大隣寺



所在地 : 二本松市成田町1丁目



 

大隣寺は、二本松藩主・丹羽家の菩提寺です。歴代藩主の御廟のほか、戊辰戦争関連では二本松少年隊の供養塔、会津藩・仙台藩戊辰戦役供養塔、二階堂衛守(少年隊の副隊長)や成田才次郎(少年隊士)、丹羽一学(家老)夫妻の墓碑等があります。



 

二本松少年隊(隊長、副隊長、隊士)の供養塔。向かって左側(写真左)と、向かって右側(写真右)。



 

「会津藩・仙台藩 戊辰戦役供養塔」は、二本松で戦死した会津藩兵、仙台藩兵の慰霊碑。写真右は、二本松少年隊の副隊長・二階堂衛守(33歳)と隊士・岡山篤次郎(13歳)戦死の地碑。
二階堂衛守は、隊長・木村銃太郎が大壇口で戦死した後、少年隊の指揮を執っていましたが、敵の一斉射撃を受けて戦死。岡山篤次郎もこの時負傷しましたが、人事不省のまま西軍の野戦病院(城下称念寺)に収容され、土佐兵の看護を受けました。うわ言で「弾丸をよこせ」、「口惜しい」と言ってうなされる篤次郎の健気さに心を打たれ、「この少年を元気にして養子にするんだ」と、甲斐甲斐しく手当てを施したそうです。しかし、篤次郎の傷は重く、その日の夕方ついに息絶えたのでした。篤次郎の最期を看取った土佐藩の隊長(広田弘道であったと伝えられています)は、少年の不屈の魂に感歎し、反(かえり)感状を残しました。(以下、『二本松少年隊』 紺野庫治著より)

「明治元戊辰七月廿九日廓外にて防戦痛手を負ひ捕らはれしかどかにかくに憐み労はりさる方へ一首をおくりけれ左に誌す。
 今年十三才にて戦死岡山篤次郎敵ながらも甲斐々々敷美少年一色残し置次第薩州土州の者憐みいたはりしかども蘇みかへらず依てさしおくる一首  岡山尊公の名は幾世残れかし
  
君が為二心(ふたごころ)なき武士(もののふ)は 命はすてよ名は残るらん

この反感状は、蓮華寺にある篤次郎の墓碑に刻まれているとのことです。
余談ながら、篤次郎は本当に眉目秀麗な美少年であったそうです。

 



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