永倉新八 (Shinpachi Nagakura)

 

永倉新八(栄吉 諱:載之)
1839(天保10年)〜1915(大正4年)
松前藩脱藩 新選組副長助勤 
番隊隊長 撃剣師範及び小銃頭 / 神道無念流本目録 心形刀流




1839(天保10年)、4月12日、石高150石・松前藩江戸定府取次役の永倉勘次の次男として誕生。他異説あり。
18歳で神道無念流本目録を取得、19歳で脱藩後、4年間は剣技を磨く為に修行、江戸に戻った頃から試衛館に出入りするようになる。
後に彼らと共に上洛、新選組を結成、副長助勤他、幹部として名を連ねることになる。甲州勝沼までを新選組と共にあり、江戸へ帰還後、朋友の原田左之助と共に靖兵隊を結成、各地を転戦の後に江戸へ戻った。旧松前藩藩医、杉村松柏の婿養子となり明治8年に家督を相続、北海道樺戸集治監の剣術師範を勤める。函館及び東京等、新選組に関連した慰霊碑などを建立、『新選組顛末記』(原題『新選組永倉新八』)なる回想録を記し、同志らの鎮魂に務めた。小樽にて病没。享年77歳。





がむしゃらに生きた熱血漢


後に新選組研究に多大なる貢献をしたといわれる回想録『新選組顛末記』は、生きた新選組史として有名である。実際、設立当初からの幹部で維新後も生き抜いた一人であり、発言、行動をした第一人者がこの永倉である。
最も近年、この『顛末記』の信憑性が取りざたされているのは周知の事実である。それは永倉の晩年の回想であり、彼自身が執筆したのではなく、聞き書きであるという点に置いて疑問がなされているからであるが、確かに好々爺とした人物が若い頃の武勇伝を語る、といった風情もなくはない。だが、それは意図的に体制側に有利な歴史を記すのが常であるように、青春の思い出を平和な時期に懐かしく思えばこその記述であったとも言える。

そう、永倉は生き抜いた。77年の生涯を。

松前藩の上士の子弟として、おそらく過不足ない生活をしていたであろう永倉が藩を飛び出したのは、剣術修行という名目と情熱だったという。
幼少時より負けず嫌いだったのか、神道無念流を学ぶにおいて15歳で切紙、18歳で本目録を授かるほどの腕前を誇った。そのまま腕を磨きに出奔してしまうのだから、相当の自信と実力、熱意があったのであろう。
4年後に江戸に戻ってから試衛館を訪なったというのも、『ここは一つ、腕試し』のつもりもあったかと思われる。一説には沖田総司と互角、もしくはそれ以上といわれたそうだから、相当の使い手だったらしい。
それがすっかりと試衛館の雰囲気に馴染んだが、客分扱いとなり、やがては彼らと共に上洛、新選組結成に至った。
その後も副長助勤など幹部として活躍、また、原田らと共に近藤増長に対する建白書を会津に申し入れる等、その意気盛んさと見識をもって活動する。新選組末期に至り崩壊寸前の隊を再編成したのも、実はこの永倉と原田であることは明記すべき事実であろう。しかし、彼の尽力に対し近藤が不用意な一言を発した事で、永倉は新選組との訣別を決意する。その後、原田と共に靖兵隊を結成し、後見であった会津に対しての忠義を貫き、維新の最後までを闘い抜いた。
維新後、松前藩に帰参を許されたが、新選組の永倉ということで命を狙われていたとも言われ、杉村松柏の婿養子となったのも永倉姓を捨てる為だったとする説もある。北海道に渡ったのもまた、彼が新選組であったためとも言われている。

永倉は、数少ない新選組幹部の生き残りとして、維新後をどのような想いで生きたのだろうか。
明治9年、東京板橋に近藤/土方両名及び隊士の名を刻んだ追悼碑を、函館に土方らの鎮魂碑を建立したのを始め、前述の回顧録などを記し、彼らの足跡を訪ね、残そうと尽力した。
甲州勝沼の戦いの後、近藤との意見の対立から新選組を脱した永倉だが、やはり試衛館時代より共に闘った同志を想う気持ちは強かったのだろう。
おそらく、永倉には負い目等はなかった。
例え賊徒と誹りを受けようと、彼はそれに対し堂々と接する事で己を標した。
勝ち負けであるとか、正否であるという見識よりも既に、彼の中には命を賭けた時代が、仲間が誇らしく残っていたのかもしれない。
そして、新選組終焉の地の一つである函館と同じく北海道は小樽で、その激しい生涯を閉じる事になる。
最後まで、その心は少年時代から燃え続けた炎に熱く、強く照らされたままだったと信じたい。

 


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