交友関係 : 松下村塾と長州藩の人々
伊藤俊輔 |
稔麿(栄太郎)の幼馴染み。家が近所で、よく一緒に遊んでいた。時には喧嘩もしたが、稔麿のほうが強く、「青びょうたん」とからかわれたらしい(小柄で痩せていて顔色が悪かったので)。久保塾での同窓生だが、稔麿が松下村塾に入塾した頃は国許を離れていた為、村塾への入塾は稔麿の江戸出立後であった。万延元年、稔麿が脱藩して江戸に潜伏している間も交流があり、文久2年5月に帰藩の考えがあることを最初に打ち明けた相手は、この俊輔である。稔麿の両親とも親しかったようで、彼の死後その両親宛てに書いた手紙が残されている。 |
入江九一 |
松下村塾への入塾は稔麿が江戸に行ってからであるが、松陰が稔麿を介して入江を入塾させようと考えていたことから、それ以前よりの知己であったと思われる。安政5年秋、村塾での政治活動が盛んになった時、稔麿に帰郷を促す手紙を書いている。間部詮勝暗殺計画に血盟した仲間でもあり、品川・野村とともに稔麿が村塾生中最も懇意にしていたとされる一人。文久3年10月、稔麿が残した書簡に「今夜も入江・品川と酒を呑み、面白く過ごした…」との記述がある。 |
小幡彦七 |
江戸桜田藩邸留守居役。文久3年、稔麿が長幕融和の任務に就いた際、幕臣・妻木田宮との書簡の往復等を取り持ってくれた人物。 |
桂小五郎 |
安政4年秋、稔麿が公務で江戸に上った時、最初に世話になった人。松陰からも稔麿のことを依頼する手紙を受け取っており、自分が塾頭を務めていた神道無念流の道場・練兵館に稔麿を紹介。良き兄貴分で、万延元年に脱藩して江戸に来た稔麿の為に周旋、帰藩の際には若殿(毛利定広)への上書を取り持ってくれたようである。 |
久坂玄瑞 |
松下村塾での先輩に当たる久坂もまた、脱藩後の稔麿の為に相当尽力してくれたらしい。江戸での潜伏先として柴田東五郎(薩摩出身で旗本家の用人を務めていた人物)を紹介してくれたのは彼である。柴田への土産(中元・歳暮のようなもの)等、細かいところまで気を遣ってくれたようで、稔麿が大変感謝している様子が当時の書簡に表れている。また、帰藩の際に稔麿が厳罰に処されることなく脱藩の罪を赦されたのは、彼や桂が奔走してくれたお蔭であり、その件でほっとした心境を久坂は妻宛ての手紙に書いている。稔麿は彼を「医者の身分であるが、廟堂に座らせて堂々たる政治家」と言い、人の上に立つ者として高く評価している。 |
久保五郎左衛門 |
吉田松陰の外叔で、玉木文之進のあとを受けて松下村塾主宰となった。その塾は久保塾ともいわれ、稔麿や伊藤俊輔も塾生だった。70〜80名が在籍していた中で、稔麿の才幹は群を抜いていたという。 |
品川弥二郎 |
松下村塾では間部詮勝暗殺計画に血盟した仲間でもあり、入江・野村とともに稔麿が村塾生中最も親交が深かったとされる一人。稔麿が松陰宛ての最後の手紙と心意を込めた漢詩を託したのは彼である。維新後、「稔麿が生きていたら総理大臣になっただろう」と言ったほど、稔麿への評価は高い。 |
周布政之助 |
長州藩の重臣。稔麿が他の7名の仲間とともに、間部詮勝暗殺計画露顕の件で松陰の下獄に対して罪状を詰問する為に押しかけた先に彼の邸もあった。その後松下村塾生と繋がりを持ち、俗論派と対立。文久3年8月に馬関で起こった朝陽丸事件の解決を稔麿に命じた。 |
高杉晋作 |
松下村塾での同窓。彼の「放れ牛」の綽名は、稔麿がつけた。直接的な文書のやりとりは殆ど残されていないが、他の人物宛ての手紙等に名前が出てくることから、江戸や国許で交流があったことは確か。彼が組織した奇兵隊に、稔麿もいち早く加入している。 |
野村和作 |
入江九一の弟で、兄や品川とともに稔麿が最も親しくしていたとされる一人。文久2年の春、江戸に居た稔麿に長井雅楽要撃の考えを打ち明け、時期尚早と窘められて思い留まった。御楯組の攘夷血盟には稔麿と一緒に参加。 |
増野徳民 |
稔麿を松下村塾に連れて来た人物。早くから杉家に寄宿していたので、年齢が同じであったことから隣家の稔麿と親しくなったと思われる。 |
吉田松陰 |
言わずと知れた稔麿の恩師。二人の関係については、FILE の各所にて述べているが、松陰の日記に出てくる門下生の名前で格段に多いのが稔麿(栄太郎)と入江九一(杉蔵)であることから、その師弟関係の深さが窺える。松陰は稔麿の江戸行きの際、手紙のほかに餞別の品を贈っているし、江戸に居る友人達に稔麿を紹介することを忘れなかった。安政5年冬、間部詮勝暗殺計画の件で松陰の下獄に対して罪状を詰問、謹慎に処せられた稔麿が家庭の事情で松陰や村塾から離れざるを得なくなった時も、沈黙を続ける稔麿を理解し、入江宛ての手紙に「栄太の真意は自分だけが知っていればいい」と書いている。刑死を前に松陰は稔麿には何も書を遺さなかったが、刑死の直前まで稔麿のことを気にかけ、彼を信じ、彼を愛したことが高杉晋作宛ての手紙より知ることが出来る。(詳細は逸話集にあり) その内容はあまりに切なく、涙を誘う。これぞ稔麿が「松陰の最愛の弟子」と言われる所以であろう。 |
冷泉雅二郎 |
稔麿の江戸出立直前頃に松下村塾に入塾したと思われる。村塾時代の交流を示す史資料は不明であるが、稔麿が懸案していた屠勇取り立て(屠勇隊)を引き継ぎ、のちに一新組を率いて幕府軍と戦った。 |