京都守護職本陣・金戒光明寺(黒谷)



文久2年8月、京都守護職に任ぜられた会津藩主松平容保(当時26歳)は、11月24日、1000人余りの会津藩士と共に京都に入り、黒谷の金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)を本陣としました。



  

岡崎道を北へ向かうと、こんな案内があります。「くろたに」の「に」が変体かなになっています。そして見えて来るのが「くろ谷」の碑と「会津殉難者墓所」の碑が立つ寺門です。



  

中に入ったら、時代劇のロケでよく使われている三門に出ます(写真左)。此処を抜けて階段を上がると、御影堂があります(朱印、お土産は此方で)。境内はとても広く、小さなお寺やお堂が沢山あるのですが、詳しい案内板が無いので、容保公が宿舎としていたのが何処なのか、判りませんでした。会津墓地への案内に従って進むと、途中に西雲院に出ます。此処に会津小鉄のお墓があります。其処から東門を抜けて、更に北へ向かうと、右手に広い会津藩墓地があります。入ってすぐ左側に、「慶應之役伏見鳥羽淀会藩戦死者之碑」(高さ2メートルほどで、鳥羽伏見の戦における会津藩戦死者115人の名が刻まれている慰霊碑)が建っています。正面から右側、更にその奥に、主に文久年間から元治年間に亡くなった会津藩士(禁門の変での戦死者が多いです)とその子孫の方々のお墓があります。
黒谷を出て、丸太町通りに戻り、平安神宮の西側の京都市武道センターの向かい側、冷泉通りに面した処に「京都守護職屋敷門」が移築されています(写真右)。


■黒谷へのアクセス
京都市バスで岡崎道下車、西に向かって少し歩くと信号のある交差点に出るので、其処を右折(大きな案内板有り)、真直ぐ行くと「右くろたに」の碑があります。徒歩5分程度。
京阪電車の丸太町駅下車、丸太町通りを延々東に歩いても岡崎道に出ます。徒歩20分くらい…だったと思います。



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