当春出足月より往(さき)三十六ヶ月御暇さし免され下され候やう御断りの趣、願ひの如く御許容をとげられ候事」 2月19日 (4/2) 松陰より「実甫を送るの叙」。また、松陰は久坂の為に森田節斎(頼山陽門下の文学者)、桂小五郎に紹介状を書く。 口羽徳祐、月性らも江戸の諸名士に紹介状を書いている。 桂宛の書簡にて、秋頃に様子次第によって上田藩の桜井純蔵・恒川才八郎(両名とも象山門下で、松陰と面識あり)を頼り、久坂を信州松代の蟄居中の佐久間象山に従学させたい、との一文がある。 2月20日 (4/3) 【作成者注:26日説もあり】 江戸へ向けて出発。 山口を経て、富海(とのみ。三田尻の東にあり、東方への船が出ていた)から乗船、周防熊毛郡阿月(家老浦靱負の知行所)へ。 阿月より松陰宛に書を発す。 更に、岩国、厳島、吉田(広島県東北部、毛利元就の廟がある)を訪れる。次いで備後沼隈郡藤江村に森田節斎を訪い、大和の安元杜預蔵、讃岐の日柳燕石らについて聞く。 この時、久坂は「森田節翁に呈す」漢詩(七言絶句)を残している。 3月13日 (4/26) 大坂にて白井小輔に会う。 3月16日 (4/29) 京都に到着。藩邸内の願就院に宿す。 3月18日 (5/1) 松陰に宛てて大坂・京都の近況を報せる書簡を送る。 3月27日 (5/10) 能美洞庵の申請にて、江戸遊学の為好生館入舎生を免じられる。 在京中、梅田雲浜(源二郎)、柳川星巌(新十郎)らに会い、時事を談ずる。 4月7日 (5/19) 江戸に到着。麻布藩邸に入る。 4月12日 (5/24) 江戸の藩政府より伊藤玄朴の塾に入門するよう辞令。 「松平肥前守様御家来伊藤玄朴に入門仕り直ぐさま彼方へ入込み稽古仕り度き段、願ひの如く御許容を遂げられ候事」 伊藤玄朴の邸は下谷和泉橋通り(現在の神田和泉町あたり)に在った。 4月13日 (5/25) 芳野金陵(立蔵。水戸藩の儒臣)に入門。 4月17日 (5/29) 土屋蕭海(矢之助)に芳野塾について書き送る。 5月10日 (6/20) 京都留守居役の福原與三兵衛宛てに書簡、在京中の好意を謝し、江戸留学の決意を報せる。また、願就院に幾らか荷物(書籍等)を置いたままになっているが、来春までには再度上京するつもりなので預かって欲しいと依頼。 6月朔日(7/11)付の松陰書状にて、月性の死(5月11日)を知る。 19日(7/29)付、28日(8/7)付の松陰からの書状も受け取る。19日付書状は村塾の近況報告。28日付書状にて、黒龍江行きを反対される。 当時、久坂は江戸にて赤川淡水と共に、同藩の大楽源太郎が発議した黒龍江辺りの探索に行こうと考えていたようである。 7月10日(8/19)付、松陰書状にて再び黒龍江視察を反対されるが、当時久坂は赤川淡水と共に京都へ向かう途中であった。 7月18日 (8/26) 京都到着。梅田雲浜の許に滞在。 7月24日 (9/1) 松陰宛に書簡。高杉晋作、尾寺新之允らの東上を促すと同時に、過激な論策をばらまく事の危険性を忠告。←当時、京都では過激な尊皇攘夷論者を取り締まる動きが始まりつつあった。 7月27日(9/4)付の松陰からの書状は、松門より京都・江戸に向かう者多き事を報せる内容。 杉山松介、伊藤伝之輔、伊藤利輔(俊輔、博文)ら6名の京都探索、時山直八の上京、高杉晋作の東上等を報告。 8月4日 (9/10) 江戸遊学の暇を請う書を藩政府に提出。8月21日(9/27)付にて藩政府より許可。 「久坂玄瑞。右、蕃書調所に罷出で洋書研究仕り候やう仰付られ候事」 8月30日 (10/5) 柳川星厳を訪れ、時事を談ずる。 星厳は9月2日(10/8)、病没。 9月初め頃? 京都を去り、江戸へ向かう。 梅田雲浜より送序。 雲浜は9月7日(10/13)、安政の大獄にて幕吏に捕らわれる。 9月20日 (10/26) 江戸に到着。 9月29日 (11/4) 村田蔵六(麹町に鳩居堂という西洋兵学の塾を開いていた。後に長州藩の麻布藩邸に移る)に入門の為、稽古料の下附を請う書を桜田藩邸に提出。←11月8日(12/12)に許可される。 10月20日 (11/25) 松陰宛に書簡を送り、兵庫警衛の急務を述べる。 11月14日 (12/18) 再び松陰宛に書簡を送り、長崎に伝習生を遣わすのを止め、江戸にて銃陣を学ばせるべきとの持論を伝える。 12月朔日 (1859/1/4) 土屋蕭海(矢之助)に書簡、半井春軒(久坂と共に江戸遊学した医生)と共に一旦帰国する事を報せる。←正月下旬頃には再び遊歴を予定していたらしい。 12月11日 (1859/1/14) 高杉晋作らと連名にて松陰に義挙(老中間部詮勝要撃の件)を思い止まるよう書き送る。 12月15日 (1859/1/18) 桂小五郎に書簡を送り、松陰に義挙の中止を諫言するよう依頼。 |
まだまだ続きます…
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