清浄光院 (通称 : 万日堂、星恂太郎墓所・碑)
清浄光院には、仙台藩額兵隊長・星恂太郎の碑、星家の墓所がある。
額兵隊は、仙台藩の洋式銃隊だったが、出し惜しみされてか?活躍の場が与えられず、明治元年(1868)9月15日に星が独断で出撃したものの、藩主・伊達慶邦に説得されて引き返した。しかし、彼らは降伏を潔しとせず、箱館戦争に参加した。
星恂太郎は、天保11年(1840)10月4日、仙台藩東照宮六供(りくぐ)の要職にあった星家の長男として誕生。父の名は道栄(どうえい)、母はまつ(洞口氏出身)。長男であるにも拘わらず(直情型の性格の為か?)、藩の庖厨職にあった小島家に養子に出されるが、包丁を持つのが嫌で生家に帰り、剣術に没頭。元治元年、当時攘夷に傾倒していた恂太郎は、同志と共に、開国派の家老・但木土佐や儒学者の大槻磐渓らを殺害しようと謀るが失敗。但木に開国の意味を諭され、脱藩して江戸・横浜で西洋砲術を学ぶ。
慶応4年閏4月、仙台藩に会津征討の命が下された折、恂太郎は藩に呼び戻され、西洋流銃術指南、大番組格三両四人扶持に取り立てられた。戦況が押し迫ってくると、藩の次男三男などで構成した洋式軍隊「額兵隊」を組織。9月、仙台藩の恭順が決まると藩と決別し、榎本艦隊と共に箱館に向かい、新政府軍と戦った。蝦夷共和国では陸軍歩兵頭並として松前城占領戦に活躍したが、明治2年5月18日に榎本軍は降伏、謹慎に入った。明治3年5月、額兵隊は仙台藩に引き取られることになり、謹慎放免。恂太郎は北海道の仙台藩開拓方へ送られて開拓作業に従事するが、7月9日に開拓方は解散となった。翌明治4年の春、北海道開拓使に開拓使十五等出仕を拝命し、岩内郡掘株製塩場詰となる。しかし業績不振で明治5年11月に製塩所が閉鎖、恂太郎は開拓使免職。その後仙台に帰り、明治9年7月27日、同地にて没。享年37歳。
所在地 : 宮城県仙台市青葉区宮町5丁目1−11
日浄寺 (坂英力墓所・碑)
日浄寺には、仙台藩国老で戊辰戦争の首謀者として処刑された坂英力の墓と碑がある。
坂家墓所にある石碑の裏面に、英力が詠んだ詩歌が刻まれています。→こちら
坂英力は、天保4年9月14日、仙台に誕生。諱は時秀。
元治元年の禁門の変の際に上洛。慶応2年、国老に挙げられた。慶応4年、白石にて但木土佐と共に会津藩恭順を九条総督に嘆願するが許されず、白石城にて会議を開き、奥羽列藩同盟が締結される。その後、越後6藩が加わり、奥羽越列藩同盟に発展。
藩主・伊達慶邦の代理として諸軍を指揮するが、慶応4年9月、藩論が恭順となり、仙台藩は降伏。但木土佐と共に捕われ、江戸に送られて戦争の首謀者として明治2年5月19日処刑された。享年37歳。
辞世の詩は、
「桃花乍散春風憾 亦発明年雨露恩
人世栄枯何可意 冀安分際順乾坤」