幕末長岡藩・基本事項

 

幕末期の長岡藩についての基本事項を紹介しています。

領地

越後国・長岡を中心に、栃尾・新潟(一部)・蒲原(一部)
居城地は
長岡

石高

7万4千石
全国三百諸侯のうち、72位くらいに位置。
支配地は、上組・北組・西(川西)組・栃尾組・河根川組・巻組・曾根組の7つに分かれていた。

藩祖

牧野忠成(まきの ただなり)。
牧野家は三河牛久保出身。元和4年(1618)、越後長岡に入封。

幕末期の藩主 藩主 治世 生没と出自

第11代
牧野忠恭

(ただゆき)

安政5(1858)年〜慶応3(1867)年

三河国西尾藩主・松平乗寛の第3子。15歳で第10代長岡藩主・牧野忠雅の養子になる。京都所司代・老中を務めたが、慶応3年、家督を養子忠訓に譲り隠居。雪堂公と呼ばれる。

第12代
牧野忠訓

(ただくに)

慶応3(1867)年〜明治1(1868)年

丹後国宮津藩主・本荘宗秀の第2子。14歳の時、忠恭の養子となり、慶応3年に家督を継いだ。室は忠恭の第2女・つね。

第13代
牧野忠毅

(ただかつ)

明治1(1868)〜明治3(1870)年

第11代藩主・牧野忠恭の第4子(庶子)。幼名は鋭橘(えいきつ)といい、戊辰の年は9歳。

牧野家の家格

譜代大名。三河以来の徳川家臣。牧野備前守と称した。
江戸城内では雁ノ間詰(上から順に、大廊下・大廊下下・大広間・溜間・溜間御次・帝鑑ノ間・雁ノ間・柳ノ間・菊ノ間の9つに分かれていた)
嘉永3年(1850)、第11代藩主・牧野忠恭のころ、帝鑑ノ間詰に格上げ。

人口

総人口 : 農民 10万人 町人・職人 1万人 武士とその家族 8千人

幕末期(安政6年)の藩士人口 :
534人(2000石以上 : 1人、1000石以上 : 3人、500石以上 : 3人、300石以上 : 17人、200石以上 : 32人、100石以上 : 126人、30石以上 : 282人、20石以上 : 70人)
参考 : 『シリーズ藩物語 長岡藩』

藩校

崇徳館(藩士の子弟が対象)。
文化5年(1808)、弟9代藩主・牧野忠精によって創設。

幕末期の藩邸

【江戸】上屋敷 : 呉服町門内、北町奉行所の隣。中屋敷 : 芝愛宕下。下屋敷 : 年代により移転の為、不明。←探してみますm(_ _)m
その他、京都藩邸、大坂蔵屋敷。

軍制

慶応4年(18681)3月1日、河井継之助の提言による禄高改正が行なわれ、藩士の禄高を平準化した上で、西洋兵制を取り入れた。小銃隊を士卒に分けて編成したのは、東軍ではおそらく長岡藩のみと言われる。


参考文献 : 「シリーズ藩物語 長岡藩」、「嘉永・慶応 江戸切絵図で見る幕末人物事件散歩」




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