長岡藩の軍事編成



長岡藩の軍事編成の特徴は、小銃隊を基本とした組織にあるが、これは同盟軍(東軍)には珍しいと思われる。
指揮系統は、
軍事総督大隊長軍事掛銃士隊長銃卒隊長(銃士隊・銃卒隊、各四個小隊)となっている。

・ 身分により、銃士隊(士分)と銃卒隊(足軽以下)に分かれて小隊を編成し、戦闘の際は銃士・銃卒の二個小隊で戦うことが多かったようである。二個小隊での指揮は、銃士隊長が執った。四個小隊で戦闘する場合の指揮官は軍事掛、八個小隊での場合は大隊長。
・ 銃士隊は、隊長・小令・半令(以上、指揮官)各1名、嚮導(先行偵察兵)2名、鼓者(15〜16歳の少年)1〜2名、銃士32名前後からなり、弾薬方、営造方が若干名いた。
・ 銃卒隊は、隊長(士分)1名、小令・半令(いずれも以前の足軽組頭)各1名、銃卒(足軽、中間、町同心など)35名前後、弾薬方、営造方が若干名。
・ 軍装は、筒袖の洋服(黒羅紗)に段袋(ズボン)の洋装。槍隊(安田多膳隊)は烏帽子、鉢金、具足腹巻などを着けて出陣したという。

藩印は、「五間梯子」


・ 長岡藩の銃砲の備えは、東軍の中では秀でていたとみられる。ガトリング砲を二門所有していたのは有名で、慶応3年12月18日には、当時既に藩の実権を握っていた河井継之助が藩士に一挺ずつ行き渡るようミニエー銃を貸与している。『戊辰戦争とガトリング砲』(内山弘著)によると、長岡藩で購入したのはエンフィールド銃ではないかとのことで、同著者は北越戊辰戦争時にはこのエンフィールド銃を元込め式にしたスナイドル銃も長岡藩で使用された形跡がある、と書かれている。



閏4月26日、27日に出陣した長岡藩兵の編成






第一陣の大川市左衛門隊は刀隊、第二陣の安田多膳隊は槍隊。鉄砲で戦うことを嫌い、刀槍での戦いを望んだ藩士たちで編成されたが、銃を肩に背負い、手に刀槍を持つという装備であった。

注)慶応4年3月1日の河井継之助による軍制改革で槍・長刀を主戦兵器とすることを廃止されたことに異議を唱えた藩士たちに応じ、3月5日、藩庁は刀隊・槍隊を各一隊に限り許可。その際、西洋式兵制の小銃隊編成に組み入れることが条件となったため、上記のような装備になった。


閏4月28日、残りの七個小隊が出陣、城下の村々に宿陣。それぞれ受け持ちの村を巡邏。この日出陣した隊は、下記のとおり。

銃士隊長 武作之丞 (砲三門とともに蔵王村へ)
銃卒隊長 毛利幾右衛門 (蔵王村へ)
銃卒隊長 佐野与惣左衛門 (砲三門とともに下条村へ)
銃卒隊長 長谷川五郎太夫 (下条村へ)
銃士隊長 倉澤竹右衛門 (市中近辺を巡邏)
銃士隊長 今泉岡右衛門 (市中近辺を巡邏)
銃卒隊長 稲垣善右衛門 (市中近辺を巡邏)


※ 名簿が残されている隊のみ、下記に記載。


稲垣林四郎隊
閏4月27日、長岡出発の際の隊員名簿。後に、刀隊・槍隊と一部合併、改編となる。
隊長・小令・半令各1名、嚮導2名、銃士30名、鼓者1名、ほか(稲垣林四郎の従者)1名、計37名。

銃士隊長 稲垣林四郎 (7月25日、長岡城下にて負傷)
小令 吉田長蔵 (7月29日、長岡城下にて軽傷)
半令 秋山桃次郎
嚮導 内藤作之助 (9月8日、会津にて戦死)
嚮導 松谷藤次郎
銃士 本間侍学 (7月25日、長岡城下にて軽傷)
銃士 田中兵馬 (7月25日、長岡城下にて負傷)
銃士 森 清次郎 (6月14日、大黒にて負傷)
銃士 荒木浪次郎
銃士 吉田 昇 (7月1日、福井村にて負傷)
銃士 篠原玉蔵 (6月14日、福井村にて負傷)
銃士 本富暢太郎
銃士 山本十蔵 (6月1日、長沢にて負傷)
銃士 大川長之助 (6月14日、大黒村にて負傷)
銃士 神戸菊次郎
銃士 本富財太
銃士 弓削従太郎
銃士 雨宮敬一郎 (9月8日、会津飯寺にて戦死)
銃士 松井松五郎 (9月8日、会津飯寺にて戦死)
銃士 近藤銀六郎
銃士 倉沢多仲 (6月14日、福井村にて軽傷)
銃士 荒木邑之助 (7月25日、長岡城下にて負傷)
銃士 花輪釛蔵 (7月29日、長岡城下にて負傷)
銃士 萩原鎗七郎
銃士 安部金三郎
銃士 石垣浜之助 (7月29日、長岡城下にて戦死)
銃士 神戸直吉
銃士 牧野弘人 (6月14日、大黒村にて負傷)
銃士 中島勇蔵 (6月1日、長沢村にて戦死)
銃士 九里波之丞 (7月25日、長岡城下にて戦死)
銃士 稲葉弥太助(郎) (7月29日、長岡城下にて戦死)
銃士 野村龍太郎 (5月19日、呉服町にて死)
銃士 高井湧輔 (6月14日、大黒村にて負傷、後見附にて死)
銃士 福島友次郎 (6月1日、長沢にて死)
銃士 三浦道之助 (6月2日、福井村にて負傷)
銃士 渡辺織左衛門 (長沢にて編入)
鼓者 向山貞次郎
林四郎従者 市蔵


安田多膳隊 (槍隊)
槍隊編成時の隊員名簿。隊長・小令・半令各1名、嚮導2名、半隊嚮導2名、銃士27名、鼓者1名、計35名。
この隊は朝日山、福井村などで激戦を繰り広げ、隊員数が減少していたので、7月7日、刀隊と合併し、新隊長として稲垣林四郎が着任した。

銃士隊長 安田多膳
小令 千本木林吉 28歳 (足軽組隊長仰せ付けられ、会津にて討死)
半令 横田大助 30歳 (同断隊長仰せ付けられ、顎かすり腕撃ち貫く)
右嚮導 牧野勘兵衛 33歳 (7月2日、大黒村にて討死)
左嚮導 井上貞蔵 34歳 (6月2日、今町にて足撃ち貫く)
半隊右嚮導 吉田正次郎 33歳 (5月13日、朝日山にて左腕より背中へ撃ち貫く)
半隊左嚮導 桑原文左衛門 30歳 (7月29日、討死)
銃士 金津コ之助 30歳 (7月2日、大黒村にて腰より腹を撃ち貫く、加茂にて死す)
銃士 井上勝太郎 29歳 (5月13日、朝日山にて首より背筋へ撃ち貫く)
銃士 牧野錺次郎 29歳
銃士 磯貝久馬之丞 28歳 (6月14日、腕撃ち貫く 7月25日、新保にて討死)
銃士 村越正一郎 26歳 (6月14日、福井村にて
を撃ち貫く)
銃士 千本木幸之助 26歳 (5月13日、朝日山にて足かすり、7月25日、新保村にて腕を撃ち貫く)
銃士 中村藤之助 26歳 (6月14日、福井村にて左の腕を撃ち貫く)
銃士 長谷川誠之助(進) 26歳 (5月除隊)
銃士 中島安四郎 25歳 (6月2日、今町にて討死)
銃士 小林乙三郎 24歳
銃士 三間富三郎 23歳
銃士 山本新吉 23歳 (7月2日、大黒村にてを撃ち貫く、見附にて死)
銃士 柴崎隼太 23歳
銃士 横田轟造 23歳 (5月12日、朝日山にて足かすり)
銃士 秋原岩之進 23歳 (5月11日、朝日山にて背中かすり)
銃士 中島文次郎 22歳 (7月2日、大黒にて討死)
銃士 牧野啓次郎 22歳 (7月25日、新保にて首より背中へ撃ち貫く)
銃士 太田権四郎 22歳 (7月25日、新保にて討死)
銃士 村松武八  22歳 (6月14日、福井にて背中かすり)
銃士 長谷川竹次郎 21歳
銃士 太田直太郎 21歳 (7月25日、新保にて討死)
銃士 栂野直弥 21歳 (7月25日、新保にて背中かすり)
銃士 西郷鈴次郎 21歳 (8月25日、会津城下にて討死)
銃士 鈴木鉚次郎 21歳
銃士 屋井文之助 21歳 (7月25日、新保にて腕かすり)
銃士 宮原搶次郎 20歳
銃士 赤柴貞四郎 20歳 (戦死?)
鼓者 安田玄太郎 15歳 (6月14日、福井にて左の腕を撃ち貫く)

以下は、「長岡藩戊辰各隊長書出 十四冊ノ五」(安田多膳)に記載あり。
銃士 本富時太郎 (7月2日、大黒にて左の腕討ち貫く)
銃士 飯守敬太郎 (7月2日、大黒にて討ち貫く)


波多謹之丞隊
閏4月26日の編成時の隊員名簿。隊長1名、半隊司令士2名、嚮導2名、銃士24名、鼓者1名、隊旗持1名、計31名。
長岡家中でも精鋭ばかりを集めて編成された隊で、とりわけ7月25〜29日の長岡城下での戦いにおいて勇猛ぶりを発揮した。隊長の波多謹之丞自身も常に第一線で活躍。

銃士隊長 波多謹之丞
半隊司令士 竹垣録之助 (7月1日、荷頃にて戦死)
半隊司令士 名児耶林之助 (7月29日、長岡城下にて戦死)
嚮導 花輪秀八 (8月29日、会津若松七日町にて戦死)
嚮導 曽根千次郎 (5月26日、文納村にて重傷)
銃士 村松清太夫 (6月22日、半蔵金村にて戦死)
銃士 小林弘之助
銃士 花輪豹之助
銃士 持田徳次 (7月29日、長岡城再落城の際重傷)
銃士 梅澤藤太郎
銃士 鬼頭熊次郎 (7月25日、富島村にて戦死)
銃士 吉見平三 (7月25日、長岡城奪還の際重傷)
銃士 真木六三郎
銃士 槇 新助
銃士 牛丸長次郎
銃士 橋本茂太郎 (5月26日、文納村にて重傷)
銃士 柘桂房五郎 (6月22日、半蔵金村にて重傷)
銃士 新井恭蔵 (7月25日、長岡城奪還の際重傷)
銃士 深澤虎吉
銃士 加藤幾太郎 (7月25日、長岡城下にて戦死)
銃士 能勢幸三郎
銃士 北邨銕之助
銃士 鳥山岩之助 (7月29日、長岡城下にて戦死)
銃士 鳥居文蔵
銃士 山本清三郎 (6月22日、半蔵金村にて戦死)
銃士 寺田善左衛門 (9月8日、会津若松飯寺にて戦死)
銃士 小笠原朝之進 (5月10日、妙見村にて戦死)
銃士 竹垣鉄五郎 (7月29日、長岡城再落城の際重傷)
銃士 松木保左衛門 (7月29日、長岡城下にて戦死)
鼓者卒 山口辰次郎
隊旗持中間 恩田藤吉 (7月25日、長岡城奪還の際重傷)


牧野八左衛門隊
編成時の隊員名簿。隊長・小令・半令各1名、嚮導2名、銃卒32名、鼓者1名、計38名。負傷、戦死等は不明(確認できた隊員のみ記載)。
後に一部改編され、横田大助が隊長になった。

銃卒隊長 牧野八左衛門
小令 林甚右衛門
半令 江口熊弥
嚮導 中沢友右衛門
嚮導 小林忠右衛門
銃卒 高橋孫次右衛門
銃卒 石垣謙吉
銃卒 小林孝之丞(助) (7月29日、土合村にて戦死)
銃卒 中沢利貴八
銃卒 高野嘉左衛門
銃卒 桑原益之助
銃卒 江口忠蔵
銃卒 吉田勘左衛門
銃卒 田中風吉
銃卒 斎藤民之助
銃卒 小山友三郎

銃卒 阿部慶助
銃卒 小泉鳳大夫
銃卒 大橋伴右衛門
銃卒 諏訪箭一
銃卒 神村隣太郎
銃卒 小林時次郎
銃卒 火田兵次右衛門
銃卒 坂田和十郎
銃卒 稲川竹七
銃卒 雨谷寄(喜)右衛門 (7月29日、片貝村にて戦死)
銃卒 杉野巳亀太郎
銃卒 尾崎昇平
銃卒 増沢貞八
銃卒 田中角太郎
銃卒 渡辺信七
銃卒 松本清之丞
銃卒 松本清次郎
銃卒 柳沢市郎左衛門
銃卒 吉田金次郎
銃卒 西原庄三郎
銃卒 杉山文蔵
鼓者 佐藤慶(愛)蔵 (7月29日、土合村にて負傷 11月19日、見附にて死)


槇 三左衛門隊
編成時の隊員名簿。隊長・小令・半令各1名、鼓者2名、銃卒35名、計40名。負傷、戦死等は不明。後に、人員が減ったり他の隊に補充され改編されたため、隊そのものがなくなった。

銃卒隊長 槇 三左衛門
小令 杉山虎藤太
半令 井田名左衛門
鼓者 小島石太郎
鼓者 多川美喜太郎
銃卒 山田彦太夫
銃卒 保高早平
銃卒 保高保太郎
銃卒 佐藤直三郎
銃卒 岩城岩太
銃卒 高橋与七郎
銃卒 山岸亀七
銃卒 山辺佐吉
銃卒 小林亀吉
銃卒 有坂戸根八
銃卒 有坂伊喜太
銃卒 比礼喜堅太
銃卒 清水庄左衛門
銃卒 脇野櫓左衛門
銃卒 北沢嘉勇次
銃卒 平沢時左衛門
銃卒 横田健吉
銃卒 脇野亀太郎
銃卒 水沢与五左衛門
銃卒 酒井富貴次
銃卒 藤井岩左衛門
銃卒 正山猪三郎
銃卒 酒井軍八
銃卒 丸山菊太郎
銃卒 長谷川菊五郎
銃卒 三神酒太
銃卒 長谷川誠次郎
銃卒 田川末吉
銃卒 小林寅弥
銃卒 小林太伍八
銃卒 大味伝吉
銃卒 清水勝左衛門
銃卒 原最右衛門
銃卒 上名代吉
銃卒 渡辺寅七


森 一馬隊
森一馬は、江戸で西洋砲術を学んだ技術者で、二十四斤長忽砲の伍長。閏4月28日午後、砲兵7名ばかりを率い、藩命にて草生津村へ出張。砲台の守護にあたる。軍事掛の三間市之進が草生津方面の指揮官であった。
5月20日に半葎谷村で倉沢喜惣次隊の銃卒30名ばかりに会い、彼らが隊長を亡くしたため、この時銃士隊・銃卒隊の筆頭であった稲垣林四郎の配慮もあって、この30名ほどを得たことが「戊辰各隊長書出 十四冊ノ十三」(森 一馬)に書かれているので、この名簿は旧倉沢隊の隊員が主体とみてよさそう。
隊長1名、小頭2名、銃卒31名、計34名。

隊長 森一馬 (6月22日、負傷)
小頭 山崎為左衛門
小頭 渋川金太右衛門
銃卒 須藤喜幸次
銃卒 富川橘左衛門
銃卒 増川寅吉 
銃卒 星野名兵衛
銃卒 海津直之丞
銃卒 猪浦綱太 
銃卒 藤本施兵衛
銃卒 八木正之丞 
銃卒 西脇森之助 (6月22日、負傷)
銃卒 猪浦綱右衛門
銃卒 目黒悪右衛門
銃卒 永戸亀太郎
銃卒 酒井善作
銃卒 高野豊七
銃卒 秋元友之助 (6月22日、戦死)
銃卒 八木藤太
銃卒 増川立次郎
銃卒 関川卯之吉
銃卒 星野彼右衛門
銃卒 高野金蔵
銃卒 渋川久馬八
銃卒 高橋亀万次
銃卒 永井小四郎
銃卒 大味豊之丞 (6月22日、負傷)
銃卒 大味覚之助
銃卒 佐藤正吾
銃卒 杉野津平次 (6月9日、福井村の西称寺にて右腹部に負傷、見附の病院にて夜死去)
銃卒 小林峯弥
銃卒 塚田留七
銃卒 阿部此蔵
銃卒 岸清次郎

「戊辰各隊長書出 十四冊ノ十三」には、6月22日の「予ガ隊中死傷」として、戦死者に「良次右衛門」、負傷者に「岸弥」、「権兵衛」の名があるが、上記名簿に記載なし。


刀隊・槍隊合併後の新・稲垣林四郎隊
7月7日、刀隊と槍隊を合併し、新たに一隊を組織することになり、稲垣林四郎が指揮を執ることになった。したがって、隊員名の一部は元の稲垣隊および安田多膳隊(槍隊)と重複する。
隊長1名、小令2名、嚮導2名、銃士26名、鼓者1名、弾薬持1名、計33名。
注)7月24日の八丁沖渡渉の際(またはそれ以前に)隊員が増え、43名となっている。(←兵粮方などを含む)

銃士隊長 稲垣林四郎 (7月25日、新保村にて負傷)
右半隊小令 鶴田定次郎 (7月25日、新保村にて負傷)
嚮導 林 繁弥 (7月29日、負傷)
銃士 井上繁之進 (7月25日、新保村にて死)
銃士 吉田六次郎 (7月25日、永田村にて死)
銃士 春日習之助 (7月29日、負傷)
銃士 武山貞之丞
銃士 能勢彦治 (7月25日、新保村にて死)
銃士 稲垣理八郎
銃士 安部金三郎
銃士 長嶋虎一 (7月25日、新保村にて死)
銃士 飯守誠次郎
銃士 吉田友弥
銃士 鶴田郡治

左半隊小令 桑原文左衛門 (7月29日、摂田屋村にて戦死)
嚮導 千本木幸之助 (7月25日、新保村にて負傷)
銃士 井上勝太郎
銃士 牧野銕次郎
銃士 磯貝久馬之丞 (7月25日、新保村にて死)
銃士 小林乙三郎
銃士 柴崎隼太
銃士 屋井 緑(文之助?) (7月25日、新保村にて負傷)
銃士 秋原岩之進
銃士 牧野啓次郎 (7月25日、新保村にて負傷)
銃士 太田直太郎 (7月25日、新保村にて死)
銃士 栂野直弥 (7月25日、負傷)
銃士 太田権四郎 (7月25日、新保村にて死)
銃士 赤柴貞四郎
銃士 鈴木鉚次郎
銃士 村松武八
銃士 宮原槍次郎
鼓者 武山謙吉
弾薬持 幾七 (7月25日、新保村にて死)



参考文献 :
「長岡藩戊辰戦争史料集」 (長岡市史編集委員会編、長岡市)
「長岡城燃ゆ」 (稲川明雄著、恒文社)
「長岡城奪還」 (稲川明雄著、恒文社)




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