世良修蔵墓所



 

長州藩士・世良修蔵の墓所。県道12号から白石川に架かる白石大橋を渡り、左折した右側の小高い丘陵(陣場山)があり、入口には写真左の石碑と「世良修蔵の墓」の案内板が建っている。写真右がその墓碑。「為賊」の二文字が墓石から削られている。

世良修蔵は天保6年生まれ。周防国大島郡椋野村の庄屋の出で、文久3年頃に奇兵隊に入隊。慶応元年、第二奇兵隊の軍監に就任。慶応2年、四境戦争(第二次長州征伐)では大島口にて松山藩など幕軍を相手に奮戦した。鳥羽伏見の戦いを経て、戊辰時には就任を固辞した品川弥二郎に代わって奥羽鎮撫総督府下参謀となり、会津藩征伐の為に九条総督以下570名と共に仙台に派遣された。仙台藩、米沢藩等の連名による会津救済嘆願書を受け容れず、あくまで武力討伐の強硬姿勢を貫こうとし、庄内に居た薩摩藩士・大山格之助宛の手紙を福島藩士に託した。その手紙には「仙米賊」、「弱国ニ藩」、「奥羽皆敵」など奥羽諸藩を敵視する内容が書かれており、それを見た仙台藩士・姉歯武之進等に福島の金沢屋に宿泊していたところを襲撃され、阿武隈川河原にて斬首された。その首は最初白石の月心院に埋葬されたが、明治3年に現在の地に改葬され、明治8年に宮城県が墓碑を建立した。
なお、金沢屋を「妓楼」とする解説書等があるが、実際には「旅籠」であった。



 

長州藩士・勝見善太郎、松野儀助、従者・繁蔵の墓(写真左)
明治9年、天皇の東北行幸に同行した木戸孝允が献灯した石灯(写真右)




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