楢崎頼三 (ならさき らいぞう)

 

楢崎頼三(与兵衛)/ 1845(弘化2年)−1875 (明治8年)/ 長州藩士

 

1845年(弘化2年)5月15日、長州藩士(八組士)林源八の二男として萩城下土原梨木町に生まれる。幼名は竹次郎。
元治元年4月、同藩士馬廻り役の楢崎殿衛豊資(ならさき とのえ とよすけ)の養子となり、楢崎家の家督を嗣ぐ。家禄は九十三石八斗六合。

藩校明倫館で学び、文久元年(1861)10月、藩主世子毛利定広の前詰となり、文久3年5月、攘夷実行の為、外国艦隊に砲撃を加えた。元治元年7月、前年に京都で起こった政変(八月十八日の政変)により失脚した長州藩の雪冤を目的に世子定広に従って上洛したが、「禁門の変」が勃発、敗戦を聞き、国許へ引き返した。

慶応元年(1865)5月、干城隊(かんじょうたい:上士から成る部隊)に入隊。慶応2年6月の「四境戦争」では小隊長となり、芸州口で幕府軍(征長軍)と戦い、敵を撃退。翌慶応3年、いよいよ倒幕の軍を挙げた長州藩の第一大隊に所属、京都へ向かう。

鳥羽・伏見の戦の後、慶応4年2月に中隊長となり、東山道先鋒軍に加わり、関東各地を転戦。その後、会津に至り、鶴ヶ城攻囲戦の指揮を執り、9月22日に陥落させ、降伏式にも幹部の一人として参列した。

会津戦争後、猪苗代で謹慎処分となっていた会津藩士と奥羽諸藩の捕虜四百六十余名を東京へ護送する役目を受け、それを果たした後、12月に帰郷。この時、彼は会津の少年を伴っており、書生として面倒を見るつもりだったという。

維新後の明治3年10月、兵部省の命でフランスへ留学するが、結核に罹り、明治8年2月17日、パリで死去。墓碑は今もパリ市内のモンパルナスにある。享年31歳。

 

会津戦争後、楢崎頼三は会津から自分の領地である小杉(現在の山口県美祢市)に連れ帰った少年を「サダさァ」と呼んでいたという。その「サダさァ」が、会津白虎隊の生き残り、飯沼貞吉であったという説がある。貞吉は、城が燃えていると誤認して飯盛山で自刃に及んだ白虎士中二番隊二十名の一人で、咽喉を突いて意識を失ったものの死に切れず、微禄の会津藩士・印出新蔵の妻ハツに救出され、手厚い看護の甲斐あって一命を取りとめた。会津藩降伏後、他の会津藩士達と共に謹慎、許された後は静岡の林三郎という学者の塾に学び、明治五年に東京の工部省技術教場に入り、電信技師となった。
彼が楢崎と出会ったとすれば、謹慎中のことと思われる。幾つかの研究・解説書によると、貞吉が飯盛山で仲間と共に自刃に及んだものの死に切れずに蘇生、救出されたことを恥じて悶々と日々を過ごし、殆ど外出もせずにいることを聞き知った楢崎が、貞吉の心情を哀れんで長州に伴ったのではないか、ということである。証言者は、元文部大臣の高見敬三郎の祖母(楢崎家の奉公人だった)や実兄で、高見氏が少年期に勉学の場として、「サダさァ」こと貞吉が滞在した部屋を間借りしていたことから、この話を地元の郷土史家に話していたという。

楢崎頼三が長州に伴った会津の少年が飯沼貞吉であったという確証はないが、他にもこんな話が残されている。
「楢崎は凱旋の時に馬に乗って来たが、轡をとる十五、六歳の少年がいた」
「楢崎の凱旋祝いの席で、ある村人に『お前も戦争に負けて此処に来たのだから、さぁ呑め、呑め』と言われ、顔色を変えて自刃しようとした」等々。
楢崎自身は「サダさァ」とのことについては何も書き残しておらず、昭和まで生きた貞吉も何も語り残していないので、真相は不明のままだが、当時貞吉は会津に居るのが辛かったと思われるので、楢崎について行ったとしても不思議ではないし、また、後に電信技師となった貞吉の最初の赴任先が赤間関(山口県下関市)であったことから、何か縁があるように思えてならない。また、貞吉の兄と楢崎の実父の名が同じ(源八)という偶然も、無理矢理縁づけてしまいたくなるのだが…(笑)。
いずれにしても、奥平謙輔と同様、楢崎頼三もまた、会津の少年を書生として面倒をみようとしたことだけは間違いないだろう。こういった話は、まだ他にもあるかもしれず、遺恨ばかりが話題にされる会津と長州の関係に温かな光を投げ掛けてくれれば、と思う。


参考文献 : 一坂太郎『長州奇兵隊 勝者のなかの敗者たち』、一坂太郎『防長の隠れた偉人たち』、田村哲夫編『防長維新関係者要覧』、早川廣中『真説・会津白虎隊』
Special thanks to : 瑶春さま

*飯沼貞吉については、別館『白虎彷徨』の「飯沼貞吉伝」を参照ください。


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