霞ヶ城
所在地 : 二本松市郭内3〜4丁目

霞ヶ城(二本松城)は、室町時代には畠山氏が城主でした。その後、伊達、蒲生、上杉、加藤氏等の領有を経て、寛永20年(1643年)8月から明治4年(1871年)7月まで二本松藩主・丹羽氏の居城となっていました。
写真右は、箕輪門。
二本松少年隊(隊長・木村銃太郎と隊士たち)のブロンズ像。写真左の後方に写っているのは、我が子の出陣服を仕立てる母の像。(←この像もちゃんと撮ればよかった……)
「二本松少年隊 成田才次郎 戦死の地」碑。
箕輪門に近い駐車場の脇に、ひっそりと建っています。(墓所は大隣寺にあります)
才次郎は木村銃太郎の門下生の一人で、大壇口での戦いに参加。負傷しながらも、西谷門の辺りで西軍兵の一隊に出会った際、行き交いざまに隊長の白井小四郎(長州藩士)を突き殺しましたが、本人も敵兵の銃丸に当たって絶命。享年14歳。
刀を振るって進んで来る才次郎がまだ子供であることを見て、白井は部下に「手を出すな」と言い、避けて通ろうとしたそうです。少年への憐れみがそうさせたのか、そのために彼は命を落とすことになってしまいました。白井小四郎の墓は二本松市内の真行寺にあり、今も墓参に訪れる一般の人々からの香華が絶えることはないそうです。
(写真左) 「大城代 内藤四郎兵衛 戦死之地」碑
戊辰戦争時、大城代であった内藤四郎兵衛は、西軍が城下に侵入し城内に押し迫ろうとした時、「我は大城代なり。霞ヶ城の主将なり。徒に自刃するものかは。自刃こそ降伏なれ。者共、我に続け、一族皆我に従え」(『二本松少年隊』 紺野庫治著を参照)と、自ら箕輪門外に出て、敵兵と凄絶な白兵戦を敢行し、討死したことが伝えられています。
(写真右) 箕輪門の外にある、立派なアカマツ
(写真左) 「丹羽和左衛門・安部井又之亟 自刃の地」碑
軍事奉行・丹羽和左衛門(66歳)と、御勝手奉行・安部井又之亟(65歳)が自刃した場所。和左衛門は、割腹跡、臓を軍扇の上に掴み出して、前屈みになって立ったまま亡くなったそうです。
(写真右) 天守台より安達太良山を望む
(写真左) 「丹羽一学 自刃の地」碑
主戦派の家老、丹羽一学は、郡代見習・丹羽新十郎、小城代・服部久左衛門と共に土蔵奉行役宅において、奉行の酒井滝之亟を従えて割腹自刃しました。介錯した大島成渡は、この役宅に火を放って屍を焼き、西兵よりの屈辱を防いだと伝えられています。
丹羽一学の辞世
風に散る霞の我が身はいとはねど 心にかかる君が行く末
(写真右) 天守付近からの二本松市街の眺め